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信濃の歴史・史蹟

請西藩林家祖先「献兎賜盃」林藤助光政の屋敷跡

林光政雪中に兔を狩図 林藤助屋敷跡
▲「林光政 雪中に兔を狩」図と、伝承林藤助屋敷趾 (『善光寺道名所図会』挿絵/兎田の案内板より)

林光政(三河林家。貝渕藩請西藩林家の祖)
呼名は藤助。信濃国(長野県)守護・府中小笠原氏の小笠原清宗の三男(または次男)で小笠原長朝(父と同じ信濃守)の同母弟。母は武田信昌の娘。
林城(はやしじょう。金華山城。父清宗の築城とされる)最初の城代とされる。
はじめ西篠七郎。鎌倉の足利持氏(第4代鎌倉公方)に仕え、長門守中務小輔と称した。
致仕(引退)後は信州の林郷(長野県松本市里山辺)で暮らし、徳川将軍家の祖先有親(ありちか)とその子二郎三郎親氏(ちかうじ。松平家の祖)を匿い、正月元旦に自ら狩った兎の吸物を供した
その後林藤助と称し三河国に渡った松平親氏に仕え、東三河の野田郡に居住した。
康正元年(1455)5月10日に三河国野田にて没。法名は光政院白巌良圭大居子。
※松平家・林家の開祖は伝承の域なので、諸説あります

林藤助光政は小笠原清宗の次男で、「兄の長朝が井川の館にあり藤助が城代として林城を守った」と伝わる。<兎田(うさぎだ)伝説>が有名で、後の徳川幕府安祥七譜代家のひとつ林家の祖である。この地より礎石らしきものや古式五輪塔が幾つか出土している。
この地に「御屋敷畑」の地名が残り、江戸末期の『善光寺道名所図会』にも当地と思しき場所に「林藤助屋敷跡」と記載されているところから、少なくとも江戸末期まで伝承が残っていたと推測される。
(屋敷跡の解説文)

善光寺道名所図会巻之一
林村 林藤助宅址兎田が描かれている。林藤助旧趾は龍雲山廣澤寺(りゅううんざんこうたくじ。広沢寺)門前を北へ伝い5~6丁。更に少し北にある注連縄が引かれた石の小祠が「御府」。廣澤寺の鐘楼も描かれている。

廣澤寺の鐘楼堂 6廣澤寺から見た景色
▲現在の廣澤寺の鐘楼堂の傍らにある龍雲山開創550年記念の碑には兎のオブジェ付き。
鐘楼堂から(絵の右奥から左前面方向)は、白くそびえる飛騨山脈がくっきり見える。屋敷跡は右手。写真左手には千鹿頭社の鳥居。

里山辺の林古城 里山辺の御府古墳跡
▲左写真の左が林城(金華山城)の東城山で、右の山に林小城跡、中央奥が大嵩崎(おおずき、おおつき)。右は御府から林藤助屋敷跡地を望む。

林村
奈良~平安はじめの頃、林郷は六郎という者が里長であった。
永正年間(1504~20)建築の深志城(ふかし。今の松本城)に属して水上宗浮、小笠原長時らが領するが、桔梗ヶ原の戦に破れて武田領となる。武田家滅亡後は小笠原貞慶(さだよし。長時の子)が下総国栗端へ転封となるまで領した。
江戸時代は松本藩領、版籍奉還で明治4年に松本県に属して後、筑摩(ちくま)県筑摩郡林村となり、
明治8年(1875)に里山辺村に編入され(明治12年より東筑摩郡)、昭和29年(1954)に松本市に合併。
現在も長野県松本市[大字]里山辺[小字]林として、林の地名が残っている。

旧請西藩主林忠崇の来訪
明治37年9月25日に林忠崇侯が林家ゆかりの信州里山辺村を訪れ、広沢寺の祖先小笠原氏の廟に詣で、歌を詠んでいる。

信州祖先光政公の狩せし兎田を見て
 見るにつけ聞くにつけても忍ふかな しなのの山の兎田のさと

※現地に残された書画には「聞くものことに」とある

* * *

林の小鳥ハクセキレイ 林小城の鹿 
林藤助屋敷跡を撮影したのが旧暦での十二月・新暦での二十日正月。果たして獲物は?
兎田辺りで近寄ってきた小鳥、ハクセキレイは、藤助の時代には長野には居なかったようだ。
屋敷の裏山(林小城跡の城山)では……なんと鹿の群れに遭遇! だが地元の人の話によると、この鹿達も近年、ニホンオオカミが居なくなって他所から移ってきて繁殖したらしい。
この時期冬眠(もしくは冬ごもり)中の獣が多く、有親親子が訪れたと伝わる旧歴十二月下旬から更に雪が深まる旧正月の頃は有親父子の逗留の食材探しに苦労しただろう。

里山辺の御府社・御府古墳跡

御府古墳跡 御府古墳跡案内板

▲御府(みふ)・里山辺九号古墳跡
古くより「六郎墓」の伝承があり、明治41年に千鹿頭神社に合祀されるまで、独立社の「御府社」として祀られていた。

千鹿頭神社に合祀された林六郎はこの近辺の林郷の里長で、延暦年間(782~806)に雨宮藤原諸継と共に蓬莱山鶴ヶ峰に千鹿頭神(ちかとうのかみ。諏訪の守矢神の御子)を勧請したとされる。
※案内板では田村将軍利仁(坂上田村麻呂と鎮守府将軍藤原利仁がモチーフか)の副将軍・藤原緒継(おつぐ。征夷大将軍坂上田村麻呂の後を受けて陸奥按察使となった藤原緒嗣か)としている

横穴式・無石槨の円墳で、縄文中期の土器の欠片が多数出土しているが出土品の時代差が大きく年代特定が困難だが、総じて6世紀中期頃と推定されている。
未確認ながら近くから古い墓石の「七基の五輪塔が出土した」とも伝わっている。

また、林城跡と林小城跡の間の大嵩崎(おおずき)辺りに林六郎屋敷跡がある。

請西藩林家の兎の吸物に因む松本一本葱

長野県認定「信州の伝統野菜」の一つ、太くて根元が曲がったのが特徴の「松本一本ねぎ」は、江戸時代から江戸への信州土産として親しまれてきたそうです。
それも請西藩林家と献兎乃記念碑記事で紹介した「兎の吸物」にまつわる、正月の吉祥を意味する野菜として知られていたとか。(長野県HP参照)

新まつもと物語プロジェクト内『松本一本ねぎ』ページ(http://youkoso.city.matsumoto.nagano.jp/food/?page_id=5043)で徳川家の先祖の有親(ありちか)親子を林藤助(はやしとうのすけ)がもてなした吉例として将軍家で正月に出す『兎の吸物といっしょに使われたのが、松本一本ねぎ』と、詳しく書かれています。

そば処吉邦の鴨南蛮蕎麦 そば処吉邦使用の松本一本ねぎ

▲早速、松本市のそば処 吉邦 (きっぽう)さんで松本一本ねぎ入りの鴨南蛮蕎麦を食べてきました。
葱といえば鴨。なかなかお目にかかれない肉厚の鴨がさっぱりとした一本ねぎと合って、脂もほどよく熱を溜めて体が芯まで温まります。

葱に興味があることを示すと、店主さんが松本一本ねぎのあれこれをお話してくださいました。
なんと厨房用の一本ねぎも見せて貰えました! 特徴通りに曲がっていて、泥を落とした白い肌がとてもつややかで綺麗ですね。霜にうたれた寒い時期、今が食べごろとのこと。
美味しいお蕎麦とためになるお話をありがとうございました!

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松本一本葱佃煮

松本から江戸……新宿へ帰る際のお土産には信州芽吹堂の『松本一本葱佃煮』を買いました。
青さ海苔との佃煮で、とってもご飯に合うんですよ~

信濃人の誇れる伝統の葱が、現代人にも広く伝わるといいですね。

諏訪大社[2]下社秋宮

諏訪大社下社秋宮鳥居

日帰りにつき、この時は御祭神が移っている秋宮のみの参拝でした。

諏訪大社千尋池

▲賣神祝ノ印が発見されたという千尋池。

諏訪大社下社秋宮神楽殿

▲巨大な注連縄の神楽殿
御柱をく為の一之宮御用縄が、茅の輪か、諏訪湖の主の龍神を模すものか蛇のように巻かれている。

諏訪大社下社秋宮幣拝殿

▲重要文化財の幣拝殿

諏訪大社下社秋宮の御柱

▲下社秋宮の御柱

下社の大祝は金刺氏。片倉小十郎景綱の白石片倉氏もこの金刺氏の出という家系図がありますね。

15年前くらいに古代史に没頭していて古の神々や氏族ゆかりの西国まで出てお社や古墳を巡ったものですが、残念ながら過去のフィルムはまとめてお焚き上げしてしまいました。
(古戦場や塚は私達にとっては史蹟でも世間では心霊スポットですからね…寺社でメモリーカードもお焚き上げをお願いできるんですよ!)
この記事の時も小さい携帯写メが多くてサルベージ断念。まさか老いてからこうして歴史サイトを開くことになるとは……
(2013年1月14日up)

諏訪大社[1]守矢資料館と上社

諏訪大社上社本宮

神様につかう言葉ではないでしょうけども、建御名方神が好きです。
いずれこのサイトでも扱う予定の中臣鎌足ら藤原氏の氏神と対立した経緯はありますが、好きなものは仕方がない。

 

対立といえばミシャグチ様。好きです、はい。日本人なので八百万の神々をお慕い申し上げまする。
守矢資料館の奥に広がる守矢家の敷地内に緑に囲まれたミシャグチ神社が鎮座しておりました。

神長官守矢史料館

神長官守矢史料館 http://www.city.chino.lg.jp/ctg/07190000/07190000.html

さてこのハイセンスな資料館は藤森照信氏の建築とのことで、若い学生さんがよく訪れるそうです。
私も建築デザインを見に来たのかと思われていましたが、寺と神社と地侍や一国の城主の関係についてこそこそ話しているうちにこちらの目的が分かって、現代の守矢家についてお話を色々と聞かせてもらえました。
それに前調べしたネットソースでここから見える裏山のことが腑に落ちなかったのですが、該当情報が間違ってることが確認できてすっきり。実際に地元を知る人に聞くのが一番。

守矢資料館のしおり

入館スタンプの日付は平成十七年ですね。

 

諏訪大社上社前宮の御柱

▲諏訪の祭祀の発祥地とされる諏訪大社上社前宮の御柱

諏訪大社上社本宮の御柱

▲守屋山麓に鎮座する諏訪大社上社本宮の御柱。

 

上社の大祝は諏訪氏。
土屋つながりで諏訪四郎勝頼周辺も好き、そしてこのサイトでまず高遠藩にも触れるので、雪が解けたらまた信州に訪れたいです。

(2013年1月14日up)