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甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館

甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館稽古場 甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館の写真

▲燿武館稽古場の一部。この左側に師範席がある。

逸見(へんみ)氏は清和天皇七世の孫の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ。八幡太郎義家の弟)の後裔で、第三皇子の逸見冠者義清を祖とし代々甲斐(山梨県)に住んでいた。
大永年間(1521~28)に逸見若狭守源義綱(よしつな。後に朝高/ともたか)が、勢力を強めていた武田信虎と対立して一族共々甲斐を去り、小沢口に移住したと伝わる。

天明・寛政(1781~1800)の頃、溝口一刀流の櫻井五亮長政(さくらいごすけながまさ。景政)に学ん逸見太四郎義年(たしろうよしとし1747~1828。後に多門)は、両神山の二子山で修行し、祖先の甲斐源氏に因んで「甲源」と名付けた甲源一刀流を開いた。これに因み二子山は逸見ヶ岳と呼ばれるようになる。

甲源一刀流練武道場(れんぶどうじょう)の燿武館(ようぶかん)は木造平屋建で、外側は白壁をめぐらし、木製の武者窓(明かり採り)が設えられている。
内部の稽古場は板張りで10坪、控えの間が2.5坪。稽古場に続いて一段高くに、天井の張られた床の間付きの師範席がある。江戸時代の頃は栗板の板葺き屋根であったという。
「突き」の名門といわれた燿武館には首の高さの部分に大きなくぼみのできた柱があり、往時の稽古の激しさを物語っている。

門弟は秩父を中心に全国各地へ広がり隆盛時は三千人を越え、寺社へ多くの奉納額を献じた。
特に東京の靖国神社の奉納額は壮大な額であったが大東亜戦争での空襲で焼失してしまった。

甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館の表門 甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館の案内板 

▲門の奥が稽古場、手前が修行者用宿舎

 

■幕末近世武州の主な甲源一刀流の門人(現在の出身地名)

●逸見太四郎義年門下
印可を得た強矢良輔武行(すねや。小鹿野町。徳川御三家紀州新宮藩剣術指南役。江戸四谷伝馬町に道場)、水野清吾年賀(嵐山町。志賀村名主)、比留間与八利恭(日高市)、中島宗蔵義武(美里町。成瀬因幡守の剣術指南役)らはそれぞれの自宅道場で門人を増やし甲源一刀流を広めた。
原島玄徳(秩父市)……村医。尊皇攘夷派で公卿大炊御門公尊の近侍となり秩父下向に従い清雲寺に入るも一行が偽者と嫌疑をかけられ斬られた。
坂本勘蔵(秩父市)……自宅道場で多くの門下を育成。維新後は白久村戸長を務めた。
田嶋七郎左衛門武郷(越生市)……「禅心無形流」を開く。
清水伊之松(日高市)……講談『関東七人男』の主人公猪之松。

●強矢良輔門下
強矢良右衛門武文(小鹿野町)……強矢良輔の嫡男。紀州新宮藩剣術指南役、大殿様御近習など藩の要職を歴任した。
強矢左馬之助文武(小鹿野町)……強矢良輔の次男で撃剣師範。彰義隊として戦死。
酒井右駒(小鹿野町)……領主の平岡丹波守に仕え江戸に上り馬庭念流も修めた。彰義隊に参加し若くして戦没。
飯野清三郎(寄居町)……浪士組として京に上り、その後帰郷し自宅道場で剣術を指導。
蛭川一忠康(深谷市)……師範。剣豪として名高く自宅の道場で多くの門下を育成した。将軍家茂の上洛の際は領主の室賀氏に従い京へ上っている。
高橋三五郎一之(本庄市)……剣の達人で知られ川越藩の剣術指南役を務めた。
松澤良作正景(寄居町)……師範。浪士組四番隊(松澤隊)小頭。清川八郎の攘夷活動の一味として拘束され、明治に赦免。

●松澤良作正景門下
小澤勇作義光(本庄市)……浪士組四番隊。新徴組の次席となり庄内では剣術世話係となる。戊辰戦争では二番隊で連戦し庄内藩が降伏した後は、松ヶ丘(山形県羽黒町)の開墾労働を強制される。その後は東京で警視庁の剣術師範を勤め、後に甲源北辰流を編出し道場を開く。
中島政之助(群馬県安中市)……浪士組として京に上る。

須永宗司(熊谷市)……松澤良作の誘いで浪士組に入り、七番隊須永隊小頭として京に上る。新徴組として江戸市中取締を命じられるが病死。養子である年若い宗太郎が新徴組へ入隊した。
須永宗太郎(〃)……義父の宗司に代わり庄内で戦う。維新後は陸軍に入隊し日露戦争では第九師団の参謀長、戦後は陸軍中将に昇進した。庄内で戦死した水野令三郎とは親友であった。

●高橋三五郎門下
青木七郎(深谷市)……逸見愛作にも学び、若くして印可を授かり「荘武館」を開き全国から門人が集った。明治以降は「明信館支部」として剣道を教授。

●蛭川一門下
塚田源三郎(深谷市)……浪士組六番隊。後に郷里に戻り道場を開く。維新後は蓮沼村戸長、その後合併により明戸村の村長を歴任。
瀬川太郎右衛門信綱(深谷市)……塚田に学び「源部館」を開く。

●瀬川太郎右衛門「源部館」門下
富田喜三郎(本庄市)……岩鼻監獄所へ奉職。その後山岡鉄舟の春風館道場(東京四谷)に入門、警視庁四谷署で剣術を指導する。札幌警察署に転勤。札幌区体育所で剣道師範となり、北海道内で甲源一刀流を広めた。

●水野清吾年賀「市関演武場」門下
根岸伴七信輔(熊谷市)……甲山村の名主。雅号友山。道場「振武所」や私塾「三餘堂」を設立し北辰一刀流千葉道場の剣師や昌平学の生徒等、文武の達士を講師に招いた。
名主として農民蜂起「蓑負騒動」に味方したため郷里を追われる身になるが、赦免後は尊皇攘夷に傾き長州藩との繋がりを深めた。また庄内藩士清川八郎との親交により浪士組へ入隊する同志甲山組を集め自らも参加。後に郷里に戻り文化活動に専念した。
松本半平(横田村)……自宅道場で多くの門人を育成。
水野倭一郎年次(嵐山町)……水野清吾の嫡男。名主。根岸友山の要請で浪士組に参加する門弟を率いて、道場を嫡男喜市郎に任せて自らも一番組として京に上る。
江戸では新徴組の五番組小頭。庄内へは倭一郎の三男令三郎を連れ立った。倭一郎は三番組伍長として数々の戦功をあげるが、令三郎は19歳の若さで戦死してしまう。庄内藩の降伏後は熊谷県に出仕。

●水野倭一郎「市関演武場」門下
吉野唯五郎(滑川町)……浪士組として京に上り、その後帰郷し自宅道場で剣術を指導。
松本半平衛(横田村)……初め為三郎。雅号は松月斎。松本半平の嫡男。浪士組として京に上るが父の訃報により帰郷し道場を継ぐ。

●松本半平門下
新井荘司年信(小川町)……浪士組として京に上り、その後帰郷し自宅道場「講武館」を開き、宗家の逸見愛作に目代の印可を得て甲源一刀流を伝道。町に剣道の講道館が設立されると師範となる。

●比留間氏(日高市)
比留間半造利充……与八利恭の嫡男。八王子千人同心の剣術指南に赴く。寿碑の篆額は山岡鉄舟(鐵太郎)の筆。土方歳三を描いた司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』に実名記述あり。
比留間周三利周内田周三。利恭の次男で多くの門下を育成。
比留間良八利衆……利充の嫡男。二十歳で免状を得る。一橋慶喜家臣。剣術教授方。慶喜が徳川十五代将軍となると陸軍銃隊指図役に任命される。鳥羽伏見の戦後は彰義隊の第十四番隊長として清水門口を守衛。上野戦争では比留間の奥義「車斬り」で官軍を斬り上げたと言い伝えられている。敗戦後は帰郷し数年間各地を潜伏、世相が安定すると弟利暠に家督を譲り成瀬村(越生町)の田島家に婿入りして道場を開き多くの門人が集った。
比留間国造利暠……国造の弟。一橋慶喜家臣。維新後家督を継ぎ、名門道場を存続させた。

●比留間半造門下
清水準之助(嵐山町)……浪士組として京に上り、その後帰郷。
久林萬次郎(飯能市)……赤沢村戸長。自宅道場で指導もした。
三田左内(東京都青梅市)……中里介山の小説『大菩薩峠』の主人公机竜之助のモデルとされる。

●内田(比留間)周三門下
小川椙太(小川町)……渋沢栄一を介して一橋慶喜に出仕し幕臣となる。江戸では鏡新明智流道場で修業したとも。彰義隊の天王寺詰組頭として上野戦争で刀を振るうが敗れ、小伝馬町の獄舎に入れられた。赦免後は静岡藩を経て東京に戻る。興郷を名乗り、晩年に彰義隊「戦死之墓」を建立した。
野口愛之助章庸(小川町)……彰義隊に参加。維新後青山村長となる。顕彰碑の篆額は黒田長成の筆。

逸見太四郎長英(ながひで。剣世五世。初め年洽)門下
檜山省吾(小鹿野町)……請西藩士。戊辰戦争で脱藩した藩主林忠崇に従軍し、その後小鹿野町に戻る。
逸見愛作英敦(あいさくひであつ)……長英の嫡男。寿碑の篆額は榎本武揚の筆。

●逸見愛作門下
大川藤吉郎(松山市)……浪士組として京に上り、新徴組として庄内で戦う。

他、堀内大輔(長瀬町)、山岸金十郎、田口徳次郎(共に小川町)等が浪士組に参加し、千野卯之助(小川町)はその後も新徴組として庄内で戦い、細田市蔵(入間市)は最後まで庄内に残留したという。
資料により記録が異なるが、横手銀二郎(日高市)は杉山銀之丞の名で振武軍に加わり飯能戦争で捕われ若くして命を散らせた。

 

甲源一刀流逸見氏練武道場(埼玉県指定有形文化財)※見学要予約
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄167

参考図書
・逸見光治『甲斐源氏甲源一刀流逸見家』『甲源一刀流逸見家続編』
・『飯能郷土史
・『小鹿野町誌』
他、甲源一刀流資料館でのお話や展示物
関連サイト
・小鹿野町HP:http://www.town.ogano.lg.jp/(燿武館の紹介ページ有)

正永寺[1]甲源一刀流師範・請西藩士檜山省吾の墓所

正永寺本殿 請西藩士檜山省吾の墓

霊鷲山正永寺本堂檜山省吾の墓
勝圓寺を檜山省吾が奇籍した菊池家の再興で現在の正永寺(しょうえいじ)に改称したという

 

檜山省吾(ひやましょうご)
天保10年(1839)6月23日、小森村(埼玉県秩父郡小鹿野町両神小森)間庭の小名間庭嘉平の次男として生まれる。幼名は英太郎
小沢口の逸見(へんみ)家の甲源一刀流練武道場耀武館(ようぶかん)で逸見太四郎長英に学び、後に師範となる程の剣の腕を持つ。

祖父の新井佐太夫信暁は、小森村・薄村(後に両神村に統合)と下小鹿野の一部を領していた松平中務大輔の郷代官を務めた幕臣で、以降間庭家が小森村名主を代々務めたという。
父の嘉平は鉢形衆の子孫と伝わる町田采女家から婿に入り、明治維新後は戸籍法制定で戸長となった。
兄の信太郎が家を継ぐため、省吾は17歳で、小森村の南の白久村猪鼻(秩父市荒川白久。幕末は忍藩松平下総守の所領)の高野家に婿入りをした。

しかし間もなく高野家と離縁し、請西藩檜山蔀の養子となる。小森村に隣接する上小鹿野村は請西藩主林肥後守の領地で、縁があったようだ。
間庭家は信太郎が出奔してしまい、間庭家は省吾の弟の犀平治(犀次。後に両神村長)が当主となった。

 

■請西藩士檜山省吾と戊辰戦争
慶応4年(1868)省吾が30歳の時、20歳の青年藩主林忠崇の決起に従い軍事掛として転戦し綴った日記が後に生まれる息子の小弥太により『慶応戊辰戦争日記』として複写され徳川再興を願う戦いと若き主君を護の請西藩士達の様子が今に伝えられている。

箱根に渡った後、6月の香貫村では長雨で腹を壊す者が多く出て、蟄居中の気保養にと忠崇や藩兵のために撃剣を披露していただろう省吾も患ってしまった。
しかし剣の腕に覚えあればこそ箱根関の戦いには病身で大雨の中、人見勝太郎率いる先行隊の加勢に発った我武者羅な振る舞いを、同郷の吉田柳助に諭され、その後の奥州磐城での戦いで大軍に少数の藩士で突撃する覚悟を忠崇が制している。
8月5日忠崇が仙台招致の要請を承諾し、相馬中村で藩兵を纏めていた省吾らを呼び会津を出発。
9月25日東北諸藩が次々に降伏し輪王寺宮も謝罪を決め、徳川家の存続が成った今、徳川のために戦ってきた意義が薄れ、これ以上は私闘となるため、忠崇は降伏を決めた。
顛末を請西藩関係者に伝えるため江戸に帰された省吾を除いた名簿を仙台監察熊谷齋方に差出す。

 

■小森村帰郷・小鹿野町転居
明治2年(1869)正月に省吾は小森村に帰郷し、その後は小森小学校兼薄小学校教員となった。
戸籍には明治4年(1871)4月14日「東京浅草西松山町八番地太田治郎兵衛方へ全戸附籍」
明治8年(1875)3月3日秩父郡「小森村間庭嘉平方ヨリ附籍」とある。

明治9年(1876)2月に未婚の菊池故う(こう)との間に小弥太(小彌太)が生まれたと思われる。故うは8年前に加藤恒吉との間に菊池群次郎(後に小鹿野銀行支配人)を生んでおり、故うにとって二男にあたる。
6月3日付けで省吾は南第11大区の27の小学校教員と保護役一同と共に農事休業願いを揖取熊谷県令に提出。許可が出ると以降は農林業に従事した。

明治10年(1877)4月5日に菊池家に附籍し、故うと共に小鹿野町(旧上小鹿野村)に転居。(戸籍上小弥太はこの年の12月25日生だが、菊池家に附籍後の出生として届出たのか、省吾が記した前年生が誤りかは不明)

明治14年(1881)春頃には剣道が大流行し(『柴崎家文書』)、省吾も小鹿野町警察屯所演武場等で剣道を指南している。
4月に耀武館の逸見愛作が宝登山神社(秩父郡長瀞町)に奉納した甲源一刀流の奉額に代師範として省吾の名がある。

 

■秩父事件で自警団を結成する
明治17年(1884)自由民権運動が盛んになり板垣退助(いたがきたいすけ。土佐藩士)を党首に結成した自由党が結成3年目にして急進派の制御が出来ず、埼玉でも4月17日に浦和事件が起き(自由党照山俊三が警視庁の密偵と看做され射殺される)6月に照山粛清の嫌疑で捕縛された村上泰治(たいじ。秩父自由党の若きホープとして影響力があった)の親友である自由党員の井上伝蔵(下吉田村出身)が、まだ18歳の村上を懲らしめた明治政府への反感を強め秩父方面で同胞を集めた。
そして10月29日の自由党解散直後、秩父で自由党の革命論に影響された困民党の徒数千人が、地租軽減・徴兵令改正等を求めて武装蜂起し、警官隊の殉職者も出し東京鎮台(日本陸軍政府直轄部隊の第一軍管区)からも鎮圧に出兵した秩父事件が勃発。

事件に際し省吾は戸長役場(こちょうやくば)に置かれた小鹿野町自警団の本部詰世話掛となり、戸長田嶋唯一(後に省吾の息子小弥太を婿に取る)と共に町の防衛に尽くし、事件後に報告書『小鹿野町ヘ暴徒乱入ノ状況』を提出している。

11月1日午後7時に徒党は下吉田村の椋(むく)神社に武装して集い、下吉田戸長役場を襲撃し村内の高利貸の家に放火。甲乙2隊に分かれ東から甲隊、西から乙隊が小鹿野町を挟撃する形で進み、三百人程の甲隊が下小鹿野村を襲撃した。
11時半頃に甲隊は小鹿野町へ到達。小鹿野役場と裁判所の所員は予め退去しており書類を持ち出して焼くのみに抑えたが同じく空の大宮郷警察署小鹿野町分署(分署長らは大宮へ撤退)には…対政府策として警察権力への誡めと報復か…外から射撃しから侵入し内部を壊し書類を焼いた。

乙隊四百人も西の巣掛峠より法螺貝を吹き鳴らして小鹿野町内に入り、甲隊と合流し、十輪寺裏手の高利貸タバケン(中田賢三郎宅)に放火。この際、耀武館師範宮下米三郎の消防団が延焼防止を交渉(世直しを目的とする困民党の方針で高利貸等に焼討の標的を絞っていた。但し下小鹿野村で民家1件を類焼させている)し聞き入れられたため飛火対策が出来た。
次に金融業も兼ねた商家ヤマニ(山二。柴崎佐平宅。『柴崎家文書』は町指定文化財)を狙うがヤマニは井上伝蔵(困民党では会計長)と旧知の仲で以前より農家の借金返済の陳情に柔軟に接しており、焼討ちを免れ小規模な破壊のみで済んだ。ヤマニの近くの戚柴崎得祐宅も佐平の親戚であったのと、商家常盤屋(加藤恒吉宅)も周囲に民家も密集している立地のため打壊しで済んだ。
時違わずして町外れの丸山(田島篤重郎宅)、磯田縫次郎と坂本徳松宅も打壊しに逢っている。
小鹿野町長田嶋唯一の胸像 小鹿野町指定文化財常盤屋
田嶋唯一の胸像と、町指定文化財として現存する3階建ての常盤屋

困民本隊は諏訪神社(現小鹿神社。後に請西藩主林忠交三男の館次郎も奉仕)に夜営し、2日午前6時に大宮郷へ出撃した。
しかし驚異は止まず、午後1時頃に西から数百人の乙軍別働隊が小鹿野町にやってきた。坂本宗作と高岸善吉が率いる別働隊は、本隊による被害が抑えられたヤマニや常盤屋を再度破壊。暴徒の中には逸見道場で腕を鍛えた経験もある近藤吾平の姿もあった。

省吾は唯一と宮下、耀武館門下大木喜太郎らと策略を巡らして困民党に工作員を送り、狭窄した街並の小鹿野町内より小鹿坂の要地に出る方が得策と工作員に進言させた。
そして逸見愛作に協力を仰ぎ、道場門下生を集め50人一組の自警団5組を編成して町を護らさせた。
夜11時に再び数百名が来襲するも自警団を見て尻込みし、11時半には町から去らせることができた。
3日午前6時に徒党を飯田村に追い詰めて近藤を宮下が切り伏せ、一名捕縛したことで表彰されている。

本陣寿旅館跡 小鹿野観光交流館 本陣寿旅館跡
▲暴動前に寿屋で困民党参謀長菊池貫平を説得した
寿屋は江戸時代に本陣として利用され、代々営まれた本陣寿旅館は平成20年に廃業し現在は宮沢賢治の宿泊地として交流館(観光本陣)に改修。寿旅館代官の間を再現し、明治後期~昭和の館主田嶋保日記の複製や小鹿野歌舞伎の資料等も展示されている

小森村の間庭家では蜂起の報を知った当主の犀治がひそかに東京へ出かけ、騒動がすっかり鎮まった後に帰宅した。両神村から加担者として尋問を受ける者が複数出ており、両神の有力者で知識人であった犀治も自由党思想を疑われたが、東京への旅程で泊まった宿の領収書の束を提出することで関与疑惑を晴らすことが出来たという(井出孫六『峠の廃道』参考)

 

■旧請西藩主林忠崇侯と交誼を続けながら郷里に生きる
明治19年(1886)省吾は南埼玉郡登戸村(越谷市)の小島弥作の次女チエを忠崇に紹介し、結婚の仲介をした。
明治22年(1889)12月に秩父木炭改良組合を結成し、省吾が組合長となる。
明治28年(1895)正月に逸見愛作が願主として靖国神社(東京都千代田区)に奉納した甲源一刀流の奉額に師範の省吾と目代の小弥太の名がある。巨大な額のため製作日数がかかり奉納が予定より遅れるほど多数の門下生の名が刻まれている。

明治37年(1904)6月12日に66歳の生涯を終えた。一説に、腰の根の和田政蔵の家で亡くなったという。

正永寺の菊池家の墓地に、小弥太の筆で父省吾と母故うの墓がある。
雙樹院檜山忠省居士
菊寿院一貫省幸大姉
  請西藩主 檜山省吾 明治三十七年六月十二日歿 行年六十六歳
  俗名 菊池故う 明治三十八年三月二十七日歿 行年七十歳

田隝唯一は明治36年2月に小鹿野町長となり勤続、大正11年6月に72歳で亡くなり、27日に小弥太が町長を継承した。田隝家の『田隝家文書』は町の有形文化財に指定されている。

正永寺山門 正永寺山門の裏

元間庭家の門を移設した正永寺の山門
正永寺の山門は、間庭家の白壁の蔵のついた通り門を省吾が移した。

曹洞宗霊鷲山正永寺 所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野3585

十輪寺-請西藩士吉田柳助の墓所

十輪寺本堂 吉田柳助為一の墓

十輪寺本堂吉田柳助の墓

林家の総州以外の領地は貝渕請西藩共に武州と上州にもあり、徳川との絆を深めようと動きのある林忠英の時には徳川家ゆかりの上州新田郡(群馬県)も領していたのは興味深い。
これらの領地から仕えた藩士も多く、伏見林忠交を補佐した田中兵左衛門正己(玄蕃)が養子に入った家は武蔵国埼玉郡上大越村(かみおおごえ。埼玉県加須市)で、戊辰戦争で林忠崇の参謀として奔走した吉田柳助(りゅうすけ)は請西藩領の小鹿野村(おがの。秩父郡小鹿野町)の有力者である。
忠崇と共に転戦し『慶応戊辰戦争日記』を書き記した檜山省吾は小鹿野村に近い小森村(小鹿野町両神小森。松平因幡守領)の名主間庭家の出で、請西藩士檜山家に入った。

 

■吉田和泉守の系譜
吉田氏は武蔵七党(兒玉・横山・丹・猪俣・西と、野與・村山または綴・私市)の、兒玉党(こだま。児玉)の諸氏である。『児玉党系図』では児玉氏は関白藤原道隆の子伊周(これちか。内大臣)の次男遠峯を祖とし、庶流に吉田俊平の名があるが、俊平は武蔵を離れている。また伊周の家司の子が遠峰(こだま)氏を名乗ったともされる。
『吉田系図』でも児玉氏の血脈の説を採り児玉郡小嶋郷(埼玉県本庄市小島)を本領とする吉田氏に繋がる。

※出自には諸説あるが、吉田和泉守の政重の名等と共にここでは吉田氏の系図に拠る

吉田和泉守政重(まさしげ)は山内上杉管領家の上杉憲政(のりまさ。上杉謙信の養父)に仕え、天文年間の河越城の戦いで憲政が北条氏康(うじやす)に攻められると、政重は憲政と共に上州平井城(群馬県藤岡市)に退去している。
武州を北条氏が制すと、天神山城より鉢形城(はちがた。埼玉県大里郡寄居町)に入った藤田安房守氏邦(うじくに。北条氏康4男で藤田康邦の養子)に政重は従い、鉢形城北部の用土(ようど)の地を領した。
元亀2年(1571)9月15日、武州榛沢(はんざわ)で武田信玄の兵と北条氏政(うじまさ。氏康の嫡子)の兵が戦いで政重は戦功をあげ、天正7年(1579)正月4日にも氏政から感状を与えられ(『諸国古文書抄』)天正12年(1584)2月にも北条氏直(うじなお。氏政の嫡子)から賞された。

天正16年(1588)5月7日、政重の子の吉田新左衛門実重(真重。幼名新十郎。妻は甲州から武州に移った逸見重八郎の娘)が、北条領と真田領の境にある要所、権現山城(ごんげんやま。群馬県高山村)の在番を命じられる。北条家が権現山城周辺を制した時、名胡桃と知行替えをすることを前提に、郷(まゆずみ。埼玉県児玉郡上里町)の領地を預けられた。
同時に、父政重の所領であった小島郷も安堵される。

天正17年(1589)7月に豊臣秀吉が上野の真田領と北条領の配分を取り決め、沼田の地を割かれた沼田城(群馬県沼田市)城代の猪俣邦憲(いのまたくにのり。北条家家臣)が不服とし10月末に対岸にある真田昌幸の重臣鈴木主水重則の名胡桃城(なぐるみ。群馬県利根郡)を奪取。これが秀吉が私闘を禁じさせた思惑に反することとなり天正18年(1590)の小田原征伐の起因になった説もある。
慶長4年(1599)12月晦日、浪人となった実重は弟の乙次郎と共に会津の上杉景勝(かげかつ。中納言)に仕える。
実重の子の吉田源左衛門信重(初め善兵衛)は奥州取合時の戦功により感状を与えられた。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康により翌年景勝が減封され米沢藩主となると吉田父子は浪人となり、実重は妻を実家の逸見氏に預けて越前に赴き、北ノ庄藩(福井県福井市)藩主結城秀康(ゆうきひでやす。越前宰相)の家臣本多伊豆守(本多富正か)の寄騎となる。
信重は暇を請い、弟の藤左右衛門重秀に越前の家を相続させて本国武州(埼玉県)へ戻り、吉田郷塚越(秩父市吉田町)に住んだ。妹は逸見四郎左衛門に嫁いだという。
その後小鹿野で暮らし寛文5年(1665)8月25日に86歳で没し十輪寺に葬られた。
信重の子の左馬之助重基(内記。一学)、孫の時重と続き以降代々上小鹿野村の名主を務めた。そして時重の嫡男新平守詮の弟、善兵衛重喜(藤太輔。幼名三平)が分家する。

 

■請西藩士吉田柳助
吉田重喜から数えて6代目が文政2年(1819)に生まれた吉田藤太柳助為一である。
小鹿野村は貝渕藩・請西藩の領地であり、柳助は請西藩主林肥後守忠交に仕えて郡奉行となった。
妻は甲府城下の大竹孫八郎(大竹院殿武英親章居士)の娘。

慶応4年(1868)3月に房州が不穏なため藩地の請西へ藩主林忠崇が赴こうとすると、熱心な佐幕派であった柳助は江戸に留まり徳川の行く末を見守るよう諭したが聞き入れられなかった。
閏4月ついに忠崇が脱藩し出陣する際に、柳助は小鹿野村に居る息子の信太郎(後に埼玉県会議員、小鹿野町長。貫山と号して漢学塾を開く)に武具を預けていたが、吉田家の居候ノブが不届きにより追われた恨みから官軍に武具の貯えを密告し火にかけさせたという。(『秩父史話』掲載の伝聞)

柳助は林軍の参謀として付き従い、小田原城で忠崇の重臣として面会に加わり、または使いとして小田原や江戸に交渉へ出向いている。
5月19に一行が交渉の返答待ちとして香貫村に期日が過ぎても止め置かれた際に、切迫した情勢の危機感を持った人見勝太郎が遊撃隊を率いて箱根方面へ出陣したので、請西藩士で甲源一刀流の使い手の檜山省吾が病身でありながら加勢に発った。この檜山の捨て身の行為を、闇雲な戦いでなく命は主君のために使うべきだと後に柳助が諭している。

奥州に転戦となると平(福島県いわき市)では6月9日より一隊を任され、その後藩兵を纏めるため相馬中村(福島県相馬市)に向かう。忠崇には仙台、庄内、会津藩等に声がかかり、その中で7月20日に旧幕府陸軍奉行竹中重固の要請を受けて若松へ向かい23日に入城。29日に藩兵を檜山に預けて庄内藩(山形県鶴岡市)へ連絡へ出る。
その後忠崇は仙台に移ることとなり8月5日柳助は中村の藩兵達の元を経て仙台へ合流した。
9月10日再び柳助は庄内藩へ使いに出され、高橋護を供に出立したのを最後に消息不明となった。
10月に、旧幕府の奥医者浅田宗伯から遺品の髪の毛と愛刀が届けられ、小鹿野馬上の十輪寺の墓地に納め、信太郎が墓碑を建立した。

吉田柳助の墓刻字下 吉田柳助の墓刻字上

▲柳助夫婦の墓の側面の刻字
松静院柳昌䜯寿居士
灋誓院貞鏡明栄大姉
 請西郡宰 藤原為一
 文久二壬戌 八月二十二日
 大竹氏女 同人室
       享年四十一歳
 嫡子吉田信太郎氏之建立

十輪寺の門 十輪寺山門

▲十輪寺の総門と山門

新義真言宗智山派常木山十輪寺
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野1823

鹿野山の請西藩殉難者「招魂之碑」

鹿野山の招魂之碑 招魂之碑裏面

招䰟之碑の文字は榎本武揚(えのもとたけあき)の書。
明治30年(1897)4月3日と4日に上総一の霊場といわれる鹿野山(かのうざん)で、旧請西藩林忠崇公を祭主として旧請西藩戦病死者祭典が営まれました。
旧請西藩の縁故者で委員会を設け、祭典に合わせて祭典場にこの招魂碑が建てられ、戦没した従軍者も併祭されました。

招魂之碑説明板 鹿野山の石祠
招魂之碑案内板========================================================
【表】招魂之碑 明治三十年二月 日
        正二位勲一等 子爵 榎本武揚書
【裏】
慶応戊辰之変大勢既革焉然旧夢未醒之徒奔走於国事者数十名皆多戦死病没三十年来
未嘗一慰英魂毅魄抑開港攘夷其論雖異佐東援西其業雖殊至於性命供犠牲以計国利民
福何有所撰藩主林君前既蒙   恩命又授栄爵則      天意所在瞭然可知矣
死者冀小安頃同志相謀建招魂碑乃録其姓名以伝不朽云爾
 北爪 貢  大野禧十郎 廣部與惣治 政田 謙蔵 吉田 柳助 木村嘉七郎
 高橋 護  秋山 宗蔵 小倉鍨三太 篠原九寸太 重田信次郎 西森與助
 清水 半七 小倉由次郎 諏訪 數馬 大野 静
明治三十年四月三日 前陸軍経理学校教官従六位勲五等 廣部 精識
          陸軍経理学校嘱託教授   癸山 劉 雨田書  井龜泉刻
【左】
三十年祭典薫事者
  祭主     林 忠崇
  副祭主 男爵 林 忠弘
  委員長    広部 精
    各委員姓名別刻
【右】
廣部周助 大野尚貞 長谷川源右衛門 北爪善橘 中村三十郎 加藤雄之助
篠原愛之助 篠原竹四郎 磯部克介 酒井定之進 丸山悦太郎 友部雄蔵 淺生雄仙
小倉左門 小幡輪右衛門 逸見庫司 織本新助 滑川彦質 以上病没
大野友彌 伊能矢柄 檜山省吾 岩瀬銓之助 小幡直次郎 安藤信三郎 中野秀太郎
橋本松蔵 加納佐太郎 小林清太郎 水田萬吉 木村隼人 宮崎龜之助 逸見静馬
渡邊勝造 杉浦銕太郎 岩田弘 吉田収作 岩垂謙輔 外山源之丞 高浦新平
以上皆従軍者
□□□右衛門 □□兵左衛門 野口登作 山口曹参 廣部軍司 以上五名病没
□□精 國吉惣兵衛 大野喜六 田中彦三郎 松崎蔵之介 廣部文助 善場雄次郎
善場雄次郎 大野春貞 □□□光 大竹徳國 西尾斧吉 國吉龜次郎

To Kazusa
 招魂之碑は、戊辰戦争の際、旧幕府軍について敗れた上総国請西藩藩士の英霊の少安を願い、明治30年に建てられたもので、招魂之碑という文字は幕府海軍副総裁であった榎本武揚の書。江戸城のあった方角を向いており、明治大正時代の詩人、評論家、随筆家として有名な大町桂つきは、鹿野山二十詠の中で「臺(台)ノ畑高く聳(そび)ゆる招魂面するは皇城にして」と詠っています。
 戊辰戦争当時の上総国請西藩の藩主は「林忠崇」(はやしただたか)。若くして家督を相続し、文武両道で、将来老中になりうる器であると評価されていたそうです。
 なお、碑文は概ね次のような内容となっています。
 戊辰戦争の関係で多くの者が戦・病死したが、30年来、未だかつて一度も英霊の猛々しい魂をしずめていない。そもそも、開港派、攘夷派、その考えや行ったことは異なるが、国や民のことを考え、命を懸けて戦ったことに違いはなく、分け隔てる必要はないはずである。林家は既に情けある処置により家格再興を果たしたが、これはつまり、天皇の意志がそうであることを示している。
 ゆえに、死者の少安を願い、招魂碑を建て、後世に伝える。
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碑は案内板にあるように、大町桂月の鹿野山二十咏「臺ノ畑高く聳ゆる招魂碑面する方は皇城にして」と詠まれ、皇城(皇居)すなわちかつての江戸城に向けて建っています。
臺ノ畑は、碑の在る場所の土地の名前(旧君津郡秋元村鹿野山字臺畑)でしょうか。

富津岬と富士山 鹿野山九十九谷

左写真は碑が向かう方角を、分かりやすいようにマザー牧場(富津市田倉)前の鬼泪山(きなだやま。江戸時代は佐貫藩領)辺から撮影。
左手に富士山、右手に富津岬とその向こうに東京湾を挟んで江戸城跡があるわけです。
天気の良い日は浦賀水道や請西藩主・藩士達が渡った箱根の役の地までぐるりと見渡せます。
碑の背は鹿野山の南面、房総の山々が望める九十九谷(くじゅうくたに)に向いています。右写真は九十九谷展望公園で撮影。

招魂之碑所在地:千葉県君津市鹿野山

安楽寺-勤王の佐貫藩士相場助右衛門の墓

安楽寺 相場助右衛門の墓

安楽寺相場助右衛門の墓
開闡院一乗日松居士 相場助右衛門 五十八歳 慶應四年四月二十八日 寂
演寳院妙義日相大姉 妻 寿美子 明治三年 自害 四十八歳(慰霊碑より)

 

相場助右衛門(あいばすけうえもん)
佐貫藩の納戸役(80石)相場三右衛門茂隣の跡を継ぐ。
文武両道で文学は漢学者の大槻磐渓(おおつきばんけい)に学び、武道は斉藤弥九郎の門下で神道無念流の免許皆伝であった。
佐貫藩主阿部駿河守正身(まさみ、まさちか)、因幡守正恒(まさつね。後に駿河守)の二代に仕え、佐貫藩の江戸詰家老に昇進したとされている。

文久元年(1861)に藩主正恒は大坂加番を任じられ、側用人の資格で随行し伏見に居て上方の様子をよく知る助右衛門の尊王意見を在坂中に採った。

慶応4年(1868)前藩主菊山公(正身)の第四子で15歳の小十郎を養子に貰い受けた。100石持参で260石となる。
戊辰の動乱の色濃くなり、3月に佐貫藩は江戸屋敷(上屋敷が外桜田・中屋敷が愛宕下・下屋敷は霊南坂)を引き払って佐貫へ集まった。助右衛門は恭順を唱えたが、佐貫藩は徳川譜代であり江戸と上総で暮らしていた家臣達は佐幕を唱える者が多かった。

4月に木更津に駐屯する徳川脱走兵の撒兵隊が佐貫藩へ応援を要求し、助右衛門は協力に反対したが、28日に佐貫藩は撒兵隊の支援を決定した。

この日、栗飯原八百之進ら佐幕派同志31名は助右衛門の排除を実行する。
午後3時頃、佐幕派同志達20人程が佐貫城中の太鼓櫓のある大手門付近の石垣辺りの茂みに潜んで、助右衛門が帰宅するのを待った。
助右衛門は大手門を出て南の清水坂を下って古宿(ふるじく)の家へと向かう。

坂を下った正面の御厩(おうまや)で長岡勇(33歳の最年長とされる)ら10名程が待ち伏せ、窓から助右衛門とお供の中間を狙撃した。
不意に真正面から体を撃たれた助右衛門は屈せずに傷口を押さえながら抜刀する。

剣の腕が立つ上に拳銃を所持している助右衛門に対して、20歳の血気盛んな印東男也政方(いんどうおなりまさより。後に万次に改名)が臆せずに一太刀浴びせたのを皮切りに、山崎邦之助、相沢甲子次郎信秀ら若侍が続き、そして残りの同志達が一斉に斬り掛った。
助右衛門は体中無残に切り刻まれて悲運の最期を遂げたのである。
31人は勝隆寺に引揚げて、謹慎の意を示した御届書を藩主へ提出した。

襲撃事件の沙汰は、加害者31人は忠義からの行いとしてお咎め無しであったとされる。
一方、相場家は、阿部家からの養子小十郎は連れ戻しになってお家断絶・家族追放という重い処分を受けた。
妻の寿美子(すみこ。飯野藩物頭の西平之亟の娘)夫人は悲痛な思いで後処理をし、棺桶を買うことも憚られたので亡骸は長小持に入れられ、従妹や女中の助けを借りて夫を花香谷(はながやつ)の安楽寺に葬った。
そして14歳の養女米子(よねこ。安政2年の大地震で被災した弟相場助之亟の娘)と共に、実家(飯野藩の平之亟の家)へ帰ることとなる。

2年後の明治3年(1870)に寿美子は自害し、米子は平之亟の子の志津馬に嫁いだ。

相場助右衛門慰霊碑 相場助右衛門の案内板

▲近年建立された相場助右衛門慰霊碑と案内板。子孫冨田氏の寄贈。
墓石 佐貫藩主阿部正恒公建之 
相場助衛門子孫冨田清建立。上部に丸に桔梗の家紋。

昭和6年(1931)7月、NHKラジオにて小説家の江見水蔭(えみすいいん)作「隠れたる勤王家相場助右衛門」が放送された。

 

日蓮宗安樂寺
天正5年(1577)に僧日國が開山。
所在地:千葉県富津市花香谷167-1