カルチャー雑誌『東京グラフィティ』にレビュー掲載

本日発売『東京グラフィティ2015年5月号』の特集「監督別・ジャンル別名作映画BEST149!」に
歴史通としてのレビュー執筆のお声がかかりました。

Tokyo graffiti─主に東京で生活する人々の近影を集めた若者向けポップカルチャー雑誌。

担当は日本の歴史映画BEST3。舞台が古い時代になるほどファンタジックな作品になってしまうし、戦争モノと有名監督作は被り防止で除外。
歴史専門誌ではないし、それっぽさ重視で、一般に言うチョンマゲで攻めようかなと。

 

☆おしゃれ雑誌の一角に銀杏頭ゾーン作りました☆

 

が、映画マニア大集合な誌面だけあって思いのほか浮いていません。さすが!
大きめな書店なら地方でも取り扱っている全国誌です。このブログの傾向に紐づく作品を選んだので、そのあたりにも興味のある方はぜひ手にとってみて下さい!

メッセージありがとうございました

K様、コメントありがとうございました。この場での返信で失礼します。

飯野藩
の藩主の生活は江戸藩邸や上方・大坂への赴任が中心で、領地の陣屋に留まることは少なかったようです。
2代藩主の保科正景(まさかげ)は隠居後に飯野陣屋の屋敷に住んだので千葉県に墓所があります。
まだサイトに略歴が未掲載の藩主も江戸勤めの他に大坂定番・加番を歴任しており
5代藩主の保科正寿(まさひさ)は、大坂定番(京橋口)に在番中に亡くなり、
9代藩主の保科正丕(まさもと)も大坂加番として大坂城で亡くなっています。

 

摂津国では浜屋敷に代官所を置いて、川辺郡を含む摂津4郡と丹波・近江国の領地の租税を集めました。
藩主が訪れるのは視察として、または幕末の有事の時であったと思われ、特に後者は多くの家臣を率いての上洛の経緯があったため、K様のおっしゃる通り陣屋だけでは手狭で、寺を利用していますね。

大阪城天守閣 大坂城の京橋口定番下屋敷跡

▲現在の大阪城京橋口定番下屋敷跡に修景された、当時の石垣

建前上、自身が領地を持つ藩士は石高単位で、下級の従者は包装単位で役料を表される場合は一見分かりにくいですが、
定番は大阪城代の補佐として多くの与力・同心も伴って警備や整備を行い、加番は定番の支援にあたり武具を持参した家臣と共に赴任することと考えると妥当な役料と思います。
定番は更に将軍に謁見の上、黄金十枚・持服五領・引越拝借金三千両が支給されます。

この辺りは飯野藩の史料にも時代は限られますが記述がありそうなので、機会があれば紹介しますね。
サイト準備中につき手持ちの情報を掲載しきれず面目ないですが、同じように身近な郷土を調べている方に反応をいただけて、ブログを始めて良かったとしみじみ思いました。感謝。

企画展「請西藩林家が遺したモノ」

請西藩林家が遺したモノ企画展チラシ

現在、木更津市の太田山公園(恋の森)にある郷土博物館金のすずで企画展「請西藩林家が遺したモノ」が開催中です。
新資料の公開もあり、林忠英の時代から幕末動乱期、そして明治以降の男爵林家の歩みの軌跡を辿ることが出来ます。
前期は4月26日まで、写真の展示が変わる予定の後期は4月28日~6月15日(県民の日は無料)までとのこと。

* * *
以下自分用の備忘メモ。

 

—–江戸時代・林家の隆盛——-
家紋付き革製書箱
林日記[文政9年(1826)・林忠英]
 …林肥後守忠英(ただふさ。貝淵藩主)の記。林家中祖林藤助の、有親・親氏親子への兎の吸物の由等
兎御献上之儀留[文政9年・林忠英]11月18日の直筆

林氏系譜[寛延3年(1750)・林忠久]
 …序、寛延3年2月従五位大守大学頭林信充(のぶみつ。榴岡。儒学者林羅山の家系の林家4代)撰文
林氏系譜[弘化3年(1846)9月・林忠旭]

 

—–伏見奉行・林忠交———–
拝領物留記[嘉永7年(1854)・林忠交]
 …林家4代忠満~15代忠旭までの当主が拝領した品々の記録
老中奉書[安政6年・林忠交宛]11月1日朝8時に西の丸の参上を命じられる
 …老中の脇坂安宅(わきさかやすおり。播磨龍野藩主)・松平兼全(まつだいらのりやす。三河西尾藩主)・間部詮勝(まなべあきかつ。越前鯖江藩主)より
褒美書付[慶応2年頃・林忠交宛]
 …元治元年、林肥後守忠交(ただかた。忠英の四男。請西藩2代藩主)が伏見奉行の時に長州藩士が伏見に滞在中に取締った与力見習い15人に銀5枚、同心52人へ金300疋の褒美

 

—–大奥の老女・万里小路局—–
2代目万里小路局は、池尻(いけがみ。藤原四家北家の出とする)氏の寿賀姫は大奥に仕え、徳川11代将軍家斉の寵臣林忠英が義舅となる縁もあり、天保7年に24歳で上臈の局となり万里小路(までのこうじ)と称した。
元治元年に大奥を辞し、林忠交の江戸浜町請西藩邸のもとに移り、忠交の急死後はその後を継いだ忠崇の請西を隠棲地とした。

長樂寺の欄間釘隠し
 …長楽寺(木更津市請西)は万里小路局を本堂脇の離れ(真武根陣屋の部材を解体・移築したとも)に迎える。昭和40年本堂改築のため解体しこの請西藩に因むが描かれた欄間等が保存された。(伊八か)
◆徳川4代の「戒名」「位牌葵紋付厨子
 …11代将軍徳川家斉(いえなり)・12代家慶(いえよし)・13代家定(いえさだ)・14代家茂(いえもち)の4代。万里小路所持とされる。厨子の台座部に、萬里小路大姉墓誌を写した状。

 

—–林忠崇と戊辰戦争出陣——-
戊辰出陣記[林忠崇]
 …慶応4年(1868)戊辰閏4月5日の万萬小路局より長楽寺万丈を使いとして護摩札・供物等を贈られた件。万里局は徳川への忠義のため挙兵した忠崇(ただたか。万里局と縁深い忠英の孫にあたる)に軍用金等を送るなど支援した。
◆林忠崇の短歌「降伏待刑
 真心の有か無きかは屠りいたす
 はらの血しほの色にこそ知れ 昌之助

 

—–家督再興——————-
◆家臣から弁事役所に宛てた嘆願書[慶応4年~明治2年(1869)]
 …鵜殿伝右衛門・田中兵左衛門ら家臣
御家名御再立一件[明治2年]
 …小笠原長国(ながくに。肥前唐津藩知事)の願出先の太政官や東京府の書状
◆小笠原家から宮内大臣子爵土方久元への林家華族編入嘆願書[明治26年(1893)6月]
 …伯爵小笠原忠忱(ただのぶ。宗家11代。豊前国小倉藩藩主)、子爵長育(ながなり。東宮侍従)・貞孚(さだざね。播磨安志藩藩主)
家名相続に付嘆書類 写し[明治2年]
忠弘(ただひろ。忠交の子、忠崇の弟)の花押[明治2年10月]
士族編入指令書受取書 写し[明治32年(1899)] 千葉県知事阿部浩 東京都四ツ谷区左門町廿七番地 林忠崇殿
旧藩士復籍願参考書[明治5年(1872)]必要書類
 …伊能・北條・北爪ら家臣復族について
林忠弘 華族に列す[明治26年10月30日・宮内省特旨]
爵位慶与
御達并進達留[明治8年(1875)2月~明治10年12月]林忠弘宛証文
士族編入に関する許可証[明治32年] 東京府知事千家尊福(せんげたかとみ)
林忠弘宛書状林家再興始末略[明治26年・広部精(くわし)]
特別縁故者姓名録[明治27年(1894)1月10日・林忠弘]
 …北白川宮能久親王(よしひさ しんのう。輪王寺宮)、伯爵小笠原忠忱、勝海舟、榎本武揚等や、旧請西藩家臣の広部精・大野友弥等支援者の名簿
士族編入願[明治31年・北爪家]
士族編入につき辞令拝受[明治32年・加納佐太郎等12名]

 

—–華族として—————–
位記[明治36年(1903)11月30日]宮内大臣田中光顕(みつあき)
◆忠弘の長女の錬(れん)と曽我友兄の婚姻許可証[明治41年(1908)7月28日]
◆忠一の東京帝国大学卒業証書[明治43年(1910)7月11日]
 …忠弘の長男(長男夭逝につき)の忠一(ただかず)は学習院高等科を経て、明治43年に東京帝国大学法律学科(ドイツ法)を卒業
華族戒飭令[明治44年(1911)12月27日]伯爵渡辺千秋(ちあき)
◆忠一宛の大礼記念章証書[大正4年(1915)11月10日・昭和3年(1928)11月16日]
辞令[大正元年(1912)10月2日]陸軍省から理事試補林忠一宛
 …忠一は帝国大卒業後志願兵として近衛歩兵第二連隊に1年在籍後、近衛師団経理部を経て陸軍第二師団法官部付理事試補になる。
理事叙任状[大正4年5月7日]内閣大隈重信より
 …忠一は第二師団法官部付きから第十師団法官部付きへ
家督関係資料[大正6年(1917)1月31日]前年忠弘死去につき爵位相続
大饗夜宴招待状[昭和3年(1928)11月1日]宮内大臣一木喜徳郎(いちききとくろう)
 …天皇即位で折京都御苑内の夜宴
位記 叙従四位[昭和19年(1944)12月1日]宮内大臣松平恆雄(つねお)
当選証書[昭和21年(1946)]
 …5月11日忠一は貴族院男爵議員に当選
◆第90回帝国議会貴族院議員氏名表[昭和21年]

 

—–林家の写真(前期展示)—–
◆明治8年・28歳の林忠崇
 …芝三田通り(慶應義塾前)で撮影
◆慶応4年(西暦1868年5月)林忠崇出陣姿
 …原版からの複写。お馴染みの20歳の出陣姿。
◆大正3年頃、66歳の剣道着姿の忠崇
 …よく書籍等でみられる写真。
◆忠崇の剣道の構え
 …横向きで竹刀の二刀流?
◆林一夢、大阪天王寺の寺内で撮影。
 …忠崇は林一夢を号する。和装の写真。
◆68歳の忠崇
 …洋装の写真。
◆紋付袴着用の90歳の忠崇
 …銀杯恩賜につき紋付羽織着用。お馴染みの写真。
◆昭和12年1月5日の集合写真。
 …90歳の忠崇を中心に、恩賜の祝賀に来訪した人々との撮影か

◆一ヶ月の長女と忠崇・明治19年8月頃撮影か
 …生まれたばかりの娘を抱く忠崇の口元は微笑んで見える。
◆忠崇の娘光子と日雇女
 …傘をさしている。女中せつ子との撮影。
◆明治36年5月10日・光子
 …簪をさした若い光子の和装。細面な忠崇に比べ丸顔の可愛らしい美人。
◆大正9年頃・32歳の光子
 …本の置かれた机で
◆光子と愛犬エス
 …室内の座布団の上で光子と共に行儀よく写る愛犬

◆忠崇の実妹の小山田律子
 …記載は明治42年4月に錬(忠弘の娘)が記した。忠崇と似た細面の美形。
◆林忠弘・明治24年5月8日
 …東京湯島撮影、お馴染みの写真。
◆忠弘の妻30歳の鋠(しん)、3歳の娘、15歳の女中のコト
 …椅子に座り幼い錬を抱いて、三人での撮影

* * *
書籍に掲載されているお馴染みの光子の写真は後期展示か。

──近代の人物について部外者が勝手に調べることが、趣味の範囲として許されるかがいつも悩む所です。
(特に旧飯野藩関連が廃藩後でも話題があるので。古い歴史人物でも、墓参とその撮影等できるだけ許可は得ているものの墓域に踏み込むのは毎度申し訳ない気持ちです…)

こうして資料を企画展の形で一般公開して下さる好意が本当にありがたいですね。

法蔵寺[2]松平家と有親の墓

松平一族と家臣の墓 亀姫と松平泰親の墓

法蔵寺松平一族と合戦討死者の墓。右写真の右から

亀姫(加納御前。家康の長女)の墓
永禄3年生。母は築山御前。天正4年7月奥平信昌に嫁ぐ。寛永2年(1625)5月27日に夫の領地の美濃加納(岐阜県岐阜市)で逝去。誠徳院。加納の光國寺に墓。

松平泰親(松平家2代)の墓
良祥院の法号と逝去を永享二年とするのは高月院や『新田松平家譜』等と同じ。
寺伝では泰親は法蔵寺の僧房を建て、子(教然良頓)を教空上人の弟子としたとする。

松平広忠の墓と東照宮 松平十郎三郎康孝と右馬佐と左馬佐の墓

朱いお社は東照宮。出陣前の家康を模した軍装像、源義家奉納の甲冑、松平親氏が彫った八幡宮木像を奉納したと伝わる。左写真の大きな五輪塔が松平広忠の墓。

松平広忠(松平家8代。家康の父)の墓
寺伝では分骨を瓶内に納めて葬ったという。慈光院の法号は系譜等に見られる。天文十八年巳酉三月の逝去と「應政道幹大居士」は大樹寺等と同じ。

右写真の右から

松平重郎三郎康孝(十郎三郎。6代信忠の三男。鵜殿城、水城城主)の墓
法号は松聲院とするが、没した居住地の浅井郷(西尾市)にある源空院では寶林(琳)院とする。

松平右馬佐(家俊。3代信光の子。造岡城主)の墓
太岳院。

松平左馬助(算次。3代信光の子。家俊の兄。舟山城主)の墓
休徴院。

於比佐の方・於久の方と松平忠政・碓井姫・矢田姫の墓 中川忠保の墓

左写真右から

於比佐の方(お久の方。広忠の先妻、忠政の母)の墓
大給の松平乗正の娘。法名妙琳。家康生母の於大の方の輿入れ後は忠政と共に桑谷村へ移る。広忠寺に墓。寺伝では広忠の死後に教翁上人の弟子となっている。

松平忠政(家康の異母兄とされる)の墓
幼名は勘六。於大の方の輿入れ後は岩津に移され、その後母の於久の方と共に桑谷村に住む。広忠寺に墓。薇足院。※忠政については諸説あるがここでは寺伝に拠る

薄井姫(碓井姫。7代清康の娘。長沢松平政忠室→酒井忠次室)の墓
先求院(京都府)に墓。光樹院。初めに嫁いだ政忠は桶狭間で戦死。

矢田姫(家康の異母妹、長沢松平康忠室)の墓
母は平原助之丞正次の娘。『徳川実紀』に法蔵寺の記載がある。長康院。

井田野・安祥・三方ヶ原・長篠等の戦忠死者の墳墓
右写真の中川忠保等、忠臣達の墳墓が松平家の墓地を囲むように並んでいる。

 

有親の五輪塔
松平親氏の父・有親(ありちか。長阿弥/ちょうあみ)の墓は、没した地とされる大浜の称名寺(碧南市)が有名だが、ここ法蔵寺にも墓塔が存在する(薄れた案内用の墓標にも有親公と書かれている)

得川有親の墓 有親の墓標

寺伝では親氏が有親の二十七回忌に、その遺骨をここに葬り、位牌を講堂に納めたという。
法号は「晋修院殿 増光長阿大居士」と刻まれており、逝去は慶安元年四月廿日とする。
※徳川氏略系の法名は「松樹院長阿泰雲」

晋修院の刻銘 法蔵寺墓地

請西藩正月の献兎のルーツである有親。墓には来訪時は新しい花が供えられていた。
傍に並ぶ古い墓は誰のものか判断できない。法蔵寺には他に松樹院(泰親夫人)、玄能尼(清康夫人)、市場姫(矢田姫の姉)の墓もあるとされる。
 

旅の僧の有親・親氏の出自については新田源氏の流れの世羅田(せらだ )・得川(とくがわ)氏、加茂氏、松平太郎左衛門の在原家をそのまま汲む等の異説があり、それぞれ系図に疑問が持たれ、はっきりしない。

世羅田系の由来は源義重(よししげ。新田氏の祖)の子の世良田義季(よしすえ。得川を名乗ったともされる)の出とする。
加茂系の由来は、3代信光が岩津妙心寺を建立した際に仏像の腹に込めた記録に、信光の長男の親則(長沢松平家の祖)と、信光の弟の益親の名に「加茂朝臣」とあり、妙心寺にも信光が旗に「三河源氏加茂朝臣」と書いた伝承が伝わっている。
これは岩津に移る前の根拠地松平郷の加茂郡(かものこおり)の地名から名乗り、既存の加茂氏の出の意味ではないと推測されている。
7代清康(家康の祖父)が「世羅田次郎三郎」と称し、松平家の由緒として新田源氏系の系譜が作られ、徳川家康の死後に3代信光の頃は加茂朝臣を名乗っていた(真偽は不明)ことが分かり、初代親氏の実父有親を「加茂右京亮有親」とする系図や賀茂神社の氏子(葵紋の由来)という説が作られたのだろうか。

法蔵寺[1]家康修学の地・近藤勇の首塚伝承

法蔵寺山門 法蔵寺講寺本堂

二村山法蔵寺(にそんざん ほうぞうじ)山門と本堂
浄土宗西山深草派の三河三壇林のひとつ。本尊は阿弥陀如来。竹千代(徳川家康の幼名)がこの寺で手習いや漢籍(かんせき)を学んだとされ、家康の所持品や松平家ゆかりの宝物が多く残されている。境内に東照宮や松平家の墓がある。

大宝元年(701)伝承では行脚中の法相宗の僧行基はこの地に輝く杉の大木を見つける。すると突然現れた童子に「ここは釈迦如来降臨度生の霊山で、この杉は日本武尊が諸神を勧請した際に一夜で生まれた霊木です。この木で観音像をつくりなさい」と啓示を授かり、行基は童子(実は救世菩薩の化身)と共に長さ三尺三寸の正観音(聖観世音)像を彫刻し、山上に六角堂を建てて(後に大風で倒壊し移転)安置したという。
寺伝では天武天皇の后の出産の際に行基に祈願させた所、王子を出産したため、天武天皇の勅願所となり出生寺(しゅっしょうじ)の号を賜ったとされる。
後に空海により真言宗になったとも伝わる。

至徳2年(1375)9月、説法に赴いていた教空龍芸(りゅうげい)に松平家初代親氏が深く帰依して講堂を建てて浄土宗に改宗し法蔵寺と名を変えた。(または京都円福寺から教譽上人が来て浄土壇林を開いたともされる)
松平2代泰親は、親氏の菩提として僧房を建て、子(後の教然良頓/きょうぜんりょうとん)を教空上人の弟子とした。3代信光も本堂を再建。
宝徳3年(1451)3月18日(4月とも)に後花園天皇の勅額を賜い、大神光二村山と称す。
大永元年(1521)松平6代信忠の寄進により本堂を修造。

天文18年(1549)正月に8歳の竹千代(家康)が岡崎城から入学し、住職の教翁上人に手習読書を学んだという。3月(6日に父の広忠が急死)まで滞在。
※竹千代は天文16年8月に人質として駿府へ送られる際に織田方に奪われ熱田に居り、天文18年11月に岡崎に10日程帰ることが出来たが、寺伝の時期とは異なる。
修学については竹千代が駿府宮ヶ崎に居た頃に手習いを受けた僧が、後に法蔵寺の住職になった経緯で生まれた伝承とみる異見もある。法蔵寺は他にも源義家や西行法師等、伝説が多い。

永禄3年(1560)家康により守護不入の特権を与えられ7月9日に松平氏の以前からの82石余の判物を寄付される(明治元年11月30日に朝廷へ奉還)
江戸時代には、東海道に接していることから参詣者も多く、幕府の庇護も厚かったため栄えた。

法蔵寺の御草紙掛松 法蔵寺の賀勝水

御草紙掛松(おんそうしかけのまつ)
竹千代の手植えで、手習いの草紙を掛けて乾かしたという。年が経ち繁殖した松は門前に移されて、成長した家康が参詣する際にこの松の下で休憩し茶を飲んだことから「御茶屋の松」「御腰掛の松」とも呼ばれた。
周囲の石柵は文化12年(1815)旗本木造清左衛門俊往(としゆき)の寄進。平成17年8月に虫害で枯れてしまい、翌年4代目の松が植樹された。

賀勝水
寺伝では日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地で天照大神ら諸神を勧請して東夷征伐を祈願し、その效験(霊験の徴)を見せ給えと念じて巌を突くと冷泉が湧き出したので勝利の祥瑞として日本武尊は「賀勝ゝ」と三度唱えたと伝わる。
竹千代が手習いに使う硯の水として使ったともされる。

法蔵寺の鐘楼 法蔵寺のイヌマキ

▲鐘楼と伝行基手植えのイヌマキ(岡崎市指定天然記念物)

 

近藤勇の首塚 近藤勇の首塚案内板

近藤勇の首塚
近藤勇の首を埋葬した場所とされ、首塚の台石には土方歳三らの名が刻まれている。

新撰組隊長の近藤勇は慶応4年(1868)4月25日、35歳で板橋刑場の馬捨場(東京都北区滝野川)で斬首された。首は塩漬にして京都に送られ、埋められた遺体は近親者が密かに人夫に掘り起こさせて、東京都三鷹の竜源寺に埋葬した。
京都の三条河原で晒された後の近藤の首の行方の諸説ある一つがこの三河法蔵寺の首塚である。
首が晒されて三晩目に、近藤が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に埋葬を依頼しようと同志が持出したが、和尚は法蔵寺の三十九代貫主として転任していたので三河国まで運んだという。
時が経ち昭和33年、戊辰の当時に世間を憚って石碑を土で覆い隠し無縁仏のように装っていた埋葬の由来が総本山の記録等から明らかとなり、石碑を覆っていた土砂を取り除き、新たに胸像を建てて供養した旨が案内板に書かれている。

所在地:愛知県岡崎市本宿町寺山1