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不二心流中村一心斎碑文

地蔵院の中村一心斎碑文 不二心流中村一心斎碑の刻文

中村一心斎供養碑
不二心流開祖の中村一心斎が嘉永7年(1854)10月3日赤荻村(千葉県成田市)で没し善福寺に葬った後、一心斎が剣を教えた西小笹村(匝瑳市)地蔵院と木更津村(木更津市)成就寺に分骨し大河内家を中心に門人達が葬儀を行った。
慶応2年(1866)10月不二心流二世の大河内縫殿三郎(幸安)親族と門人達の連名で一心斎の供養碑が建立された。
地蔵院は大河内家祖先伊藤河内守為安の白い愛馬を祀った伊藤(大河内)家縁の堂宇である。

妙はその子に譲られすつき穂かな

中村一心斎肥之島原城之人也姓藤原字一知身長六尺二寸美髭三尺五寸清正公之後云々先生竹馬歳始學劒法不遊他技既而訪師于四方從問從學遂究諸流之淵原矣後来于東部入鈴木重明之門開教場於八町堀教育子弟二三千諸侯聞名重聘者多然而固辞不仕焉悠然貫適意其他周遊而欲貽術於天下以成言鍛錬之心忠孝旡二之志報國體旡窮之恩也北總漁村岩井石橋氏盡禮敬而迎先生吾兄弟共從事濤川氏向後氏又教育一日先生語曰剣法體用未得自然文政戌寅之夏登駿之富峰行氣断鹽穀食百草而禱祈一百日季秋二十六夜非睡非覺身心豁然有得焉夫吾心精一則天地心精一豈有二心哉於是新號不二心流爲師術之表吾兄弟事先生積年親猶子世故所得悉傳與因開鍛錬場而以教授千時安政甲寅十月二日卒埴生郡赤萩鵜澤氏行年七十又三也荼毘以葬此地謚淨念雲龍今當十三諱辰門人來會謀不朽亦欲後生不忘先生之得澤書大䊠于時慶応二年十月也

大河内幸安
同  芳安
同  安道

経年磨耗して判読し難いため『続日本武術神妙記』の「中村一心斎碑文」を引用した。

中村一心斎碑の大河内署名部分 中村一心斎門人者名大河内総三郎

▲表面の大河内幸安らの署名部分。裏面に大勢の門人名が刻まれている。
表と同様に門人名も一部消えかかっていて確証はつかめないが、大河内総三郎(不二心流三世・幸経)と阿三郎(不二心流四世・安吉)の名にも読める。

 

* * *

上記の日本武術神妙記が今年、正・続編を併せて安価で読み易くした(ここで引用した碑文の旧字も現代語に置き換えられている)文庫本が出版された。中村一心斎や他剣豪の言い伝えが纏められているのでお勧めしたい。
著者の中里介山(なかざとかいざん)は、甲源一刀流の巻で中村一心斎が登場する小説『大菩薩峠』の作者でもある。

角川ソフィア文庫『日本武術神妙記』中里介山著

■■不二心流と木更津「島屋」■■

【不二心流二代目】大河内縫殿三郎

不二心流大河内縫殿三郎の夫妻の墓所

大河内縫殿三郎と妻喜佐子の墓標
※現在は個人の方が管理しており撮影・WEB公開許可を得た墓碑のみ掲載しています。
 詳細を求める問合せはご遠慮下さい。

 

万延元年(1860)の『武術英名録』に不二心流二世の縫三郎(縫殿三郎)の名が記されている。幸左衛門と市郎(一郎)は弟親子で木更津島屋当主として島屋道場で不二心流の剣術を教えた。
冨士心流 上総国望陀郡木更津
     大河内 縫三郎
      同  幸左衛門
      同  市郎


大河内縫殿三郎藤原幸安
おおこうちぬいさぶろう。縫殿之助、縫之助とも。号は三朗。
寛政2年(1790)下総国小笹村で伊藤喜左衛門安吉の嫡子として生まれる。母は豊子。
後に地域の領主である旗本の菅沼氏から大の字を賜り大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)と姓を改めた。
妻は河津信行の娘、恵以子(のち喜佐子に改める)。

不二心流開祖中村一心斎門下一の剣の腕を持ち、一心斎の猶子となって正統二代目として文政年間に江戸八丁堀不二心流道場を継承した。

上総国望陀郡木更津の南町で弟の大河内幸左衛門藤原幸芳が営む紺屋島屋の敷地内と、八幡町の八劔八幡神社境内に道場をつくり、一心斎が木更津に隠棲している間共に指導にあたった。
縫殿三郎は周准郡富津村の代官森覚蔵(上総での任期1823~1840)管理下富津陣屋にも出向き、また請西藩士にも教授したという。
西小笹の実家の道場にも一心斎を招いて、上総・下総地域に広く不二心流を広めた。
慶応2年(1866)10月、嘉永7年に没した一心斎の碑を西小笹に建立

慶応4年(1868)戊辰戦争の幕開のこの年2月下旬に幕府撒兵隊の福田八郎右衛門の使者が大河内家を訪ねてきた。
勤王勢力に徹底抗戦する主張に高齢の縫殿三郎は静観したが、息子や甥達は撒兵隊に協力する意思を固めて義勇隊を結成する。縫殿三郎の「行先はめいどの花と思へども 雪の降るのに桜見物」の句を以って見送ることとなった。

戦後の明治2年(1869)に、戊辰戦争の義勇隊長を務めた三男の阿三郎(大河内正道)と上総武射(むさ)郡成東で再会を果たす。
明治4年(1871)6月24日に東京市芝区芝山内旧粟田口青蓮院宮入黒道役所(現東京都港区)内で没した。82歳。
駒込蓬莱町海蔵寺(かいぞうじ)に葬られ、成東元倡寺(がんしょうじ)にも分骨した。宝樹院成壇幸安居士。
死後20年後に飽富神社に奉献された不二心流振武社の奉額には縫之助の名で筆頭に記されている。

駒込大智山海蔵寺山門 大智山海蔵寺社殿
▲曹洞宗大智山海蔵寺
海蔵寺所在地:東京都文京区向丘2-25-10

 

尚、『函館戦争記』等複数の箱館戦争史料に従軍者として大河内三千太郎と共に記され戦死している「大河内縫殿三郎(縫之助)」は不二心流門人達の証言では誤記ではないかとされている。大河内一門で実際に義勇隊として戦った「大河内縫之進」のように似た名前の別人の誤記か、縫殿三郎幸安から継いだ通称かは不明。(現在調査中)

■■不二心流と木更津「島屋」■■

不二心流と木更津「島屋」(まとめ)

木更津鳥瞰図で見る島屋と戊辰戦争
観光パネル昭和11年松山天山写生『千葉縣木更津町鳥瞰圖』に大河内家関連跡地・所在地を上書

不二心流の流祖・剣豪中村一心斎と、不二心流を継承した大河内一族、木更津の紺屋「島屋」と
戊辰戦争で徳川義軍に関わった経緯等のブログ記事まとめです。

不二心流
【不二心流開祖】中村一心斎の略歴と成就寺供養塔
不二心流「中村一心斎碑」
不二心流伊藤実心斎の供養墓
飽富神社の不二心流奉額
成東元倡寺の不二心流剣道碑
宮川熊野神社と不二心流
────他、追加予定

島屋と大河内家
木更津の紺屋・大河内幸左衛門「島屋」
大河内喜左衛門・幸左衛門の墓所
【不二心流二代目】大河内縫殿三郎(幸安)
【不二心流三代目】大河内総三郎(幸経)と寺町「志摩屋」
【不二心流四代目】大河内正道(安吉)と戊辰戦争義勇隊
大河内三千太郎(幸昌)[1]上総義勇隊頭取
大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる
大河内三千太郎[3]篤志・教育家としての後半生
空知集治監と看守長伊藤常盤之助のこと

 

■関連記事
結城藩成東陣屋跡地
糀屋村名主伊藤仁右衛門茂平碑

 


戦前の木更津八幡町。江戸時代に不二心流大河内家が在った(写真右の硝子店の建物辺)通り

※各記事は福田久一郎著『不二心流系譜並略伝』を元に、文中に明記した各参考史料と関連旧蹟の碑文や聞き取りで補足しました。ご協力ありがとうございました。

不二心流伊藤実心斎の供養墓

高谷延命寺仁王門 不二心流伊藤実心斎の供養墓

延命寺総門と「不二心流五代實心齊伊藤直行先生之墓
現在の総門はかつて参道にあった仁王門を移設したもの。
慶応4年(1868)8月に賊徒(旧幕臣と協力した村民による義兵)が延命寺に立て篭もり、上総諸藩の兵と交戦した。木更津近隣の村民が扇動されたのは、この地域で剣術修練が盛んであったことも起因するだろう。(飯野藩も出動しているため詳細は別途紹介予定)

 

伊藤実心斎直行
天保9年(1838)不二心流正統大河内氏と同じく、下総国匝瑳(そうさ)郡共興(きょうこう)村(千葉県匝瑳市)で生まれる。
上総国望陀郡木更津村(千葉県木更津市)の島屋(当主は大河内幸左衛門)の道場で不二心流2代目大河内縫殿三郎や木更津に隠棲中の不二心流開祖中村一心斎に剣術を学ぶ。
望陀郡高谷村(袖ケ浦市)の御園家の食客となり、下総・上総国内で広く不二心流の剣を教えた。

一方、大河内家は不二心流四代目大河内正道(縫殿三郎の三男)が結城藩に成東陣屋(山武市)へ招致され、直心影流の榊原鍵吉(さかきばらけんきち)らと撃剣興行にも加わり廃刀令後の撃剣再興に努めた。成東で正道の弟の家に養子に入った過去もある伊庭兵二(正高。成東出身)が正道から5世を継ぎ、実質の正統となる。
中村一心斎の「剣術」の門人は下総・上総に多く在り、免状を拝受した幾人かの皆伝者がそれぞれ5代目として不二心流の技を受け継いでおり、伊藤実心斎は上総郷里の伝承者として「不二心流五代」と刻まれたのだろう。

大正12年(1923)12月28日に伊藤実心斎は85歳で天寿を全うした。
多くの門人に指導し慕われた実心斎のため立派な供養碑が高谷延命寺(ご子息が住職となっている)の参道脇に建てられた。
伊藤直行の名は「剣道」指導者となった門人達が語り継いだ。

飯王山延命寺 所在地:千葉県袖ケ浦市高谷1234

■■不二心流と木更津「島屋」■■

不二心流「中村一心斎」成就寺供養墓

成就寺門石左 成就寺門石右 成就寺内石
成就寺の剣聖中村一心斎供養塔
南無妙法蓮華経 法界
安政二年四月建之  満足山 四十三世 日涼

一心淨念曇龍居士 中村一心斎為菩提
智徳院妙勇大姉 俗称芳為菩提
大河内氏  熱田氏

大河内 幸左エ門
同   孫左エ門
同   總三郎
友野 七左エ門

安政2年(1855)4月建立。紺屋「島屋」大河内幸左衛門と一族の名。島屋の当主は代々「幸左衛門」の名を継承している。『満足山成就寺史』によると熱田氏、友野氏は成就寺の有力檀家。
建立後に遭った南町の大火災「島屋火事」のためか右側が焼けているようである。

 

中村一心斎藤原正清
幼名は八平。通称は左膳(さぜん)、宮門(くもん)。名は正清。字は一知。号は一心斎、不二剣翁、加藤曇龍(どんりゅう)、不退転曇龍。行者名は藤開行。
碑文に「身長六尺二寸美髪三尺五寸」とあり長身の偉丈夫であったようだ。
中村家は加藤清正を祖先とし、代々高力(こうりき)家に仕え、寛文8年(1668)島原藩主高力左近太夫隆長が改易されると浪人となるが、高力家にかわって島原に移封された松平家に仕える。

天明2年(1782)八平は肥前国島原藩(長崎県)藩士中村八郎左衛門一直(かずなお。中村喜兵衛4代目)の次男として生まれる。
寛政元年(1789)8歳で島原藩士の板倉勘助勝武に浅山一伝流の兵法を学ぶ。
寛政10年(1798)17歳で島原藩士の花村小三郎の婿養子になり花村宮門と称す。
寛政11年(1799)6月21日、八平は20人扶持「中小姓」となる。12月8日江戸詰の義父に従い江戸に移る。江戸では都築(つづき)與平治と津田武太夫三全から武術を学んだ。
享和元年(1801)3月1日「御通番」となる。
文化元年(1804)病気を理由に島原に帰郷し実家で療養。花村家を離れたため中村宮門中村八郎左衛門一知を名乗る。
江戸に戻り剣術で丹羽家に仕えた後、神道無念流戸賀崎(とがざき)知道軒暉芳に随身。
文化3年(1806)麹町六番町鈴木派無念流道場・鈴木大学(鈴木斧八郎重明)の高弟となり3年の間「塾頭」となる。文政元年までに18の流派を極めたという。

文政元年(1818)6月10日に富士山へ単身登頂し100日の過酷な修行により9月26日不二心流(ふじしんりゅう)を立てた。富士浅間流(ふじせんげんりゅう)とも呼ばれる。
江戸八丁堀に構えた道場は門下が2千名ともされ隆盛した。
文政3年(1820)9月から10月まで島原に滞在した時の風貌は被布(ひふ)を纏い長剣を横たえ、頤から胸の下まで長く髭を伸ばし、象牙の環の耳飾を通し、錦の袋を垂れて髪を納めて、山伏のようだったと描写されている。この頃から一心斎と呼ばれるようになったようだ。
そして江戸に戻るも八丁堀道場を大河内縫殿三郎に任せ、東北を廻る。水戸笠間方面より下総へ向かう。
文政5年(1822)2月15日に下総国海上郡足川村で代官の岩井市右衛門とその子重兵衛に剣術教授。近隣の有力者にも指導した。

『日本武術神妙記』に伝聞であるが水戸藩での鵜殿力之助、若き海保帆平(かいほはんぺい)との仕合いについて、勝負つかずであったが老齢ながらの精力と、一心斎の神妙な立ち回りで精神的に圧倒し水戸公に賞賛された(直心影流の山田次朗吉談、ここでは要約)逸話が収録されている。
伝聞ではなく飯野藩剣術指南役の北辰一刀流森要蔵本人が「予弱年の頃、八州を遊歴せしに、中村一心斎と暫く剣友となり、相交はりたるなり。一心斎朝暮内観の法を修す。予又これに随ひて学び得たり」と、一心斎との交友と練気養心を学んだことを記しているように、内観の法の成果か老いても気力は冴え、不二心流を継承した大河内家が店を出した上総国望陀郡の木更津に在り、大河内家の本拠下総国匝瑳郡小笹村(千葉県匝瑳市)の道場と木更津の道場で指導した。

森要蔵と中村一心西斎
▲森景鎮(森要蔵)『劒法擊刺論』中村一心斎の記述

晩年の嘉永の頃(1848~)は妻を同伴して上総国武射郡屋形村(現山武郡横芝光町)の漁家、海保惣兵衛正義(海保沙崖)方に来訪、その後は忠左衛門の元に移る。屋形では十数人の門下がいたが、極意を授けたのは正義と忠左衛門のみであった。

忠左衛門家に妻を預けて、次は香取大宮司家を訪れ、最後は下総国埴生郡赤荻村(あこぎ、あかおぎ。千葉県成田市)の鵜沢家に移る。
嘉永7年(1854)10月3日鵜沢覚右エ門宅で死亡。享年73歳。赤荻村善福寺に葬った後、小笹村に分骨し大河原家を中心に門人達が葬儀を行い、碑を建立した。
木更津成就寺にも門人多数が集まり三日間剣道大会を開いて葬儀を行い分骨した遺骨を納めた供養墓を建立。戒名「一心清念曇龍大居士」

逸話として、一心斎はいつも蓬の粉末を飲んで壮健さを保っていたという。
後の有名な創作として、中里介山の時代小説『大菩薩峠』の甲源一刀流の巻で、中村一心斎が試合の行司役として登場している。

成就寺正面 成就寺俯瞰地図

▲現在の成就寺と門石、木更津鳥瞰絵地図の成就寺 ※鳥瞰図は木更津駅前パネルより
昭和4年『千葉縣木更津町鳥瞰』の門にも一心斎の供養塔が描かれている。

満足山寶珠院成就寺 (まんぞくざん ほうじゅいん じょうじゅじ)
応永33年(1426)2月8日に日運上人により創建。
所在地:千葉県木更津市富士見1-9-17

■■不二心流と木更津「島屋」■■