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佐久間象山年譜

佐久間象山の写真

佐久間修理(象山)
幼名は国忠。初め啓之助。名は(ひらき、衡樹)または大星(たいせい)、通称は修理(しゅり)、字は子明(初め子通)雅号「しょうざん」は郷里では「ぞうざん」とも呼ばれる。

信濃国松代城下で生まれる
文化8年(1811)2月28日(11日とも)に信濃国埴科郡松代町字浦町(裏町。現長野県長野市)で佐久間国善(一学。号は神渓)の子として生まれる。母は同郡寺尾村の荒井某女。姉三人のうち同母はけい、前妻の子2人は夭折。
文化10年(1813)3歳で六十四卦の名を韻じ、禁葷酒の碑を見て禁字を覚えたともされる。
文化13年(1816)6歳から修学。
文政2年(1819)天然石の硯を拾って帰り、一学は将来息子の名が轟く兆しとみたという。
文政7年(1824)松代藩前藩主真田幸専(ゆきたか)五十誕辰の賀詩を前年の冬から作り国忠と署名。
文政8年(1825)2月26日15歳で嫡子と認められ、4月15日に松代藩主真田信濃守幸貫に謁見する。
文政9年(1826)藩老鎌原桐山(かんばらとうざん)の門に入り経義文章を、町田源左衛門に和算を学ぶ。
文政11年(1828)10月13日父が隠居し18歳で家督を継ぐ。11月25日に木村縫殿右衛門組へ御番入。
天保元年(1830)僧活文より支那音を学ぶ。
天保2年(1831)3月22日に若様(幸貫の子幸良)御近習役となるが、老父孝養と学業専念のため5月13日に退職。翌年8月20日に父神渓が病没。享年77。松代蓮乗寺に葬る。

 

23歳で江戸へ遊学、29歳で神田お玉ヶ池に開塾
天保4年(1833)11月下旬、藩に学費を支給され江戸へ遊学し、林家の門に入り学頭の佐藤一斎に朱子学を学ぶ。
天保5年(1834)秋から仁木三岳に琴を学ぶ。
天保7年(1836)2月に帰藩し御城附月並講釈助となる。春より象山の号を使う。翌年9月に再遊学を願出る。
天保8年(1837)学政意見書を矢澤将監に出す。
天保9年(1838)4月に藩の内用で越後へ行き5月に松代へ帰る。11月11日に「修理」への改名願いが通る。

天保10年(1839)2月12日に再び江戸遊学。上田を経て19日に江戸に入る。
6月1日神田御玉ヶ池の地を選んで住む。「象山書院」または五柳があったため「五柳精舎」塾を開いて生徒を集めて儒学を教授した。
天保11年(1840)望岳賦を作る。
天保12年(1841)9月2日松代藩の江戸藩邸学問所頭取となる。

天保13年(1842)9月7日砲術師範江川太郎左衛門(英龍・担庵)に入門して西洋砲術を学ぶ。
おしりもイギリス・清間で勃発したアヘン戦争(1840~42)に衝撃を受け、秋に藩主幸貫より海外事情の調査を命じられ、10月に海防八策をたて12月24日にも海防策を幸貫に上書する。
この年妾・菊(浅草蔵前札差和泉屋九兵衛の娘、16歳)を娶る。

天保14年(1843)正月18日に江川の国元の韮山へ赴き2月6日江川から免許を受ける。
藩主幸貫の内命で伊豆沿岸を視察し2月29日に江戸へ帰る。
4月11日に母の急病で松代に向かい13日着。癒えて5月9日に出発し上田を経て12日に玉ヶ池に帰宅。
象山の帰郷中に菊が宿元へ退去。
10月7日、33歳で郡中横目付役となり12月に旧禄100石に復す。
12月2日に風邪を押して帰郷し7日に松代に着く。蘭学で藩利を興す義に同意を得て12日に松代を発ち26日に江戸着。冬に測量機の製造を試みる。

弘化元年(1844)6月21日から蘭学者黒川良庵を同居させ蘭学研究を開始。
10月初旬に松代へ帰り16日に郡中横目付として松代領の沓野村を視察し晦日に松代へ戻る。
11月13日に佐野・湯田中・沓野の三村利用掛となる。
下旬に出発し12月3日に江戸に帰り9日から再び良庵に和蘭文典を学ぶ。
弘化2年(1845)2月中旬に良庵の授業を卒業。
5月20日に妾の蝶(芝久保町田中安兵衛の娘、16歳)が菖蒲(あやめ)を出産するが11月31日に夭折。菖蒲の遺骸を松代蓮乗寺に葬る。

 

36歳、松代御使者屋に住み三村利用掛として治める
弘化3年(1846)閏5月に松代へ帰り、一度暇を出した妾の菊を再び抱え入れて随伴させた。
浦町の家が老朽につき藩用地の御使者屋(使者の宿泊施設)を借り入れる。
6月に藩での五十斤砲の鋳造を象山は不可とし小砲の利を説いた。
7月23日に内用で出かけ26日まで別所温泉で遊び更級郡を経て翌日帰宅。中旬に妾(近藤氏)が長男恭太郎を出産。18日から29日まで沓野村出張。

弘化4年(1847)4月に地震の山崩れで閉塞した犀川(さいがわ)の氾濫を予想し米穀避難警告を主張。象山の判断がよく適中することを賞される。
8月中旬に下手三ヶ村に出張し佐野村笠嶽麓を巡視後にロイマチス病に罹る。
9月5日に恭太郎が夭折し蓮乗寺に葬る。
12月25日御役御免。この年初めて顔魯公の筆跡を学ぶ。

嘉永元年(1848)正月、昨年からの藩命により十二拇人砲・三斤野戦地砲・十二拇天砲の洋式大砲3門を鋳造。松代西郊道島で試す。
3月沓野村の藩地に薬用人参を植える。6月に沓野に出張し7月7日に帰る。8月10日に沓野の民の訴訟があり沓野に向かい鎮める。9月18日から23日まで再び出張。
11月11日に妾の菊が次男の格二郎を出産。
この年から師弟に大砲打方の教授を始める。また国産甘草の相場下落を案じて私財を投じて八田家名義で大阪に搬出し成功する。

嘉永2年(1849)2月、藩主幸貫に藩費でハルマ辞書を出版することを上書する(後7月に出版資金千二百両の貸予を得る)
3月下旬に薬用人参生育指導のため沓野村出張。
5月26日に松代南郊海善寺馬場で三斤野戦銃の射撃を試みる。
6月21日から24日まで沓野村出張後に鮮草山に試堀中の各坑を巡見し7月2日に沓野村、4日に松代へ帰る。8月9日に藩より事業停止を命じられる。
10月上旬に江戸に出て深川小松町(永代1)の松代藩下屋敷で各種本を編纂。自著の増訂和蘭語彙の第一巻を幕府天文方に差出す。
肥前侯から種痘を得て12月に松代へ持ち帰り息子格二郎に試みる。領内に施す意見は認められなかった。

 

40歳、松代藩江戸深川藩邸で西洋砲術指南
嘉永3年(1850)2月に松代城南花水沢で天砲を砲演。
4月に増訂荷蘭語彙の出版許可が幕府から得られず江戸を去り鎌倉で遊び関東の各砲台を視察し、その不足を12日に意見陳述書を幕府に上ろうとするが藩主幸貫の面目をたてて止める。
6月に江戸での松代藩砲術一覧に門弟を率いて参列。その後格二郎が病を患い帰藩。
7月1日に出立し5日に江戸深川藩邸に着く。寄宿する塾生達の砲術の質問を多く受ける
このころ、勝麟太郎(義邦、海舟。後に安房守・大番)も入門している。
会津藩の山本覚馬門人として名が見られる。

8月3日に浦賀勤番砲術師範下曽根信敦(金三郎。後に信之、甲斐守)の頼みで彼の門下に熕砲使用法を伝授する為に浦賀へ向かい、17日に帰る。浦賀で象山は日本初の大砲照準螺を作っている。
10月中旬に中津侯のために十二ポンド野戦砲図を制作。
冬に松前藩から十八ポンド長カノン砲の鋳造依頼を受ける。
11月に妾の蝶が三男の惇三郎(淳三郎)を出産。
12月18日松代へ帰藩。

 

41歳、松代で演砲後に江戸木挽町で開塾
嘉永4年(1851)2月17・18日両日に門弟と共に生萱村で五十斤石衝天砲(二十九ドイムモルチール)の試射を行う。26日に再演するが幕府直轄地に墜落して中之條代官と紛議が生じ以降砲演の際は届け出をすることを取決める。
3月22日にも生萱村で砲演。
4月上旬から江戸深川藩邸へ。

5月28日にから江戸木挽町に住み、和漢兵学砲術指南塾を開く。長岡藩士小林虎三郎等が入門。
二十坪程の規模で、入門者は百二十人に達し、常時三十~四十人が学んでいたといい、象山が撰する礮学図編を始め、兵書・医書を多く翻訳・開板した。
7月29日に長州藩の吉田寅治郎(松陰)が入門。

9月に浦賀に遊ぶ。11月上旬に上総(千葉県)姉ヶ崎で中津藩依頼の新鋳の大砲を試発するが砲身の故障で改鋳を要することになった。この故障によって中津藩からのお咎めはなかったが、松前藩からの依頼は破談となった。
12月に門弟金子忠兵衛を破門する。

 

嘉永5年(1852)閏2月に佐賀侯の依頼で十二ポンド新式野戦砲架・海岸砲架雛形各一座を制作。
5月28日と6月1日に藩の二十拇天砲同人砲を借用し大森海岸で演砲。
6月3日に江戸にて藩主真田幸貫公が62歳で卒去。
14日には象山の三男惇三郎が夭折。蓮乗寺に葬る。
29日故幸貫公を松代長園寺に帰葬。象山が墓誌銘を撰書する。
9月に妾の菊を解雇する。10月に『礮掛』を箸す。
12月に門弟勝麟太郎の妹順子(瑞枝)を正妻に迎える。
この年、長岡藩士の河井継之助や出石藩士の加藤土代士(弘之)が象山の塾に入門。

 

ペリー来航に際し43歳で軍議役となる
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀に米国艦4隻来航。明朝に藩命により浦賀に赴いて米艦の動静を視察し6日帰る。9日に藩の軍議役を命じられ武装と警衛を整えるため奔走する。
10日に藩主が象山の議を容れて江戸御殿山の警備にあたることを幕府に請い、命を待つ。
12日に米艦が退去し、18日には藩の家老らが象山を軽率であると藩主達に訴え24日に軍議役を解かれる。
夏に薩摩藩が象山に八十斤ボンカノン鋳造を謀り、図を作り跋を附け贈る。
9月24日深夜に一場茂右衛門と共に桑名侯(前藩主幸貫の兄)邸に赴き藩政を訴える。
10月に品川台場が海岸砲台式でないことを藩主から幕府に伺書を出す案を言上するが採用されなかった。
11月5日に学校督学となる。13日に臨時の軍議役を命じられる。
12月1日付で象山の塾に坂本龍馬が入門。

 

44歳、吉田松陰の密航を援けたため松代に蟄居
安政元年(1854)2月7日に松代藩横浜警衛のため出兵、象山も軍議役として出張する。
2月21日に幕府の下田開港の議を聞いて、目付堀利忠・福井藩士中根靱負及水戸藩士藤田誠之進を歴訪して象山は下田でなく横浜開港が可であることを論じた。
25日松代藩が象山を呼び寄せて大砲鋳造掛を命じる。
3月14日横浜警衛総勢を引き揚げ。
春に長州侯の依頼で十五拇ランゲホウウイッツルを深川で鋳造。

4月6日ペリー来航に際し門人の吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座したため幕府は象山を投獄。塾も閉鎖される。
9月18日に町奉行から引渡され江戸退去を通告。25日に松代に家族一同護送され10月3日に到着。
11月4日に松代で地震があるが象山は姉北山宅に居て無事。5日に松代御安(ごあん)町の聚遠楼(藩老望月主水の別荘)に移る。この町名の音を拝借して呉湾・呉安の名を使う。

 

安政2年(1855)9月6日に幕府は阿部伊勢守の書にて藩主幸教へ、象山の蟄居中の面接書信を禁じさせる。藩医立田楽水(操)が更に戒慎すべきを忠告する。
10月2日江戸の地震(安政の大地震)で藤田東湖が圧死した嘆きを詩にする。

安政3年(1856)3月22日に勝が航海中九死に一生を得たりとの報を受けて謹慎例を破り長簡を送る。
7月10日にも書で勝の海外(ジャワ)遊学の意志を賛して勧説する。
この月幕府は麾下士及諸藩に令して長崎蘭人所伝の銃陣を練習させるが、十一段込方を用いた象山の門人達は、長崎伝来の八段込方の作法に異議を唱え、象山に書を寄せる。象山は八段込方は陸軍式ではないと返書した。
この年、牛痘種法の理を書く。

安政4年(1857)正月17日、蟄居中であったが象山は門弟達に武備精励を奨め、火技を遊戯視することを戒めている。2月には速射銃を考案して迅発撃銃説を作り、又軍容・節度・軍裝の三事を論じ、あわせて時務の要目十九条を記して同志に示した。
7月22日に松代藩士三村晴山(養実)に書を出し、江戸・大坂に築造された砲台の実効が無いことを論じた。
12月3日に在府の松代藩士山寺源太夫(信竜)の外交質疑十七箇条に答えた後、時事意見を交換する。

安政5年(1858)1月26日幕府の対外処置が軟弱なことを憂いて藩主真田信濃守幸教に建言するが謹慎中として聴き入れられず、象山は密かにに書を処士梁川新十郎(孟緯)に寄せて国事に斡旋することを求めた。2月24日に梁川が返書で京都の情勢を報じた。
3月に山寺源太夫に書を寄せ、前に来航した米国艦隊司令長官ペリーの日本紀行と披見と早急な翻訳を繰り返し求めた。
4月に勘定奉行川路聖謨に頼り、外交措置に関する意見書を幕府に上る。更に書を藩家老望月主水に致して時事に関する所見を陳述した。
5月14日書を勝麟太郎に寄せて外交措置に関する意見を求め、日本人の海外視察の必要性を述べた。
7月19日時事に関する意見を処士梁川新十郎に告げ、京都の近情を問う。
この月、象山は地震計、人造磁玦を翌月に電池を造る。

万延元年(1860)正月に象山起稿の大砲改鑄・同鑄立・火薬製造等に関する意見書を武具奉行より藩主幸教に呈す。
9月21日に高杉晋作が、昨年4月25日に吉田松陰が長門の獄中で記した門弟高杉を紹介する書を携えて松代を訪ねて翌日夜に象山と朝方まで会談する。

文久元年(1861)8月7日に母が87歳で没する。葬儀を蓮乗寺で行い西條村般若寺に葬る。

文久2年(1862)10月に藩主から上書草稿内覧を命じられ藩政に関する一書を併せて提出する。
12月25日に藩主幸教の諮問に対し宇内の形勢を論じて、公武一致・開國進取の國是確立の急務を陳述する。
下旬に長州藩の山形半蔵(宍戸たまき)と久坂玄瑞(くさかげんずい)、土佐藩の衣斐小平原四郎が松代を訪れ、容堂公の書を携え象山赦免を運動し土佐藩に招く承諾を求めた。また長州の小倉健作も象山を訪ねている。
12月29日幽閉を免じられる。

文久3年(1863)正月2日に藩主幸教に謁見し藩政改革に関する意見を述べ、翌日城中で藩老等に対してその無能をなじり、5日にも登城して兵制改革を論じた。
2月12日に馬で沓野村に駆け地獄谷に遊び翌日帰り、また佐野村で遊び寒沢の山林で大筒台木を見分して藩へ献納することもあった。秋には西洋馭馬術を練習する。
10月10日に順子夫人を帰省させ15日に赤坂に着く。

 

54歳、上洛し暗殺される
元治元年(1864)3月7日、松代藩は幕府の命で象山の逼塞を免じて、上京を命じた。
17日夕方に出発。竹村金吾の斡旋で栗毛の馬を一頭購入し、馬具は洋装を用いた。
木曽路より大垣を経由し小原鉄心に無沙汰を詫びて、29日入京、六角通東洞院西入越前屋に宿。

4月3日、幕府は象山に海陸備向掛手付雇を命じて扶持方二十人手当金拾五両を給した。
10日に常陸太守晃親王(山階宮)が象山を召して天文・地理・兵法を問い、其洋式馭馬を覧る。
12日に禁裏守衛総督一橋慶喜に謁して、時務の諮問に対し政策を申上する。この日に論じ足りなかった点を14日に上書して補足する。この日、堤町の鴨川東岸丸田町橋向うに転居。
22日に再び慶喜に謁見。
23日に山階宮に謁見して世界地図を供覧し、開港に関する意見を上陳する。
26日に象山の元へ福井藩士中根靱負が来訪して時務を談じ、翌日にまた同藩士村田巳三郎(氏寿)と共に訪れて対外問題を論じた。

5月1日に二条城で将軍徳川家茂に謁見。3日に弾正尹朝彦親王(中川宮)に召されて時務を諮られる。
16日に木屋町三条に転居。間数が多く鴨川を臨む二階建で展望が良く特に雨に煙る景色を気に入り「煙雨楼」と命名する。ここが象山の最期の家となる。

6月10日に山階宮に謁見し、時事意見を言上する。11日に会津藩士広沢安任(やすとう)を訪ね、午後に大目付永井尚志(なおゆき)を訪ねる。14日に馬で鞍馬山口に至り、出石衛士杉原三郎兵絵と会う。15日に小林が来訪。
17日に山本覚馬を訪ねる。18日に山階宮に参殿。21日に中川宮に参殿。
27日に不穏な長州藩兵の動向を探る折に小林が来て松代藩主幸教の大津止宿を聞く。直ちに馬で駆けつけ幸教に入京の危険を説くが聞き入られず彦根藩士に談じても埒が明かず、空しく翌朝帰る。藩主入京。
29日に仙台藩医羽生致矯が来訪し談義が主上遷座の事に及ぶ。

7月1日に関白二条斉敬に謁見して時事意見を言上する。夕方に小林が来訪、帰途は従者に送らせる。2日に山本覚馬が来て一橋殿に急事を告げ、馬で参じるが留守、無事であった。
4日に仏光寺で藩主幸教に謁見。
6日に再び関白殿下へ参上。7日に羽生、9日に広沢が再来。

11日、山階宮に参殿の帰途の夕刻、京都三条木屋町で尊王攘夷派浪士に国是を誤り且鳳輩遷幸を図るものとして斬り殺され、54歳の生涯を閉じた。
刺客の浪士は松浦虎太郎(または因州の前田伊右衛門)と肥後の河上玄齋とされる。

13日に京都花園妙心寺内大法院に葬る。法号清光院仁啓守心居士。

明治22年2月11日に正四位を贈られる。
昭和6年5月16日に象山神社創立の許可を受ける。

※肖像は象山塾跡地の江東区教育委員会の案内板より。国立国会図書館所蔵

参考図書
・『佐久間象山日記』
・京都府編『先賢遺芳
・勤皇志士叢書『佐久間象山集
・信濃教育会『象山全集
・山路愛山『佐久間象山』
他、東京都中央区・江東区教育委員会による案内板等

大御所時代の大奥-林忠英は「侫人」か

江戸幕府第11代将軍徳川家斉(いえなり)の死の直後から水野忠邦が行った天保の改革で失脚した林肥後守忠英(ただふさ。林若年寄)水野美濃守忠篤(ただあつ。御側御用取次)美濃部筑前守茂育(みのべもちなる。小納戸頭取)は、家斉の権威のおかげで地位を保った3人として、俗に西丸派の「三侫人」と言われ
忠邦を善玉として創作された『眠狂四郎』等、時代劇や小説で悪役のイメージがついています。
※侫人は口先がうまいおべっか使いのこと

林肥後守の経歴は貝淵陣屋と林忠英に書きましたが、家斉の身の回りの世話をする西丸の小姓から出世し、呉服橋門内に屋敷を賜り、大御所(隠居後の家斉)夫妻が西丸に移ってからも地位を保ちました。

その後の改革で厳しく取り締まられた町人たちは華やかだった大御所時代(徳川家斉の権威時代)を懐かしむ程でしたから、本丸派(本丸に居る第12代将軍家慶サイド)で厳しい倹約指導者の忠邦からみれば、浪費の多かった大御所時代を象徴する西丸派は綱紀粛正の対称であったことでしょう。
さすがに大奥には手が出せませんが、家斉あってこその側近達を一斉に失脚させたため、町人達の間で多くの風刺や噂が流布したのです。

林肥後守・水野美濃守の免職を洒落にした落首の例
御停止が明いて太鼓にばちあたり林どころか居る處もなし
ほとゝぎす此頃不得手飛びはやし八千石は鳴いてかへらぬ
林方太鼓もばちも打ちすてゝ 人にはやされ肥後なめに逢ふ
※林・肥後(守)・家紋の三つ巴に見立てた太鼓や、林と囃子(はやし)をかけている

 

将軍家斉の寵妾お美代の方(専行院)と、感応寺事件
まだ家斉が将軍職にあった天保4年(1833)12月17日、かつての日蓮宗の名刹であり天台宗に改宗している谷中の長耀山感応寺の日蓮宗帰宗のための経緯で、谷中感応寺は護国山天王寺と改称し、雑司谷の鼠山(現東京都豊島区目白)に感応寺を新たに造る許可が下りました。
天保7年(1836)12月28日に本堂が完成したとされます。
しかし天保12年(1841)正月晦日に家斉が薨去、その年の10月5日に幕府は感応寺を廃棄し、新しい大寺院がたった5年で更地に戻ってしまったのです。
また同じ時期に主玄院日啓・智泉院日尚ら僧徒が処罰されました。

東京市(東京都が設置される前の東京府の市。現在の23区相当)編纂史料に記載されている範囲ではここまでで、感応寺廃却に関する経緯は幕府の記録にはありませんが、随筆(当時を語るエッセイ)にまで目を向けると、大坂に住むとされる著者が当時の世相や伝聞を記録した『浮世の有様』の天保12年に「感應寺不如法奥女中を犯し、美濃守・肥後守・筑前守など心を合わせ、及ばざる工み事有りしを、御老中脇坂侯に見顯はされし故、比の者共申合せ、醫者両人に申付け、殿中に於て之を毒殺せしなど種々の取沙汰なり、如何なる事かは知らね共、皆々御咎にて知行を減ぜられ、奥中中大勢仕くじり、感應寺は申すに及ばず、醫者両人も入牢せしといふ事なり」と記されています。

この感応寺の事件は、明治時代の江戸文化論者・三田村鳶魚も引用している大谷木醇堂の思い出話『燈前一睡夢』に描かれ「文恭公升遐の後、林・水野・美野部が謫せられしも、荘内・川越・長岡等が領知替の事も、みなこれより起こりし事なりと聞く」と、文恭公(家斉)薨去後の西丸派の失脚の起因として噂されていたようです。

『燈前一睡夢』は水野忠邦を英傑と賞し、対立する者は賊臣とはっきり書かれているのでかなり著者の偏見が含まれていそうですが、当時から忠邦の改革により同時期に消されたすべてを繋げて想像した噂自体は有ったのでしょう。三田村鳶魚の『江戸の女』(伝聞が主で事実と明らかに異なる部分が見られますが…)での解釈も交えて事件を要約しますと──

お美代の方の実父日啓は、長男の日量(お美代の兄)が継ぐ智泉院(中山法華経寺の子院。日蓮宗)を、東叡山寛永寺(天台宗)のような将軍家の御祈祷所にしようという大それた野望を持っていました。
しかし子院レベルの寺では許されず、それならばと由緒はあるが今は天台宗に改宗している谷中感応寺を日蓮宗に戻させる計画を立てました。

その頃大奥では、家斉の数多い側室の一人おいとの方の子、千三郎(仙三郎)の眼病を中延法蓮寺の日詮(にっせん)が祈祷で治したことで日蓮宗の祈祷の人気が高まっていたので、将軍家の御祈祷所が出来ることを喜びました。
家斉の奥方達の要望を家斉の寵臣が無下に出来るはずはありません。
お美代の方の口添えと寵臣の林・水野・美野部の庇護もあって、計画が運びます。

東叡山の輪王寺宮舜仁法親王(りんのうじのみやしゅんにん。皇族の子息である住職)の計らいで計画は止められましたが、谷中感応寺は天王寺へと改称し、新しい感応寺を造ることとなりました。
天保5年5月に雑司ヶ谷鼠山の安藤対馬守下屋敷の広大な敷地(二万八千百九十三坪)を下付され、地鎮を中山智泉院が承りました。建設地の整地・地固めは、なんと大奥の女中達がやってきて華々しく行ったので、驚いた町人達はこぞって見物に来ました。

天保7年12月に完成した豪華で大奥の女中達も信仰する大寺院に、美男子な僧侶ばかりが揃えられたなどと多くの噂が流れます。
鼠山はかつてなく賑わいましたが、ある時、感応寺に運ばれた長持に生人形が入っていたのが見つかりました…つまり大奥の女性が長持に隠れて運ばれ僧と密通していたことが明るみに出てしまったのです。
以後は長持の重量を確かめるようになり、大奥女中の頭目が監視不届きで御暇処分となりました。
長持を見破って風紀を注意した寺社奉行脇坂大人が突然死したため(脇坂が死んだのは天保12年2月で家斉が亡くなってすぐです)毒殺されたのではと噂が立ちました。

水野忠邦の改革で智泉院と感応寺は摘発され、日啓と長男は「密通女犯」の罪を告発されて遠流が決まりましたが、実行前に獄死しました。
感応寺は取り潰され、大御所の寵臣であった林・水野・美野部は失脚し、お美代の方は押込処分となりました。
忠邦が、大奥を中心とした権力と乱れたの風紀をまとめて粛正したのです。

※実際には揉消しか虚構か、鼠山感応寺の顛末について幕府公式記録には記載されておらず、智泉院と感応寺の関係も不明です

 

──更に、家斉とお美代の間にできた娘、溶姫と加賀藩主前田斉泰の間に生まれた犬千代(前田慶寧)を次期将軍に据える西丸派の計画が本丸派に寝返った者の暴露で明るみになった、などと噂は尽きません。
いずれも林肥後守達は感応寺建立を容認したと思われるのみで、お美代と西丸派のイメージの土台は当時の噂を記した随筆を更に三田村鳶魚が大衆に広めた結果が大きいでしょう。

* * *

昭和16発行小山松吉の『名判官物語』はこれらのことを分けて扱っています。

■智泉院の事件
水野忠邦は、智泉院日尚(24歳)・守玄院日啓(71歳)を、祈祷で人民を惑わせ、婦女を姦し、大奥に通じ、奢侈に耽り僧侶としてあるまじき行為の疑いで、寺社奉行阿部正弘(23歳)に内偵による「風聞書」を制作させ、両僧を逮捕し取り調べさせます。
自白により日啓に関係する本丸西丸の奥女中達は30余名にのぼり、このまま取調べが進めば大奥のどこに及ぶか計り知れず、この関係者には一切取調べをせず民間関係者のみを取り調べました。
尼妙榮が密通のため押込50日・下女ますが押込30日の処分を下しましたが、日尚・日啓が彼女達の密通を知らなかったことが不埒として逼塞30日を言い渡しました。(日尚に対して三日間晒しの上、谷中妙法寺へ引渡す間寺法通り取調べるべしとあります)

■お美代と感応寺の事件
雑司谷感応寺という小寺の住職の娘は中野播磨守の養女となって大奥に出仕し、将軍の寵愛を受けたため、養父や感応寺は取立てられました。
感応寺は雑司谷に新たに七堂伽藍を建立し幕府の御祈祷所として御朱印を賜ったため参詣人が増え隆盛を極めました。
住職と僧侶達が奥女中と繋がりを持っていると察した老中脇坂安菫は、長持に潜んで寺に運ばれた女中を発見し注意しますが、他の老中達は大御所が健在だったため大奥に対して遠慮し検挙は憚られました。
大御所が薨去すると忠邦が大奥関係も粛正し感応寺を取調べさせ、お美代の方は表向きは押込処分となりましたが実際は優遇されたといいます。

■忠邦の対立者の処分
次に前将軍の勢いで権威をほしいままにし愛憎によって政治を行ったため粛清を受けた三人の股肱として、忠邦が信任していた鳥居忠輝・渋川六蔵・後藤三右衛門を挙げています。
林・水野・美野部の3人については、忠邦の改革に反対するであろう家斎時代の寵臣の免職としてだけの記載です。
また寺社と賄賂については、別の事件として牛込横寺町聖天別当南蔵院の賄賂の罪に水野美濃守が関与との噂が示されています。

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賄賂は当時頻繁に行われていた(善玉に描かれる水野忠邦にすら賄賂疑惑がある)ようなので、失脚の理由として想像されやすかったことでしょう。

主に祖父・父からの伝聞を小冥野夫が明治7年に記した『しづのおだまき』に三名の免職に対し「おのれの私多くて賄賂専ら行はれし故に此輩を免職なし給ふ」とあり、続くあらましで忠英については簡単な経歴に「退隠後文恭大君の御墓参拝をも許されたり」と締め括っているだけで、驕奢や賄賂について書かれているのは著者と多少ゆかりがあるため話に聞いていたという水野美濃守とお美代の方の養父の中野碩翁(隠居前は小納戸頭取)です。美濃部筑前守は「実に無見識の人なり」と書かれています。

天保14年(1843年)に一勇斎国芳(歌川国芳)が描いた錦絵『源頼光公館土蜘作妖怪図』は、江戸の古本屋須藤(藤岡屋)由蔵の日記『藤岡屋日記』等によれば
平安時代の源頼光の土蜘蛛退治を、当時の将軍徳川家慶と大名達や天保の改革に当てはめ風刺した判じ物ではないかと評判になりました。

・早稲田大学図書館古典籍総合データベース「源頼光公館土蜘作妖怪図」
http://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/b10_8285/

天保の改革の一環で政治を誹謗した戯作者やその販売者が罰せらている(特に水野忠邦派の批判ができない)状況下のため、風刺と分からないように描かれていて明確な答えが無く、当時から様々な解釈がされていています。
文化史家の石井研堂が大正15年に記した『天保改革鬼譚』で土蜘作妖怪図に着目し、モチーフの解釈の一つにされる林肥後守・水野美濃守、美濃部筑前守について「当時三侫人の称あった…」と書いています。

ここでようやく「三侫人」の言葉に行きつきました。
錦絵に三侫人の落書があったようなので、当時の町人か、後の時代の所有者が推理した落書でしょうか。三侫人の呼び名はごく最近ついたものではなさそうです。

* * *

当時は賄賂や弁舌の巧みさで、代々決められた身分と土地から出て新しい地位を得ることは、完全に悪とも言いきれないでしょう。
そして私が現在自宅で調べられる範囲では、侫人・林肥後守のイメージも、今の時代劇で描かれるような心から憎まれての揶揄でなく憶測で生まれた噂からつくられたものでした。まだ掘り起こしていく必要がありそうです。
今後また林肥後守の関連資料を見つけたら記事にしますね。

参考図書
・石井研堂『天保改革鬼譚
・小冥野夫『しづのおだまき』
・国史研究会編『浮世の有様』
・三田村鳶魚『江戸の女』
・大谷木醇堂『燈前一睡夢(鼠璞十種 )』
・東京市『東京市史稿 遊園篇』
・小山松吉『名判官物語

山本覚馬と後妻小田時栄

大河ドラマが京都での山本家の騒動にさしかかり、過去の覚書「川崎尚之助と山本一家・八重との関係」にアクセスが集中しているのが申し訳ないので、覚馬の後妻・時栄の周辺について追記します。

※「八重の桜」のネタバレにもなりますのでご注意下さい

 

 

■山本時栄(ときえ。時榮・時枝・時恵・時惠とも)
嘉永6年(1853)5月7日 に京都御所近くに住む丹波の郷士、小田勝太郎(隼人)の四女として時栄が生まれる。

文久2年(1862)12月24日会津藩主の松平容保が京都守護職に任命され上洛、元治元年(1864)2月に37歳の山本覚馬も上洛。大砲奉行林権助のもと御所の警固にあたり、また6月頃に洋学所を開いて教鞭をとった。
その年の7月19日の禁門の変での戦闘が原因か覚馬の視力が急激に衰えて清浄華院で療養、翌年から鉄砲の買付に赴いた長崎でオランダ医師A.F.ボードウィンに失明を宣告される。
慶応2年(1866)頃、御所に出入りをしていた父小田勝太郎を通じて13歳ほどの時栄が目の不自由な覚馬(39歳)の世話を始めた

 

土佐藩の建白を受けた徳川慶喜が慶応3年(1867)10月14日政権返上を明治天皇に上奏、15日に大政奉還勅許。
12月9日王政復古の詔勅により幕府の機関が廃止され、京都守護を任されていた会津・桑名藩兵に代わって薩摩・安芸・越前・尾張藩兵が宮門の警備についた。11日に長州軍が入京し、旧幕臣の多くは不満を抱えたまま大坂城へ退き、慶応4年(1868)正月朔日、林権助率いる会津藩士はじめ徳川慶喜を支持する諸藩が出兵。
伏見方面も戦場となり、京に残っていた覚馬は蹴上で正月3日に薩摩軍に捕らわれた。
※『薩摩藩兵具方一番戦状』では正月十八日頃大坂で生捕りされた報告中に「山元角馬」の名がある

覚馬は御所の北にある薩摩藩二本松邸(現・同志社大学今出川キャンパス)の稽古場を獄舎として幽閉されたが、畳の間が宛がわれ待遇は良かった。なにより時栄が頻く頻く訪ねて介護に来たことも、5月末に政見建白書「管見」を完成させる程の心の支えの一つであったのかもしれない。
口述を野澤雞一(のざわけいいち。陸奥国野沢村出身、17歳。一時的に会津藩士)に筆記させた「管見」を翌月薩摩藩主に提出した後に高熱を発し、新政府軍に接収された仙台藩邸の軍務官病院に6月18日に移された後、岩倉具視の訪問を受ける。

 

明治2年(1869)3月中旬、新政府から軍務官出仕の呼出しに応じた覚馬は4月に病院を出て上洛し、陸海軍務等の教授にあたる。
軍務官(7月に官制改正により兵部省と改称)役所は元・京都守護職屋敷に置かれ、その近くの宿舎で暮す42歳の覚馬の世話の為にまだ15、6歳ほどの小田時栄と同居を始めたと思われる。

明治3年4月14日に覚馬は京都府庁に採用され、権大参事の槇村正直の顧問となる。
この頃には「河原町三条上ル 下丸屋町」に住んでいたとされる。※『官員進退録』

 

明治4年(1871)時栄は覚馬との娘、久栄を出産
この年の秋に覚馬は母佐久、妹八重、妻うらとの次女みね(峰。姉は夭折)を京に招くが、うら(樋口氏)は夫の子を孕んだ若い妾の存在を知ったためか上洛を拒んだ。
うらが離縁を望んだとして覚馬は正式に時栄を妻とした

 

明治5年(1872)覚馬は脊髄損傷でついに歩行困難となるが、覚馬のためにルドルフ・レーマンが試作した車椅子に乗りながらも京都復興のため奔走を続ける。翌年8月に小野組転籍事件で拘禁された槇村参事の釈放を請うため八重と東京へ上京。
明治8年(1875)6月7日覚馬が買付た相国寺二本松の薩摩藩邸跡地を、同志社英学校のため新島襄に譲渡。
明治9年(1876)1月2日八重、アメリカン・ボード(米国の海外伝道組織)の宣教師J.D.デイヴィスより洗礼を受け、3日新島襄とキリスト教式の結婚。12月佐久とみねが受洗。
明治10年(1877)12月27日覚馬は府顧問免職。
明治11年(1878)9月16日同志社女学校開校し山本佐久が舎監を勤め女学校に住込む。
明治12年(1879)3月30日覚馬が初代京都府会議長に選出される。
明治13年(1880)10月に辞職し地方税の布達をめぐり対立していた槇村知事を諸運動によって失脚に追い込む。
明治14年(1881)みねが伊勢時雄(横井時雄。熊本藩士横井小楠の長男、同志社第3代社長)と結婚。

 

明治18年(1885)5月17日、京都第二公会で宣教師グリーンから覚馬と時栄が洗礼を受ける。6月21日に久栄も受洗。
8月下旬に覚馬は斗南から17歳の望月興三郎を呼び寄せ、同志社に入学させた。英学校三年級に無事入学し寄宿舎に入った興三郎を覚馬は将来久栄の婿養子にしてもよいと考えていたようだ。
中野好夫の著では望月興三郎の弟だが、迎えた婿養子候補が実際に誰であったかは不明

当時同志社英学校に通っており山本・新島家と接していた徳富健次郎(徳富蘆花。徳富猪一郎の弟)の小説「黒い眼と茶色の目」によれば、
12月末、時栄が腹痛を起こし医師ジョン・カッティング・ベリーが診た所、妊娠五か月であることが分かった。
しかし覚馬は妻の懐妊理由におぼえがなくその裏切りに対して憤ったが、彼女に介抱された長い年月を振り返り自己との煩悶の末、時栄の不貞を許すことにした。
しかし時栄の不始末を許すことができなかったのが、夫の影響でキリスト教下に身を置いていた妹の八重、そしてかつて実母が父から身を引いている娘のみねである。
みねが嫁ぎ先の今治から駆けつけ、八重と共に覚馬に時栄との離縁を迫った。

覚馬は時栄にきちんと住居を宛がう条件で、離縁に同意。八重は時栄に、実娘の久栄と二度と会ってはいけないと約束させた。
女学校四年級へ通う15歳となり十分に事の成行を理解できる久栄、見守るしかない覚馬の母佐久の心中は計り知れない。

……起居に不自由な山下勝馬(山本覚馬)さんの介抱をしていた時代(時栄)さんは21歳で壽代(久栄)さんを生む。
異母姉のお稲(みね)さんが能勢又雄(伊勢時雄)に嫁いだため家督をつぐ壽代さんが14歳の年に、山下家では養嗣子にするつもりで旧会津藩士の家から18歳の秋月峰四郎さんを迎えた。
時代さんは35、山下さんは60歳近く。時代さんは養子の峰四郎さんを可愛がった。
そのうち時代さんが体調を崩し、協志社(同志社)の校医ドクトル・ペリー(J.C.ベリー)さんが診察した。ペリーさんが「おめでとう、もう五月です」と声高に妊娠を告げたが、それを聞いた山下さんは「覚えがない」と言いだした。

時代さんは、はじめ「鴨の夕涼みにうたた寝して、見も知らぬ男に犯された」としらをきったが、最後には養子を誘惑したことを自白して泣きながら許しを請うた。
永年の介抱に感謝していた山下さんは許そうとしたが、飯島先生(新島襄)の夫人のお多恵(八重)さんと、嫁ぎ先の伊予から駆け付けたお稲さんが否応なしに時代さんを追い出してしまった。
養子は協志社を退学して郷里に帰った。

離縁後に時代さんは娘の顔を見たがったが飯島の夫人が近寄らせず、山下さんの介抱は心得ある女中にさせた。
徳富健次郎『黒い眼と茶色の目』より要約

……後書きには、この小説は著者徳富健次郎が20歳の頃に山本久榮嬢との恋愛の経緯を47歳の晩秋に記憶を辿って書いたもの(上の要約部分は彼が聞いた噂話)と記されています。

 

時栄の「不祥事」については覚馬について語る誰もが濁しており、健次郎の小説がどこまで創作かは分からない。
明治19年(1886)に覚馬から離縁された時栄は2月12日付で戸籍を小田に戻し、その後分家して堺市に移る
兄勝太郎の先妻の子を養子にもらい、明治28年(1895)2月9日に神戸市山本通五丁目七十七番屋敷へ移籍
その後はアメリカへ渡ったと小田家に伝わっているそうだが、記録は遺されていない。

 

そして時栄と離縁した後の山本家周辺は…
翌年の明治20年(1887)1月27日、長男の平馬を出産後に肥立ちが悪かったみねが26歳で亡くなり、平馬は山本家の養嗣子となる。
みねの義母の津世子(夫横井時雄の母、小楠夫人)が、みねが葬られた南禅寺の門前で横転して横井家で同居している19歳の徳富健次郎(時雄の母方の親戚にあたる)と久栄が看病にあたった。
1月30日に新島襄の父民治が亡くなる。

津世子の看病で親密になった久栄と健次郎が互いに勉学中の身であるために周囲から咎められ(特に八重の猛反発があったとも)11月に婚約が破談、12月の半ばに健次郎は同志社英学校(三年級)を中隊し、京都を去った。
久栄は神戸の英和女学校(後の神戸女学院)に進む。

明治23年(1890)正月、募金運動の最中の新島襄は神奈川県大磯の百足屋旅館の離れ座敷で病床にあった。八重、徳富猪一郎(とくとみいいちろう)、小崎弘道(こざきひろみち)を呼び三十通にも及ぶ遺言を伝える。
1月23日午後2時20分死去。享年47。27日同志社のチャペルで葬儀が営まれ、京都東山若王子に葬られた。

明治25年(1892)12月28日午後1時45分山本覚馬、自宅で死去。享年64歳。30日襄と同様に同志社チャペルで葬儀、若王子墓地に葬られる。
明治26年(1893)7月山本久栄23歳で病没。
明治29年(1896)5月20日山本佐久87歳で死去。

参考図書
・青山霞村『山本覚馬伝
・『歴史読本2013年7月号「特集 山本覚馬 会津近代化の先駆者」』→[Kindle版]
・『会津人群像 第19号―特集:幕末京都にただ一人残った会津人山本覚馬
・徳富健次郎『黒い眼と茶色の目
・『近代日本に生きた会津の男たち』宮崎十三八「山本覚馬」
・同志社社史資料室『同志社人物誌』

そしておまけ、八重の桜のキャスト。成長後、敬称略
・新島八重:綾瀬はるか
山本覚馬:西島秀俊(八重の兄)
・山本佐久:風吹ジュン(八重の母)
山本時栄:谷村美月(覚馬の後妻)
・山本久栄:門脇麦(覚馬と時栄の娘)
・伊勢みね:三根梓(覚馬と前妻うらとの娘)
・樋口うら:長谷川京子(覚馬の前妻)

・新島襄:オダギリジョー(八重の夫、同志社の校長)
・新島民治:清水紘治(襄の父)

熊本バンドに属していた同志社の卒業生
・伊勢時雄:黄川田将也(みねの夫、伝道師として愛媛県今治市に赴任)
・小崎弘道:古川雄輝(伝道師となる)
・徳富猪一郎:中村蒼(新聞記者を志願し中退)

ドラマの中で時栄の不倫相手として描かれるのは青木栄二郎
青木栄二郎:永瀬匡(番組中では広沢安任の遠縁、山本家の書生)
・広沢安任:岡田義徳(旧会津・斗南藩士)

明らかな無断転載があるようです。当ブログの文章のみを抜粋した転載はご遠慮下さい。

川崎尚之助と山本一家・八重との関係

川崎尚之助について、尚之助と山本一家、八重(やえ。後の新島八重)との関係についての覚書。
※大河ドラマ「八重の桜」のネタバレになりますのでご注意下さい

 

●出石藩士の川崎正之助
川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)は天保7年(1836)11月、但馬国出石(いずし。現兵庫県豊岡市)の本町で、川崎才兵衛(通説[a]では出石藩の藩医)の子として生まれた。はじめは正之助と称した。

正之助(尚之助)は江戸に出て蕃書調所(ばんしょしらべしょ。幕府直轄の洋学研究教育所)教授の杉田成卿(せいけい。杉田玄白の孫)や、芝浜松町の医師大木忠益(仲益。坪井為春に改名)塾で学び[b]、蘭学や舎密学(せいみがく。化学)を修めた。

 
●山本覚馬と出会い、浪人として会津へ
嘉永5年(1852)頃に会津藩の山本覚馬(やまもとかくま)が砲術隊長林権助(ごんすけ)に随行し江戸藩邸勤番を命じられ、この間に勝海舟らと兵学者佐久間象山の塾に学んでいた。
覚馬は正之助も学んだ大木塾に嘉永6年~安政3年(1852~1856)頃まで居たとされ[b]、安政4年(1857)に南摩綱紀と共に会津藩藩校「日新館」の蘭学所の教師となった。この蘭学所設立前に正之助の才能を見込んで会津に招き、会津城下の自宅(米代四ノ丁)に寄宿させ、四人扶持で蘭学所の教授に推薦するも正之助は扶持を辞退している。
扶持取…一人扶持は1日あたり玄米五合として俸禄を受けた。四人扶持は1年に七石二斗

正之助は砲術指南役の山本家[八重の母の山本佐久(さく)が砲術師範山本家の長女で、山本権八(ごんぱち。永岡繁之助)が婿に入って継ぐ]の元でラッパや鉄砲と弾薬・銅製パトロン(薬莢)の製造も指導する。

また会津藩祖の保科正之と同じ漢字を避けて尚之助(荘之助)と改めたという。[a]
この時尚之助21歳、覚馬の妹で権八の三女の八重は13歳。

 
●覚馬上洛、砲術師範としての尚之助
文久2年(1862)会津藩主松平容保(かたもり)の京都守護職就任で随行の覚馬が上洛した後、尚之助は日新館所師範方として砲術等を教授した。

元治元年(1864)7月19日、前年に会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派に京都を追放された長州藩勢が松平容保らの排除を目的に挙兵した禁門の変(蛤御門の変)で覚馬は砲兵隊を率いる。この時の戦いで視力が低下したとも。
10月に京都詰と若松詰の会津藩家老の間で尚之助の上京について意見が交わされる(会津藩軍奉行・林権助より上洛要請)ことから、この頃には尚之助は会津藩士になっていたと思われる。

慶応元年(1865)に尚之助は21歳の八重と結婚したともいわれる。

 
●会津戦争、尚之助は大砲隊の指揮者として戦う
尚之助は「大砲方頭取」として十三人扶持の俸禄を受けており[1]、明治元年(1868)会津戦争に参戦。
家老萱野権兵衛(かやのごんのひょうえ。長修、ながはる)配下の会津軍では女子の参戦を許さなかったが、薙刀奮戦隊(後年「娘子(じょうし)軍」と呼ばれる)を結成した婦人達は押し切って、彼女らの慕う照姫(てるひめ。松平容保の義姉)の元へ集おうとし、8月25日には城下に迫る長州藩との攻防に身を投じた。柳橋の戦いで中野竹子(なかのたけこ)討死。

断髪し白虎隊(八重は臨家に住む伊東悌次郎らに鉄炮の撃ち方指南をしている)と同じ黒の洋装で大小の刀を差しゲベール銃を携えて男装した八重は鳥羽・伏見の戦いで死亡で佐川官兵衛率いる別撰組と配下で戦死した弟の三郎としての心持ちで鶴ヶ城籠城戦に参加する。
八重は8月23日に城内に入り屋敷から持参した新式7連発スペンサー銃で土佐藩兵や加勢の薩摩藩士らを城内から射撃、大砲も撃ちかかった。
8月25日に新政府軍に城の東の小田山を占拠され佐賀藩の天守砲撃に悩まされるが、8月27日尚之助らは四斤山砲を豊岡神社に設置して小田山を砲撃し猛烈な反撃を加えた。この時八重も尚之助を手伝ったという。

9月13日夜、尚之助は城東外郭の敵を二時間にわたり砲撃。
9月14日に鶴ヶ城総攻撃が行われるさ中、尚之助が「我軍は天守閣を的に掲げるのに彼等の弾は命中するに能はず、余一発を小田山の砲塁に加へ必ず命中せしむべし」と弟子の高木盛之輔に言い、放った砲弾は敵塁を貫き丹波家の墓石塔を損傷、第二発復要所に命中し敵塁を鎮めたという。[c]
9月17日、城外の一ノ堰の戦いで会津玄武隊(50歳以上の隊)として八重の父の権八が戦死。厳しい籠城戦が続き9月22日午前10時、大手前に降伏の白旗が掲げられ開城。

 
●会津開城後の謹慎
会津開城後に尚之助ら城外藩士は謹慎で塩川村、後に他の謹慎者1720人と共に東京へ向かう。[d]
一方八重は、婦人子供60歳以上の老人は御構い無し(立退き自由)にも関わらず、弟の山本三郎を名乗って城内藩士らと共に猪苗代へ謹慎に向かった。

※覚馬は在京で戦い、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩に捕らわれ(失明同然でも活動を続けた覚馬の名は認められており、薩長同盟以前の禁門の変で共に戦った西郷吉之助ら薩摩藩士の待遇は良かった)、明治2年(1869)釈放、翌年京都府庁に出仕、京都府顧問となり会津には戻らずに至る。
余談として在京中に覚馬が開いた洋学所の門下には会津戦争の折に会津に残った戦った新撰組隊士・斎藤一も居た。

 
●山本一家は尚之助の伝手で米沢、尚之助は旧会津藩士として斗南藩へ
※領地没収となっていた会津藩は、明治2年11月3日松平容保の嫡男の容大(かたはる。当時生後五か月)が家名存続を許され現青森県に斗南(となみ)藩を立藩。翌年、旧会津藩士の移住が許される。

明治3年(1870)閏7月、山本一家が、米沢城下の米沢藩士内藤新一郎(尚之助から砲術の師事を受けていた。四石扶持)宅に寄宿(現山形県米沢市城西)した際、「川嵜尚之助妻」と記された戸籍簿が残っている。
京に上った覚馬もおらず、弟の三郎は京で父の権八も会津で戦死しており、佐久、八重、うら(覚馬の妻)と次女の峰(みね)、佐久の伯母を伴う米沢移住である。

10月、東京で謹慎していた尚之助は斗南藩領の野辺地(のへじ)に移住。
※尚之助が一度京都へ行き、会津を経て田名部(たなぶ。斗南藩庁地)に渡った説もある[2]

覚馬の妻の山本うらも、この時覚馬を世話する小田時栄≪時枝、時惠・時恵。丹波郷士の小田勝太郎の妹で、明治4年覚馬との間に娘・久栄(久枝。徳富蘆花(健次郎)の小説「黒い眼と茶色の目」は健次郎自身と久栄(茶色の目と形容)の恋愛がモデルで、黒い眼の先生は新島襄)誕生≫もおり、京都に行かず覚馬と離別し、子の峰を八重に託し、斗南へ行く。
※時栄とも後に離縁。覚馬は離縁の元となる不始末を許すつもりだったが八重と峰が追いだしてしまったと語る。時栄の不祥事は小説中に、久栄の婿養子にする為に会津から迎えた同志社英学校で学ぶ青年との不倫(密通)で覚馬の身に覚えのない子供を孕んだと書かれているが、確証は無い。
※越後高田(現新潟県)で謹慎していた斎藤一(山口二郎から藤田五郎に改名)も斗南藩領の五戸に移住。その後は諸説あるが旧会津藩士篠田内臓の娘の篠田やそと結婚、明治7年に上京し旧会津藩士高木小十郎の娘の高木時尾(ときお)と再婚したともされる。

明治4年(1871)8月3日、覚馬の招きで八重は母の佐久と姪の峰と共に米沢から京都へ。
前月8月2日には尚之助に砲術を学んだ者たちによる「先生の家内」としての山本家送別会があった。[e]
※7月14日には廃藩置県で斗南藩は斗南県となり藩知事の松平容大も東京へ移住している。

 
●尚之助の函館渡航
斗南藩は表高は3万石だが実際は不毛の地であり更に新政府からの扶助米も廃され、窮乏した。
飢餓に苦しむ領民を見捨てられなかった尚之助は「開産頭取」(かいさんかしらどり)、米座省三は「斗南藩商法懸」として米の調達のため函館へ渡る。

明治3年(1870)10月27日函館着。尚之助と米座は大工町徳弥方に止宿。
翌閏10月(1870年10月23日)にデンマーク名誉領事である商人デュース(John Henry Duus)所有の広東米15万斤と引き換えに、斗南藩で収入予定の大豆2550石を翌年三月に渡す契約を結んだ。[f]
契約は尚之助と米座との連名・柴太一郎を保証人とし、運送費用など尚之助側の負担が多いものだった。

12月20日米手形を別の担保(米座が函館商人池田勝蔵に払うべき借金)として英国商人ブラキストンに差押えられ米を出荷でず、翌日尚之助はブラキストンの米手形返却を開拓使(蝦夷開拓の政府機関)へ嘆願するが、米座の行方不明(ブラキストン函館から逃がしたとされる)や英国領事の非協力対応で難航。
明治4年(1871)3月9日米手形が返却されるが、その間の相場変動等で食い違い、支払がデュースの意向に合わず、4月9日尚之助らがデュースに訴訟された。
※協力者の裏切については否定されているものもあるので省略

 
●尚之助は訴訟により東京へ
デュースは賠償は斗南藩が払うべき訴え、尚之助側も4月11日米手形不当差押えにより生じた損害はブラキストンの責任として提訴。
4月27日に辰野宗城(たつのむねよし。斗南藩権大属・会計係)が尚之助は藩政に関る者ではなく米取引の契約も藩に無関係と開拓使外務係へ上申。その後も藩の責任者は藩の賠償を否定した。
9月15日には尚之助と柴も鉱山事業のため(銕山興起)の函館行であり藩命でなく個人での取引であったと口述。

明治5年(1872)尚之助は斗南への影響を慮り罪を被って、デュースとの裁判の為に上京したという。取調べは司法省の東京裁判所・司法省裁判所で行われ、尚之助は契約は斗南の飢餓を見過ごせず、また藩命でないことを口述。
6月デュースはデンマーク公使を通して外務省に損害は藩が負担するものとして起訴、その後日本側が藩は取引に無関係と主張。

明治6年(1873)まで本石町四丁目(ほんごく。現日本橋本町)山田和三郎方寄宿の会津人、名越勝治のもとに寄宿。12月に家主が破産し離散。
その後浅草鳥越明神裏通の川村三吉が病気の尚之助を下宿させる。

※8月から山本覚馬と八重は小野組転籍事件で拘留された槇村正直(京都府大参事)の開放を求め上京し四か月滞在している。この折に八重が鳥越の尚之助と会った逸話があるが、その頃尚之助は浅草鳥越移住の記録はない。

明治7年(1872)ブラキストンの裁判の為3月18日収監中の米座が函館送りとなり、28日に尚之助も請書の提出のため官費・監視人付きの函行きが決まる。4月18日に尚之助の知らぬ間に知人の川上啓蔵が預かり人とされ呼出される。19日、川上と尚之助両者が病のため青森県士族の根津親徳が代理人として法務省に出頭。
5月12日尚之助は開拓使東京出張所へ、青森県の許可も得た自費での函館渡航を申し出た。差添人は本郷竹町の道具屋徳兵衛方に寄宿の会津人加藤保次郎、保証人に根津。
しかし尚之助は(根津によると)6月1日会津若松に到り7月17日付の手紙に脚気を患ったとあり、その後は旧斗南藩領の青森県二戸郡釜沢泊の折に大病を患い、東京へ戻った。

根津親徳(ちかのり。金次郎)は尚之助より14年下で、浅草今戸十一番地に住む永岡久茂(ひさしげ。敬次郎。田名部支庁長辞任後に評論新聞社を設立、明治9年の思案橋事件後に獄死)の書生。
八重の父権八は久茂の永岡家の分家の出であり、尚之助は八重の夫として、根津を通じて永岡の援けも有ったのかもしれない。

 
●尚之助の最期
明治8年(1875)2月5日に帰京した尚之助は、7日に下谷和泉橋通(現・神田和泉町)東京医学校の病院に入院。根津が尚之助の身元引受人を加藤から自分への変更を申し出る。

3月20日午後3時頃に入院先の東京医学校病院第五番で慢性肺炎症により死去。享年39。遺体は看病していた根津が近隣に埋葬したという。
デュースの追及は死後も続くが、尚之助に家族無しと皆は答えた。
※浅草区今戸町称福寺に葬られたともされるが、現在称福寺は移転しており、尚之助の墓は存在不明となっている。
※実家の出石(現兵庫県豊岡市)に一人東京で没した尚之助を偲び供養したと思われる墓石が過去に存在した記録がある。改名は川光院清嵜静友居士。[3]

※確証はないが尚之助は鳥越で子供相手の手習い師匠として生計を立て貧窮していた、旧米沢藩士小森沢長政の扶助を受けた等の旧藩士小川渉[a]談もある。鳥越では「この頃は金のなる子のつな切れて ぶらりと暮す鳥越の里」等、狂歌を残したという。

 

訴訟の追及が及ぶのを考えて選んだ最期か、史料に「子無し弔祭するものなし」とあり孤独な病没だった尚之助とは対照的に、背を患い立つことも困難になっていた盲目の覚馬は時に八重に背負われながら産業・教育等多方面で京都近代化に貢献し、八重は性格不一致にして円満となる新島襄(にいじまじょう)との結婚そして晩年まで婦人活動に励み、歴史舞台においては、明るい。

※八重との離婚を示す資料は無いが、尚之助が入院した明治8年2月には八重の書類上の記名が川崎八重でなく山本姓(山本屋ゑ)になっている

※この記事は参考資料整理・確認中の覚書です。後日別ページにまとめるかもしれません。無断転載はお止め下さい。
※[1]:『外様分限帳』によるが同書に覚馬が十九人扶持「大砲方頭取」とあり、『幕末会津藩往復文書』で「大砲方頭取御雇」十六人扶持とあるので(父権八から家督を継いでおらず御雇)、誤りとの指摘もある
[2]:『旧斗南藩帰農商人伊呂波寄』に「川崎尚之助 壱人 京都府」とある
[3]:あさくらゆう氏の調査による

※出典 a:小川渉『会津藩教育考』 b:西田長寿『大島貞益』『同志社談叢』 c:斉藤肆郎『会津籠城記中軍護衛隊』 d:『京都謹慎人別イロハ寄』 e:『鶴城叢書』内藤新一郎記述項 f:『開拓使公文録』

 
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…慶応元年(1865)結婚とされていますが、会津戦前後に尚之助が郷里の命運や多くの犠牲に怯え落胆する山本一家の支えになろう(助手を務めた八重とは未婚だが見分や聞き語りで記録する者の目からは既に夫婦と思われていたかもしれない)と籍を入れたか、尚之助の伝手の米沢移住の都合で妻を名乗って登記したか。それとも斗南の者を救うために奔放する道を選んだ尚之助がリスクを負わせないよう秘かに離縁したか……覚馬の妻、うらや旧会津藩への気遣いも有ったのでは云々と、様々な可能性を想像してしまいます。

そしておまけ。記事登場人物の、大河ドラマ「八重の桜」でのキャスト(番組ガイド・公式サイトより。成長後、敬称略)

・山本八重:綾瀬はるか
・山本覚馬:西島秀俊(かくま。八重の兄)
・川崎尚之助:長谷川博己(元・但馬出石藩士、洋学者)

山本家
・山本権八:松重豊(八重の父)
・山本佐久:風吹ジュン(母)
・山本三郎:工藤阿須加(弟)
・山本うら:長谷川京子(覚馬の妻)
・山本みね:千葉理紗子(みね)

会津藩
・松平容保:綾野剛(会津松平家9代藩主)
照姫:稲森いずみ(容保の義姉)
萱野権兵衛(ごんべえ):柳沢慎吾(会津藩家老)
林権助:風間杜夫(会津藩大砲奉行)
佐川官兵衛:中村獅童(会津別撰組)

・伊東悌次郎(ていじろう):中島広稀(白虎隊士
・高木時尾:貫地谷しほり(八重の幼馴染)
中野竹子:黒木メイサ(中野平内の長女)

江戸幕府
・勝海舟:生瀬勝久(幕臣)

新撰組
斎藤一:降谷建志(新選組隊士)


小田時栄:谷村美月(覚馬の後妻。のちに離縁)

諸藩
・西郷吉之助:吉川晃司(薩摩藩士。会津と共に戦ってきたが薩長同盟で新政府側に)
佐久間象山:奥田瑛二(松代藩士。象山塾に覚馬が入門していた)
・新島襄:オダギリジョー(上州安中藩士、軍艦教授所生)

参考図書
・あさくらゆう『川崎尚之助と八重
・野口信一『会津えりすぐりの歴史
・好川之範『幕末のジャンヌ・ダルク 新島八重
・『歴史REAL八重と会津戦争
・『歴史読本2013年3月号→Kindle版 『歴史読本2012年9月号
・『会津人群像2012年22号
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・石光真人『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書
・青山霞村『山本覚馬伝
・徳富健次郎『黒い眼と茶色の目