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【不二心流四代目】大河内正道と戊辰戦争義勇隊


大河内正道藤原安吉(おおこうちまさみち)
天保14年(1843)12月25日に上総国望陀郡木更津村で大河内縫殿三郎の三男として生まれ、阿三郎と名付けられる。
嘉永3年(1850)正月には8歳にして父や兄総三郎から不二心流の剣を学んでいた。
安政2年(1855)6月に13歳江戸にて神道無念流斉藤弥九郎に入門。
安政2年(1859)2月17歳で去り、3月に木更津村と西小笹村の大河内道場で初めて門人を取り立てて剣を教える。その後関東を遊歴し更に剣の腕を磨いた。
慶応2年(1866)2月に甲州甲府郭内旗本菅沼米吉邸(山梨県甲府市)で道場を開き、江戸に随行もしたが、病で辞して木更津で静養する。

 

戊辰戦争、撒兵隊に協力し義勇隊を結成

慶応4年(1868)正月に鳥羽・伏見の戦が勃発し徳川慶喜が恭順の意を示すが、処遇に抗おうとする佐幕派の者達は方方で協力を求め、2月下旬に幕府撒兵(さんぺい)頭の福田八郎右衛門道直の使者が大河内家を訪ねてきた。
大河内兄弟は徳川のために立ち上がりたいと希望するが、縫殿三郎は79歳の老齢であり事態を静観した。
3月に福田の使者が再び訪れたのを機に、阿三郎は覚悟を決め、妻を実家に帰した。
老父縫殿三郎が詠んだ「行先はめいどの花と思へども 雪の降るのに桜見物」を以って決別し、江戸へ福田との面会に発つ。

4月9日に江戸を脱走した撒兵隊(さんぺいたい。さっぺいたいと呼ばれていた)が、寒川(千葉市)を経て木更津村に入った。
──房総には徳川恩顧の大名や旗本が多く、大多喜藩主大河内正質(島屋大河内家とは無関係)は老中格で鳥羽伏見の戦いの幕府軍総督を務めた。飯野藩は会津藩松平家の親族筋で藩主保科正益は第二次長州征伐の石州総督を務め徳川慶喜の助命嘆願所にも連名している。
彰義隊が江戸に在り、歩兵奉行大鳥圭介ら伝習隊・新撰組が下総に、榎本武揚の艦隊は安房館山湾に向かっている。その間にあって江戸への海路となり阿三郎のように熱意のある剣士もいる上総方面を目指したのであろう。
実際は時勢に合わせて大多喜・飯野藩をはじめ殆どの藩主が恭順の意思を示していたが、隠居中の先代藩主や土地の者にとって幕府の影響は薄れていなかった。

撒兵隊は「徳川義軍府」を名乗り選擇寺に本営を置いたとされ、「義」の字を染めた小切れを肩につけた隊士達が付近に分宿し、福田は島屋を宿所とした。
撒兵隊の後に木更津へ上陸した人見勝太郎伊庭八郎ら遊撃隊も島屋の側の成就寺に陣営を設けたという。大河内一郎(島屋当主幸左衛門。3年前に死去している)の息子大河内三千太郎は過去に江戸で伊庭道場に入門していたとされ知己であったのだろう。

義勇隊頭に選抜された阿三郎は島屋門を中心に参戦意思がある者を義勇兵として纏め、八劔八幡神社の拝殿を義勇隊の陣営とした。
境内には神主の八劔氏が大河内家に提供した町道場があり、当時は三千太郎と神官八劔勝秀の息子勝壽が剣を教えていた。若い三千太郎も義勇隊頭取として島屋門の者たちを率いた。

 

五井戦争敗退

4月下旬に撒兵隊は本営を砦に適した山間の真里谷村(まりやつ。木更津市真里谷)天寧山真如寺(しんにょじ)に移し福田が第四・第五大隊を率いて移動。第一隊長の江原鋳三郎は国府台進出を作戦とし、第一~第三大隊を北上させた。そして新政府軍は幕府脱走兵の掃討のため総州へ兵を向けた。
閏4月3日に市川・船橋方面で撒兵隊第一・第ニ大隊が敗退し、薩摩・佐土原・備前・大村・津・長州各藩兵が北姉崎に北上中の第三大隊を討つため南下する。
7日早朝、五井(市原市)根山(ねやま)で再集結した撒兵隊他義軍が養老川を背に新政府軍を迎え撃つも11時過ぎには敗退。

養老川を渡り真里谷へ向け押し寄せる新政府軍を食い止めんとし、中村一心斎の薫陶のもと幼い頃から剣の腕を磨いてきた大河内一族からは少年剣士も義勇隊に加わり19人斬りで敵味方を圧巻させた勇猛さが伝わっている。
…木更津の里に年頃剣術の道場を開き数夛門弟を集めて指南を業とし大河内某といふ者父子あり、閏四月七日五位、姉ヶ﨑辺の戦争中に門弟八十人を引連 横合より宦軍へ打て出て、花々しく血戦し、子某は歯纔(齢わず)か十五才なりしか、眼前敵兵十九人を斬伏せて、其身も討死し、父某も数十人と戦ひて、終に討蓮(れ)たり、此一手の目覚しき働き、敵も味方も皆肝をつぶし、只茫然と静まり…」(『日〃新聞』慶応四年「閏四月」記事。新聞なので誇張はあろう)

しかし剣の腕では新政府軍の砲撃に敵わず、退きながら抗戦または撤退し散り散りになった。
参戦した大河原一門は戦死した者、郷里の小笹村に身を寄せる者、箱館まで従軍する者と様々であった。

阿三郎は危機を掻い潜って真里谷村に帰還するが、馬上で敵に囲まれていた福田を見失ってしまった。
阿三郎は已む無く300人程で決死隊を結成し、新政府軍が捜索を続ける木更津村方面に押し出て江戸に渡る。

江戸に至ると福田も出府していた。
8月上旬、福田の出廷に阿三郎も同道し、尋問の上で放免となった。

 

結城藩成東陣屋の撃剣教授となる

明治2年(1869)6月に阿三郎は両親を訪ねて成東村に逗留した後、南房総へ発った。
その後、結城藩の水野日向守により成東陣屋へ撃剣教授として招致の知らせが届き承諾。
>※常陸国行方(なめがた)郡大生原村(おうはら。現茨城県潮来市)より成東に移住したともされる元倡寺の興譲館道場の師範役となり、弟の四郎信明と共に指導。
報国社を結成し社長として維新の廃刀令で衰退していく撃剣の再興に努め、直心影流榊原健吉らと撃剣会を開催した。明治12年(1879)8月25日上野公園で催された明治天皇の上野行幸における槍剣天覧試合に一族の大河内三千太郎が剣術で出場している。

 

富津村で旧忍藩士田代家に養子に入る

明治13年(1880)陸軍工兵第一方面(東日本の軍用建築を担当)派出所出仕。
周准郡富津村で阿三郎の親族の旧忍藩士田代兵七郎氏方の養子となり、田代姓となった
明治14年(1881)9月6日に兄の宗三(総三郎)が亡くなり嫡流が途絶えた(宗三の実娘が入婿と離縁し子がなく、養子家族は紺屋を継ぐ)ため、阿三郎が不二心流4世を継承

明治15年(1882)11月3日元洲堡塁砲台建築所勤務中に成東で弟の四郎が37歳の若さで亡くなり、道場維持のため辞職を申し出るが聞き入れられなかった。

富津元洲堡塁砲台跡 富津元洲堡塁砲台跡通気口 富津元洲堡塁砲台跡

富津元洲堡塁砲台跡(富津公園「中の島」)と地下掩蔽部
砲座6門を東西に配置し両端に観測所を設けたという。大正4年除籍。中の島の他に富津岬の各所に現存するコンクリート製の観測所、警戒哨、隠顕式銃塔等はほぼ大正11年設置の第一陸軍富津射場(試験場)のもの。

 

復籍し正道と名を改め町会議員、成東中学校の撃剣教師となる

明治16年(1883)初夏に許可を得て成東へ帰省。自宅敷地内に道場を新築する。
明治17年(1884)原籍に復帰。田代家は息子の精一郎を相続人とした。
明治21年(1888)名前を正道と改める
明治22年(1889)4月25日成東町町会議員となる(明治25年4月24日退任)
明治24年(1891)10月望陀郡根形村飽富神社に振武社が献じた不二心流奉額に連名。
明治26年(1891)12月26日正道の練武場で一本町物産比較会を開く。
明治31年(1898)4月25日成東町町会議員となる(17点で補欠議員当選。明治40年4月24日まで)
6月9日午後8時20分に正道の宅地内の椎名三乕の保有地から発火し近隣に類焼、11時30分に鎮火した。
明治33年(1900)2月6日に佐倉中学校成東分校教諭田中玄黄が出張事務所開設の相談をし、正道の宅地から借受けて仮事務所を開始(『田中哲三家文書』※6月に法宣寺に移る
4月佐倉中学校成東分校(翌年成東中学校に改称。現在の県立成東高等学校)が開校し正道が学事世話掛(学務委員)となる。撃剣教師として剣を教授した。
大正2年(1913)5月に病を発症。
大正4年(1915)10月に中学校教師を辞職。
大正12年(1923)3月25日に東京府目黒町千番地にある嫡子の田代精一郎宅で没。享年81。
麻布山善福寺に葬る。超證院襗正道居士。

麻布山善福寺勅使門 麻布山善福寺本堂

麻布山善福寺勅使門と本堂
所在地:東京都港区元麻布1丁目6-21

* * *
※善福寺は墓地の写真撮影不可。
大河内友蔵(嘉永元年1月10日生。無刀流。剣道教士。総州出身で福島県へ移る)が正道の養子となったという話があるようだが、友蔵とは5歳しか年齢が違わないため誤記か?(調査中)

■■不二心流と木更津「島屋」■■

甲府に向け黒駒へ

慶応4年(1868)閏4月19日、伊庭八郎の進言で、甲府城にの奥平・真田・水野等の兵達への対策として、遊撃隊の精鋭20人が難所の三坂峠を押さえた。
真田家の兵が黒駒まで来たが、三坂峠に請西藩林忠崇と旧幕府遊撃隊らの兵が既に陣取っていることを知り退却。

20日朝、忠崇一行は川口を出発。三坂峠を経て藤ノ木に進行。黒駒で逗留する。

御坂峠 御坂みち上黒駒

御坂峠を経て黒駒へ至る

 

5月に入り甲府へ軍を進めようとしたが、徳川家からの説得が伝わり、沼津表で10日を期限として命を待つことに同意した。

甲府城址 甲府城の発掘された石垣

甲府城址と発掘された石垣。忠崇らは甲府城を脅かさずに引き返した。

一行は5月2日から黒駒から道を南へ遡り、5日に沼津城下近くの香貫村に入る。

三島から河口へ

慶応4年(1868)閏4月16日の午前、請西藩藩主林忠崇伊庭八郎人見勝太郎旧幕府遊撃隊ら一行は韮山(静岡県伊豆の国市市)を出発。
甲府を窺うため三島(静岡県三島市)を経て深夜に御殿場(ごてんば。静岡県御殿場市)に着いた。

東海道五十三次の三島 三島から富士山までの展望図

山中(静岡県)からの展望図だと左手の三島から、右手の富士山が見える方向へ向かうこととなる
(東海道五十三次「三島」の浮世絵は沼津市設置の路上パネルより)

2御殿場と富士山 御殿場駅

▲現在の御殿場駅富士山口周辺と、箱根側(乙女口方向)

 

17日に、田安候の使いとして山岡鉄太郎が説得に来訪。翌日忠崇は上意を新政府軍の総督府に差出を依頼し、甲府(山梨県甲府市)で10日再命を待つと取り決めた。
19日に御殿場を出発。巣走(須走。静岡県駿東郡)、山中(山梨県南都留郡)吉田(山梨県富士吉田市)等を過ぎ川口(山梨県南都留郡)に宿陣する。
須走 吉田

▲一行は須走(写真左)から山中を経て吉田(写真右)まで北上する

河口湖駅 河口湖と富士山

河口湖駅と河口湖。「川口村」は、現在の現在の富士河口湖町

講武所跡

講武所跡 講武所跡の案内パネル

講武所跡
ペリー来航後の政情から水戸中納言斉昭等を中心に軍制改革を提唱する動きがあり、旗本・御家人に剣術・槍術・砲術などを学ばせ士気をあげるために江戸幕府が武芸訓練場として設けた講武所(こうぶしょ)が、この案内板の前の道から神田川までの一帯に在った。

 

講武所の歴史
嘉永の末(1853頃)、直心影流の剣客男谷下総守精一郎(おたに。信友。勝海舟の伯父※系譜上は従弟)が武技の訓練所設立の建白を上申。

安政元年(1854)5月13日の老中阿部伊勢守正弘は、浜苑(現在の浜離宮)南側の泉水蓮池等を埋立てて幅1町半・長さ三町ほどの広場に大砲操練の場「校武場」を創るための調査を目付に命じたが、設立は中止となる。
10月8日に「講武場」建設場所の調査を行わせ、12月2日に鉄砲洲築地堀田備中守中屋敷の上地、越中島調練場、筋違橋門外四谷門外(設置見合わせ)にそれぞれ建設を命じる。

安政3年(1856)春に築地堀田邸の地に総建坪1601坪余、1609畳・細畳3畳の講武場が落成。
3月24日に阿部正弘が「講武所」として創建を布達。
4月4日に久貝因幡守正典(くがいまさのり。旗本。娘が林忠交に嫁ぐ)・池田甲斐守長顕を総裁方とし、次席に跡部甲斐守良弼・土岐丹波守頼旨、先手に男谷精一郎等各役を定め、教授方として剣術は伊庭軍兵衛(惣太郎。心形刀流。伊庭八郎の養父)ら、砲術の頭取に下曾根金三郎・勝麟太郎(海舟)・江川太郎左衛門(英敏)らが任命されている。
4月13日講武所開場を前に、将軍徳川家定が私的に来臨。
4月25日に講武所の開場式が行われる。多くの来賓や見物人が集まり、教授方の弟子達による槍剣の試合や砲術打方演武が披露された。
5月6日に男谷精一郎が先手過人となり剣術師範役として出仕。
11月5日に将軍家定が公式に来臨。以降移転前まで年々臨場があった。
12月28日幕府は合薬座を設け、講武所附属とする。

安政4年(1857)閏5月に築地講武所構内に軍艦教授所(後に軍艦操練所)が設けられ、手狭になった講武所は移転を余儀なくされた。

安政5年(1858)正月14日深川越中島調練場完成。講武所の大規模な砲術調練は越中島で行われることになる。
10月、神田小川町(千代田区三崎町)の越後長岡藩(藩主牧野備前守忠恭)上屋敷周辺の土地7千坪への移転が決まり、翌年7月11日より起工。

安政7年(1860)正月15日講武所総裁を講武所奉行に改称。
26日小川町牧野邸の地に1970余坪の建物が完成し、講武所を移転。
2月3日に大老井伊掃部頭直弼(いい かもんのかみ なおすけ)らの臨席で開場式が行われる。

築地の講武所では剣槍砲の三術に水泳を加えて教授したが、場所の関係で水泳は軍艦操練所で行われここでは三術に柔術と弓術が加わった。(文久2年10月に柔弓術は廃止)
また兵学の講義は西洋流よりも伝統的な山鹿流が主流であったという。

3月3日に桜田門外で大老井伊直弼が暗殺され、この騒動の万一の備えとして11日より講武所に臨時泊番を置く。

文久元年(1861)4月5日、桜田門外の変を受けて将軍周辺の警護の強化が必要となり幕府は新たに親衛職の「奥詰」を新設し、講武所から伊庭軍兵衛ら50余人が登用された。
7月に稲葉兵部小輔正巳(いなばまさみ。安房館山藩藩主)が講武所奉行となる。

文久2年(1862)3月19日移転後初めて将軍徳川家茂が来臨。
4月8日、大関増裕(おおぜきますひろ。下野黒羽藩藩主)が講武所奉行となる。
11月15日大久保忠寛(ただひろ。一翁/いちおう)が講武所奉行に任じられるが、沙汰あって23日に罷免。
12月、講武所奉行大関増裕が陸軍奉行に転じる。

文久3年(1863)家茂上洛の際には伊庭八郎ら講武所の者達が随伴した。
慶応元年(1867)家茂は大坂滞在中、玉造に臨時講武所を開設する。

慶応2年(1866)11月18日、講武所が陸軍所へ引き渡される形で、講武所は廃止となる。
砲術師範達は陸軍所修業人頭取となり、残りの剣槍師範と職員達は遊撃隊に編入された。

維新後、講武所の地は陸軍の練兵場として使用される。
明治23年(1890)三菱会社に払い下げられて三崎町(みさきちょう)の市街地が開発された。

講武所の江戸復原図 江戸飯田町駿河臺小川町繪圖の講武所

▲江戸時代の切絵図と江戸復原図(案内パネルより)

■講武所付町屋敷(こうぶしょづきまちやしき)
幕府は筋違御門(すじかいごもん。現在の秋葉原にある万世橋と昌平橋の中間)外の加賀原(本郷代地~四ヶ町代地)を町屋に編入して講武所の維持費にあてたという。
明治2年に神田旅籠町(はたごちょう)と改称される。
この講武所上納代地は後に芸者街となり、俗に「講武所」と呼ばれていた。

講武所跡案内板所在地:東京都千代田区三崎町2-3-1 日本大学法学部図書館前

参考図書
・かみゆ歴史編集部『大江戸幕末今昔マップ
・東京市『東京市史外編3 講武所
・清水晴風『神田の伝説』
・勝安芳『海舟全集7

歴史ムック『壮絶! 幕末志士たちの最期』発売

メディアックス発行『壮絶! 幕末志士たちの最期』の伊庭八郎の記事に史料を提供しました。
私は文章にはノータッチですが、初版は該当記事に間違いがあるので一読者として訂させて頂きます。
山崎古戦場の現住所は、正しくは「神奈川県足柄下郡箱根町」付近です。
ライターさんは三枚橋城(沼津城)と取り違えたのかもしれません。

志士」と聞けば、坂本龍馬や桂小五郎ら勤皇系志士を想像する方が多いことでしょう。
このムックでは新撰組や奥州諸藩の幕臣ら佐幕系志士の壮絶な最期も扱っています。

上で指摘した通り記事にまで目を向けると誤りもありますが、画像豊富な「眺める歴史」ムックとしてボリュームある内容です。歴史物は絵や写真があると一層心が躍りますよね。
どのように生き、信念を貫いて散っていったかを扱う重いテーマに対して、月岡芳年らの華やかな錦絵が代弁しています。遺品や古写真、艶さえある錦絵の色彩の先にあった光景を想像して激動の時代の悲話を感じてみて下さい。

来年の大河ドラマ『花燃ゆ』に関わるヒロインや萩の英傑達にもスポットを当てているので、予習にもなりますよ。