請西藩林家」カテゴリーアーカイブ

貝淵・請西藩藩主の林家に関する記事です。
最後の大名と言われる林忠崇については→請西藩主 林忠崇※年表

十輪寺-請西藩士吉田柳助の墓所

十輪寺本堂 吉田柳助為一の墓

十輪寺本堂吉田柳助の墓

林家の総州以外の領地は貝渕請西藩共に武州と上州にもあり、徳川との絆を深めようと動きのある林忠英の時には徳川家ゆかりの上州新田郡(群馬県)も領していたのは興味深い。
これらの領地から仕えた藩士も多く、伏見林忠交を補佐した田中兵左衛門正己(玄蕃)が養子に入った家は武蔵国埼玉郡上大越村(かみおおごえ。埼玉県加須市)で、戊辰戦争で林忠崇の参謀として奔走した吉田柳助(りゅうすけ)は請西藩領の小鹿野村(おがの。秩父郡小鹿野町)の有力者である。
忠崇と共に転戦し『慶応戊辰戦争日記』を書き記した檜山省吾は小鹿野村に近い小森村(小鹿野町両神小森。松平因幡守領)の名主間庭家の出で、請西藩士檜山家に入った。

 

■吉田和泉守の系譜
吉田氏は武蔵七党(兒玉・横山・丹・猪俣・西と、野與・村山または綴・私市)の、兒玉党(こだま。児玉)の諸氏である。『児玉党系図』では児玉氏は関白藤原道隆の子伊周(これちか。内大臣)の次男遠峯を祖とし、庶流に吉田俊平の名があるが、俊平は武蔵を離れている。また伊周の家司の子が遠峰(こだま)氏を名乗ったともされる。
『吉田系図』でも児玉氏の血脈の説を採り児玉郡小嶋郷(埼玉県本庄市小島)を本領とする吉田氏に繋がる。

※出自には諸説あるが、吉田和泉守の政重の名等と共にここでは吉田氏の系図に拠る

吉田和泉守政重(まさしげ)は山内上杉管領家の上杉憲政(のりまさ。上杉謙信の養父)に仕え、天文年間の河越城の戦いで憲政が北条氏康(うじやす)に攻められると、政重は憲政と共に上州平井城(群馬県藤岡市)に退去している。
武州を北条氏が制すと、天神山城より鉢形城(はちがた。埼玉県大里郡寄居町)に入った藤田安房守氏邦(うじくに。北条氏康4男で藤田康邦の養子)に政重は従い、鉢形城北部の用土(ようど)の地を領した。
元亀2年(1571)9月15日、武州榛沢(はんざわ)で武田信玄の兵と北条氏政(うじまさ。氏康の嫡子)の兵が戦いで政重は戦功をあげ、天正7年(1579)正月4日にも氏政から感状を与えられ(『諸国古文書抄』)天正12年(1584)2月にも北条氏直(うじなお。氏政の嫡子)から賞された。

天正16年(1588)5月7日、政重の子の吉田新左衛門実重(真重。幼名新十郎。妻は甲州から武州に移った逸見重八郎の娘)が、北条領と真田領の境にある要所、権現山城(ごんげんやま。群馬県高山村)の在番を命じられる。北条家が権現山城周辺を制した時、名胡桃と知行替えをすることを前提に、郷(まゆずみ。埼玉県児玉郡上里町)の領地を預けられた。
同時に、父政重の所領であった小島郷も安堵される。

天正17年(1589)7月に豊臣秀吉が上野の真田領と北条領の配分を取り決め、沼田の地を割かれた沼田城(群馬県沼田市)城代の猪俣邦憲(いのまたくにのり。北条家家臣)が不服とし10月末に対岸にある真田昌幸の重臣鈴木主水重則の名胡桃城(なぐるみ。群馬県利根郡)を奪取。これが秀吉が私闘を禁じさせた思惑に反することとなり天正18年(1590)の小田原征伐の起因になった説もある。
慶長4年(1599)12月晦日、浪人となった実重は弟の乙次郎と共に会津の上杉景勝(かげかつ。中納言)に仕える。
実重の子の吉田源左衛門信重(初め善兵衛)は奥州取合時の戦功により感状を与えられた。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康により翌年景勝が減封され米沢藩主となると吉田父子は浪人となり、実重は妻を実家の逸見氏に預けて越前に赴き、北ノ庄藩(福井県福井市)藩主結城秀康(ゆうきひでやす。越前宰相)の家臣本多伊豆守(本多富正か)の寄騎となる。
信重は暇を請い、弟の藤左右衛門重秀に越前の家を相続させて本国武州(埼玉県)へ戻り、吉田郷塚越(秩父市吉田町)に住んだ。妹は逸見四郎左衛門に嫁いだという。
その後小鹿野で暮らし寛文5年(1665)8月25日に86歳で没し十輪寺に葬られた。
信重の子の左馬之助重基(内記。一学)、孫の時重と続き以降代々上小鹿野村の名主を務めた。そして時重の嫡男新平守詮の弟、善兵衛重喜(藤太輔。幼名三平)が分家する。

 

■請西藩士吉田柳助
吉田重喜から数えて6代目が文政2年(1819)に生まれた吉田藤太柳助為一である。
小鹿野村は貝渕藩・請西藩の領地であり、柳助は請西藩主林肥後守忠交に仕えて郡奉行となった。
妻は甲府城下の大竹孫八郎(大竹院殿武英親章居士)の娘。

慶応4年(1868)3月に房州が不穏なため藩地の請西へ藩主林忠崇が赴こうとすると、熱心な佐幕派であった柳助は江戸に留まり徳川の行く末を見守るよう諭したが聞き入れられなかった。
閏4月ついに忠崇が脱藩し出陣する際に、柳助は小鹿野村に居る息子の信太郎(後に埼玉県会議員、小鹿野町長。貫山と号して漢学塾を開く)に武具を預けていたが、吉田家の居候ノブが不届きにより追われた恨みから官軍に武具の貯えを密告し火にかけさせたという。(『秩父史話』掲載の伝聞)

柳助は林軍の参謀として付き従い、小田原城で忠崇の重臣として面会に加わり、または使いとして小田原や江戸に交渉へ出向いている。
5月19に一行が交渉の返答待ちとして香貫村に期日が過ぎても止め置かれた際に、切迫した情勢の危機感を持った人見勝太郎が遊撃隊を率いて箱根方面へ出陣したので、請西藩士で甲源一刀流の使い手の檜山省吾が病身でありながら加勢に発った。この檜山の捨て身の行為を、闇雲な戦いでなく命は主君のために使うべきだと後に柳助が諭している。

奥州に転戦となると平(福島県いわき市)では6月9日より一隊を任され、その後藩兵を纏めるため相馬中村(福島県相馬市)に向かう。忠崇には仙台、庄内、会津藩等に声がかかり、その中で7月20日に旧幕府陸軍奉行竹中重固の要請を受けて若松へ向かい23日に入城。29日に藩兵を檜山に預けて庄内藩(山形県鶴岡市)へ連絡へ出る。
その後忠崇は仙台に移ることとなり8月5日柳助は中村の藩兵達の元を経て仙台へ合流した。
9月10日再び柳助は庄内藩へ使いに出され、高橋護を供に出立したのを最後に消息不明となった。
10月に、旧幕府の奥医者浅田宗伯から遺品の髪の毛と愛刀が届けられ、小鹿野馬上の十輪寺の墓地に納め、信太郎が墓碑を建立した。

吉田柳助の墓刻字下 吉田柳助の墓刻字上

▲柳助夫婦の墓の側面の刻字
松静院柳昌䜯寿居士
灋誓院貞鏡明栄大姉
 請西郡宰 藤原為一
 文久二壬戌 八月二十二日
 大竹氏女 同人室
       享年四十一歳
 嫡子吉田信太郎氏之建立

十輪寺の門 十輪寺山門

▲十輪寺の総門と山門

新義真言宗智山派常木山十輪寺
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野1823

鹿野山の請西藩殉難者「招魂之碑」

鹿野山の招魂之碑 招魂之碑裏面

招䰟之碑の文字は榎本武揚(えのもとたけあき)の書。
明治30年(1897)4月3日と4日に上総一の霊場といわれる鹿野山(かのうざん)で、旧請西藩林忠崇公を祭主として旧請西藩戦病死者祭典が営まれました。
旧請西藩の縁故者で委員会を設け、祭典に合わせて祭典場にこの招魂碑が建てられ、戦没した従軍者も併祭されました。

招魂之碑説明板 鹿野山の石祠
招魂之碑案内板========================================================
【表】招魂之碑 明治三十年二月 日
        正二位勲一等 子爵 榎本武揚書
【裏】
慶応戊辰之変大勢既革焉然旧夢未醒之徒奔走於国事者数十名皆多戦死病没三十年来
未嘗一慰英魂毅魄抑開港攘夷其論雖異佐東援西其業雖殊至於性命供犠牲以計国利民
福何有所撰藩主林君前既蒙   恩命又授栄爵則      天意所在瞭然可知矣
死者冀小安頃同志相謀建招魂碑乃録其姓名以伝不朽云爾
 北爪 貢  大野禧十郎 廣部與惣治 政田 謙蔵 吉田 柳助 木村嘉七郎
 高橋 護  秋山 宗蔵 小倉鍨三太 篠原九寸太 重田信次郎 西森與助
 清水 半七 小倉由次郎 諏訪 數馬 大野 静
明治三十年四月三日 前陸軍経理学校教官従六位勲五等 廣部 精識
          陸軍経理学校嘱託教授   癸山 劉 雨田書  井龜泉刻
【左】
三十年祭典薫事者
  祭主     林 忠崇
  副祭主 男爵 林 忠弘
  委員長    広部 精
    各委員姓名別刻
【右】
廣部周助 大野尚貞 長谷川源右衛門 北爪善橘 中村三十郎 加藤雄之助
篠原愛之助 篠原竹四郎 磯部克介 酒井定之進 丸山悦太郎 友部雄蔵 淺生雄仙
小倉左門 小幡輪右衛門 逸見庫司 織本新助 滑川彦質 以上病没
大野友彌 伊能矢柄 檜山省吾 岩瀬銓之助 小幡直次郎 安藤信三郎 中野秀太郎
橋本松蔵 加納佐太郎 小林清太郎 水田萬吉 木村隼人 宮崎龜之助 逸見静馬
渡邊勝造 杉浦銕太郎 岩田弘 吉田収作 岩垂謙輔 外山源之丞 高浦新平
以上皆従軍者
□□□右衛門 □□兵左衛門 野口登作 山口曹参 廣部軍司 以上五名病没
□□精 國吉惣兵衛 大野喜六 田中彦三郎 松崎蔵之介 廣部文助 善場雄次郎
善場雄次郎 大野春貞 □□□光 大竹徳國 西尾斧吉 國吉龜次郎

To Kazusa
 招魂之碑は、戊辰戦争の際、旧幕府軍について敗れた上総国請西藩藩士の英霊の少安を願い、明治30年に建てられたもので、招魂之碑という文字は幕府海軍副総裁であった榎本武揚の書。江戸城のあった方角を向いており、明治大正時代の詩人、評論家、随筆家として有名な大町桂つきは、鹿野山二十詠の中で「臺(台)ノ畑高く聳(そび)ゆる招魂面するは皇城にして」と詠っています。
 戊辰戦争当時の上総国請西藩の藩主は「林忠崇」(はやしただたか)。若くして家督を相続し、文武両道で、将来老中になりうる器であると評価されていたそうです。
 なお、碑文は概ね次のような内容となっています。
 戊辰戦争の関係で多くの者が戦・病死したが、30年来、未だかつて一度も英霊の猛々しい魂をしずめていない。そもそも、開港派、攘夷派、その考えや行ったことは異なるが、国や民のことを考え、命を懸けて戦ったことに違いはなく、分け隔てる必要はないはずである。林家は既に情けある処置により家格再興を果たしたが、これはつまり、天皇の意志がそうであることを示している。
 ゆえに、死者の少安を願い、招魂碑を建て、後世に伝える。
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碑は案内板にあるように、大町桂月の鹿野山二十咏「臺ノ畑高く聳ゆる招魂碑面する方は皇城にして」と詠まれ、皇城(皇居)すなわちかつての江戸城に向けて建っています。
臺ノ畑は、碑の在る場所の土地の名前(旧君津郡秋元村鹿野山字臺畑)でしょうか。

富津岬と富士山 鹿野山九十九谷

左写真は碑が向かう方角を、分かりやすいようにマザー牧場(富津市田倉)前の鬼泪山(きなだやま。江戸時代は佐貫藩領)辺から撮影。
左手に富士山、右手に富津岬とその向こうに東京湾を挟んで江戸城跡があるわけです。
天気の良い日は浦賀水道や請西藩主・藩士達が渡った箱根の役の地までぐるりと見渡せます。
碑の背は鹿野山の南面、房総の山々が望める九十九谷(くじゅうくたに)に向いています。右写真は九十九谷展望公園で撮影。

招魂之碑所在地:千葉県君津市鹿野山

請西藩林家祖先7代目林吉忠と大坂夏の陣

一心寺の林籐四郎墓 林籐四郎吉忠墓の碑文

▲大阪一心寺の林籐四郎墓
玄明院殿光山舊露大居士」「元和元乙卯年」「五月七日
俗名林籐四郎吉忠 元和元年五月七日戰死
 今歳文化十一甲戌年相當二百年之遠忌因而為追福新造立石碑者也
 文化十一年甲戌年五月

文化11年(1814)5月に三百遠忌追福のため林家14代林忠英が建立。
忠英は2年後の文化13年8月にも大樹寺に4代忠満・5代忠時の供養墓を建立している。

 

林吉忠(はやしよしただ)藤四郎。初めは吉正(よしまさ)。妻は河村善七郎重信の娘。

天正15年(1587)三州で家康の家臣上林越前政重(竹庵。又市、良清)の長男として生まれる。林家6代目忠政の弟忠定の妻(上林政重の娘)の弟にあたる。
慶長16年(1611)に忠政の長子藤蔵が病没したため、林家の養子となった。
吉忠は林家7代目当主となり徳川秀忠に仕え扶持米200俵を賜わる。

元和元年(1615)4月9日、300俵加増し番組に入る。
4月下旬に徳川勢が大坂へ進軍を開始。
5月5日、徳川家康・秀忠が伏見を出発、一番組の水野勝成らが国分に至る。
吉忠は大番頭高木主水正次(まさつぐ。河内丹南藩初代藩主。家紋は高木鷹)隊に属して出陣する。
6日に家康は岡山口の先鋒を七番手前田利常、天王寺口の先鋒を五番手本多忠朝に命じる。この日、水野勝成ら大和口の諸将の道明寺の戦い。

7日午前2時、秀忠は千塚を出発。大番六隊の左は阿部正次・内藤大和守・松平定綱ら、右に高木正次・青山忠俊・水野正忠。
10時頃に平野の家康と来会した秀忠は岡山への出向を命じられる。

岡山こと御勝山古墳 岡山から見た天王寺方面

岡山(御勝山)と岡山から見た天王寺方面

岡山方面の布陣は秀忠の前備えに藤堂高虎、井伊直孝、前田利常らが平野道を挟み中間に細川忠興。
秀忠の麾下は、前に高木正次、阿部正次らが大番組を率いた。
二番として書院番組は書院番頭青山忠俊、次に水野忠清、内藤清次、松平定綱。
左に旗本組頭酒井忠世、土井利勝の両隊が並び、その後ろに本多正信、高力忠房、鳥居成次、日根野吉明、前田利考、立花宗茂ら諸隊。前田隊の後ろに黒田長政、加藤嘉明。
秀忠は岡山の南方に位置する平野道(ひらのみち。大坂道。中高野街道)の西に在り、安藤重信隊が後拒となった。
※平野道…大阪天王寺から奈良街道(明治以降の名称で現国道25号線相当)と分岐し高野山へ向かう道。

正午に天王寺口で豊臣方先鋒が逸り発砲し、開戦。
秀忠には家康に指示を待つよう軍令があったが、天王寺口で徳川方の本多・小笠原等の諸隊が破れて西軍が突入すると、先手の松平利常らが進軍し大野治長の銃隊(治長本隊より東に布陣)を攻撃した。
阿部野側に陣していた水野隊は、前田利常隊へ続き青山隊と先駆けを争いながら書院番組を率いて北上する。
第二の左備えの藤堂・井伊隊、旗本組も平野道沿いの桑津村から進軍し先頭は天王寺の側面を狙うが、毘沙門地辺りで毛利勝永隊に阻止され、岡山口の大野治房の兵らが呼応して秀忠麾下を狙い護衛隊も防戦となる。

高木隊も大番組を率いて天王寺表で戦功をあげた。
茶臼山の南に布陣する福島正鎮(まさしげ)・福島正之(まさもり)を松平忠直(越前北ノ庄藩主。結城秀康の長男)の兵が撃破。
高木勢も真田信繁(幸村)らと戦い、忠直隊が信繁を討ち取る。

豊臣勢は10町ほど退き玉造稲荷社(真田山の北)前で踏留まり、これを追う高木隊は目前の沼を避けて迂回し、青山隊は沼を直進し突撃した。

茶臼山・天王寺口の豊臣勢が敗れると徳川本陣に決死の突撃をかけるため南下する明石守重(あかしもりしげ。掃部。関ヶ原では宇喜多勢の先鋒であったが大坂の役では豊臣方)と高木勢が生玉宮の坂で交戦し、林吉忠が討死
吉忠、この時29歳。

生国魂神社鳥居 生国魂神社拝殿

生玉北門坂 真言坂 奥が生国玉神社表

▲生国魂神社への坂。千日前通りからの参道「生玉北門坂」と七坂の「真言坂」と神社表への坂
※林吉忠決戦地の生玉(いくたま)坂については、大坂城の大手の生玉門(生国魂神社は豊臣秀吉が大坂城の築城に際に現在地に移す前に難波宮や石山本願寺のそばにあった名残)付近や玉造宮等の可能性もあるが、戦況や地形から7日当時の生玉宮在所を採った

林家領地の殿辺田村(とのべた。義父忠政の隠居地ともされる)の従者が吉忠の首を持ち帰り、龍渓寺に葬る。玄明院殿光山旧露大居士。
『寛政重修諸家譜』では天王寺で火葬し遺骨を龍渓寺に葬った(法名久露)とする。

吉忠討死後、水野勝成らが明石掃部を敗走させ、玉造稲荷社の戦も徳川方が制する。
やがて周知の通り徳川方が取り囲み大坂城は陥落。
林家では吉忠の討死の直後、出陣中に腹の中に居た八代目となる林忠勝が出生した。

大阪一心寺の林籐四郎墓 林籐四郎墓の林家家紋

▲吉忠の墓正面と石扉の林家家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」

* * *

合戦記や家伝は正確な史実とは言えませんが、林吉忠の戦いは各家に伝わるそれらを中心に推測しました。
また、一心寺には林家16代林忠交の墓、吉忠と同じく大坂の陣で戦死した本多忠朝の墓や徳川家康の臣松平助十郎正勝の墓等もあります。

請西長楽寺と万里小路(まて様)

長楽寺山門 まて様の墓

長楽寺と養子の実家の墓地にある万里小路の墓

 

■万里小路局
寿賀姫(すが。壽賀)。
文化10年(1813)に大納言池尻(いけがみ、いけがめ。藤原四家北家の出とし、萬里小路氏と同属にあたる)興房(おきふさ)の末娘として生まれる。
※文化9年とも。興房の名を示す記録は見当たらず権大納言池尻暉房(てるふさ)と見られる。

天保3年(1832)20歳頃、11代将軍徳川家斉(いえなり)の孫家祥(13代将軍家定/いえさだ)の正室として輿入れした8歳の鷹司任子(たかつかさあつこ。天親院/てんしんいん)の世話役として京から江戸へ出仕。
天保7年(1836)に大奥に入る。家斉の寵臣林忠英が寿賀姫の宿元(身元引受人)となった。
将軍付小上臈(こじょうろう)となる。

12代将軍徳川家慶(いえよし)の代(1837~1853)に、将軍付上臈御年寄(じょうろうおとしより。女中職の最高位)となる。
上臈は生家の公家の通り名で呼ばれる慣わしで、寿賀姫は万里小路(までのこうじ)と称した。

西の丸で13代将軍徳川家定にも仕え、家定の死後に年齢を理由に大奥を引退し桜田御用屋敷で暮らす。

よほど人望と手腕があったのか14代将軍徳川家茂(いえもち)の時に再び大奥への出仕を命じられた。
万里小路は将軍4代にわたり仕えたことになる。

元治元年(1864)5月29日に大奥を辞して、請西藩藩主林忠交江戸浜町藩邸のもとに移る。この時忠交は伏見奉行として京に上っていた。
忠交の急死後はその後を継いだ林忠崇の国元上総国望陀郡請西村(じょうざい。千葉県木更津市請西)を隠棲地に定め、元部屋方お局(つぼね)都山(つやま)と共に江戸を後にした。万里小路局55歳の頃である。
京へ帰れば裕福な暮らしが出来たが、林家のもとに身を寄せたのは徳川への想いが強かったのだろう。
※万里小路は京の権中納言町尻量輔(まちじりかずすけ)の正室となり、後に2人の養子を迎えている。

慶応4年(1868)に木更津の河岸に上陸した際の荷物は親船2杯もあり、仮宿の長楽寺まで長々と行列が進んだ。
長楽寺住職の與喜海明は本堂脇の離れ座敷に万里小路局を迎える。
万里小路局は「まて(まで)様」と呼ばれ、洗練された侍女も8人位伴っており、華やかな様子であった。
しばらくして寺の裏手の高台へ住居(真武根陣屋の部材を解体・一部移築か)を構えた。

長楽寺太子堂裏 長楽寺庭園
▲長楽寺裏手の高台から本堂裏の大師堂(明治18年建立)と庭園を撮影

閏4月3日に藩主自ら脱藩した林忠崇が出陣したため5日に長楽寺で忠崇の武運祈願に大般若経を転読、まて様は御下髪姿で祈念したという。そして長楽寺から万丈を使いとして忠崇の必勝祈願の護摩札や供物を贈った。
京の朝家に帰らず請西林家に身を寄せたまて様は徳川の為にと決起した忠崇を心の底から支援していたのだろう。
16日にはまて様の金百両もの多額な援助金を持って忠崇のもとへ広部周助(上根岸の豪農)が韮山を経て合流している。
5月26日の山崎の戦いの掃討戦として27日に箱根宿端で小田原藩兵によって討たれた請西藩士に、まて様が養子にした嘉之三郎(鹿次郎とも)の父(祖父?)重田信次郎がいる。
※伝聞では鹿次郎は信次郎の子、記録では信次郎の長男である長兵衛の次男

戊辰の役の戦後に身の拠り所を無くし、困窮した晩年は横田村の豪商の河内屋惣左衛門栄助の長女、川名里鹿(りか)がまて様を自宅に迎え入れて世話をした。
川名家に移ってからも大奥の作法でふるまったという。

明治4年(1871)重田鹿之次郎がまて様の養子となる。
明治10年(1877)10月16日鹿之次郎が15歳で病死。
明治11年(1878)5月7日にまて様が66歳で卒中で死去。松寿院殿雙円成心大姉。
明治13年(1880)に広部精の撰文で萬里小路大姉墓誌が作られる。

まて様の墓表 まて様の墓横
▲まて様の墓の側面には万里小路局(つぼね)について刻まれている。

松壽院雙圓成心大姉 位

大姉ハ京都池尻前大納言興房卿ノ末女 文化十癸酉誕生也。
壽賀姫ト称シ 幼年江府ニ下リ 天保七年申年徳川城ニ勤仕ス。
婦徳有テ萬里小路局ノ役ヲ続キ家齊公ヨリ家茂公迄四代ノ将軍ニ侍ス。
辞後重田鹿次郎ヲ養子トシ一家ヲ興シ 終ニ明治十二年五月七日卒。

真言宗豊山派清瀧山長楽寺
鎌倉時代に請西本郷に稲荷山長国寺と称して草創され、永禄年間(室町初期)に現在の場所に移り、長楽寺と改称した。本尊は平安初期御作の薬師如来坐像。
融源上人が立ち寄り法流を広めてから隆盛し60ヶ寺を統理し、中本寺、常法談林所として土地の信仰と学問の中心であった。天正18年に徳川家康が由緒ある当寺を守護するため制札を下し、続いて寺領を寄進した。

長楽寺の菅原道真公の石碑板 長楽寺の碑石の裏
▲古くから「山の神様」と呼ばれ長楽寺の丘から木更津の港町を見守ってきた菅原道真公の石碑。
萬里小路局も江戸湾を眺めて忠崇のことを心にかけていたことだろう。

清瀧山明王院長楽寺 所在地:千葉県木更津市請西982

企画展「請西藩林家が遺したモノ」

請西藩林家が遺したモノ企画展チラシ

現在、木更津市の太田山公園(恋の森)にある郷土博物館金のすずで企画展「請西藩林家が遺したモノ」が開催中です。
新資料の公開もあり、林忠英の時代から幕末動乱期、そして明治以降の男爵林家の歩みの軌跡を辿ることが出来ます。
前期は4月26日まで、写真の展示が変わる予定の後期は4月28日~6月15日(県民の日は無料)までとのこと。

* * *
以下自分用の備忘メモ。

 

—–江戸時代・林家の隆盛——-
家紋付き革製書箱
林日記[文政9年(1826)・林忠英]
 …林肥後守忠英(ただふさ。貝淵藩主)の記。林家中祖林藤助の、有親・親氏親子への兎の吸物の由等
兎御献上之儀留[文政9年・林忠英]11月18日の直筆

林氏系譜[寛延3年(1750)・林忠久]
 …序、寛延3年2月従五位大守大学頭林信充(のぶみつ。榴岡。儒学者林羅山の家系の林家4代)撰文
林氏系譜[弘化3年(1846)9月・林忠旭]

 

—–伏見奉行・林忠交———–
拝領物留記[嘉永7年(1854)・林忠交]
 …林家4代忠満~15代忠旭までの当主が拝領した品々の記録
老中奉書[安政6年・林忠交宛]11月1日朝8時に西の丸の参上を命じられる
 …老中の脇坂安宅(わきさかやすおり。播磨龍野藩主)・松平兼全(まつだいらのりやす。三河西尾藩主)・間部詮勝(まなべあきかつ。越前鯖江藩主)より
褒美書付[慶応2年頃・林忠交宛]
 …元治元年、林肥後守忠交(ただかた。忠英の四男。請西藩2代藩主)が伏見奉行の時に長州藩士が伏見に滞在中に取締った与力見習い15人に銀5枚、同心52人へ金300疋の褒美

 

—–大奥の老女・万里小路局—–
2代目万里小路局は、池尻(いけがみ。藤原四家北家の出とする)氏の寿賀姫は大奥に仕え、徳川11代将軍家斉の寵臣林忠英が義舅となる縁もあり、天保7年に24歳で上臈の局となり万里小路(までのこうじ)と称した。
元治元年に大奥を辞し、林忠交の江戸浜町請西藩邸のもとに移り、忠交の急死後はその後を継いだ忠崇の請西を隠棲地とした。

長樂寺の欄間釘隠し
 …長楽寺(木更津市請西)は万里小路局を本堂脇の離れ(真武根陣屋の部材を解体・移築したとも)に迎える。昭和40年本堂改築のため解体しこの請西藩に因むが描かれた欄間等が保存された。(伊八か)
◆徳川4代の「戒名」「位牌葵紋付厨子
 …11代将軍徳川家斉(いえなり)・12代家慶(いえよし)・13代家定(いえさだ)・14代家茂(いえもち)の4代。万里小路所持とされる。厨子の台座部に、萬里小路大姉墓誌を写した状。

 

—–林忠崇と戊辰戦争出陣——-
戊辰出陣記[林忠崇]
 …慶応4年(1868)戊辰閏4月5日の万萬小路局より長楽寺万丈を使いとして護摩札・供物等を贈られた件。万里局は徳川への忠義のため挙兵した忠崇(ただたか。万里局と縁深い忠英の孫にあたる)に軍用金等を送るなど支援した。
◆林忠崇の短歌「降伏待刑
 真心の有か無きかは屠りいたす
 はらの血しほの色にこそ知れ 昌之助

 

—–家督再興——————-
◆家臣から弁事役所に宛てた嘆願書[慶応4年~明治2年(1869)]
 …鵜殿伝右衛門・田中兵左衛門ら家臣
御家名御再立一件[明治2年]
 …小笠原長国(ながくに。肥前唐津藩知事)の願出先の太政官や東京府の書状
◆小笠原家から宮内大臣子爵土方久元への林家華族編入嘆願書[明治26年(1893)6月]
 …伯爵小笠原忠忱(ただのぶ。宗家11代。豊前国小倉藩藩主)、子爵長育(ながなり。東宮侍従)・貞孚(さだざね。播磨安志藩藩主)
家名相続に付嘆書類 写し[明治2年]
忠弘(ただひろ。忠交の子、忠崇の弟)の花押[明治2年10月]
士族編入指令書受取書 写し[明治32年(1899)] 千葉県知事阿部浩 東京都四ツ谷区左門町廿七番地 林忠崇殿
旧藩士復籍願参考書[明治5年(1872)]必要書類
 …伊能・北條・北爪ら家臣復族について
林忠弘 華族に列す[明治26年10月30日・宮内省特旨]
爵位慶与
御達并進達留[明治8年(1875)2月~明治10年12月]林忠弘宛証文
士族編入に関する許可証[明治32年] 東京府知事千家尊福(せんげたかとみ)
林忠弘宛書状林家再興始末略[明治26年・広部精(くわし)]
特別縁故者姓名録[明治27年(1894)1月10日・林忠弘]
 …北白川宮能久親王(よしひさ しんのう。輪王寺宮)、伯爵小笠原忠忱、勝海舟、榎本武揚等や、旧請西藩家臣の広部精・大野友弥等支援者の名簿
士族編入願[明治31年・北爪家]
士族編入につき辞令拝受[明治32年・加納佐太郎等12名]

 

—–華族として—————–
位記[明治36年(1903)11月30日]宮内大臣田中光顕(みつあき)
◆忠弘の長女の錬(れん)と曽我友兄の婚姻許可証[明治41年(1908)7月28日]
◆忠一の東京帝国大学卒業証書[明治43年(1910)7月11日]
 …忠弘の長男(長男夭逝につき)の忠一(ただかず)は学習院高等科を経て、明治43年に東京帝国大学法律学科(ドイツ法)を卒業
華族戒飭令[明治44年(1911)12月27日]伯爵渡辺千秋(ちあき)
◆忠一宛の大礼記念章証書[大正4年(1915)11月10日・昭和3年(1928)11月16日]
辞令[大正元年(1912)10月2日]陸軍省から理事試補林忠一宛
 …忠一は帝国大卒業後志願兵として近衛歩兵第二連隊に1年在籍後、近衛師団経理部を経て陸軍第二師団法官部付理事試補になる。
理事叙任状[大正4年5月7日]内閣大隈重信より
 …忠一は第二師団法官部付きから第十師団法官部付きへ
家督関係資料[大正6年(1917)1月31日]前年忠弘死去につき爵位相続
大饗夜宴招待状[昭和3年(1928)11月1日]宮内大臣一木喜徳郎(いちききとくろう)
 …天皇即位で折京都御苑内の夜宴
位記 叙従四位[昭和19年(1944)12月1日]宮内大臣松平恆雄(つねお)
当選証書[昭和21年(1946)]
 …5月11日忠一は貴族院男爵議員に当選
◆第90回帝国議会貴族院議員氏名表[昭和21年]

 

—–林家の写真(前期展示)—–
◆明治8年・28歳の林忠崇
 …芝三田通り(慶應義塾前)で撮影
◆慶応4年(西暦1868年5月)林忠崇出陣姿
 …原版からの複写。お馴染みの20歳の出陣姿。
◆大正3年頃、66歳の剣道着姿の忠崇
 …よく書籍等でみられる写真。
◆忠崇の剣道の構え
 …横向きで竹刀の二刀流?
◆林一夢、大阪天王寺の寺内で撮影。
 …忠崇は林一夢を号する。和装の写真。
◆68歳の忠崇
 …洋装の写真。
◆紋付袴着用の90歳の忠崇
 …銀杯恩賜につき紋付羽織着用。お馴染みの写真。
◆昭和12年1月5日の集合写真。
 …90歳の忠崇を中心に、恩賜の祝賀に来訪した人々との撮影か

◆一ヶ月の長女と忠崇・明治19年8月頃撮影か
 …生まれたばかりの娘を抱く忠崇の口元は微笑んで見える。
◆忠崇の娘光子と日雇女
 …傘をさしている。女中せつ子との撮影。
◆明治36年5月10日・光子
 …簪をさした若い光子の和装。細面な忠崇に比べ丸顔の可愛らしい美人。
◆大正9年頃・32歳の光子
 …本の置かれた机で
◆光子と愛犬エス
 …室内の座布団の上で光子と共に行儀よく写る愛犬

◆忠崇の実妹の小山田律子
 …記載は明治42年4月に錬(忠弘の娘)が記した。忠崇と似た細面の美形。
◆林忠弘・明治24年5月8日
 …東京湯島撮影、お馴染みの写真。
◆忠弘の妻30歳の鋠(しん)、3歳の娘、15歳の女中のコト
 …椅子に座り幼い錬を抱いて、三人での撮影

* * *
書籍に掲載されているお馴染みの光子の写真は後期展示か。

──近代の人物について部外者が勝手に調べることが、趣味の範囲として許されるかがいつも悩む所です。
(特に旧飯野藩関連が廃藩後でも話題があるので。古い歴史人物でも、墓参とその撮影等できるだけ許可は得ているものの墓域に踏み込むのは毎度申し訳ない気持ちです…)

こうして資料を企画展の形で一般公開して下さる好意が本当にありがたいですね。