飯野藩上方領代官服部梅圃と上月氏の墓

服部梅圃(ばいほ。篤叟)
名は行命、通称は與右衛門、号は梅圃。
服部氏は播磨国加東郡穂積村(兵庫県加東市)の名族で、與右衛門の父である服部道存飯野藩領の浜村(大阪府豊中市)に移住したとされる。母は前川氏。

父を継いだ與右衛門は飯野藩上方領代官となり、40年勤続。
また京の三宅尚齋(みやけしょうさい)の門下となり儒学を修めた。
梅圃は職務・学問共に徳高く、摂州内で令名をはせたという。
宝暦5年(1755)11月12日に死去。觀音寺の服部家の墓所に葬る。70歳。

 

 

貞粛媪上月氏之墓
服部梅圃の妻の墓。
上月(こうづき)氏の娘で、子は四男三女を生む。長男與一郎は若くして亡くなる。次男の藤五郎、三男の源八郎、末子善蔵共に学問に秀で、善蔵こと服部栗齋は江戸の麹町教授所の学長となった。
明和7年(1770)に亡くなり、梅圃の墓の側に手厚く葬られる。

 

 

上月氏も服部氏と同じく播磨の出で、飯野藩上方領の代官を勤めた。
現在の大阪府豊能(とよの)地域の上月氏は、赤松氏遺臣の中村氏らと共に播磨(兵庫県)から旧岡山村(大阪府豊中市)に移住したとされる。

 

応頂山西琳寺中村重直之墓
浄土真宗西本願寺末。本尊阿弥陀仏。
中村治右衛門重直は本願寺第12代宗主准如(じゅんにょ。顕如上人の3男)の弟子となり、宗善と法名し寛永5年(1628)に岡山村辻野に西琳(さいりん)寺を創立した。

中村家の墓域には上月氏の墓碑も点在している。

上月元右衛門範存の墓碑
岡山村の出で保科侯に仕え、濱村で安永9年(1780)に55歳で病没、郷里岡山村に葬った旨が刻まれている。

 

上月氏は村上源氏流赤松氏の支族で、『上月系図』では赤松頼則の三男の赤松右馬充則景から起きる。則景は建久2年(1191)7月4日に西播磨の佐用荘園の地頭となった。
則景の子の上月刑部少輔景盛(上月次郎)が上月荘(佐用郡上月村)に住む。
建武元年(1334)上月山城築城。景盛の子の上月刑部少輔景忠が居城としたとする。
※建武3年(1336)11月築城、景盛の子上月三郎盛忠の居城、他異説あり。
嘉永年間に上月氏の宗家は絶え、永禄年間に傍流上月十郎が浮田の家臣として上月城を守る。

中村氏も上月氏と同様に赤松氏族で、赤松三十六家のうち御一族衆に上月氏、當方御年寄に中村氏。
『播磨鑑』では加東郡の服部氏祖の郷里近くに在る金鑵城(金釣瓶城、かなつるべ)城主の孫中村六郎左衛門尉景長を祖とする。
景長は赤松侍従季房の六世の孫。左馬助光景、弾正少弼正景と子孫が続く。

同じく加東郡の堀殿城(河合城の支城小堀城)は、上月伊予守盛時(系図の盛忠と異なるが、景盛の嫡子とする)の居城として「上月城」と呼ばれた。

観応3年(1352)の光明寺合戦で大将赤松刑部少輔正資の侍として上月四郎、上月五郎、中村駿河守らが集った。
嘉吉元年(1441)8月に赤松兵部少輔祐則(祐之)の岩屋城が、兄の赤松満祐の反逆により細川勢に襲われ、上月・中村氏が岩屋城防衛に加わり勝利した。
長禄元年(1457)12月2日夜に中村弾正忠貞友ら中村一族や上月左近将監満吉ほか赤松家の遺臣達が吉野の南方両宮を襲撃し、中村貞友と上月満吉は二宮の首級を討ち取った件(長禄の変)の注進状(文明10年8月)が『上月記』に記されている。

────摂播にはいくつかの上月、中村氏(清和源氏多田氏族等)が存在する中、碑文等から推測すると共に岡山村に移ったのは上記の服部氏の故郷近辺を領していた東播磨の上月、中村氏ではないかと思われる。
※浜村陣屋の飯野藩士については模索中。時間をかけて調べていきます

 

▲西琳寺門前の天保2年(1831)建立のおかげ燈篭に「岡山村」
岡山村は寛永年間船越駿河守から明治まで代々旗本船越氏が領した。

西琳寺所在地:大阪府豊中市曽根東町5-4-5

メッセージありがとうございました


ブログの更新が滞っておりますが、歴史散策や収集にとあちこち飛び回っております。

▼メッセージありがとうございました

某会のH様(5/23着)
興味深い情報とお声かけありがとうございます。
まずは古文書が救済されたことに感謝ですね。
後ほどメールにて返信致します。
今後ともよろしくお願いします。

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大河内三千太郎[3]篤志・教育家としての後半生

(前の記事→[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる

神居村総代人となる
明治24年(1891)6月に看守を退職し、空知監囚人外役所があった神居村番外地(ニ通り1丁目、後の美瑛町1丁目)に移住して荷物の運搬業を営んだ。
※上川市街地計画上での神居第一・第二市街の測量区外。第三市街地は旭川
三千太郎の住む二通り1丁目は、美瑛駅逓所から1町(約109m)程の距離で、神楽(25年2月4日に神楽村となる)には新しく忠別川に忠別橋、美瑛川に美瑛橋(後の両神橋)が仮設され、翌年旭川に旭川駅逓所が置かれて運輸の需要が大いにあった。
そして三千太郎は神居村の第1期の総(惣)代人を引継ぎ、33年3月(第5期)までの全期間を歴任した。
※この頃の総代人は村民から2名が選ばれ村の事業等について評決し、戸長が施行した

明治27年(1892)12月4日に疋田新助、掛場吉右エ門らと共に村民72名の連署を以って忠別太53万3500坪を共有地として貸下出願が認可される。
明治28年(1895)4月、札幌連隊区徴募区徴兵参事員となる。8月、神居村に公立忠別小学校(10月に忠別尋常高等小学校に改称)の分校を開くため三千太郎所有の倉庫と金二十円を寄付
9月27日に三千太郎らが申請していた雨紛原野2万3325坪の基本財産貸下が認可。

明治30年(1897)8月31日忠別尋常高等小学校の神居分校が開校。
明治31年(1898)8月15日旭川に鉄道(空知太間の上川線)が開通。三千太郎は開通式の発起人の一人である。
明治32年(1899)2月10日に三千太郎らは神居分校の独立を決議し3月13日認可、4月に神居尋常小学校と改称、新築して開校となった(ロ通り右6、ハ通り右6左6)

 
▲現在の神居小学校と北海道庁立上川二等測候所跡
総代人らの協議会は神居尋常小でされ、三千太郎は村の共有財産確保や教育に貢献した。
「候所跡」は『明治ニ十三年旭川地図』市街予定区画外(番外地)にある空知監獄署出張所のすぐ西の区画内に書かれている。明治21年7月1日に樺戸監獄署忠別太派出所事務所の一室で気象観測を始め、23年7月23日に新築移転し31年7月末までこの地(ホ通り4丁目/3号)に在った。

測候所が旭川に移った頃に旭川駅が開通し翌年には第七師団の旭川移駐が内定、次第に旭川市街が上川郡の中心街となっていく。

 

旭川に私立校を設立、中学校警察師団等の嘱託教師として剣術、剣道を教授
明治33年(1900)4月10日水田開発のための灌漑溝の開墾についてので熱弁。
6月に学科と剣道の教授の場として、藤本本蔵・馬場泰次郎等と旭川市街予定地宮下通14丁目右5号に「文武館」を設立し、三千太郎が塾長となる。
※8月に旭川村は旭川町に改称

明治34年(1901)7月に有志家の援助を得て、旭川町一条通9丁目左7号に「上川尚武館」として大河内剣道道場を移転し、三千太郎が館主となる。門下は300余名を数え、60余名が通学したという。
文武館は来海實を館長として私立中学「上川文武館」として引継ぎ、三千太郎も剣道を教えた。夜学を開始し生徒約80名となるが、3年後に休館。

 
▲上川尚武館跡地と文武館跡地付近
明治36年(1903)5月1日に上川中学校(現旭川東高等学校)が開校、剣道教師となる。
6月に尚武館に講道館流柔道部新設、教師は齋木藤之助。

……明治34年昨年6月21日東京市会議所で星享を短刀で暗殺した伊庭想太郎へ9月10日に酌量減等の上無期徒刑の判決、翌年4月19日の控訴審で無期徒刑が決まり東京の小菅監獄に収監。
この想太郎が網走に送還された時に三千太郎が付き添った風聞もあるが、想太郎は明治40年10月31日に小菅監獄で胃癌で病死している。付添いを裏付ける資料は無く、三千太郎は少年時代に伊庭道場の門下であったともいわれ箱館戦争では想太郎の兄の伊庭八郎らと共に戦っており無期徒刑からの連想だろうか。

 
▲現在の旭川東高等学校。また三千太郎は第七師団の工兵隊にも剣の指導をした

大正2年(1913)8月4日に伊藤くにが亡くなり、9月一郎とくにの墓を建てる。
大正5年(1916)妻のみや(みと)が64歳で亡くなる。
大正7年(1918)4月まで上川中学校に勤続した。三千太郎は長い白髭を蓄えた晩年まで近隣の学校、旭川警察署などにも出張指導し、時には式典で直心影流剣術や鎖鎌術の演武を披露したのである。
11月24日に上川尚武館にて73歳で卒去。尚徳院大與武道居士。

 
▲養子の武雄と門人の建てた三千太郎の墓(正面は前編に掲載)
大河内三千太郎墓」「大正七年十一月廿四日 逝享年七十三 法諡 尚徳院大與武道居士
男 大河内武雄  門人一同 謹建焉

**前の記事**
[1]上総義勇隊頭取、箱館戦争に従軍
[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる

■■不二心流と木更津「島屋」■■
[2018.6/3 記事を分けました]

大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる

(前の記事→大河内三千太郎[1]上総義勇隊頭取、箱館戦争に従軍

北海道空知監獄署に奉職(前半続)
明治22年(1889)5月空知監獄署の看守長代理となる。
この年の8月奈良縣吉野郡十津川郷の大洪水で被災し依る所のない住民600戸は官費での集団渡道を決め、最初の十津川移民789人が小樽港に上陸、10月31日に市来知に到着し、空知監附属の撃剣場等を移民の宿泊所に充て囚人が炊出しを行った。移民達は天長節の祝賀を願い出て11月3日まで滞在する。
この天長節について川村たかし(ドラマ化された『新十津川物語』作者)の新聞連載『十津川出国記』に、空知監の看守と十津川移民とで剣術試合を行ったことが書かれている。
幕末剣士達が看守となっているため腕自慢の郷士達でも歯が立たなかったが、中でも「看守長の大河原は鎖鎌の妙技を披露して驚かせた」という。三千太郎は剣術と共に鎖鎌術にも優れ度々披露していることから、この「大河原」という看守長は「大河内」のことであろう。
※この後、老人や子供は囚人の手で運ばれ空知太に入植し新十津川村(現在の新十津川町)が開かれる

 

上川郡道路開削従事囚徒の引率
明治23年(1890)4月に三千太郎は石狩国上川郡(現旭川市)の忠別太(ちゅうべつぶと。忠別/チュップペツ)から伊香牛までの北見道路開鑿のため囚徒270名を引率する。(鈴木規矩男『上川発達史』の三千太郎本人談)
永山屯田兵地の開拓も進められ、永山屯田本部と官舎や授業場等の建築が行われる。兵屋400戸のうち、樺戸・空知監は300戸を請け負い(監獄署は二中隊の200戸、札幌の北海商会が一中隊の200戸を担当したが頓挫し100戸を監獄署が引継ぐ)永山本部の後方に囚徒小屋を建てた。
山で木材を伐採するために監獄署出張所が牛朱別川畔と宇園別(当麻町)に置かれ、石狩川や牛朱別川に流して永山で製材した。
三千太郎は永山に居て、時々忠別太に置かれた空知監派出所へ赴いたという。
7月22日に監獄署は集治監に名称を戻す。9月20日に神居(かむい)村・永山村・旭川村の三村が置かれる。

 
空知監獄署出張所の跡碑と出張所があったとされる付近
明治22年6月に神居村に中央道路開削と屯田兵屋建設のため出張所が置かれた。
『明治ニ十三年旭川地図』美瑛川端に空知出張所が書かれている。現在は当時と川筋が変わり中洲にあたるという

『神居村神楽村村史』に明治32年に榎本武揚が旭川を訪れ、かつて箱館戦争に加わっていた三千太郎も神居から駆けつけ謁見し土地の価格について等に答えたと書かれているが、その頃は政界を引退し個人で学会等の会長を兼任し公的な記録が乏しく真偽不明。
『旭川史誌』等に明治23年9月に樞密顧問官榎本武揚が上川を視察とあり、再会が事実ならこの年であろうか。

 

明治24年(1891)永山村の樺戸出張所第一外役所の炊所勤務であった樺戸看守白石林武(しげたけ。明治19年9月1日樺戸監職員に採用)の勤務記(『北海道集治監勤務日記』)4月3日に「空知出張所看守大河内氏ヘ過日押送相成候囚七拾弐名、朝飯壱度分相渡置候事、拙者囚弐名引率ノ上渡済…」とあり「空知看守大河内 氏太刀鎌能シ」と、日々撃剣稽古に励んでいた白石らしい付記を加えている。

 
屯田歩兵第三大隊本部跡碑永山屯田兵屋(旭川市博物館展示)
三千太郎の引率した囚人達は裏に小屋を建てて本部や兵屋建設に従事した

5月に永山屯田兵舎落成。
6月屯田兵歩兵第三大隊本部が置かれる。7月2日に永山屯田兵の入地が完了。
7月25日に月形から永山・神居・旭川3村の戸長役場が永山に移り、屯田兵本部官舎に仮住して開庁。

 
樺戸監獄署出張所の跡碑(事務所等跡地)と初め事務所があった農作物試験事務所棟
明治20年5月、上川仮新道の改修に囚徒を従事させるため農作物試験所建物(現神居1条1丁目忠別太駅逓第一美瑛舎)に樺戸監獄署出張所が置かれた。ただし、獄舎、看守詰所等監獄署としての施設はこの一帯に置かれ、後には事務所もここに移った。囚徒は、新道工事のほか屯田兵屋の建築にあたるなど、陰ながら上川開拓に大きな足跡を残した。
上川郡農作物試験所は明治19年に建ち20年に樺戸監に移管され忠別派出所事務所となり、22年に貸下げられ官設駅逓(人馬車継立兼休泊所)となり、8月15日に忠別太驛逓第一美英舎が開駅した。

白石林武の勤務記にみられる通り、空知出張所の三千太郎は樺戸監とのやり取りもあった。

 

大河内三千太郎[3]篤志・教育家としての後半生へ続く
(前の記事→[1]上総義勇隊頭取、箱館戦争に従軍

■■不二心流と木更津「島屋」■■
[2018.6/3 第三大隊本部跡碑追加。長いので記事を分けました]

大河内三千太郎[1]上総義勇隊頭取、箱館へ従軍

  
▲『年寄部屋日記』の押収された三千太郎の羽織の箇所と、旭川にある三千太郎の墓

 

大河内三千太郎藤原幸昌(みちたろう、道太郎)略歴前半

■江戸で剣術修習
弘化3年(1846)10月15日に上総国望陀郡木更津村(千葉県木更津市)で大河内一郎の長男として生まれる。
安政元年(1854)1月に幼くして江戸で心形刀流伊庭軍兵衛(伊庭八郎や想太郎の父)の門に入り、数年修行を積む。

■木更津の大河内道場で指導
木更津に帰郷後は八幡町の八劔(やつるぎ)八幡神社境内の不二心流道場で、神主八劔勝秀の長男の勝壽(かつなが。嘉永元年生)と共に剣を教えた。
文久3年(1863)7月17日に父一郎が亡くなり持宝院に葬る
慶応元年(1865)6月地曳新兵衛の娘なをを妻に娶る。7月に挙式。
慶応2年(1866)5月9日になをが亡くなり持宝院に葬る

■戊辰戦争勃発、義勇隊を率いて撒兵隊に協力
慶応4年(1868)4月に木更津に上陸した撒兵隊に協力し大河内阿三郎不二心流四代目)が義勇隊長となって島屋一門200余人を率いて、三千太郎が隊を指揮したという。
閏4月7日に五井宿・姉ヶ崎宿の合戦で撒兵隊が敗退。三千太郎は八幡宿の民家に潜伏し、千葉を経て、下総国の新政府恭順藩の捜査網にかかる危険をかい潜って北行した。
……一方、大河内の腕利きの者達が出払っている木更津村へは大河内総三郎(不二心流三代目)が潜行した。木更津に官軍が南下する情報が入ると、八劔勝秀は戦に備えて刀を差し、火縄銃の心得がある勝壽を撒兵隊分隊長に紹介している。

5月21日に大総督は佐倉藩(藩主に謹慎が命じられた佐貫藩にかわり佐貫城を管理)に富津陣屋の前橋藩と協力し房総地方の賊徒討伐を命じた。
しかし皆銚子へ逃れた後であり、佐倉藩の報告によると匝瑳郡西小笹村の喜左衛門宅(大河内本家)も佐倉藩の捜査が入ったが、18日に佐貫城を襲った賊徒として「上総国本納村元農具鍛冶職平右衛門」を誅したのみであった。
武具や被服等押収品の一つに「白絹紋附羽織 壱枚 但襟ニ義勇隊頭取大河内三千太郎藤原幸昌花印」とあり、本家に三千太郎が立ち寄ったか、形見を本家に届けるよう平右衛門に羽織を托したのだろうか。(『年寄部屋日記』)
また、この後の8月に美香保丸の難破に遭った伊庭八郎らが「伊庭軍兵衛の門弟であった大河内一郎」を頼ろうと木更津に向かうが官軍に抗って捕縛されたことを聞いている。
三千太郎も若い頃に伊庭道場に入ったとされるが父の大河内一郎は戊辰前に亡くなっており、伝聞ゆえか情報の食い違いがある。

■箱館戦争に従軍
明治2年(1869)4月11日に松前より江差に出陣。『遊撃隊起終録』には縫殿三郎(不二心流二代目の幸安とは別人)が抜刀して敵を切り伏せて進み、雨流石(雨垂石村)で砲撃の前に散った様が記されている。三千太郎も側で戦ったであろう。討死9名負傷14人という犠牲は大きかったが官軍を敗走させることができた。
『元徳川藩遊撃隊勇士年齢』に「上総浪人 大河内三千太郎 二十四才」の記録がある。
『戊辰戦争参加義士人名簿』に「第一軍一番隊(徳川脱走遊撃隊・隊長人見勝太郎士官 大河内縫殿三郎 大河内三千太郎」再編成後は「二番小隊(頭取沢録三郎)右半隊 大河内三千太郎」とあり、三千太郎が遊撃隊に加わったことが分かる。

5月17日に総裁の榎本武揚らが降伏し18日に五稜郭が引渡され箱館の寺院に入り、21日に運送船で津軽青森に送られ6月9日弘前城下に移る。
三千太郎は関昌寺に沢録三郎ら86人と謹慎となった。

■赦免後は東京で榊原健吉の撃剣会興行に加わる
明治3年(1870)7月に下谷車坂町の道場で榊原鍵吉(さかきばらけんきち)に直心影流の極意皆伝を授かる。
明治5年(1872)秋、みや(みと)と入籍。
明治12年(1879)8月25日上野公園で催された、明治天皇の上野行幸における「槍剣天覧試合」に榊原一門が出場した。当時の新聞に剣術で出場した三千太郎の名もみえる。

■北海道で集治監の撃剣教授となる
明治15年(1882)7月に空知集治監に招致され撃剣教授を勤務。
明治17年(1884)7月に役を辞任。精勤を賞して金二十円が下賜された。
※斎藤建二著『樺戸監獄と旭川』や長谷川吉次『北海道剣道史』旭川剣道連盟編集委員会『旭川剣道史追加資料』等では樺戸集治監とするが、樺戸での一次資料が確認できず、調査中。
なお樺戸集治監の演武場の山岡鉄舟の筆による「修武館」の額は明治15年に書かれたもので、翌16年から19年まで神道無念流の杉村義衛(新撰組の永倉新八)が剣道の指南番となった。


■東京に戻り警視庁撃剣世話掛となる
明治19年(1886)9月28日、北海道の市来知(現三笠市)空知監獄署(集治監より一時改称)典獄の渡邊惟精(これあき)に手紙を送る。(『渡邊惟精日記』)
明治20年(1887)2月3日、東京に帰京中の渡邊典獄の元に三千太郎が来訪。
3月に警視庁より撃剣世話掛に任命される。
5月に甲部撃剣教授となる。
8月29日東京神田黒門町19番地に在った三千太郎から渡邊典獄に手紙が届き返書。

■空知監獄署の看守長代理となる
明治22年(1889)再び北海道へ渡り、弟の伊藤常盤之助と同じく空知監に勤め三千太郎は看守長代理となる。
 
空知集治監跡地と空知典獄渡辺惟精の碑

大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となるへ続く

■■不二心流と木更津「島屋」■■