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土地でカテゴリー分けしていない人物紹介の略歴や雑記

靖国神社の練兵館跡と斎藤弥九郎

練兵館跡の碑 練兵館跡の案内板

幕末志士ゆかりの練兵館跡

練兵館(れんぺいかん)は神道無念流(しんとうむねんりゅう)の剣客斎藤弥九郎(やくろう)により、文政9年(1826)飯田九段下の俎板橋付近に開かれ、天保9年(1838)3月に類焼したので、この地(麹町三番町の九段坂上)に移り、その後約30年間隆盛を誇った。
明治4年(1871)に招魂社(明治2年に東京招魂社が建てられ明治12年より靖国神社に改称)の敷地になり、牛込見付に移転した。

後に「技の千葉」北辰一刀流千葉周作の玄武館、「位の桃井」鏡新明智流桃井春蔵の士学館と共に「力の斎藤」の練兵館として幕末の三大道場と呼ばれ
高杉晋作、品川弥次郎、師範代も務めた桂小五郎(木戸孝允)や渡辺昇など幕末の志士が多数入門し、伊藤俊輔(博文)も出入りしていたと言われる。

練兵館と招魂社と靖国神社の位置

▲安政五年江戸切絵図の弥九郎の敷地と明治九年東京全図の招魂社の敷地と、現在の靖国神社の敷地を合わせた、おおよその位置。
火災で移転し大きな道場が建ったので「練兵館の焼太り」などと講談でも揶揄されている。

靖国神社南門 練兵館跡地

▲靖国神社の南門を入ってすぐに練兵館跡の碑がある。写真の碑の右奥に拝殿。

 

■齋藤彌九郎善道
弥九郎は名は善道(よしみち)、字は恵郷、通称彌(弥)九郎。
寛政10年(1798)1月13日、越中国氷見郡仏生寺村で農業を営む齋藤新助信道と母磯(いそ。宮下市郎右衛門の娘)の長男として生まれる。斉藤家は藤原朝臣利仁の後裔と伝わる。
文化7年(1810)13歳で高岡に奉公に出るが文化9年(1812)に江戸を目指す。郷里の土屋清五郎(清水家家臣)の斡旋で幕臣能勢祐之丞(のせすけのじょう)の従者となり、18、9歳頃に岡田十松吉利の神道無念流「撃剣館」道場に入門。
文政3年(1820)に江川英龍が18歳で撃剣館に入門し2年の寒稽古をなし、初めての仕合相手が21歳の弥九郎であった。

文政9年(1826)29歳の時に英龍の後援で独立して飯田九段下俎板橋界隈に、後に幕末の三大道場と呼ばれる練兵館(れんぺいかん)を開く。
天保6年(1835)5月4日に英龍が家督を継ぎ韮山代官となると弥九郎は江川家御目見御用人格四人扶持として召抱えられ、名を左馬之助と称した。

天保8年(1837)2月19日の大塩平八郎の乱の際に韮山に居た弥九郎は討伐を願い出て大坂へ急ぐも、着いた前日に大塩父子は自殺を遂げていた。
その後平八郎の残党が韮山代官領内の甲州に潜伏したと風聞があり、英龍と供に刀剣商を装って探索と民情視察に管内を巡った(甲州微行

この年、蘭学者幡崎鼎(はたざきかなえ)が国禁を犯して捕われ、長崎から江戸へ送られる際に、英龍は鼎を獄中で苦労させまいと金十枚を贈りたかったが、厳重な護送中の駕籠に警史の目を誤魔化し包装した金と書簡を投げ入れる難題を弥九郎がやってのけた。
後に「山師の弥九郎」と綽名されるほどの才能である。

天保9年(1838)3月に練兵館が類焼したので麹町三番町に移る。
天保10年(1839)正月、目付鳥居耀蔵(とりいようぞう)の江戸湾備場巡検時に副使に任じられた英龍に随い参加。
その際に英龍は様々な不安を感じるが争いを避け、英龍の意志を弥九郎が担って江戸の渡辺崋山(かざん。三河国田原藩家老)を訪問した。崋山は高野長英に相談し測量技術に長けた門下を推挙するに至る。
※崋山は弥九郎に三人扶持を与え田原藩の剣術指南とするほど親交があった

天保12年(1841)5月9日、弥九郎の西洋砲術の師である高島秋帆(たかしましゅうはん)の徳丸原(とくまるがはら)の縦隊操練・大小砲の打方見置に江川家臣らと参加、弥九郎は砲隊員に加わる。
※高島秋帆が長崎に在る時にオランダ商人から買付けたゲベール銃を大坂に密送した。江戸にまでは届かないことを惜しむ英龍の為に弥九郎が大坂へ向かい、無事江戸の本所南割下水(みなみわりげすい)の江川邸に送致し、周囲の者は驚嘆した。
この頃、佐久間象山が江川塾へ入門する仲介を弥九郎に頼んでいる。

英龍の後援と共に水戸藩で烈公(斉昭)を支持する藤田東湖と同門である誼もあり斉昭に知られ、天保12年8月1日水戸弘道館設立時に招かれ、師範として召抱えられる話を辞退したが、水戸からは顧問として扶持米を受け、また武田耕雲斎とも懇意となった。
弥九郎の練兵館には長州や越前の藩士も出入りしたため(桂小五郎や大村藩士の渡邊昇ら志士達が練兵館の塾頭となっている)弥九郎は水戸と長州の間で調和役もつとめていたと思われる。

天保14年(1843)5月、江川家の家臣望月直好の嗣が途絶えた折に下総に直好の甥の存在を知った弥九郎は韮山に甥を送り届けた。江川家はその忠誠に酬いようとしたが弥九郎は受けなかった。
5月18日水野忠邦の改革中に英龍が鉄砲方に登用されたが、閏9月の忠邦失脚に伴い鉄砲方を罷免されると弥九郎はすぐに英龍を訪ねた。時勢をよく知る理解者の慰めに英龍は喜んだという。

嘉永6年(1853)8月英龍が品川台場の築造方を命じられると弥九郎は現場監督を務め、秋に英龍が本郷湯島桜馬場に鋳砲所設置の命を受けた時は監督方となる。

安政2年(1855)1月16日に担庵が病没すると落胆し、この頃から篤信斎(とくしんさい)と号し長男新太郎に弥九郎を襲名させた。
担庵の嗣子英敏は13歳の幼年だったため家臣の柏木総蔵と共に計り幕府に内願して芝新銭座の地に江川塾を移し、大鳥圭介らを招いて門人の養成に努めた。

明治元年(1868)維新の折は朝廷に味方し、代々木の山荘に隠居していた篤信斎は彰義隊の誘いを蹴り、老齢ながら密かな動きも大村益次郎の書簡で窺われる。
7月14日に71歳で徴士として召され、8月26日に徴士会計官判事試補、9月5日に会計官権判事となり大阪に在職。
明治2年(1869)7月23日に造幣局権判事となり11月4日の造幣寮の火災の際に一人猛火の中へ飛び込み重要書類を救い出し人々を驚嘆させた。
明治3年(1870)5月25日に鉱山大佑に転職するが病を患い東京に帰る。
明治4年(1871)10月24日牛込見附内の自宅で死去。享年74。遺言により神式で代々木山荘に埋葬。明治40年5月27日に従四位を賜る。

※2014年7月8日の記事内「齋藤彌九郎善道と江川英龍」から移動しました

みたままつり靖国神社の拝殿

靖国神社http://www.yasukuni.or.jp/
所在地:東京都千代田区九段北3-1-1

参考資料・サイト
・かみゆ歴史編集部『大江戸幕末今昔マップ
・笹川臨風『類聚伝記大日本史10義人・武侠篇
・大坪武門『幕末偉人斎藤弥九郎伝』
ほか案内板等
・昭和50年に栃木県で名前を継承した「練兵館」:http://renpeikan.jp/

坦庵と幕末維新時の江川太郎左衛門

伊豆韮山代官(にらやまだいかん)は江川(えがわ)家の世襲代官で江川太郎左衛門の名を引き継ぎ
坦庵は韮山代官8代目にあたる。

江川英龍
■36代英龍(ひでたつ。坦庵/たんなん)
芳(よし)次郎、後に邦次郎。字は九淵(きゅうえん)、号は坦庵。
享和元年(1801)5月13日に江川英毅(ひでたけ)の次男として誕生。母は安藤氏。兄の英虎が早世したため嫡子として文政7年(1824)3月22日に代官見習いとなる。
天保6年(1835)35歳で家督を継ぎ韮山代官となる。
幕末の激動期に西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産、西洋式築城術を用いた台場の設置、海軍の創設、西洋式の訓練を施した農兵制度の導入、種痘の実施、兵糧パンの製作等、軍事、海防、外交、医療、教育など様々な面で業績を残した。
安政2年(1855)1月16日腸胃性僂麻質斯(リウマチス)熱で江戸屋敷にて没。享年55。
坦庵の死を水府(水戸)烈公(徳川斉昭)は「一方(ひとかた)の長城を亡くした」と悲しみ、老中阿部正弘は「空せみはかぎりこそあれ真心に 立てしいさをは世々に朽せじ」と歌いその功績は不滅であると称した。法名修功院殿英龍日淵居子。菩提寺は本立寺

江川坦庵略年譜 江川坦庵をめぐる人々

▲坦庵の略歴と周辺人物(韮山反射炉展示パネル)

 

江川英敏
■37代英敏(ひでとし。保之丞)
天保10年(1839)英龍の三男として生まれる。母は北条氏。
安政2年(1855)坦庵の死により16歳で代官見習となる。
5月9日韮山代官となる。鉄砲方を兼ね、英龍の事業を引き継いだ。
芝新銀座に韮山塾を再開させる。
8月4日濱苑で将軍家定が英敏の砲技を観る。以降も折々で老中・若年寄等の前で大小砲調練を行い、諸藩の砲術精励にも寄与した。
安政3年(1855)3月1日講武所の砲術教授方を任じられる。
9月25日幕府に韮山型造船の功、12月24日に大砲鋳造の功をを賞される。
安政4年(1856)佐賀藩の協力を得て韮山反射炉が完成する。
代官になった時の支配地は伊豆・駿河・相模・武蔵の7万4千石と当分預所1万4千石余で、この年には10万石となった。
安政6年(1859)7月13日幕府に野戦連砲鋳造・車台等製造の労を賞される。
文久1年(1861)5月29日部下の鉄砲組を率いて東禅寺の警衛に加わる。
7月8日幕府に銃製造等の功を賞される。
10月関東八州と駿河・遠江・参河諸国に農兵制の創立を幕府に建議する。
文久2年(1862)8月26日小笠原島が管轄となり、八丈島の住民30余人を小笠原島に移す。
文久2年(1862)12月16日に在職7年で病死。享年24。法名総達院英敏日恵。
※英敏の写真は中濱萬次郎(ジョン万次郎。漂流し米国から帰国後に江川家配下)の撮影

 

江川英武
■38代英武(ひでたけ。籌之助。号は対岳亭・春禄)
嘉永6年(1853)4月5日英龍の五男として誕生。
文久2年(1862)兄英敏に嗣子がなく養子として跡を継ぎ、10歳で韮山代官となる。
元治1年(1864)7月30日幕府の大小砲製作場の改革で、英武は製造御用を罷免。
慶応2年(1866)11月18日幕府は講武所を陸軍所と改め、英武は鉄炮方から陸軍所教授方頭取となる。
慶応4年(1868/明治元年)1月6日幕府は農兵を編して、英武は伊豆の警守を任じられる。
2月3日東海道鎮撫総督府に管内の地図・戸籍等を督府へ提出するよう命じられる。
2月21日藤川駅へ参じて勤王の意を表す。徴兵の命令は辞した。
3月25日(4月7日)英国公使の来謁に対し英武は熱海の警守を勤める。
閏4月17日大総督府は英武に旧幕府付に託されていた鉄砲を品川に送致させる。
5月5日大総督府は宇和島藩士林玖十郎通顕を参謀とし、軍艦として鳥取藩士中井範五郎正勝・佐土原藩士三雲為一郎種方を伊豆・相模に向かわせる。
(下総・下野へ佐賀藩士島団右衛門義勇、沼津へは大村藩士和田藤之助勇が向かう)
関東監察使府は林忠崇請西藩兵・遊撃隊らを管内に進入させた英武と小田原藩主大久保忠礼の罪に対し、範五郎等と協力して功を立てることで報いさせた。※箱根戦争

5月8日天野八郎らと袂を分かち彰義隊を離れた渋沢成一郎らが「振武軍」を名乗り、英武の管地の北多摩郡田無村(東京都西東京市。青梅街道旁近)の西光寺を本陣とした。英武は先鋒総督府に書面で「振武軍と称するもの」の結集を報告。
15日の上野戦争で敗走した彰義隊の残党が田無村で振武軍に合流し17日に飯能(はんのう、埼玉県)へ移動。
20日大総督府は福岡・久留米・大村・佐土原四藩兵に振武軍らの討伐を命じて下参謀渡辺清左衛門に率いさせ、英武に糧食を掌らせた。
23日に交戦し数時間で振武軍ら潰走。
※飯能戦争

5月23日甲斐鎮撫府は沼津・高遠二藩兵を箱根に発遣し沼津軍監和田勇の指揮で遊撃隊らを討たせ、中津・高島二藩兵に甲府城と原村を警守せさせる。
5月24日甲斐鎮撫府は参謀助役伏谷惇に松代・浜松二藩兵を率いて箱根へ赴くよう命じ、英武と沼津藩は久世三四郎に其糧餉丁馬を弁給させる。
5月29日遊撃隊らの残党が伊豆網代村傍近に屯拠する報に対して大総督府は英武に追討を命じる。
※箱根戦争

6月10日箱根・品川間の糧餉伝逓(戊辰戦争での官軍の食料の輸送)を任せられる。
6月29日韮山県が置かれ、江戸鎮台府は英武に旧地の韮山県の管理を任じる。
9月18日伊豆国賀茂郡毛倉野金山の開鉱のため鉱山司との協議を命じられる。
10月7日明治天皇の車駕の御東幸で三島駅に至り、英武の速やかな帰順と忠勤を褒められ、江川家の由緒書きを上らせた。翌日、余興として箱根湖上の水鳥を小船から二十間の距離を西洋銃で見事撃ち落して喜ばせた。
10月20日英武は箱根・平塚二駅間の餽餉伝逓管理を罷め、小田原藩が受け持つ。

明治2年(1869)6月10日韮山知事となり翌月更に韮山県権知事(ごんちじ)となる。
明治3年(1870)6月に正六位に叙せられる。
明治4年(1871)7月に米俸28石下賜され東京府、海軍省に所属。
8月13日に肥田濱五郎(江川家手代見習、造船頭。後述の岩倉使節団で理事官)が木戸孝允(桂小五郎)に、英武が洋行の意思があると伝えた。
若くして韮山知事となり良い統治を朝賞された英武への嫉妬を避けるため柏木忠俊(かしわぎただとし。江川家手代の家柄で、江戸詰として坦庵の頃から江川家を補佐した。韮山県大参事、足柄県令)が木戸に相談し、肥田と斉藤篤信斎(江川家まとめ記事参照)が洋行を斡旋したという。
11月12日に岩倉具視を正使とした欧米出張使節団に英武も留学生として従い横浜出航。
12月6日カリフォルニア州サンフランシスコ到着。

明治5年(1872)1月21日ワシントンに至り滞在。
2月にニューヨーク州ハイランドフォールズ普通学校入学。
明治6年(1873)9月にピークスキル普通中学校へ進学。
明治7年(1874)4月に帰国命令が出たため海軍省を辞めて自費で留学。
明治8年(1875)ピークスキルで級長となり優等生として表彰される。
9月ペンシルバニア州ラフィエット大学に入り工学を修めた。
明治11年(1878)テクニカル部門、数学賞で20ドル授与。
2月20日ジュニアコンテストでスピーチを行う。
明治12年(1879)7月工学部を優秀な成績で卒業。
10月に帰国。
明治14年(1881)7月に内務省御用係となり月俸40円下賜。取調局事務長となる。
明治16年(1883)8月に大蔵権少書記官として大蔵省に奉職。
明治17年(1884)9月に大蔵省造幣局勤務議案局兼務。
明治18年(1885)5月に大蔵省造幣局大阪出張所長となる。
明治19年(1886)1月16日非職となり2月に退職。
官僚を辞め郷里伊豆に戻った英武は、4月に町村立伊豆学校の校長となった。留学経験を生かし英学を中心に教育に力を入れる。
明治20年(1887)12月に伊豆学校の廃止により私立学校(韮山高校)創立。
明治24年(1891)校長辞任。
その後も韮山周辺の教育斡旋や被災地の寄付をし地域に貢献した。
昭和8年(1933)10月2日没。81歳。

参考図書・文献
・米山梅吉『幕末西洋文化と沼津兵学校 (1935年)
・妻木忠太『木戸松菊公逸話』
・『Lafayette College Journal』
・『Bulletin of Lafayette College』
ほか江川文庫資料、韮山郷土資料館、韮山反射炉パンフレット等

■■韮山代官江川家と担庵■■

享保の打ちこわしに遭った高間伝兵衛

高間橋西向き 高間屋敷方面

▲周淮郡常代村(君津市常代)に屋敷を構えた高間傳兵衛(伝兵衛)に因む高間橋
高間橋がかかる宮下川の西、右写真方面に12町歩(発掘調査では屋敷全体は1586坪)もある高間屋敷があった。
俗謡「あんば常代高間どんすぎなりお笠で紙鳶揚げるお雪さんに見せよと紙鳶揚げる」は敷地内の4反歩もの大きな池に屋根船を浮かべて愛妻(もしくは妾)を乗せ、舟から紙鳶(たこ)を揚げて喜ばせたという豪勢な様子を歌ったものと伝わる。
※上総国(かずさ、千葉県)周淮(すえ)郡周南(すなみ)村は明治22年の町村制施行で常代(とこしろ)村等周辺の村々が合併。その後周淮郡は君津(きみつ)郡となる

 

高間伝兵衛は、米将軍と呼ばれ享保の改革を行った第8代将軍徳川吉宗、将軍を支え江戸の町から米価引下げの懇願を引受ける町奉行大岡越前守忠相らのもとで米方役に任命され米価調整を担った豪商である。
※米方は御蔵渡り米を領査し、札旦那御入米拂米を定め、請取方賈方に取り扱わせ指図し、米代金を領収する。
米価が上がれば手持ちの米を安く売り、米価が下がれば大量に買い入れることで相場を安定させた。
武士の役人だけでは捌けず、伝兵衛のような商才ある町人を抜擢したのだろう

元禄16年(1703)6月付けで周淮郡(君津市)の猪原村と市場村の名主が伝兵衛に宛てた請求書が残されていることから、初代から数代の間の伝兵衛(代々「伝兵衛」を名乗っていた)は周淮で米穀を扱い、年貢・俸禄米を担保にした貸付やを行っていたと推測されている。
享保(1716~)初期には江戸に出店し、日本橋伊勢町(東京都中央区日本橋本町1丁目。橋の日本橋の東)に24棟の米蔵(出入口が1棟に2つ有り、いろはの48組の符号がついていたためか48棟の記述も多い)を持ち、側の本船町に「高間河岸」を設け、て大いに繁盛した。

江戸橋 木更津河岸と高間河岸

高間河岸の位置と現在の江戸橋
日本橋と下手の本船町にかかる江戸橋との間の南岸の土手倉(防火のため東西二町半に、石を畳揚げて屋根で覆った封疆蔵が置かれていた)が並ぶ四日市の西側に幕府に認められた木更津河岸があり、廻船の五大力船(ごだいりき。木更津船)が行き交っていた。上総との運送が盛んな所である。
※現在の江戸橋は昭和2年の昭和通り開設で90m程上流に移っている

 

享保15年(1730)9月12日、豊年が続き米価の下落を止めるため幕府は伝兵衛他8人の米殻商に上方米(かみがたまい)の独占取引権を与え買入れされる。

享保16年(1731)に幕府は米殻商へ安売りを禁じる。
7月に幕府は米方役の伝兵衛を大坂に派遣し買米(かいまい。幕府の買い上げ)、二付銀子を被下。

享保17年(1732)享保の大飢饉。夏に西日本が冷害に見舞われ蝗が大発生し、翌年まで餓死者が相次ぐ。
幕府が昨年買入れた米や東国産の米を西国に送り救援したため江戸でも米不足となって米価が上がり、庶民が困窮した。

享保18年(1733)1月23日、伝兵衛は高騰した米価を下げるため幕府に安価で備蓄米二万石を府下に売りに出すことを願い出て、許される。

しかし江戸市人は「米価が昂騰したのは、幕府と癒着した米商の高間傳兵衛が府内の米を大量に買占めて蓄えているせいだ」と噂を立てた。

世相を伝兵衛と大岡越前にかけた狂歌

「米高間 壱升貮合で粥にたき
 大岡食はぬ たった越前」

米が高く(高間)て銭百文では一升二合しか買えないのでお粥にしたが
多く(大岡)食べられず、たった一膳(越前)だけだ

実際は伝兵衛の備蓄は米価調整のためであり、23日の行動からすると私欲で溜め込んでいたわけではなかったが、米方役として米価を左右し江戸吉原を3日間貸切るという豪遊も伝わる富んだ伝兵衛に対して庶民は「私欲で米穀を買占め高値で売っている」と疑っていたようだ。

そして26日の夜、町民達が1700人あまり(4千人と記すものもある)集まり党を結び、伝兵衛の本船町の店(たな)を襲撃して打ちこわしを決行。家財は砕かれて前の川へ捨てられた。

町奉行が属吏等を出動させてようやく騒動を鎮め、打ちこわしを先導した首魁を捕らえた。
首魁4人のうち1人を重遠島、3人を重追放とした。

この日、高間一家は母の住む上総周南の高間屋敷に居たため暴動に直面するのを免れた。
伝兵衛は打ち壊しに遭いながらも翌月には、米二万石を五升安で売却することを上申している。

…この高間騒動は江戸で初めての打ちこわしともいわれる。打ちこわしは幕府権力への反抗と悪徳商人の摘発を目的にしたため、現代の時代劇などでは伝兵衛が噂通りの悪い商人として描かれることが多い。
また講談「姐妃の於百」歌舞伎「善悪両面児手柏」等で毒婦として着色されたお百は『秋田杉直物語』で、お百=おりつは宝暦7年(1758)の秋田騒動で夫が仕置きとなった後に、高間伝兵衛の甥の高間磯右衛門の妾になったとする。

 

享保20年(1735)7月19に伝兵衛が病死。代替わり上申。
11月に新しい代の高間伝兵衛が米方役に任命される。※以降の記事は跡を継いだ伝兵衛の事

延享元年(1744)米価が下落し、米価引上げのため107人の米殻商に買米を10等級に分けて割り当てた。伝兵衛は最高等級の5万石である。

延享4年(1747)播磨明石藩蔵元となる。

この頃財政難の播磨姫路藩の松平家は「姫路藩の大坂廻米の売却を許す」条件で伝兵衛に融資させていたが、松平家が条件を一方的に破り、伝兵衛の姫路藩蔵元役を罷免し蔵元制度(専売制度)そのものを廃止するに至ったとされる。

寛延2年(1749)11月12日、伝兵衛は米方役辞任。

その後、天保3年(1832)から嘉永(1848~)頃、伝兵衛と分家の伝右衛門(江戸小網町一丁目に店を構えていた。小網町の河岸も房州への海運が盛んだった)は武州川越藩松平家の御用高として仕えた。伝兵衛は20人扶持があてがわれた。

 

しかし明治になって諸大名へ貸付けていた分が回収できなくなり経営不振に陥り、高間屋敷は親族の松本氏の名義となり母屋は青堀(富津市)方面の人に売却。
表の平治門は大正3年頃に周南村(君津市大山野)の渡辺由太郎氏に払い下げ、長屋門も改築となった。

 

高間家の菩提寺は貞元字八幡所の豊山派満隆寺(過去帳に伝右衛門等記載)
墓は常代の共同墓地。墓には丸に葉柏の家紋が刻まれている。

参考図書
・『享保撰要類集』
・『東京市史稿 産業篇第17
・『国史大辞典7』土肥鑑高「江戸の米屋」「正米商」
・『君津郡誌
・『コンサイス日本人名事典
・幸田成友『日本経済史研究
・『列侯深秘録
・『有徳院殿御実紀』
・古屋野正伍『都市居住における適応技術の展開』
・君津市文化協会『呦々4』
・西上総文化会『西上総文化会会報53』
・君津郡市文化財センター『年報11』
・『会報21』菱田忠義「豪商高間伝兵衛関係の文書」
・『房総文化18』『常代遺跡群』『すなみふるさと誌』
・『江戸名所図会』

士魂商才の小柳津要人

M35小柳津要人の写真 小柳津要人(おやいづ かなめ)
士魂商才」は、福澤諭吉が「元禄武士の魂を以って大阪商人の腕ある者、即ち西洋のマーチャント(商人)の風ある者は小柳津要人」と評している通り士魂商才の新語を創って小柳津にあてた、または丸善創業者の早矢仕が番頭の小柳津の人柄に対し表した言葉とも伝わる。
徳川の恩義のため戊辰戦争を戦いぬいた後、丸善と出版界の発展の大きな力となった小柳津に相応しい言葉である。

 

■岡崎藩の西洋流大砲方として江戸へ
弘化元年(1844)2月15日に三河国額田郡岡崎で岡崎藩士小柳津宗和の長男として出生。母は光子。
要人は小柳津家の九代目。

岡崎藩(5万石)は三河国額田郡岡崎(愛知県岡崎市康生町)の岡崎城(徳川家康の出生地)を居城とし、この時の岡崎藩の藩主は本多忠民(ほんだただもと。美濃守、中務大輔。万延元年/1860に老中)。
忠民の本多家は本多平八郎忠勝を租とし、徳川譜代の重鎮であったため、子弟教育は厳しく幼くして武士としての教養を身に付けさせていたという。
小柳津も本多忠勝の遺訓「惣まくり」を生涯の信条としていた(總捲、残らず論じる意味)

17歳で御料理の間詰として藩に出仕し、間もなく側役の御次詰となる。
この頃、先輩同輩と将来における洋学・漢学の是非を論じて小柳津は洋学を採る方針を固め、従来の武芸のほか洋式砲術も修練した。

文久3年(1863)3月、20歳でに岡崎藩西洋流大砲方として江戸詰を命じられ江戸に赴く。
江川英龍の「繩武館」に入り教授の大鳥圭介、箕作貞一郎(麟祥)に兵学・洋学の教えを受ける。
秋より幕府開成所に学び、英学得業士となって新しい知識を身につけた。

慶応2年(1866)4月に藩に呼び戻される。

 

■戊辰戦争では脱藩して箱根から箱館まで転戦する
慶応3年(1867)10月徳川慶喜上洛とともに岡崎藩本多家は伏見の豊後橋の警護を命ぜられる。14日に慶喜が大政奉還を上奏。
12月に小柳津は藩を脱して江戸に向かう。

慶応4年(1868)3月23日に藩主忠民は養嗣子の忠直(ただなお)を上京させ親子連盟の勤皇誓書を提出し恭順を示した。

徳川譜代の藩として恭順に対し反発も多く、小柳津は藩の上役で佐幕派である儒者の志賀熊太(重職。重昴の父)に血判状を提出し、脱藩する。
和多田貢ら岡崎藩士23名で林忠崇・遊撃隊らが宿陣する沼津香貫村に至り、5月6日に加盟。第三軍に編入される。
26日の箱根山崎の戦の撤退戦で小柳津は左の脛を負傷。
その後も奥州を転戦し、更に榎本武揚率いる旧幕府艦隊で10月22日に蝦夷鷲の木へ上陸。11月5日に松前を落とす。

明治2年(1869)正月の仏式改編で遊撃隊の差図役となる。新政府に対しての和解案は受け入れられず、掃討のため4月に官軍が来襲し11日札前村付近で戦闘後、木古内に引揚。
20日に木古内に官軍千人ばかり押し寄せ火を放つ。この戦いで伊庭八郎はじめ負傷者が多く出て泉沢まで撤退。立て直すも追撃はなく22日に五稜郭帰営。
その後も抗戦するも5月11日に総攻撃を受け遊撃隊は桔梗野口で戦い小柳津は負傷する。その後に遊撃隊は五稜郭の表門を守備につく。

18日に榎本らは謝罪を決め、箱館称名寺で謹慎。称名寺で一泊し、翌日病院へ。
7月3日に出院して弁天台場に謹慎。
9月1日土州蒸気船の夕顔丸に乗り翌日出航。風模様が悪く南部釜石港に翌朝まで錨泊。
5日に品川着。
その後岡崎脱藩士は岡崎に呼び戻されて郷里で謹慎となる。

 

■英学を修め慶応義塾を経て丸善商社に入社
明治3年(1870)3月に謹慎を赦され東京へ向かう。
その途次に静岡──駿府に移封となった徳川家が人材育成のため駿府の学問所(静岡学問所)や沼津兵学校など教育機関を設立認可し、かつての有能な幕臣達が教鞭を執っていた──で沼津兵学校で英学教授の乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)のもとで英学を修め、また外山正一(とやままさかず。後に文部大臣)の知遇を得る(金拾円の援助を受ける)

東京で大学南校(開成所跡に開校した洋学校)に学び、後に慶応義塾(福澤諭吉の築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に開いた蘭学塾が英学塾となり芝新銭座に拡大移転後慶應義塾に改称)に入る。

明治4年(1871)小柳津は藩の貸賃生であったが7月の廃藩置県に際し藩費が途絶えたので筑後柳河(福岡県柳川市)英学校の教師となる。
後に郷里の岡崎へ戻って英語を教授。

明治6年(1873)1月に横浜の丸屋に入り、書籍部門を担当する。
※慶応義塾生の早矢仕有的(はやしゆうてき。医師。美濃武儀郡笹賀村出身、幼名左京)が福沢諭吉の提案に基き明治2年1月1日横浜新浜町に和洋書籍と西洋医品を商う「丸屋」を創業。名義人を仮名の丸屋善八にしたため「丸善」と呼ばれるようになった。
小柳津について諭吉伝にも明治6年頃入社し丸善の基礎を成す大きな力になったことはその歴史上忘れるべからずものであろうと記されている。

明治5年11月9日に明治政府は太陰太陽暦から太陽暦(西暦、グレゴリオ暦)への改暦の詔書を発表し、明治5年12月3日を明治6年1月1日と定めた。
布告からひと月も満たない急な改暦に混乱する状況を見かねた福澤諭吉は太陽暦を庶民に受け入れやすく解説した『改暦辨』を急編。
改暦辨に明治六年一月一日発兌(はつだ、発行すること)とあるように短期作業のため三田の印刷所から刷りたてのバラ丁を丸善に運び小柳津ら社員大勢で綴じたという逸話もある。

9月9日に長男の邦太が生まれる。

明治9年(1876)8月7日に長女とくが生まれる。

明治10年(1877)3月大阪支店(北久宝寺町の丸屋善蔵店)支配人となる。
この頃から大鳥圭介・外山正一・志賀重昂など小柳津と面識や係りのあった旧幕臣の学識者の著作もしばしば出版されるようになった。

明治11年(1878)8月14日に次女の銈(けい)が生まれる。

※明治13年3月30日、東京日本橋通の丸屋善七店を本店とし責任有限「丸善商社」に改称。

明治14年(1881)5月12日に三女の京が生まれる。

明治15年(1882)7月に東京本店支配人となる。
旧岐阜藩士林有適らと丸善の経営改革、洋書の輸入に先鞭をつけ文明開化に貢献する。

7月に外山正一等の『新體詩抄』を出版。出版の相談を受けると小柳津が独断で丸善での出版を承諾。これが早々に売り切れるほど好評で多く売れたので「士魂商才」の商才…商売の道に誠実巧みな様子が窺える。

明治17年(1884)3月7日に次男の脩二が生まれる(田中家養子)
※この年、大蔵省のデフレーション政策により丸善銀行をはじめ閉店する銀行が相次ぐ

明治18年(1885)1月20日に銀行破綻の整理のため退任した早矢仕に代わり松下鉄三郎が社長に就任し、小柳津は取締役に選任される。
小柳津はこの丸善の危機に社長松下と供に社業の回復につとめた。

明治20年(1887)東京書籍出版営業者組合(後の東京書籍商組合)の創立の発起人に加わる。

明治21年(1888)12月18日の出版条例で奥付に実名が必要となったため、丸善出版代表者に小柳津の名を記載するようになる(退任する大正まで続く)

明治22年(1889)東京書籍出版営業者組合副頭取となる。

明治23年(1890)大日本図書株式会社創立に際し取締役

4月26日に4女の駒が生まれる※上に二人の夭折の兄あり

明治25年(1892)東京書籍出版営業者組合頭取となる(人望のためか明治42年まで在任)

明治26年(1893)丸善商社から「丸善株式会社」と改称。小柳津は取締役に選任。
2月27日に五男の宗吾(昭和5年~丸善監査役・15年~取締役・22年~社長となる)が生まれる。

明治30年(1897)専務取締役。

 

■専務取締役として丸善二代目社長の後を引き継ぐ
明治33年(1900)1月16日に丸善社長の松下が急逝し20日の取締役会で小柳津が後任に当選。三代目社長にあたるが定款により専務取締役として統括した。
2月25日に六男の六蔵が生まれる。

※明治34年2月3日に福沢諭吉、18日に早矢仕が死去。

明治35年(1902)5月7日 駒込メリヤス工場の名義人となる。
※この頃学校教科書の採用時の賄賂が横行し12月17日に関連会社が一斉検挙された「教科書賄賂事件」でも無関係なうえ新聞でも専務取締役小柳津の名が一度も出なかった。

昭和37年(1904)1月に小柳津は正金銀行が信用状を謝絶した事を銀行側に問いただしている。対露戦争に向けた資金を海外支店の政府の預金から引き出され為替金支払いの準備金が欠乏したためであった。2月に日露戦争勃発。
日本の連勝に国民の生活全般が軍国調になったが、小柳津が軍隊への献金・国債応募・軍人遺族の救済等日露戦争には協力的であった一方で「書籍の武装は断じてせず」と丸善店舗は通常通り文学や美術の良書を取り揃えていたたことを感心する声もあった。

志賀重昂が従軍記者として乃木軍中に在った『旅順攻囲軍』9月4日の項に、岡崎出身である第十一師団長土屋光春中将を訪ね、参謀長石田大佐の案内で戦線をめぐるった折に、露兵の落とした軍隊手帳2帖を贈られた。
日本兵なら軍隊手帳を落とすことは恥辱として肌身離さないが、露兵は複数人落としている。日本側は書きだしに天皇陛下より下賜された御勅論、以降軍人の心得を揚げるが、露側は全く精神上の教育について触れられていない。この比較は教育家として面白い倫理研究題材になるのではと、手帳の1冊を小柳津に贈りたい旨と小柳津の功績や人柄について語り合ったことが記されている。
土屋・石田・志賀の三人ともに小柳津のよく知る間柄である。

※明治41年4月5日に第一回名士講演会開催。講師に江原素六・海老名弾正。

明治42年東京書籍監査役に就任し帝都書籍界に重きをなす。

明治45年(1912)1月24日総支配人

大正4年(1915)3月31日 特別議員に推薦される。

大正5年(1916)1月24日に総務取締役を辞任し、相談役に就任。

大正8年(1919)6月に軽度の脳溢血を病む。

大正11年(1922)6月21日東京で死去。79歳。菩提所は谷中の加納院、おくつきは青山墓地。

※明治5年までは旧暦表記です

▼青山霊園(東京都港区南青山二丁目)の小柳津家の墓と側面

小柳津家の墓 墓石側面

参考図書
・『丸善百年史
・『三百藩戊辰戦争事典上
・須藤隆仙『箱館戦争史料集
・『丸善外史
・『岡崎商工会議所五十年史』
・小柳津要『遊撃隊戦記』
・富沢淑子『小柳津要人追遠』
・『慶應義塾百年史』
・福沢諭吉『改暦弁』
・志賀重昂『旅順攻囲軍』
関連・参考サイト
・丸善株式会社Webサイト:http://www.maruzen.co.jp/top/
・慶應義塾:http://www.keio.ac.jp

江原素六の生涯と墓所

 江原素六の胸像

江原素六(えばらそろく)の肖像と沼津市明治史料館の胸像

江原家の祖は慶長年間に参州(三河)幡豆(はず)郡江原村に住み、覚左衛門は年少黒鍬に召し出され家康の入府に従い江戸に来て村名から江原の苗字を許された。覚左衛門より8代を経た9代目が江原素六とされる。

■江原素六の生立ち
天保13年正月29日(1842年3月10日)に、江戸角筈五十人町(東京府豊多摩郡淀橋町角筈角筈五十人町817番地、現在の新宿駅の北西)に江原源吾(始め帯刀)の長男として素六が生まれる。幼名は鋳三郎(いさぶろう)。

源吾は幕府の小普請組津田美濃守配下。食禄一カ年金七両一人扶持(玄米四十俵)で、祖父の源左衛門・父源吾・母のろく・鋳三郎・弟の義次と銀蔵・妹のますの7人で暮す。
生活は困窮したが両親は泣き言を言わず借金もせず厳格であったため、鋳三郎も欲が薄かったという。
※清貧を強調した部分は伝記の着色として実際と異なるとされる

 

■8歳で初めて寺子屋へ通う
8歳の正月から寺子屋に通う。伯父の小野鼎之助(ていのすけ)が鋳三郎に手習いをさせようと机を下男に担がせ文具を揃え束修二百文を持たせたという。
その年の暮れから翌年1月15日頃まで、牛込雉子谷町に住む大伯母で徳川家斉将軍の奥に勤めていた願生院(がんしょういん)の所で年始客を迎える手伝いをし一疋(25銭)の報酬を得ることができた。これは14才まで続き、言葉遣いや行儀作法も薫陶された。
鋳三郎は寺子屋から帰ると親の内職の房楊枝の光沢付けを手伝い、百本磨くと4文の青銭を貰い、筆や墨、寺子屋の謝儀にあてた。

嘉永5年(1852)2月、11歳の時に四谷蕎麦屋横丁(愛住町)に移転し、幕臣池谷(いけのや、池田)福五郎に入門する。
隣席の安藤という者が大学を教わるのを傍らで聞いていただけで、その一冊を覚えてしまったので、池谷先生は素読を勧めたが、学問嫌いな父源吾は息子が本を読むことを認めなかった。
そこで先生が「鋳三(いさ)さんはきっと読めば覚える質だから教えたい」本は貸すし月謝も不要だと親切に説得に来たが、源吾は人の子を出来る出来ないと批評するとは無礼だと怒ってしまう。当時は子供を叱る時に折檻も行われ最悪勘当をされる恐れもあり鋳三郎が怯えて身を縮めていたその時、池谷夫人が浴びせられた小言や悪口に対して平身低頭して謝り滔々と説得したので、素読を教わることを許された。
15歳で四書五経の素読を済ませた鋳三郎は安政3年(1856)9月21日に幕府の規則により昌平黌の素読吟味の試験を受けて及第し、賞与として丹後縞三反を拝領した。
妹ますもこの池谷夫人に糸を紡ぐことを教わり、女ながら月に五、六十銭は稼ぐことができた。

12月に伯父の大澤が烏帽子親になって元服し、赤飯を炊いて前髪を剃り落した。
源吾は大人になったからには自活しろと命じられたが、それは鋳三郎も考えていたことだった。
安政4年(1857)の正月4日から自分で房楊枝を拵え、夜間に小さな脇差を見えないように頬被りをして新宿の小間物屋の店を「楊枝は宣(よ)いか楊枝は宣いか」と言って売り歩いた。
普通は楊枝を百本束ねる時に悪品を良品で囲んで売られていたのを、鋳三郎はきちんと品質ごとに分けたので客に喜ばれ、月に一円二、三十銭を稼いだ。

楊枝の原料は日本橋の西河岸で米俵大のものを二把買い、人足を使う運賃1銭を節約するため暗くなるのを待って刀の大小に結んで背負って愛住町まで帰った。帰途の九段坂上の齋藤弥九郎の神道無念流道場「練兵館」の下の1つ八文の稲荷寿司の出店へ寄った所を運悪く源吾に目撃され、武士の子にあるまじき買い食いに対して往来で鉄拳制裁をくらう逸話もある。鋳三郎にしてみれば人足まがいの仕入れ中のことであったが、普段は庇ってくれる母にも叱られ、侍の体面を保つ重要さを実感し心を入れ直したという。

 

母方の祖母すみ子は鋳三郎が本を求められないことを聞き聞き妹婿の浅野従兵衛の元へやった。浅野は鋳三郎の聡明さを気に入って豊富な書庫を開放する。
浅野のお蔭で鋳三郎は更に小野久弥、関根良助、高橋三十郎、星野格次郎、松平謹次郎等に洋書及び洋式練兵を学ぶことができるようになった。

一方、相変わらず源吾は家で勉強をさせなかったが、鋳三郎は夜十時に親が寝てから軒下の盆燈籠の下に毎晩立って漢書を読み続けた。
この頃に青山の左京大夫邸の出火が広がり江原家も全焼してしまうが、預かっていたブツキシーの原本は責任感から穴に埋めてあったため無事だった。

剣術は習う機会がなかったので、重い木刀を拵えて鍛錬と暖を取ることも兼ねて寝る前に数百振っていたが、浅野は鋳三郎を斎藤弥九郎の道場に入らせ、後の渡辺昇が塾頭として立ち会い免許を得た。
免許を与えた時の習わしで師に酒を馳走になり、鋳三郎は初めて飲酒した。ここで腰が立たなくなるまで飲み、しかし酒には強いようですぐに立ち上がることができたため、以降家では飲まないが友人と飲酒をする事を覚えたのは後悔していると自伝で語っている。

 

安政5年(1858)に流行した虎列拉(コレラ)を家族が患い同じ蚊帳の中で看病し、四谷伝馬町萬新で1粒一分の金匱救命丸を買って飲ませた。家族は半分だけ飲み半分を後に備えて残したが、幸い回復した。

 

■18歳で横浜の番兵、22歳で講武所の教授方となる
浅野を介して幕府旗本の深津摂津守弥左衛門(ふかつやざえもん)に従うようになり、深津は攘夷志士から外国人を護るために横浜に置かれた番兵を斡旋した。
兵士となった鋳三郎は横浜に半月駐在し1日に二朱(12銭5厘)の給料を得て内職から解放され、半月は東京で勉強をした。
給料はそっくり親に渡し、幾らかを分けて貰っていたのを貯めて、妹の衣服を拵えたりもした。

外国のことを気にかけた鋳三郎は互国条約書を写して持っていたため、安藤太郎の父で医者の文澤(ぶんたく)ら年配の知人が多かった。
また村田蔵六(大村兵部大輔)が訳した歩兵操練所の原書を読み始めると、両親や漢学の友人は蘭書を読むことを咎めたが気にせず勉強を続けた。

文久元年(1861)12月22日、幕府の兵学校にあたる講武所砲術世話心得となる。
その後、横浜に警備兵が組織されて有志者の番兵は廃されたため、和蘭書の筆耕を始めて食い繋いだ。

文久2年(1862)9月25日に講武所の砲術教授方となり二十人扶持(月3石の米の給与)となる。
体を酷使して患うが、この給与のお蔭で薬を得て半年で回復出来た。

病が癒えると佐久間象山塾に入りたいと思い、象山が京都で殺害された後を引き受けた松代藩の有河賢之助の塾に入るが、幕府の講武所の名誉ある教授が藩士の私塾に入ることは体面を汚すと周囲から散々非難を受けた。
鋳三郎は今まで塾費が払えなかったから入塾しなかったまでで、非難を退けて塾から講武所へ通った。

 

■撒兵隊長、歩兵指図役頭取となる
慶応元年(1865)長州征伐のため将軍徳川家茂の上洛準備として4月21日に幕府軍の大調練が行われ斡旋の任にあたる。
組織改正で講武所が廃され、鋳三郎は撒兵隊(さんぺいたい)長となった。
当時の兵制は一大隊が五中隊から成り、その内の偵察・伝令・哨兵・番兵の任にあたる一中隊を撒兵隊と称した。

5月6日に家茂の御供の先発隊として一個中隊を率いて東海道より美濃路を進み22日に京都に着く。当時慶喜の宿所の桑名屋敷守護に任にあたった。
大坂から芸州広島・備後三次、石州大森、出雲石見等を巡察して大坂に帰る。
その頃に鋳三郎は自分の兵を一中隊率いると共に幕府の兵隊に西洋流の練兵を教えていたが、幕府の者の西洋砲術の認識は幼稚であったと回想している。

11月に大坂を発ち江戸に戻るが、出張中は手当が出るため教授方の給料は使わずにいたのを、弟の義次が親を唆して蓄えを全て使い込んでいた。以後も賢い弟の出費を賄うのに苦労することとなる。

慶応2年(1866)12月に歩兵指図役並を命じられる。
慶応3年(1867)歩兵中隊の指揮官として再び上洛し、任地で歩兵指図役頭取(歩兵大尉相当)となった。

京都に滞在中は主松平容保から依頼を受けて会津藩士族の歩兵・兵法の練兵を教授した。
元々身分が低かった鋳三郎は乗馬経験がなかったため代わりに馬術を教わった。
熟練したつもりであったが、会津藩士が大隊長、鋳三郎が連隊長として連隊操練を行う際に強引に馬を借りたものの馬を操れず、結局大隊長のみ乗馬し鋳三郎は徒歩で号令することになった。
普段は鋳三郎に合わせて乗りやすい馬に乗せて貰っていたと気付いて、恥じるよりも一層熱心に鍛錬を積むことを決意する。

翌年に兵は江戸に帰還したが、鋳三郎は上方で兵乱が起こるのを危惧して京の残留を望み、連隊長の深津摂津守に懇願した。
残留は叶ったものの鋳三郎の思慮は周囲者には理解されずに昇進のためだと誤解され悔しい思いをした。

11月に慶喜は大政を返上し、12月に再び京へ出立し、大坂へ下った。
兵を持たずに取り残された鋳三郎が伏見にまわるとフランス皇帝ナポレオン三世から幕府に献納されたナポレオン大砲二門が捨ててあるのを見て、日本の武士の体面に関わるものとして大坂へ運ぼうとした。
付近は薩長の兵が充満し、大砲の砲身が車台から外れており一人では動かせずにいると、新門辰五郎(しんもんたつごろう。江戸の侠客で二条城の警備を任されていた)の乾兒(こぶん、手下)達が通りがかって手伝い、無事に淀まで曳き、大坂に持って行った。
12月末日に慶喜は上洛を薦められ京へ向かうが、慶応4年(1868)正月に鳥羽・伏見の戦が勃発。

幕府方の連敗で、官軍が大坂へ迫るのを危惧した鋳三郎は大坂城で陸軍奉行の藤堂肥後守に面会し砲一座と歩兵一中隊を借り受けた。守口に砲座胸障を築いて備えたが、慶喜は1日になって引き揚げてしまう。
鋳三郎は大坂城に戻って兵を纏め泉州の堺に向かい、小銃の音を聞くと兵に弾込めと整列をさせ速やかに紀州路に抜けた。途中空腹と披露が重なって寝ている隙に軍資金を盗まれる失態もあったが、紀州に着いても幕府兵の姿は見えないので、城下で一番大きな旅籠に泊まり「砲兵差図役頭取江原鋳三郎」と松板に書いて表に掲げると、逃げそこなって潜んでいた人が集まって来た。
騒ぎによって新政府から嫌疑をかけられることを恐れた紀州藩の使者に、鋳三郎は自身の切腹覚悟で兵士達を江戸に送るための取り計らいを強談した。交渉により立退き金ともいえる一千両の大金を貰い受けて(千石積の船持は千両と決まっていたので丁度の金額を申し出るという駆け引きが成功したと言える)、和歌山を出航出来た。

途中で幕府艦に出会ったら半額の500両を返すよう船頭と交渉した上で、紀州の橋杭港に停泊中に汽船の「迅動丸」に乗移り、品川へ着いた。
兵士を労うために海月楼で酒肴の用意をして迅動丸に戻ると、京阪で抱えた兵士しか居らず、江戸士族は直ちに家族に会いに帰ったことを知って人情を痛感した。
500両を受取に船宿へ向かった所、既に彰義隊の軍資金として上野に送らたという。

 

■撒兵隊頭並となる
3月1日、鋳三郎は撒兵隊頭並(さんぺいたいかしらなみ。明治の少佐相当)となる。
この撒兵隊は前年に隊長となって引率した撒兵隊ではなく、初め御持小筒役と称した銃隊である。

頑固で交際を嫌い、息子が友達を同行しているのを見るや往来を二人で並んで歩くなと打擲するような父源吾は、昇進を目出度いともせず友人に通知することも許さなかったが、伯父の小野が、甥が芙蓉の間の役に就いたと非常に喜んで訪ねてきた。
天井も何もない六畳一室と一坪半の土間だけの小さい家ゆえに奥で寝ていた鋳三郎の耳にも会話が筒抜けで、謙遜していた源吾も酒を飲まないのだけは取り得だと珍しく褒めたので、外で酒を嗜んでいる鋳三郎にとって可笑しくあり親の情に触れた瞬間でもあった。

撒兵隊頭並の五人のうち、新参ほど悪い隊を宛がわれる習いであったが、籤引きで決めるように申し出て、良い隊を受持つことが出来た。鋳三郎は他の上官が無下にしていた建白書にも目を通し、中でも良い文を書き字も上手い古川善助(善次郎、陸軍中将古川宣譽)を呼んで人格者とみて直ちに抜擢した。

東征大総督軍が東海道を下ってくると幕府陸軍では謹慎か抗戦かという今更な協議を始めたが、戦を避ける意志を見せるものなら臆病としてその場で斬るような空気が流れたため、非戦論者の鋳三郎は人に斬られる前に菩提所で自刃するつもりで、恩顧の深津摂津守に暇乞いをする。
先輩である攻玉舎の学者近藤誠(真琴)にも別れを告げにと四谷内藤町の藩邸を訪ねたが留守であったため机上の紙に「慷慨就死易、從容就死難(こうがいしにつくはやすく、しょうようしにつくはがたし)」と書いて去った所に後ろから、君死んではいけぬと近藤が駆けつけて思いとどまらせた。

江戸において慶喜が東叡山に謹慎し、会津藩も恭順の意を示していたが、江原家に会津藩士の林三郎が肥後藩の益田参謀を伴って訪れ、官軍も懸念している撒兵隊に軽挙暴動を起こさないように留める役を頼む。鋳三郎は役目を引き受け、幕府は4月には鋳三郎を撒兵頭(大佐相当)に昇進させている。

 

■撒兵隊が木更津に脱走、市川・船橋戦争
鋳三郎は撒兵隊の屯所である西丸下の広場に兵を集め、軽挙暴動をしないと契約させた。
しかし官軍の機嫌をとる挙動に疑問をもった者が、江原の命令であると吹き込んで兵を動かしてしまう。
4月10日に撒兵隊長の福田八郎右衛門が撒兵隊を率いて脱走した。
霊岸島(れいがんじま。現在の東京都中央区内新川)から船に乗り、11日午後に寒川(千葉)に上陸し、上総八幡村に散宿する。12日に姉ヶ崎に至り、福田は総員2千名の兵を纏めて官軍の背後を衝く狙いで木更津に駐屯し「徳川義軍府」の標札を掲げた。長須賀の泉著寺(選擇寺の誤記か)を本営とし(本営の場所は選擇寺・染物屋島屋等諸説あり)上総国木更津本営義軍府とする。
福田を総督、会津藩広沢富三郎を参謀、庄内藩木崎定之丞を軍監とし久留里藩に檄文を発した。

鋳三郎も大佐を辞職して撒兵隊を統制するために上総へ向かった。
木更津で鋳三郎は米屋「米伝」に泊まっていたとも伝わっている。
撒兵隊を兵達は真面目に警備する様子もなく、いかにも狼藉千万であったために、鋳三郎はそれぞれに兵を配置して整理し、小藩と談判するように運んんで、今は官軍に手出しをしてはならないと注意した。
17日に要害に欠ける木更津から連絡の近い市川・八幡方面に兵を移すため鋳三郎が第一大隊を率いて先鋒として船橋に進み、第二・第三大隊が続く。

第四・第五大隊は木更津に留まり、真里谷に滞陣した。福田が請西藩藩主林忠崇に協力を求めるため請西を訪れている。

18日に第一大隊が中山法華経寺に入る。
官軍に攻撃の意志が見えたため、上総方面の参謀長である徳島藩士の林徹之丞(立木兼善/たちきかねよし)と交渉し無条件で膠着状態を保った。

それも長くはもたずに閏4月3日の早朝に官軍先方隊が動き、蜂須賀勢と共に八幡の東に迫った。戦が始まる。官軍側からの攻撃にまず撒兵隊が勝利し、市川の渡まで追い詰めると藤堂兵が大砲を火門針も打込まないまま置き捨てて撤退した。大砲の勝手を知っている鋳三郎は撃鉄類は弾薬箱に入っているとみて組立て、刀の下緒でウレーシングパイプを取って敵側の鉄炮で見事に敵を砲撃した。
無闇な深追いは避けて八幡の船橋へ兵を集中させようとしたが、第二大隊が船橋で敗れて潰走していたため、仕方なく隊伍を纏めて船橋街道に出て、銚子から水戸に渡ろうと進路を変更した。

途中、二俣村海神村に転戦する矢野安太郎率いる一隊と撃ち合いになり、突貫してきた久留米藩士小室弥四郎に組み伏せられたが、すぐに駆けつけた指図役の古川善助に鉄炮の台尻で背中を打たせて命拾いをした。
駆けつけてきた味方兵が小室の頭を斬りつけたが、小室が動いたので兵は驚いて逃げてしまった。小室は九州武士らしく自ら切腹しようとしたのだが、力が入らない様を見て古川が介錯をしてやった。
そこへ筑前兵が隊長の仇だと盛んに銃撃を浴びせ、鋳三郎は左足に三発の弾丸を受けてしまう。鋳三郎の傍に味方兵が集まるのを避けて、古川と少人数で浅間神社境内の山林に運ばせた。

山野台に潜行し百姓家に従者二人で入り、他の兵は野営し4日未明に佐倉街道へ向かった。
動けない鋳三郎は握り飯と共に長持の中に入れて蛇沼まで背負い、空気が入るよう蓋に石を挟んだ上で雑林の畦道に埋めておくと、官軍に見付けられずにやり過ごせた。
数日後に捜索が打ち切られると、村人が家に運んでくれたが、夏であったため腐敗した傷を見ると手の施しようがないので去っていった。
鋳三郎は和蘭の医書の外科の項を読んでいたため、自分で膿を搾って綿撒糸(めんさっし、手術後の傷口に宛がう綿布)を拵え包帯をしていたが股を打ち抜かれた所などは酷く化膿していた。
辛抱強く回復を待ち、多少動けるようになった5月16日の未明に下り船を頼んで新場から牛込の揚場に着き暗に紛れて籠に乗って愛住町の実家へ戻った。

 

■潜伏、駿河へ脱走し水野泡三郎と名乗る
家族を巻き込まないように、潜伏先の石井至凝宅(後の永田町の大蔵省官舎付近)へ向かった籠が途中の市谷で捜査にかかったが、尾州士官が知人であったため見逃して貰えた。
石井宅も安全ではないと外へ出た翌日に佳作捜索を受けたため、ここでも災厄を逃れた。

江原宅に年俸千円のうち1ヶ月間の給料を会計課が五十円を差し引いて届けられた。
差し引かれたのは上総方面に出つ際に受け取っていた分で、負傷して長持に入れられる際に、もう助からないと思い律義に官金を返そうと下僕の小三郎に江戸へ行くよう託したものが、会計課に届いていない…つまり小三郎がくすねたことを示していた。
そして不意に小三郎が訪ねてきて、鋳三郎が生きてきることに狼狽した。悪事を覆うために官軍へ密告されるわけにはいかず、機嫌をとるために自分はこの先どうなるか分からないからと暇を出して彼の故郷の甲州に帰る資金として20円を渡した。
その後小三郎は笹子峠を通る時に官軍に捕えられて50円と20円を奪われたあげくに首を刎ねられてしまったという。

杖無しで歩けるまで回復する頃に、阿部邦之助(潜/ひそむ)が来訪し芝の浜御殿へ榎本釜次郎(武揚)との会合に招かれた。鋳三郎が尊敬する榎本は彼が率いる旧幕府艦隊で函館に渡ることを企てており、鋳三郎の兵を誘ったのである。
しかし鋳三郎は函館行きを断わり、幼年の徳川家達(いえさと。田安亀之助)をもって70万石で徳川家が移封された駿河(静岡県)へ行くことを選んだ。

駿河移住の陸軍関係者は陸軍頭服部綾雄が統率し、まず大筒組・小筒組等を集めて三大体に分けた。9月にアメリカ人の所有するニューヨーク号を三百両で賃借し「都」丸と名付けて乗船させ品川を出航する。
時化に遭いながらも伊豆の下田に入港する。次に阿良連(あられ)港に潜伏し、風が弱まると漁船に乗って駿河の清水に着く。小夜の中山を越え、そして駿河の藤枝の在に仮住みをすることとなった。

やがて東京の友人から「江原が小野三介の偽名で藤枝に居る」と捜索が出ていることを知らされ、急いで伝手のある伊豆の韮山へ移ることにした。
沼津辺りに来た時に沼津領主の水野の名を借りて、徳川家康が詠んだ「吹けば行き吹かねば行かぬ浮雲の風に任かする身こそ安けれ」の歌から水野浮雲と偽名を考え付くが、知人の水野痴雲と似てしまうので、自分の生命のあやうさを水の泡にたとえて「水野泡三郎」とした。
伊豆に至る前に知人と会って駿河駿東郡中泉字竹原の大沼嘉右得衛門宅に潜伏する。

 

■静岡藩の少参事となり、沼津兵学校を設立する
やがて藩庁から呼出があり、有度郡吉川村の藤棚に初めての野宿をし、静岡に向かう。
その頃、函館を目指して出航した旧幕府艦隊のうち銚子沖で難破した美加保丸の乗組員が捕えられ静岡の牢に入れられていたが武士の命の刀を取られることを拒んだ高野という男が、刀と持って謹慎したいと申し出るや否や役人に斬り捨てられてしまったという。脱走人の扱いの惨さに、鋳三郎は宿代や飲食いに使わずに保管しておいた30円を全て見舞金に宛てている。

そうした殺伐な状況下で鋳三郎が呼ばれた用件は役人として従事せよとの太政官からの達しであった。
8月に駿河府中藩(駿府藩。後に静岡藩に改称)の少参事に任ぜられ、この時から公に江原素六を名乗る。
しばらくは沼津城内の友人の家に寓居して沼津方面の治政に携った。

 

素六は維新前から陸軍の発展のために士官に学問が必要と考えていたので、江戸で同じ志を持っていた陸軍頭の阿部邦之助(潜)と共に藩に働きかけ、沼津に初めてヨーロッパ流の兵学校が設立された。日本の組織的学校の元祖である。

明治2年(1869)正月8日に静岡藩の陸軍局を母体に沼津兵学校が開校。
沼津藩主の居城であった沼津城の二の丸御殿を校舎として、初代頭取(学校長)は石州津和野藩士の西周(文久2年に榎本武揚と共にオランダ留学し慶応3年に帰国)。
西周と共に留学した赤松大二郎(則良)、塚本桓輔(明毅)等、優秀な教授を招聘し英学、仏学、算術は微分積分まで、そして体操もしくは図画(写生や製図技術)、剣術、乗馬、練兵、水泳というあらゆる学科をそなえた。

そして附属小学校として本郷小学校の元祖……従来は四書五経、寺子屋では名頭、国盡しを読ませる時代に、体操や算術や絵を描かせ本も読ませるという新しい小学校も設けた。
兵学校進学を希望しない童生も入学でき、農民・町民にも開放された。

3月17には沼津西ノ条に兵学校の附属病院で陸軍軍医を養成する「陸軍医局」が開業する。病院頭取は杉田玄瑞(杉田玄白の孫)、御用重立取扱は林梅仙(洞海)とした。
その後、静岡藩は医療分野を静岡病院が掌握する方針をとり、陸軍管轄を離れ、8月に「沼津病院」に改称。
医学教育だけでなく一般にも開放し、薬代のみで診察料は無料なため地元に大きな恩恵を与えた。

 

兵学校では入学時に体格検査を導入するなど、先進的な校則に対して迫害もあった。
士族三千人の教育を藩庁から一任されている阿部と江原の専断が幼年の君公の失態になりかねないとして暗殺を企てられた。それを阿部達に伝えた大柳内龍太郎の首が見せしめに届いたこともあった。

学校に刀懸けも下駄もない、廃刀と靴履きを理想として、士族の子弟のうち器用な者を横浜に靴製造の修行に出したが、昔は穢多が扱っていた皮加工を士族にさせることに外部が騒いだが、構わずに遣って成功して帰り、後に陸軍の靴の製造長となった。

また余った運営費で銀行を建てて運輸や為替を取り扱い、廃藩置県後も兵学校を維持できるよう構想を練ったが、士族が商業を営むのは体面に関わるから閉店せよと朝廷から命じられてしまった。

6月20日に駿府が静岡と改められる。藩政改革で陸軍局は軍事掛に改称する。

 

■海外視察と兵学校閉校、議員選出と数々の事業
素六は沼津の北西の坦道約一里、愛鷹山麓の西熊堂村(金岡村)に住居を定めて両親を迎え定住した。

明治3年(1870)11月に太政官より各藩に海外視察員選抜の内命が下る。静岡藩庁は素六と相原安次郎を指名し長田銈太郎を随行員とした。
明治4年4月8日にシティー・オブ・ペキン号で30名が横浜を出港しアメリカに渡った。桑港(サンフランシスコ)に上陸し紐育(ニューヨーク)に赴き、一行は英国リバプールに向かうが、和蘭語を習得し英語が未熟であった素六と二、三人の有志は修養のため紐育に残った。
明治4年(1871)12月25日に海外視察から帰国する。
帰国前の7月に、廃藩置県により沼津兵学校は政府の陸軍管轄となってしまっていた。

明治5年(1872)2月に31歳で幕臣川村順次郎の娘、縫子と結婚する。
5月に兵学校は東京の陸軍兵学寮に組み込まれて移転を命じられ、閉校となった。
沼津病院には杉田らの努力で会社病院として継続する。

前途を失った士族のために11月に愛鷹山麓に牧場を開き、肉食の広まりに応じ外国産の牛と交配させた雑種を育てた。純良のシヨルトホーン牡牛を提供した横浜の米人スミス氏に同じ毛色の馬を馬車用に贈る。
しかし疫病や火災の苦難を乗り越えてきた牧場経営も、肉食推奨を問題視されて明治11年に朝廷から廃牧を命じられてしまう。
なお廃牧後に牛を預けた農家では自然交尾で駿牛から良い馬が生まれて喜び、雑種の利益を知り、改良の良い結果をもたらすことになった。

明治6年(1873)正月に海外視察の知識によって附属小学校を改造して新しく公立小学「集成舎」を創立。科目に英語科を設けて外国人教師を高額で雇った。
6月10日に長男帯一が生まれる。

明治8年(1875)に静岡師範学校長になるが明治9年1月に依願免職。
6月15日に長女なつ子(福井菊三郎夫人)が生まれる。
12月に県会議委員に静岡県第一区より公選する。
明治9年(1876)8月に集成舎の設備を拡張して「沼津中学校」として独立させる。

明治10年(1877)1月に積信者を起業し静岡茶の製茶と輸出も始めたが、多額の損失が出て明治15年に廃業となった。

 

■基督教の受洗、教育と政治に従事
明治11年(1878)に外国人教師でカナダメソジスト教会の宣教師ジョージ・ミーチャムにより洗礼を受ける。

明治12年(1879)3月に駿東郡長(月俸35円)となる。4月から沼津中学校の校長を兼務した。
衰運していた沼津病院に東京大学医学部助教室賀緑郎を院長に招いて駿東病院と改称する。
6月10日に次女のよし子(帝国商業銀行頭取高山長幸夫人)が生まれる。

明治14年(1881)6月に郡長を辞して中学校長専任(月俸40円)となる。
秋に素六は沼津教会の帰途に喀血し、連日の高熱で病臥した。素六は聖書の句を思い出して念じたところ霊火に焼かれる心地がし、生死は神意であると痛感する。様態は悪化し最終手段の手術を宣告されるが、晩に左肺から異様なものを大量に吐き出してから回復に向かった。それが教会の者たちが祈祷を捧げていた時刻と重なったことを知って信仰心を強め、12月のクリスマスに再度の洗礼を受けた。
素六は校長を辞して正式にメソジスト教会の伝道師を志願する。
教会はまず沼津に隣接する吉原講義所に素六を派遣し、原、大宮の伝道も担当することとなる。素六は単身で講義所に起臥し自炊し質素な生活に入り、過去の事業の負債が累を他に及んだことを悔いて財産を公売に付し、日用品も全て売却して贖った。この行動に感じ入った信徒が多く沼津教会に集まることとなる。

明治15年(1882)3月18日に次男の次郎が生まれる。
明治18年(1885)に三男の三郎(稲葉千波の養子となる)が生まれる・

 

■東京で福音士、そして麻布中学校長となる
素六は東京へ移住し、宣教師イビー博士がミッションにとらわれず文化的に経営する本郷中央会堂に招かれる。素六は当時メソジスト教会に初めて設けられた福音士として講演した。

明治21年(1888)2月20日に四男の愛作(丸山堯の養子となる)が生まれる。
明治22年(1889)6月に麻布鳥居坂の東洋英和学校幹事となる。
明治23年(1890)7月に第一期衆議院議員選挙で駿東の有志に推されて一金も費やさずに静岡県第七区(駿東郡)で当選。東洋英和学校幹事を辞す。
明治24年(1891)4月4日に三女のしず子(松本常磐の養女となる)が生まれる。
明治25年(1892)第二次伊藤内閣で当選。

明治26年(1893)3月に、再び東洋英和学校に入って名誉校長となる。東洋英和学校の寄宿舎に住み、聖書の講義を行った。
この年、父源吾が亡くなる。
明治28年(1895)3月に中等部を設ける。そして同校内に麻布中学校を起こし校長となった。
中央会堂から麻布教会へ移り、麻布中学寄宿舎に住んで寄宿舎内の宗教的会合には必ず出席して生徒を導いた。

明治31年(1898)3月の第三次伊藤内閣臨時選挙にも当選。政務委員となる。文部大臣に推薦されたが固辞して立候補しなかった。
明治32年(1899)に文部省から、官私立学校で課程外であっても宗教上の教育や儀式を行うことを禁じる訓令を受けた。
本国伝道会社の命で翌年3月限りの廃校の運びとなったが、素六はこれを予期しており、麻布中学校創立者の変更を出願して許可を得て、また東洋英和学校からの独立を決めた。

明治33年(1900)伊藤博文の政友会に投じて総務委員となる。
明治34年(1901)6月第一次桂内閣当時、政友会総務委員と政務踏査委員長を兼任。21日に星享が伊庭想太郎(伊庭八郎の弟)に刺殺されて痛哭し、政界を退くことを決意する。
この年、東京市教育会会長、次いで東京市参事会員となる。

明治36年(1903)1月21日に長男の帯一が死亡。
2月の臨時総選挙で市民から無理に推され東京市より衆議院議員に当選。
明治37年(1904)2月に片岡健吉を引き継いで東京キリスト教青年会(YMCA)の理事長となる。

明治39年(1906)1月に政友会協議員長となる。4月に日露戦争の功で勲四等に叙し旭日綬章を授けられ、また帝国軍人後援会理事となる。6月に家庭学校理事。
明治40年(1907)6月に日本メソジスト教会日曜学校局長。12月6日に鉄道青年会創立、会長となる。
明治41年(1908)にも協議員長を継続するが、翌年2月に辞して協議員となる。
明治44年(1911)徳川公爵家家政相談役。この年、母ろくが亡くなる。
明治45年(1912)の総選挙は立候補を辞退したので、西園寺首相は素六を貴族議員に奏薦し、4月に勅選する。藍綬褒章を下賜される。

 

■素六の晩年
大正2年(1913)3月に白十字会会長就任。5月3日に日米関係の悪化により素六は在米同胞慰問使として東京基督青年会主事山本邦之助を同行して气船コレア号で横浜を出港した。老体でありながら各地で講演し排日の緩和に努めた。
大正3年(1914)7月に教育調査会委員。
大正4年(1915)10月に大正天皇御即位に際し多年の教育業務の勤労により勲三等に叙し旭日中綬章を賜わる。

大正11年(1922)この頃、徳川家に招かれて聖書を基にした精神講和を行っていたという。
この年の5月18日に突然二豎に冐され、19日午後9時に危篤。
20日夜9時に東京市麻布区本村町30番地の自宅で永眠が発表された。享年81歳。特旨を以て正五位勲二等に叙される。

22日午後3時から神田青年会館で麻布中学校の校葬執行。午後4時から5時まで一般の告別式が行われ、同夜11時半に東京駅発霊柩を沼津に送る。
23日午前3時半に沼津駅に着き11日に金岡村に埋葬した。

江原素六の墓所 江原素六の墓

▲沼津基督教共同墓地の江原家の墓所と、江原素六の墓

参考図書
・内田宜人『遺聞 市川・船橋戊辰戦争-若き日の江原素六
・辻真澄『江原素六
・大野虎雄『沼津兵学校と其人材
・江原素六『急がば廻れ』
・加奈陀合同教会宣教師会『加奈陀メソヂスト日本伝道概史』
・私立中等学校恩給財団『創立十周年記念誌』
・江原素六先生記念会委員『基督者としての江原素六先生』
・沼津市明治資料館『沼津兵学校』