剣豪」タグアーカイブ

千葉周作「玄武館」と東條一堂「瑶池塾」跡

玄武館と瑶池塾跡地 玄武館址と瑶池塾址

玄武館址と瑶池塾址の顕彰碑
千葉周作はここに玄武館を開いて北辰一刀流の剣術を指南し、玄武館の西隣に東條一堂は瑤池(ようち)塾を開いて儒学と詩文を教授した。

 

 千葉周作は寛政6年(1794)正月元旦に陸奥国(宮城県)栗原郡荒谷村に生まれる。
 父幸右衛門に北辰夢想流の剣を学んだ後、義父浅利又七郎義信の門に入り小野派一刀流を修め、更にその師中西派一刀流中西忠兵衛に学び心気力三者一致の妙諦を悟るに至った。

 周作は家流の北辰夢想流の北辰と伊藤一刀斎の一刀流を併せて実用に適する組型を創定しこれを北辰一刀流とし、文政5年(1822)秋、江戸の日本橋品川町に北辰一刀流の道場「玄武館」を開く。
 文政8年、神田お玉ヶ池に八間四方玄関は破風造りの立派な道場を構えて移る。門下総数は5~6000名を下らないといい、嘉永年間に浅草観音堂に額を奉納した際の門弟の署名は3600余名。
 身分を問わず歳末の大試合の成績によって門弟達の次席を定め、森要蔵・庄司辨吉・塚田孔平・稲垣定之助(第一回は森要蔵・海保帆平・岡田金平・平手造酒破門後稲垣文次郎)ら「玄武館四天王」等の剣豪、清川八郎、櫻田良佐等を輩出。
 
 水戸藩主徳川斎昭、慶篤の二公に仕え天保6年(1835)水戸藩校弘道館に師範として出仕。
 安政2年(1855)12月10日病没、享年62歳。浅草誓願寺内の仁寿院墓地に葬られ、後に改装。明治44年に本郷区菊坂町(現文京区本郷)から移転した本妙寺(豊島区巣鴨)に墓が在る。
 周作は剛毅風貌魁梧、身長六尺に近く眼光炯炯として威厳があったという。

 周作のあとも玄武館では坂本龍馬、有村次左衛門等の多くの志士が薫陶を受けた。
 安政2年に久留米の剣客松崎波四郎が千葉の弟子との対戦後に「千葉(周作の次男の千葉栄次郎)の技は天下一品」と語ったことから『技の千葉』とも呼ばれた。
※北辰一刀流「玄武館」・鏡新明智流「士学館」・神道無念流「練兵館」の『江戸の三大道場』の呼称は後世の造語らしく、幕末には道場主を称して「三剣客」「三天狗」とのみ呼んでいたという。
 安政4年、隣の瑤池塾の土地を譲り受けて拡張し、三男千葉道三郎に引継がれた。

 

玄武館と瑶池塾の顕彰碑

▲右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)の碑文

 東條一堂は安永7年(1778年)11月7日、上総国埴生郡八幡原村(現在の千葉県茂原市八幡原)に生れる。名は弘。
 天明7年(1787年)江戸の古学者亀田鵬斎、寛政5年(1793年)京都の儒学者皆川淇園に学びに漢学の大家と成る。
 文政4年(1821年)に神田お玉ヶ池の玄武館の西隣に「瑤池塾」を開いて諸生に儒学と詩文を教授した。門人3000余名。
 一堂門下三傑と称された清川八郎・那珂五郎・桃井儀八(もものいぎはち)や安房国出の鳥山新三郎等多くの志士や、上総国出身の政治家高橋喜惣治等を輩出した。
 幕府の閣老阿部正弘を始め庄内藩等の各藩公に召され常に輿で送迎されたので「輿儒者」と称される。
 著書百二十部の中でも四書知言五辨等が有名。

参考図書
・かみゆ歴史編集部『大江戸幕末今昔マップ

北辰一刀流千葉周作門下の四天王「森要蔵」

森要蔵(ようぞう)は千葉周作門下の四天王と謳われた剣豪。
飯野藩中小姓・剣術指南役となる。号は一貫斎。諱は景鎮(かげちか)※初め惟鎮(これちか)と称した。
兵法に詳しく(上杉流であったという)、書家の香雪の門人ともされ書も秀でていた。

森要蔵の肖像画 飯野藩保科家江戸上屋敷と森要蔵道場
※肖像画像は大龍寺案内パネルより。要蔵翁の門人山田ゆか女が「森先生のおすがた」を記憶を辿り書き残した。

文化7年(1810)2月、熊本藩士森喜右衛門の六男として江戸の芝白金台にあった熊本藩細川家の中屋敷で生まれる。
やがて北辰一刀流・千葉周作門下となり、庄司弁吉、稲垣定之助、塚田孔平と共に幕末江戸三大道場の玄武館で四天王と謳われるほどの剣豪となった。
天保10年(1839)浪人となり(原因は飲酒が過ぎて主のお供に遅れた為と飯野に赴いた際に語った)、武者修行の旅に出た。細川侯から贈られた加藤清正像を背負って関東を巡り歩いたという。
遊歴中に不二心流中村一心斎と剣友となり、練気養心を学ぶ。

常陸国を訪れ土浦藩の剣術指南役に抜擢される。常陸笠間で36人の槍術の達人を負かせた時に要蔵も剣でなく槍術で応じて連勝したとも伝わっている。
しかしほどなくして常陸を去った。

天保11(1840)の夏頃に、妻と幼子の初太郎を連れて上総国飯野へ赴く。飯野藩主保科正丕の御前試合で勝利をおさめ、60石を与えられ飯野藩剣術指南役になった。
天保12(1841)頃、長女ふゆ(後に文)が生まれる。

保科侯は要蔵を高く評価し、飯野藩だけに留めておくのは可哀想だと考えて江戸に道場を開かせた。稽古をつける姿は雷を纏った龍のようだと評された。
その後も飯野藩の剣術指南役として月六回、保科侯に指南に上がった。

いつしか「保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森の要蔵」と囃されるようになったように正丕は要蔵を小藩に留めるよりも、その剣の腕を世に放とうと思い江戸麻布永坂の飯野藩の上屋敷近くに道場を開かせた。
永坂には過ぎたるものが二つあり 岡の櫻と更科のそば」との歌もある
『藤岡屋日記』によると永坂続きの今井村に在る表番医師岡仁庵の抱屋敷内の土地を借りており、当時の江戸切絵図には岡仁庵邸の北に森要蔵の名がある。
森道場門下は800人を越え(千余人とも)、繁盛したことの揶揄に「麻布永坂目の下なるに何故か保科さん森のかげ」と『(永坂続きの向こうに建つ森要蔵道場が目立って)保科邸は上手の方角にあるのになぜか影になっているシャレと森のお“かげ”で保科の名も上がった』様子を歌っわれた。

森道場の位置 永坂

▲飯野藩上屋敷・森道場の位置と、現在の永坂の森道場跡方面

安政2年(1855)12月13日に師の千葉周作が逝去し、浅草誓願寺に埋葬の際、要蔵は裃姿で馬に乗って現れて騎乗のまま主君保科正益(正丕の子、飯野藩十代目藩主)に成り代わっての一番焼香をした。周作の葬儀に大名の一人も参列しないことを嘆き、飯野藩もたてての行いに保科侯は悦んだという。

安政4年(1857)子の頃に70石に加増。飯野陣屋では濠外の北の割見塚の南に屋敷があったとされる。

様々な武芸の達人であった要蔵は、女子に薙刀や吹針まで教えていたと伝わる。
慶応元年(1865)5月13日に、広尾の飯野藩下屋敷で森要蔵指揮による女子調練が行われた。
屋敷の広場で18、9~30歳の化粧をした艶やかな飯野藩の女子たちが、大鉢巻を締めて長刀(薙刀)の稽古をした。動乱の時代ではあっても女子調練は珍しがられたことが『藤岡屋日記』に記されている。

慶応2年(1866)長州征討で藩主正益に従い、大坂からは別働隊となって旗本を引き連れて下ったという。

慶応4年(1868)戊辰戦争で要蔵は会津藩松平家と飯野藩保科家との関係(開藩当初からの親戚関係である)を重んじ、藩主正益の不在の折に留守を預かっていた家老らと黙約し閏4月末に脱藩する。
藩の同志と門弟たち及び次男の虎雄ら28名(38名とも)が要蔵の会津救援に同行した。

5月2日森要蔵の一隊は北上の途中、会津藩原田主馬の指揮下で大田原城(城主大田原勝清11400石)攻撃に参戦、硝煙蔵爆発で午後五時本丸突入前に退却。

大田原城址公園 大田原城の図

▲大田原城址(龍城公園)

白河口の戦いの際、森要蔵は下羽太の橘家に寄宿(奥羽諸藩の集落は会津・飯野などの連合軍である東軍を味方とみなし協力したという)
7月1日森親子と飯野藩兵は会津藩兵と共に羽太方面で官軍──板垣退助率いる土佐藩八番隊と戦う。
要蔵ははじめ下羽太で指揮をとっていたが、老齢の身を挺して進み出る。
父と歳が離れた虎雄は、平素から呼んでいたように「“おじいさん”きりこみますよ」と言って小太刀を振ってし鋭く斬りこんだが狙撃され斃れ、その後要蔵も藩士花沢金八郎と共に銃弾に撃たれ戦死した。要蔵享年60。虎雄は16歳。
親子の遺骸は羽太の大龍寺に葬ったという。(墓は大龍寺と富津市浄信寺の二か所にある)要蔵の戒名は精真院範応忠剣居士、虎雄の戒名は武嶽英剣居士。
28人の飯野藩士は良く戦い、8月23日以降の会津篭城戦に加わり開城後に猪苗代へ幽囚の身となった者は6名であったという。

森要蔵親子達の戊辰役戦死墓 戦死者の名前

▲飯野・会津藩士の供養墓である大龍寺の戊辰役戦死墓

森景鎮之墓 森景鎮の墓の碑文

浄信寺にある森景鎮(要蔵)の供養墓は明治7年門弟らが建立した。

 

要蔵の長女のふゆ(後にふみ。維新後に勝俣音吉に嫁ぐが死別)が野間好雄に嫁ぎ生まれたのが野間道場と講談社の創業者野間清治氏。
曾孫は講談社第2代社長の野間恒氏とアメリカでフェンシングの「タイガー・モリ」で知られる森寅雄氏。皆剣道の達人である。

参考図書
・中村彰彦『歴史に見る勝つリーダー
・富津市史編さん委員会『富津市史 通史』『富津市史 史料集2
・朝倉毅彦『江戸・東京坂道物語
・『麻布区史
他、記事内明記のもの、郷土資料(別途リスト準備中)

森要蔵については逸話が多いので、今後色々と書きたいと思います。