請西藩林家」カテゴリーアーカイブ

貝淵・請西藩藩主の林家に関する記事です。
最後の大名と言われる林忠崇については→請西藩主 林忠崇※年表

正永寺[1]甲源一刀流師範・請西藩士檜山省吾の墓所

正永寺本殿 請西藩士檜山省吾の墓

霊鷲山正永寺本堂檜山省吾の墓
勝圓寺を檜山省吾が奇籍した菊池家の再興で現在の正永寺(しょうえいじ)に改称したという

 

檜山省吾(ひやましょうご)
天保10年(1839)6月23日、小森村(埼玉県秩父郡小鹿野町両神小森)間庭の小名間庭嘉平の次男として生まれる。幼名は英太郎
小沢口の逸見(へんみ)家の甲源一刀流練武道場耀武館(ようぶかん)で逸見太四郎長英に学び、後に師範となる程の剣の腕を持つ。

祖父の新井佐太夫信暁は、小森村・薄村(後に両神村に統合)と下小鹿野の一部を領していた松平中務大輔の郷代官を務めた幕臣で、以降間庭家が小森村名主を代々務めたという。
父の嘉平は鉢形衆の子孫と伝わる町田采女家から婿に入り、明治維新後は戸籍法制定で戸長となった。
兄の信太郎が家を継ぐため、省吾は17歳で、小森村の南の白久村猪鼻(秩父市荒川白久。幕末は忍藩松平下総守の所領)の高野家に婿入りをした。

しかし間もなく高野家と離縁し、請西藩檜山蔀の養子となる。小森村に隣接する上小鹿野村は請西藩主林肥後守の領地で、縁があったようだ。
間庭家は信太郎が出奔してしまい、間庭家は省吾の弟の犀平治(犀次。後に両神村長)が当主となった。

 

■請西藩士檜山省吾と戊辰戦争
慶応4年(1868)省吾が30歳の時、20歳の青年藩主林忠崇の決起に従い軍事掛として転戦し綴った日記が後に生まれる息子の小弥太により『慶応戊辰戦争日記』として複写され徳川再興を願う戦いと若き主君を護の請西藩士達の様子が今に伝えられている。

箱根に渡った後、6月の香貫村では長雨で腹を壊す者が多く出て、蟄居中の気保養にと忠崇や藩兵のために撃剣を披露していただろう省吾も患ってしまった。
しかし剣の腕に覚えあればこそ箱根関の戦いには病身で大雨の中、人見勝太郎率いる先行隊の加勢に発った我武者羅な振る舞いを、同郷の吉田柳助に諭され、その後の奥州磐城での戦いで大軍に少数の藩士で突撃する覚悟を忠崇が制している。
8月5日忠崇が仙台招致の要請を承諾し、相馬中村で藩兵を纏めていた省吾らを呼び会津を出発。
9月25日東北諸藩が次々に降伏し輪王寺宮も謝罪を決め、徳川家の存続が成った今、徳川のために戦ってきた意義が薄れ、これ以上は私闘となるため、忠崇は降伏を決めた。
顛末を請西藩関係者に伝えるため江戸に帰された省吾を除いた名簿を仙台監察熊谷齋方に差出す。

 

■小森村帰郷・小鹿野町転居
明治2年(1869)正月に省吾は小森村に帰郷し、その後は小森小学校兼薄小学校教員となった。
戸籍には明治4年(1871)4月14日「東京浅草西松山町八番地太田治郎兵衛方へ全戸附籍」
明治8年(1875)3月3日秩父郡「小森村間庭嘉平方ヨリ附籍」とある。

明治9年(1876)2月に未婚の菊池故う(こう)との間に小弥太(小彌太)が生まれたと思われる。故うは8年前に加藤恒吉との間に菊池群次郎(後に小鹿野銀行支配人)を生んでおり、故うにとって二男にあたる。
6月3日付けで省吾は南第11大区の27の小学校教員と保護役一同と共に農事休業願いを揖取熊谷県令に提出。許可が出ると以降は農林業に従事した。

明治10年(1877)4月5日に菊池家に附籍し、故うと共に小鹿野町(旧上小鹿野村)に転居。(戸籍上小弥太はこの年の12月25日生だが、菊池家に附籍後の出生として届出たのか、省吾が記した前年生が誤りかは不明)

明治14年(1881)春頃には剣道が大流行し(『柴崎家文書』)、省吾も小鹿野町警察屯所演武場等で剣道を指南している。
4月に耀武館の逸見愛作が宝登山神社(秩父郡長瀞町)に奉納した甲源一刀流の奉額に代師範として省吾の名がある。

 

■秩父事件で自警団を結成する
明治17年(1884)自由民権運動が盛んになり板垣退助(いたがきたいすけ。土佐藩士)を党首に結成した自由党が結成3年目にして急進派の制御が出来ず、埼玉でも4月17日に浦和事件が起き(自由党照山俊三が警視庁の密偵と看做され射殺される)6月に照山粛清の嫌疑で捕縛された村上泰治(たいじ。秩父自由党の若きホープとして影響力があった)の親友である自由党員の井上伝蔵(下吉田村出身)が、まだ18歳の村上を懲らしめた明治政府への反感を強め秩父方面で同胞を集めた。
そして10月29日の自由党解散直後、秩父で自由党の革命論に影響された困民党の徒数千人が、地租軽減・徴兵令改正等を求めて武装蜂起し、警官隊の殉職者も出し東京鎮台(日本陸軍政府直轄部隊の第一軍管区)からも鎮圧に出兵した秩父事件が勃発。

事件に際し省吾は戸長役場(こちょうやくば)に置かれた小鹿野町自警団の本部詰世話掛となり、戸長田嶋唯一(後に省吾の息子小弥太を婿に取る)と共に町の防衛に尽くし、事件後に報告書『小鹿野町ヘ暴徒乱入ノ状況』を提出している。

11月1日午後7時に徒党は下吉田村の椋(むく)神社に武装して集い、下吉田戸長役場を襲撃し村内の高利貸の家に放火。甲乙2隊に分かれ東から甲隊、西から乙隊が小鹿野町を挟撃する形で進み、三百人程の甲隊が下小鹿野村を襲撃した。
11時半頃に甲隊は小鹿野町へ到達。小鹿野役場と裁判所の所員は予め退去しており書類を持ち出して焼くのみに抑えたが同じく空の大宮郷警察署小鹿野町分署(分署長らは大宮へ撤退)には…対政府策として警察権力への誡めと報復か…外から射撃しから侵入し内部を壊し書類を焼いた。

乙隊四百人も西の巣掛峠より法螺貝を吹き鳴らして小鹿野町内に入り、甲隊と合流し、十輪寺裏手の高利貸タバケン(中田賢三郎宅)に放火。この際、耀武館師範宮下米三郎の消防団が延焼防止を交渉(世直しを目的とする困民党の方針で高利貸等に焼討の標的を絞っていた。但し下小鹿野村で民家1件を類焼させている)し聞き入れられたため飛火対策が出来た。
次に金融業も兼ねた商家ヤマニ(山二。柴崎佐平宅。『柴崎家文書』は町指定文化財)を狙うがヤマニは井上伝蔵(困民党では会計長)と旧知の仲で以前より農家の借金返済の陳情に柔軟に接しており、焼討ちを免れ小規模な破壊のみで済んだ。ヤマニの近くの戚柴崎得祐宅も佐平の親戚であったのと、商家常盤屋(加藤恒吉宅)も周囲に民家も密集している立地のため打壊しで済んだ。
時違わずして町外れの丸山(田島篤重郎宅)、磯田縫次郎と坂本徳松宅も打壊しに逢っている。
小鹿野町長田嶋唯一の胸像 小鹿野町指定文化財常盤屋
田嶋唯一の胸像と、町指定文化財として現存する3階建ての常盤屋

困民本隊は諏訪神社(現小鹿神社。後に請西藩主林忠交三男の館次郎も奉仕)に夜営し、2日午前6時に大宮郷へ出撃した。
しかし驚異は止まず、午後1時頃に西から数百人の乙軍別働隊が小鹿野町にやってきた。坂本宗作と高岸善吉が率いる別働隊は、本隊による被害が抑えられたヤマニや常盤屋を再度破壊。暴徒の中には逸見道場で腕を鍛えた経験もある近藤吾平の姿もあった。

省吾は唯一と宮下、耀武館門下大木喜太郎らと策略を巡らして困民党に工作員を送り、狭窄した街並の小鹿野町内より小鹿坂の要地に出る方が得策と工作員に進言させた。
そして逸見愛作に協力を仰ぎ、道場門下生を集め50人一組の自警団5組を編成して町を護らさせた。
夜11時に再び数百名が来襲するも自警団を見て尻込みし、11時半には町から去らせることができた。
3日午前6時に徒党を飯田村に追い詰めて近藤を宮下が切り伏せ、一名捕縛したことで表彰されている。

本陣寿旅館跡 小鹿野観光交流館 本陣寿旅館跡
▲暴動前に寿屋で困民党参謀長菊池貫平を説得した
寿屋は江戸時代に本陣として利用され、代々営まれた本陣寿旅館は平成20年に廃業し現在は宮沢賢治の宿泊地として交流館(観光本陣)に改修。寿旅館代官の間を再現し、明治後期~昭和の館主田嶋保日記の複製や小鹿野歌舞伎の資料等も展示されている

小森村の間庭家では蜂起の報を知った当主の犀治がひそかに東京へ出かけ、騒動がすっかり鎮まった後に帰宅した。両神村から加担者として尋問を受ける者が複数出ており、両神の有力者で知識人であった犀治も自由党思想を疑われたが、東京への旅程で泊まった宿の領収書の束を提出することで関与疑惑を晴らすことが出来たという(井出孫六『峠の廃道』参考)

 

■旧請西藩主林忠崇侯と交誼を続けながら郷里に生きる
明治19年(1886)省吾は南埼玉郡登戸村(越谷市)の小島弥作の次女チエを忠崇に紹介し、結婚の仲介をした。
明治22年(1889)12月に秩父木炭改良組合を結成し、省吾が組合長となる。
明治28年(1895)正月に逸見愛作が願主として靖国神社(東京都千代田区)に奉納した甲源一刀流の奉額に師範の省吾と目代の小弥太の名がある。巨大な額のため製作日数がかかり奉納が予定より遅れるほど多数の門下生の名が刻まれている。

明治37年(1904)6月12日に66歳の生涯を終えた。一説に、腰の根の和田政蔵の家で亡くなったという。

正永寺の菊池家の墓地に、小弥太の筆で父省吾と母故うの墓がある。
雙樹院檜山忠省居士
菊寿院一貫省幸大姉
  請西藩主 檜山省吾 明治三十七年六月十二日歿 行年六十六歳
  俗名 菊池故う 明治三十八年三月二十七日歿 行年七十歳

田隝唯一は明治36年2月に小鹿野町長となり勤続、大正11年6月に72歳で亡くなり、27日に小弥太が町長を継承した。田隝家の『田隝家文書』は町の有形文化財に指定されている。

正永寺山門 正永寺山門の裏

元間庭家の門を移設した正永寺の山門
正永寺の山門は、間庭家の白壁の蔵のついた通り門を省吾が移した。

曹洞宗霊鷲山正永寺 所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野3585

十輪寺-請西藩士吉田柳助の墓所

十輪寺本堂 吉田柳助為一の墓

十輪寺本堂吉田柳助の墓

林家の総州以外の領地は貝渕請西藩共に武州と上州にもあり、徳川との絆を深めようと動きのある林忠英の時には徳川家ゆかりの上州新田郡(群馬県)も領していたのは興味深い。
これらの領地から仕えた藩士も多く、伏見林忠交を補佐した田中兵左衛門正己(玄蕃)が養子に入った家は武蔵国埼玉郡上大越村(かみおおごえ。埼玉県加須市)で、戊辰戦争で林忠崇の参謀として奔走した吉田柳助(りゅうすけ)は請西藩領の小鹿野村(おがの。秩父郡小鹿野町)の有力者である。
忠崇と共に転戦し『慶応戊辰戦争日記』を書き記した檜山省吾は小鹿野村に近い小森村(小鹿野町両神小森。松平因幡守領)の名主間庭家の出で、請西藩士檜山家に入った。

 

■吉田和泉守の系譜
吉田氏は武蔵七党(兒玉・横山・丹・猪俣・西と、野與・村山または綴・私市)の、兒玉党(こだま。児玉)の諸氏である。『児玉党系図』では児玉氏は関白藤原道隆の子伊周(これちか。内大臣)の次男遠峯を祖とし、庶流に吉田俊平の名があるが、俊平は武蔵を離れている。また伊周の家司の子が遠峰(こだま)氏を名乗ったともされる。
『吉田系図』でも児玉氏の血脈の説を採り児玉郡小嶋郷(埼玉県本庄市小島)を本領とする吉田氏に繋がる。

※出自には諸説あるが、吉田和泉守の政重の名等と共にここでは吉田氏の系図に拠る

吉田和泉守政重(まさしげ)は山内上杉管領家の上杉憲政(のりまさ。上杉謙信の養父)に仕え、天文年間の河越城の戦いで憲政が北条氏康(うじやす)に攻められると、政重は憲政と共に上州平井城(群馬県藤岡市)に退去している。
武州を北条氏が制すと、天神山城より鉢形城(はちがた。埼玉県大里郡寄居町)に入った藤田安房守氏邦(うじくに。北条氏康4男で藤田康邦の養子)に政重は従い、鉢形城北部の用土(ようど)の地を領した。
元亀2年(1571)9月15日、武州榛沢(はんざわ)で武田信玄の兵と北条氏政(うじまさ。氏康の嫡子)の兵が戦いで政重は戦功をあげ、天正7年(1579)正月4日にも氏政から感状を与えられ(『諸国古文書抄』)天正12年(1584)2月にも北条氏直(うじなお。氏政の嫡子)から賞された。

天正16年(1588)5月7日、政重の子の吉田新左衛門実重(真重。幼名新十郎。妻は甲州から武州に移った逸見重八郎の娘)が、北条領と真田領の境にある要所、権現山城(ごんげんやま。群馬県高山村)の在番を命じられる。北条家が権現山城周辺を制した時、名胡桃と知行替えをすることを前提に、郷(まゆずみ。埼玉県児玉郡上里町)の領地を預けられた。
同時に、父政重の所領であった小島郷も安堵される。

天正17年(1589)7月に豊臣秀吉が上野の真田領と北条領の配分を取り決め、沼田の地を割かれた沼田城(群馬県沼田市)城代の猪俣邦憲(いのまたくにのり。北条家家臣)が不服とし10月末に対岸にある真田昌幸の重臣鈴木主水重則の名胡桃城(なぐるみ。群馬県利根郡)を奪取。これが秀吉が私闘を禁じさせた思惑に反することとなり天正18年(1590)の小田原征伐の起因になった説もある。
慶長4年(1599)12月晦日、浪人となった実重は弟の乙次郎と共に会津の上杉景勝(かげかつ。中納言)に仕える。
実重の子の吉田源左衛門信重(初め善兵衛)は奥州取合時の戦功により感状を与えられた。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康により翌年景勝が減封され米沢藩主となると吉田父子は浪人となり、実重は妻を実家の逸見氏に預けて越前に赴き、北ノ庄藩(福井県福井市)藩主結城秀康(ゆうきひでやす。越前宰相)の家臣本多伊豆守(本多富正か)の寄騎となる。
信重は暇を請い、弟の藤左右衛門重秀に越前の家を相続させて本国武州(埼玉県)へ戻り、吉田郷塚越(秩父市吉田町)に住んだ。妹は逸見四郎左衛門に嫁いだという。
その後小鹿野で暮らし寛文5年(1665)8月25日に86歳で没し十輪寺に葬られた。
信重の子の左馬之助重基(内記。一学)、孫の時重と続き以降代々上小鹿野村の名主を務めた。そして時重の嫡男新平守詮の弟、善兵衛重喜(藤太輔。幼名三平)が分家する。

 

■請西藩士吉田柳助
吉田重喜から数えて6代目が文政2年(1819)に生まれた吉田藤太柳助為一である。
小鹿野村は貝渕藩・請西藩の領地であり、柳助は請西藩主林肥後守忠交に仕えて郡奉行となった。
妻は甲府城下の大竹孫八郎(大竹院殿武英親章居士)の娘。

慶応4年(1868)3月に房州が不穏なため藩地の請西へ藩主林忠崇が赴こうとすると、熱心な佐幕派であった柳助は江戸に留まり徳川の行く末を見守るよう諭したが聞き入れられなかった。
閏4月ついに忠崇が脱藩し出陣する際に、柳助は小鹿野村に居る息子の信太郎(後に埼玉県会議員、小鹿野町長。貫山と号して漢学塾を開く)に武具を預けていたが、吉田家の居候ノブが不届きにより追われた恨みから官軍に武具の貯えを密告し火にかけさせたという。(『秩父史話』掲載の伝聞)

柳助は林軍の参謀として付き従い、小田原城で忠崇の重臣として面会に加わり、または使いとして小田原や江戸に交渉へ出向いている。
5月19に一行が交渉の返答待ちとして香貫村に期日が過ぎても止め置かれた際に、切迫した情勢の危機感を持った人見勝太郎が遊撃隊を率いて箱根方面へ出陣したので、請西藩士で甲源一刀流の使い手の檜山省吾が病身でありながら加勢に発った。この檜山の捨て身の行為を、闇雲な戦いでなく命は主君のために使うべきだと後に柳助が諭している。

奥州に転戦となると平(福島県いわき市)では6月9日より一隊を任され、その後藩兵を纏めるため相馬中村(福島県相馬市)に向かう。忠崇には仙台、庄内、会津藩等に声がかかり、その中で7月20日に旧幕府陸軍奉行竹中重固の要請を受けて若松へ向かい23日に入城。29日に藩兵を檜山に預けて庄内藩(山形県鶴岡市)へ連絡へ出る。
その後忠崇は仙台に移ることとなり8月5日柳助は中村の藩兵達の元を経て仙台へ合流した。
9月10日再び柳助は庄内藩へ使いに出され、高橋護を供に出立したのを最後に消息不明となった。
10月に、旧幕府の奥医者浅田宗伯から遺品の髪の毛と愛刀が届けられ、小鹿野馬上の十輪寺の墓地に納め、信太郎が墓碑を建立した。

吉田柳助の墓刻字下 吉田柳助の墓刻字上

▲柳助夫婦の墓の側面の刻字
松静院柳昌䜯寿居士
灋誓院貞鏡明栄大姉
 請西郡宰 藤原為一
 文久二壬戌 八月二十二日
 大竹氏女 同人室
       享年四十一歳
 嫡子吉田信太郎氏之建立

十輪寺の門 十輪寺山門

▲十輪寺の総門と山門

新義真言宗智山派常木山十輪寺
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野1823

鹿野山の請西藩殉難者「招魂之碑」

鹿野山の招魂之碑 招魂之碑裏面

招䰟之碑の文字は榎本武揚(えのもとたけあき)の書。
明治30年(1897)4月3日と4日に上総一の霊場といわれる鹿野山(かのうざん)で、旧請西藩林忠崇公を祭主として旧請西藩戦病死者祭典が営まれました。
旧請西藩の縁故者で委員会を設け、祭典に合わせて祭典場にこの招魂碑が建てられ、戦没した従軍者も併祭されました。

招魂之碑説明板 鹿野山の石祠
招魂之碑案内板========================================================
【表】招魂之碑 明治三十年二月 日
        正二位勲一等 子爵 榎本武揚書
【裏】
慶応戊辰之変大勢既革焉然旧夢未醒之徒奔走於国事者数十名皆多戦死病没三十年来
未嘗一慰英魂毅魄抑開港攘夷其論雖異佐東援西其業雖殊至於性命供犠牲以計国利民
福何有所撰藩主林君前既蒙   恩命又授栄爵則      天意所在瞭然可知矣
死者冀小安頃同志相謀建招魂碑乃録其姓名以伝不朽云爾
 北爪 貢  大野禧十郎 廣部與惣治 政田 謙蔵 吉田 柳助 木村嘉七郎
 高橋 護  秋山 宗蔵 小倉鍨三太 篠原九寸太 重田信次郎 西森與助
 清水 半七 小倉由次郎 諏訪 數馬 大野 静
明治三十年四月三日 前陸軍経理学校教官従六位勲五等 廣部 精識
          陸軍経理学校嘱託教授   癸山 劉 雨田書  井龜泉刻
【左】
三十年祭典薫事者
  祭主     林 忠崇
  副祭主 男爵 林 忠弘
  委員長    広部 精
    各委員姓名別刻
【右】
廣部周助 大野尚貞 長谷川源右衛門 北爪善橘 中村三十郎 加藤雄之助
篠原愛之助 篠原竹四郎 磯部克介 酒井定之進 丸山悦太郎 友部雄蔵 淺生雄仙
小倉左門 小幡輪右衛門 逸見庫司 織本新助 滑川彦質 以上病没
大野友彌 伊能矢柄 檜山省吾 岩瀬銓之助 小幡直次郎 安藤信三郎 中野秀太郎
橋本松蔵 加納佐太郎 小林清太郎 水田萬吉 木村隼人 宮崎龜之助 逸見静馬
渡邊勝造 杉浦銕太郎 岩田弘 吉田収作 岩垂謙輔 外山源之丞 高浦新平
以上皆従軍者
□□□右衛門 □□兵左衛門 野口登作 山口曹参 廣部軍司 以上五名病没
□□精 國吉惣兵衛 大野喜六 田中彦三郎 松崎蔵之介 廣部文助 善場雄次郎
善場雄次郎 大野春貞 □□□光 大竹徳國 西尾斧吉 國吉龜次郎

To Kazusa
 招魂之碑は、戊辰戦争の際、旧幕府軍について敗れた上総国請西藩藩士の英霊の少安を願い、明治30年に建てられたもので、招魂之碑という文字は幕府海軍副総裁であった榎本武揚の書。江戸城のあった方角を向いており、明治大正時代の詩人、評論家、随筆家として有名な大町桂つきは、鹿野山二十詠の中で「臺(台)ノ畑高く聳(そび)ゆる招魂面するは皇城にして」と詠っています。
 戊辰戦争当時の上総国請西藩の藩主は「林忠崇」(はやしただたか)。若くして家督を相続し、文武両道で、将来老中になりうる器であると評価されていたそうです。
 なお、碑文は概ね次のような内容となっています。
 戊辰戦争の関係で多くの者が戦・病死したが、30年来、未だかつて一度も英霊の猛々しい魂をしずめていない。そもそも、開港派、攘夷派、その考えや行ったことは異なるが、国や民のことを考え、命を懸けて戦ったことに違いはなく、分け隔てる必要はないはずである。林家は既に情けある処置により家格再興を果たしたが、これはつまり、天皇の意志がそうであることを示している。
 ゆえに、死者の少安を願い、招魂碑を建て、後世に伝える。
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碑は案内板にあるように、大町桂月の鹿野山二十咏「臺ノ畑高く聳ゆる招魂碑面する方は皇城にして」と詠まれ、皇城(皇居)すなわちかつての江戸城に向けて建っています。
臺ノ畑は、碑の在る場所の土地の名前(旧君津郡秋元村鹿野山字臺畑)でしょうか。

富津岬と富士山 鹿野山九十九谷

左写真は碑が向かう方角を、分かりやすいようにマザー牧場(富津市田倉)前の鬼泪山(きなだやま。江戸時代は佐貫藩領)辺から撮影。
左手に富士山、右手に富津岬とその向こうに東京湾を挟んで江戸城跡があるわけです。
天気の良い日は浦賀水道や請西藩主・藩士達が渡った箱根の役の地までぐるりと見渡せます。
碑の背は鹿野山の南面、房総の山々が望める九十九谷(くじゅうくたに)に向いています。右写真は九十九谷展望公園で撮影。

招魂之碑所在地:千葉県君津市鹿野山

請西藩林家祖先7代目林吉忠と大坂夏の陣

一心寺の林籐四郎墓 林籐四郎吉忠墓の碑文

▲大阪一心寺の林籐四郎墓
玄明院殿光山舊露大居士」「元和元乙卯年」「五月七日
俗名林籐四郎吉忠 元和元年五月七日戰死
 今歳文化十一甲戌年相當二百年之遠忌因而為追福新造立石碑者也
 文化十一年甲戌年五月

文化11年(1814)5月に三百遠忌追福のため林家14代林忠英が建立。
忠英は2年後の文化13年8月にも大樹寺に4代忠満・5代忠時の供養墓を建立している。

 

林吉忠(はやしよしただ)藤四郎。初めは吉正(よしまさ)。妻は河村善七郎重信の娘。

天正15年(1587)三州で家康の家臣上林越前政重(竹庵。又市、良清)の長男として生まれる。林家6代目忠政の弟忠定の妻(上林政重の娘)の弟にあたる。
慶長16年(1611)に忠政の長子藤蔵が病没したため、林家の養子となった。
吉忠は林家7代目当主となり徳川秀忠に仕え扶持米200俵を賜わる。

元和元年(1615)4月9日、300俵加増し番組に入る。
4月下旬に徳川勢が大坂へ進軍を開始。
5月5日、徳川家康・秀忠が伏見を出発、一番組の水野勝成らが国分に至る。
吉忠は大番頭高木主水正次(まさつぐ。河内丹南藩初代藩主。家紋は高木鷹)隊に属して出陣する。
6日に家康は岡山口の先鋒を七番手前田利常、天王寺口の先鋒を五番手本多忠朝に命じる。この日、水野勝成ら大和口の諸将の道明寺の戦い。

7日午前2時、秀忠は千塚を出発。大番六隊の左は阿部正次・内藤大和守・松平定綱ら、右に高木正次・青山忠俊・水野正忠。
10時頃に平野の家康と来会した秀忠は岡山への出向を命じられる。

岡山こと御勝山古墳 岡山から見た天王寺方面

岡山(御勝山)と岡山から見た天王寺方面

岡山方面の布陣は秀忠の前備えに藤堂高虎、井伊直孝、前田利常らが平野道を挟み中間に細川忠興。
秀忠の麾下は、前に高木正次、阿部正次らが大番組を率いた。
二番として書院番組は書院番頭青山忠俊、次に水野忠清、内藤清次、松平定綱。
左に旗本組頭酒井忠世、土井利勝の両隊が並び、その後ろに本多正信、高力忠房、鳥居成次、日根野吉明、前田利考、立花宗茂ら諸隊。前田隊の後ろに黒田長政、加藤嘉明。
秀忠は岡山の南方に位置する平野道(ひらのみち。大坂道。中高野街道)の西に在り、安藤重信隊が後拒となった。
※平野道…大阪天王寺から奈良街道(明治以降の名称で現国道25号線相当)と分岐し高野山へ向かう道。

正午に天王寺口で豊臣方先鋒が逸り発砲し、開戦。
秀忠には家康に指示を待つよう軍令があったが、天王寺口で徳川方の本多・小笠原等の諸隊が破れて西軍が突入すると、先手の松平利常らが進軍し大野治長の銃隊(治長本隊より東に布陣)を攻撃した。
阿部野側に陣していた水野隊は、前田利常隊へ続き青山隊と先駆けを争いながら書院番組を率いて北上する。
第二の左備えの藤堂・井伊隊、旗本組も平野道沿いの桑津村から進軍し先頭は天王寺の側面を狙うが、毘沙門地辺りで毛利勝永隊に阻止され、岡山口の大野治房の兵らが呼応して秀忠麾下を狙い護衛隊も防戦となる。

高木隊も大番組を率いて天王寺表で戦功をあげた。
茶臼山の南に布陣する福島正鎮(まさしげ)・福島正之(まさもり)を松平忠直(越前北ノ庄藩主。結城秀康の長男)の兵が撃破。
高木勢も真田信繁(幸村)らと戦い、忠直隊が信繁を討ち取る。

豊臣勢は10町ほど退き玉造稲荷社(真田山の北)前で踏留まり、これを追う高木隊は目前の沼を避けて迂回し、青山隊は沼を直進し突撃した。

茶臼山・天王寺口の豊臣勢が敗れると徳川本陣に決死の突撃をかけるため南下する明石守重(あかしもりしげ。掃部。関ヶ原では宇喜多勢の先鋒であったが大坂の役では豊臣方)と高木勢が生玉宮の坂で交戦し、林吉忠が討死
吉忠、この時29歳。

生国魂神社鳥居 生国魂神社拝殿

生玉北門坂 真言坂 奥が生国玉神社表

▲生国魂神社への坂。千日前通りからの参道「生玉北門坂」と七坂の「真言坂」と神社表への坂
※林吉忠決戦地の生玉(いくたま)坂については、大坂城の大手の生玉門(生国魂神社は豊臣秀吉が大坂城の築城に際に現在地に移す前に難波宮や石山本願寺のそばにあった名残)付近や玉造宮等の可能性もあるが、戦況や地形から7日当時の生玉宮在所を採った

林家領地の殿辺田村(とのべた。義父忠政の隠居地ともされる)の従者が吉忠の首を持ち帰り、龍渓寺に葬る。玄明院殿光山旧露大居士。
『寛政重修諸家譜』では天王寺で火葬し遺骨を龍渓寺に葬った(法名久露)とする。

吉忠討死後、水野勝成らが明石掃部を敗走させ、玉造稲荷社の戦も徳川方が制する。
やがて周知の通り徳川方が取り囲み大坂城は陥落。
林家では吉忠の討死の直後、出陣中に腹の中に居た八代目となる林忠勝が出生した。

大阪一心寺の林籐四郎墓 林籐四郎墓の林家家紋

▲吉忠の墓正面と石扉の林家家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」

* * *

合戦記や家伝は正確な史実とは言えませんが、林吉忠の戦いは各家に伝わるそれらを中心に推測しました。
また、一心寺には林家16代林忠交の墓、吉忠と同じく大坂の陣で戦死した本多忠朝の墓や徳川家康の臣松平助十郎正勝の墓等もあります。

請西長楽寺と万里小路(まて様)

長楽寺山門 まて様の墓

長楽寺と養子の実家の墓地にある万里小路の墓

 

■万里小路局
寿賀姫(すが。壽賀)。
文化10年(1813)に大納言池尻(いけがみ、いけがめ。藤原四家北家の出とし、萬里小路氏と同属にあたる)興房(おきふさ)の末娘として生まれる。
※文化9年とも。興房の名を示す記録は見当たらず権大納言池尻暉房(てるふさ)と見られる。

天保3年(1832)20歳頃、11代将軍徳川家斉(いえなり)の孫家祥(13代将軍家定/いえさだ)の正室として輿入れした8歳の鷹司任子(たかつかさあつこ。天親院/てんしんいん)の世話役として京から江戸へ出仕。
天保7年(1836)に大奥に入る。家斉の寵臣林忠英が寿賀姫の宿元(身元引受人)となった。
将軍付小上臈(こじょうろう)となる。

12代将軍徳川家慶(いえよし)の代(1837~1853)に、将軍付上臈御年寄(じょうろうおとしより。女中職の最高位)となる。
上臈は生家の公家の通り名で呼ばれる慣わしで、寿賀姫は万里小路(までのこうじ)と称した。

西の丸で13代将軍徳川家定にも仕え、家定の死後に年齢を理由に大奥を引退し桜田御用屋敷で暮らす。

よほど人望と手腕があったのか14代将軍徳川家茂(いえもち)の時に再び大奥への出仕を命じられた。
万里小路は将軍4代にわたり仕えたことになる。

元治元年(1864)5月29日に大奥を辞して、請西藩藩主林忠交江戸浜町藩邸のもとに移る。この時忠交は伏見奉行として京に上っていた。
忠交の急死後はその後を継いだ林忠崇の国元上総国望陀郡請西村(じょうざい。千葉県木更津市請西)を隠棲地に定め、元部屋方お局(つぼね)都山(つやま)と共に江戸を後にした。万里小路局55歳の頃である。
京へ帰れば裕福な暮らしが出来たが、林家のもとに身を寄せたのは徳川への想いが強かったのだろう。
※万里小路は京の権中納言町尻量輔(まちじりかずすけ)の正室となり、後に2人の養子を迎えている。

慶応4年(1868)に木更津の河岸に上陸した際の荷物は親船2杯もあり、仮宿の長楽寺まで長々と行列が進んだ。
長楽寺住職の與喜海明は本堂脇の離れ座敷に万里小路局を迎える。
万里小路局は「まて(まで)様」と呼ばれ、洗練された侍女も8人位伴っており、華やかな様子であった。
しばらくして寺の裏手の高台へ住居(真武根陣屋の部材を解体・一部移築か)を構えた。

長楽寺太子堂裏 長楽寺庭園
▲長楽寺裏手の高台から本堂裏の大師堂(明治18年建立)と庭園を撮影

閏4月3日に藩主自ら脱藩した林忠崇が出陣したため5日に長楽寺で忠崇の武運祈願に大般若経を転読、まて様は御下髪姿で祈念したという。そして長楽寺から万丈を使いとして忠崇の必勝祈願の護摩札や供物を贈った。
京の朝家に帰らず請西林家に身を寄せたまて様は徳川の為にと決起した忠崇を心の底から支援していたのだろう。
16日にはまて様の金百両もの多額な援助金を持って忠崇のもとへ広部周助(上根岸の豪農)が韮山を経て合流している。
5月26日の山崎の戦いの掃討戦として27日に箱根宿端で小田原藩兵によって討たれた請西藩士に、まて様が養子にした嘉之三郎(鹿次郎とも)の父(祖父?)重田信次郎がいる。
※伝聞では鹿次郎は信次郎の子、記録では信次郎の長男である長兵衛の次男

戊辰の役の戦後に身の拠り所を無くし、困窮した晩年は横田村の豪商の河内屋惣左衛門栄助の長女、川名里鹿(りか)がまて様を自宅に迎え入れて世話をした。
川名家に移ってからも大奥の作法でふるまったという。

明治4年(1871)重田鹿之次郎がまて様の養子となる。
明治10年(1877)10月16日鹿之次郎が15歳で病死。
明治11年(1878)5月7日にまて様が66歳で卒中で死去。松寿院殿雙円成心大姉。
明治13年(1880)に広部精の撰文で萬里小路大姉墓誌が作られる。

まて様の墓表 まて様の墓横
▲まて様の墓の側面には万里小路局(つぼね)について刻まれている。

松壽院雙圓成心大姉 位

大姉ハ京都池尻前大納言興房卿ノ末女 文化十癸酉誕生也。
壽賀姫ト称シ 幼年江府ニ下リ 天保七年申年徳川城ニ勤仕ス。
婦徳有テ萬里小路局ノ役ヲ続キ家齊公ヨリ家茂公迄四代ノ将軍ニ侍ス。
辞後重田鹿次郎ヲ養子トシ一家ヲ興シ 終ニ明治十二年五月七日卒。

真言宗豊山派清瀧山長楽寺
鎌倉時代に請西本郷に稲荷山長国寺と称して草創され、永禄年間(室町初期)に現在の場所に移り、長楽寺と改称した。本尊は平安初期御作の薬師如来坐像。
融源上人が立ち寄り法流を広めてから隆盛し60ヶ寺を統理し、中本寺、常法談林所として土地の信仰と学問の中心であった。天正18年に徳川家康が由緒ある当寺を守護するため制札を下し、続いて寺領を寄進した。

長楽寺の菅原道真公の石碑板 長楽寺の碑石の裏
▲古くから「山の神様」と呼ばれ長楽寺の丘から木更津の港町を見守ってきた菅原道真公の石碑。
萬里小路局も江戸湾を眺めて忠崇のことを心にかけていたことだろう。

清瀧山明王院長楽寺 所在地:千葉県木更津市請西982