松平郷[3]高月院-松平氏祖先の廟所

高月院山門 高月院

本松山高月院(こうげついん)
浄土宗鎮西派白旗流。境内の「松平氏遺跡」は国指定文化財で、収蔵展示室には市指定文化財の高月院文書、弁財天の図、野風呂等が展示されている。

貞治6年(1367)7月に松平郷主在原信重が亡父信盛のために、足助次郎重宗の次男、見誉寛立上人(重政)を開山として「寂静寺」を号して創建、
永和3年(1377)信重の婿養子の松平親氏(ちかうじ)が寛立に帰依して本尊の阿弥陀如来像(安阿弥定朝の作という)や山門堂塔全て寄進し「高月院」と改め、菩提寺としたとされる。

天文年間に松平4代親忠(ちかただ)の5男(4子とも)超誉存牛上人(ちょうよぞんぎゅうしょうにん。京都の知恩院25代住職をつとめた)が隠居の形で7代住職となり、3男の長親(松平5代)が土地を寄付して廟を改装した。

慶長7年(1602)寺領100石を松平9代徳川家康より下賜され、以後幕末まで厚遇された。
寛永3年(1626)12月廟所・本堂修復料として1500両下賜され石垣等が新規積立られる。
寛永18年(1641)に江戸幕府3代将軍徳川家光により山門や本堂が建てられたという。

松平氏墓所 松平氏墓廟

松平氏祖先の墓所
歴代住職の墓地の一段高い石垣上にあり、墓域は50㎡。室町時末期の形式を備える。
墓塔は花崗岩製の宝篋印塔で、いずれも塔身や屋蓋の突起等が欠損している。

文政元年(1818)に11代将軍徳川家斉(いえなり)が修繕。
明治21年(1888)に元大和郡山藩主柳沢保申の500余円の寄進で石門と石塀を築造、木柵の玉垣を花崗岩の塀に改築した。
明治23年(1890)3月にも保申は墓地永久保存のための土地を寄付した。

松平太郎左衛門尉源親氏公墓(中央の墓塔、松平氏の始祖)
芳樹院殿俊山徳翁大禅定門 應永元申戌年四月二十四日逝去 年六十三

従五位下三河目代三河守松平太郎左衛門尉源泰親(右、松平2代泰親/やすちか)
良祥院殿秀岸祐金大禅定門 永享二庚戌年九月二十日逝去 年七十五

蔵人源親忠公室(向かって左、松平5代長親の母)
閑照院殿皎月珠光大禅尼 出雲守長親公母堂 永正三丙寅年八月二十二日逝去
……松平親忠の子が住職になった関係で、母の親忠夫人を祖先の陵墓に葬ったと思われる。

松平氏墓所の門 松平太郎左衛門尚栄の墓所

▲現在扉は新しく付け替えられ、柳沢保申寄進の葵紋の石扉は脇に置かれている。
松平氏の墓の下段には歴代住職の墓地と、松平太郎左衛門尚栄・重和二代と尚栄夫人等一族の墓地がある。
松平太郎左衛門9代尚栄(なおよし。松平太郎左衛門家中興の祖)
  観誉晴暗 承応3年(1654)2月24日没 84歳
松平太郎左衛門10代重和(しげふさ)
  善誉祐源 寛文4年(1664)正月15日没 58歳

所在地:愛知県豊田市松平町寒ヶ入44

松平郷[2]松平家・家康公産湯の井戸

産湯井戸の神木 家康公産湯の井戸

石塁で囲い石段を下りて水を汲むようにつくられ、当時には珍しく石板の蓋がある。

産湯の井戸についての伝承は多く、松平郷では松平家館(現在の松平東照宮境内地)の鬼門(艮/うしとら。北東)の方位に祀られている氏神・八幡宮(今の奥宮)の前庭にある井戸が、7つ存在した井戸のうち最も古く、在原信盛によって掘られ松平親氏の子の信広・信光(泰親の子とも)の頃から男子出産時の産湯に使った井戸と言われる。
天文11年(1542)12月26日に岡崎城で松平元康(竹千代。後の徳川家康)が誕生した時には、松平太郎左衛門家7代親長がこの井戸の清水を竹筒に汲んで早馬で岡崎城へ届け、元康の産湯に用いたという記録がある。
江戸時代には将軍御代替の際に諸国巡検使の巡検地として貴重な扱いをされた。

産湯井戸の門 産八幡宮

▲産(うぶの)八幡の宮(水神八幡)
この地は井戸の洞とも呼ばれ、在原信盛が井戸を掘った際に尊体(石)を得て祀り松平親氏が氏神として若宮八幡宮と称したとされる。
井戸は産湯の井戸・沙汰なしの井戸・奥の井戸と異名が多く、井戸水が濁ると異常事態の前兆とされた。
現在も4月の松平東照宮例祭の前夜の試楽祭で、産湯の井戸で浄水を御神水として神前へ供える「御水取り神事」が執り行われている。

二の井戸三の井戸 産湯井戸の由来

▲境内の二の井戸・三の井戸と産湯井戸の案内板

松平郷[1]德川家康の祖・松平氏発祥の地

松平親氏の銅像 松平氏遺跡案内

松平太郎左衛門親氏像
松平郷は江戸幕府創始者德川家康の祖、松平氏の発祥の地とされ、松平氏館・松平城・大給城跡(大内町)と高月院の「松平氏遺跡」は国指定史蹟に指定されている。
館跡地に松平家代々の産湯の井戸高月院に親氏・泰親の墓所がある。

松平氏は新田源氏の流れの世良田(せらた)氏の末裔という系譜は、徳川家の権威を高めるための後付と憶測もされているが、松平郷では「時宗の遊行僧・徳阿弥(とくあみ)が松平郷に入り、還俗して婿入りし松平太郎左衛門親氏を名乗った」とし、流浪前の経歴には殆ど触れていない。
松平郷園地には、領内の巡視をしている日常姿の親氏像が平成5年に建てられてシンボルとなっており、資料館の松平郷館には僧形の木像松平親氏座像(豊田市指定文化財)が展示されている。

■松平郷と松平親氏
松平の地は、後宇多天皇に仕えた公家の武士の在原信盛(ありわらののぶもり)・信重(のぶしげ)父子が足助庄「外下山郷」と呼ばれるこの地を領有し、京都から移って館を構えた時、周辺の野辺に松の木が生い茂る様子から家門の繁栄を思い「松平郷」に改称したという。※信盛は在原業平(なりひら)の19代後裔等、諸説ある。

遊行僧の徳阿弥は、父の長阿弥(ながあみ。有親/ありちか)、弟の祐阿弥(ゆうあみ。泰親/やすちか。息子とも)と共に信州を経て三河国に至り大浜の称名寺に住み、後に松平郷に入ったとされる。
初め西三河の坂井郷の五郎左衛門(後に酒井氏)の婿となるが嫁は子を生んで亡くなってしまったという話(『三河物語』等)もある。
永享元年(1429)徳阿弥は五郎左衛門との連歌の縁で松平郷の太郎左衛門信重と親しくなり、次女の水女姫と結ばれて信重の婿養子となった。
還俗し「松平太郎左衛門親氏」と名乗り、松平城(郷敷城)を本拠とし松平氏の初代となったという。

親氏の子の信広、信光(泰親の子とも)は泰親と共に三河平野に進出する為に岩津城を攻略したが、兄の信広は足に重傷を負い松平郷に留まり松平太郎左衛門家の祖となった。
信光は岩津城主となって西三河に勢力を拡大し、松平家は大給・安城・岡崎城へ侵攻し約180年の歳月を経て9代目の元康(家康)が德川に改め天下統一を果たした。

松平太郎左衛門家は石高442石の寄合旗本の身分であったが、徳川幕府からは将軍家と同じ「葵の紋所」を許され大名(万石以上)と同格の江戸城への登城と将軍御目見得を許された。

笠掛の楓と見初井戸跡 復元した見初めの井戸

笠掛のかえで見初めの井戸(七つ井戸)跡地
在原家の屋敷にあった七つの井戸の一つで、徳阿弥が寂静寺(今の高月院)を訪ねる道すがらこの楓に笠をかけてアヤメの花に見入っていた時、アヤメを摘んでいた水女姫が井戸の水に花を一輪を添えて差し出したことが二人の出会いであった。
井戸は昭和7年の水害の土砂で埋まってしまい、右は観光用に場所を移して再現したもの。

 

松平東照宮拝殿 松平東照宮本殿

八幡神社松平東照宮拝殿と本殿
祭神:誉田別命(ほんだわけのみこと。八幡様と習合)・德川家康公・松平親氏公・天照大御神・須佐之男命他四神、屋敷神に市杵嶋姫命(いちきしまひめ。弁財天と習合)。
松平家の氏神として若宮八幡を奉り八幡宮と称し慶長16年(1613)に殿社(現在の奥宮)が造営された。
元和5年(1619)に松平太郎左衛門9代目の尚栄が駿河の久能山東照宮より家康公の御分霊を勧請して合祀して以降「松平の権現様」「松平の東照宮」と呼ばれるようになった。昭和40年に親氏公を合祀。
※古くは松平氏が屋敷の鬼門に祀っていたのを新たに大手口を正面として社殿を造営。本殿は山地を削平して建てられたが、渡廊、拝殿、饌所、篝火台、手洗水槽等は宅地内に建設された

松平東照宮水濠 松平信博氏の歌碑

▲手前に水濠、鳥居右手に松平館、作曲家松平信博氏の碑
鳥居前の道は領民が領主の在原氏・松平氏を地につく程頭を下げて拝み敬った様子から額擦り(ぬかずり)の道と呼ばれる。
かつての松平氏宅址は中桐と呼ばれる地に建てられ、八幡神社の西南に接近する東西80m、南北53mの広い宅地で南面西寄りに大手口があり、西と南の上と北側に土塀の名残がある。
慶長5年(1600)関ヶ原役後に松平太郎左衛門9代尚栄が塀や石垣を整備したという。

歌碑は松平太郎左衛門家の第20代目にあたる松平信博氏の代表作「侍ニッポン」の最初の一節が刻まれている。文は作詞の西條八十氏による。昭和33年7月建立。

天下池 氷池跡

天下池(龍池)、氷池
親氏が助けた小蛇が龍となって雨を降らせ、旱魃で干からびた天下の畑を潤したので、その蛇を神龍と崇めてた伝説のある「龍池」がこの天下池の辺りにあったとされる。
氷池は明治20年(1887)から製氷が始められ、池に氷を張らせて切り取り、山かげの氷室に保存し夏に岡崎方面に運んだが、昭和16年(1941)の太平洋戦争で中止となった。

松平郷桜馬場跡地の駐車場 松平郷桜馬場

桜馬場

松平郷遊歩道に造られた室町塀 冠木門 松平城跡への入口

桜馬場跡から高月院までは「松平郷園地」として整備され、遊歩道には歴史をイメージした室町塀や冠木門が設けられている。松平館の東南500mの三斗蒔にお城山(写真右手)がある。

所在地:愛知県豊田市松平町

参考資料
・松平親氏公顕彰会『松平氏とその史蹟』
・平野明夫『三河松平一族~徳川将軍家のルーツ
・司馬遼太郎『街道を行く43 濃尾参州記
・『松平村誌』
・鈴木健『東三河の史蹟めぐり』西三河の項
その他案内板・調査報告書・松平東照宮の由緒書等

関連サイト
松平郷:http://matsudairagou.jp/
松平観光協会:http://www.matudaira-sato.com/

小豆坂古戦場

小豆坂古戦場跡 小豆坂古戦場の碑

▲史蹟小豆坂古戦場跡の碑石
県道26号線沿いに355㎡の緑地がある。小豆坂(あずきざか)古戦場碑は大正6年1月13日に建立されたものを昭和62年に移設し、平成5年に槍立松や血洗池の碑も該当地からここに移したもの。

 

■小豆坂の戦い
徳川家康登場以前の三河は、東は駿府の今川・西は尾張の織田両氏に挟まれ度々戦火に見舞われた。
三河を統一した松平7代清康(きよやす。家康の祖父)が天文4年(1535)に尾張の守山で家臣に殺され、家督をめぐる内紛がおこり、清康の遺児の千松丸(広忠/ひろただ。家康の父)は流浪の身となるが、今川氏に助力を頼んで天文6年(1537)に岡崎城に入ることが出来た。
織田信秀(信長の父)の三河侵攻が激しくなり天文9年(1540)6月6日に松平氏の重要な拠点の安祥城が落とされ、以降今川氏との結びつきをより深めて今川・松平軍と、織田軍の対立が明確となる。

天文11年(1542)8月10日、織田氏の矢作川東岸部への出撃を阻むために今川義元は兵4万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進め、小豆坂で織田勢4千と交戦したといわれる。
織田の小豆坂七本槍と呼ばれる将達の活躍が尾張側に語り継がれているが、この年に合戦については確証がない。

天文17年(1548)3月、織田信秀が大軍で三河に侵攻し、今川義元松平広忠を救うため太原雪斎(たいげんせっさい)を大手の大将・副将に朝比奈泰能・搦手に朝比奈泰秀・軍将を岡部長教として援軍を送った。
松平勢は今川軍を今切本坂まで迎えに出て合流し、二手に分かれて先陣の岡部隊は山中藤川に陣し、8日には小豆坂近くに陣を取った。
同日、織田勢は織田信広(信長の異母兄)・津田信光(信秀の弟)等四千騎で上和田(岡崎市上和田町)の砦に移る。
10日に今川勢は上和田城を攻めるために藤川を出て、織田勢は馬飼原へ向かい信光を軍将として小豆坂を登りかかった時に、今川勢と行き当たった。今川勢が坂の上から押しかかり乱戦となる。
今川勢が苦戦するが、松平勢が命がけで横合いから突入し今川勢は攻撃を休めず、持久戦は不利とみた織田勢は上和田城へ引き返した。

一進一退の織田家と今川家の対立は永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦いまで続く。
そして桶狭間の戦い以降、独立を果たした松平(徳川)家康の最初の難関が三州一向一揆(いっこういっき)である。
永禄6年(1563)9月に一向一揆が各所で起こるが、松平氏と反目する豪族や、松平譜代の家臣の中でも現状に不満を持つ者や一向宗に帰依する者達が一揆側に加わってしまった。
家臣の半数が寝返り、門徒側についた三河武士は131人、一揆軍の総勢は1万人と伝えるものもある。
11月25日に針崎(はりさき)一揆軍が上和田に迫り、大久保忠世(ただよ)が大久保党170余人を率いて小豆坂に陣して一揆勢を食い止めた。

永禄7年(1564)正月3日、家康は大久保党に再び針崎の一揆勢の制圧をさせようと大久保弥三郎に案内をさせ、盗木戸から小豆坂を登った時に、作岡大平を焼いて帰って来た一揆軍と行逢い交戦。11日にも上和田を目がけ土呂(とろ)・針崎等の一揆軍と合戦となった。
13日、家康の出陣を内通者が漏らして伏兵が敷かれ、知らずに小豆坂に従者を残して進んだため窮地に陥るが家康は馬上から弓を射ながら単騎北へ逃げきったという。
2月に至り一揆側の将達が次第に討たれ、説得により松平への帰順を願う家臣も出て一揆は収束していく。家康は大久保忠俊らの勧めで和議へ運んで鎮静させた。

小豆坂合戦状況図 小豆坂古戦場案内板

▲天文11年の小豆坂合戦状況図と
麝香塚、絵女房山に並て小豆坂あり、千人塚あり。みな軍機にある戦場なり。七月十六日の夜はそのあたりの人々亡霊まつるとて、手ごとに巨松振りかざし、あまたうちむれのぼる也。千人塚は、千人の頭埋めし処といふ。此塚は大樹寺にもありて不断念仏堂あり。三年に一度回向あれば、仏舎を千日寺という。小豆坂の事は世に人知れり。
──菅江真澄『筆のまにまに 八巻』文政七年申申六月八日 日記(案内板より)

※井田古戦場の念仏堂・千人塚と別に、現在の東岡崎の明大寺町にも「千人塚」があり、松平5代長親の時に永正3年(1506)8月の伊勢新九郎(後の北条早雲)との戦いでの戦死者を埋葬したものとも伝わる

槍立松 血洗池跡

▲近年移設された「槍立松」「血洗池」の碑
かつて槍立松は頂の作手街道の東にあり、一度植え継ぎ足されて残っていた。小豆坂七本槍の者たちが槍を立てて休息したと伝わる。麓には「鎧掛松」もあった。
血洗池(ちあらいいけ)は小豆坂の前に細長い池があり、池の水で槍刀についた血を洗い清めたと伝わる。

所在地:愛知県岡崎市戸崎町牛転

大樹寺[3]請西藩林家祖先の林忠満・林忠時供養墓

松平家菩提寺の大樹寺には徳川家古参譜代の林家の墓域がある。
文化13年(1816)8月に林家14代の林肥後守忠英が、三河で松平家に仕えた林忠満・林忠時の墓の2基の供養塔を建てたという。
かつては一段高く門のある外柵と、それぞれの背後に宝塔が在ったようだが、今は墓碑のみが残る。

林藤助忠満の墓 林藤助墓の刻文

林家四代 林忠満の墓
上部に林家の家紋丸の内三頭左巴下に一文字が刻まれている。墓はだいぶ傾いてしまっている。
「全忠院殿明徹道光大居子」
「天文九庚子年 六月初六日 林藤助」

■林藤助忠満(ただみつ)
藤五郎、後に藤八郎または藤助。政通(まさみち)・縁正(よりまさ)
林藤助光政から数えて4代目。代々続く侍大将で、正月の御酒盃をも御一門より先に罷り出て頂戴する家柄である(※大久保忠教『三河物語』の忠満についての要約)
松平信忠・清康・広忠に仕え、各所でよく戦い、森山崩れの後で流浪の身になった年若い広忠(千松丸。松平家8代目。家康の父)が家臣達の忠義と力で天文6年(1537)に岡崎城に入った際の御感書(感状)の5名に名を連ねている。

墓に刻まれている天文9年(1540)6月6日は織田信秀(信長の父)による安祥城攻めの日で、林藤助も出陣している。
林家に伝わる『林家過去帳』林家12代忠久による『林家系譜』に林忠満の死去の日は天文九庚子年六月と書かれている。

一方で『林氏系図』『参河記』『家忠日記』等では天文17年小豆坂の戦いで討死したとする。(林家15代忠旭の『林家系譜』は天文十年戊申年とあり干支の通りなら七の脱字か)

小豆坂の合戦はまず天文11年(1542)8月10日に今川義元が三河田原に侵攻し、織田信秀が豆小坂で迎えうって「小豆坂の七本槍」と呼ばれる将達の活躍で織田軍が勝利したことが織田側の史料には書かれている。

その後の天文17年(1548)3月、岡崎城を攻めるため織田信秀は庶子三郎五郎信広(信長の異母兄)と弟の津田孫三郎信光に四千騎の兵をつけて三河に進軍させた。信広達は8月に上和田の砦に入り、10日に信秀も安祥城に着陣する。
19日に織田勢は津田信光を将として進み、小豆坂で今川勢と鉢合わせの形で合戦となる。
今川勢は苦戦し、戦況を変えるため今川方の松平勢から松平伝十郎信勝(太郎左衛門信吉の弟)、小林源之助重次、そして林藤五郎忠満達が横合いから攻め入って戦い、討死した。
彼らの決死の突撃により織田が疲労したと見て攻め続け今川勢は織田勢を押し返すことが出来た。

 

林藤七忠時墓 林藤七墓の碑文

林家五代 林忠時の墓
忠満の墓と同じく上部に林家の家紋がある。
「榮林院殿天翁淨俊大居子」
「永禄十二年己巳五月二十二日 林藤七忠時墓」

■林藤五郎忠時(ただとき)
林家5代目当主。藤五郎。政忠(まさただ)・清忠(きよただ)
松平広忠・元康(徳川家康)に奉仕。
永禄6年(1563)に一向宗門徒による三河一揆がおこり、有力豪族や今川残党勢力を巻き込み本多正信ら松平家臣までも次々に一向一揆側につく窮地でも、林忠時は元康を裏切らずに諸方を守った。

死去の日は『林家過去帳』にも墓の刻字と同じく永禄十二年己巳五月(1569年)とあるが、忠旭の『林家系譜』では翌年の元亀元年六月九日と書かれている。

 

徳川家康の江戸移封に付き従った林家貝渕藩請西藩)の菩提寺は現在の東京都の青松寺となるが
病で上総国の領地に隠居した林家6代忠政・大坂の役で戦死した7代吉忠・京都二条城守衛中に急死した8代忠勝の墓と、以降13代忠篤までの供養墓が千葉県の龍溪寺にある。