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武蔵・江戸の歴史・史蹟

林忠崇の出生地-貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]

江戸城大手より16丁の浜町蛎殻町上総国貝淵藩(のち請西藩)上屋敷がありました。

請西藩浜町上屋敷 江戸牡蠣殻町請西藩上屋敷林肥後守邸

▲隣の松平三河守下屋敷跡の蛎殻町公園から林邸跡を撮影。
江戸時代の絵図の緑色の部分が松平邸、左隣の林家の家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」が描かれている所が林邸です※家紋は請西藩林家ページに掲載

 

家康入城の頃から江戸湾が埋め立てられ隅田川河口に浜町が陸地化、その砂浜辺りが「かきがら」と呼ばれていたようです。
各地の大名が国元から江戸への船荷の搬送先として蔵屋敷地となり、掘割工事が進むと大名屋敷の拝領地として武家屋敷が立ち並びました。

蛎殻町と箱崎町(上の絵図、林邸前の三角洲のような場所)の間に箱崎川が流れていましたが、昭和46年(1971)首都高速道路六号線と東京シティエアターミナル建設のため箱崎川本流、翌年に支流が埋め立てられ、今では川の面影はほぼ有りません。
この箱崎川に沿って徳川御三卿の清水殿の下屋敷、貝淵藩林家の上屋敷、徳川御三家の紀伊殿(紀州徳川家/和歌山)の蔵屋敷が連なっていました。

林邸の東、紀伊殿屋敷脇の紀伊国橋を渡ると箱崎川に架かる永久橋がありました。
永久橋を渡った徳川御三卿の田安殿下屋敷は古くは「箱ノ池」と呼ばれ、維新後に武家地が公収されて箱崎町三丁目・四丁目となりました。
(ちなみに幕末の請西藩上屋敷も、田安殿・清水殿の屋敷のそばですね!)

箱崎川の西は、江戸名所として錦絵に描かれる三俣(別れ渕・三渕・三又とも)です。江戸時代には浜町の新大橋・隅田川を渡る永代橋・そして永久橋の間で川が三方に分かれ、新大橋から林邸の方角に富士山も望める絶景地でした。

蛎殻町には安産祈願で有名な東京水天宮があります。林家が呉服橋から当地に移った頃、林邸北隣の大津屋敷を挟んだ久留米藩有馬式部少輔邸に水天宮神社がありました。一度江戸城下・芝赤羽根の久留米藩邸に移された後、明治時代になって赤坂を経て現在地に再び移って来たそうです。

蛎殻公園 ロイヤルパークホテル

▲蛎殻町公園とロイヤルパークホテル
ホテル正面あたりが紀伊殿の下屋敷、その奥が林邸の表門(林邸の西側)でしょうか。

大名庭園の景石 蛎殻公園案内板

▲蛎殻町1丁目遺跡から出土した大名庭園の景石
遺跡地は江戸時代初頭から延宝元年(1704)まで上野国前橋藩15万石の酒井雅楽頭、その後、伊予大洲藩6万石の加藤遠江守が屋敷を構えていました。

また維新後の箱崎には土佐の山内容堂が元田安殿下屋敷を買収して居住(明治2年の地図で土州・山内家。その後3丁目を開拓使御用地として貸付)し、対岸の牡蛎殻町には先物取引の場である米穀商品取引所や運輸業・問屋が並び、繁華街の交通をより便利にするため明治38年に山内家が土州橋を架け、明治42年東京市に寄附しました。
木橋のため老朽し新しい橋を大正3年に起工、翌年鉄筋の橋が完成しました。箱崎川の埋め立てと共に消滅しましたが大正時代発行の地図には、かつての林邸のそばに土州橋が描かれています。

所在地:東京都中央区日本橋蛎殻町2丁目・半蔵門線「水天宮前」駅そば

林家の江戸屋敷
請西藩林家由来の本所林町-3千石旗本時代
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]-もう一つの本所林邸
幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]-最後の請西藩江戸上屋敷

参考図書
・土州橋開通祝賀会『土州橋開通祝賀会記念』
・三島政行『葛西志
・向上社編輯部『大正博覧会と東京遊覧』他、中央区案内板等

参考古地図
・江戸時代『浜町秋元但馬守中屋敷周辺絵図』弘化,天保改正版『御江戸大絵図』安政三年版『万宝御江戸絵図』万延元年版『萬延江戸図』文久二年版『万世御江戸絵図』
・明治大正『明治二年東京全図』『新撰區分東亰明細圖』『東亰區分全圖』『明治四十年東京全図』
他、現代までの航空写真や錦絵等

関連サイト
・東京水天宮:http://www.suitengu.or.jp/

請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]

遠山金四郎邸 菊川の方向

▲本所菊川町(東京都墨田区菊川)が請西藩江戸下屋敷のあった場所です。
林邸の東に町名の由来である小さな溝渠「菊川」が流れ、菊川を渡ると町屋が並び大きな「横川」に架かるのは中之橋(菊川橋)です。


▲『文久二年本所深川絵図』の「林肥後守」の西に「遠山金四郎」、北に「榎稲荷」

西には長谷川平蔵遠山金四郎住居跡。
池波正太郎「鬼平犯科帳」の鬼平こと火付盗賊改役・長谷川平蔵宣以(のぶため)が明和元年(1764)から住み、孫の代の弘化3年(1846)から時代劇「遠山の金さん」こと江戸町奉行・遠山左衛門尉影元(かげもと。金四郎)の下屋敷となりました。

請西藩林邸の北向かいが大久保紀伊守の屋敷で、古くは土手稲荷と呼ばれていた小祠を邸内社として手厚く祀り、榎が鬱蒼と生えていたことから「榎稲荷大明神」と称されました。
関東大震災で焼失後に区画整理で現在地に移転、復興を遂げた榎稲荷が今も鎮座しています。

 

彰義隊の副長、天野八郎忠告が獄中で記した『斃休録』の「大久保紀伊守なる者、東照宮の御旗を持て真先に進みたり。此人年五十ばかり、元大監察を勤めしものなり」という経歴から、彰義隊で戦った「大久保紀伊守」は旗本「大久保紀伊守忠宣」とされています。
徳富蘇峰(猪一郎)も『近世日本国民史』で「彼(忠宣)やまた徳川武士の人たるを辱しめなかった」と記しています。
山崎有信『彰義隊顛末』の戦死者一覧の筆頭に大久保紀伊守の名が見え、篠沢七郎『彰義隊戦闘之始末』によると、この戦いで紀伊守の次男も戦死してしまいました。

 

──新政府軍は上野寛永寺に立て籠もる彰義隊の討伐を決行した。一時は持ちこたえるも、佐賀藩のアームストロング砲等、火力で圧され、ついに黒門口が破られてしまう。
新政府軍が押し寄せ、総崩れとなる中で、大久保紀伊守が東照宮の御旗を掲げて真先に進んだ。

しかし中堂脇で血戦に差し掛かった時、新政府軍の砲弾が紀伊守の額の上に命中する。
約三寸(9センチ強)の深い傷口は、まるで柘榴のようだった。陣笠を落ち打とし、紀伊守は東照宮の御旗を持ったまま仰向けに倒れた。

これを見た味方、予備隊の百人余りは逃げ去り、天野と新井と紀伊守の家来の3人のみが踏みとどまる。まだ息のある紀伊守を本坊の門番所へ運んだ。
この時すでに輪王寺宮と兵達は退避した後だったため、天野も輪王寺宮のあとを追って脱出することとなる──…

 

箱根へ向かった林忠崇の請西藩兵と遊撃隊は、東の彰義隊との呼応も考えていたそうです。
彰義隊の大久保紀伊守が向に屋敷があった大久保紀伊守と同一なら、きっと忠崇とも面識が有ったことでしょう。

岡田霞船『徳川義臣伝 明治戦記』では偶然にも林昌之助(忠崇)の次が大久保紀伊守の頁です。

・林昌之助
林昌之助上総貝淵にて一万石余を領したり
幕府瓦解の時に臨み自ら陣屋を焼払ひ脱走されし時は十九才なり
本国を去り小田原に至り大久保家と相謀り箱根の険阻に拠りて薩長土の大軍を引受数度勝利を得たるといへども大久保家の官軍降りて豆州に走り気船に乗じて水戸に上陸し
それより仙台に落ち江戸脱兵とともに数度戦争に及びしが後官軍に降られたり

・大久保紀伊守
大久保紀伊守は幕府において大監察使なり
君家を再度興さんと謀り上野山内に屯集せる彰義隊を指揮し群り寄たる官軍をば落花の如く打ちらし ますます死力尽して戦ひしが昼過る頃中堂その他に砲火の燃上り味方戦ひ難儀と見しゆへ又侯黒門口を差して進み来しに官軍より打放せし砲丸頭上に当りて頭未塵に相成ければ何をかもって堪るべきその場を去らず死したりとぞ

請西藩江戸下屋敷跡 屋敷の北

▲現在の請西藩跡地
東照宮の御旗を握り締めて斃れた大久保紀伊守のように、最後の大名と呼ばれる林忠崇も徳川のために戦争に身を投じ、そのために請西藩は滅ぶという結末でしたが、今ではこんなに和やかな場所です。
所在地:都営新宿線菊川駅近く

林家の江戸屋敷
請西藩林家由来の本所林町-3千石旗本時代
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]-林忠崇の出生地
幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]-最後の請西藩江戸上屋敷

参考図書
・徳富猪一郎近世日本国民史-第70巻 彰義隊の項
・山崎有信『彰義隊戦史』-「斃休録」の項・『彰義隊顛末
・岡田霞船『徳川義臣伝 甲・乙』他、墨田区教育委員会案内板

参考古地図
・弘化三年版『天保改正御江戸大絵図』
・文久二年版『江戸切絵図・尾張屋版』
・文久二年版『本所深川絵図』
・慶応三年版『万寿御江戸絵図』『慶応改正御江戸大絵図』
他、明治~現代までの地図・航空写真等

飯野藩保科邸・会津藩家老萱野権兵衛の最期

慶応4年(1868)9月4日、鶴ヶ城で籠城中の前会津藩9代藩主松平容保(かたもり)宛てに降伏を勧める米沢藩主上杉斉憲の書簡が、高久(たかく。会津若松市北会津町)屯所で越後口守備にあたっていた会津藩家老萱野権兵衛長修(かやのごんべえ・ごんのひょうえ ながはる)に託され、これを軍事奉行添役の秋月悌次郎(あきづきていじろう)が受取り進呈する。
慎重に周辺同盟藩の情報を収集するため秋月は同じく公用人の手代木直右衛門勝任(てしろぎすぐえもん かつとう)と米沢藩陣営に赴くが、既に米沢藩は新政府に恭順していた。
城へ戻り同盟藩であった仙台・庄内の動向と照らし合わせて協議し、容保は降伏を決意する。

19日秋月・手代木らの降伏の申し出が土佐藩士板垣退助・薩摩藩士伊地知正治に受け入れられ、21日に開城の令を示した。
22日午前10時、鶴ヶ城追手門前に降伏の旗が立った。籠城中に布は包帯に使用されており、集めた端切れを照姫(てるひめ。容保の義姉)ら婦人達が断腸の思いで継ぎ合わせ、涙で濡らした白旗である。

正午に大手門外の甲賀町通りの内藤家・西郷家間に緋毛毯が敷かれた式場へ新政府軍の軍監中村半次郎、軍曹山縣小太郎、使番唯九十九等諸藩の兵を率いる錦旗を擁して進み、会津側は秋月・手代木が熨斗目上下を着用し無刀で迎える。
重臣萱野権兵衛・梶原平馬(かじわらへいま)が出て、次いで礼服の容保・第10代藩主喜徳(のぶのり。慶応3年容保の養子となり翌年開戦前の2月に容保が恭順の意を示すために家督を相続)父子が近臣十名余を従えて着座し式に臨み、降伏謝罪の書を提出した。
引き渡された城内の兵器は大砲51門・小銃2845挺・動乱18箱・小銃弾薬23万発・槍1320筋・長刀81振。

容保父子は輿で謹慎地の滝沢村の妙国寺に送られ、しばらくして萱野権兵衛ら三十名余が伴った。この時重臣達は自分たちの処罰と引き換えに容保父子の助命を求める連署をしたためている。
23日に家臣は天寧寺から謹慎地の天猪苗代へ、傷病者は青木村、婦女子と60歳以上・14歳以下の者は塩川へ立退くが、開城を知って自刃する者もあった。
24日午後に新政府軍が鶴ヶ城に入る。

 

10月19日に新政府から容保父子が権兵衛ら重臣達と共に呼出され、佐賀藩徳久幸次郎の兵の護衛で東京へ出立。
11月3日に東京着。容保は梶原平馬・手代木直右衛門・丸山主水・山田貞介・馬島瑞園(まじまずいえん)と因州(鳥取)藩池田慶徳邸に入り、
喜徳は萱野権兵衛・内藤介右衛門・倉澤右衛門・井深宅右衛門(いぶかたくうえもん)・浦川藤吾は久留米藩有馬慶賴邸での謹慎となる。
狭い部屋に押し込められる形であったが、権兵衛はまだ年若い喜徳をよく気にかけ、皆がくつろぐ中でも常に正座をやめず、しかし時に冗談などを言って皆を和ませたという。

 

11月、明治政府軍務官より「容保の死一等を減じて永預となし、代わりに首謀者を誅して非常の寛典(かんてん)に処する」と下された。容保父子の助命の代わりに、処罰すべき戦争責任者の差出しを求められたのである。

12月に新政府は会津松平家の親戚であり、会津藩への情報取次をしていた飯野藩保科弾正忠正益(まさあり)に取調べを命じた。
正益は、8月23日の新政府軍鶴ヶ城下侵襲の日に甲賀町で既に切腹している会津藩家老田中土佐(たなかとさ。玄清)・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)の二名を戦争責任者として選び、返答した。
しかし死者の選出は政府に認められず、権兵衛が首謀者として候補にあがる。

このことが伝えられ、忠誠純義な権兵衛は藩に代わって死ぬのは本分であると語り、会津藩の罪を一身に背負うことを受け入れ、早く名前を書き加えるよう促したという。
権兵衛の潔さと決意に感じ入った正益は、翌明治2年(1869)正月24日に先の二名に権兵衛の名を加えて軍務局へ提出する。
5月14日、政府は正益に家老萱野権兵衛の処刑・打ち首を命じた。

15日に梶原平間と北原半助(故神保内蔵助二男)が有馬邸を訪れて処分の決定を伝えた。容保からの白衣や遺族への手当料を頂いた権兵衛は容保に感謝を示した。

 

5月18日の処刑の日の朝、故郷の老父への一書を残し沐浴で体を清めた権兵衛は、浦川藤吾に普段と変わらない様子で、斬首に際して見苦しくないようにと襟元などを入念に整えるよう頼むので、浦川は権兵衛の髪を取りながら櫛に涙を落す他なかった。
喜徳より葵紋のついた衣服一式を賜ったが、紋服を汚すのは畏れ多いと着用しなかった。

静々と座した権兵衛の前で、権兵衛の茶の仲間であった井深宅右衛門(重義。容保の御側付)が茶を点じる。
戊辰戦争で一刀流溝口派師範の樋口隼之助光高が行方不明になり流儀が途絶えることを憂いていたため、流派免許を得ている権兵衛は、この時長い竹の火箸(最後の膳の箸とも)を持って宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝授したという。

同朝、山川大蔵と梶原平馬が麻布広尾の飯野藩保科下屋敷を訪れて、出迎えた飯野藩老中大出十郎右衛門・大目付玉置予兵衛に、前年からの会津に対する厚意とこのたびの権兵衛の件に対して慇懃に礼を述べた。

飯野藩隊長中村精十郎が兵を率いて有馬邸に向かい権兵衛を篭で護送し、保科邸の茶亭に着く。
権兵衛が隣室に入ると山川と梶原が、容保直筆の親書と、青山の紀州藩邸に預けられていた照姫(容保の義姉であり、保科正益の実姉でもある)の手書と見舞いの歌を渡す。

今般御沙汰ノ趣窃ニ致承知恐入候次第ニ候 右ハ全我等不届ヨリ斯モ相至候儀ニ候立場柄父子始一藩ニ代リ呉候段ニ立至
不耐痛哭候扨々不便ノ至ニ候面會モ相成候身分ニ候是非逢度候得共其儀モ及兼遺憾此事ニ候其方忠實之段ハ厚心得候事ニ候間後々之儀等ハ毛頭不心置此上ハ為國家潔遂最後呉候様頼入候也
                      祐 堂
五月十六日
   萱野権兵衛

今般(こんばん)御沙汰(さた)の趣 ひそかに承知いたし恐入り候
右は全く我が不行き届きより 斯(か)くも相至り候義に候
立場柄、父子はじめ一藩に代わりくれ候段に立ち至り
痛哭に耐えずさてさて不便の至りに候 面会も相成り候身分に候 是非とも逢いたく候えども、その儀も及びかね、遺憾この事に候 其方(そのほう)忠実の段は厚く心得候間後々の義等は毛頭心置かず、この上は国家の為、いさぎよく最期を遂げくれ候よう頼み入り候也

祐堂は容保の雅号である。

偖此度ノ儀誠恐入候次第全御二方様御身代ト存自分ニ於テモ何共申候様モ無ク氣毒絶言語惜シキ事ニ存候右見舞之為申進候
 五月十六日
                           照
                   権兵衛殿へ

夢うつヽ 思ひも分す惜むそよ
まことある名は 世に残るとも

この度の儀、誠に恐れ入り候次第、全く御二方様お身代と存じ自分においても何とも申し様もなく、気の毒言語に絶たず、惜しきことに存じ候
右見舞いの為申し進め候

夢うつつ思いも分かず惜しむぞよ まことある名は世に残れども

権兵衛は容保の厚意と会津のために潔く最期を遂げてくれとの権兵衛にとって誉ある言葉、照姫のはかなさを惜しみながらも真に存在するその名は残るとの憐みの筆を、真に栄誉であると感涙し、山川と梶原にも熱涙をさそった。
定刻までの短い間に正益からの酒肴が出され訪れた会津藩士と遺族一同で別れの杯を酌んだ。

会津藩士達が帰路につくと、飯野藩の大出・玉置が部屋に入って朝命を伝え、正益から賜わった白無紋礼服一着を交付して退座する。
次いで起倒流柔道指南役で剣術にも長けた飯野藩士沢田武治(武司)が対面した。目利きに優れた権兵衛はいとも冷静に、沢田が介錯のために正益から賜わった刀が貞宗の業物であると認めて、両者は正益の武家らしい情けに感じ入った。

面会後に行われた執行準備で、白木三宝(三方とも。神饌や献上品を載せる台)と白紙で包んだ扇子(白紙で短刀に見立てている)が置かれた。
これは新政府の要求する罪人の斬首でなく、密かに切腹の作法である扇腹(おうぎばら、扇子(せんす)腹とも。三宝に載せた白扇を取るため前かがみになった時に介錯人が首を落す。自ら命を絶つ形を取らせて武士の体面を保たせる切腹の作法)を行うことを示していた。

飯野藩大目付の玉置予兵衛・隊長中村精十郎・御徒目付今井喜十郎・介錯沢田武治・助員中川熊太郎・他小頭三名の立ち会いのもと、権兵衛は主君の居る屋敷の方角を拝し、命を絶った。享年42歳(40とも)。
保科正益は政府の命令の罪人としての処刑をさせず、武芸に秀でた飯野藩士沢田武治の介錯と銘刀をもって、切腹の作法通りに扇腹を行い、建前には政府の斬罪の要望と、実際には権兵衛に対し会津武士の面目を、両方全うさせたのだろう。

遺体に丁寧に布団を被せ置き、玉置と沢田が残って遺体を清めて棺に入れ、正益はこの日のうちに軍務官へ、申付けの通りに松平容保家来・叛逆首謀萱野権兵衛の刎首を執行したと簡潔に届けさせた。

軍務官から飯野藩で遺骸処置すべしと通達があり、棺を浅黄木綿で覆って外面は貨物の如く装って、権兵衛の意志に従い白金の興禅寺に送った。
興禅寺には、鳥羽・伏見の戦いに際し徳川慶喜と松平容保の江戸への脱出を進言し敗戦を招いた元凶だと迫られ、責任を負って三田下屋敷で自刃した神保修理(長輝)他会津藩士が眠っている。

正益は権兵衛や儀を執行した飯野藩家臣に香典を供し、その後も松平家再興等の伝達を受持っている。
また容保父子・照姫と厚姫(容保の長女)がこのたびの首謀者として名を並べた萱野権兵衛・田中土佐・神保内蔵助に対して香典を与え、容保父子は三人の遺族にも菓子料を賜わった。

 広尾の保科下屋敷・現都営広尾五丁目アパート

▲『江戸切絵図』と現在の飯野藩下屋敷跡地(東京都渋谷区広尾)

 

本来家老席順で責を負うべきであったが行方不明として死を免れた保科近悳(西郷頼母)が明治24年2月20日に興禅寺の墓に参り「あはれ此人のみかくなりて己れは長らひ居る事は抑如何なる故にや、実に栄枯の定りなき事共思ひ続くるに堪す」と記している。

介錯を務めた沢田は横浜に移ったのち箱根底倉の蔦屋旅館を譲り受けて箱根の観光・医療業に貢献することとなるが、子孫の仏壇には代々萱野権兵衛の位牌が祀られ、自刃の際に「顔色も変えず平生の如し」潔さを思い起こしては語り涙したという。
(その後も沢田家は長く旅館を営みましたが現在「つたや」は経営者が他家に替わっています)
【2018年追記:「つたや」旅館は2017年をもって閉館しました】
【再追記:2019年11月よりゲストハウス「そこくら温泉 つたや旅館」として新装開店しました】

興禅寺

興禅寺では今も萱野権兵衛の法要を行っている(東京都港区白金)
萱野権兵衛の戒名は報国院殿公道了忠居士。福島県会津若松市の天寧寺にも妻と一緒に弔われた墓がある。
 

※参考図書は記事中リンク先ページと同一、沢田家については後に記事にする予定です。
 
* * *

ちなみに
記事中人物の八重の桜でのキャスト(敬称略)は…
・萱野権兵衛:柳沢慎吾(会津藩家老)
・松平容保:綾野剛(会津藩9代藩主)
・照姫:稲森いずみ(容保の義姉・保科正益の実姉)
・松平喜徳:嶋田龍(会津藩10代藩主)
・秋月悌次郎:北村有起哉(会津藩軍事奉行添役)
・内藤介右衛門:志村東吾(会津藩家老)
・山川大蔵:玉山鉄二(会津藩若年寄→家老)
・梶原平馬:池内博之(会津藩家老)
・神保内蔵助:津嘉山正種(会津藩家老)※
・田中土佐:佐藤B作(会津藩家老)※賀町口で奮戦するが田中が負傷。共に医師の土屋一庵邸で自刃
・上杉斉憲:倉持一裕(米沢藩主)
・板垣退助:加藤雅也(土佐藩士)
・伊地知正治:井上肇(薩摩藩士)
・中村半次郎:三上市朗(薩摩藩士)
・徳川慶喜:小泉孝太郎(幕府15代将軍)
・神保修理:斎藤工(会津藩軍事奉行添役。神保内蔵助長男)
・西郷頼母:西田敏行(会津藩家老)

最期はあばよでなく「さらばだ!」でしたね。

彰義隊と上野戦争

河鍋暁斎「東台戦争落去之図」
▲河鍋暁斎(かわなべきょうさい)『東台戦争落去之図
沼津明治資料館パネルより。慶応4年7月の上野戦争を描く。東台は関東台嶺(上野東叡山寛永寺)を指す。

上野彰義隊の墓 彰義隊の墓案内板

江戸幕府十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻った。
東征軍(官軍)と公家の間で徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋藩主時代の側近小川興郷(おきさと。椙太)達は江戸上野山(東叡山寛永寺円頓院)に蟄居した慶喜の助命を嘆願し、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、後に彰義隊(しょうぎたい)と称し浅草の東本願寺に宿営し江戸警備を勤めた。

慶喜の水戸引退後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山に入り、二千人を超えた彰義隊は、薩賊討伐を標榜して江戸開城後の市中で新政府軍と衝突を繰り返す。
これに対し新政府軍は大村益次郎を派遣し、5月1日に江戸警備を新政府があたると布告し、名目を失わせた彰義隊の討伐に乗り出した。

5月15日大村益次郎指揮の東征軍総勢1万5千人余りが出動し、早朝に一隊が上野山に立て籠もる彰義隊の背後の団子坂に展開。
砲兵隊は不忍池対岸で構え、佐賀藩兵は加賀藩上屋敷(現在の東大構内)に4門のアームストロング砲を据える。
池之端・駒込・湯島聖堂、大川橋・千住など退路を塞ぐ為に幾重にも諸藩兵を配置した。

午前8時頃より総攻撃を開始。雨中の戦いは黒門口と谷中(やなか)口で展開される。
正面の黒門口では表と不忍池対岸からも砲弾が飛び交った。
優勢だった彰義隊が道を隔てた料理屋・雁鍋2階からの銃撃により崩れ、午後2時頃に突破された。
谷中口では雨による小川の増水が味方したが、善戦空しく突破される。

新政府軍は山内に途入し、午後5時頃に彰義隊隊士達は根岸方面へ敗走した。
政府軍の戦死者3、40人に対して彰義隊の戦死者は200余人を超えた。
彰義隊に後から加わっていた新撰組助勤の原田左之助も上野戦争で戦死したと伝わるが、生存説もある。

 

彰義隊の墓 彰義隊の碑

彰義隊の墓と碑
彰義隊の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによってこの地で荼毘にふされた。
正面の小墓石は明治2年(1869)寛永寺子院の寒末院と護国院の住職が密かに付近に埋葬したものだが後に掘り出された。明治7年(1874)に新政府の許可を得て墓を建てることができた。
大墓石は明治14年(1881)12月に小川興郷らによって建立。新政府にとって賊軍である彰義隊の文字を彫るのはばかられたが、旧幕臣山岡鉄舟の筆で「戦死之墓」の字を大きく刻む。

所在地:東京都台東区上野公園一番(台東区有形文化財指定)

参考図書
・谷口研語『諸国の合戦争乱地図 東日本編

上野西郷隆盛像

余談ですが彰義隊の墓は上野公園の、江戸を戦火にさらすことを回避した顕彰として造られたという、有名な「上野の西郷さん」こと愛犬ツンをつれた西郷隆盛銅像のすぐ背後に在ります。
徳川家の菩提所・東叡山寛永寺のお堂が立ち並んでいたこの地を、明治政府が公園に変えた経緯もあって色々な想像がかき立てられる場所です。

日野と新撰組土方歳三[4]歳三の墓所石田寺

土方歳三資料館から用水路に沿って歩いていくと石田寺に辿り着きます。

石田寺

石田寺(せきでんじ)

石田寺は土方家の菩提寺で土方歳三の位牌を納めた高幡山金剛寺(高幡不動。位牌は本堂大日堂)の末寺で、土方家の墓所です。
こちらも歳三の墓参りに訪れる女性がちらほら。

 

土方歳三義豊之碑

土方歳三義豊之碑
兄喜六の子孫が建てた顕彰碑です。

 

土方歳三の墓

土方歳三墓所
歳三の戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」
彼が踏んだゆかりの地の土を骨壷に入れてこの墓に納めたそうです。
土方家の墓には家紋の丸に三つ巴が刻まれています。

 

・愛宕山地蔵院石田寺 多摩八十八ヶ所霊場第八十六番札所/日野七福神 福禄寿
所在地:東京都日野市石田1丁目1-10

 

石田寺の近くにとうかん森があります。
「稲荷」を音読、もしくはこの付近に住まう土方一族が十家余程あった「とうか」からとうかん森と呼ばれるようになったそうです。
森と言うには小規模ですが、ムクと榧(かや)の厳かな大樹がそびえその下に小さなお稲荷さんが佇んでいます。
江戸時代に土方一族の氏神として稲荷大明神が祭られ、この森の北東にあった土方歳三の生家は弘化3年(1846)の多摩川洪水の被害にあって現在の土方歳三資料館のある場所へ移築されたそうです。