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会津藩主松平家の別荘「御薬園」

御薬園 御薬園案内板

▲会津松平氏庭園 御薬園(おやくえん)
室町時代に霊泉が湧きだした地に建てられた別荘地を会津に入った保科正之が庭園を整えて保養所とし、寛文10年(1670)に二代藩主正経が薬草園をつくり、三代藩主正容が朝鮮人参の栽培に成功して「御薬園」と呼ばれるようになった。国指定名勝。

 

慶応4年(1868)2月22日九代藩主松平容保(かたもり)は会津に帰るとすぐ家督を養子の喜徳(のぶのり。徳川慶喜の義弟)へ譲って城外の別邸御薬園に屏居し(延壽寺とも)謹慎の意を表したが、京都政府には受け入れられなかった。

鶴ヶ城開城後、この御薬園では容保の子供、長女の美称子(峯、みね。厚姫)、長男の容大(かたはる。慶三郎。会津松平家を引き継いだ斗南藩主)・六男の恆雄(つねお。政治家となる)が生まれている。

・明治2年(1869)3月21日、側室名賀(喜代。弘化元年1月5日生まれ、川村家)との間に厚姫が誕生。
・同年6月3日、側室佐久(さく。弘化3年生まれ、田代家。明治11年には七男の保男も生む)との間に慶三郎が誕生。
・明治10年(1877)4月17日、側室名賀との間に恆雄が誕生。(東京市谷邸生まれとも)

 

所在地:福島県会津若松市花春町8-1
ちょうど今日の大河ドラマで御薬園が放送されたのでコラムとして取り急ぎup。外観のみですみません

会津藩主松平家御廟[1]

松平家廟所拝殿 松平家廟所案内地図

拝殿

会津藩主松平家歴代の墳墓の山は、会津藩初代藩主保科正之(ほしなまさゆき)の嫡男・正頼(まさより)が亡くなった明歴3年(1657)に院内山に開かれ、保科松平家の墓所に定められたと伝えられている。

二代保科正経(まさつね。享年36歳・在位13年)は仏教で、頂上の入峰墓所には三代保科正容(まさかた。松平に改姓し会津葵紋を制定、享年63歳・在位51年)から九代容保(かたもり。享年59歳・在位17年)まで神式で葬られており、ほかに家族や子孫の墓もある。
神道の廟所は碑石・表石・鎭石からなっている。

院内への入口 碑石

松平家院内御廟(まつだいらけいんないごびょう)への入口と三代正容からの碑石
碑石を支える亀石は、初代保科正之が眠る猪苗代の見禰山(美祢山、後に土津神社を建立)がある北の方角を向いている。
碑石の奥の高い場所に灯篭と表石、その上の墳丘に八角形の鎮石(実際の御墓)がある。

保科正之嗣子正頼の墓 中の御庭 二代正経 

▲保科正之嗣子正頼の墓と西之御庭・中之御庭(歴代藩主の側室や子女の仏式墓所)、二代正経の墓

三代正容 四代容貞 五代容頌

▲三代正容、四代容貞(かたさだ。享年32歳・在位20年)、五代容頌(かたのぶ。藩校日新館創設、享年62歳・在位56年)の墓

六代容住 七代容衆 八代容敬

▲六代容住(かたおき。享年28歳・在位5ヶ月)、七代容衆(かたひろ。享年20歳・在位17年)、八代容敬(かたたか。享年47歳・在位31年)の墓

九代容保 松平家の墓 松平家の墓誌

▲九代容保、松平家の墓と墓誌。容保の義姉の照姫もここに改葬された。

会津藩主松平家墓所(院内御廟・国指定史跡)
所在地:福島県会津若松市東山町大字石山字墓山

愛宕神社の松平容保公の像

愛宕神社の容保像 天寧寺からの鶴ヶ城

松平容保公の胸像と愛宕神社から天寧寺への山間から見た鶴ヶ城

戊辰戦争の際には土方歳三戦傷祈願に訪れています。
その頃に鶴ヶ城を眼下に見守れる場所、神社南の天寧寺へ近藤勇の墓を建てたのでしょう。

愛宕神社狛犬 愛宕神社

愛宕神社
里谷池沼の大蛇を鎮める為に京都愛宕(あたご)山の神社の分霊を勧請したという社伝です。至徳元年(1384)に宮町、天正18年(1590)に蒲生氏郷が現在の場所に遷座。上杉領の頃は直江兼続が崇拝したそうです。

所在地:福島県会津若松市慶山2丁目43

興徳寺[1]秋月登之助墓所

興徳寺本堂 秋月登之助案内板

興徳寺本堂
興徳寺は戊辰戦争中に元桑名藩主松平定敬(さだあき。容保の弟)・旧幕府筆頭老中板倉勝静(かつきよ)等の宿舎となり、新撰組副長土方歳三も往来した。
宇都宮城攻防戦での戦死者追悼の為、旧幕府軍衝鋒隊が当時の本堂で慰霊の法要を参列者六百名のもとで営んだ。

 

会津藩士秋月登之助
天保12年(1841)頃生まれる。本名は、江上太郎種明。父は田島代官の江戸又八、16石3人扶持。
江戸で幕府や他藩要人と親交を結び会津のために尽したが結ばず、フランス式の調練を受け幕軍に入り、歩兵第七連隊に転入する。
江戸城開城の際には幕軍陸軍奉行の大鳥圭介らと江戸城に立て籠もり、義兵を挙げて江戸から西軍を退去させようとしたが、大鳥は登之助の志に反して幕軍を率いて会津へ向かうことを決めた。
大鳥に推されて伝習第一大隊長となり、土方歳三が参謀として常に登之助を謙譲しながら補佐したという。

宇都宮城奪回戦にて破裂弾の散丸で脇腹を負傷し、同じく負傷した土方と今市方面に護送された。
会津領内の田島陣屋(福島県南会津)に到着した秋月は、田島代官の父のもとに残る。

その後若松に入り、松平容保と共に滝沢本陣へ赴く。
再出陣した母成峠の戦いで敗戦し鶴ヶ城に入る。女子たちを城内に誘導し、二の丸辺りの馬上で抜身の大刀を振りながら「君に奉ずるのはこの時だ。婦人は内へ男は出て戦え」と叫びつつ西軍兵に打って出たと伝聞されるが、その後の消息は絶えた。

登之助は背が高く色白、巨眼好箇の偉丈夫で、濃紺の上着に緋絨のズボンを履き、胸間に紐長く呼笛を吊るして、部下の兵達に認められるようにと容姿を顕著にしていたという。

 

秋月登之助の墓 秋月登之助墓誌

▲秋月家・原田家・三原家合祀の墓
墓誌には「秋月登之助 明治十八年一月六日 行年四十四才」と刻まれているので、戊辰戦争当時は26~27歳位か。戒名は大心院義翁宗鉄居士。

臨済宗妙心寺派瑞雲山興徳寺(こうとくじ)
弘安10年(1288)鏡堂覚円大和尚が芦名盛宗に招かれ開山。
所在地:福島県会津若松市栄町2-12

参考図書
・『会津戊辰戦史
・早川喜代次『史実会津白虎隊

■■伝習隊と新撰組■■

※蒲生氏郷の墓はいずれ記事にします

長命寺-戊辰戦争の弾痕

長命寺 長命寺築地壁案内板

長命寺(ちょうみょう・ちょうめいじ)
慶長10年(1605)京都本願寺第十二世教如人が蒲生秀行に請い鶴ヶ城下日野町に「本願寺掛所」御坊建立、寛文7年(1667)この地に移り「長命寺」と改めた。

 

長命寺の戦い
慶応4年(1868)8月23日に新政府軍が鶴ヶ城下に押し寄せ、会津側は籠城戦に入る。
28日夜、補給路確保のため城外への出撃を決め、松平容保親子は佐川官兵衛らを黒鉄門(くろがね、鉄門)に召し出し酒肴の振舞いで激励した。この時360人が容保の前で血判し、官兵衛は銘刀正宗(まさむね)を賜った。

29日早朝、朱雀隊・砲兵隊・正奇隊・歩兵隊・進撃隊・別撰隊ら精鋭1500人の決死隊が二の丸屯所を出て本丸北の金蔵前に整列した。官兵衛は諸事情(前日の深酒とも)で遅れ午前7時頃に到着。容保は馬に乗って太鼓門前で見送った。
官兵衛達率いる9隊の藩兵は西出丸の西大手門を出て、外郭の融通寺(ゆづうじ)町門へ至り、守備兵を攻撃しながら新政府軍が拠点とする長命寺へ猛進。
藩兵は寺を包囲するようにして急襲し、一時は陣地を占拠した。

しかし火力で勝る長州・大垣藩兵の反撃は凄まじく援軍も送り込まれ、激しい銃撃に晒され奪還されてしまう。

正午頃に苦戦の報を受けた容保は、官兵衛が捨て身に出ることを予感して平尾豊之助を呼び官兵衛を制止するよう命じた。
午後2時頃までに会津兵は撤退。会津側では百名以上が戦死し多くの負傷者を出す激戦であった。

この後官兵衛は補給路確保と会津の起死回生の為、城に戻らず野戦を繰り広げる。
多くの犠牲と村民の協力で補給路が切り開かれたが、籠城を続ける鶴ヶ城は激しい砲撃に晒されることとなる。

長命寺築地壁 長命寺築地壁弾痕

▲弾痕が残る築地塀
本願寺直轄寺院であった長命寺の「白線の五條の築地塀」は、最高の寺格を示す。
土塀は平成4年に修復されたが、弾痕跡は当時のままに残している(市指定文化財)

戊辰役会津藩士戦死者墓

会津藩士の遺骸は埋葬を新政府軍が許さなかったため翌年まで放置された。
埋葬許可の下りた阿弥陀寺には約1300体、長命寺には145体が埋葬されたという。

所在地:福島県会津若松市日新町5-51

※「埋葬を禁じられた」のは事実ではないとの主張もありますが、会津側の記録と当時の風俗・価値観はこうであったのだろう…との意味でそのまま書きました。戦没者達を悼みます