▲現在の赤山地下壕内の照明は太陽光発電を利用
▲戦後に置かれた風呂窯
終戦後は忘れられた存在になっていましたが、温度が年中一定していることから昭和30年頃よりキノコ栽培に使われていました。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどはその時設置されたものです
(※壕内部の案内貼紙より引用)
▲戦後に置かれたボイラー?
▲壕内の補強された岩肌
(2013年1月15日up)
▲館空すぐ南の赤山にある「館山海軍航空隊 赤山地下壕跡」
赤山地下壕は全長約1.6㎞と全国的にみても大きな防空壕で、全国各地に建設された大規模な地下壕の壕と壕の長さは一般的には10~20m以上(長野市松代大本営象山壕は25m)であるとされていますが、この地下壕は5~10mと間隔が狭い上、平面図を見ても計画的に掘られたとは考えにくい構造です。
太平洋戦争末期の1944(昭和19)年以降に建設工事が開始されたことや、1945(昭和20)年8月15日の終戦の日まで工事が行われ未完成であること等が赤山地下壕の建設に携わった旧館山海軍航空隊兵士から複数証言されています。
館山海軍航空隊の防空壕として一部が使用されていたことが内部にある発電施設跡や、終戦間際にこの壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行った体験や病室や電信室があったなどの証言から知ることができます。
(※赤山地下壕跡受付配布の案内より)
見学コースは延長250メートルの区間。
防衛庁防衛研究所にある太平洋戦争末期につくられた「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面によると、赤山地下壕の位置には「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われていたのかもしれません。
(※壕内部の案内貼紙より)
まず受付時にヘルメットが貸し出しで入壕します。
写真はフラッシュで明るく写っていますが、携帯は圏外、点在した照明が届かない場所は反響した自分の足音がついてくるだけの真っ暗な地下壕です。
この時は私が来壕1人目で他に見学者もおらず、受付で懐中電灯も借りられることに気づきませんでした……。
その中でやけに明るい部屋。
どう見ても血痕です。本当にありがとうございました。
(2013年1月15日up)
海上自衛隊 第21航空群 館山航空基地
1930(昭和5)年6月1日 大日本帝国海軍横須賀鎮守府隷下「館山海軍航空隊」開隊。
終戦後、海上自衛隊最初の航空基地として、1953(昭和28)年9月16日に「館山航空隊」が開隊以来、海上自衛隊最大のヘリコプター基地として国防及び災害派遣等を行う。
第21航空(1961(昭和36)年9月1日新編、2008年3月26日に部隊改編)は群艦載型ヘリコプターの母基地として護衛艦にヘリコプターを搭載し海上・沿岸防衛、離島からの急患輸送など各種災害派遣等の任務につき、平成14年以降、テロ特措等に基づく協力支援活動など長期にわたり海外に展開し館山航空基地の隊員が活動しています。
(※第21航空群パンフレット参照・引用)
写真は展示飛行、搭乗登場の際に撮らせて頂きました。
▲海軍落下傘部隊発祥の地記念碑
第2次大戦の海軍落下傘部隊は、館山航空部隊で落下傘降下訓練を行い、昭和16年11月に戦闘に参加。戦死された隊員遺族の有志が平和を願って建立した。
他にも基地内には記念碑がある。
・基地殉職者の「悠久之碑」
・洲崎海軍航空隊へ移行された航空写真術科の「海軍航空写真分隊記念之碑」
・館山航空隊開隊10周年記念「海上航空再興之地」碑
・館山航空隊に配備された9試中攻(96式陸上攻撃機)隊の「海軍中攻隊之碑」
▲計量飛行練習機「B-65」
飛行学生が初級練習機の次に計量飛行訓練を行った練習機
S37~H4
※B-65の後ろに写っている黄色い練習機「KM-2」を撮りそびれました…
▲対潜哨戒機「HSS-2B」
S55.12.19~H12.12.8(展示は8085号。8090号が最初の館山基地装備機)
▲輸送機 「S61A-1」
南極地域観測輸送支援のため砕氷艦(南極 観測船)に搭載され、氷状偵察や物資輸送に活躍して毎年多大の成果を収め、南極観測には欠くことのできない存在。
S40.6.24~
▲対潜哨戒機「SH-60J」
HSS-2B型の後継機。護衛艦に搭載する艦載HSで、対潜戦、対水上戦等の任務を遂行する。
H3.9.30~
第21航空群は支援・派遣任務、訓練の他に記念行事やふれあいコンサート等、市民との交流も行っています。
館空のみなさんに改めて感謝!
(2013年1月15日up)
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次世界大戦が終わった。
翌3日午前9時20分、カニンガム准将の率いるアメリカ陸軍第八軍第十一軍団の約3500名が上陸用舟艇を使って館山海軍航空隊水上班滑走台から上陸。
敗戦直後はアメリカ占領軍本隊(ピンチ・ムーブメントと称する、対岸の横浜から東京湾を挟み撃ちしていく作戦)による初上陸地点となった。
東京湾入口である軍都館山は、このとき沖縄を除く本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。
▲アメリカ占領軍本土初上陸地点
現在は一部造船所として使われているが、当時のコンクリート製滑走台跡が残っているとのこと。
参考資料
・千葉県歴史教育者協議会『千葉県の戦争遺跡をあるく』
・安房文化遺産フォーラム『あわ・がいど1』
(2013年1月15日up)
第二次世界大戦後期の海軍機、銀河・月光等の1万枚以上の設計図を国立科学博物館の鈴木一義先生が発見されたという胸躍るニュース!
なんと「空と宇宙展」で包装状態ではありますが公開とのことで「はやぶさ実物大モデル」を目当ての友達と利害の一致で上野にGO!
2010年は1910年12月に日本初の動力飛行が実現してから100周年、これを記念して国立科学博物館にて日本の航空宇宙史の特別展『空と宇宙展 -飛べ!100年の夢―』が開催されました。
■夜間戦闘機「月光」
大日本帝国海軍は昭和13年(1938)に十三試双発長距離戦闘機の制作をを中島飛行機に指示し昭和16年(1941)3月に試作初号機が完成したが性能が不安定で翌年7月にひとまず二式陸上偵察機として採用。その後昭和18年(1943)8月に複座の丙戦(夜間戦闘機)に改造した月光一一型(J1N1-S)として採用。
斜め銃改修型の戦法が敵大型爆撃機に対し威力を発揮し、B17・B29迎撃に投入され、終戦近くには特攻機としても使われた。
■陸上爆撃機「銀河」
海軍は昭和15年(1940)に多様な雷撃、水平爆撃、急降下爆撃が可能な長距離・高速度の十五試双発陸上爆撃機の試作を指示し、昭和19年(1944)10月に増槽装備の銀河一一型として採用、その後も13mm連装動力銃架装備の銀河一一乙型、発動機を三菱火星二五型空冷式複列星形一四気筒・1540~1850馬力二基に換装した銀河一六型(P1Y2)など改良が加えられ、一式陸攻(一式陸上攻撃機)の後継機として稼働。
▲「月光」「銀河」の設計図
月光・銀河の開発した技術者達が戦後の新幹線の先頭車両の設計等にも携わっており、日本の近代産業技術に貢献した経緯があるため注目を集めています。
紹介しきれないので今回は設計図のみですが、日本の名機の模型展示や設計図、二式単座戦闘機「鍾馗」エンジン・一式戦闘機「隼」タイヤ・零式艦上戦闘機用プロペラの型・零戦や隼搭載の栄21型エンジン等の実物も展示されました!
▲小惑星探査機「はやぶさ」実物大モデル
特別展ではその他近代のジェットエンジンの展示と解説、打ち上げロケットや衛星、探査機の模型や情報と資料等々盛りだくさん。
展示場内は父親と子供の親子連れが多かったです。大抵はパパさんが一番はしゃいでました。
入場者は15万7千人を超えたそうです。YS-11量産初号機保存公開費の募金箱の中にもお札の山。(ちょうど仕分けの報道があった時ですし)寄付は惜しめませんよね!
* * *
おまけ。国立科学博物館ですから、企画展を堪能した後は館内のいつもの地球館常設展へ。
▲零式艦上戦闘機二一型改造複座機
ラバウル北西のニューブリテン島ランパート岬沖で引き上げたもので、零戦21型を偵察用に復座に改装したものです。
機体番号「53-122」はラバウル航空部隊二五三空の所属を表します。
国立科学博物館サイト:http://www.kahaku.go.jp/
特別展『空と宇宙展』ページ:http://sora-uchu.jp/index.html
※平成22年10月26日~平成23年2月6日開催
参考図書
・神野正美『梓特別攻撃隊―爆撃機「銀河」三千キロの航跡』
・『海軍陸上爆撃機「銀河」』
・『海軍夜間戦闘機「月光」』
・小川利彦『日本の傑作機』
・野原茂『日本軍用機事典1910~1945 海軍篇
(2013年5月16日up)