戊辰戦争」タグアーカイブ

阿弥陀寺[1]伴百悦-会津悲願の埋葬

阿弥陀寺 阿弥陀寺案内板

正覚山阿弥陀寺(あみだじ)
慶長8年(1603)蒲生秀行の時代に、良然(りょうねん)和尚が開山した浄土宗寺院。

藩公密議場所の御三階 御三階案内板

御三階(ごさんかい)
明治3年(1870)まで鶴ヶ城本丸北東の石垣の上に建っており、物見や密議の場所として使われたという御三階が、阿弥陀寺に移され仮本堂として使用された。
外観上は三階だが内部が四層になっており、二階と三階の間に天井の低い部屋がある。
移築の際に本丸御殿の大書院玄関の唐破風も同時に移築され、現在のような形となった。

 

戊辰役殉難者の墓の碑

明治戊辰戦役殉難者墓の碑

戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は新政府の命令で放置されたまま触れることも許されず、仮埋葬した者は罰せられた。
戦後処理に当たっていた若松取締の会津藩家老原田対馬(つしま)や町野主水(まちのもんど)らが戦死者の埋葬を幾度も嘆願し、翌年の明治2年(1869)2月にようやく許可が出たのは「埋葬は罪人の遺体を処理してきた人々に依頼すること」「罪人の遺体埋葬地であること」という条件付きであった。

若松取締方は戦没者ですら罪人扱いであることに強く反発し、新政府軍は遺体処理者は手配済みのため埋葬地の指定のみ撤回したが、それでも埋葬地は戦没者それぞれの菩提寺ではなく、阿弥陀寺と長命寺の2カ所に限られた。※身元のわかる者は菩提寺に葬られたとの話もある

新政府軍が雇った罪人遺体処理人夫は、戦没者の遺体をまるで捨てるかのような酷い扱いだった。
見かねた伴百悦(ばんひゃくえつ。五百石の高禄の家柄で、戊辰戦争では水原府鎮将萱野右兵衛隊の組頭を務めた)が、自ら埋葬を行う身となって遺体の取り扱いを指導した。
その後も百悦は2ヶ月にわたり各地の戊辰の役戦没者の遺体を埋葬したという。

阿弥陀寺境内には1300柱にものぼる遺骸が埋葬され、残りの145体は長命寺に運ばれた。
しかし墓標を建てることは許されず、明治6年(1873)に墓碑の建立を認められたが「戦死墓」の3文字しか刻むことができなかった。大庭恭平筆「殉難之霊」の墓標も、殉難という言葉を見過ごさず民政局が削り取った。

後に百悦が新政府側の民政局監察方頭取兼断獄の久保村文四郎を殺害する事件も久保村の残忍な仕打ち以前にこうした旧会津藩士達への無礼への復讐とも考えられる。百悦は明治3年(1870)6月22日に自害(追手に刺殺されたとも)、善龍寺に墓がある。

※埋葬を禁じられた・罪人扱いでの許可は事実ではないとの主張もありますが、会津側の記録と当時の風俗・価値観はこうであったのだろう…との意味でそのまま書きました。戦没者達を悼みます

 

戊辰戦争殉難者墳墓(萱野権兵衛の遥拝碑あり)

藤田五郎(斎藤一)の墓

 

鐘楼 大仏の台座

▲鐘楼と大仏様台座
鐘楼は殉難者慰霊のため金物を寄付し合って明治31年9月鋳造建立された。
飯盛山仁王門前に在った一丈三尺の大仏が西軍兵に解体されかけ、これを買いとって阿弥陀寺に安置された。大仏は青銅製だったため太平洋戦争時に供出されて台座のみが残る。
他に座頭市のモデルといわれる黒河内伝五郎の墓等が在る。

所在地:福島県会津若松市七日町4-20

参考図書
・『会津人群像 第13号

福島県立博物館

旧石器時代から近代まで福島の歴史と郷土史料、昔の玩具や時代衣装など展示されています。
7/3まで企画展『2013年NHK大河ドラマ特別展「八重の桜」』開催。
内容は東京で行われたものと同じだそうです。

 

アームストロング砲 土齊武隊陣所〆切-

アームストロング砲の模型と斉武隊の落書付蔵戸
新政府軍が鶴ヶ城に数千発も放ったというアームストロング砲。
戊辰戦争中土佐藩に使われた蔵(現会津若松市馬場町)の戸に書かれた「土齊武隊陣所〆切 小荷駄方」

ミニエー銃とゲベール銃

ミニエー銃ゲベール銃の複製

十二封土砲弾とや大筒など

▲十二封土砲弾、銃弾、大筒など

 

福島県立博物館サイト:http://www.general-museum.fks.ed.jp/
所在地:福島県会津若松市城東町1-25(鶴ヶ城公園内にあります)

ここも常設展の一部はストロボ無しなら撮影可でした

骨董むかしや(会津新撰組記念館)

会津新撰組記念館

「骨董むかしや」の1階奥~2階に会津新撰組記念館として会津藩稲富流砲術家の館長さんが集めた幕末維新史料・古式鉄砲コレクションが多数展示されています。
大河ドラマ「八重の桜」の撮影にも、この記念館の実物資料や所蔵品から制作されたものが使われているそうです。

管打ち式ゲベール銃

管打ち式ゲベール銃
ライフルの無い滑腔銃。初期は燧石式だった。
山本八重(やまもとやえ。新島八重)はゲベール銃を用いて隣家の伊東悌次郎(白虎隊士として飯盛山で自刃)に操銃法を指導した。
山本覚馬(かくま)の愛銃はヨーロッパ製ゲベール銃(銀ゲベール)。

ウェストリーリチャーズ砲兵

▲イギリス製ウェストリー・リチャーズ砲兵銃
八重の桜では川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)の新式銃。八重の弟山本三郎も鳥羽伏見の戦いでこの銃を使用し戦死。

エンフィールド銃とウィルソ

▲イギリス製エンフィールド銃(米沢藩の焼印あり)とウィルソン銃
エンフィールド銃は、八重の桜で京都会津藩本陣で覚馬の部下が使用。

後装式スナイドル銃とヤタガ

▲イギリス製1866年式スナイドル銃
八重の桜では薩摩藩大山弥助(巌)隊の鉄炮として使用。

スペンサー七連発騎兵銃 八重ブレークスリー弾薬箱

スペンサー七連発騎兵銃ブレークスリー弾薬箱
八重の愛銃と同じスペンサー銃。八重役の綾瀬はるかさんがドラマで使用するのもこの銃をもとに制作されたそうです

三百五十目玉大筒

▲江戸城備砲の三百五十目玉大筒
八重の桜では二本松藩木村砲兵塾所有の大砲として出演

 

骨董むかしやサイト:http://www.aizushinsengumi.com/
所在地:福島県会津若松市七日町6-7

いかにもな記念館名から想像つかないような古式銃が揃っているという下調べで、今回の会津来訪の大本命。蔵を利用した展示室は個人所蔵の小規模ながら期待通りに銃好きにとって嬉しい実物の洋式銃と火縄銃が並び、軍装品や絵図・書類等幕末維新資料館としても充実しています! 私が伺った時は撮影可でした

興徳寺[1]秋月登之助墓所

興徳寺本堂 秋月登之助案内板

興徳寺本堂
興徳寺は戊辰戦争中に元桑名藩主松平定敬(さだあき。容保の弟)・旧幕府筆頭老中板倉勝静(かつきよ)等の宿舎となり、新撰組副長土方歳三も往来した。
宇都宮城攻防戦での戦死者追悼の為、旧幕府軍衝鋒隊が当時の本堂で慰霊の法要を参列者六百名のもとで営んだ。

 

会津藩士秋月登之助
天保12年(1841)頃生まれる。本名は、江上太郎種明。父は田島代官の江戸又八、16石3人扶持。
江戸で幕府や他藩要人と親交を結び会津のために尽したが結ばず、フランス式の調練を受け幕軍に入り、歩兵第七連隊に転入する。
江戸城開城の際には幕軍陸軍奉行の大鳥圭介らと江戸城に立て籠もり、義兵を挙げて江戸から西軍を退去させようとしたが、大鳥は登之助の志に反して幕軍を率いて会津へ向かうことを決めた。
大鳥に推されて伝習第一大隊長となり、土方歳三が参謀として常に登之助を謙譲しながら補佐したという。

宇都宮城奪回戦にて破裂弾の散丸で脇腹を負傷し、同じく負傷した土方と今市方面に護送された。
会津領内の田島陣屋(福島県南会津)に到着した秋月は、田島代官の父のもとに残る。

その後若松に入り、松平容保と共に滝沢本陣へ赴く。
再出陣した母成峠の戦いで敗戦し鶴ヶ城に入る。女子たちを城内に誘導し、二の丸辺りの馬上で抜身の大刀を振りながら「君に奉ずるのはこの時だ。婦人は内へ男は出て戦え」と叫びつつ西軍兵に打って出たと伝聞されるが、その後の消息は絶えた。

登之助は背が高く色白、巨眼好箇の偉丈夫で、濃紺の上着に緋絨のズボンを履き、胸間に紐長く呼笛を吊るして、部下の兵達に認められるようにと容姿を顕著にしていたという。

 

秋月登之助の墓 秋月登之助墓誌

▲秋月家・原田家・三原家合祀の墓
墓誌には「秋月登之助 明治十八年一月六日 行年四十四才」と刻まれているので、戊辰戦争当時は26~27歳位か。戒名は大心院義翁宗鉄居士。

臨済宗妙心寺派瑞雲山興徳寺(こうとくじ)
弘安10年(1288)鏡堂覚円大和尚が芦名盛宗に招かれ開山。
所在地:福島県会津若松市栄町2-12

参考図書
・『会津戊辰戦史
・早川喜代次『史実会津白虎隊

■■伝習隊と新撰組■■

※蒲生氏郷の墓はいずれ記事にします

長命寺-戊辰戦争の弾痕

長命寺 長命寺築地壁案内板

長命寺(ちょうみょう・ちょうめいじ)
慶長10年(1605)京都本願寺第十二世教如人が蒲生秀行に請い鶴ヶ城下日野町に「本願寺掛所」御坊建立、寛文7年(1667)この地に移り「長命寺」と改めた。

 

長命寺の戦い
慶応4年(1868)8月23日に新政府軍が鶴ヶ城下に押し寄せ、会津側は籠城戦に入る。
28日夜、補給路確保のため城外への出撃を決め、松平容保親子は佐川官兵衛らを黒鉄門(くろがね、鉄門)に召し出し酒肴の振舞いで激励した。この時360人が容保の前で血判し、官兵衛は銘刀正宗(まさむね)を賜った。

29日早朝、朱雀隊・砲兵隊・正奇隊・歩兵隊・進撃隊・別撰隊ら精鋭1500人の決死隊が二の丸屯所を出て本丸北の金蔵前に整列した。官兵衛は諸事情(前日の深酒とも)で遅れ午前7時頃に到着。容保は馬に乗って太鼓門前で見送った。
官兵衛達率いる9隊の藩兵は西出丸の西大手門を出て、外郭の融通寺(ゆづうじ)町門へ至り、守備兵を攻撃しながら新政府軍が拠点とする長命寺へ猛進。
藩兵は寺を包囲するようにして急襲し、一時は陣地を占拠した。

しかし火力で勝る長州・大垣藩兵の反撃は凄まじく援軍も送り込まれ、激しい銃撃に晒され奪還されてしまう。

正午頃に苦戦の報を受けた容保は、官兵衛が捨て身に出ることを予感して平尾豊之助を呼び官兵衛を制止するよう命じた。
午後2時頃までに会津兵は撤退。会津側では百名以上が戦死し多くの負傷者を出す激戦であった。

この後官兵衛は補給路確保と会津の起死回生の為、城に戻らず野戦を繰り広げる。
多くの犠牲と村民の協力で補給路が切り開かれたが、籠城を続ける鶴ヶ城は激しい砲撃に晒されることとなる。

長命寺築地壁 長命寺築地壁弾痕

▲弾痕が残る築地塀
本願寺直轄寺院であった長命寺の「白線の五條の築地塀」は、最高の寺格を示す。
土塀は平成4年に修復されたが、弾痕跡は当時のままに残している(市指定文化財)

戊辰役会津藩士戦死者墓

会津藩士の遺骸は埋葬を新政府軍が許さなかったため翌年まで放置された。
埋葬許可の下りた阿弥陀寺には約1300体、長命寺には145体が埋葬されたという。

所在地:福島県会津若松市日新町5-51

※「埋葬を禁じられた」のは事実ではないとの主張もありますが、会津側の記録と当時の風俗・価値観はこうであったのだろう…との意味でそのまま書きました。戦没者達を悼みます