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相模・武蔵の歴史・史蹟

日金山東光寺[1]戊辰戦役請西藩士戦死の地

日金山地蔵堂 広部正邦と秋山荘蔵の墓

東光寺地蔵堂と請西藩廣部与惣治正邦(新字体で広部)・秋山荘蔵の墓

慶応4年(1868)幕府は解体するが、徳川家再興を望む旧幕府親衛隊の遊撃隊脱走兵が、上総国望陀郡の請西藩(千葉県中部の木更津市)に赴き、藩主林昌之助(忠崇)は自ら脱藩して請西兵と共に出陣した。
上野の彰義隊と東西で呼応する目的で諸藩脱走兵を加えながら箱根方面を目指し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊の協力を得て館山(千葉県南部)から真鶴港に渡った
しかし箱根関門攻めで和解した小田原藩が寝返り、5月26日山崎の戦いで総督府軍(新政府の軍)に後押しされた小田原藩の大軍が、圧倒的に数で劣る遊撃隊・諸藩脱走兵先鋒を破り、更に追撃戦となった。

本営で指揮をとっていた忠崇は再起を図るため深夜に箱根撤退を決議。本隊と関門まで辿り着いた兵達は鞍掛山から日金(ひがね)山を超え熱海へ到り網代から旧幕府艦隊に拠って27日夜に館山へ脱出した。

敗走兵回収や、三島方面から背後を突かれる恐れのある沼津藩兵の警戒のため各所に配されていた請西兵は、散り散りになった敗走兵と同じく追撃を受けることとなる。
小田原兵は東海道と温泉路(今の国道1号線)に分かれて徹底的な掃討体勢をとった。27日には芦ノ湖で更に兵を分け、一隊は山中三島方面に向かい、もう一隊は脱走兵本隊と同じルートで日金山に向かう。

十国峠を越えた捜索隊は、夜8時頃に峠を少し降りた所に在る日金地蔵堂(東光寺。巨大な地蔵仏が安置されている)に到着した。
潜伏者2名が居るとのことで地蔵堂を射撃するが無人であり、隣の坊に潜んでいるとみて熱海坊を三十数人で囲んで撃ちこんだ。
反撃が止んだ所で踏込むと、潜んでいた2名とも重傷で、一人は足首を斬られている状態であったため抵抗もなく斬られた。
もう一人は布団を被って竦んでおり、布団をはぎ取ると「待ってくれ、一言申したいことがある」と訴えたが藩兵数人で刺し殺したと、小田原兵が証言している。

討たれたのは請西藩士で一人は西森与助ともされるが、戦後、地蔵堂裏手に「廣遍正邦居士」「秋山宗義居士」と刻まれた篤志家建立の墓が残されており、廣部(広部)正邦と秋山荘蔵の2名ということになる。
この墓は平成20年に修復され、請西藩士廣部周助(※)の玄孫である廣部雅昭(薬学者、静県大学長、東大名誉教授。熱海市伊豆山在)氏による追善の卒塔婆と碑文が建つ。
※戊辰戦役に従軍し生き延びた廣部周助上根岸の豪家で忠旭の代から林家に仕え士分待遇を得、戦時・戦後ともに忠崇の為に奔走した。
周助の次男の廣部精(中国語教育者。陸軍省。大隈重信や渋沢栄一らと「孔子教会」を設立)が父の林家復興の志を継ぐ。明治26年に林忠弘が授爵となる。

廣部与惣治・秋山宗藏は浜寺の請西藩士供養碑にも箱根宿端で討たれたと思われる西森与助達と共に名を刻むまれている。

日金山東光寺地蔵堂 請西藩士終焉の地解説

日金山は海抜774m、山頂に火牟須比命(ほむすびのみこと)を祀る神社が有ったことや火山であるためか、古くは火が峯とも書かれる。中世から「死者の霊の集まる山」として地蔵信仰の本場として栄えた。

日金山最高峰の丸山の頂は樹木がなく平やかで、快晴時には北~東まで相模・武蔵・下総・上総・安房の5国、東南~南西まで遠江国と伊豆五島(伊豆諸島)、西~北西まで駿河・甲斐・信濃の4国、合わせて十国(十州)が見渡せるため十国峠(じっこくとうげ )・十州峯などと呼ばれる。
北に箱根峠、南に熱海峠。

ケーブルカーを登り十国峠から見た真鶴半島 熱海峠から見た風景
▲十国峠から請西の方向を望む。晴れた日にはもっとはっきり真鶴半島が見える。右は熱海峠で撮影
今でも房総の鋸南(勝山藩が在った)辺りから伊豆・箱根の山々が見えるが、十国峠からもコンデションが良ければ真鶴の更に向こうの上総まで十国の名前の由来通り見える(見えた)のだろうか?

所在地:静岡県熱海市伊豆山968
東光寺サイト:http://higanesan.com/

大蓮寺-遊撃隊士戦死之墓

大蓮寺本堂 戦死之墓

大蓮寺と境内の「明治紀元歳次戊辰五月」戦死之墓
西海子小路にある稲荷山大蓮寺は浄土宗で純栄開山、大道寺駿河守政繁の母実地院が中興開基し、実地院の法名から「大蓮寺」と号した。
慶応4年(1868)5月に小田原場外脱出時や三枚橋で戦死した遊撃隊士のため、後に元隊士や縁者が「戦死之墓」を建立した。

碑の名前 大蓮寺山門

世話人、寄附金者として第一軍人見寧、人見隊の遊撃隊士和田考之進、第二軍一番隊の遊撃隊士石川次郎三郎、第三軍の岡崎藩士玉置弥五郎左ヱ門、軍目の遊撃隊士澤録三郎らがの名が刻まれている。

稲荷山一花院大蓮寺
所在地:神奈川県小田原市南町2-4-9

熱海~網代港へ

慶応4年(1868)5月26日に遊撃隊ら旧幕府脱走兵先方が、総督府軍に後押しされた小田原兵との大軍に山崎の戦いで敗れ、厳しい追撃が加えられ潰走する。
本営の忠崇達は再起を決意し箱根を撤退した。

静岡の熱海の海 熱海を去る

熱海の海と、網代方面へ離れていく海の様子
27日に忠崇達は伊豆半島東岸の熱海(静岡県)に着く。
軍目の沢六三郎と伊庭隊の三橋準三は間者として前夜から熱海に在り、数十の小舟の用意を済ませていた。

網代港 網代の灯台

網代(あじろ)の港
薄暮れに残兵115人が押送船で網代に到り、榎本武揚率いる旧幕府艦隊の3艘に乗り込む。
忠崇は長崎丸に乗り、房州館山へ渡った。

館山~真鶴港・小田原へ

館山の海

▲「鏡が浦」と呼ばれるほど平らかな館山の海
慶応4年(1868)安房(千葉県)館山(たてやま)湾上に榎本武揚率いる幕府軍艦が停泊していた。
閏4月10日、林忠崇らと遊撃隊は柏崎(館山市沼)から三百石積と二百石積の2艘の和船に分乗し、幕艦大江丸に引航されて渡海する。

真鶴港2 真鶴港1

▲山で包むような入り江の真鶴港
忠崇一行は閏4月12日に相模(神奈川県)の真鶴(まなづる)港から上陸した。
真鶴は古くは真名鶴と書き、東西の崎は鶴の翼、中央の崎は鶴の首に似ていると風土記に記されている。
鎌倉時代の吾妻鏡には治承4年8月の石橋山の役で源頼朝が敗走し28日に真鶴から房州へ渡ったとする。

根府川

根府川~江野浦
小田原への中継地として忠崇の使者が往復する。兵は江野浦に駐屯させた。

小田原城天守閣

小田原城
小田原藩に佐幕としての協力の交渉を試みるが…

遊撃隊戦士墓-請西藩士顕彰碑

遊撃隊戦士墓 遊撃隊戦士墓碑文

慶応4年(1868)5月箱根戊辰の役で林忠崇旗下第四軍の請西藩脱藩兵は小田原領の境にある豆州山中新田(静岡県三島市)に出兵していた。
26日の山崎の戦いの掃討戦として、小田原藩兵は箱根宿で三小隊に分かれて捜索する。
27日早朝に芦ノ湖に近い白水坂と権現坂で銃撃戦となり一人が捕縛される。湖畔で隊を二手に分け、一隊は東海道の本道を箱根峠を越えて三島方面に向かい山中村で6人を討ったという。

後の大正6年に第三軍の岡崎脱藩士小柳津要人らが彼らを弔い根府川石の顕彰碑を建立した。
その「遊撃隊戦死者」として刻まれた請西藩士7名は小田原藩孕石隊に芦川の箱根宿端で討たれ、浜ノ寺興徳庵(浜ノ寺は現在は廃寺)に埋葬されたとされる。
秋山宗藏は箱根日金嶺地蔵堂熱海坊で討死した。

遊撃隊戦死者
明治元年五月廿七日
林昌之助臣

秋山宗藏
廣部与惣治
大野静
牧田謙藏
篠原九寸太
重田信次郎
西森与助

有志者
小柳津要人
間宮魁
石内九吉郎
大正六年十月三十日建之

小柳津要人は第三軍の岡崎藩士で丸善商社社長となった。
間宮魁は第一軍の和田孝(幸)之進の改名。静岡で間宮家を継ぎ徳川慶喜家家従となった。
石内九吉郎は箱根町旧本陣石内為次郎の子。
忠崇も建碑大正6年の翌年に岡山県津山町(娘光子宅)から墓参している。

裏面 連絡先

※写真の個人情報部分はぼかしました

興徳院墓地
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町芦川町