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歴史人物の略歴や大河ドラマの話題

世古六太夫と幕府遊撃隊箱根の役前日譚

 ※画像は世古六太夫碑より

世古六太夫(せころくだゆう)
通称は六之助、諱は直道
天保9年(1838)1月15日、伊豆国君澤郡川原ヶ谷村(静岡県三島市川原ヶ谷)の栗原嘉右衛門正順の次男として生まれる。
栗原氏の祖は甲斐源氏流武田氏で、清和源氏流武田系図によると11代当主武田刑部大輔信成の子の十郎武続(甲斐守。七郎とも)が甲斐国山梨郡栗原邑(山梨県山梨市)に居住し栗原を称した。
嘉永2年(1849)4月に駿河国七間町(静岡市葵区)山形屋某に雇われ、翌年8月に帰郷。(山田万作『岳陽名士伝』)
14歳で伊豆国田方郡の三島宿(三島市)一ノ本陣・世古家に入り、家業を手伝う余暇に文武を磨き、学問は津藩士斎藤徳蔵正謙に学んだ。15歳で世古清道の嗣子となる。世古家を継ぐと、本陣主として六太夫を名乗った。
安政4年(1857)長男鑑之助(後に六太夫の名を継ぐ)が生まれる。
安政5年(1858)三島宿の問屋年寄役となる。

 
世古本陣表門を移設したとされる長円寺「赤門」と世古本陣址
本陣は大名・公家・幕府役人などの宿場施設で大名宿とも呼ばれた。世古本陣は参勤交代では尾張侯の御定宿であった。

 
問屋場址と世古本陣付近の三島宿復元模型模型画像は樋口本陣址パネルより
江戸時代の運輸は人馬を使って宿場から次の宿場へ送り継がれ、この公用の宿継(しゅくつぎ)は問屋場を中心に行われた。問屋場には問屋年寄、御次飛脚、賄人、帳付、馬指人足送迎役などあり、問屋場の北側の人足屋敷には雲助と呼ばれた駕籠かき人夫が詰めていた。

文久2年(1862)駿河国駿東郡愛鷹山麓の長窪村(長泉村)の牧士(牧の管理者)見習となる。(明治には牧士として「瀬古六太夫」の名がある)
文久3年(1863)韮山農兵調練所が設けられ、江川太郎左衛門代官管内の農民子弟凡そ70名を集めて軍隊調練を行った。六太夫は韮山農兵の世話役を勤めた。
慶応3年(1867)箱根関所を破り逃走した薩摩の浪士脇田一郎ほか2名を、六太夫は代官手代と協力して原宿一本松で召し捕る。

 
農兵調練場址三島代官所跡
宝暦9年(1759)韮山代官所と併合し治所を韮山に移した。
三島陣屋の空き地は江川坦庵の創意で農兵調練場とした。維新後は小学校の敷地となる。

慶応4年(1868)倒幕を遂げた明治新政府と旧幕府の抗戦派による戊辰戦争が開戦した。
3月24日、新政府が大総督府を置き東征させる折、三島宮神主矢田部盛治(もりはる)は矢田部親子と社家等70余人を沼津~箱根両駅間の嚮導(先導警護)兵として奉仕する願書を先鋒総督に送る。(『東海道戦記』)伊豆伊吹隊(息吹隊)と名づけて25日に嚮導して三島宿は難なく官軍を休憩・通過させることが出来た。
閏4月上総国(千葉県)から出陣した旧幕府遊撃隊と請西藩藩主林忠崇ら緒藩兵による旧幕府隊が沼津に向かい、兵を引くよう江戸から遣わされた旧幕府重臣(既に新政府に恭順)との交渉上沼津藩監視下の香貫村に駐屯し、返事の約束の日を過ぎても音沙汰ないまま足止めされていた。
5月18日、上野山の彰義隊蜂起の報が届き、やむなく旧幕府遊撃隊人見勝太郎が抜け駆けの形で自軍(第一軍)を率いて加勢に向かうことを決意する。
夕方に三島宿へ「澤六郎・木村好太郎」の名で、翌日夜の宿割と人足(宿場町が提供する運送者)を問屋役人の六太夫らに命じに来た。軍目(憲兵兼監察役)澤六三郎らによる林忠崇を筆頭に全軍が通過する準備とみられ、人見の行動は切迫した状況打破のために林忠崇公らと示し合わせた(おそらく沼津藩主水野出羽守の温情もあっての)策であったことを窺わせる。

19日朝、連日の大雨で氾濫した川を渡り脱した人見隊が三島にたどり着く。
しかし明神前に新政府によって俄作りの新関門が置かれていた。
旅籠松葉屋に居た関門長の旧幕府寄合松下加兵衛重光(嘉兵衛、嘉平次。下大夫。4月25日から三島駅周辺警守にあたる)が駆けつけ、通過を阻まれた人見隊は、大鳥居に木砲2砲構え、白地に日の丸の旗を翻して関門を威嚇する。
一触即発の危機に、問屋役の六太夫や三島宮神主矢田部が取成して、矢田部が松下を佐野陣屋(現裾野)に報告に行かせる機転で、事なきを得たという。

後発の旧幕臣本隊が、伊庭八郎率いる第ニ軍を先頭に東海道を真っ直ぐ進み昼過ぎに三島に到着。
宿場には徳川家康以来幕府に恩がある者が多く、六太夫ら問屋役人一同は千貫樋(せんがいどい。豆駿国境にある灌漑用水路の樋)まで出迎えたという。
世古本陣の西に在る脇本陣・綿屋鈴木伊兵衛に林忠崇を総督とする本営を置き休憩。
人見らの救援として前田隊を急行させてから、本隊も山中村へ向かった。
こうして三島宿を戦禍の危機から救った六太夫だが、新政府軍に幕府方内通者との嫌疑がかかり、これまで新政府に尽くしていた矢田部らの嘆願も聞き入れられず捕えられてしまう。佐野の獄舎にて詰責を受けたという。病のため矢田部家に預かりになり縛後31日目に釈放。
7月18日三島関門が撤廃される。

 
▲三嶋大社鳥居前と矢田部式部盛治像大人銅像(澤田政廣氏作)
矢田部盛治は掛川藩家老の橋爪家からの養子で、安政の大地震で倒壊した社殿の復興を果たし、祇園山隧道を開鑿し新田開発を行うなどで三島宿の民から慕われた。

明治3年(1870)明治政府により本陣が廃止される。
明治5年(1872)六太夫が戸長となる。
明治7年(1874)に第四大区一小区副区長となる。
明治12年(1879)三島に小学校の前進になる新築校舎建設に協力。
明治17年(1884)7月24日三男の松郎誕生。(後に兄の六太夫廣道の後を継ぎ、大正10年に市会議員となる)
明治20年(1887)沼津に移住。
明治28年(1895)に沼津・牛臥に海水浴場旅館「三島館」を建て、三島の旧宅を修築し「岳陽倶楽部」とし、各界著名人と交遊を深めた。
明治36年(1903)に妻のナツが61歳で死去し、長円(ちょうえん)寺に葬。法名本修院妙道日真大姉。
大正4年(1915)12月31日78歳で死去し、妻と共に長円寺に眠る。法名本行院直道日壽居士。

 
正覚山大善院長圓寺・世古六太夫夫妻の墓
維新後の六太夫は教育の推進者として伝馬所跡に私立学校開心庠舎(かいしんしょうしゃ)を開設し、実業家として沼津停車場前に通信運輸事業を展開して郵便事業の基礎を築く等、郷土に貢献した。

三島宿 歌川広重「東海道五十三次之内 三島 朝霧」(沼津市設置の路上パネルより)
東海道五十三次の三島
慶長6年(1601)德川家康によって東海道五十三次の11番目の宿場に指定され、古くからの交通の要所であり伊豆一宮の三島明神(現在の三嶋大社)もあり隆盛した。
一ノ本陣・世古六太夫、二ノ本陣・樋口伝左衛門
脇本陣3、他旅籠74軒(天保年間)

・「長円寺」所在地:静岡県三島市芝本町7-7
・「三嶋大社」所在地:静岡県三島市大宮町2丁目1-5

参考資料
当記事と請西藩関連記事中明記の文献の他、案内板(三島市教育委員会、本町・小中島商栄会設置)、郷土資料館展示・収蔵史料等。閲覧許可ありがとうございました。

麹町教授所学頭・元飯野藩の儒者服部栗斎

服部栗斎(はっとりりっさい)
名は保命、字は佑甫、通称は善蔵
享保21年(1736)4月27日飯野藩領摂津国豊島(てしま)郡浜村で飯野藩上方領代官の服部梅圃の四男として生まれる。母は上月(こうづき)氏。※頼春水『師友志』では小曽根の人とする
寛延2年(1749)14歳の頃に懐徳書院(懐徳堂)の五井蘭洲(ごいらんしゅう)に儒学を学び、特に中井履軒(なかいりけん。中井竹山の弟)と親交を深めた。

 
▲懐徳堂(かいとくどう)跡地と懐徳堂舊址碑

宝暦5年(1755)11月12日に父梅圃が70歳で死去。父の跡は兄が継ぐが、善蔵は兄とは別に俸を受けて飯野藩江戸藩邸に在り、飯野侯(保科正富)世子(保科秀太郎、後の正率であろう)の伴讀(伴読。貴人に書を読み聞かせる教師)役に抜擢される。
後に病で役を辞して、浪人儒者として静養の傍ら学を深めた。

江戸では村士玉水(すぐりぎょくすい。名は宗章、号は一斎。通称行蔵または幸蔵)に学ぶ。玉水の家塾「信古堂」は駿河台下の水道橋の辺に在った。
玉水によると佑甫(善蔵)は善く崎門(きもん。山崎闇斎の学統)を学んだという。
師弟の名は「西に久米訂斎と西依成斎あり、東に村士一斎と服部栗斎あり」と言われる程に高まっており、善蔵は尾張侯に招かれ講じて十口糧を由優賜されるなど厚遇を受けた。

安永5年(1776)1月4日、病に罹った玉水は善蔵に後を託し48歳にして死去。
遺言通りに善蔵が信古堂を継ぎ、築地に移る。

天明4年(1784)愛宕下の三斎小路(現在の港区虎ノ門1丁目。三斎は細川忠興のことで細川邸に通じる路から由来)に転居。
高山彦九郎(正之、仲縄)や頼春水ら学者・思想家の日記にも善蔵との交友がみられる。
以下例として寛政元年の高山彦九郎江戸日記より抜粋
十月三日…(略)…赤坂田町壱丁目を出て 愛宕の下三齋小路服部善藏所へ寄りて 子錦中風のことを告ぐ ※佐藤子錦(尚綗)が中風に罹った話をする
六日…(略)…服部善藏今朝予を尋ね来りしよし 出でゝ新大橋を渡りて濱町秋元侯の邸 水心子正秀所に寄る
十一日…(略)…三齋小路服部善藏所に入りて黒沢東蒙を□訪ふ語りて ※11月
二十五日…(略)…服部善藏所へ寄りし時に壹分を借りる事あり ※12月。彦九郎が金銭を借用

寛政3年(1791)10月、陸奥白河藩藩主松平定信の支援もあり、幕府により麹町善國寺谷の服部織之助の地590坪の内250坪を貸渡され麹町教授所を設立。善蔵が学頭となった。
『御府内往還其外沿革図書』の「寛政四子年之形」には善国寺跡傍、善国寺谷通東側2軒目に「服部善蔵拝借地」が書かれている。※それ以前は小川左兵衛。
麹渓書院(郷土史では麹渓塾、麹渓精舎などもある)を称し、昌平坂学問所の付属の役割をし学生を広く受け入れ進学生徒を排出する。麹は麹町、渓は善國寺谷の谷であろう。

 
▲善国寺谷・麹町教授所跡を望む

寛政4年(1792)7月21日巳刻(午前10時頃)麻布笄橋より出火した火災の飛火により学問所借地が類焼。
9月に林大学頭(林羅山から続く儒家当主。幕府儒官)・柴野彦助(栗山)・岡田清助(寒泉)ら昌平黌の教授達により善蔵が火事の手当金50両を受取ることが勘定奉行に認められた。(『御触書』)

 
名刹鎮護山善国寺碑と善国寺坂上
坂の上に鎮護山善国寺があったことから善国寺坂と名付けられ、坂の下は善国寺谷や鈴振坂と呼ばれた。善国寺は寛政10年(1798)の火事で焼失して牛込神楽坂替地に移転。跡地は火除地に召上られた。

寛政5年(1793)10月、病死した兄の住む借地を返納。12月永続手当として平河町に165坪の町屋舗を賜り、その税を学校の費用に充てたという。

 
▲中坂から町屋敷跡を望む。案内板の古地図の現在地の箇所に「教授所附町屋敷

寛政8年(1796)5月に善蔵は病を患い、12月に教授を辞した。
善蔵の正妻(大橋氏)に子はなく、庶子のうち男子は順に長太郎、順ニ郎、彌三郎。
長太郎は夭折し、教授を継がせる子の順次郎は幼年(この時8才)であったため門人に托した。
文化5年の絵図には「服部順次郎拝借地」となっている。

寛政12年(1800)5月11日善蔵死去。65歳(66とも)。麻布山善福寺に葬る。
善成院喜道居士
(現在、磨耗の進んだ「栗齋服部先生之墓」は立替により墓前灯篭の先に置かれ、中央に新しく関係者子孫の方により栗齋服部先生之墓が建立されている。墓所は撮影不可)
善蔵の門下として頼春水、頼杏坪(らいきょうへい。芸藩)、櫻田虎門、秦新村、都ツ築訓次、宮原龍山、宮原桐月、池田貞助、集堂三五郎ら多くの学者を輩出した。

 

■その後の麹町教授所
文化4年(1807)2月、順次郎が教授を継いだ。
文化9年(1812)6月、順次郎は周囲の期待に沿わず禁固罪を蒙り、町屋敷を取上げ年々金30両ずつ地代金の内より被下とした。
文化12年(1815)順次郎が病死。弟もこの時既に亡くなっており、順次郎の子も幼く病弱であったため養子を願うが叶わず麹町教授所の後継が途絶えてしまった。
文化13年(1816)12月に教授地は学問所(昌平黌)の持地となる。

天保13年(1842)2月に林大学頭が摂津守へ教授所再設を進達。(麹町教授所御再建一件帳)
5月15日に松平謹次郎を教授方に任命し、6月6日麹町教授所の再開を布令。
松平謹次郎は、御所院番本多日向守組松平兵庫助の弟。この時38歳。
文久元年の絵図には「松平謹次郎 学問所持地」とあり、謹次郎は元治元年(1864)まで教授を勤めた。

その後も御牧又一郎、大島文二郎、大久保祐介(敢斎)他一人を順に教授とし継続。
明治元年7月20日に鎮守府により接収される。その後敢斎に預けられ8月23日教授再開を東京府に命じられ11月10日敢斎は大得業生となる。12月27日学制改革により免職。

尚、信古堂は玉水の同門下で善蔵の親友である岡田恕が善蔵の意志を継いで経営に努めた。

 
▲平河天満宮と麻布山善福寺(墓所は撮影禁止)
平河天満宮(平河天神)
 江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明十年(一四七八年)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)
 慶長十二年(一六〇七年)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉還されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
 徳川幕府を始め紀州、尾張両德川井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。
 また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
 現在も学問特に医学芸能商売繁盛等の信仰厚く合格の祈願等も多い。(境内の御由緒書より)

・「平河天満宮」所在地:東京都千代田区平河町1-7-5
・「懐徳堂旧址の碑」所在地:大阪府大阪市中央区今橋3丁目5-12 日本生命本店

大河内三千太郎[3]篤志・教育家としての後半生

(前の記事→[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる

神居村総代人となる
明治24年(1891)6月に看守を退職し、空知監囚人外役所があった神居村番外地(ニ通り1丁目、後の美瑛町1丁目)に移住して荷物の運搬業を営んだ。
※上川市街地計画上での神居第一・第二市街の測量区外。第三市街地は旭川
三千太郎の住む二通り1丁目は、美瑛駅逓所から1町(約109m)程の距離で、神楽(25年2月4日に神楽村となる)には新しく忠別川に忠別橋、美瑛川に美瑛橋(後の両神橋)が仮設され、翌年旭川に旭川駅逓所が置かれて運輸の需要が大いにあった。
そして三千太郎は神居村の第1期の総(惣)代人を引継ぎ、33年3月(第5期)までの全期間を歴任した。
※この頃の総代人は村民から2名が選ばれ村の事業等について評決し、戸長が施行した

明治27年(1892)12月4日に疋田新助、掛場吉右エ門らと共に村民72名の連署を以って忠別太53万3500坪を共有地として貸下出願が認可される。
明治28年(1895)4月、札幌連隊区徴募区徴兵参事員となる。8月、神居村に公立忠別小学校(10月に忠別尋常高等小学校に改称)の分校を開くため三千太郎所有の倉庫と金二十円を寄付
9月27日に三千太郎らが申請していた雨紛原野2万3325坪の基本財産貸下が認可。

明治30年(1897)8月31日忠別尋常高等小学校の神居分校が開校。
明治31年(1898)8月15日旭川に鉄道(空知太間の上川線)が開通。三千太郎は開通式の発起人の一人である。
明治32年(1899)2月10日に三千太郎らは神居分校の独立を決議し3月13日認可、4月に神居尋常小学校と改称、新築して開校となった(ロ通り右6、ハ通り右6左6)

 
▲現在の神居小学校と北海道庁立上川二等測候所跡
総代人らの協議会は神居尋常小でされ、三千太郎は村の共有財産確保や教育に貢献した。
「候所跡」は『明治ニ十三年旭川地図』市街予定区画外(番外地)にある空知監獄署出張所のすぐ西の区画内に書かれている。明治21年7月1日に樺戸監獄署忠別太派出所事務所の一室で気象観測を始め、23年7月23日に新築移転し31年7月末までこの地(ホ通り4丁目/3号)に在った。

測候所が旭川に移った頃に旭川駅が開通し翌年には第七師団の旭川移駐が内定、次第に旭川市街が上川郡の中心街となっていく。

 

旭川に私立校を設立、中学校警察師団等の嘱託教師として剣術、剣道を教授
明治33年(1900)4月10日水田開発のための灌漑溝の開墾についてので熱弁。
6月に学科と剣道の教授の場として、藤本本蔵・馬場泰次郎等と旭川市街予定地宮下通14丁目右5号に「文武館」を設立し、三千太郎が塾長となる。
※8月に旭川村は旭川町に改称

明治34年(1901)7月に有志家の援助を得て、旭川町一条通9丁目左7号に「上川尚武館」として大河内剣道道場を移転し、三千太郎が館主となる。門下は300余名を数え、60余名が通学したという。
文武館は来海實を館長として私立中学「上川文武館」として引継ぎ、三千太郎も剣道を教えた。夜学を開始し生徒約80名となるが、3年後に休館。

 
▲上川尚武館跡地と文武館跡地付近
明治36年(1903)5月1日に上川中学校(現旭川東高等学校)が開校、剣道教師となる。
6月に尚武館に講道館流柔道部新設、教師は齋木藤之助。

……明治34年昨年6月21日東京市会議所で星享を短刀で暗殺した伊庭想太郎へ9月10日に酌量減等の上無期徒刑の判決、翌年4月19日の控訴審で無期徒刑が決まり東京の小菅監獄に収監。
この想太郎が網走に送還された時に三千太郎が付き添った風聞もあるが、想太郎は明治40年10月31日に小菅監獄で胃癌で病死している。付添いを裏付ける資料は無く、三千太郎は少年時代に伊庭道場の門下であったともいわれ箱館戦争では想太郎の兄の伊庭八郎らと共に戦っており無期徒刑からの連想だろうか。

 
▲現在の旭川東高等学校。また三千太郎は第七師団の工兵隊にも剣の指導をした

大正2年(1913)8月4日に伊藤くにが亡くなり、9月一郎とくにの墓を建てる。
大正5年(1916)妻のみや(みと)が64歳で亡くなる。
大正7年(1918)4月まで上川中学校に勤続した。三千太郎は長い白髭を蓄えた晩年まで近隣の学校、旭川警察署などにも出張指導し、時には式典で直心影流剣術や鎖鎌術の演武を披露したのである。
11月24日に上川尚武館にて73歳で卒去。尚徳院大與武道居士。

 
▲養子の武雄と門人の建てた三千太郎の墓(正面は前編に掲載)
大河内三千太郎墓」「大正七年十一月廿四日 逝享年七十三 法諡 尚徳院大與武道居士
男 大河内武雄  門人一同 謹建焉

**前の記事**
[1]上総義勇隊頭取、箱館戦争に従軍
[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる

■■不二心流と木更津「島屋」■■
[2018.6/3 記事を分けました]

大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる

(前の記事→大河内三千太郎[1]上総義勇隊頭取、箱館戦争に従軍

北海道空知監獄署に奉職(前半続)
明治22年(1889)5月空知監獄署の看守長代理となる。
この年の8月奈良縣吉野郡十津川郷の大洪水で被災し依る所のない住民600戸は官費での集団渡道を決め、最初の十津川移民789人が小樽港に上陸、10月31日に市来知に到着し、空知監附属の撃剣場等を移民の宿泊所に充て囚人が炊出しを行った。移民達は天長節の祝賀を願い出て11月3日まで滞在する。
この天長節について川村たかし(ドラマ化された『新十津川物語』作者)の新聞連載『十津川出国記』に、空知監の看守と十津川移民とで剣術試合を行ったことが書かれている。
幕末剣士達が看守となっているため腕自慢の郷士達でも歯が立たなかったが、中でも「看守長の大河原は鎖鎌の妙技を披露して驚かせた」という。三千太郎は剣術と共に鎖鎌術にも優れ度々披露していることから、この「大河原」という看守長は「大河内」のことであろう。
※この後、老人や子供は囚人の手で運ばれ空知太に入植し新十津川村(現在の新十津川町)が開かれる

 

上川郡道路開削従事囚徒の引率
明治23年(1890)4月に三千太郎は石狩国上川郡(現旭川市)の忠別太(ちゅうべつぶと。忠別/チュップペツ)から伊香牛までの北見道路開鑿のため囚徒270名を引率する。(鈴木規矩男『上川発達史』の三千太郎本人談)
永山屯田兵地の開拓も進められ、永山屯田本部と官舎や授業場等の建築が行われる。兵屋400戸のうち、樺戸・空知監は300戸を請け負い(監獄署は二中隊の200戸、札幌の北海商会が一中隊の200戸を担当したが頓挫し100戸を監獄署が引継ぐ)永山本部の後方に囚徒小屋を建てた。
山で木材を伐採するために監獄署出張所が牛朱別川畔と宇園別(当麻町)に置かれ、石狩川や牛朱別川に流して永山で製材した。
三千太郎は永山に居て、時々忠別太に置かれた空知監派出所へ赴いたという。
7月22日に監獄署は集治監に名称を戻す。9月20日に神居(かむい)村・永山村・旭川村の三村が置かれる。

 
空知監獄署出張所の跡碑と出張所があったとされる付近
明治22年6月に神居村に中央道路開削と屯田兵屋建設のため出張所が置かれた。
『明治ニ十三年旭川地図』美瑛川端に空知出張所が書かれている。現在は当時と川筋が変わり中洲にあたるという

『神居村神楽村村史』に明治32年に榎本武揚が旭川を訪れ、かつて箱館戦争に加わっていた三千太郎も神居から駆けつけ謁見し土地の価格について等に答えたと書かれているが、その頃は政界を引退し個人で学会等の会長を兼任し公的な記録が乏しく真偽不明。
『旭川史誌』等に明治23年9月に樞密顧問官榎本武揚が上川を視察とあり、再会が事実ならこの年であろうか。

 

明治24年(1891)永山村の樺戸出張所第一外役所の炊所勤務であった樺戸看守白石林武(しげたけ。明治19年9月1日樺戸監職員に採用)の勤務記(『北海道集治監勤務日記』)4月3日に「空知出張所看守大河内氏ヘ過日押送相成候囚七拾弐名、朝飯壱度分相渡置候事、拙者囚弐名引率ノ上渡済…」とあり「空知看守大河内 氏太刀鎌能シ」と、日々撃剣稽古に励んでいた白石らしい付記を加えている。

 
屯田歩兵第三大隊本部跡碑永山屯田兵屋(旭川市博物館展示)
三千太郎の引率した囚人達は裏に小屋を建てて本部や兵屋建設に従事した

5月に永山屯田兵舎落成。
6月屯田兵歩兵第三大隊本部が置かれる。7月2日に永山屯田兵の入地が完了。
7月25日に月形から永山・神居・旭川3村の戸長役場が永山に移り、屯田兵本部官舎に仮住して開庁。

 
樺戸監獄署出張所の跡碑(事務所等跡地)と初め事務所があった農作物試験事務所棟
明治20年5月、上川仮新道の改修に囚徒を従事させるため農作物試験所建物(現神居1条1丁目忠別太駅逓第一美瑛舎)に樺戸監獄署出張所が置かれた。ただし、獄舎、看守詰所等監獄署としての施設はこの一帯に置かれ、後には事務所もここに移った。囚徒は、新道工事のほか屯田兵屋の建築にあたるなど、陰ながら上川開拓に大きな足跡を残した。
上川郡農作物試験所は明治19年に建ち20年に樺戸監に移管され忠別派出所事務所となり、22年に貸下げられ官設駅逓(人馬車継立兼休泊所)となり、8月15日に忠別太驛逓第一美英舎が開駅した。

白石林武の勤務記にみられる通り、空知出張所の三千太郎は樺戸監とのやり取りもあった。

 

大河内三千太郎[3]篤志・教育家としての後半生へ続く
(前の記事→[1]上総義勇隊頭取、箱館戦争に従軍

■■不二心流と木更津「島屋」■■
[2018.6/3 第三大隊本部跡碑追加。長いので記事を分けました]

大河内三千太郎[1]上総義勇隊頭取、箱館へ従軍

  
▲『年寄部屋日記』の押収された三千太郎の羽織の箇所と、旭川にある三千太郎の墓

 

大河内三千太郎藤原幸昌(みちたろう、道太郎)略歴前半

■江戸で剣術修習
弘化3年(1846)10月15日に上総国望陀郡木更津村(千葉県木更津市)で大河内一郎の長男として生まれる。
安政元年(1854)1月に幼くして江戸で心形刀流伊庭軍兵衛(伊庭八郎や想太郎の父)の門に入り、数年修行を積む。

■木更津の大河内道場で指導
木更津に帰郷後は八幡町の八劔(やつるぎ)八幡神社境内の不二心流道場で、神主八劔勝秀の長男の勝壽(かつなが。嘉永元年生)と共に剣を教えた。
文久3年(1863)7月17日に父一郎が亡くなり持宝院に葬る
慶応元年(1865)6月地曳新兵衛の娘なをを妻に娶る。7月に挙式。
慶応2年(1866)5月9日になをが亡くなり持宝院に葬る

■戊辰戦争勃発、義勇隊を率いて撒兵隊に協力
慶応4年(1868)4月に木更津に上陸した撒兵隊に協力し大河内阿三郎不二心流四代目)が義勇隊長となって島屋一門200余人を率いて、三千太郎が隊を指揮したという。
閏4月7日に五井宿・姉ヶ崎宿の合戦で撒兵隊が敗退。三千太郎は八幡宿の民家に潜伏し、千葉を経て、下総国の新政府恭順藩の捜査網にかかる危険をかい潜って北行した。
……一方、大河内の腕利きの者達が出払っている木更津村へは大河内総三郎(不二心流三代目)が潜行した。木更津に官軍が南下する情報が入ると、八劔勝秀は戦に備えて刀を差し、火縄銃の心得がある勝壽を撒兵隊分隊長に紹介している。

5月21日に大総督は佐倉藩(藩主に謹慎が命じられた佐貫藩にかわり佐貫城を管理)に富津陣屋の前橋藩と協力し房総地方の賊徒討伐を命じた。
しかし皆銚子へ逃れた後であり、佐倉藩の報告によると匝瑳郡西小笹村の喜左衛門宅(大河内本家)も佐倉藩の捜査が入ったが、18日に佐貫城を襲った賊徒として「上総国本納村元農具鍛冶職平右衛門」を誅したのみであった。
武具や被服等押収品の一つに「白絹紋附羽織 壱枚 但襟ニ義勇隊頭取大河内三千太郎藤原幸昌花印」とあり、本家に三千太郎が立ち寄ったか、形見を本家に届けるよう平右衛門に羽織を托したのだろうか。(『年寄部屋日記』)
また、この後の8月に美香保丸の難破に遭った伊庭八郎らが「伊庭軍兵衛の門弟であった大河内一郎」を頼ろうと木更津に向かうが官軍に抗って捕縛されたことを聞いている。
三千太郎も若い頃に伊庭道場に入ったとされるが父の大河内一郎は戊辰前に亡くなっており、伝聞ゆえか情報の食い違いがある。

■箱館戦争に従軍
明治2年(1869)4月11日に松前より江差に出陣。『遊撃隊起終録』には縫殿三郎(不二心流二代目の幸安とは別人)が抜刀して敵を切り伏せて進み、雨流石(雨垂石村)で砲撃の前に散った様が記されている。三千太郎も側で戦ったであろう。討死9名負傷14人という犠牲は大きかったが官軍を敗走させることができた。
『元徳川藩遊撃隊勇士年齢』に「上総浪人 大河内三千太郎 二十四才」の記録がある。
『戊辰戦争参加義士人名簿』に「第一軍一番隊(徳川脱走遊撃隊・隊長人見勝太郎士官 大河内縫殿三郎 大河内三千太郎」再編成後は「二番小隊(頭取沢録三郎)右半隊 大河内三千太郎」とあり、三千太郎が遊撃隊に加わったことが分かる。

5月17日に総裁の榎本武揚らが降伏し18日に五稜郭が引渡され箱館の寺院に入り、21日に運送船で津軽青森に送られ6月9日弘前城下に移る。
三千太郎は関昌寺に沢録三郎ら86人と謹慎となった。

■赦免後は東京で榊原健吉の撃剣会興行に加わる
明治3年(1870)7月に下谷車坂町の道場で榊原鍵吉(さかきばらけんきち)に直心影流の極意皆伝を授かる。
明治5年(1872)秋、みや(みと)と入籍。
明治12年(1879)8月25日上野公園で催された、明治天皇の上野行幸における「槍剣天覧試合」に榊原一門が出場した。当時の新聞に剣術で出場した三千太郎の名もみえる。

■北海道で集治監の撃剣教授となる
明治15年(1882)7月に空知集治監に招致され撃剣教授を勤務。
明治17年(1884)7月に役を辞任。精勤を賞して金二十円が下賜された。
※斎藤建二著『樺戸監獄と旭川』や長谷川吉次『北海道剣道史』旭川剣道連盟編集委員会『旭川剣道史追加資料』等では樺戸集治監とするが、樺戸での一次資料が確認できず、調査中。
なお樺戸集治監の演武場の山岡鉄舟の筆による「修武館」の額は明治15年に書かれたもので、翌16年から19年まで神道無念流の杉村義衛(新撰組の永倉新八)が剣道の指南番となった。


■東京に戻り警視庁撃剣世話掛となる
明治19年(1886)9月28日、北海道の市来知(現三笠市)空知監獄署(集治監より一時改称)典獄の渡邊惟精(これあき)に手紙を送る。(『渡邊惟精日記』)
明治20年(1887)2月3日、東京に帰京中の渡邊典獄の元に三千太郎が来訪。
3月に警視庁より撃剣世話掛に任命される。
5月に甲部撃剣教授となる。
8月29日東京神田黒門町19番地に在った三千太郎から渡邊典獄に手紙が届き返書。

■空知監獄署の看守長代理となる
明治22年(1889)再び北海道へ渡り、弟の伊藤常盤之助と同じく空知監に勤め三千太郎は看守長代理となる。
 
空知集治監跡地と空知典獄渡辺惟精の碑

大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となるへ続く

■■不二心流と木更津「島屋」■■