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甲府に向け黒駒へ

慶応4年(1868)閏4月19日、伊庭八郎の進言で、甲府城にの奥平・真田・水野等の兵達への対策として、遊撃隊の精鋭20人が難所の三坂峠を押さえた。
真田家の兵が黒駒まで来たが、三坂峠に請西藩林忠崇と旧幕府遊撃隊らの兵が既に陣取っていることを知り退却。

20日朝、忠崇一行は川口を出発。三坂峠を経て藤ノ木に進行。黒駒で逗留する。

御坂峠 御坂みち上黒駒

御坂峠を経て黒駒へ至る

 

5月に入り甲府へ軍を進めようとしたが、徳川家からの説得が伝わり、沼津表で10日を期限として命を待つことに同意した。

甲府城址 甲府城の発掘された石垣

甲府城址と発掘された石垣。忠崇らは甲府城を脅かさずに引き返した。

一行は5月2日から黒駒から道を南へ遡り、5日に沼津城下近くの香貫村に入る。

三島から河口へ

慶応4年(1868)閏4月16日の午前、請西藩藩主林忠崇伊庭八郎人見勝太郎旧幕府遊撃隊ら一行は韮山(静岡県伊豆の国市市)を出発。
甲府を窺うため三島(静岡県三島市)を経て深夜に御殿場(ごてんば。静岡県御殿場市)に着いた。

 三島から富士山までの展望図

三島宿の三嶋大社
右画像、山中(静岡県)からの展望図だと左手の三島から、右手の富士山が見える方向へ向かうこととなる

2御殿場と富士山 御殿場駅

▲現在の御殿場駅富士山口周辺と、箱根側(乙女口方向)

 

17日に、田安侯の使いとして山岡鉄太郎が説得に来訪。翌日忠崇は上意を新政府軍の総督府に差出を依頼し、甲府(山梨県甲府市)で10日再命を待つと取り決めた。
19日に御殿場を出発。巣走(須走。静岡県駿東郡)、山中(山梨県南都留郡)吉田(山梨県富士吉田市)等を過ぎ川口(山梨県南都留郡)に宿陣する。
須走 吉田

▲一行は須走(写真左)から山中を経て吉田(写真右)まで北上する

河口湖駅 河口湖と富士山

河口湖駅と河口湖。「川口村」は、現在の現在の富士河口湖町

請西藩林家と献兎乃記念碑

献兎乃記念碑と道祖神 献兎乃記念碑

献兎乃記念碑(木更津市上根岸の八坂神社)
徳川家の代々御嘉例(めでたい吉例)として林家が兎を献上し、年始の儀式で兎の吸物を共に祝った。
江戸時代の儀礼では正月元旦、白書院(儀式時の将軍出御の間)の上段に将軍が着座し、土器(からわけ)に盛った汁無しの兎の吸物と御酒を三方に載せて下され、吸物は足打膳に載せて御三家及び大廊下詰の諸侯に下された。礼者は、三献又は一献頂戴し、吸物の兎肉を各々白紙に包み、懐中にして退下する。
また老中、若年寄も登城して、政所に出づる以前に兎の吸物にて御酒三献を厨を掌る者が勤め、大目付の者が相伴する。

 

■献兎賜盃の発祥
家康より9代の祖先の得川有親(ありちか。世良田とも)は足利持氏(第4代鎌倉公方)の近臣であったが、永享10年(1438)6月の乱で持氏が敗北してしまう。有親は二郎三郎親氏(ちかうじ)と供に鎌倉を逃れ、故郷の上野国新田(群馬県の旧新田郡)世良田村得川へ帰る。しかし国許も安穏とは言えなかった。
永享11年(1439)3月上旬に有親父子は上州を去り、相模国(神奈川県)藤沢の清浄寺で剃髪し、有親は長阿弥(ちょうあみ)、親氏は徳阿弥(とくあみ)の名で出家する。
10月に藤沢を発ち、12月に信濃国に至る。
そしてかつては同じように持氏に取り立てられていたが讒言に遭って林郷に隠れ住んでいた小笠原長門守光政を頼って身を寄せた。

歳の暮れの29日、隠遁中で大したもてなしもできないがせめて正月の膳は豊かにしようと光政は、有親父子のために雪深い山に入る。冬場で得物の姿は無かったが、奇跡的に一疋の兎が現れ、持ち前の弓の腕で見事に狩ることができた。
翌正月元日朝、麦飯に田作の膾と兎の吸物を供した。

4月下旬に有親父子は三河国に渡り坂井郷に寓居する。この地で有親は亡くなった。
親氏は還俗して加茂郡松平村の豪族に婿入りして家を継ぎ、松平太郎左衛門と名乗り松平家の祖となる。
家を興した親氏は光政を召抱えた。
光政は親氏から林姓と丸の内三頭左巴の家紋を授かり、東三河の野田郡に居住した。

三河では長篠の菅沼の郷侍土岐大膳が親氏の敵となり、光政と協力して攻め落とす。土岐大膳は菅沼小大膳と改名して味方となる。
その後親氏は隆盛し、林郷で兎を供されたことが松平家の開運の基として代々年始の祝宴の儀となる。兎を狩った地も「兎田」として免租を許された。
一番に盃を頂戴し、御盃を一番下に置かれる儀が、林家家紋の丸の内三頭左巴の下に、一文字を加えた由来とされる。
※松平家・林家の開祖は伝承の域で、他の系譜史料との年代の違いがあります
 

■献兎賜盃の中断と再開
光政の子光友以降も林家は松平家古参の譜代としてよく仕え──三州の五本槍(岩津、安祥譜代衆者の一つとする説もあり)、光政から4代目の忠満岡崎五人衆とされ──戦功をあげた。
永禄9年(1567)家康は松平から徳川に改める。
天正18年(1590)8月から家康が関東に移封となっても翌年の正月には献兎賜盃の御祝は行われ、林家は白銀三十枚と呉服を拝領している。
                            
光政から6代目の林藤五郎忠政は17歳で眼病を患って勤めが困難になり、毎年行われていた御盃頂戴と兎献上の儀を辞して、領地に籠居したため嘉例は一時中断された。

文政8年(1825)第11代将軍徳川家斉に重用され林肥後守忠英(光政から14代目)が1万石に加増されて大名となる。
文政9年(1826)11月18日、忠英は嘉例再開を願い「兎御献上之儀留」を差し出しだ。
これを許されて、以降は領地の上総国望陀郡上根岸村(現千葉県木更津市上根岸)で兎を用意した。

●上根岸村の兎捕り
上根岸村では毎年12月初旬から30戸の村人達は藩から拝受した狩猟網を使い、公儀の「御兎御用」の旗を立てて貢物の兎の捕獲をしてた。
毎日二三里の山野で探し、あるいは小高い丘の山岸に罠を張って兎を追い立てて、5疋を得ると生きたまま御用かごに入れて担がせ、江戸藩邸の林侯に貢いだ。
運搬中は帯刀を許されて士分となった村役人が付き添い、上根岸から姉ヶ崎までは村人が担ぐが、姉ヶ崎からは宿場ごとに人足を継立てて、市川の御番所では番所役人はひざまずいて敬礼し、江戸川・中川を渡る時は特別仕立ての船を一艘用意して一般の乗客は許されなかった。
林侯は12月29日までに官府に献上する。
上根岸村には林侯から褒賞として毎年米一石を下賜される。

兎の彫刻 兎瑞兎奇談の兎
▲献兎乃記念碑に刻まれた兎と元の画

碑文※原文は註釈等無し
昔、徳川将軍家にて元旦の吸物に兎を用ひたる慣例は三河後風土記・瑞兎奇談等の文献に徴すべく、普く人口に膾炙したる(人々の話題にのぼって持てはやされ広く知れ渡る)事実也。
而して眇たる(そして小さな)我上根岸の里は、幾百年の久しき此兎を献納したる歴史を有する処、由来は遠く家康公九代の祖有親と其子親氏とが、故あって信州林郷なる林藤助光政の家に客たりし、其歳も尽きんとし光政雪中に兎を狩り、之を翌永享十二年元旦の吸物として供せしが、不思議にも有親父子開運の基と成り、終[つい]に家康に至って覇業を遂げたる故、徳川家に在りては無上の吉例として永世絶つことなかりし者也。
扨[さて]家康大将軍と為り、林氏も恩賞に預り、後年一万石諸侯の班に列したれど、乱夷ぎて先づ授與されたる采地三百石の旧此村は林家の宗領地とて、啻(ただ。強調)に献兎の命を蒙りたるのみならず、新年の賜宴には領内の首坐[座]を占め、御倉開の式は我村人の手にて行ひ、又名主は世襲ならで公選なりし等、治者被治者の間に隔なく、師走に入れば公儀への御用として、葵の旗に給附の網にて、遠近兎狩に何憚[はばか]る処なく、五口を揃へ駕籠に乗せ、附添の名主は両刀を佩し、供一人を具し、姉崎迄[まで]は村人夫に、同所より沿道人夫に舁[か]かせ(運ばせ)、道中威儀正しく、其月廿日に江戸九段の林侯邸へ送り附くるが恒例にて、為めに年米一石を給せられ、幕末迄踏襲したる美談なるも、星移り物換り、今は當[当]時を記憶する村の老人も残り少なに成り、可惜(あたら。惜しいことに)郷土誌も後世忘れらるべきを憂ひ、今歳卯年に因み、一は青年子弟の為め、一は世道人心の為め、我等識る処を録し、痩碑を樹つること如此[かくのごとし]  昭和二年丁卯三月 米崖松﨑九郎平撰

※献兎の永享12年に光政との関係は確証できず、別の代の逸話である可能性も示唆されている。

毛詩の国風 裏には『粛ヽ兎罝 施于中林 赳ヽ武夫 公侯腹心
粛粛たる(しゅくしゅく/引き締めた)兎罝(としゃ/罝は網)、中林(ちゅうりん/林の中)に施す。
赳赳たる(きゅうきゅう/勇ましい)武夫(武人)は、公侯(周の文王)の腹心(心と徳を同くすること)。

毛詩(詩経)の国風(諸国民謡編)の文王の徳化の盛んな様子を詠んだ詩が、徳川と林家の古事と重なるとして引用している。
粛粛兎罝は雪中に兎を得たこと、施于中林は信州林郷に住居すること
赳ヽ武夫は光政の武勇が優れていたこと、公侯腹心は互いに忍び暮す境遇の時に力を合わせ、そして徳川家が戦乱を収束し太平をもたらし、ついに林氏の武名を世に輝かせたことに比べているという。

上根岸八坂神社 三頭左巴紋
▲八坂神社
祭神:須佐之男命、奇稲田姫命、八柱御子神
地元では天王さま(牛頭天王・須佐之男命)と呼ばれていたようだ。
手洗い石の大きな三つ巴紋は、林家の家紋(丸の内三頭左巴下に一文字。請西藩ページに画像あり)が初めは盃に因んだ一文字が無かったともされるのを思わせるが、これは八坂神社の神紋の三つ巴紋であろう。

富士塚 立像庚申塔
富士山を模して石を積みあげた富士塚。富士大神の石は明治期のもの。
石像が彫られているのは庚申塔。

児守神社等摂社 上根岸橋と小櫃川
お社の裏手の左右に児守神社等の摂社。献兎乃記念碑の傍らにある石祠は道祖神。
神社の傍らに流れるのは上根岸橋の架かる小櫃川。

八坂神社所在地:千葉県木更津市上根岸171

参考図書
・井原頼明『禁苑史話
・『木更津市史
・『君津郡誌
・大畑春国『瑞兎奇談』
・『三河古書全集』
・小野清『史料徳川幕府の制度
※他、郷土史料として別途まとめます

人見寧-幕府遊撃隊・土木県令・利根運河の三狂生

人見勝太郎寧の写真 人見寧 ひとみやすし。写真は箱館戦当時

■人見寧の生立ちと遊撃隊への抜擢
初め勝太郎(かつたろう)。字は君寿、号は模坪。
天保14年(1843)9月16日、二条城の西、二条千本の十軒屋敷で幕臣・人見勝之丞の長男として生まれた。
勝之丞は京都文武場(ぶんぶじょう)の文学教授を務め(漢詩文が何篇か現存しており、特に得意としていたようだ)母は仙子(清水家)。
人見家の先祖は江戸時代前期に武蔵国から丹波国に移り、享保14年(1729)丹波国馬路村の郷士人見治郎右衛門が株を買い武士身分に転じ、京都に移住した。

勝太郎は10歳の時に京都学習院の儒家の牧贑斎(百峰)に入門し、そして大野庄之助に剣術、江川流の山田某に西洋砲術を学んだ。

文久3年(1863)将軍徳川家茂が上洛し3月に二条城に入る。家茂は京都の幕臣達に文武奨励を号令し、人見勝之丞と19歳の勝太郎が二条城に呼ばれた。勝太郎は家茂の前で孟子梁恵王上篇の一章を講義して白銀3枚を、更に撃剣上覧で白銀3枚を恩賜を賜った。

慶応3年(1867)12月に勝太郎は幕府親衛隊である遊撃隊に抜擢され二条城の君側(慶応2年に家茂は他界し一橋慶喜が将軍となる)に勤仕。下旬に慶喜に供奉し大坂城に入る。

 

■鳥羽・伏見の戦い
慶応4年(1868)1月2日遊撃隊は慶喜上洛の御先供の令を受け、今掘摂津守(元講武所師範役)に属し、黒谷に先発する。大阪城から船で淀川を上る。
3日の明け方に伏見に着く。しかし薩長の兵が鳥羽・竹田街道に関門を置いて幕府方の洛中入りを阻んでいた。手出し無用の命令を厳守して手持ち無沙汰な幕府先発兵に対し、薩摩兵は余裕のある態度で挑発する。
夕方5時頃に鳥羽街道上の赤池付近で幕府方と薩長兵の押し問答の最中、突然薩摩方が発砲(上鳥羽村小枝橋)し、発砲音が届いた伏見でも開戦となった。

伏見方面の薩摩兵は御香宮(ごこうのみや)に布陣。
幕府方は会津軍の主力が伏見街道に集結して伏見奉行屋敷を固め伝習隊が北の御門、新撰組は裏手を警備し浜田藩が控えた。
奉行所を見下ろす位置にある龍雲寺から薩摩藩第二砲隊の大山巌(通称:弥助。弥助砲と呼ばれる薩摩軍の山砲は彼が四斤山砲を改良した)らが激しく砲撃を行う。薩摩方の大砲は焼玉(炸裂弾)で町中に火があがり幕府方の負傷者が増えていく。
遊撃隊の伊庭八郎は伏見奉行邸前で奮戦し胸部(もしくは腹部)に被弾。
先発隊は夜通し戦うも、薩摩兵が御香宮まで退却したため、遊撃隊も中書島へ引き揚げた。

4日、伏見・竹田両道から洛中へ進軍しようと大いに意気が上がっていた所に、総督松平備豊前守(大河内正質・上総大多喜藩藩主)が全軍大阪へ引揚げを命じた旨を副総督の塚原但馬守から伝えられた。
人見ら遊撃隊隊士数名は会津藩士数十人と供に鳥羽街道筋、伏見通路、澱川沿いと戦いながら移動したが澱には自軍の影もなかった。
更に橋本陣所まで南下すると、山崎関門守衛の藤堂藩が離反して橋本を砲撃し、若州藩見回役と対戦。人見は負傷者が放置されるのを見過ごすことができす、弾が飛び交う中を奔走し小艇を一艘買って負傷者を乗せた。

6日に大阪に着く。人見は遊撃隊宿舎の天満組屋舗の族舎に負傷者を収容して、大坂城に登城するが、守備が手薄で静まり返っている。残っていた会津藩士に慶喜が江戸に帰った次第を聞く。
監察妻木民弥に面会し、軍は紀州和歌山に向かうことになった旨と、負傷者達は人見に一任すると達せられた。
友人の楳沢銕三郎(梅沢鉄三郎、敏。幕府目付の水戸藩士梅沢孫太郎/守義の三男で梅沢家を相続。後に静岡県議会議員)と共に負傷者を運搬する釣台人夫を雇うため奔走し、安治川口の御船役所に赴くが乗船には間に合わず、敵兵が迫り火の手も上がる危地に際した人見らは抜刀し脅す強行手段で大船に乗り込んだ。
負傷者を無事送り出すと、人見らも命懸けで大坂の様子を探索しながら和歌山に向かった。

8日に和歌山に着く。人見は負傷者達の元へ駆けつけ無事を知り安堵する一方で、彼らを置き去りにした遊撃隊の頭を論責している。
人見らは三ヶ保丸で由良港を出航し、13日に浦賀に着き、江戸へ入る。

 

請西藩・内房諸藩士との共闘戊辰箱根の役

人見らは同じ遊撃隊の山高鍈三郎邸(牛込赤城明神下)に居候する。人見は赤坂本氷川坂下の勝海舟邸で勝と初めて接し卓論を聞く。
1月下旬、人見と人見の友人の岡田斧吉は、大監察堀錠之助が徳川臣代表として東海道先鋒総督府に哀訴嘆願する使節の末班加入を望み、後日随行の命が下る。
2月上旬、人見らは堀邸を出発し3泊を経て甲府(山梨県)に着く。近藤勇が挙兵し甲州進軍の噂があり、現状確認を優先する堀に反発した岡田・人見が任務を強行して先鋒総督府の参謀海江田と木梨らに嘆願書を託す。

3月徳川慶喜の水戸謹慎が決まり遊撃隊は慶喜を奉送することとなるが、人見は岡田、伊庭、和田助三郎、佐久間貞一郎、らと供に千住大橋まで奉送後に脱走挙兵する計画を講じて、実行準備のため銃器・弾薬を集めていた折に、海軍副総裁榎本釜次郎(武揚)が幕府軍艦を率いて脱走するとの噂を聞き、伊庭・宮路・佐久間らと下谷の榎本邸を訪れ、榎本と同盟を結ぶ。
14日に遊撃隊隊士は長鯨丸、人見ら4人は榎本の居る開陽丸に乗船。

4月11日、大総督有栖川宮の江戸城入城のため本営の池上本門寺から品川へ進入する様子を人見らが開陽丸の艦上から望見していたその時に、榎本が2艘の艦隊を一斉に品川沖から抜錨した。房州館山(千葉県)へ渡り館山湾に停泊。
16日に榎本のもとに、大総督府の幕府軍艦引渡要求の交渉のため勝が単身で来訪。榎本が2、3艦を引き渡すと応じたことに遊撃隊は反対し憤懣に耐えず人見ら3、4名が抗議したが覆らず、上総(千葉県)上陸を決断する。

17日に榎本は品川沖に戻る(24日に富士山・翔鶴・観光・朝陽4艘を大総督府に引渡す)こととなったが、遊撃隊とは同盟を結んだ誼で、上陸に適した小艦の行速丸に榎本自らが乗り込んで送った。隊士達は榎本の友誼の厚さに感謝して木更津付近に到達。徒歩で上陸し寺院に泊まる。
その夜はじめて軍議を開き、遊撃隊を2隊とし、人見は1軍隊長となる。

28日に請西藩を訪れる。遊撃隊は文武両道で将軍の身近に在った奥詰めからなる隊なので、規律正しく統制もとれており、請西藩主の林忠崇は彼等に真の忠義を感じ取って協力を受け入れた。

閏4月3日真武根陣屋を出陣。館山に向かって南下し富津陣屋を経て飯野藩勝山藩館山藩の上総安房諸藩の脱藩兵を加え、共に駿河(静岡県)沼津での挙兵をめざして江戸湾を渡り12日に相模(神奈川県)真鶴港に上陸し、小田原を経て沼津の韮山代官所に向かう。
大総督府は沼津藩に総勢300人近くとなった遊撃隊ら一行を解体させるよう命じ、また江戸からは田安中納言(徳川慶頼)の命で旧幕府首脳の大鑑察山岡鉄舟と石坂周造が抗戦を止めるよう説得に訪れた。
林忠崇と遊撃隊は上意をしたため、山岡らに託し、新政府軍総督府からの返書を待つ形で、沼津藩主が城代である甲府で待機することとなる。
しかし期日を過ぎても返事は来ず、沼津藩監視下の香貫村でひとまず謹慎となるが、東の彰義隊壊滅の報を聞き新政府軍の包囲が強まるのを感じ取った人見が豪雨に乗じて第一軍を率いて箱根方面へ出陣する。(単なる人見の抜け駆けでなく、状況打破のきっかけを作るために林侯と示し合わせたと見られる)
残る遊撃隊も箱根に移り5月20日に小田原藩の守る箱根関所を占領した。

しかし小田原藩が急に手のひらを返し、26日の山崎の激戦(人見は旧幕府艦隊に赴いて不在)で各方面から追撃を受ける窮地に立たされた遊撃隊は箱根から熱海まで撤退し網代に渡り榎本率いる艦で東に渡る。
5月28日に館山港に着き、戦える者は奥州への転戦を決めた。

 

■奥州へ転戦
6月1日に一行は長崎丸に乗り、3日に奥州小名浜(福島県いわき市)に116名が上陸。
4日に平(たいら)に着き、奥羽越列藩同盟を結んでいる平藩・湯長谷藩・泉藩の支援要請に応じる。
16日に常州平潟(福島境に近い茨城の港)辺に新政府軍の船渡来の報があり、夜に出陣。
17日明け方仙台・磐城諸藩連合軍と共に出撃。山上で待ち構えていた新政府軍と、遊撃隊一隊も仙台兵を率いて戦い、林軍・他遊撃隊らも松原で迎え打つも、主力を白河に出していた仙台兵は敵の大軍を前にして士気が上がらず苦戦する。
支援藩兵の軟弱さに憤った人見も、兵に覇気がなく内部は恭順・抗戦派で割れ信用が置けない藩は見限って会津支援に向かうことを忠崇に勧めたが、翌日仙台陸奥守の名代の古田山三郎らが国元からの援軍の指揮を強く請うので、止むを得ず、滞在を延ばす。

23日新政府軍が平城目指して進軍し、遊撃隊は朝8時頃に湯長谷の隊を植田宿へ出撃させる。
植田八幡山で敵を待ち受けるために2手に分かれ請西藩兵・遊撃隊1隊・平藩兵は街道から、純義隊・遊撃隊1隊は山手から侵入する。
24日八幡山を挟んでの攻防となる。急襲成功し敵を多く討ち取るも激しい砲撃戦の後、数に劣る同盟軍は湯長谷に退却。

29日長橋端から新政府軍を砲撃で撃退するも、平城主・泉城主らが仙台兵と共に逃げ退いたため守備が手薄になる。それでも留まって戦おうとする忠崇を、人見が諌めて会津支援に向かうことを説得し、忠崇らは相馬中村(平より北へ位置する)へ向かう。

7月19日夕方、川俣に着泊した人見も会津に向けて出立。
その後人見は寒風沢(さぶさわ。宮城県塩竈市の浦戸諸島で仙台藩の軍港がある)港守衛の任務に就く。
※暫定。諸隊の奥州戦は少しずつまとめていきます

 

■蝦夷己巳の役。連勝し五稜郭に入り松前を奪取
9月に人見は榎本一行と白石城(輪王寺宮が入り奥羽越列藩同盟の奥羽越公議府が置かれた)に向かって発つが、途中で会津落城(22日降伏し会津若松城開城)の報を聞き一同落胆し、仙台に引き返って泊まる。
輪王寺宮も謝罪を決め、同盟主仙台藩や主力藩の降伏で奥羽越列藩同盟は崩壊した。

榎本が新政府との調和のため、録も拠り所も失った旧幕臣達(徳川家の減封で幕臣を養いきない)の手で不毛の蝦夷(北海道)を開拓し、朝廷と日本国土のために北方の警備にあたる構想を告げ、人見はこれに賛同して庄内(同盟藩で恭順を拒む最後の藩)行きを断念する。
10月9日に仙台東名浜(とうなはま。東松島市)から折浜(おりのはま。石巻市)に移動。
10日大鳥圭介も米沢から伝習隊を率いて仙台に着き兵を精選して乗船。榎本の艦隊に北行を望む諸藩の兵を収容する。
12日仙台藩の支援もあり、艦の修繕も終わり、遊撃隊らは折浜を出航した。
13日に桑ヶ崎(秋田県湯沢市)に入津し18日に出航。
20日に蝦夷鷲ノ木(わしのき。茅部郡森町)に着岸し榎本艦隊の旗艦開陽に各艦から幹部が集められ会議となる。人見と岡田、沢録三郎、佐久間悌二が隊士から離れ全軍の役職に転出。

22日に上陸、一尺ほどの積雪があった。人見は箱館府(幕府直轄の箱館奉行に代えて新政府が設置)知事清水谷公考(しみずだにきんなる)宛の渡海趣意書を届ける大役を任され、大鳥の部下数名と少数兵の30名を引率して箱館(函館)へ通じる本道の峠下(とうげした)村へ向かって先発する。
吹雪の中、数里の森林間を経て、夜に峠下村に達した。土地の者から官兵達はここにはおらず一里離れた大野村に居ることを聞き、疲弊していた一行は見張りを置き民家で仮眠をとった。

23日、まだ夜が明ける前に、左右の山上の至近距離から敵の伏兵(津軽・松前等の兵)に大小銃を撃ちかけられ、民家に雨のごとく弾丸が降りそそいだ。
夜襲に対して、人見らは匍匐して灯火を消して散兵の形で雪明りに山上の敵影を確認し、しきりに狙撃を果たす。頃合を見て人見らの後方の峠の中間へラッパ兵を登らせ、進軍合図を吹かせると同時に人見らが突撃の雄叫びを発して一斉に立ち上がった。
驚いた敵が銃や死傷者を棄てて敗走したので、富士山村まで進軍する。
夜襲に耐えて、蝦夷上陸の初戦の勝利を収めた人見らは、元の峠下村に引揚げて休み、敵の負傷者を処置した。

森村まで伝習隊・新撰組・遊撃隊(仙台から乗船した会津・唐津兵等も編入)らを率いて移動していた大鳥も、早馬の急使に開戦を告げられ、夕方に峠の陣に到着し人見らに戦の詳細を聞いて軍議を開く。
敵が大野と七重に在るとみて、兵を分けて大鳥隊は大野村へ、人見・佐久間を軍艦に遊撃隊・新撰組・工兵方を七重村へ進軍する。間道富士山に宿陣。
24日に七重村を本営とする。

人見らが七重村から南に出た所で、官軍が箱館から七重村へ向けて山の手と原野の両方面から来襲し、官軍6、700人と交戦。砲撃のあと2時間に渡る接戦で敵を潰走させた。深追いを避け大川辺より引揚げる。
官軍はこの敗戦により清水谷府知事はじめ諸藩の官兵は五稜郭を放棄して秋田・津軽地方へ船で逃走。
敵の屍は手厚く葬り、負傷者は旧幕府一行側の病院で治療し回復後に生捕りの者と共に各藩へ送り返した。
夕方に人見は大鳥の元へ戦況を報告に行き、兵を合流させ五稜郭へ向かう作戦をたてる。

25日に大鳥隊は湯の川に向かう土方歳三の隊と連携を取って五稜郭に迫る。
26日に箱館の無血占領を果たす。
その後全軍が五稜郭に入り、海軍も箱館に集まり碇泊。箱館在住の外国領事ロシアのニコライ等に外交通知し、我が党が全島を支配し一般の保護を担任する旨を告げ、また一般人にも布告をして安堵させた。
そして松前藩士の生捕り者2名を藩に送還して、同盟の義を勧誘させようとしたが、この2人を殺し敵意を示したので、やむを得ず27日に土方を総督とし松前城に向けて進軍するに至った。

11月5日に松前城(福山城)を落城させる。松前藩主と重臣らは江差に走り津軽を頼って渡海していった。
落城後すぐに人見は入城して、遊撃隊に略奪行為を禁じる命令をし、わずかに番兵を残して各隊皆城外に宿営させた。
城内大手口玄関に藩士一名が着服して死んでおり、義烈の情感にたえず、厚く葬った。
人見は2、3人の隊士と城内を見回ると、奥深くに松前藩主の家族侍女等婦人7、8名が取り残され、うな垂れて泣いているので人見は処分せずに、松前家の菩提所に移し、町人に命じて諸事斡旋して厚く待遇した。後で希望を聞いて藩主のいる弘前へ送る折に婦人達は感謝して別れを告げた。
そして松前領内一般に、同盟の呼びかけ・住居を安堵したい者の自由・主君の元に帰りたい者の希望を叶える等を布告したので、多数潜伏していた松前藩士も安心して静粛に留まった。

江差に逃げ落ちた松前残兵と額兵隊(仙台藩)ら追撃隊が交戦。
14日に榎本が大吹雪の夜中に開陽艦で松前に来て、入城して人見に江差に急航すると告げた。これまでの陸軍の功名に、海軍も燻っていられずの意気込みで立ちながら葡萄酒を煽って早々に乗艦したが、結局翌日も吹雪が止まず開陽は江差港口で座礁(22日に救援に向かった神速丸までも遭難)し数日後に沈没してしまった。
陸路を帰る榎本と松前で会見して、天運の無さを嘆きつつ酒数杯を傾け、人見は城門まで送って別れた。
江差を守り、遊撃隊は松前を守衛。

 

■辞世を書いた指揮旗を振う。入院中に五稜郭明け渡し
12月22日に五稜郭でアメリカ合衆国に倣って入札(いれふだ。投票選挙)により役員を決め、人見は松前奉行となった。25歳の人見は幹部では最年少である。松前城付近に住み、城まで馬で通った。
総裁に選ばれた榎本は早速蝦夷開拓に取り組もうと、その志を朝廷に奏聞するが、新政府はこれを無礼の申出として却下し国賊として追討に踏み切った。

明治2年(1869)4月6日に新政府軍が数多く輸送船を引率して青森港を出航し9日早朝に乙部(おとべ)へ陸兵を上陸させ、陸海から江差・松前へと進軍を開始。
敵軍艦は沖にあって迎撃出来ず、兵数の少ない遊撃隊が戦闘にあたって防戦苦闘を強いられ岡田等、多数の死者が出た。

五稜郭に全軍集結の命令があり、松前を引き払う。帰途の知内で敵軍が西海岸から上陸して木古内(きこない)に現れ帰路を絶たれてしまう。
遊撃隊は奮戦し、悉く撃退して切り抜け、箱館に帰ることができたが、この戦いで伊庭が胸部を撃たる致命傷を負い病院に搬送される。

人見は遊撃隊を率いて箱館に舎営し弁天台場を守った。敵艦の春日が回航し幾度か台場を砲撃したが命中せず、台場からの迎撃も届かなかった。
官軍の甲鉄艦が五稜郭めがけ3百ポンド砲弾を発射し天地を揺るがす爆音に曝される。陸海共に日々小戦争が繰り広げられた。

5月10日、官軍の総攻撃を偵知した榎本達は、海陸の将校等一同函館の遊郭・築嶋の武蔵野楼で決別の大宴会を催し、夜半に皆四散して各部署につく。
11日夜明け前に敵艦が運転を始め、発砲開始。陸からも薩兵が四方より発砲して来襲した。
人見ら遊撃隊は一本木(いっぽんぎ。北斗市)から七重浜(ななえはま。北斗市)を進み、長州兵と交戦する。砲戦の後に短兵接戦となった。
人見は胴巻の白羽二重(はぶたえ)の端を裂いて辞世の七言絶句
幾萬奸兵海陸来  [幾万の奸兵、海陸より来る]
孤軍塲戦骸成堆  [孤軍防戦、骨堆(たい)を成す]
百籌運盡至今日  [百籌(ひゃくちゅう)運尽き、今日に至る]
好作五稜郭下苔  [よし、五稜郭の苔とならん]
于時元治二年己巳歳仲夏
徳川脱藩遊撃隊々長 人見勝太郎橘寧
──と墨書きして決死の指揮旗として握り締め、馬上で指揮をとった。※元治はママ。于時は時に・この時の意味

しかし横合いの敵の艦上から狙撃されて馬を撃ち殺され、人見は落馬し額に重傷を負ってしまう。
敵兵の手にかかる前に従卒の久次が人見を茅原の中へ引きずり、人見の胴巻きを解いて包帯をし、放れ馬を捕らえて人見に与えた。
この馬で疾駆し箱館病院に入る折に、既に箱館の後部から上陸していた敵兵が人見を見て猛烈に射撃してきたので、馬を棄てて一町ばかりの坂道を駆け上って病院に飛び込んだ。
人見が病院長の高松凌雲(りょううん)の施術を受けたのち、12日に和平交渉に訪れていた官軍の参謀部員である薩摩藩士池田次郎兵衛が英国医師を連れてきて懇切に人見を診察治療させた。

──尚、落馬時に爆風で吹き飛ばされた指揮旗は左下に人見が流した血痕がついていた。
それを長州藩の隊長品川弥次郎が敵ながら遺族に届けるべき遺品と思って拾い衣嚢に納め、そして維新後に人見と巡り合うことになる

5月18日、榎本らは新政府に降伏し五稜郭を明け渡した。
榎本達は新政府軍の参謀黒田清隆(きよたか。薩摩藩士)のはからいで寛大に扱われた。

人見は病院で治療を受け数日後に弁天台へ移され、3日を経て蒸気船にて御親兵の護衛で東京に送られ、増上寺(ぞうじょうじ。港区芝公園)山内赤羽橋口の寺院に拘禁される。
数日を経て大村兵部大輔から下の宣旨を受け、豊前香春藩(かわらはん。旧小倉藩。福岡県北九州市)にお預けとなる。
其方儀箱根ニ至リ官軍ニ抗シ、中井範五郎ヲ殺害シ、奥羽ニ逃レテ後、
榎本釜次郎等ノ賊ト共ニ箱館ニ至リ官軍ニ抗シ、力尽キテ降伏スト雖(イヘド)モ
天地不可容ノ重罪厳科ニ可被処(処セラルベキ)之処、
出格非常之寛典ヲ以テ香春藩ヘ長預申渡

 

■東京・福岡で拘留後に静岡に移る
6月に香春藩兵の護衛で轎(輿)に乗り、籠に乗り下谷御成道(東京都台東区上野。今の黒門辺り)の小笠原邸に送られ、ここに一泊。
翌日の明け方に出発し、東海道から大阪に行き、安治川口から早船に乗って豊前国に渡り簑ノ嶋(福岡県行橋市)に上陸し、行司(行橋市行事)の祐福寺(ゆうふくじ。酉福寺)にらと拘禁された。
藩士4名が護衛したが厳しくはなく、後に近くへ散歩も黙認してもらえた。

明治3年(1870)3月に天赦の令で釈放。※辰の口軍務局糾問所に投獄された榎本や大鳥ら幹部の釈放は明治5年
香春藩兵は人見らに数名の藩士を随従させ静岡に送還すると告げるが断り、衣服と大小刀の贈与も受け取らなかった。
共に拘禁されていた友人の斎藤辰吉(たつきち。元彰義隊で後に中野梧一と改名。山口県令となり後に経済界で活躍するが大阪で自殺)と、呉服商に旅装を整えさせ羽織を着て何も武器を持たずに、医師か茶人のような姿で漫遊の旅に出た。

稗田村(福岡県京都郡)の漢詩人仙山堂(村上仏山)先生に一筆願い、筑前宰府の菅廟(筑紫野市。菅原道真公の廟所)を拝観し、博多を経て船で芸備防長(広島・岡山・山口)の瀬戸内沿海の著名な港を巡り泊まること数日。備後(広島県)靹津(福山市の鞆の浦)で遊興に耽り、四国の多度津(香川県)にわたり金毘羅社に参拝する。また幡州(兵庫県)に渡って所々巡遊した。

4月下旬に静岡に着き、人見は梅沢孫太郎(京都時代で既に述べた鉄三郎の父)邸に居候する。徳川家が移封され旧幕臣が移住して栄える静岡の様子は、幽国の悔恨を忘れたかのようだった。人見は耐え難い想いを心に秘めて、鹿児島へ渡ることを決意した。

 

■鹿児島へ遊学
西国留学の相談のため鷹匠町の勝海舟(旧幕臣による牧ノ原台地の茶畑開墾を指導していた)を訪れる。
勝の書を携えて男鹿村に出向き静岡藩大参事となった大久保一翁に面接し、翌朝の出庁を命じられた。出庁すると、徳川家を相続して静岡藩知事となった徳川家達から餞別金百両授与と伝えられ、拝受した。
感激した人見がすぐに勝へ礼を言いに行き、迎えた勝は人見に九十両の旅費と薩摩常備隊砲兵隊長村田新八宛の紹介状を与えた。

5月3日、同行を希望した梅沢鉄三郎と共に出発。
掛川駅で内藤七太郎(旧見廻組与頭、京都文武場教授方)を訪問して一泊。東海道をのぼり京都の父母の元に帰省してから大阪に下る。
安治川の船宿から早船で豊前に渡るつもりだったが、長州脱藩の元奇兵隊(奇兵隊は維新後の陸軍編成で解体。政府に反発した一部の脱退騒動が起きた)が海賊に成り果てて瀬戸内海を荒らしていたため出航を断られてしまう。
しかし通商を阻まれ略奪の標的となり困り果てている商人の前に、歴戦の剣士達が現れたというドラマのようなような展開でもある。ちょうど大阪湾に豊前大橋の柏木氏所有の商船(500石積の和船)が碇泊しており、船主の柏木氏とは、山陽先生の書画等を多く蔵しているため拘禁時代に3度程訪れて面識があった。
小伝馬船で兵庫に至り、親船に乗船する。

心地よい海風と夜空に一酔いして船中でまどろむ夜半に、突如、鉄砲を携え抜刀した海賊7、8人が商船を襲った。人見らは燈火を消し、伝馬船の下に抜刀して潜む。
近付いた2人の賊の前に躍り出たその時、呼子の笛が鳴り響き賊は逃げ出した。
船頭や船子に呼びかけ、総員10名が裸体に鉢巻姿で短棒等を手にして追跡したので、幸い米一俵も奪われずに賊難を免れて、人見らは謝辞を述べられた。

明け方近くに和田ノ岬(神戸市)の辺りまで漕ぎ出し、播磨灘を過ぎ、一泊もせず殆ど一昼夜で田ノ浦(北九州市)に着いた。
柏木氏の厚饗を受けた後に祐福寺を訪れて和尚にかつての厚情への感謝を述べた。
儒者の遠帆楼(えんぱんろう)恒遠(つねとお)先生の門を叩き、数日名所を巡った後、筑後川を船で久留米まで下って水天宮社を参拝。大雷雨に遭うが、高瀬を経て山麓の温泉に浴泊した。翌日熊本にいて木更・津田両氏の門を叩き、加藤清正公祠に参拝して逗留。

松橋から海路で薩摩領に上陸するが、薩摩藩の関史の尋問を受けた。
静岡藩の遊学書生だと告げても怪しまれ、腹立たしく抗論し藩鑑と勝も添書きを持つことを示せば俄かに温和になり、旅館に案内されて一泊。
翌朝、守関の重役が来て不敬を謝り、鞍置馬2頭と案内をつけようとして辞退したが、断りきれずに馬を借りる。
途中一泊し6月上旬に鹿児島石燈篭(いづろ)町の客屋(藩主所有の来賓接待所)に着いた。
村田新八、西郷隆盛、桐野利秋(中村半次郎)、篠原国幹、貴島清、伊地知正治、大山格之助(綱良)等他十数名が待受け、一介の書生の身に余る厚遇を受けて畏れ多い。
彼らと共に高千穂嶽に登り、栄尾(えいのお)温泉に浸かり、観光してまわった。
更に谷山村で遊び、秀頼公隠近所(大坂城から鹿児島に落ち延びた豊臣秀頼生存説がある)古墳で遺骨を見る時に、他藩から100人もの書生が来ても、ここに入るのは人見・梅沢の2人だけだと聞かされた。
そして村田が、若い薩摩藩士の中には人見らを西郷隆盛の暗殺が狙いだ誤解して危険視する者も居るのだと、一笑して物語った。

人見は加治木町の商家に寄宿して、鹿児島の文武を学び、鹿児島兵学校の生徒等と交流した。
この5ヶ月間の滞在で感じるところがあり(英学や英国技術を取入れ古くからの郷中教育にも培われた鹿児島の示教に触れたことにも拠るだろう)梅沢と共に人材育成の一の文武校の設立を考え、先に静岡へ帰ることを決める。

11月4日付けで村田を介して帰藩の餞別20円を受け、その翌日に村田が人見の寄宿先に来て、春日艦(薩摩の軍艦春日丸)を朝廷へ献納するため両3日中に上京する大山格之助の兵庫行きに便乗するという優遇を伝えた。
その夜、大山邸で催された格之助の送別会に人見と梅沢も招待され、西郷がナンコ(薩摩伝統の酒宴の遊び。敗者は焼酎を煽る)で幾度も酒を煽り、ついに酔い潰れた。
人見はかつての戦いを思い出し斃れた仲間達の追悼の感傷に浸る。春日の艦長は赤塚源六と聞いて彼を訪ね、箱館戦争で悩まされた敵艦春日丸に人見が乗船するという奇遇を談笑した。

7日に春日が桜島湾を抜錨し、強雨のため一夜を経て兵庫に着き大山と共に上陸。大山と静岡での再会を約束して別れた。
京で父母の元へ3、4日帰省し、静岡へ戻ると勝と大久保に面会して鹿児島での厚遇(それは勝らの計らいが大きい)を話した。また学校設立を陳述し許可を得る。

 

■集学所と賤機舎の設立
有渡郡大谷村(現駿河区辺)の瑞現山大正寺に集学所を開校。
主に戊辰・己巳の役で戦いぬいた旧幕臣達が入学し、総勢140~150名ほど。
士風刷新をはかり、文武両道、他藩士との交流に重点を置き、漢・英・仏・数学の学科とフランス陸軍式の教練を指導した。

山岡鉄太郎(鉄舟)に金策を断られた上に軽挙を戒められ、また人見と親しい雲井竜雄(くもいたつお。戊辰戦争中に新政府を薩長の地位向上に利用し恭順を示す幕府方も排除する姿勢を批判した「討薩檄」を起草した米沢藩士。集議院議員を辞職後に旧幕臣の失業対策に務めたが、政府への陰謀の嫌疑27歳で晒首処刑)が来て論議し人見へ忠告することもあった。

反新政と見なされるのは旧幕臣だけに留まらず、政府を恐れて処罰者の関与を避ける風潮の中でも弔おうとする人見であるが、伊藤俊介からも雲井と同じ嫌疑をかけられていると、忠告を受ける。
明治4年(1871)秋、夜に突然大正寺の堂が燃え、書類が消失してしまった。放火の跡があった。

集学所を失った人見は静岡学問所(明治元年10月に府中学問所として駿府城四足御門の元勤番屋敷[現静岡地方合同庁舎付近]に徳川家が開校。2年に改称)に勤務。学問所に設立された伝習所の米国人教師E. W.クラークと親しむ。

明治5年(1872)にアメリカ領事のC.O.シェパードが静岡茶栽培の視察に訪れた時、クラークが食事会に大参事や県役員を招く際に、人見を通して慶喜の招待を打診したが叶わなかった。
8月に政府の学制頒布に伴い静岡学問所が廃止。
人見は学問所の伝習所を私立英学校として受け継ぐ形で賤機舎(しずはたしゃ)を開き、明治8年まで学業・産業試作に尽くした。
賤機……駿府城のそばの浅間社の背に賤機山がある。ちなみに明治2年に徳川家が移封された駿河府中藩の字が新政府への「不忠」につながることから賤機山にちなみ「賎ヶ丘」と改称案が出たが賎の字を避け「静岡」に改めた経緯がある

 

■官界出仕
明治9年(1876)3月に内務卿大久保利通の推挙により七等判事に任じられ東京裁判所の民事課に務める。三田四國町1番地第八号
7月、茶葉栽培の経験を見込まれ大久保の依頼で内務省勧業寮に七等出仕
同時期の勧業寮に大鳥圭介が四等出仕(工部省工学頭兼製作頭兼任)している。
9月には農務課で動物・農具・開墾・製茶担当となっている。
製茶掛は各種類の茶と米国向けの無色茶試作や紅茶製法告輸書の頒布等を行う。

内務省に移ると、人見は内務小丞の品川弥次郎に声をかけられた。種々談話のあとで品川が「千金で譲るものが有るが君は必ず買うしかないだろう」と言うが、初めて会う品川の言う品物に人見に心当たりは無かった。誘われるまま車を連ねて富士見町の品川邸に至り、婦人に持ってこさせた楊行李の中の紙に包まれた品は──箱館の決戦で品川が拾った人見の指揮旗であった。品川の手厚い誼みにふれて涙がこみ上げた。
品川は箱館戦後にすぐドイツへ赴任することとなり、人見の旗を箱に入れたまま携帯して7年ぶりに帰国すると、計らずも内務省で人見と会見するに至ったのだ。実に奇縁なことである。
こうして人見と品川との交流が始まり敵と味方が時を越えて友情を深めたという。

また、鹿児島遊学中に親しくなった鹿児島県令大山綱良(格之助)と再会し、人見を鹿児島での仕官を誘われたが、明治天皇東北御巡幸に大久保と同行する予定が入っていたため都合が合わずに断った偶然によって、明治10年の西南戦争(大久保は西郷の鎮圧を指揮し、大山は西郷に官金提供した罪で処刑されることになる)の混乱を免れた逸話もある。
人見は「予 性頑鈍ニシテ 処世ノ術ヲ知ラス」と自伝の履歴書で頑固鈍感なたちゆえの処世術の無さを自嘲しているが、それは保身に走らず派閥を問わず人とすぐに親しくなれる人見の魅力でもあろう。

明治10年(1877)1月の官制改革で勧業寮が廃止し勧農局御用掛となる。3月、製造課で製茶担当。
明治11年(1877)3月御用掛准奏(月給八十円で変わらず)、動植課。
内務省勧業寮の官営模範工場の新町屑糸紡績所(しんまちくずいとぼうせきじょ。群馬県高崎市。生糸の生産時に出る屑糸や屑繭で作る絹糸である紡績絹糸の日本初の工場)の所長に赴任。

 

■茨城県令に就任
明治12年(1879)6月に茨城大書記官就任。従五位。
明治13年(1880)3月8日茨城県令(現在の知事)に就任する。
6月、箱根町早雲寺(神奈川県足柄下郡)に遊撃隊戦死士墓を建立。人見は戊辰戦争で散った仲間を偲んで各地の供養塔の建立に携わっている。

明治14年(1881)人見へ茨城県議会議員の広瀬誠一郎秋場庸利根運河開削を建議。
明治16年(1883)1月御雇オランダ人4等工師ヨハネス・デ・レイケが内務省から利根運河の実地調査を命じられ、人見らも同行。
明治17年(1884)5月に内務・大蔵・農商務の三卿に『茨城県五工事起業提言』を提出。
一、三ツ堀運河(利根運河)建設
二、涸沼~北浦運河建設
三、那珂川~久慈川運河
四、久慈川上流の整備(暗礁砕除)
五、那珂湊港の改修

この茨城各方面と東京を結ぶ三運河計画や水運地域の整備等、土木方面で茨城の発展を思案した人見は「土木県令」の異名を受けた。
この年、人見は製茶改良も諭告している。

明治18年(1885)6月17日、人見と千葉県令船越衛が江戸利根運河協議書に調印。
22日に築地の料亭隅屋で人見が会主として手打ちの会。昨年の加波山事件(かばさんじけん。自由党急進派が暗殺未遂事件を起こし茨城県加波山に立てこもる)で命を狙われた内務省土木局長三島通庸(この時栃木県令兼任。自由民権運動を弾圧していた)も同席。
7月8日人見が加波山事件の処理で責任を問われ茨城県令を非職となる。※正五位の地位はそのままで職のみの解任。

 

■利根運河会社社長となる
明治19年(1886)8月10日に広瀬が北相馬郡長を辞任し、下旬に東京都麻布の人見邸に訪れる。
※人見は大書記官時代から茨城県水戸(茨城郡常盤村1番地)に住み、取手の広瀬宅にもよく遊びに行ったが、その後麻布に転居した。

明治20年(1887)内務省から運河開削計画の中止を命じられ、広瀬は民間企業での開削をめざす。この時の人見は営利事業の関与に乗り気ではなかったが、千葉県令船越(当初は反対派であった)が麻布の人見宅を訪ねて説得し、会社設立に携わることを承諾した。

4月1日浅草の名倉屋で事業計画の打合せ会合。メンバーは●人見寧●広瀬誠一郎■秋場庸●色川誠一(創立メンバーが解離する中で長く運河事業に携わる。後に富士製紙常務取締役)●池田栄亮(千葉県会議長)●森隆介(茨城県会議員)■椎名半・関口八兵衛・笹目八郎兵衛。
人見・広瀬・色川は併せて利根運河の三狂生と呼ばることとなる。
10日発起人会を東京向島枕橋の八百松楼で開催。70名余りが集まり、来賓には内務次官、東京・茨城・千葉の知事等。
11日に広瀬は東京の京橋の木挽町商工会クラブで「利根運河創立協議会」を開催。
●人見●広瀬●色川●池田●森■高島嘉右衛門(大株主。後に高島易断で有名)、の6名が創立委員選出。
12日に日本橋蛎殻町三丁目の醤油会社内に仮創立事務所を置き、株式一株50円で株式申込受付開始。
13日に早くも目標の8千株40万円を集めて締切。
30日に創立事務所を日本橋区浜町2丁目11番地に移す。
5月9日に千葉県知事船越へ「利根運河開鑿願」を提出。
11月10日千葉県から「利根江戸両川間運河開削免許許可書」が交付される。
20日木挽町の貿易商会で株主総会を開き、役員を選挙。社長に●人見、筆頭理事に●広瀬、理事に●色川●池田●森(12月に辞任)、協議委員に■秋場■高島■椎名▲安田善次郎・秋元三左衛門・岡野寛・伊能茂左衛門・川村唯助・岩崎重太郎・茂木左平次が就任。
12月13日「利根運河会社」事務所を日本橋区浜町に設ける。
株主名簿に『人見寧 浅草区今戸町十七番地』の名がある。

明治21年(1888)3月17日江戸川口の本社(新川村深井新田290番地)を新築し千葉県に上申。
3月29日利根運河会社支社設立を東京府に届け出(浜町事務所の住所)
5月9日工事着手。デ・レイケの後任ムルデルが工事を監督。
7月14日運河開削起工式を本社にて挙行(内務大臣、東京都・千葉・茨城県知事等来賓)
30日に人見は会計検査委員の設置を建議。委員は▲安田・志摩万次郎(池田に代わりに理事。筆頭株主で二代目社長となる)・笠野吉次郎。

明治22年(1889)5月13日人見が神経痛を煩い社長を辞任。
明治23年(1890)3月25日に利根運河の営業を開始し、通船。
6月18日に深井新田の本社で総理大臣山縣有明、内務大臣西郷従道他政府関係者らが臨席で盛大に催された竣工式にて、帰国前にムルデルが送った祝詞に、工事の難航(運河会社役員の交送と金銭逗滞も含まれる)が述べられ、それらを乗り越えた結果と運河会社役員の英断を評価し、完成を待たずに社長を辞した人見についても「其の労を多謝す」と述べている。

明治25年頃、人見が発起人として台湾樟脳会社設立。
明治30年(1897)北海道開拓に関係。フラヌ原野(富良野)の区画開墾願に連名。
明治33年(1900)神谷傳兵衛(かみやでんべえ。人見とは茨城で誼があった)と共に民間初のアルコール製造を実現するため奔走。神谷考案の製法は馬鈴薯の澱粉粕から酒精を取るため、北海道の地を選ぶ。
11月、旭川に日本酒精製造株式会社を設立し、人見が社長に就任した。
人見は神谷の神谷酒造会社(茨城県稲敷郡・現牛久市の牛久ブドウ)開設にも関わっている。

──その他サッポロビールの重役を務め、石蝋会社等の設立にも関与するなど先見の明を発揮して、実業家として数々の成功を収める。
大正11年(1922)12月31日に麻布で死去。80歳。
遺言により生まれ故郷の京都出水千本の長遠寺に墓に葬られた。

長遠寺の人見寧が眠る人見家の墓所 長遠寺の人見勝太郎の墓

▲臨済宗相国寺派長遠寺の人見家の墓所
寧の死後10年程後に有楽町毎日新聞社勤務の孫の麟氏は千葉県柏市明原に移住。左写真の奥の新しい墓石は昭和47年3月に曾孫の陸氏が再建した。右写真、寧の戒名も彫られている

参考資料は数が多いので別途まとめる予定です。記事の無断転載・使用を禁じます。

士魂商才の小柳津要人

M35小柳津要人の写真 小柳津要人(おやいづ かなめ)
士魂商才」は、福澤諭吉が「元禄武士の魂を以って大阪商人の腕ある者、即ち西洋のマーチャント(商人)の風ある者は小柳津要人」と評している通り士魂商才の新語を創って小柳津にあてた、または丸善創業者の早矢仕が番頭の小柳津の人柄に対し表した言葉とも伝わる。
徳川の恩義のため戊辰戦争を戦いぬいた後、丸善と出版界の発展の大きな力となった小柳津に相応しい言葉である。

 

■岡崎藩の西洋流大砲方として江戸へ
弘化元年(1844)2月15日に三河国額田郡岡崎で岡崎藩士小柳津宗和の長男として出生。母は光子。
要人は小柳津家の九代目。

岡崎藩(5万石)は三河国額田郡岡崎(愛知県岡崎市康生町)の岡崎城(徳川家康の出生地)を居城とし、この時の岡崎藩の藩主は本多忠民(ほんだただもと。美濃守、中務大輔。万延元年/1860に老中)。
忠民の本多家は本多平八郎忠勝を租とし、徳川譜代の重鎮であったため、子弟教育は厳しく幼くして武士としての教養を身に付けさせていたという。
小柳津も本多忠勝の遺訓「惣まくり」を生涯の信条としていた(總捲、残らず論じる意味)

17歳で御料理の間詰として藩に出仕し、間もなく側役の御次詰となる。
この頃、先輩同輩と将来における洋学・漢学の是非を論じて小柳津は洋学を採る方針を固め、従来の武芸のほか洋式砲術も修練した。

文久3年(1863)3月、20歳でに岡崎藩西洋流大砲方として江戸詰を命じられ江戸に赴く。
江川英龍の「繩武館」に入り教授の大鳥圭介、箕作貞一郎(麟祥)に兵学・洋学の教えを受ける。
秋より幕府開成所に学び、英学得業士となって新しい知識を身につけた。

慶応2年(1866)4月に藩に呼び戻される。

 

■戊辰戦争では脱藩して箱根から箱館まで転戦する
慶応3年(1867)10月徳川慶喜上洛とともに岡崎藩本多家は伏見の豊後橋の警護を命ぜられる。14日に慶喜が大政奉還を上奏。
12月に小柳津は藩を脱して江戸に向かう。

慶応4年(1868)3月23日に藩主忠民は養嗣子の忠直(ただなお)を上京させ親子連盟の勤皇誓書を提出し恭順を示した。

徳川譜代の藩として恭順に対し反発も多く、小柳津は藩の上役で佐幕派である儒者の志賀熊太(重職。重昴の父)に血判状を提出し、脱藩する。
和多田貢ら岡崎藩士23名で林忠崇・遊撃隊らが宿陣する沼津香貫村に至り、5月6日に加盟。第三軍に編入される。
26日の箱根山崎の戦の撤退戦で小柳津は左の脛を負傷。
その後も奥州を転戦し、更に榎本武揚率いる旧幕府艦隊で10月22日に蝦夷鷲の木へ上陸。11月5日に松前を落とす。

明治2年(1869)正月の仏式改編で遊撃隊の差図役となる。新政府に対しての和解案は受け入れられず、掃討のため4月に官軍が来襲し11日札前村付近で戦闘後、木古内に引揚。
20日に木古内に官軍千人ばかり押し寄せ火を放つ。この戦いで伊庭八郎はじめ負傷者が多く出て泉沢まで撤退。立て直すも追撃はなく22日に五稜郭帰営。
その後も抗戦するも5月11日に総攻撃を受け遊撃隊は桔梗野口で戦い小柳津は負傷する。その後に遊撃隊は五稜郭の表門を守備につく。

18日に榎本らは謝罪を決め、箱館称名寺で謹慎。称名寺で一泊し、翌日病院へ。
7月3日に出院して弁天台場に謹慎。
9月1日土州蒸気船の夕顔丸に乗り翌日出航。風模様が悪く南部釜石港に翌朝まで錨泊。
5日に品川着。
その後岡崎脱藩士は岡崎に呼び戻されて郷里で謹慎となる。

 

■英学を修め慶応義塾を経て丸善商社に入社
明治3年(1870)3月に謹慎を赦され東京へ向かう。
その途次に静岡──駿府に移封となった徳川家が人材育成のため駿府の学問所(静岡学問所)や沼津兵学校など教育機関を設立認可し、かつての有能な幕臣達が教鞭を執っていた──で沼津兵学校で英学教授の乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)のもとで英学を修め、また外山正一(とやままさかず。後に文部大臣)の知遇を得る(金拾円の援助を受ける)

東京で大学南校(開成所跡に開校した洋学校)に学び、後に慶応義塾(福澤諭吉の築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に開いた蘭学塾が英学塾となり芝新銭座に拡大移転後慶應義塾に改称)に入る。

明治4年(1871)小柳津は藩の貸賃生であったが7月の廃藩置県に際し藩費が途絶えたので筑後柳河(福岡県柳川市)英学校の教師となる。
後に郷里の岡崎へ戻って英語を教授。

明治6年(1873)1月に横浜の丸屋に入り、書籍部門を担当する。
※慶応義塾生の早矢仕有的(はやしゆうてき。医師。美濃武儀郡笹賀村出身、幼名左京)が福沢諭吉の提案に基き明治2年1月1日横浜新浜町に和洋書籍と西洋医品を商う「丸屋」を創業。名義人を仮名の丸屋善八にしたため「丸善」と呼ばれるようになった。
小柳津について諭吉伝にも明治6年頃入社し丸善の基礎を成す大きな力になったことはその歴史上忘れるべからずものであろうと記されている。

明治5年11月9日に明治政府は太陰太陽暦から太陽暦(西暦、グレゴリオ暦)への改暦の詔書を発表し、明治5年12月3日を明治6年1月1日と定めた。
布告からひと月も満たない急な改暦に混乱する状況を見かねた福澤諭吉は太陽暦を庶民に受け入れやすく解説した『改暦辨』を急編。
改暦辨に明治六年一月一日発兌(はつだ、発行すること)とあるように短期作業のため三田の印刷所から刷りたてのバラ丁を丸善に運び小柳津ら社員大勢で綴じたという逸話もある。

9月9日に長男の邦太が生まれる。

明治9年(1876)8月7日に長女とくが生まれる。

明治10年(1877)3月大阪支店(北久宝寺町の丸屋善蔵店)支配人となる。
この頃から大鳥圭介・外山正一・志賀重昂など小柳津と面識や係りのあった旧幕臣の学識者の著作もしばしば出版されるようになった。

明治11年(1878)8月14日に次女の銈(けい)が生まれる。

※明治13年3月30日、東京日本橋通の丸屋善七店を本店とし責任有限「丸善商社」に改称。

明治14年(1881)5月12日に三女の京が生まれる。

明治15年(1882)7月に東京本店支配人となる。
旧岐阜藩士林有適らと丸善の経営改革、洋書の輸入に先鞭をつけ文明開化に貢献する。

7月に外山正一等の『新體詩抄』を出版。出版の相談を受けると小柳津が独断で丸善での出版を承諾。これが早々に売り切れるほど好評で多く売れたので「士魂商才」の商才…商売の道に誠実巧みな様子が窺える。

明治17年(1884)3月7日に次男の脩二が生まれる(田中家養子)
※この年、大蔵省のデフレーション政策により丸善銀行をはじめ閉店する銀行が相次ぐ

明治18年(1885)1月20日に銀行破綻の整理のため退任した早矢仕に代わり松下鉄三郎が社長に就任し、小柳津は取締役に選任される。
小柳津はこの丸善の危機に社長松下と供に社業の回復につとめた。

明治20年(1887)東京書籍出版営業者組合(後の東京書籍商組合)の創立の発起人に加わる。

明治21年(1888)12月18日の出版条例で奥付に実名が必要となったため、丸善出版代表者に小柳津の名を記載するようになる(退任する大正まで続く)

明治22年(1889)東京書籍出版営業者組合副頭取となる。

明治23年(1890)大日本図書株式会社創立に際し取締役

4月26日に4女の駒が生まれる※上に二人の夭折の兄あり

明治25年(1892)東京書籍出版営業者組合頭取となる(人望のためか明治42年まで在任)

明治26年(1893)丸善商社から「丸善株式会社」と改称。小柳津は取締役に選任。
2月27日に五男の宗吾(昭和5年~丸善監査役・15年~取締役・22年~社長となる)が生まれる。

明治30年(1897)専務取締役。

 

■専務取締役として丸善二代目社長の後を引き継ぐ
明治33年(1900)1月16日に丸善社長の松下が急逝し20日の取締役会で小柳津が後任に当選。三代目社長にあたるが定款により専務取締役として統括した。
2月25日に六男の六蔵が生まれる。

※明治34年2月3日に福沢諭吉、18日に早矢仕が死去。

明治35年(1902)5月7日 駒込メリヤス工場の名義人となる。
※この頃学校教科書の採用時の賄賂が横行し12月17日に関連会社が一斉検挙された「教科書賄賂事件」でも無関係なうえ新聞でも専務取締役小柳津の名が一度も出なかった。

昭和37年(1904)1月に小柳津は正金銀行が信用状を謝絶した事を銀行側に問いただしている。対露戦争に向けた資金を海外支店の政府の預金から引き出され為替金支払いの準備金が欠乏したためであった。2月に日露戦争勃発。
日本の連勝に国民の生活全般が軍国調になったが、小柳津が軍隊への献金・国債応募・軍人遺族の救済等日露戦争には協力的であった一方で「書籍の武装は断じてせず」と丸善店舗は通常通り文学や美術の良書を取り揃えていたたことを感心する声もあった。

志賀重昂が従軍記者として乃木軍中に在った『旅順攻囲軍』9月4日の項に、岡崎出身である第十一師団長土屋光春中将を訪ね、参謀長石田大佐の案内で戦線をめぐるった折に、露兵の落とした軍隊手帳2帖を贈られた。
日本兵なら軍隊手帳を落とすことは恥辱として肌身離さないが、露兵は複数人落としている。日本側は書きだしに天皇陛下より下賜された御勅論、以降軍人の心得を揚げるが、露側は全く精神上の教育について触れられていない。この比較は教育家として面白い倫理研究題材になるのではと、手帳の1冊を小柳津に贈りたい旨と小柳津の功績や人柄について語り合ったことが記されている。
土屋・石田・志賀の三人ともに小柳津のよく知る間柄である。

※明治41年4月5日に第一回名士講演会開催。講師に江原素六・海老名弾正。

明治42年東京書籍監査役に就任し帝都書籍界に重きをなす。

明治45年(1912)1月24日総支配人

大正4年(1915)3月31日 特別議員に推薦される。

大正5年(1916)1月24日に総務取締役を辞任し、相談役に就任。

大正8年(1919)6月に軽度の脳溢血を病む。

大正11年(1922)6月21日東京で死去。79歳。菩提所は谷中の加納院、おくつきは青山墓地。

※明治5年までは旧暦表記です

▼青山霊園(東京都港区南青山二丁目)の小柳津家の墓と側面

小柳津家の墓 墓石側面

参考図書
・『丸善百年史
・『三百藩戊辰戦争事典上
・須藤隆仙『箱館戦争史料集
・『丸善外史
・『岡崎商工会議所五十年史』
・小柳津要『遊撃隊戦記』
・富沢淑子『小柳津要人追遠』
・『慶應義塾百年史』
・福沢諭吉『改暦弁』
・志賀重昂『旅順攻囲軍』
関連・参考サイト
・丸善株式会社Webサイト:http://www.maruzen.co.jp/top/
・慶應義塾:http://www.keio.ac.jp