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大樹寺[2]松平家八代の墓と略歴

大樹寺松平八代墓 大樹寺松平八代墓の葵紋の門

松平八代墓(まつだいらはちだいぼ)岡崎市指定文化財
元和元年(1615)徳川家康松平家菩提寺の大樹寺に、前三代親氏公来の廟所(信光明寺/岡崎市岩津町)を模して追修し、4代親忠以下清康に至る先祖三河八代の墳墓を再建。
元和3年(1617)に天領代官畔柳寿学が奉行となり、家康の一周忌が大樹寺で営まれた際に、信光明寺の松平三代墓の宝篋印塔をここに移転し、現在の姿に整備した。

 

初代松平親氏の墓 2代松平泰親の墓 3代松平信光の墓
▲松平初代~3代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)……岩津松平家の発祥
■初代 親氏(ちかうじ。生没年不詳。芳樹院)
諸説あるが時宗の流浪の僧徳阿弥(とくあみ)が三河(愛知県)に入り、大浜(西尾市)・矢作(やはぎ。岡崎市)等を経て松平郷(豊田市)に至り郷主松平太郎左衛門信重の婿となり、郷敷城を築く。
子(弟とも)の泰親と共に近隣山間部の林添、麻生等を攻略して勢力を拡大し、中山郷7名(17名とも)も支配したという。この頃信州から林藤助が来て親氏の靡下に属す。
大樹寺には康安元年(1361)4月20日逝去と伝わるが諸説あり。松平郷の高月院に葬。

■二代 泰親(やすちか。生没年不詳/良祥院)
親氏の弟、もしくは子。松平信広・信光と共に岩津(岡崎市岩津町)に進出。
泰親の代に本多平八郎助時が松平家に仕える。
大樹寺には永和3年(1377)9月20日逝去と伝わるが、信光の年代と合わず不明。

■三代 信光(のぶみつ。1404~1488/崇岳院)
泰親(もしくは親氏)の子。左京亮、後に和泉守を称した。
応永28年(1422)8月15日泰親と協力し夜襲で岩津の中根大膳を討ち取る。
伯父(もしくは兄)信広は岩津攻めで足を負傷したため松平郷に残り、信光が今後の本拠地となる岩津城の城主となる。
泰親と共に円川(つぶらがわ。中垣町)合戦に勝利して大給城(おぎゅう。豊田市)を占領し、保久城(ほっきゅう。岡崎市)を焼いて下し、勢力を拡大する。
永享3年(1431)3月、洞院大納言実熈が三河大河内に配流となった折に泰親が京都まで守護した縁から、子の信光が室町幕府政所執事伊勢貞親の被官となったとも伝わる。
宝徳3年(1451)親氏・泰親の菩提を弔うため信光明寺を創建。
寛正5年(1464)5月に伊勢貞親の命を受けて井口砦(岡崎市井ノ口町)に篭る郎党鎮圧のため深溝(幸田町)に出陣し大場次郎左衛門を誅した。
この頃、宇津(後の大久保)八郎右衛門昌忠や榊原主計清政が信光に仕える。
文明3年(1471)7月15日夜、踊りの行列で偽装して油断させ、安祥城(あんしょう。安城市)を攻略。※『三河物語』による。諸説あり
続けて岡崎城主西郷弾正左衛門頼嗣と交渉し岡崎城を譲り受け、西三河の半ばを治めた。
長享2年(1488)7月22日に85歳で没。

 

4代松平親忠の墓 5代松平長親の墓 6代松平信忠の墓
▲4代~6代の五輪塔(ごりんとう)……安城松平家
■四代 親忠(ちかただ。1431~1501/松安院)
信光の3男。左京進、左京亮、蔵人を称した。
應仁元年(1467)8月23日、第一次井田野合戦(岡崎市井田・鴨田)で尾張品野・三河伊保の大軍に対し信光は500騎で交戦して勝利。その後、戦死者を弔うために念仏堂(今の西光寺)と千人塚をつくる。
文明(1469~)の初年に家を継ぎ安祥城に住む。
文明7年(1475)菩提寺として大樹寺を建立。
長享元年(1489)8月に麻生城を攻め天野弥九朗を下す。
長享2年(1488)に父信光が亡くなったことを悼んで親忠は仏門に入り西忠と称した。
明応2年(1493)10月第二次井田野合戦。上野の阿部・寺部の鈴木・挙母の中條・伊保の三宅・八草の那須氏の連合軍(全て豊田市)が岩津城を襲撃し岡崎へ迫ったため、親忠が兵2千を率いて井田野で食い止め、撃退。
文亀元年(1501)8月10日、71歳で没。※諸説あり

■五代 長親(ながちか。1473~1544/掉舟院)
親忠の3男。忠次-長忠-長親と改名。蔵人または出雲守を称した。安城松平家2代目。
文亀元年(1501)9月、父親忠の死の直後に駿河今川氏親の軍が西三河に侵入し、松平一族は結束を固めて警戒する。※今川軍の侵攻時期は諸説あり。この頃に仏門に入り道閲と号したという。
永正3年(1506)8月21日、駿河今川氏親の軍が再び西三河に侵入し、氏親の客将伊勢新九郎盛時(長氏。後の北条早雲)が一万騎余で岡崎に入って一部を甲山において岡崎城をおさえ、伊勢盛時本隊は大樹寺を本陣として岩津城に攻めかかった。※11月とも。『大三川志』は文亀元年9月
安祥城の長親は一族郎党を集めて最期の酒宴を催し、そして僅か500余の軍で矢作川を越えて岩津城を狙う今川勢の背後を攻めた。
夜戦となり疲弊した両軍が一時兵を収めた時に、陣中で裏切り者が出たと噂が流れた今川勢は駿河へ撤退した。
永正年間の連戦で松平惣領の岩津家が衰退し、安城家が惣領となる。
天文13年(1544)8月22日没。

■六代 信忠(のぶただ。1486~1531/安栖院)
長親の長男。次郎三郎。左近、蔵人、左京亮とも。安城松平家3代目。
大永3年(1523)に早くも家督を嫡男の竹千代(清康)に譲り、大浜郷に隠居して祐泉と号し、また泰考・道忠と改める。
信忠派・弟信定派と分かれた家督騒動の渦中にいたため『三河物語』では叛く者を誅殺する残忍な性格に書かれてしまっているが、内紛を収めるため潔く引退し陰ながら若い清康を援けた説もある。
享禄4年(1531)7月27日に没。

 

7代松平清康の墓 8代松平広忠の墓 松平家9代徳川家康の墓
▲7代清康の五輪塔と8代広忠の無縫塔(むほうとう)、近年建立の9代家康の墓
■七代 清康(きよやす。1511~1535/善徳院)
信忠の長男。次郎三郎。
大永3年(1523)13歳で安城松平家4代目となる。
大永4年(1524)14歳で、岡崎城主松平(西郷)信貞の持つ山中城(羽栗町)を攻めた。信貞は大草に隠居し、清康は安祥城から岡崎城に移る。
大永5年(1525)足助(豊田市)鈴木氏を攻略。
享禄2年(1529)5月27日、牧野氏の吉田城(豊橋市)攻めのため岡崎城を出発し赤坂を本陣として、翌日進攻し激戦の末に牧野勢を打破る。この年、小島城(西尾市)も攻略。
享禄3年(1530)熊谷氏の宇理城(新城市)攻を攻め、熊谷実長の迎撃に一度は崩されるが、城内の者が内応して火をかけたため落城。
享禄4年(1531)三宅(周防とも)氏を攻め伊保城(豊田市)を手中にする。
天文2年(1533)3月20日、広瀬城主三宅・寺部城主鈴木氏らとの岩津合戦で勝利。12月に三河に侵入した信濃兵を井田野で撃破。
天文4年(1535)2月22日に大樹寺の多宝塔を起工させ4月に完成。真柱銘に「世羅田次郎三郎清康安城四代岡崎殿」とある。
12月3日、尾張進出を図り一千余騎で岡崎城を出発し、翌日に尾張織田信秀(信長の父)の守山(森山とも。名古屋市)へ侵入。この夜、守山の陣中で家臣阿部大蔵定吉(正澄とも)が謀反の疑いで処罰されると誤った噂が立つ。
5日早朝、噂を信じた子の阿部弥七郎が清康を背後から刺殺。享年25歳。
岡崎勢は撤退を余儀なくされ、若い雄渾の宗家当主の急死により松平氏の三河支配が揺らいだ。この事件は後世守山崩れと呼ばれる。
大樹寺の他に随念寺(岡崎市門前町。養女お久の墓も)と大林寺(魚町)等にも墓がある。

■八代 広忠(ひろただ。1526~1549/大樹寺・瑞雲院)
清康の長男。幼名千松丸、のち次郎三郎。
天文4年(1535)12月、10歳の時に父清康が殺され、家督をめぐる内紛がおこり、叔父の松平信定(桜井松平家)が岡崎城に入り、千松丸は流浪の身となる。
28日に阿部定吉が息子の罪の償いのため千松丸を護って伊勢の神戸(三重県鈴鹿市)へ。
天文4年(1535)3月17日に海路で遠州縣塚に渡る。阿部大蔵や、清康の妹婿の東條吉良持広は駿府の今川氏に助力を請う。8月26日に形ノ原に移る。
天文5年(1536)9月10日に茂呂城に入り、閏10月に吉田を経て駿府の今川義元に面会する。
天文6年(1537)5月岡崎に残る大久保新八郎忠俊と弟甚四郎忠員・弥三郎忠久らに岡崎帰城を促され、千松丸は茂呂城に戻る。
29日、岡崎を執っていた松平蔵人信考が有馬温泉に赴いた隙に、大久保忠員・八国甚六詮実・林藤助忠満・瀬又太郎正頼・大原近右衛門惟宗が千松丸のもとに集った。
6月1日岡崎城を攻め、大久保忠俊が本丸の石川兄弟を討って開門し、千松丸は入城を成し遂げた。12月9日に元服。
天文9年(1540)織田信秀の三河侵攻が激しくなり6月6日に松平左馬介長家(親忠の子)の安祥城が包囲され、松平長家・信康(広忠の弟)・信忠をはじめ譜代の林藤助忠満渡辺右衛門照綱・本多弥八郎正貞・弥七郎正行(正貞弟)・内藤善左衛門・近藤与一郎・足立弥市郎等将達が奮戦するが守りきれず、50余人が戦死し落城した。以降、広忠は駿河の今川義元の援助を受けて安祥城の奪還を試みることとなる。
天文10年(1541)於大の方(伝通院。家康の母。刈谷城主水野右衛門大夫忠政娘)を娶る。
天文11年(1542)8月10日松平勢は今川義元の翼下として織田信秀軍と小豆坂で合戦する。※織田の小豆坂七本槍の奮戦で織田軍の勝利とするが虚構ともされる
8月27日叔父の松平信孝が、信孝の弟康孝の旧領三木(岡崎市三ツ木町)を横領したとして、広忠は信孝の留守を狙って三木城を占領。合議で追放された信孝は織田氏につく。
12月26日に次男の竹千代(後の徳川家康)誕生。
天文12年(1543)9月に水野氏が織田方についたため、於大の方を離縁する。
天文14年(1545)9月20日安祥城奪還のため清縄城に出陣するが織田勢の挟撃に遭い敗走。
天文15年(1546)9月6日広久手に兵を出す。
天文16年(1547)8月2日に6歳の竹千代を今川家の人質として駿河に送るが、竹千代は途中で織田方に奪われてしまう。
天文17年(1548)4月15日耳取縄手合戦──3月19日に小豆坂で今川勢と織田勢が合戦し織田勢が安祥城まで退いたため、に大岡の山崎砦の松平信孝が単独で岡崎城を落とそうと500騎を率いて妙大寺(岡崎市明大寺町)表へと迫った。200騎の兵で迎え撃った広忠は、予め伏兵として絵女房山に弓の精鋭を配置して山を下る信孝軍へ射らせてから妙大寺へ退かせた。一直線に伏兵達を追いかけた信孝軍を、広忠家臣の隊が左右から挟撃。信孝は半弓で脇腹を射られて討死した。
天文18年(1548)3月6日、広忠の側に仕えていた岩松八弥が城内で突如広忠を刺し殺す。
岩松は織田方の広瀬城主佐久間九郎左衛門全考の刺客であった。享年24歳。
大樹寺の他に密葬した松應寺(松本町)、広忠寺(桑谷町。永禄5年家康が建立)、大林寺(魚町)、法蔵寺(本宿町)にも墓がある。

広忠の死後は今川勢が岡崎城に入り、主君を失った松平家中は今川氏の指揮下に入る。
8歳の竹千代は織田信広との人質交換で駿河へ(家康の生涯は著名なので省略)
かつては広忠までの8基が並んでいたが、昭和44年に家康公の墓も日光東照宮の廟に模して岡崎市民により宝塔が建てられた。墓碑の法名は徳川18代当主徳川恒孝(つねなり)氏の筆。

岩津松平家供養塔と歴代住職の墓
▲松平八代墓のそばに岩津松平家供養塔。奥の開山堂の敷地には歴代住職の墓が並ぶ。

松平家菩提所大樹寺[1]岡崎城へのビスタライン

松平家(徳川将軍家の祖)菩提寺の成道山大樹寺(じょうどうさんだいじゅじ)は浄土宗鎮西派(総本山は知恩院)に属し松安院を号する。本尊の一光千体阿弥陀如来は鎌倉初期の作と言わる。
松平八代墓譜代林家の墓がある。

三門 鐘楼
山門鐘楼(愛知県指定文化財)
三代将軍家光の建立。三門樓上の「大樹寺」の扁額は後奈良天皇の宸筆で重要文化財。

 

■大樹寺の創建
應仁元年(1467)8月23日の井田野合戦で尾張品野・三河伊保の兵と戦い勝利した松平親忠(松平4代、安城松平家初代)は、夥しい戦死者達を敵味方を区別せず弔おうと死骸を集めて千人塚をつくって慰霊した。
しかしその後も兵の亡霊の叫びが絶えず、悪疫が流行したことを憂いた親忠は、㔟誉愚底上人(せいよぐていしょうにん)に山越の弥陀の書像を託し7日夜の別時念仏会を営ませて鎮魂した。井田野は魂場野(こんばの)と呼ばれるようになった。
文明7年(1475)2月22日、親忠はその報恩に愚底上人を開山として大樹寺を建立し安城松平家の菩提寺ろしたとされる。
長親の代に安城家が松平総領家となったため松平宗家の菩提寺として大樹寺公寺と称し、天文10年に勅願所に准じ、寛永18年重修し田禄700石を受け、20有余の末社を持つ東海の名刹となった。
元和2年(1616)に家康の遺言で徳川歴代将軍の位牌所とされ、14代将軍家茂までの位牌が納められている。

本堂 多宝塔
本堂多宝塔(たほうとう)
本堂は桁行・梁間7間、入母屋造の本瓦葺。外陣が方丈のように三区分するものと凹形のもの2つの形式を取り入れている。岡崎市指定文化財。
安政2年(1855)の火災で本堂と大方丈を焼失し、安政4年やや規模を縮小して再建。
大方丈の障壁画は土佐派冷泉為恭の作で重要文化財。

多宝塔(付棟札/むなふだ)は室町時代の天文4年(1535)に松平7代清康(きよやす)建立の二重塔。国指定重要文化財。
下層は方三間・総円柱・斗組二手先尾垂木付、上層は白漆喰塗りの亀腹上に円形の塔身を立て四手先で軒を支え、屋根は桧皮葺、鉄製相輪を上げ、軒隅には風鐸がつるされている。塔内部には禅宗様の須弥壇を置いて上に春日厨子を据え本尊の多宝如来像を安置している。

 

■大樹寺の陣と家康
永禄3年(1690)年5月19日今川義元が桶狭間の夜襲で織田信長軍に討たれた報を、今川方で19歳の松平元康(松平第9代。後の徳川家康)は大高城で聞き、夜に城を脱出。翌日大樹寺に入る。
元康の大高撤退は諸説・諸作あり、元康が先祖の墓前で自害しようとしたのを、当時の住職登誉天室上人(大樹寺13世)が訓戒して思い止まらせたとも伝わる。

『三河後風土記』では大樹寺に残った者は酒井雅楽助・本多吉右衛門・本多弥八郎・大久保七郎右衛門・大須賀五郎左衛門・石川与七郎・菅沼藤十郎・林藤助・平岩七之助・阿部四善九郎・松井左近・内藤四郎左衛門・内藤源左衛門・鳥居彦右衛門・榊原小平太・松平主殿助・松平若狭守・松平八郎五郎等とその外勇士50余騎、雑兵600余が民家を宿にした。

織田方の追手の一隊が迫ると、武者達だけでなく大樹寺の僧達までも登誉上人の指示で「厭離穢土 欣求浄土」の旗を立てて立ち向かい、大力無双の祖洞和尚が門の貫木を引抜いて武器として奮戦し、敵を退散させた。
かくして23日、元康は岡崎城に入ることが出来た。(『天文年記録』等)
元康はこの八文字を座右の銘とし、この時の大貫木を開運の貫木として尊信し今も寺に安置され、多数存在するが元康が陣中で書いたという「陣中名号」も珍蔵されているという。

開山堂 舎利殿
開山堂(かいざんどう)と舎利殿
桁行・梁間3間、宝形造の浅瓦葺。屋根の頂上には露盤・宝珠を上げている。
ひとつの空間となっている内部の天井は格天井、床は畳敷。背面に半間幅の箱仏段を設けている。江戸時代前半の建立と推定される。岡崎市指定文化財。
開山堂の敷地には歴代住職の墓所として卵形の無縫塔(僧の墓塔として多く用いられる)や墓碑が並ぶ。

舎利殿には舎利の粒が安置されている。

 

ビスタ(眺望)ライン…大樹寺と岡崎城を結ぶ標高差を利用した南北約3kmの直線

三門と総門 大樹寺総門から臨む岡崎城
▲本堂から見た三門と総門。総門の中に絵画のように納まる岡崎城
徳川3代将軍家光が家康公の十七回忌を機に「祖父誕生の地を望めるように」と松平家菩提寺大樹寺の本堂~山門~総門(現大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城を望むように伽藍を整備した。

岡崎城天守閣から見た大樹寺 岡崎城天守閣
▲岡崎城から見た大樹寺(写真中央)と現在の岡崎城天守閣(大樹寺側の方向から)
天守閣は再建されても、往事のままの歴史的眺望は今も保たれている。

所在地:愛知県岡崎市鴨田町広元5-1
大樹寺HP:http://home1.catvmics.ne.jp/~daijuji/

松本藩・高島藩領に分かれた千鹿頭神社

林・大嵩崎側鳥居 神田千鹿頭神社鳥居
▲林側の鳥居と、神田側の朱色の鳥居
千鹿頭(ちかとう)神社は、古くは先の宮(まづのみや、さきのみや。祭神は大己貴命と大国主命、または猿田彦命。現在のあずまや付近)に在ったのが天文年間の武田氏との戦いで社殿が焼失、
その後現在の位置に移され、林城主の小笠原氏を始め松本藩主の尊崇、寄進や村々への神役賦課等を受けて隆盛しました。

千鹿頭神社の社殿 千鹿頭神社沿革
▲藩の境界に並んで立つ一間社流造の千鹿頭神社本殿と神社沿革
元和4年(1618)に千鹿頭山(ちかとうやま)の分水嶺(ぶんすいれい)で、神田村より南側の松本藩領5千石が諏訪高島藩(諏訪藩)領へと分割されて、両藩の境に二社の社殿が並んで建つことになりました。
向かって左が林と大嵩崎(おおつき)の社殿で元文5年(1740)松本藩第2代藩主松平光雄によって、
右が高島領・神田の社殿で正徳5年(1715)高島藩第4代藩主諏訪忠虎の寄進により造営され、松本市重要文化財に指定されています。かつては茅葺の屋根でした。
例祭、卯年と酉年の御柱大祭(松本市無形文化財)を同じ日に行い現在に至っています。

林千鹿頭神社の神紋梶の葉 諏訪氏の四本足に三本梶紋 林千鹿頭神社の林の角字紋
▲林側の神紋は保科氏のように諏訪の神氏から分かれた家系の「一葉梶(立梶の葉)」紋
神田側では高島藩主諏訪氏(諏訪神社上社大祝/おおほうり系)の諏訪梶の葉紋「四本足に三本梶」が見られます。他に林・神田それぞれの角字も掲げられ写真は林の角字紋です。

 

千鹿頭神社の創立は詳らかではありませんが「延暦年間(782~806)に田村将軍利仁の副将軍藤原緒継と林の里長六郎公が“うらこ山”より現在の地に、諏訪の洩矢(もれや、もりや)神の御子の千鹿頭神(ちかとう、ちかとのかみ)を移し祀った」と郷土誌や案内板に書かれています。

洩矢神は本来の諏訪の土地神で、天津神との国譲りで破れて諏訪に至った国津神の建御名方命(大国主神の御子。諏訪大神と同一視される)と対峙し、降伏したといいます。
その子の千鹿頭神は諏訪大神のもとで鹿の狩猟をよく行っていたことからこの名がついたとし、諏訪の有賀の千鹿頭神社(浜南宮)では酉の祭(御頭祭)ごとに鹿の頭を社に集めて諏訪神社に送ったと伝わっています。
守矢氏の系譜『神長(じんちょう)守矢氏系譜』では洩矢ノ神──守宅ノ神(守田ノ神)──千鹿頭ノ神─…としています。

千鹿頭神社御柱 第三位御柱 第四位御柱
▲千鹿頭神社の御柱。拝殿前に第一位・第二位の御柱、本殿裏に第三位・第四位の御柱が立つ。
諏訪大社(南方刀美神社/みなかたとみのかみのやしろ)は建御名方富命とその后(八坂刀売神。下社)とされ『諏訪明神縁起画詞』に75匹の鹿の頭を神前に供える御頭(おんとう)祭は三月酉の日、御柱を曳く御柱祭は寅申の年七年に一度とあります。
林と神田の千鹿頭神社の御柱祭が「卯年・酉年の五月」に行われるのは、御頭祭の酉の日と、卯(うさぎ)の日は…林郷の狩りにまつわる兎田伝説がルーツでしょうか?

 

享保年間の石祠 千鹿頭池
▲本殿の裏には小さなお社があり、麓の和合の池は水鳥が雪を避けて仲良く並んでいました
摂社の服(はて)神社は古の鎮守神で祭神は建御名方(たけみなかた)命、王子稲荷は林城・深志城(松本城)から移され、祭神は倉稲魂(うかのみたま)だそうです。
宿世結神(しゅくせむすびのかみ)は林六郎公の息女・うらこ姫としていますが『神長守矢氏系譜』では千鹿頭神の后神を宇良子比売命(うらこひめのみこと)としています。

神長守矢氏の祀るミシャグジ神が諏訪神・守矢神双方ともに重ねられ、『諏訪神社誌』では千鹿頭神を「建御名方神の御子(母は八坂刀売神の妹の八坂入姫ともされる)内縣神(うちあがたのかみ)の別名、または八縣宿禰命(やのあがたすくねのかみ)の別名で建御名方神の孫」とし、有賀千鹿頭社の祭神は『豊田村誌』では千鹿頭神と記されていますが、一般には内県神が祭神と紹介されているので、うらこ姫も混合されているのでしょうか。
宿世は前世からの宿縁の意味なのでまさに縁結びに相応しい神名ですね。

逢初川ノ図

『逢初川ノ図』には「女亀山」と「男亀山」が並び「産霊ノ神」と描かれており、村記にこの産霊社の祭神は高皇産霊(たかみむすび)神と記されています。
『古事記伝』ではムスは生(むす)とし、他に俗説として娘・息子のムス、二柱神の対である神産霊(かむすび)神は女神(または高皇産霊神と同一)とも解釈されています。
民間信仰で産土(うぶすな。産須那。その土地の神)神の崇拝と共に産霊(むすひ)を結びとして縁「結の神」ともされます。現在の摂社としての宿世結神もこの形と思われます。

千鹿頭池(和合の池)は「浦湖」で、千鹿頭神社と先の宮のある「鶴峯」の南に「浦湖山」と描かれています。
浦湖山は同じ位置で明治時代の郷土地図には「浦子山」の字で書かれていますが、社殿のうらこ山やうらこ姫のうらこと同義でしょうか。

『春雨抄』に「しなの(信濃)なるあひそめ川のはたにこそ すくせ(世)むすひ(結び)の神はましませ」と読み人知らずの歌があり、これを『信濃地名考』では小県(ちいさがた)郡の男神岳・女神岳より出る相染川のことで、この縁結びの神に未通の男女ならば情事の願い事が叶うと解説されていいます。
千鹿頭山にも男女の亀山が並んでいるので、類似していますね。

諏方上社『社例記』に延暦14年に坂上田村麿が諏訪明神に神馬を奉じたとあり、東夷征討を成し遂げた後、田村将軍に従軍した諏訪有員(ありかず。諏訪大祝の祖)が社を造営した伝承もあるので、諏訪系の縁起が変化したものかもしれませんし、千鹿頭神社伝承の「遠征に出る宮人と土地の里長・縁結びの神となった里長の娘」と重ねていくと想像は尽きません。

千鹿頭山公園案内図 河童のマーク
他、碑や小祠が多くて写真を載せきれず…古くから現代までこの土地で崇められてきた証拠ですね。

「わきておる人のためとやしら雲のうらこの山に咲ける梅ヶ枝」後九条内大臣(九条基家)
「たちぬはぬ錦とそみるから衣うらこの山の秋のもみぢは」後一条入道関白(一条実経)

千鹿頭山森林公園所在地:長野県松本市神田~松本市里山辺

小笠原家の館「井川城」跡

井川城跡 井川城跡と濠

井川城跡(松本市特別史跡)
旧小島村(現松本市井川城)にあり、小島城とも呼び、井の字に四方を水流に囲まれているため井川館と名がついたとも言われる。
明治の地図で遺構は井川の流れの西沿いに位置し回字形、東向きで、南北72間・東西50間。
東南角に高さ六尺・南北6間・東西7間3尺の櫓台趾が残っている。

建武2年(1335)8月14日に伊那松尾館(長野県飯田市)の小笠原貞宗が信濃国の守護職となり、足利尊氏の命で井川館に新城を構えて移り統治したとされる。
以降守護職として小笠原政長─長基─長秀、政康(長秀の弟。家督を継ぐ)─持長─清宗と代々井川館に在った。
長禄年間(1457~1461)に清宗が金華山に林城を築いて井川城と兼帯する。清宗の長男長朝は林の館で誕生している。長朝の弟の光政が城代を勤めたともされる。

寛正6年(1465)長朝の代に井川城を修復して深志城と改名し、城代を置いた。府中(松本)は昔、深瀬と呼ばれ深志(ふかし)となったともされる。
永正元年(1504)長朝の子の貞朝の代に深志城の名のまま北方に築いた城に移した。
※移転した深志城は天文19年(1550)長朝の孫の長時の代に武田軍に攻められ開城し武田領となるが、天正10年(1582)に武田家が滅亡すると長時の子の貞慶が入って松本城と改名した。現在の松本城である。

井川城跡の祠 井川城跡案内板

櫓台跡の小祠と案内板
撮影時、ビニールシートの所は発掘調査を行っていた。

 小笠原貞宗は建武の新政の際、信濃守護に任ぜられ、足利尊氏に従って活躍し、その勲功の賞として建武2年(1335)に安曇郡住吉荘を与えられた。その後信濃へ国司下向に伴い守護として国衙の権益を掌握し、信濃守護の権益を守る必要からか、伊那郡松尾館から信濃府中の井川の地に館を構えたとみられる。
 井川館を築いた時期は明確ではないが、「小笠原系図」では貞宗の子長政が元応元年(1319)に井川館に生まれたと記されているので、鎌倉時代の末にはこの地に移っていたとも考えられるがはっきりしない。
 井川の地は、薄川と田川の合流点にあたり、頭無川や穴田川などの小河川も流れ、一帯は湧水が豊富な地帯である。現在の指定地は、地字を井川といい頭無川が濠状に取り囲んで流れており、主郭の一部と推定される一隅に櫓跡の伝承がある小高い塚がある。地域に残る地名には、古城、中小屋のように館や下の丁のように役所の存在を示すものもある。またこれらのほかに中道の地名もあり、侍屋敷の町割跡、寺などの存在から広大な守護の居館跡が想像される。(案内板より)

井川城跡所在地:松本市井川城1丁目

 

林古城 松本城天守閣

▲現代の林の城山と、松本城

林郷の兎田旧蹟碑

兎田旧蹟碑 兎田案内板

兔田舊蹟碑
江戸時代、徳川将軍家の正月元旦に出す兎の吸物の由縁、林藤助(とうすけ)が兎を得たという信州松本領内の廣澤寺門前、寺所有の5、6反程の田地を兎田(うさぎだ)と称して租税を免じられていたという。

明治8年に林村が里山辺村(現松本市里山辺)に編入される前まで「筑摩県筑摩郡林村[字]兎田」として兎田という小字が存在した。

筑摩郡古跡名勝絵図
▲古い絵図にも兔田が描かれている。

 徳川氏の始祖、松平有親・親氏父子がまだ世良田を名乗っていたころ、諸国放浪の途、この近辺に居を構えていた旧知の林藤助光政(小笠原清宗の次男)を頼ったのは、暮れも押し迫った雪の降りしきる寒い日であった。
 何をもてなすものとて無い藤助は、野に出てこの近辺の林でようやく一羽の野兎を見つけ、首尾よく捕まえて馳走したところ、父子は甚く感動して帰路についた。

 その後、家康の代に幕府を開くにおよび、「これはかの兎のお蔭」と正月に諸侯にお吸物を振舞うことを幕府の吉例にしたという。
 『林』の姓も徳川氏から賜ったものという。
 江戸時代この地は「免田」(めんでん)として税を免除されていた。

 徳川家年中行事歌合わせに、「をりにあえば 千代の例えとなりにけり 雪の林に得たる兎も」とある。
 林家は『松平安祥七譜代』の最古参家である。 (「兎田」案内板)

 林家の家紋「左三巴下一文字」。徳川氏より賜ったもので、「正月並み居る諸侯の中で一番にお杯を頂戴する家柄を表す」という。
 請西藩(千葉県)の地元では「一文字侯」と呼ばれていた。 (案内板上部の家紋の説明)

旧兎田渡橋 里山辺林郷兎田の山々
▲復旧した旧兎田渡橋と、寺山を背にした兎田
古跡として兎田と共に「兔橋」が記されている史料もある。
兎田旧跡碑の遠景左手前に林小城の城山、奥(東方)に林大城(金華城)のある東城山。

■旧請西藩主林忠崇の来訪
明治時代に林忠崇侯が林家ゆかりの信州を訪れ「里山辺村の八景」歌を詠んでいる。
兎田暮雪
 さやけくも昔を今に照らしけり 袖に露よふ城山の月

 

また、長野県では松本一本ねぎを兎の吸物に因む葱として紹介している。