歴史巡り」カテゴリーアーカイブ

史跡探訪や展示会観覧の覚書

建福寺-保科正直・正光二代の墓

建福寺本堂の屋根の棟の家紋 保科家と武田氏の墓域

建福寺本堂の棟に松平の葵紋と保科の九曜星。境内に保科氏と伝諏訪御料人の墓が並ぶ。
安元2年(1176)文覚上人がこの地で加持をし不動尊を刻んだ際に独鈷を落とした池、独鈷池(本堂の裏手)に建長5年(1253)鎌倉の建長寺開山の蘭渓道隆大覚(らんけいどうりゅうだいかく)禅師が訪れた際、神家のお告げにより鉾持山乾福興国禅寺(ほこじさんけんぷくこうこくぜんじ)を建立し、箱根・三島・送場三社を祀る鉾持大権現を造営し、隆盛したとされる。本尊は華厳釈迦如来。
弘治元年(1555)寺内に墓のある「乾福寺殿」が亡くなる。
永禄5年(1562)6月武田四郎勝頼が諏訪氏を継承し伊那の郡代・高遠城主となる。その後、勝頼が中興の開基となり駿河国清見寺住持東谷(とうこく)禅師を請待し中興開山し妙心寺派となる。
天正10年(1582)に保科正直が高遠城主に任じられ、以降保科家の菩提寺となり大宝山建福寺(けんぷくじ)と改号。
保科正直と正光父子と武田勝頼母の墓 4奉献石燈篭藤澤八右衛門源正意

▲右から乾福寺殿の墓保科正直の墓保科正光の墓。墓域左右に保科氏家紋の燈籠
花崗石の3基の墓標は、正直没後90年の元禄3年(1690)9月16日に会津藩松平家3代藩主保科正信(松平正客/まさかた。保科正之6男)が再建したもの。
比較的新しい保科家紋並九曜が施された石燈篭の奉献は「藤澤八右衛門源正意」とある。藤澤八右衛門は高遠藩領藤沢村(伊那市高遠町藤沢)御堂垣外の名主年寄に名が見える。藤澤(保科)八左衛門と同じく代々継ぐ名であろう。

保科正直の墓 保科正光の墓

保科正直・正光の墓

保科正光の墓碑文 保科正直の墓の碑文 諏訪御料人の墓裏側

3基とも裏・側面に長い銘文が刻まれている

諏訪御料人の墓 妙香大禪定尼銘石燈篭

▲乾福寺殿の墓と石燈籠

内藤家時代の高遠藩の家老の葛上紀流が安永8年(1779)に記した『木下陰』では3基とも保科石碑として「保科正直公御母堂」「保科正直侯」「保科正光侯」と記している。
文政年間に会津藩士松澤氏守が記した『保科御事歴』でも正俊の妻(正直の母)の説を採用している。

乾福寺殿の墓の銘文は苔むして判読し難いが、御堂垣外藤沢本陣役の藤沢家に伝わる建福寺の碑文内容や建福寺の口上覚書(元禄3年2月27日付)等では乾福寺殿は徳川家康の妹で正貞の母多劫(たけ)姫とする。しかし法名(長元院殿清信授法大禅定尼)や没年が大きく異なり、どうやら再建時に多劫のものと誤った(もしくは徳川将軍家と会津松平家の結びつきを強調する配慮で故意に)と思われる。

正俊の妻は小河内美作の娘とされ、保科家の系図上で正俊と正則(正俊の父)の妻は夫共々混同か誤記され没年を同じくして長清院殿「梅岩昌香」「梅月昌香」大姉と乾福寺殿の梅厳妙香に近いが乾福寺殿とは没した日が一致しない。

寛永13年(1636)保科正之の出羽最上(山形県)転封の際に建福寺5世住職の鉄舟(てっしゅう)が保科氏の位牌を保護してお供し、最上に新しく寺を建立したとされ、正之が会津藩主となると会津に高遠と同じ名で「大宝山建福寺」が建てられ霊屋に正直・正光父子の位牌を安置していた。
しかし寺は戊辰戦争で全て焼けてしまった。当時の住職が寺宝を背負って避難し、その後小庵を建てて位牌を安置したといい、現代の会津建福寺は住職兼任のため保科家の位牌等は会津実相寺にあるようだ。

明治時代の伊那の村誌に添えられた高遠の建福寺の絵図には門付きの垣の中に三基あり燈籠は無く「武田氏 保科氏の墓」としている。

諏訪御料人(すわごりょうにん)については保科家と同じく武田家が代々檀家の高野山成慶院の過去帳
『武田日牌帳』に乾福寺殿梅巖妙香大禪定門 淑霊位
同(諏訪)勝頼様之御太方 十一月六日…
別本の『武田家日杯帳』に乾福寺殿梅巖妙香大禪定門 神儀
信州高遠武田勝頼公老母奉為御菩提建立…と記されている。

高遠町教育委員会の文化財案内によると高遠建福寺の本堂に安置されている位牌の裏に武田勝頼母であることを朱色で書かれており(同形の正直・正光の位牌は朱色書きではないようだが)過去帳や位牌の項が後で書き加えられたのでなければ墓も勝頼母の墓であるといえる。

墓所案内板============================================================
建福寺・武田勝頼母の墓
武田勝頼の母は諏訪頼重の娘で、実名が不詳のため諏訪御料人と呼ばれています。
諏訪頼重は天文11年(1542)に武田信玄によって自害させられましたが「尋常かくれなき美人」といわれた御料人は信玄に恋われ、父敵の側室となって諏訪氏再興を願いながら勝頼を生みます。しかし、その後病の身となり、勝頼の成長を待つことなくわずか25才ほどで短い生涯を終え、ここの葬られました。諏訪御料人は井上靖著「風林火山」では由布姫、新田次郎著「武田信玄」では湖衣姫と呼ばれています。
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武田勝頼母の墓(右側)
弘治元年乙卯歳
乾福寺殿梅巖妙香大禪定尼 淑靈
仲冬初六日
これは武田勝頼母の法名である。勝頼の母は諏訪頼重の息女で、武田信玄が諏訪氏を滅ぼした天文11年(1542)若くして信玄の側室とされ、甲府に移り、天文15年に勝頼を生んだ。信玄は諏訪氏族の懐柔策として勝頼に諏訪氏の名跡を継がせ、諏訪四郎勝頼と名乗らせた。
勝頼母は、弘治元年(1555)勝頼10歳の時、没している。墓所については諸説あるが、武田家の菩提寺である高野山成慶院の過去帳や当建福寺(慶長以前は乾福寺という)にある位牌には、勝頼母の法名は乾福寺殿となっており、ここ建福時に葬ったと思われる。
勝頼は永禄5年(1562)から元亀2年11月には大龍山臨済寺(現静岡市)の鉄山和尚を招来して母の十七回忌の法会を高遠城で執り行っている。

保科正直の墓(中央)
慶長六辛丑歳
建福寺殿天関透公大居士 神儀
九日晦日
・正直は下総多胡城主であったが、慶長5年(1600)高遠城主となる

保科正光の墓(左側)
寛永八辛未歳
大宝寺殿信巖道義大居士 神儀
十月初七鳥
・正光は正直の子、高遠城主・会津若松城主保科正之の養父である
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建福寺の守屋貞治石仏群 建福寺の守屋貞治石仏群案内板 守屋貞治顕彰碑

▲建福寺は守屋貞治(もりやさだじ)ら高遠石工の石仏群が有名で貞治顕彰碑もある

臨済宗妙心寺派大宝山建福寺
所在地:長野県伊那市高遠町西高遠1824

保科家ゆかりの高遠樹林寺

樹林寺本堂 保科正之公頌徳碑と母お静の供養塔

樹林寺の本堂と保科正之公頌徳碑・正之の生母お志津の供養塔
月蔵山(がつぞうざん)の北側、高遠城の鬼門(北東)に建ち、開山は高野山金剛頂院前住祐譽法院。
保科正之が出羽最上(でわもがみ。山形)藩として移封となるまで高遠城に暮らしたことから、平成2年6月10日に保科正之高遠城主就任360年を記念し会津松平家13代松平保定(もりさだ)氏の書で頌徳碑が建立された。正之の母、お志津(お静。浄光院)の供養塔が並んでいる。

■樹林寺と保科家
天正18年(1590)8月の家康の関東移封に伴い、高遠城主であった保科正直は、下総多古(しもうさたこ。千葉県香取郡多古町)に一万石を与えられて移封となった。
正直は隠居し、長男正光が保科家当主となる。

多胡で保科家の祈祷寺としていた樹林寺の本尊の夕顔観音は、昔、寺が火災で焼けてしまったが、村人が夢で見た夕顔の中に尊像が在るとお告げ通りに焼け跡の側の夕顔の中から立像がみつかったことから夕顔(ゆうがお)観音と呼び夕顔を刻み添えた伝承があった。
正直が樹林寺に祈っていた保科家の高遠再任が叶い、慶長6年(1601)正光は高遠へ転封が命じられた。

樹林寺も高遠へ移そうとしたが、多胡の村民に懇願されたために移設は取りやめ、代わりに樹林寺の観音堂の下の土を運ばせ、夕顔観音を写した立像を作らせて本尊にして、正光は高遠城の鬼門にあたる位置に同名の「樹林寺」を建立した。
正直は高遠に戻ったその年の9月29日に亡くなった。
樹林寺は、高遠に移ってから寺が出来あがるまでの間は高遠城二ノ丸の東の武具蔵の地に一時的に置かれたとも推測され、正直は熱く信仰していた夕顔観音に見守られての往生だったのかもしれない。

夕顔観音は境内の観音堂に安置され、慶長9年(1604)保科家が峯山寺より引いて建立したという護摩堂の本尊は不動明王。

 

■保科家以降の樹林寺
保科家の後の高遠藩主となった鳥居家、内藤家にも引き続き祈願寺として信仰され、内藤家の時代には京都東山総本山知積院の末寺となり、大日如来を本尊とした。
また伊那の壇林で、八十八々霊場の四十九番札所として信仰を集めた。
現在、千手十一面夕顔観世音菩薩立像は本堂に安置され、高遠町指定有形文化財となっている。

保科正之の生母お志津の供養塔 お志津の供養塔の刻銘

▲お志津の供養塔
寛永十二年 九月十七日
法紹日恵大姉淑霊
行年 五十二才 俗名 志津

お志津の方は天正12年(1584)小田原北条家の家臣神尾(かんのお)伊予栄加と杉田氏の母の間に生まれた。
天正18年(1590)に小田原城が落城すると栄加は浪人となり、お志津は秀忠の乳母大姥局(おおうばのつぼね)の奥女中として江戸城に上がった。
密かに2代将軍徳川秀忠の寵を受けて身ごもったのが幸松丸、後の保科正之である。

秀忠は正室のお江を大事にして表立って側室を持たずに過ごしていたので、お志津は秀忠が大奥の侍女に手をつてたことが公になることを恐れて身を隠した。
慶長16年(1611)5月7日、神田白銀町のお志津の姉の夫の竹村助兵衛次俊の家で、秀忠の知るところ無く江戸で幸松は生まれ、3歳になると老中土井利勝の保護のもと武田信玄の娘の見性院(けんしょういん)に預けられ、江戸城田安門内の田安比丘尼屋敷に住む。
元和3年(1617)7月、幕府の仲介で見性院が、元武田家臣で今は徳川家に誠意を尽くしている保科正光に7歳の幸松の養育を頼み、11月14日お志津と幸松は高遠へ向かった。
母子のため高遠城三ノ丸に新居を設えられ、大坂の陣で正光の異母弟正貞を助けた有能な家臣を守役にし、正光も在城の際には徳川将軍家の落胤として日に何度もご機嫌伺いをした。正光は生前にいずれは秀忠と幸松を対面させたいとも語ったという。

寛永12年(1635)9月17日、浄光尼(お志津)は52才で高遠城で息を引き取り、当時西高遠に在った妙法山長遠寺に葬られた。その翌年、正之は17万石の加増で出羽最上20万石を拝領し転封となる。
後に会津藩主となった正之はお志津の墓所を会津の浄光寺、更に身延山久遠寺(山梨県)へと移した。

樹林寺の総門 樹林寺から高遠城址を臨む

▲樹林寺の門前から高遠城址を撮影

真言宗智山派稲荷山真定院樹林寺(とうかざんしんじょういんじゅりんじ)
所在地:長野県伊那市高遠町東高遠2330

高遠の満光寺[1]保科左源太の墓

保科左源太と系譜略図

高野山成慶院『保科肥後守様御先祖御過去帳』に「法源院殿傅譽隆相大居士 信州高遠保科左源太御菩提也  施主同名肥後守様 寛永四丁卯十月三日但正月御命日
常燈御供養として「法源院殿傅譽隆相大禅定門 神義 同保科肥後守様御養子同銘左源太」と記されていることから左源太(さげんた)が保科正光(まさみつ。肥後守)の養子であったことは確かであろう。

満光寺鐘楼門と本堂 高遠最古の五輪塔保科左源太の墓

▲満光寺鐘楼門と保科正之(ほしなまさゆき)公の義兄弟左源太の墓
親縁山無量院満光寺(しんえんざんむりょういんまんこうじ)は天正元年(1573)笈往(きゅうおう)上人親阿芳公大和尚の開山で、昔は中町に在った。鳥居家が領した頃は浄土寺と改称し、享保17年(1732)12月十四世遺誉和尚が満光寺に戻したという。鐘楼門は牛久保流の大工菅沼定次の作とされ全て科(しな)の木を使用し善光寺になぞらえて建てられていることから「伊那善光寺」「信濃科寺(しなでら)」とも呼ばれた。

 

■保科家と左源太
武田家臣保科正直(まさなお)の嫡男正光は正室(真田安房守昌幸の娘。青陽院殿)との間に子が出来ず、側室も置かなかった。
※輿入れ時期は不明だが、天正10年(1582)の織田勢による武田攻めの際に救出され上田(長野県上田市)の真田昌幸の元へ身を寄せた理由が妻の実家と考えるとそれ以前で、正光は9歳から13年もの間武田勝頼(かつより)の子の信勝(のぶかつ。当時3歳)に仕えるために甲府に在って、言わば人質の状態から戦乱の波に呑まれた境遇のためとも考えられる
正直は、側室(光寿院。正重の母)の実家の小日向(おびなた。小比奈田)家に娘の一人(正光の妹)を嫁がせ、小日向源太左衛門との間に生まれた子、左源太を正光の養子に貰い受けた。つまり正光は甥を養子にとったことになる。

小日向源太左衛門は真田幸隆の長男(正光の妻の父真田昌幸/源五郎の兄)で天正3年(1575)5月の長篠の戦で戦死した真田源太左衛門信綱という説もあるが、確証は無い。
後世、内藤家時代の高遠藩の家老の葛上源五兵衛(くずかみげんごへえ)も満光寺を「真田左源太の菩提所廟所位牌…」と記しており、真田一族であったのは確かであろう。

天正10年の織田勢の侵攻で飯田城に居た保科正俊・正直親子は城の防備について武田家重臣と意見が対立し飯田を去り、高遠戦後に松本の小日向家へ、前述の通り正光も上田の真田昌幸の元へ身を寄せた。高遠の戦いでは正直の弟の善兵衛が討死している。
保科家臣赤羽俊房(あかばねとしふさ。甚六郎)が記した家伝、保科記と呼ばれる『赤羽記』に正光の母、武田家臣跡部越中守の娘も家臣と共に3月2日高遠城内で自刃し、満光寺住僧牛王和尚が遺骸を引き取り火葬しこの満光寺に埋葬したと記している。戒名は成就院殿願誉栢心妙大姉(後に北条家で害されたともされ、成慶院過去帳には「柏心妙貞禅定尼 天正十三年三月三日御命日…保科肥後守御慈母…」とある)

正直は実弟の内藤昌月を頼って上野箕輪城へ逃れ昌月と共に北条氏に帰属し高遠を奪還。
後に徳川方に転向し、家康から伊那半分の所領を与えられ、戦死した仁科信盛の後の高遠城主となった。
天正12年(1584)7月に家康の義妹多却姫を後室に迎え、天正16年(1588)5月21日高遠で正貞が生まれる。正貞は正光にとって腹違いの弟、左源太にとって年下の叔父にあたる。

天正18年(1590)家康の関東移封に従った保科家は下総多古(千葉県香取郡多古町)へ移封となり、正直は正光に家督を譲った。
※一方、真田家は徳川に歩み寄りつつ周囲の北条・佐竹・上杉氏を警戒しながら沼田等の領地を守る為の戦いを繰り広げていたが、家康に沼田領を北条氏に差し出すことを迫られた事から、昌幸は次男信繁を上杉景勝へ人質に送って上杉と手を結び、閏8月に北条・徳川の軍を上田で迎えうった。上田合戦の勝利を契機に豊臣政権に入り込み、豊臣秀吉の家臣となる。

文禄3年(1594)伝通院(家康生母)・家康・秀忠の前で、正光は7歳になった正貞を養子にするよう命じられた。既に養子の左源太が居るが、正貞は猶子の形で親子関係になる。
正貞は家康の外甥である血筋から、家康のそばで養育され、15歳で保科家嫡子が名乗る甚四郎に改名することとなる。

正光が再び高遠城主となって間もなく正直(正光と正貞の実父)が、その後正光の妻(真田昌幸の娘)が亡くなった。徳川家が積極的に後押しする中で、真田一族の血を引くことは肩身が狭かったであろう。
しかし後の行動で正光は左源太を気にかけ、正貞は行き場の無い正重母子を突き放しはしなかった

元和元年(1615)の大坂夏の陣では正光率いる保科軍の先鋒を正貞が務めたとする説の他に、正貞は不仲であった正光の軍には加わらずに本多忠朝(上総大多喜藩主。忠勝の子)に兵を借りて参戦したという逸話もある。

元和3年(1617)老中土井利勝の要請で、密かに匿われていた秀忠の落胤の幸松丸(こうまつまる。保科正之)が正光の養子として迎えられた。正貞は完全に廃嫡されたようだ。(幸松は「肥州(正光)には左源太という子がいるから行かぬ」と言い張り高遠入りを渋ったという逸話もある)
翌年、正貞の生母の多劫姫が亡くなる。

元和6年(1620)に正光は幸松に家督を譲る旨の書置で、正貞を厳しく絶交を言い渡す一方で、左源太には配慮を見せている。
遺言状の記された2年後に正貞は高遠を去り、正光の養子としては左源太と幸松が残った。

しかし寛永4年(1627)正月3日に正光よりも先に、左源太が息を引き取った。
病死とされるが、毒殺の噂も伝えられているようである。
左源太に関する資料は乏しく「丈ひくい小男であった」と伝えられている。

保科左源太の墓の南無阿弥陀仏 保科左源太の墓の刻銘

左源太の墓の五輪塔は在銘のものでは高遠で最も古いとされ、正面に「南無阿弥陀佛」
台石に「傅譽(伝誉)隆相」「寛永四」「丁卯・正月三日」と刻まれている。

満光寺所在地:長野県伊那市高遠町高遠975

本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」

一心寺本多忠朝の墓 一心寺本多忠朝の墓案内板

本多忠朝の墓
これまでも一心寺は請西藩林家関連で林吉忠林忠交の墓を掲載したが
本堂向かいのひときわ大きな五輪塔が忠朝の墓である。
御影石で、総高1丈2尺、高さ2尺7寸、幅・厚さ3尺8寸程。
正面刻文
 前本多出雲守藤原朝臣忠朝
 三光院殿岸譽良玄居士
 元和元乙卯年五月七日

『攝津名所圖會』挿絵にも西の塀に面して門の内側に「戦士墓」が描かれている。古墳解説は以下の通り。
本多出雲守忠朝の墓。元和元年五月七日天王寺表に於て戦死。法諱三光院殿岸誉良玄居士と號す。是本多平八郎の舎弟なり。次下に雙ぶは忠朝家臣塔九基、何れも戦死なり。
小野勘解由塔・青山五左衛門塔・加藤忠左衛門塔・大屋作左衛門塔・山崎半右衛門塔・中根権兵衛塔・石川半彌塔・臼杵七兵衛塔・大原長五郎塔

※寛政8(1796)~10年刊。更に古い延宝3年(1675)刊行の『蘆分船』挿絵には墓地を囲む塀はない

一心寺本多忠朝の墓左手 一心寺本多忠朝の墓右手

▲忠朝の墓の左右に共に戦死した家臣達の墓が並ぶ
本多出雲守家臣五輪塔
小野勘解由……了信院峯譽残雪信士
靑山五左衛門……釋道凉
 考子 忠左衛門尉改治 共に戦死
臼杵七兵衛……建叟善功(切)
石川半彌……榮林宗惟
加藤忠左衛門……眞淸信士
大屋作左衛門……正光福心
大原長五郎(七兵衛)……月山信士
山崎半右衛門……悦堂宗近(作・斤)
中根權兵衛……眞(奥)月淨閑(榮)

・本多出雲守家臣石碑墓
 村越茂兵衛
 藤平治右衛門
 土(大)屋太郎八
 土橋加兵衛
 稲毛市郎兵衛

一心寺本多忠朝の墓の刻銘 一心寺の酒封じのしゃもじ

▲忠朝の墓の刻文と酒断ち祈願のしゃもじ(祈願内容が見えないようにボカシています)

■「酒封じの神」としての忠朝
酒封じ祈願 本多出雲守忠朝(ほんだいずものかみただとも)の墓(案内板文面)
本多出雲守忠朝は徳川家康公四天王の一人といわれた本多忠勝の第ニ子で、関ヶ原の合戦に武功をあげ大多喜五万石に封ぜられていたが酒を過したため大坂夏の陣(1615)において戦死した。死に臨んで深く酒弊を悔い将来酒のために身を誤るものを助けんと誓って瞑目したと伝えられる。
爾来、酒封じの神として酒に苦しむ当人や家族の多数参拝するところとなり酒弊の除滅に信を得ている。
墓碑周辺の杓文字(しゃもじ)は参拝者による断酒祈願 墓碑は元和2年(1616)に建立されたものである。

江戸時代の名著には見られない一心寺独特の伝承ではあるが、忠朝が飲酒のせいで大坂の役での大事に貢献できず、切腹同等の覚悟で天王寺の決戦に臨み倒れた際「己を真似てはいけない、我は酒のために身を誤る者を助ける霊となる」と言い遺したとされ、忠朝の墓に願えば禁酒・節酒が成就すると伝わり、いつの間にか酒封じの神として評判になったという。
古くは祈願は妻や親など禁酒する本人以外が、本人の知らない間に参拝しなければ無効とされていた。

現在は本人の祈願も含めて、墓の周囲に絵馬の代わりに断酒祈願用のシャモジを下げる形式である。
東国武将が討死した西国の地で酒難除けの威霊として多くの人を救ってきた一面が興味深い。
因みに大多喜の酒といえば、忠朝が提供した酒をドン・ロドリゴが褒めている。

坂松山高岳院一心寺(はんしょうざんこうがくいんいっしんじ)
所在地:大阪府大阪市天王寺区逢阪2丁目8-69

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
○本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

▼参考図書
・『攝津名所圖會』『摂津名所図会大成
・一無軒道冶『葦分船・難波百絶詩草
・鎌田春雄『近畿墓跡考
・大阪市教育部共同研究会『大阪風土記
忠朝[1]史料に同じ
▼関連サイト
・一心寺:http://www.isshinji.or.jp/(忠朝の墓の酒封じ祈願と冥加料の案内あり)
・天王寺区:http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/

本多忠朝[4]-大坂夏の陣天王寺の戦い

大阪夏の陣天王寺の戦い布陣図と比較地図

■大多喜出陣
慶長19年(1614)12月13日に本多忠朝の嫡男(本多政勝。内記)が生まれる。

元和元年(1615)大坂冬の陣の和睦直後大御所徳川家康は外堀のみ埋める約束を反故し内堀まで埋める等省みず、3月には遺恨を積もらせた豊臣家の再挙の報が駿府に届いた。
幕府より今まで1万石につき槍100本であった配備を、槍50本と鉄炮20挺とする通達があり、忠朝が3月23日付けで秋田実季らに写しを転送。

4月1日東軍諸将に将軍上洛の報を出し、近江国瀬田(滋賀県大津市)へ召集を命じる。
6日忠朝の大坂出陣が許される。忠朝は城下の明神社に参拝し、潔く大多喜を発った。
10日将軍秀忠が江戸を出発。忠朝らは東海道を進む。

 

◆余話◆忠朝と火縄銃
上記の幕府の通達からも察せられるよう、合戦で鉄炮が重視されるようになった。
忠朝は、豊後日出藩(ひじ。大分県速見郡日出町)藩主木下延俊(きのしたのぶとし。小早川秀秋の兄)と互いの江戸屋敷に出入りし合うほど親しかった。
そして延俊の国元から鉄炮が忠朝へと贈られたことがある。
※木下延俊は豊臣秀吉の正室寧々の甥で、初め秀吉の家臣であったが関ヶ原合戦で徳川方についた

 

◆余話◆保科正貞に兵を請われる
4月20日に土山(滋賀県甲賀市)に至り、その後瀬田の唐橋(草津とも)まで差し掛かると、編み笠を深く被った若党がひとり、従者2人を控えさせて大多喜勢の行軍のもとへ罷り出でた。
男は忠朝の前で笠を取り捨てて会釈し「我は保科甚四郎正貞。兄との不仲によりこのたびの役に満足に加勢できぬのが遺憾であり、忍んでここまで来ました。願わくば出雲殿の兵を借りて力を揮いたいのです」と打ち明けた。

正貞は信濃国(長野)高遠城主保科正直の三男で、母は徳川家康の異父妹の多劫姫である。
実兄の正光が保科家当主となるが嫡子がおらず小日向家(真田家御分とされる)から養子をとっていたものの、徳川天下において真田家の血筋は冷遇されがちであった。
そのためか、松平家の近親者である正貞を7歳の時に猶子(養子よりは弱い義理の親子関係)とした。
正貞は幼い頃から家康・秀忠に仕え戦時も保科勢でなく徳川本陣に従軍しており、若年の身では保科家の内でも曖昧な立場と、戦国乱世を生きてきた正光の家を護るための世渡りが肌に合わず、早くから兄弟(親子)間が不仲であっても不思議ではないが
時を同じくして、小笠原秀政(信濃松本藩主。正室登久姫は忠朝の兄忠政の正室の姉)の子忠脩(ただなが、ただのぶ。正室亀姫は忠政の娘)も松本城から無断で上洛し従軍を願っているように、国元の留守に耐えられず何としてでも参戦したかったのだろう。

今の忠朝には決戦を志願する念いが痛いほど分かる。
そして次男として生まれ幼くして徳川家康の側近くに仕え、一大名に立身してもなお、本多家では相続の件で宗家からの視線を感じながら常々次男の立場を弁えていた忠朝だからこそ、他家に頼るしかない正貞の思いを汲んだのだろうか。
忠朝は止むを得ずと、正貞に足軽10人に馬と武具を添えて貸し与えた。

※軍記物『難波戦記』『大坂軍記』等では勘当されての申し出とするが、大坂の陣の時点では正貞は高遠に居り、まだ正光は幸松(保科正之。徳川秀忠の隠し子として正光が保護し養子にとる)を預かってもいない。養子絡みの不和ならば左源太のことであろう。
兄の正光軍に属して先鋒を務めた説では、同一軍のため戦功が混同されており、ここでは省く

正貞と同じく、忠朝は浪人の疋田導師の参戦志願も叶えたという。(『九六騒動記』)

 

■大坂夏の陣開戦・河内口の戦い
22日に秀忠は京に至り、家康と密議の上、全軍は大和より迂回し河内道明寺(大阪府藤井寺)に集結し大坂城の南からの攻略を決めた。忠朝は河内口二番手右備となる。
24日河内口(大阪府八尾市)【河内口東軍総数約12万】の右先鋒藤堂高虎(伊勢津藩主)兵5千が淀を発つ。
25日には大和路【大和口東軍総数約3万4千】先鋒の伊達政宗(四番だが先行)兵約1万・二番本多忠政(忠朝の兄)約2千・三番松平忠明(ただあきら。伊勢亀山藩主。冬の陣後に大坂城の堀の埋立奉行を担当)約千らが発ち、河内口の松平忠直、酒井家次等諸将も相踵いで河内へ向かう。

28日に河内口右備え一番手榊原康勝2100と二番手忠朝1千の兵らは伏見より、左先鋒井伊直孝(近江彦根藩主)3200の兵は山城深草山(京都府京都市伏見)から共に河内に向かい、翌日奈良付近に舎営。
5月5日徳川父子が京を発ち、明日の道明寺進軍を所将に命じた。

6日河内口では、明け方に豊臣方の長曾我部盛親(ちょうそかべもりちか)5千・益田盛次300の兵が道明寺の北の八尾村(大阪府八尾市)に達し、徳川方先鋒藤堂勢の先行隊と交戦。
午前5時に豊臣方の木村重成(しげなり)6千の兵が若江村(八尾村の北)に達し、高野街道から迫る徳川方先鋒井伊勢の先行隊へ山口弘定・内藤長秋合わせて1千の兵を差し向け、南の八尾方面に長屋平太・佐久間正頼等右翼隊、北の暗峠越方面に叔父木村宗明300の左翼隊を分けた。
暗峠越の道上には、一番手右備の榊原隊・忠朝隊・小笠原秀政1600・仙石忠政1千・諏訪忠澄540・保科正光600・藤田重信300・丹羽長重200の兵らが徳川本隊からの指示通り控えている。

先鋒井伊隊が激闘の末に木村勢を打ち破るのを好機として榊原先行隊・丹羽隊らが徳川本隊の指示を待たずに宗明を攻撃し、豊臣方(若江八尾方面総数1万1300)を壊走させた。

◆道明寺口の戦いに兄忠政参戦◆
6日午前0時に豊臣方の後藤基次が2800の兵を率いて平野(大阪市平野区)から大和街道を進み道明寺に出るが、後続の真田信繁(のぶしげ。幸村)・毛利豊前守勝永(かつなが)ら1万数千の軍は遅れを取った。
午前4時に豊臣方の篝火を発見した奥田忠次60・板倉重政200の兵らは先鋒水野勝成600の兵を待たずに銃撃戦開始。小松山に駐屯していた徳川方諸隊が大軍で前・側面を攻め、正午まで耐えるも後藤軍は潰え、後続の豊臣勢の追撃にかかる。

河内口、道明寺口両方面の徳川方諸将が追撃し、午後には真田・毛利隊を撤退させた。

 

戦が終わると、徳川本陣の秀忠より明日の決戦はニ番手の忠朝を天王寺口先鋒とする指示が届き、忠朝は喜んで拝命する。
道明寺に甥の平八郎忠刻、甲斐守政朝、能登守忠義を呼び出し「このたびの、我が兄……そのほう達の父(忠政)の働きは立派であった。しかし我こそは抑えに回らず決死の先駆けを致そう」と告げ、芝堤の上で最後の盃を交わした。

忠朝はその夜、細川越中守忠興(ただおき)の陣所へ赴き、自分が討死した後の、まだ赤子の政勝の行く末を托した。
主の覚悟に共鳴した譜第の家臣加藤忠左衛門、大屋作左衛門、藤平治右衛門、臼杵七兵衛らも討死を誓う起請文に血判を押して差し、忠朝は彼らの本望をしかと汲み押戴く。

※軍記物では小笠原秀政(小笠原家は本多宗家と婚戚関係にある)が忠朝の陣営を訪れている。若江の戦で言いつけ通りに徳川本陣の指示を待ち、攻撃が遅れたことを戦後に叱咤された秀政が、同じように鴫野で家康の機嫌を損ねた忠朝と、明日の討死の覚悟を語り合った。

四天王寺南大門 四天王寺五重塔

▲現在の四天王寺南大門と五重塔
豊臣方の猛将毛利勝永本隊が布陣。天王寺口配備の西軍総数は1万2千・外4800人

■天王寺表の戦い
5月7日早天、二度と外さぬ覚悟で兜の結び緒の端を切りった忠朝が先鋒の諸将、浅野長重・秋田実季・松下重綱・真田信吉と真田信政兄弟(共に真田信繁の兄信之の子で信政は忠朝の甥にあたる)・植村泰勝・六郷政乗・須賀勝政らを率いて天王寺口の先手を進む。

忠朝は他隊よりやや前方、右に沼池、左に小丘のある地に布陣。
正午、天王寺南門前に布陣した豊臣方の毛利勝永の先行兵が先走り、物見に来ていた本多隊を銃撃し開戦となった。
豊臣方は、当初の徳川方を誘い入れる予定が狂い、茶臼山に布陣した真田信繁(幸村)が毛利隊へ中止を求めたが、もはや逸る先行隊を抑えることは出来なかった。

本多隊の隊長窪田伝十郎らは、左に布陣する越前少将(松平忠直)軍と共に鉄砲を撃ち掛け押し進んだ。

勝永は毛利勢を二手に分け、本多隊を左右から囲う。
有卦に入る毛利隊左翼が徳川方の真田隊を、毛利隊右翼が浅野・秋田・松下・植村・六郷・須賀隊を猛攻し、越前隊の右手にまで突入する。
先手を取った毛利勢78人が本多勢に押し寄せるも忠朝は勢いを削がれることなく百里(ひゃくり)と名付けた馬に乗り、勝永の本陣めがけ、真一文字に衝き入った。

合わせ備えの諸将が次々と敗走し、本多勢への攻撃は熾烈を極めた。
小野解勘由(かげゆ)ら決死の本多勢70余人を左右に、忠朝は大声で本多出雲守忠朝なるぞと名乗りを上げて槍が折れるまで敵を縦横無尽に突き伏せる。

20余りの傷を負った忠朝の前に、毛利の紺羽織を着た足軽が二間ばかりの所に詰め寄った。
至近距離から放たれた銃弾が、忠朝の臍の上を貫いた。

よろめいた忠朝は、関東勢が崩れていく無残な視界の中で、後方から突き進む熟練の武将小笠原秀政と子の忠脩、忠朝が兵を貸し与えた若武者保科正貞が傷つき血まみれになりながら槍を合わせ、勇猛果敢に先鋒隊を援ける姿が見えた。

馬上で倒れかけた忠朝は気合で堪え、馬を飛び降り、銃創から鮮血が滴るのも物とせず、自分を撃った足軽を薙ぎ倒し、折れた槍を捨て太刀で敵数人を斬り伏せる。
しかし集中砲火に曝され、敵を追って踏み入れた小溝で力尽き、累々の屍骸の間に倒れ伏せた。
大屋作左衛門は主の遺体の上に取り付いて、散々に斬られ、事切れても離さずにいた。
他家臣達も次々に主の傍で討死した。

忠朝の首級は秀頼の御家人雨森傳左衛門が取り、指物は中川彌次右衛門が捕ったと伝わっている。

家臣により百里に乗せて運ばれる忠朝の亡骸が、家康の馬の前を通った時、家康は涙を流して見送ったという。
家康は冬の陣では厳しくあたったが、忠朝を幼い頃から側近くに近侍させ、次男の身でありながら分家を許して城持ちの藩主とする好遇を与えた程だから、思い入れがないはずがない。

この戦いで忠朝軍は74の首級を挙げ、家臣の窪田伝十郎、大原物右衛門、柳田平兵衛、山本唯右衛門、小鹿主馬助の五人に感状が与えられた。

武将として最期まで戦い抜き34歳で大坂に散った忠朝は、大坂一心寺(大阪市天王寺区)に葬られ、後に上総良玄寺(千葉県大多喜町新丁)に分骨し両親と共に眠る。
戒名、三光院殿前雲州岸譽良玄大居士
天王寺村、阿部野村に忠朝の塚があったと伝える書もある。

天王寺からあべのハルカスを臨む 大阪夏の陣図屏風天王寺の戦い

▲時移ろい、忠朝の合わせ備えの諸将達が布陣した地には天王寺から大阪城を望むべく、あべのハルカス(写真奥の高層ビル)が聳えている。
大坂陣図屏風の天王寺周辺、右に忠朝。中央下が真田信繁(幸村)隊、左上が毛利勝永隊。

 

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
○本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

参考史料
・『富津市史
他、大坂役関連古地図・合戦図、記事中に明記の史料や忠朝[1]参考図書等に同じ
大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)画像は一心寺南会所案内パネルより