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貫義隊「浅野さま」の祠が倒壊しています

吾妻の浅野様の祠

戊辰の役で、木更津の地元で最後の義軍として貫義隊を結成して官軍に抗い敗れ、晒し首にされた浅野作造頼房を弔い、その後もはやり神として信仰された「浅野さま」の祠です。

首が埋められた吾妻神社の東の場所から、現在の地(木更津自衛隊前)に移された当初はもっと小さな石祠で、近年石祠を安置する殿舎に建て直されていたのですが、現在樹木が伸び放題で背後の木が倒れて押し潰されていました。

樹木の倒壊は道路には影響は無く(祠が身代わりになってくれたとも言えます)、逐一連絡をするのは喋々しいかもしれませんし、私ができることは末梢的ながら1人でも多くに大事な祠であると知ってもらうことでしょうか。
取り急ぎ、貫義隊関連をまとめたいと思います。

幕末の佐貫藩

佐貫城址 佐貫城跡案内板

佐貫城跡の入口
上総国天羽郡佐貫(現在の千葉県富津市)の地は康正2年(1456)に真里谷武田氏が領有し、城(亀城)を文亀・永正年間(1501~21)に築城したとされます。※文安年間に長尾氏、応永年間に武田氏の築城説有
天文年間(1532~55)に里見氏の居城となり、一時は対岸の北条氏に勢力を後退させられますが、永禄10年(1567)の三舟山合戦で里見義弘方が勝利して子梅王丸が入城します。

天正18年(1590)徳川の支配地となってからは徳川家臣の内藤家長が城主となります。
政長忠興と続いて内藤家は元和8年(1622)に陸奥国磐城平藩(いわきたいら。福島県)へ転封となります。

10月に松平忠重(桜井松平氏)が入りますが寛永10年(1633)に駿河田中城へ転封となり、翌年から佐貫領は幕府天領として幕府代官熊沢佐衛門佐が支配します。

寛永16年(1639)より能見(のみ)松平氏の松平勝隆(寺社奉行兼奏者番)が城主となり、次の重治が貞享元年(1684)に会津若松に幽閉され改易となり、会津藩預かりとなります。領地は代官池田新兵衛、次に平岡三郎佐衛門が支配しました。

元禄3年(1690)に柳沢吉保(よしやす。第5代将軍徳川綱吉に重用され宝永3年に大老格にまで昇進)が佐貫領を与えられ、元禄7年(1694)正月7日に武蔵国川越に移った後は廃城となり、領地は代官川孫右衛門、樋口又兵衛が支配しました。

その後、阿部家初代佐貫藩主となる阿部正鎮(まさたね、因幡守のち民部少輔)が宝永7年(1710)5月に三河国刈谷(かりや。1万6千石)より上総国佐貫へ移封となり、天羽・長柄郡内に1万6千石を領して8月に移り、正徳4年(1714)佐貫城を再興します。
少年藩主であった正鎮は移動の行列には加わらず享保4年(1719)4月4日に佐貫城に入りました。
享保9年(1724)2月に大坂加番となり宝暦元年(1751)11月4日に52歳で逝去。浅草東光院に葬られました。法名は了義院殿即峯玄性大居士。

 

幕末の最後の藩主は、阿部家第8代佐貫藩主の正恒(まさつね、幼名倫三郎)です。
天保10年(1839)9月29日に江戸で阿部家第7代佐貫藩主正身(まさみ、駿河守)の子として出生しました。
※余談ですが佐貫の宮醤油店は天保5年創業です。
正身は天保13年(1842)に池之台大坪山に砲台を築いて海防にも努めました。弘化4年(1847)5月22日に大砲の試放も行っています。

安政元年(1854)7月3日に妾腹の正恒を嫡子とする届出をし、25日に父正身が病気を理由に隠居(元治元年7月3日に「菊山」と号します)、正恒は27日に家督を相続、12月16日に諸大夫・因幡守となりました。
安政2年(1853)5月佐貫へ始めて入部します。
安政6年(1859)8月16日に竹橋御門番、12月1日に江戸城本丸普請に金八百両上納。
文久元年(1861)2月5日に大岡越前守代として大坂加番を仰せつけられ、翌年帰り屋敷替。
文久3年(1863)9月2日に日光御祭礼奉行代を務めました。11月3日には新徴組の1人を佐貫藩が預かっています。
元治元年(1864)7月3日に駿河守に改めました。12月2日に佐貫藩で天狗党の水戸浪士の一部を預かり、負傷者の治療にもあたっています。獄中の水戸浪士の博学な講釈では佐貫藩の藩校「誠道館」にも影響を与えたといいます。

 

慶応4年(1868)の戊辰戦争時には徳川譜代の阿部家家臣は佐幕に傾いていましたが、文久の頃に京・大坂へ赴き情勢を知っていた勤王派の歌人相場助右衛門の説得で藩主は尊王を採りました。
佐幕派の家臣たちは相場の行動を専権犯上の行為と見て相場の排除を企てます。
4月28日午後3時頃、大手下馬先の林藪中に潜んで、清水坂を下って帰宅中の相場を狙撃。胸に被弾した相場は屈せずに傷口を押さえながら抜刀して応戦しますが、手負いの上に多勢が相手、遂に斃れました。
相場の墓は花香谷の安楽寺にあり、近年顕彰碑が建てられました。
加害者の佐幕派藩士31人はその後、忠義からの行いとしてお咎めはありませんでしたが、相場は阿部家からの養子を戻されてお家断絶・一家追放という重い処分を受けました。つらい仕打ちに相場の妻の寿美子は二年後の明治3年に48歳で自害したようです。

続いて佐幕派の家臣達は、木更津に駐屯していた旧幕府脱走の撒兵隊(さっぺい、さんぺいたい。房州では自ら義軍府と名乗りました)に数十人の援兵を出しました。

閏4月3日に請西藩藩主林忠崇の請西兵と旧幕府親衛隊の遊撃隊が真武根陣屋を出陣し、富津陣屋に協力を強談した際にも、撒兵隊(第四・第五大隊が真里谷駐屯)と佐貫藩兵41人が参加し、共に包囲しています。
佐貫藩でも、その後南下した請西・遊撃隊が訪れた折に金三百両と兵器若干を提供しました。

その頃撒兵隊第一・第二大隊は3・4日に下総国の市川・船橋等で東海道先鋒総督府の軍(新政府側の軍)に敗退し、総督府軍は5月に東の佐倉そして7日には沿岸の上総国に進み五井・姉ヶ崎の撒兵隊第三大隊を破って南下します。
撒兵隊も敗走して士気が落ちた木更津・真里谷駐屯中の佐貫藩兵は8日には撤退しますが、既に林請西兵と遊撃隊軍は6日に佐貫を去った後でした。
もぬけの殻となった木更津を出発した総督府軍が迫ると、佐貫藩は佐貫城を放棄して恭順の意を示します。
14日に入城した総督府軍参謀渡辺清左衛門(大村藩士)は、佐貫藩による富津陣屋襲撃と、先に新政府が佐貫藩に官軍を援け賊徒の警戒を命じていたにも関わらず主従が城を放棄し空にしたことを咎めます。
午後に藩主正恒は城郭と武器弾薬を明け渡し自らは花ヶ谷村(花香谷)の勝隆寺に籠居となりました。
翌日総督府軍は引き揚げ、城郭と領土は佐倉藩の管理下に置かれました。

5月18日に貫義隊が佐貫城を夜襲し、佐倉藩士の小谷金十郎・三浦蔵司が戦死しました。三宝寺に二人の墓があります。
25日に正恒は佐倉藩と協力して賊徒を追討することを贖罪として総督府へ願い出ますが、聞き入れられませんでした。
7月11日に花ヶ谷村の円龍寺で謹慎中の父が50歳で死去。同村の勝隆寺に葬られました。法名は大成院殿光誉正身菊山大居士。

10月7日に藩主正恒の謹慎が許され、明治2年(1869)6月17日に版籍奉還、22日に正恒は佐貫藩知事に任じられます。
明治4年(1871年)5月に佐貫城は廃城となりました。6月22日に東京の外桜田邸の引渡しを命じられ8月8日に引渡。7月15日に正恒は廃藩置県で藩知事を免職され、華族令によって子爵に叙せられました。
明治32年(1899)に従三位に叙されますが、10月6日に死去。享年61歳。勝隆寺に葬られました。

勝隆寺佐貫藩主阿部家の墓所 佐貫城主阿部家累代の墓側面

勝隆寺佐貫城主阿部家累代の墓(八代阿部正身・九代正恒・十代正敬家族)
※奥の正身・正恒の墓は別途紹介します

佐貫城址の様子

佐貫城跡の名標には阿部家の家紋、丸の内右重鷹羽(丸に違い鷹羽)
戦国(里見・北条)時代~の佐貫城は後々別途記事にします。
幕末についても、もう少し佐貫藩側に立った視点で調べてみたいところです。

所在地:千葉県富津市佐貫字城跡1217-1他