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萬里小路大姉墓誌と川名りか

横田の万里小路大姉墓誌 万里小路大姉墓誌

萬里小路大姉墓誌碑。明治13年広部精(くわし。せい)の撰文

 

■川名里鹿(りか)
天保10年(1839)横田村(袖ヶ浦市横田)中下(なかしも)の豪商河内屋の川名惣左衛門栄助頼信(よりのぶ)とお鐐(りょう)の長女の里鹿が生まれる。

利発な里鹿は嘉永の頃に幼くして12代将軍徳川家慶(いえよし)の頃の江戸城二の丸の御女中に出仕した。貝淵藩林家の口添えも有ったのかも知れない。
大奥で老女(高位の女中職三役の総称)万里小路局(までのこうじ。まて様)に出会う。

嘉永5年(1852)13歳の時に祖父と父親が相次いで無くなり、嫡子の政之助がまだ幼児のため、川名家は大奥へ里鹿の宿下がりを申請する。
嘉永7年(1854)15歳の時に家督を相続するため横田へ帰郷した。
その後婿をとって5人の子を産む(3人は夭折)。

慶応4年(1868)にかつて大奥で面識のあったまて様が請西に移り住み、29歳の里鹿は横田から長楽寺まで往復して世話をした。
戊辰の役の後には、身の置き場を無くしたまて様を横田の川名家に迎え入れる。

明治5年(1872)に33歳で亡くなる。
その6年後にまて様も死去し盛大な葬式が営まれた。

 

萬里小路大姉墓誌 所在地:千葉県袖ケ浦市横田

* * *

碑文には矛盾が見られ、万里小路の出自が虚偽(将来的に大奥で権威をもつことになる、次期将軍の正室のお付きになるには京の公家から選ばれた慣わしのため)であった説もあります。
その他史料を照らし合わせると、大奥に入った後の万里小路が非常に有能で結果的には長く徳川家の支えとなったことは事実に近いはずなので、決定的な記録が発見されるまでは歴史に残した結果を重視したいと思います。

請西長楽寺と万里小路(まて様)

長楽寺山門 まて様の墓

長楽寺と養子の実家の墓地にある万里小路の墓

 

■万里小路局
寿賀姫(すが。壽賀)。
文化10年(1813)に大納言池尻(いけがみ、いけがめ。藤原四家北家の出とし、萬里小路氏と同属にあたる)興房(おきふさ)の末娘として生まれる。
※文化9年とも。興房の名を示す記録は見当たらず権大納言池尻暉房(てるふさ)と見られる。

天保3年(1832)20歳頃、11代将軍徳川家斉(いえなり)の孫家祥(13代将軍家定/いえさだ)の正室として輿入れした8歳の鷹司任子(たかつかさあつこ。天親院/てんしんいん)の世話役として京から江戸へ出仕。
天保7年(1836)に大奥に入る。家斉の寵臣林忠英が寿賀姫の宿元(身元引受人)となった。
将軍付小上臈(こじょうろう)となる。

12代将軍徳川家慶(いえよし)の代(1837~1853)に、将軍付上臈御年寄(じょうろうおとしより。女中職の最高位)となる。
上臈は生家の公家の通り名で呼ばれる慣わしで、寿賀姫は万里小路(までのこうじ)と称した。

西の丸で13代将軍徳川家定にも仕え、家定の死後に年齢を理由に大奥を引退し桜田御用屋敷で暮らす。

よほど人望と手腕があったのか14代将軍徳川家茂(いえもち)の時に再び大奥への出仕を命じられた。
万里小路は将軍4代にわたり仕えたことになる。

元治元年(1864)5月29日に大奥を辞して、請西藩藩主林忠交江戸浜町藩邸のもとに移る。この時忠交は伏見奉行として京に上っていた。
忠交の急死後はその後を継いだ林忠崇の国元上総国望陀郡請西村(じょうざい。千葉県木更津市請西)を隠棲地に定め、元部屋方お局(つぼね)都山(つやま)と共に江戸を後にした。万里小路局55歳の頃である。
京へ帰れば裕福な暮らしが出来たが、林家のもとに身を寄せたのは徳川への想いが強かったのだろう。
※万里小路は京の権中納言町尻量輔(まちじりかずすけ)の正室となり、後に2人の養子を迎えている。

慶応4年(1868)に木更津の河岸に上陸した際の荷物は親船2杯もあり、仮宿の長楽寺まで長々と行列が進んだ。
長楽寺住職の與喜海明は本堂脇の離れ座敷に万里小路局を迎える。
万里小路局は「まて(まで)様」と呼ばれ、洗練された侍女も8人位伴っており、華やかな様子であった。
しばらくして寺の裏手の高台へ住居(真武根陣屋の部材を解体・一部移築か)を構えた。

長楽寺太子堂裏 長楽寺庭園
▲長楽寺裏手の高台から本堂裏の大師堂(明治18年建立)と庭園を撮影

閏4月3日に藩主自ら脱藩した林忠崇が出陣したため5日に長楽寺で忠崇の武運祈願に大般若経を転読、まて様は御下髪姿で祈念したという。そして長楽寺から万丈を使いとして忠崇の必勝祈願の護摩札や供物を贈った。
京の朝家に帰らず請西林家に身を寄せたまて様は徳川の為にと決起した忠崇を心の底から支援していたのだろう。
16日にはまて様の金百両もの多額な援助金を持って忠崇のもとへ広部周助(上根岸の豪農)が韮山を経て合流している。
5月26日の山崎の戦いの掃討戦として27日に箱根宿端で小田原藩兵によって討たれた請西藩士に、まて様が養子にした嘉之三郎(鹿次郎とも)の父(祖父?)重田信次郎がいる。
※伝聞では鹿次郎は信次郎の子、記録では信次郎の長男である長兵衛の次男

戊辰の役の戦後に身の拠り所を無くし、困窮した晩年は横田村の豪商の河内屋惣左衛門栄助の長女、川名里鹿(りか)がまて様を自宅に迎え入れて世話をした。
川名家に移ってからも大奥の作法でふるまったという。

明治4年(1871)重田鹿之次郎がまて様の養子となる。
明治10年(1877)10月16日鹿之次郎が15歳で病死。
明治11年(1878)5月7日にまて様が66歳で卒中で死去。松寿院殿雙円成心大姉。
明治13年(1880)に広部精の撰文で萬里小路大姉墓誌が作られる。

まて様の墓表 まて様の墓横
▲まて様の墓の側面には万里小路局(つぼね)について刻まれている。

松壽院雙圓成心大姉 位

大姉ハ京都池尻前大納言興房卿ノ末女 文化十癸酉誕生也。
壽賀姫ト称シ 幼年江府ニ下リ 天保七年申年徳川城ニ勤仕ス。
婦徳有テ萬里小路局ノ役ヲ続キ家齊公ヨリ家茂公迄四代ノ将軍ニ侍ス。
辞後重田鹿次郎ヲ養子トシ一家ヲ興シ 終ニ明治十二年五月七日卒。

真言宗豊山派清瀧山長楽寺
鎌倉時代に請西本郷に稲荷山長国寺と称して草創され、永禄年間(室町初期)に現在の場所に移り、長楽寺と改称した。本尊は平安初期御作の薬師如来坐像。
融源上人が立ち寄り法流を広めてから隆盛し60ヶ寺を統理し、中本寺、常法談林所として土地の信仰と学問の中心であった。天正18年に徳川家康が由緒ある当寺を守護するため制札を下し、続いて寺領を寄進した。

長楽寺の菅原道真公の石碑板 長楽寺の碑石の裏
▲古くから「山の神様」と呼ばれ長楽寺の丘から木更津の港町を見守ってきた菅原道真公の石碑。
萬里小路局も江戸湾を眺めて忠崇のことを心にかけていたことだろう。

清瀧山明王院長楽寺 所在地:千葉県木更津市請西982

企画展「請西藩林家が遺したモノ」

請西藩林家が遺したモノ企画展チラシ

現在、木更津市の太田山公園(恋の森)にある郷土博物館金のすずで企画展「請西藩林家が遺したモノ」が開催中です。
新資料の公開もあり、林忠英の時代から幕末動乱期、そして明治以降の男爵林家の歩みの軌跡を辿ることが出来ます。
前期は4月26日まで、写真の展示が変わる予定の後期は4月28日~6月15日(県民の日は無料)までとのこと。

* * *
以下自分用の備忘メモ。

 

—–江戸時代・林家の隆盛——-
家紋付き革製書箱
林日記[文政9年(1826)・林忠英]
 …林肥後守忠英(ただふさ。貝淵藩主)の記。林家中祖林藤助の、有親・親氏親子への兎の吸物の由等
兎御献上之儀留[文政9年・林忠英]11月18日の直筆

林氏系譜[寛延3年(1750)・林忠久]
 …序、寛延3年2月従五位大守大学頭林信充(のぶみつ。榴岡。儒学者林羅山の家系の林家4代)撰文
林氏系譜[弘化3年(1846)9月・林忠旭]

 

—–伏見奉行・林忠交———–
拝領物留記[嘉永7年(1854)・林忠交]
 …林家4代忠満~15代忠旭までの当主が拝領した品々の記録
老中奉書[安政6年・林忠交宛]11月1日朝8時に西の丸の参上を命じられる
 …老中の脇坂安宅(わきさかやすおり。播磨龍野藩主)・松平兼全(まつだいらのりやす。三河西尾藩主)・間部詮勝(まなべあきかつ。越前鯖江藩主)より
褒美書付[慶応2年頃・林忠交宛]
 …元治元年、林肥後守忠交(ただかた。忠英の四男。請西藩2代藩主)が伏見奉行の時に長州藩士が伏見に滞在中に取締った与力見習い15人に銀5枚、同心52人へ金300疋の褒美

 

—–大奥の老女・万里小路局—–
2代目万里小路局は、池尻(いけがみ。藤原四家北家の出とする)氏の寿賀姫は大奥に仕え、徳川11代将軍家斉の寵臣林忠英が義舅となる縁もあり、天保7年に24歳で上臈の局となり万里小路(までのこうじ)と称した。
元治元年に大奥を辞し、林忠交の江戸浜町請西藩邸のもとに移り、忠交の急死後はその後を継いだ忠崇の請西を隠棲地とした。

長樂寺の欄間釘隠し
 …長楽寺(木更津市請西)は万里小路局を本堂脇の離れ(真武根陣屋の部材を解体・移築したとも)に迎える。昭和40年本堂改築のため解体しこの請西藩に因むが描かれた欄間等が保存された。(伊八か)
◆徳川4代の「戒名」「位牌葵紋付厨子
 …11代将軍徳川家斉(いえなり)・12代家慶(いえよし)・13代家定(いえさだ)・14代家茂(いえもち)の4代。万里小路所持とされる。厨子の台座部に、萬里小路大姉墓誌を写した状。

 

—–林忠崇と戊辰戦争出陣——-
戊辰出陣記[林忠崇]
 …慶応4年(1868)戊辰閏4月5日の万萬小路局より長楽寺万丈を使いとして護摩札・供物等を贈られた件。万里局は徳川への忠義のため挙兵した忠崇(ただたか。万里局と縁深い忠英の孫にあたる)に軍用金等を送るなど支援した。
◆林忠崇の短歌「降伏待刑
 真心の有か無きかは屠りいたす
 はらの血しほの色にこそ知れ 昌之助

 

—–家督再興——————-
◆家臣から弁事役所に宛てた嘆願書[慶応4年~明治2年(1869)]
 …鵜殿伝右衛門・田中兵左衛門ら家臣
御家名御再立一件[明治2年]
 …小笠原長国(ながくに。肥前唐津藩知事)の願出先の太政官や東京府の書状
◆小笠原家から宮内大臣子爵土方久元への林家華族編入嘆願書[明治26年(1893)6月]
 …伯爵小笠原忠忱(ただのぶ。宗家11代。豊前国小倉藩藩主)、子爵長育(ながなり。東宮侍従)・貞孚(さだざね。播磨安志藩藩主)
家名相続に付嘆書類 写し[明治2年]
忠弘(ただひろ。忠交の子、忠崇の弟)の花押[明治2年10月]
士族編入指令書受取書 写し[明治32年(1899)] 千葉県知事阿部浩 東京都四ツ谷区左門町廿七番地 林忠崇殿
旧藩士復籍願参考書[明治5年(1872)]必要書類
 …伊能・北條・北爪ら家臣復族について
林忠弘 華族に列す[明治26年10月30日・宮内省特旨]
爵位慶与
御達并進達留[明治8年(1875)2月~明治10年12月]林忠弘宛証文
士族編入に関する許可証[明治32年] 東京府知事千家尊福(せんげたかとみ)
林忠弘宛書状林家再興始末略[明治26年・広部精(くわし)]
特別縁故者姓名録[明治27年(1894)1月10日・林忠弘]
 …北白川宮能久親王(よしひさ しんのう。輪王寺宮)、伯爵小笠原忠忱、勝海舟、榎本武揚等や、旧請西藩家臣の広部精・大野友弥等支援者の名簿
士族編入願[明治31年・北爪家]
士族編入につき辞令拝受[明治32年・加納佐太郎等12名]

 

—–華族として—————–
位記[明治36年(1903)11月30日]宮内大臣田中光顕(みつあき)
◆忠弘の長女の錬(れん)と曽我友兄の婚姻許可証[明治41年(1908)7月28日]
◆忠一の東京帝国大学卒業証書[明治43年(1910)7月11日]
 …忠弘の長男(長男夭逝につき)の忠一(ただかず)は学習院高等科を経て、明治43年に東京帝国大学法律学科(ドイツ法)を卒業
華族戒飭令[明治44年(1911)12月27日]伯爵渡辺千秋(ちあき)
◆忠一宛の大礼記念章証書[大正4年(1915)11月10日・昭和3年(1928)11月16日]
辞令[大正元年(1912)10月2日]陸軍省から理事試補林忠一宛
 …忠一は帝国大卒業後志願兵として近衛歩兵第二連隊に1年在籍後、近衛師団経理部を経て陸軍第二師団法官部付理事試補になる。
理事叙任状[大正4年5月7日]内閣大隈重信より
 …忠一は第二師団法官部付きから第十師団法官部付きへ
家督関係資料[大正6年(1917)1月31日]前年忠弘死去につき爵位相続
大饗夜宴招待状[昭和3年(1928)11月1日]宮内大臣一木喜徳郎(いちききとくろう)
 …天皇即位で折京都御苑内の夜宴
位記 叙従四位[昭和19年(1944)12月1日]宮内大臣松平恆雄(つねお)
当選証書[昭和21年(1946)]
 …5月11日忠一は貴族院男爵議員に当選
◆第90回帝国議会貴族院議員氏名表[昭和21年]

 

—–林家の写真(前期展示)—–
◆明治8年・28歳の林忠崇
 …芝三田通り(慶應義塾前)で撮影
◆慶応4年(西暦1868年5月)林忠崇出陣姿
 …原版からの複写。お馴染みの20歳の出陣姿。
◆大正3年頃、66歳の剣道着姿の忠崇
 …よく書籍等でみられる写真。
◆忠崇の剣道の構え
 …横向きで竹刀の二刀流?
◆林一夢、大阪天王寺の寺内で撮影。
 …忠崇は林一夢を号する。和装の写真。
◆68歳の忠崇
 …洋装の写真。
◆紋付袴着用の90歳の忠崇
 …銀杯恩賜につき紋付羽織着用。お馴染みの写真。
◆昭和12年1月5日の集合写真。
 …90歳の忠崇を中心に、恩賜の祝賀に来訪した人々との撮影か

◆一ヶ月の長女と忠崇・明治19年8月頃撮影か
 …生まれたばかりの娘を抱く忠崇の口元は微笑んで見える。
◆忠崇の娘光子と日雇女
 …傘をさしている。女中せつ子との撮影。
◆明治36年5月10日・光子
 …簪をさした若い光子の和装。細面な忠崇に比べ丸顔の可愛らしい美人。
◆大正9年頃・32歳の光子
 …本の置かれた机で
◆光子と愛犬エス
 …室内の座布団の上で光子と共に行儀よく写る愛犬

◆忠崇の実妹の小山田律子
 …記載は明治42年4月に錬(忠弘の娘)が記した。忠崇と似た細面の美形。
◆林忠弘・明治24年5月8日
 …東京湯島撮影、お馴染みの写真。
◆忠弘の妻30歳の鋠(しん)、3歳の娘、15歳の女中のコト
 …椅子に座り幼い錬を抱いて、三人での撮影

* * *
書籍に掲載されているお馴染みの光子の写真は後期展示か。

──近代の人物について部外者が勝手に調べることが、趣味の範囲として許されるかがいつも悩む所です。
(特に旧飯野藩関連が廃藩後でも話題があるので。古い歴史人物でも、墓参とその撮影等できるだけ許可は得ているものの墓域に踏み込むのは毎度申し訳ない気持ちです…)

こうして資料を企画展の形で一般公開して下さる好意が本当にありがたいですね。

大御所時代の大奥-林忠英は「侫人」か

江戸幕府第11代将軍徳川家斉(いえなり)の死の直後から水野忠邦が行った天保の改革で失脚した林肥後守忠英(ただふさ。林若年寄)水野美濃守忠篤(ただあつ。御側御用取次)美濃部筑前守茂育(みのべもちなる。小納戸頭取)は、家斉の権威のおかげで地位を保った3人として、俗に西丸派の「三侫人」と言われ
忠邦を善玉として創作された『眠狂四郎』等、時代劇や小説で悪役のイメージがついています。
※侫人は口先がうまいおべっか使いのこと

林肥後守の経歴は貝淵陣屋と林忠英に書きましたが、家斉の身の回りの世話をする西丸の小姓から出世し、呉服橋門内に屋敷を賜り、大御所(隠居後の家斉)夫妻が西丸に移ってからも地位を保ちました。

その後の改革で厳しく取り締まられた町人たちは華やかだった大御所時代(徳川家斉の権威時代)を懐かしむ程でしたから、本丸派(本丸に居る第12代将軍家慶サイド)で厳しい倹約指導者の忠邦からみれば、浪費の多かった大御所時代を象徴する西丸派は綱紀粛正の対称であったことでしょう。
さすがに大奥には手が出せませんが、家斉あってこその側近達を一斉に失脚させたため、町人達の間で多くの風刺や噂が流布したのです。

林肥後守・水野美濃守の免職を洒落にした落首の例
御停止が明いて太鼓にばちあたり林どころか居る處もなし
ほとゝぎす此頃不得手飛びはやし八千石は鳴いてかへらぬ
林方太鼓もばちも打ちすてゝ 人にはやされ肥後なめに逢ふ
※林・肥後(守)・家紋の三つ巴に見立てた太鼓や、林と囃子(はやし)をかけている

 

将軍家斉の寵妾お美代の方(専行院)と、感応寺事件
まだ家斉が将軍職にあった天保4年(1833)12月17日、かつての日蓮宗の名刹であり天台宗に改宗している谷中の長耀山感応寺の日蓮宗帰宗のための経緯で、谷中感応寺は護国山天王寺と改称し、雑司谷の鼠山(現東京都豊島区目白)に感応寺を新たに造る許可が下りました。
天保7年(1836)12月28日に本堂が完成したとされます。
しかし天保12年(1841)正月晦日に家斉が薨去、その年の10月5日に幕府は感応寺を廃棄し、新しい大寺院がたった5年で更地に戻ってしまったのです。
また同じ時期に主玄院日啓・智泉院日尚ら僧徒が処罰されました。

東京市(東京都が設置される前の東京府の市。現在の23区相当)編纂史料に記載されている範囲ではここまでで、感応寺廃却に関する経緯は幕府の記録にはありませんが、随筆(当時を語るエッセイ)にまで目を向けると、大坂に住むとされる著者が当時の世相や伝聞を記録した『浮世の有様』の天保12年に「感應寺不如法奥女中を犯し、美濃守・肥後守・筑前守など心を合わせ、及ばざる工み事有りしを、御老中脇坂侯に見顯はされし故、比の者共申合せ、醫者両人に申付け、殿中に於て之を毒殺せしなど種々の取沙汰なり、如何なる事かは知らね共、皆々御咎にて知行を減ぜられ、奥中中大勢仕くじり、感應寺は申すに及ばず、醫者両人も入牢せしといふ事なり」と記されています。

この感応寺の事件は、明治時代の江戸文化論者・三田村鳶魚も引用している大谷木醇堂の思い出話『燈前一睡夢』に描かれ「文恭公升遐の後、林・水野・美野部が謫せられしも、荘内・川越・長岡等が領知替の事も、みなこれより起こりし事なりと聞く」と、文恭公(家斉)薨去後の西丸派の失脚の起因として噂されていたようです。

『燈前一睡夢』は水野忠邦を英傑と賞し、対立する者は賊臣とはっきり書かれているのでかなり著者の偏見が含まれていそうですが、当時から忠邦の改革により同時期に消されたすべてを繋げて想像した噂自体は有ったのでしょう。三田村鳶魚の『江戸の女』(伝聞が主で事実と明らかに異なる部分が見られますが…)での解釈も交えて事件を要約しますと──

お美代の方の実父日啓は、長男の日量(お美代の兄)が継ぐ智泉院(中山法華経寺の子院。日蓮宗)を、東叡山寛永寺(天台宗)のような将軍家の御祈祷所にしようという大それた野望を持っていました。
しかし子院レベルの寺では許されず、それならばと由緒はあるが今は天台宗に改宗している谷中感応寺を日蓮宗に戻させる計画を立てました。

その頃大奥では、家斉の数多い側室の一人おいとの方の子、千三郎(仙三郎)の眼病を中延法蓮寺の日詮(にっせん)が祈祷で治したことで日蓮宗の祈祷の人気が高まっていたので、将軍家の御祈祷所が出来ることを喜びました。
家斉の奥方達の要望を家斉の寵臣が無下に出来るはずはありません。
お美代の方の口添えと寵臣の林・水野・美野部の庇護もあって、計画が運びます。

東叡山の輪王寺宮舜仁法親王(りんのうじのみやしゅんにん。皇族の子息である住職)の計らいで計画は止められましたが、谷中感応寺は天王寺へと改称し、新しい感応寺を造ることとなりました。
天保5年5月に雑司ヶ谷鼠山の安藤対馬守下屋敷の広大な敷地(二万八千百九十三坪)を下付され、地鎮を中山智泉院が承りました。建設地の整地・地固めは、なんと大奥の女中達がやってきて華々しく行ったので、驚いた町人達はこぞって見物に来ました。

天保7年12月に完成した豪華で大奥の女中達も信仰する大寺院に、美男子な僧侶ばかりが揃えられたなどと多くの噂が流れます。
鼠山はかつてなく賑わいましたが、ある時、感応寺に運ばれた長持に生人形が入っていたのが見つかりました…つまり大奥の女性が長持に隠れて運ばれ僧と密通していたことが明るみに出てしまったのです。
以後は長持の重量を確かめるようになり、大奥女中の頭目が監視不届きで御暇処分となりました。
長持を見破って風紀を注意した寺社奉行脇坂大人が突然死したため(脇坂が死んだのは天保12年2月で家斉が亡くなってすぐです)毒殺されたのではと噂が立ちました。

水野忠邦の改革で智泉院と感応寺は摘発され、日啓と長男は「密通女犯」の罪を告発されて遠流が決まりましたが、実行前に獄死しました。
感応寺は取り潰され、大御所の寵臣であった林・水野・美野部は失脚し、お美代の方は押込処分となりました。
忠邦が、大奥を中心とした権力と乱れたの風紀をまとめて粛正したのです。

※実際には揉消しか虚構か、鼠山感応寺の顛末について幕府公式記録には記載されておらず、智泉院と感応寺の関係も不明です

 

──更に、家斉とお美代の間にできた娘、溶姫と加賀藩主前田斉泰の間に生まれた犬千代(前田慶寧)を次期将軍に据える西丸派の計画が本丸派に寝返った者の暴露で明るみになった、などと噂は尽きません。
いずれも林肥後守達は感応寺建立を容認したと思われるのみで、お美代と西丸派のイメージの土台は当時の噂を記した随筆を更に三田村鳶魚が大衆に広めた結果が大きいでしょう。

* * *

昭和16発行小山松吉の『名判官物語』はこれらのことを分けて扱っています。

■智泉院の事件
水野忠邦は、智泉院日尚(24歳)・守玄院日啓(71歳)を、祈祷で人民を惑わせ、婦女を姦し、大奥に通じ、奢侈に耽り僧侶としてあるまじき行為の疑いで、寺社奉行阿部正弘(23歳)に内偵による「風聞書」を制作させ、両僧を逮捕し取り調べさせます。
自白により日啓に関係する本丸西丸の奥女中達は30余名にのぼり、このまま取調べが進めば大奥のどこに及ぶか計り知れず、この関係者には一切取調べをせず民間関係者のみを取り調べました。
尼妙榮が密通のため押込50日・下女ますが押込30日の処分を下しましたが、日尚・日啓が彼女達の密通を知らなかったことが不埒として逼塞30日を言い渡しました。(日尚に対して三日間晒しの上、谷中妙法寺へ引渡す間寺法通り取調べるべしとあります)

■お美代と感応寺の事件
雑司谷感応寺という小寺の住職の娘は中野播磨守の養女となって大奥に出仕し、将軍の寵愛を受けたため、養父や感応寺は取立てられました。
感応寺は雑司谷に新たに七堂伽藍を建立し幕府の御祈祷所として御朱印を賜ったため参詣人が増え隆盛を極めました。
住職と僧侶達が奥女中と繋がりを持っていると察した老中脇坂安菫は、長持に潜んで寺に運ばれた女中を発見し注意しますが、他の老中達は大御所が健在だったため大奥に対して遠慮し検挙は憚られました。
大御所が薨去すると忠邦が大奥関係も粛正し感応寺を取調べさせ、お美代の方は表向きは押込処分となりましたが実際は優遇されたといいます。

■忠邦の対立者の処分
次に前将軍の勢いで権威をほしいままにし愛憎によって政治を行ったため粛清を受けた三人の股肱として、忠邦が信任していた鳥居忠輝・渋川六蔵・後藤三右衛門を挙げています。
林・水野・美野部の3人については、忠邦の改革に反対するであろう家斎時代の寵臣の免職としてだけの記載です。
また寺社と賄賂については、別の事件として牛込横寺町聖天別当南蔵院の賄賂の罪に水野美濃守が関与との噂が示されています。

* * *

賄賂は当時頻繁に行われていた(善玉に描かれる水野忠邦にすら賄賂疑惑がある)ようなので、失脚の理由として想像されやすかったことでしょう。

主に祖父・父からの伝聞を小冥野夫が明治7年に記した『しづのおだまき』に三名の免職に対し「おのれの私多くて賄賂専ら行はれし故に此輩を免職なし給ふ」とあり、続くあらましで忠英については簡単な経歴に「退隠後文恭大君の御墓参拝をも許されたり」と締め括っているだけで、驕奢や賄賂について書かれているのは著者と多少ゆかりがあるため話に聞いていたという水野美濃守とお美代の方の養父の中野碩翁(隠居前は小納戸頭取)です。美濃部筑前守は「実に無見識の人なり」と書かれています。

天保14年(1843年)に一勇斎国芳(歌川国芳)が描いた錦絵『源頼光公館土蜘作妖怪図』は、江戸の古本屋須藤(藤岡屋)由蔵の日記『藤岡屋日記』等によれば
平安時代の源頼光の土蜘蛛退治を、当時の将軍徳川家慶と大名達や天保の改革に当てはめ風刺した判じ物ではないかと評判になりました。

・早稲田大学図書館古典籍総合データベース「源頼光公館土蜘作妖怪図」
http://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/b10_8285/

天保の改革の一環で政治を誹謗した戯作者やその販売者が罰せらている(特に水野忠邦派の批判ができない)状況下のため、風刺と分からないように描かれていて明確な答えが無く、当時から様々な解釈がされていています。
文化史家の石井研堂が大正15年に記した『天保改革鬼譚』で土蜘作妖怪図に着目し、モチーフの解釈の一つにされる林肥後守・水野美濃守、美濃部筑前守について「当時三侫人の称あった…」と書いています。

ここでようやく「三侫人」の言葉に行きつきました。
錦絵に三侫人の落書があったようなので、当時の町人か、後の時代の所有者が推理した落書でしょうか。三侫人の呼び名はごく最近ついたものではなさそうです。

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当時は賄賂や弁舌の巧みさで、代々決められた身分と土地から出て新しい地位を得ることは、完全に悪とも言いきれないでしょう。
そして私が現在自宅で調べられる範囲では、侫人・林肥後守のイメージも、今の時代劇で描かれるような心から憎まれての揶揄でなく憶測で生まれた噂からつくられたものでした。まだ掘り起こしていく必要がありそうです。
今後また林肥後守の関連資料を見つけたら記事にしますね。

参考図書
・石井研堂『天保改革鬼譚
・小冥野夫『しづのおだまき』
・国史研究会編『浮世の有様』
・三田村鳶魚『江戸の女』
・大谷木醇堂『燈前一睡夢(鼠璞十種 )』
・東京市『東京市史稿 遊園篇』
・小山松吉『名判官物語