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信濃の歴史・史蹟

保科家ゆかりの高遠樹林寺

樹林寺本堂 保科正之公頌徳碑と母お静の供養塔

樹林寺の本堂と保科正之公頌徳碑・正之の生母お志津の供養塔
月蔵山(がつぞうざん)の北側、高遠城の鬼門(北東)に建ち、開山は高野山金剛頂院前住祐譽法院。
保科正之が出羽最上(でわもがみ。山形)藩として移封となるまで高遠城に暮らしたことから、平成2年6月10日に保科正之高遠城主就任360年を記念し会津松平家13代松平保定(もりさだ)氏の書で頌徳碑が建立された。正之の母、お志津(お静。浄光院)の供養塔が並んでいる。

■樹林寺と保科家
天正18年(1590)8月の家康の関東移封に伴い、高遠城主であった保科正直は、下総多古(しもうさたこ。千葉県香取郡多古町)に一万石を与えられて移封となった。
正直は隠居し、長男正光が保科家当主となる。

多胡で保科家の祈祷寺としていた樹林寺の本尊の夕顔観音は、昔、寺が火災で焼けてしまったが、村人が夢で見た夕顔の中に尊像が在るとお告げ通りに焼け跡の側の夕顔の中から立像がみつかったことから夕顔(ゆうがお)観音と呼び夕顔を刻み添えた伝承があった。
正直が樹林寺に祈っていた保科家の高遠再任が叶い、慶長6年(1601)正光は高遠へ転封が命じられた。

樹林寺も高遠へ移そうとしたが、多胡の村民に懇願されたために移設は取りやめ、代わりに樹林寺の観音堂の下の土を運ばせ、夕顔観音を写した立像を作らせて本尊にして、正光は高遠城の鬼門にあたる位置に同名の「樹林寺」を建立した。
正直は高遠に戻ったその年の9月29日に亡くなった。
樹林寺は、高遠に移ってから寺が出来あがるまでの間は高遠城二ノ丸の東の武具蔵の地に一時的に置かれたとも推測され、正直は熱く信仰していた夕顔観音に見守られての往生だったのかもしれない。

夕顔観音は境内の観音堂に安置され、慶長9年(1604)保科家が峯山寺より引いて建立したという護摩堂の本尊は不動明王。

 

■保科家以降の樹林寺
保科家の後の高遠藩主となった鳥居家、内藤家にも引き続き祈願寺として信仰され、内藤家の時代には京都東山総本山知積院の末寺となり、大日如来を本尊とした。
また伊那の壇林で、八十八々霊場の四十九番札所として信仰を集めた。
現在、千手十一面夕顔観世音菩薩立像は本堂に安置され、高遠町指定有形文化財となっている。

保科正之の生母お志津の供養塔 お志津の供養塔の刻銘

▲お志津の供養塔
寛永十二年 九月十七日
法紹日恵大姉淑霊
行年 五十二才 俗名 志津

お志津の方は天正12年(1584)小田原北条家の家臣神尾(かんのお)伊予栄加と杉田氏の母の間に生まれた。
天正18年(1590)に小田原城が落城すると栄加は浪人となり、お志津は秀忠の乳母大姥局(おおうばのつぼね)の奥女中として江戸城に上がった。
密かに2代将軍徳川秀忠の寵を受けて身ごもったのが幸松丸、後の保科正之である。

秀忠は正室のお江を大事にして表立って側室を持たずに過ごしていたので、お志津は秀忠が大奥の侍女に手をつてたことが公になることを恐れて身を隠した。
慶長16年(1611)5月7日、神田白銀町のお志津の姉の夫の竹村助兵衛次俊の家で、秀忠の知るところ無く江戸で幸松は生まれ、3歳になると老中土井利勝の保護のもと武田信玄の娘の見性院(けんしょういん)に預けられ、江戸城田安門内の田安比丘尼屋敷に住む。
元和3年(1617)7月、幕府の仲介で見性院が、元武田家臣で今は徳川家に誠意を尽くしている保科正光に7歳の幸松の養育を頼み、11月14日お志津と幸松は高遠へ向かった。
母子のため高遠城三ノ丸に新居を設えられ、大坂の陣で正光の異母弟正貞を助けた有能な家臣を守役にし、正光も在城の際には徳川将軍家の落胤として日に何度もご機嫌伺いをした。正光は生前にいずれは秀忠と幸松を対面させたいとも語ったという。

寛永12年(1635)9月17日、浄光尼(お志津)は52才で高遠城で息を引き取り、当時西高遠に在った妙法山長遠寺に葬られた。その翌年、正之は17万石の加増で出羽最上20万石を拝領し転封となる。
後に会津藩主となった正之はお志津の墓所を会津の浄光寺、更に身延山久遠寺(山梨県)へと移した。

樹林寺の総門 樹林寺から高遠城址を臨む

▲樹林寺の門前から高遠城址を撮影

真言宗智山派稲荷山真定院樹林寺(とうかざんしんじょういんじゅりんじ)
所在地:長野県伊那市高遠町東高遠2330

高遠の満光寺[1]保科左源太の墓

保科左源太と系譜略図

高野山成慶院『保科肥後守様御先祖御過去帳』に「法源院殿傅譽隆相大居士 信州高遠保科左源太御菩提也  施主同名肥後守様 寛永四丁卯十月三日但正月御命日
常燈御供養として「法源院殿傅譽隆相大禅定門 神義 同保科肥後守様御養子同銘左源太」と記されていることから左源太(さげんた)が保科正光(まさみつ。肥後守)の養子であったことは確かであろう。

満光寺鐘楼門と本堂 高遠最古の五輪塔保科左源太の墓

▲満光寺鐘楼門と保科正之(ほしなまさゆき)公の義兄弟左源太の墓
親縁山無量院満光寺(しんえんざんむりょういんまんこうじ)は天正元年(1573)笈往(きゅうおう)上人親阿芳公大和尚の開山で、昔は中町に在った。鳥居家が領した頃は浄土寺と改称し、享保17年(1732)12月十四世遺誉和尚が満光寺に戻したという。鐘楼門は牛久保流の大工菅沼定次の作とされ全て科(しな)の木を使用し善光寺になぞらえて建てられていることから「伊那善光寺」「信濃科寺(しなでら)」とも呼ばれた。

 

■保科家と左源太
武田家臣保科正直(まさなお)の嫡男正光は正室(真田安房守昌幸の娘。青陽院殿)との間に子が出来ず、側室も置かなかった。
※輿入れ時期は不明だが、天正10年(1582)の織田勢による武田攻めの際に救出され上田(長野県上田市)の真田昌幸の元へ身を寄せた理由が妻の実家と考えるとそれ以前で、正光は9歳から13年もの間武田勝頼(かつより)の子の信勝(のぶかつ。当時3歳)に仕えるために甲府に在って、言わば人質の状態から戦乱の波に呑まれた境遇のためとも考えられる
正直は、側室(光寿院。正重の母)の実家の小日向(おびなた。小比奈田)家に娘の一人(正光の妹)を嫁がせ、小日向源太左衛門との間に生まれた子、左源太を正光の養子に貰い受けた。つまり正光は甥を養子にとったことになる。

小日向源太左衛門は真田幸隆の長男(正光の妻の父真田昌幸/源五郎の兄)で天正3年(1575)5月の長篠の戦で戦死した真田源太左衛門信綱という説もあるが、確証は無い。
後世、内藤家時代の高遠藩の家老の葛上源五兵衛(くずかみげんごへえ)も満光寺を「真田左源太の菩提所廟所位牌…」と記しており、真田一族であったのは確かであろう。

天正10年の織田勢の侵攻で飯田城に居た保科正俊・正直親子は城の防備について武田家重臣と意見が対立し飯田を去り、高遠戦後に松本の小日向家へ、前述の通り正光も上田の真田昌幸の元へ身を寄せた。高遠の戦いでは正直の弟の善兵衛が討死している。
保科家臣赤羽俊房(あかばねとしふさ。甚六郎)が記した家伝、保科記と呼ばれる『赤羽記』に正光の母、武田家臣跡部越中守の娘も家臣と共に3月2日高遠城内で自刃し、満光寺住僧牛王和尚が遺骸を引き取り火葬しこの満光寺に埋葬したと記している。戒名は成就院殿願誉栢心妙大姉(後に北条家で害されたともされ、成慶院過去帳には「柏心妙貞禅定尼 天正十三年三月三日御命日…保科肥後守御慈母…」とある)

正直は実弟の内藤昌月を頼って上野箕輪城へ逃れ昌月と共に北条氏に帰属し高遠を奪還。
後に徳川方に転向し、家康から伊那半分の所領を与えられ、戦死した仁科信盛の後の高遠城主となった。
天正12年(1584)7月に家康の義妹多却姫を後室に迎え、天正16年(1588)5月21日高遠で正貞が生まれる。正貞は正光にとって腹違いの弟、左源太にとって年下の叔父にあたる。

天正18年(1590)家康の関東移封に従った保科家は下総多古(千葉県香取郡多古町)へ移封となり、正直は正光に家督を譲った。
※一方、真田家は徳川に歩み寄りつつ周囲の北条・佐竹・上杉氏を警戒しながら沼田等の領地を守る為の戦いを繰り広げていたが、家康に沼田領を北条氏に差し出すことを迫られた事から、昌幸は次男信繁を上杉景勝へ人質に送って上杉と手を結び、閏8月に北条・徳川の軍を上田で迎えうった。上田合戦の勝利を契機に豊臣政権に入り込み、豊臣秀吉の家臣となる。

文禄3年(1594)伝通院(家康生母)・家康・秀忠の前で、正光は7歳になった正貞を養子にするよう命じられた。既に養子の左源太が居るが、正貞は猶子の形で親子関係になる。
正貞は家康の外甥である血筋から、家康のそばで養育され、15歳で保科家嫡子が名乗る甚四郎に改名することとなる。

正光が再び高遠城主となって間もなく正直(正光と正貞の実父)が、その後正光の妻(真田昌幸の娘)が亡くなった。徳川家が積極的に後押しする中で、真田一族の血を引くことは肩身が狭かったであろう。
しかし後の行動で正光は左源太を気にかけ、正貞は行き場の無い正重母子を突き放しはしなかった

元和元年(1615)の大坂夏の陣では正光率いる保科軍の先鋒を正貞が務めたとする説の他に、正貞は不仲であった正光の軍には加わらずに本多忠朝(上総大多喜藩主。忠勝の子)に兵を借りて参戦したという逸話もある。

元和3年(1617)老中土井利勝の要請で、密かに匿われていた秀忠の落胤の幸松丸(こうまつまる。保科正之)が正光の養子として迎えられた。正貞は完全に廃嫡されたようだ。(幸松は「肥州(正光)には左源太という子がいるから行かぬ」と言い張り高遠入りを渋ったという逸話もある)
翌年、正貞の生母の多劫姫が亡くなる。

元和6年(1620)に正光は幸松に家督を譲る旨の書置で、正貞を厳しく絶交を言い渡す一方で、左源太には配慮を見せている。
遺言状の記された2年後に正貞は高遠を去り、正光の養子としては左源太と幸松が残った。

しかし寛永4年(1627)正月3日に正光よりも先に、左源太が息を引き取った。
病死とされるが、毒殺の噂も伝えられているようである。
左源太に関する資料は乏しく「丈ひくい小男であった」と伝えられている。

保科左源太の墓の南無阿弥陀仏 保科左源太の墓の刻銘

左源太の墓の五輪塔は在銘のものでは高遠で最も古いとされ、正面に「南無阿弥陀佛」
台石に「傅譽(伝誉)隆相」「寛永四」「丁卯・正月三日」と刻まれている。

満光寺所在地:長野県伊那市高遠町高遠975

松本藩・高島藩領に分かれた千鹿頭神社

林・大嵩崎側鳥居 神田千鹿頭神社鳥居
▲林側の鳥居と、神田側の朱色の鳥居
千鹿頭(ちかとう)神社は、古くは先の宮(まづのみや、さきのみや。祭神は大己貴命と大国主命、または猿田彦命。現在のあずまや付近)に在ったのが天文年間の武田氏との戦いで社殿が焼失、
その後現在の位置に移され、林城主の小笠原氏を始め松本藩主の尊崇、寄進や村々への神役賦課等を受けて隆盛しました。

千鹿頭神社の社殿 千鹿頭神社沿革
▲藩の境界に並んで立つ一間社流造の千鹿頭神社本殿と神社沿革
元和4年(1618)に千鹿頭山(ちかとうやま)の分水嶺(ぶんすいれい)で、神田村より南側の松本藩領5千石が諏訪高島藩(諏訪藩)領へと分割されて、両藩の境に二社の社殿が並んで建つことになりました。
向かって左が林と大嵩崎(おおつき)の社殿で元文5年(1740)松本藩第2代藩主松平光雄によって、
右が高島領・神田の社殿で正徳5年(1715)高島藩第4代藩主諏訪忠虎の寄進により造営され、松本市重要文化財に指定されています。かつては茅葺の屋根でした。
例祭、卯年と酉年の御柱大祭(松本市無形文化財)を同じ日に行い現在に至っています。

林千鹿頭神社の神紋梶の葉 諏訪氏の四本足に三本梶紋 林千鹿頭神社の林の角字紋
▲林側の神紋は保科氏のように諏訪の神氏から分かれた家系の「一葉梶(立梶の葉)」紋
神田側では高島藩主諏訪氏(諏訪神社上社大祝/おおほうり系)の諏訪梶の葉紋「四本足に三本梶」が見られます。他に林・神田それぞれの角字も掲げられ写真は林の角字紋です。

 

千鹿頭神社の創立は詳らかではありませんが「延暦年間(782~806)に田村将軍利仁の副将軍藤原緒継と林の里長六郎公が“うらこ山”より現在の地に、諏訪の洩矢(もれや、もりや)神の御子の千鹿頭神(ちかとう、ちかとのかみ)を移し祀った」と郷土誌や案内板に書かれています。

洩矢神は本来の諏訪の土地神で、天津神との国譲りで破れて諏訪に至った国津神の建御名方命(大国主神の御子。諏訪大神と同一視される)と対峙し、降伏したといいます。
その子の千鹿頭神は諏訪大神のもとで鹿の狩猟をよく行っていたことからこの名がついたとし、諏訪の有賀の千鹿頭神社(浜南宮)では酉の祭(御頭祭)ごとに鹿の頭を社に集めて諏訪神社に送ったと伝わっています。
守矢氏の系譜『神長(じんちょう)守矢氏系譜』では洩矢ノ神──守宅ノ神(守田ノ神)──千鹿頭ノ神─…としています。

千鹿頭神社御柱 第三位御柱 第四位御柱
▲千鹿頭神社の御柱。拝殿前に第一位・第二位の御柱、本殿裏に第三位・第四位の御柱が立つ。
諏訪大社(南方刀美神社/みなかたとみのかみのやしろ)は建御名方富命とその后(八坂刀売神。下社)とされ『諏訪明神縁起画詞』に75匹の鹿の頭を神前に供える御頭(おんとう)祭は三月酉の日、御柱を曳く御柱祭は寅申の年七年に一度とあります。
林と神田の千鹿頭神社の御柱祭が「卯年・酉年の五月」に行われるのは、御頭祭の酉の日と、卯(うさぎ)の日は…林郷の狩りにまつわる兎田伝説がルーツでしょうか?

 

享保年間の石祠 千鹿頭池
▲本殿の裏には小さなお社があり、麓の和合の池は水鳥が雪を避けて仲良く並んでいました
摂社の服(はて)神社は古の鎮守神で祭神は建御名方(たけみなかた)命、王子稲荷は林城・深志城(松本城)から移され、祭神は倉稲魂(うかのみたま)だそうです。
宿世結神(しゅくせむすびのかみ)は林六郎公の息女・うらこ姫としていますが『神長守矢氏系譜』では千鹿頭神の后神を宇良子比売命(うらこひめのみこと)としています。

神長守矢氏の祀るミシャグジ神が諏訪神・守矢神双方ともに重ねられ、『諏訪神社誌』では千鹿頭神を「建御名方神の御子(母は八坂刀売神の妹の八坂入姫ともされる)内縣神(うちあがたのかみ)の別名、または八縣宿禰命(やのあがたすくねのかみ)の別名で建御名方神の孫」とし、有賀千鹿頭社の祭神は『豊田村誌』では千鹿頭神と記されていますが、一般には内県神が祭神と紹介されているので、うらこ姫も混合されているのでしょうか。
宿世は前世からの宿縁の意味なのでまさに縁結びに相応しい神名ですね。

逢初川ノ図

『逢初川ノ図』には「女亀山」と「男亀山」が並び「産霊ノ神」と描かれており、村記にこの産霊社の祭神は高皇産霊(たかみむすび)神と記されています。
『古事記伝』ではムスは生(むす)とし、他に俗説として娘・息子のムス、二柱神の対である神産霊(かむすび)神は女神(または高皇産霊神と同一)とも解釈されています。
民間信仰で産土(うぶすな。産須那。その土地の神)神の崇拝と共に産霊(むすひ)を結びとして縁「結の神」ともされます。現在の摂社としての宿世結神もこの形と思われます。

千鹿頭池(和合の池)は「浦湖」で、千鹿頭神社と先の宮のある「鶴峯」の南に「浦湖山」と描かれています。
浦湖山は同じ位置で明治時代の郷土地図には「浦子山」の字で書かれていますが、社殿のうらこ山やうらこ姫のうらこと同義でしょうか。

『春雨抄』に「しなの(信濃)なるあひそめ川のはたにこそ すくせ(世)むすひ(結び)の神はましませ」と読み人知らずの歌があり、これを『信濃地名考』では小県(ちいさがた)郡の男神岳・女神岳より出る相染川のことで、この縁結びの神に未通の男女ならば情事の願い事が叶うと解説されていいます。
千鹿頭山にも男女の亀山が並んでいるので、類似していますね。

諏方上社『社例記』に延暦14年に坂上田村麿が諏訪明神に神馬を奉じたとあり、東夷征討を成し遂げた後、田村将軍に従軍した諏訪有員(ありかず。諏訪大祝の祖)が社を造営した伝承もあるので、諏訪系の縁起が変化したものかもしれませんし、千鹿頭神社伝承の「遠征に出る宮人と土地の里長・縁結びの神となった里長の娘」と重ねていくと想像は尽きません。

千鹿頭山公園案内図 河童のマーク
他、碑や小祠が多くて写真を載せきれず…古くから現代までこの土地で崇められてきた証拠ですね。

「わきておる人のためとやしら雲のうらこの山に咲ける梅ヶ枝」後九条内大臣(九条基家)
「たちぬはぬ錦とそみるから衣うらこの山の秋のもみぢは」後一条入道関白(一条実経)

千鹿頭山森林公園所在地:長野県松本市神田~松本市里山辺

小笠原家の館「井川城」跡

井川城跡 井川城跡と濠

井川城跡(松本市特別史跡)
旧小島村(現松本市井川城)にあり、小島城とも呼び、井の字に四方を水流に囲まれているため井川館と名がついたとも言われる。
明治の地図で遺構は井川の流れの西沿いに位置し回字形、東向きで、南北72間・東西50間。
東南角に高さ六尺・南北6間・東西7間3尺の櫓台趾が残っている。

建武2年(1335)8月14日に伊那松尾館(長野県飯田市)の小笠原貞宗が信濃国の守護職となり、足利尊氏の命で井川館に新城を構えて移り統治したとされる。
以降守護職として小笠原政長─長基─長秀、政康(長秀の弟。家督を継ぐ)─持長─清宗と代々井川館に在った。
長禄年間(1457~1461)に清宗が金華山に林城を築いて井川城と兼帯する。清宗の長男長朝は林の館で誕生している。長朝の弟の光政が城代を勤めたともされる。

寛正6年(1465)長朝の代に井川城を修復して深志城と改名し、城代を置いた。府中(松本)は昔、深瀬と呼ばれ深志(ふかし)となったともされる。
永正元年(1504)長朝の子の貞朝の代に深志城の名のまま北方に築いた城に移した。
※移転した深志城は天文19年(1550)長朝の孫の長時の代に武田軍に攻められ開城し武田領となるが、天正10年(1582)に武田家が滅亡すると長時の子の貞慶が入って松本城と改名した。現在の松本城である。

井川城跡の祠 井川城跡案内板

櫓台跡の小祠と案内板
撮影時、ビニールシートの所は発掘調査を行っていた。

 小笠原貞宗は建武の新政の際、信濃守護に任ぜられ、足利尊氏に従って活躍し、その勲功の賞として建武2年(1335)に安曇郡住吉荘を与えられた。その後信濃へ国司下向に伴い守護として国衙の権益を掌握し、信濃守護の権益を守る必要からか、伊那郡松尾館から信濃府中の井川の地に館を構えたとみられる。
 井川館を築いた時期は明確ではないが、「小笠原系図」では貞宗の子長政が元応元年(1319)に井川館に生まれたと記されているので、鎌倉時代の末にはこの地に移っていたとも考えられるがはっきりしない。
 井川の地は、薄川と田川の合流点にあたり、頭無川や穴田川などの小河川も流れ、一帯は湧水が豊富な地帯である。現在の指定地は、地字を井川といい頭無川が濠状に取り囲んで流れており、主郭の一部と推定される一隅に櫓跡の伝承がある小高い塚がある。地域に残る地名には、古城、中小屋のように館や下の丁のように役所の存在を示すものもある。またこれらのほかに中道の地名もあり、侍屋敷の町割跡、寺などの存在から広大な守護の居館跡が想像される。(案内板より)

井川城跡所在地:松本市井川城1丁目

 

林古城 松本城天守閣

▲現代の林の城山と、松本城

林郷の兎田旧蹟碑

兎田旧蹟碑 兎田案内板

兔田舊蹟碑
江戸時代、徳川将軍家の正月元旦に出す兎の吸物の由縁、林藤助(とうすけ)が兎を得たという信州松本領内の廣澤寺門前、寺所有の5、6反程の田地を兎田(うさぎだ)と称して租税を免じられていたという。

明治8年に林村が里山辺村(現松本市里山辺)に編入される前まで「筑摩県筑摩郡林村[字]兎田」として兎田という小字が存在した。

筑摩郡古跡名勝絵図
▲古い絵図にも兔田が描かれている。

 徳川氏の始祖、松平有親・親氏父子がまだ世良田を名乗っていたころ、諸国放浪の途、この近辺に居を構えていた旧知の林藤助光政(小笠原清宗の次男)を頼ったのは、暮れも押し迫った雪の降りしきる寒い日であった。
 何をもてなすものとて無い藤助は、野に出てこの近辺の林でようやく一羽の野兎を見つけ、首尾よく捕まえて馳走したところ、父子は甚く感動して帰路についた。

 その後、家康の代に幕府を開くにおよび、「これはかの兎のお蔭」と正月に諸侯にお吸物を振舞うことを幕府の吉例にしたという。
 『林』の姓も徳川氏から賜ったものという。
 江戸時代この地は「免田」(めんでん)として税を免除されていた。

 徳川家年中行事歌合わせに、「をりにあえば 千代の例えとなりにけり 雪の林に得たる兎も」とある。
 林家は『松平安祥七譜代』の最古参家である。 (「兎田」案内板)

 林家の家紋「左三巴下一文字」。徳川氏より賜ったもので、「正月並み居る諸侯の中で一番にお杯を頂戴する家柄を表す」という。
 請西藩(千葉県)の地元では「一文字侯」と呼ばれていた。 (案内板上部の家紋の説明)

旧兎田渡橋 里山辺林郷兎田の山々
▲復旧した旧兎田渡橋と、寺山を背にした兎田
古跡として兎田と共に「兔橋」が記されている史料もある。
兎田旧跡碑の遠景左手前に林小城の城山、奥(東方)に林大城(金華城)のある東城山。

■旧請西藩主林忠崇の来訪
明治時代に林忠崇侯が林家ゆかりの信州を訪れ「里山辺村の八景」歌を詠んでいる。
兎田暮雪
 さやけくも昔を今に照らしけり 袖に露よふ城山の月

 

また、長野県では松本一本ねぎを兎の吸物に因む葱として紹介している。