坦庵と幕末維新時の江川太郎左衛門

伊豆韮山代官(にらやまだいかん)は江川(えがわ)家の世襲代官で江川太郎左衛門の名を引き継ぎ
坦庵は韮山代官8代目にあたる。

江川英龍
■36代英龍(ひでたつ。坦庵/たんなん)
芳(よし)次郎、後に邦次郎。字は九淵(きゅうえん)、号は坦庵。
享和元年(1801)5月13日に江川英毅(ひでたけ)の次男として誕生。母は安藤氏。兄の英虎が早世したため嫡子として文政7年(1824)3月22日に代官見習いとなる。
天保6年(1835)35歳で家督を継ぎ韮山代官となる。
幕末の激動期に西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産、西洋式築城術を用いた台場の設置、海軍の創設、西洋式の訓練を施した農兵制度の導入、種痘の実施、兵糧パンの製作等、軍事、海防、外交、医療、教育など様々な面で業績を残した。
安政2年(1855)1月16日腸胃性僂麻質斯(リウマチス)熱で江戸屋敷にて没。享年55。
坦庵の死を水府(水戸)烈公(徳川斉昭)は「一方(ひとかた)の長城を亡くした」と悲しみ、老中阿部正弘は「空せみはかぎりこそあれ真心に 立てしいさをは世々に朽せじ」と歌いその功績は不滅であると称した。法名修功院殿英龍日淵居子。菩提寺は本立寺

江川坦庵略年譜 江川坦庵をめぐる人々

▲坦庵の略歴と周辺人物(韮山反射炉展示パネル)

 

江川英敏
■37代英敏(ひでとし。保之丞)
天保10年(1839)英龍の三男として生まれる。母は北条氏。
安政2年(1855)坦庵の死により16歳で代官見習となる。
5月9日韮山代官となる。鉄砲方を兼ね、英龍の事業を引き継いだ。
芝新銀座に韮山塾を再開させる。
8月4日濱苑で将軍家定が英敏の砲技を観る。以降も折々で老中・若年寄等の前で大小砲調練を行い、諸藩の砲術精励にも寄与した。
安政3年(1855)3月1日講武所の砲術教授方を任じられる。
9月25日幕府に韮山型造船の功、12月24日に大砲鋳造の功をを賞される。
安政4年(1856)佐賀藩の協力を得て韮山反射炉が完成する。
代官になった時の支配地は伊豆・駿河・相模・武蔵の7万4千石と当分預所1万4千石余で、この年には10万石となった。
安政6年(1859)7月13日幕府に野戦連砲鋳造・車台等製造の労を賞される。
文久1年(1861)5月29日部下の鉄砲組を率いて東禅寺の警衛に加わる。
7月8日幕府に銃製造等の功を賞される。
10月関東八州と駿河・遠江・参河諸国に農兵制の創立を幕府に建議する。
文久2年(1862)8月26日小笠原島が管轄となり、八丈島の住民30余人を小笠原島に移す。
文久2年(1862)12月16日に在職7年で病死。享年24。法名総達院英敏日恵。
※英敏の写真は中濱萬次郎(ジョン万次郎。漂流し米国から帰国後に江川家配下)の撮影

 

江川英武
■38代英武(ひでたけ。籌之助。号は対岳亭・春禄)
嘉永6年(1853)4月5日英龍の五男として誕生。
文久2年(1862)兄英敏に嗣子がなく養子として跡を継ぎ、10歳で韮山代官となる。
元治1年(1864)7月30日幕府の大小砲製作場の改革で、英武は製造御用を罷免。
慶応2年(1866)11月18日幕府は講武所を陸軍所と改め、英武は鉄炮方から陸軍所教授方頭取となる。
慶応4年(1868/明治元年)1月6日幕府は農兵を編して、英武は伊豆の警守を任じられる。
2月3日東海道鎮撫総督府に管内の地図・戸籍等を督府へ提出するよう命じられる。
2月21日藤川駅へ参じて勤王の意を表す。徴兵の命令は辞した。
3月25日(4月7日)英国公使の来謁に対し英武は熱海の警守を勤める。
閏4月17日大総督府は英武に旧幕府付に託されていた鉄砲を品川に送致させる。
5月5日大総督府は宇和島藩士林玖十郎通顕を参謀とし、軍艦として鳥取藩士中井範五郎正勝・佐土原藩士三雲為一郎種方を伊豆・相模に向かわせる。
(下総・下野へ佐賀藩士島団右衛門義勇、沼津へは大村藩士和田藤之助勇が向かう)
関東監察使府は林忠崇請西藩兵・遊撃隊らを管内に進入させた英武と小田原藩主大久保忠礼の罪に対し、範五郎等と協力して功を立てることで報いさせた。※箱根戦争

5月8日天野八郎らと袂を分かち彰義隊を離れた渋沢成一郎らが「振武軍」を名乗り、英武の管地の北多摩郡田無村(東京都西東京市。青梅街道旁近)の西光寺を本陣とした。英武は先鋒総督府に書面で「振武軍と称するもの」の結集を報告。
15日の上野戦争で敗走した彰義隊の残党が田無村で振武軍に合流し17日に飯能(はんのう、埼玉県)へ移動。
20日大総督府は福岡・久留米・大村・佐土原四藩兵に振武軍らの討伐を命じて下参謀渡辺清左衛門に率いさせ、英武に糧食を掌らせた。
23日に交戦し数時間で振武軍ら潰走。
※飯能戦争

5月23日甲斐鎮撫府は沼津・高遠二藩兵を箱根に発遣し沼津軍監和田勇の指揮で遊撃隊らを討たせ、中津・高島二藩兵に甲府城と原村を警守せさせる。
5月24日甲斐鎮撫府は参謀助役伏谷惇に松代・浜松二藩兵を率いて箱根へ赴くよう命じ、英武と沼津藩は久世三四郎に其糧餉丁馬を弁給させる。
5月29日遊撃隊らの残党が伊豆網代村傍近に屯拠する報に対して大総督府は英武に追討を命じる。
※箱根戦争

6月10日箱根・品川間の糧餉伝逓(戊辰戦争での官軍の食料の輸送)を任せられる。
6月29日韮山県が置かれ、江戸鎮台府は英武に旧地の韮山県の管理を任じる。
9月18日伊豆国賀茂郡毛倉野金山の開鉱のため鉱山司との協議を命じられる。
10月7日明治天皇の車駕の御東幸で三島駅に至り、英武の速やかな帰順と忠勤を褒められ、江川家の由緒書きを上らせた。翌日、余興として箱根湖上の水鳥を小船から二十間の距離を西洋銃で見事撃ち落して喜ばせた。
10月20日英武は箱根・平塚二駅間の餽餉伝逓管理を罷め、小田原藩が受け持つ。

明治2年(1869)6月10日韮山知事となり翌月更に韮山県権知事(ごんちじ)となる。
明治3年(1870)6月に正六位に叙せられる。
明治4年(1871)7月に米俸28石下賜され東京府、海軍省に所属。
8月13日に肥田濱五郎(江川家手代見習、造船頭。後述の岩倉使節団で理事官)が木戸孝允(桂小五郎)に、英武が洋行の意思があると伝えた。
若くして韮山知事となり良い統治を朝賞された英武への嫉妬を避けるため柏木忠俊(かしわぎただとし。江川家手代の家柄で、江戸詰として坦庵の頃から江川家を補佐した。韮山県大参事、足柄県令)が木戸に相談し、肥田と斉藤篤信斎(江川家まとめ記事参照)が洋行を斡旋したという。
11月12日に岩倉具視を正使とした欧米出張使節団に英武も留学生として従い横浜出航。
12月6日カリフォルニア州サンフランシスコ到着。

明治5年(1872)1月21日ワシントンに至り滞在。
2月にニューヨーク州ハイランドフォールズ普通学校入学。
明治6年(1873)9月にピークスキル普通中学校へ進学。
明治7年(1874)4月に帰国命令が出たため海軍省を辞めて自費で留学。
明治8年(1875)ピークスキルで級長となり優等生として表彰される。
9月ペンシルバニア州ラフィエット大学に入り工学を修めた。
明治11年(1878)テクニカル部門、数学賞で20ドル授与。
2月20日ジュニアコンテストでスピーチを行う。
明治12年(1879)7月工学部を優秀な成績で卒業。
10月に帰国。
明治14年(1881)7月に内務省御用係となり月俸40円下賜。取調局事務長となる。
明治16年(1883)8月に大蔵権少書記官として大蔵省に奉職。
明治17年(1884)9月に大蔵省造幣局勤務議案局兼務。
明治18年(1885)5月に大蔵省造幣局大阪出張所長となる。
明治19年(1886)1月16日非職となり2月に退職。
官僚を辞め郷里伊豆に戻った英武は、4月に町村立伊豆学校の校長となった。留学経験を生かし英学を中心に教育に力を入れる。
明治20年(1887)12月に伊豆学校の廃止により私立学校(韮山高校)創立。
明治24年(1891)校長辞任。
その後も韮山周辺の教育斡旋や被災地の寄付をし地域に貢献した。
昭和8年(1933)10月2日没。81歳。

参考図書・文献
・米山梅吉『幕末西洋文化と沼津兵学校 (1935年)
・妻木忠太『木戸松菊公逸話』
・『Lafayette College Journal』
・『Bulletin of Lafayette College』
ほか江川文庫資料、韮山郷土資料館、韮山反射炉パンフレット等

■■韮山代官江川家と担庵■■

江川邸と韮山代官所

江川邸枡形 江川邸案内板

重要文化財指定の江川家住宅の敷地は11873㎡もある。
右写真は城郭の虎口にあたる枡形。江川邸では代官が外出する際にここで人員を揃え、幕末には農兵の訓練場に使われたという。
農兵の軍事調練に用いられた「右向け、右」「気をつけ、前へならえ」などの鋭音号令は、オランダ式の号令を江川英龍(担庵)が翻訳させ、日本人に分かりやすいよう工夫したもの。

江川邸表門 主屋玄関ときささげ

表門主屋玄関
表門は元禄9年(1696)建築、文政6年(1823)修復の薬医(やくい)門。
主屋は552㎡あり桁行13間(約24m)梁間10間(約18m)棟高約12m。室町時代創建部分と江戸時代初期修築部分が含まれる。近年銅板に葺替えられる前は瓦葺屋根だった。
手前に北条早雲が植えた伝承もある豇豆(きささげ)の古木。

韮山屋敷鳥瞰図 韮山代官役所跡

江戸末期の江川邸役所跡
韮山屋敷鳥瞰図」は明治期に家臣の前田甲龍が万延元年頃の様子を回想して描いた図。
主屋北側辺りに韮山代官所の役人が政務した茅葺平屋の建物が在った。現在は梅林になっている。
他にも江川邸周辺には役人達の住む長屋や番人小屋、厩、牢屋など様々な建物があり、韮山代官役所として一体的に機能していた。

維新後も明治元年(1868)6月29日~4年11月の廃藩置県までは韮山県の県庁舎、9年の足柄県廃止まで足柄県韮山支所、12年まで静岡県韮山支庁舎として地方行政を担った。
官舎のあった場所は現在郷土資料館と民家になっている。

主屋へ 江川邸主屋土間の中

▲主屋の土間
土間(どま)は50坪程の広さがあり、天井板が張られていないため主屋の大屋根を支える豪壮な架構(かこう、小屋組)が見上げられる。高い位置に棟札箱が置かれている。

主屋土間の生き柱 ボートホーウィッスル砲車

東側の生き柱は地中深くまで続いており、江川家の移住時から生えていたケヤキの木をそのまま柱として利用されたと考えられ長年大切にされた。敷台に室町時代の掘立柱と判明した柱根が展示されている。
竈の横に幕府に献上された「ペリーの大砲」アメリカ製のボートホーウィッスル砲車(上陸舟艇用の小型砲車)と砲弾が展示されている。砲身は複製。

江川邸の塾の間 担庵の忍の字

塾の間と坦庵の座右の銘「
江川邸主屋土間側東北の18畳の部屋(玄関右手)が英龍の「韮山塾」と呼ばれた「塾の間」で江戸の江川塾を含めた生名簿もある。
江川塾には佐久間象山英敏の代には大山巖、黒田清隆ほか多くの優秀な人材が集った。

坦庵の母久子は芳次郎(坦庵の少年時代)の優秀なあまりの血気盛んな性格を戒めいたが臨終に際して「忍」の一字を書いて与えられてからは坦庵の座右の銘としてこの一字を書いた紙を肌身離さず所持した。

江川邸の蔵 江川邸武器庫

西蔵・南北の米蔵武器庫
西蔵は幕末頃の建築で四方の壁がわずかに内側に傾いた「四方ころび」という技法で造られている。正面から見ると将棋の駒のような形なので「駒蔵」とも呼ばれる。軒の屋根が瓦でなく伊豆石で葺かれているのも特徴的。

写真奥に並ぶ手前の南米蔵は明治25年(1892)隣の北米蔵は大正18年(1919)建造。
武器庫は幕末に造られ、火器や火薬の原料(硝石・硫黄・松ヤニ)等が保管された。

米蔵内は資料展示 韮山竹 木馬

▲南米蔵の展示品は民具や調度品が中心。
米蔵は展示スペースとなっており裏門側の郷土資料館(共通券あり)とあわせて多くの展示物が見学できる。木馬までありここに載せきれません。
千利休が園城寺(三井寺)の割れ鐘に見立てて作り豊臣秀吉に献上した花筒の「園城寺」が江川邸の竹を用いたことから韮山竹が著名になった。

1軍用銃 大筒と着発弾 木筒等

▲北米蔵は火器類の展示や反射炉や品川台場の資料解説等。
担庵は軍用銃の改良にも勤め、画期的な着発弾(着弾と同時に破裂する弾)なども開発した。
展示品としておなじみ韮山笠をはじめ、火縄銃、ゲベール銃、砲身螺旋切り台、木砲、大筒、その他野戦砲やモルチール砲の小型模型、砲弾、大砲鋳台道具等が並ぶ。

井戸 江川邸裏門

井戸裏門(北門)
江川氏は大和国宇野より酒造技術をもって韮山に到ったとされ、元禄年間(1688~1703)頃まで江川酒と呼ばれる銘酒を造っていた。
江川家15代英治が北条時頼に献じ、18代英住の子正秀が北条早雲より江川酒の名を賜ったと伝わる。
徳川家康が伊豆国での鷹狩りで献上された江川酒を賞美し、江川屋敷内の井戸む図が軽い味わいで酒に合うと褒め、自ら河原の野菊を下し家紋とせよと言ったことから、それませの「五三の桐二つ引紋」から「井桁菊紋」に改められたという。
井戸の向こうにパン租の碑。

裏門は古くは茅葺屋根で、文政6年(1823)建築だが門扉は更に古く天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで韮山城が包囲された際に砦の一つであった江川曲輪当時のもので、多数の穴はその時に受けた鉄砲玉や鏃の跡だとされる。

・韮山邸(史蹟韮山役所跡)所在地
静岡県伊豆の国市韮山韮山1番地
・重要文化財「江川家住宅」サイト:http://www.egawatei.com/

韮山城址の城池
▲韮山城址の城池

■■韮山代官江川家と担庵■■

韮山代官江川家と担庵

本立寺の江川担庵像 韮山反射炉

韮山まとめ。いずれ江戸版も…
江川邸と韮山代官所 – 重要文化財「江川家住宅」
幕末維新時の江川太郎左衛門 – 最後の韮山代官
本立寺 – 江川家の菩提寺
パン祖のパン – 「パンの祖」坦庵の兵糧パン
韮山反射炉
 └反射炉敷地内の記念建立物等 – 臼砲や記念碑など

江戸時代、伊豆の国市域の村々の多くは、幕府直轄領や旗本領となっていました。
勘定奉行の下で、幕府直轄領の支配を担当したのが韮山代官です。
韮山代官の職は代々江川氏が世襲していました。その支配地域は時期によって異なりますが、概ね現在の静岡県東部・伊豆地方、神奈川県・東京都・埼玉県・山梨県にまたがる広い範囲に分布していました。

歴代の韮山代官で最も有名なのは幕末に活躍した江川太郎左衛門英龍(ひでたつ、担庵/たんなん)です。
英龍が代官となった当時は、天保の飢饉によって各地で一揆や打ち壊しが頻発するなど、非常に困難な時代でした。しかし英龍は巧みな行政手腕によって支配地の村々を立ち直らせることに成功しました。
彼はまた、幕末日本の海防政策にも大きな業績を残しています。西洋砲術の普及、鉄製大砲鋳造用の反射炉建設、江戸湾内海の台場建造、農兵制度採用の建言など、その仕事は明治維新後の日本の近代化にもつながる先進的なものだったのです。(韮山郷土資料館リーフレットより引用)

江川太郎左衛門英龍担庵肖像 担庵直筆の絵画と世直大明神札

江川英龍の肖像と直筆の絵画(江川家住宅展示品)
『富士画賛』里はまだ夜深し富士の朝日影
『甲州微行図』韮山代官管轄地に一揆・打ち壊しが横行する農民の状況把握のため、天保8年(1837)8年3月頃に江戸の剣豪斎藤弥九郎と供に刀剣行商人に扮装してひそかに視察に回った当時を思い起こしたもの。視察の結果、打ち壊しの鎮静や窮民援助を積極的に行い窮民の援助に勤め結果を出したため領民に「世直し江川大明神」と敬愛された。左下が世直江川大明神のお札。

 

■江川英龍関連書籍 ※Amazonへのリンクです
・江川文庫『勝海舟が絶賛し福沢諭吉も憧れた幕末の知られざる巨人 江川英龍
・仲田正之『実伝 江川太郎左衛門』『江川坦庵

体調回復してきたぞ

靖国遊就館の零戦

▲おなじみ遊就館の零戦五二型(靖国神社/東京都)

インフルエンザ後の体調不良、検査をしたら専門医の治療が必要な疾患と分かりかなり危ない状態でした。
ようやく動けるようになったので休んでいた間のことをひたすら消化中です。
趣味に時間をかけられるのはいつになることやら…

呉・江田島や横須賀等の海軍関連の写真もストックが溜まる一方なので早くまとめたいなあ。

享保の打ちこわしに遭った高間伝兵衛

高間橋西向き 高間屋敷方面

▲周淮郡常代村(君津市常代)に屋敷を構えた高間傳兵衛(伝兵衛)に因む高間橋
高間橋がかかる宮下川の西、右写真方面に12町歩(発掘調査では屋敷全体は1586坪)もある高間屋敷があった。
俗謡「あんば常代高間どんすぎなりお笠で紙鳶揚げるお雪さんに見せよと紙鳶揚げる」は敷地内の4反歩もの大きな池に屋根船を浮かべて愛妻(もしくは妾)を乗せ、舟から紙鳶(たこ)を揚げて喜ばせたという豪勢な様子を歌ったものと伝わる。
※上総国(かずさ、千葉県)周淮(すえ)郡周南(すなみ)村は明治22年の町村制施行で常代(とこしろ)村等周辺の村々が合併。その後周淮郡は君津(きみつ)郡となる

 

高間伝兵衛は、米将軍と呼ばれ享保の改革を行った第8代将軍徳川吉宗、将軍を支え江戸の町から米価引下げの懇願を引受ける町奉行大岡越前守忠相らのもとで米方役に任命され米価調整を担った豪商である。
※米方は御蔵渡り米を領査し、札旦那御入米拂米を定め、請取方賈方に取り扱わせ指図し、米代金を領収する。
米価が上がれば手持ちの米を安く売り、米価が下がれば大量に買い入れることで相場を安定させた。
武士の役人だけでは捌けず、伝兵衛のような商才ある町人を抜擢したのだろう

元禄16年(1703)6月付けで周淮郡(君津市)の猪原村と市場村の名主が伝兵衛に宛てた請求書が残されていることから、初代から数代の間の伝兵衛(代々「伝兵衛」を名乗っていた)は周淮で米穀を扱い、年貢・俸禄米を担保にした貸付やを行っていたと推測されている。
享保(1716~)初期には江戸に出店し、日本橋伊勢町(東京都中央区日本橋本町1丁目。橋の日本橋の東)に24棟の米蔵(出入口が1棟に2つ有り、いろはの48組の符号がついていたためか48棟の記述も多い)を持ち、側の本船町に「高間河岸」を設け、て大いに繁盛した。

江戸橋 木更津河岸と高間河岸

高間河岸の位置と現在の江戸橋
日本橋と下手の本船町にかかる江戸橋との間の南岸の土手倉(防火のため東西二町半に、石を畳揚げて屋根で覆った封疆蔵が置かれていた)が並ぶ四日市の西側に幕府に認められた木更津河岸があり、廻船の五大力船(ごだいりき。木更津船)が行き交っていた。上総との運送が盛んな所である。
※現在の江戸橋は昭和2年の昭和通り開設で90m程上流に移っている

 

享保15年(1730)9月12日、豊年が続き米価の下落を止めるため幕府は伝兵衛他8人の米殻商に上方米(かみがたまい)の独占取引権を与え買入れされる。

享保16年(1731)に幕府は米殻商へ安売りを禁じる。
7月に幕府は米方役の伝兵衛を大坂に派遣し買米(かいまい。幕府の買い上げ)、二付銀子を被下。

享保17年(1732)享保の大飢饉。夏に西日本が冷害に見舞われ蝗が大発生し、翌年まで餓死者が相次ぐ。
幕府が昨年買入れた米や東国産の米を西国に送り救援したため江戸でも米不足となって米価が上がり、庶民が困窮した。

享保18年(1733)1月23日、伝兵衛は高騰した米価を下げるため幕府に安価で備蓄米二万石を府下に売りに出すことを願い出て、許される。

しかし江戸市人は「米価が昂騰したのは、幕府と癒着した米商の高間傳兵衛が府内の米を大量に買占めて蓄えているせいだ」と噂を立てた。

世相を伝兵衛と大岡越前にかけた狂歌

「米高間 壱升貮合で粥にたき
 大岡食はぬ たった越前」

米が高く(高間)て銭百文では一升二合しか買えないのでお粥にしたが
多く(大岡)食べられず、たった一膳(越前)だけだ

実際は伝兵衛の備蓄は米価調整のためであり、23日の行動からすると私欲で溜め込んでいたわけではなかったが、米方役として米価を左右し江戸吉原を3日間貸切るという豪遊も伝わる富んだ伝兵衛に対して庶民は「私欲で米穀を買占め高値で売っている」と疑っていたようだ。

そして26日の夜、町民達が1700人あまり(4千人と記すものもある)集まり党を結び、伝兵衛の本船町の店(たな)を襲撃して打ちこわしを決行。家財は砕かれて前の川へ捨てられた。

町奉行が属吏等を出動させてようやく騒動を鎮め、打ちこわしを先導した首魁を捕らえた。
首魁4人のうち1人を重遠島、3人を重追放とした。

この日、高間一家は母の住む上総周南の高間屋敷に居たため暴動に直面するのを免れた。
伝兵衛は打ち壊しに遭いながらも翌月には、米二万石を五升安で売却することを上申している。

…この高間騒動は江戸で初めての打ちこわしともいわれる。打ちこわしは幕府権力への反抗と悪徳商人の摘発を目的にしたため、現代の時代劇などでは伝兵衛が噂通りの悪い商人として描かれることが多い。
また講談「姐妃の於百」歌舞伎「善悪両面児手柏」等で毒婦として着色されたお百は『秋田杉直物語』で、お百=おりつは宝暦7年(1758)の秋田騒動で夫が仕置きとなった後に、高間伝兵衛の甥の高間磯右衛門の妾になったとする。

 

享保20年(1735)7月19に伝兵衛が病死。代替わり上申。
11月に新しい代の高間伝兵衛が米方役に任命される。※以降の記事は跡を継いだ伝兵衛の事

延享元年(1744)米価が下落し、米価引上げのため107人の米殻商に買米を10等級に分けて割り当てた。伝兵衛は最高等級の5万石である。

延享4年(1747)播磨明石藩蔵元となる。

この頃財政難の播磨姫路藩の松平家は「姫路藩の大坂廻米の売却を許す」条件で伝兵衛に融資させていたが、松平家が条件を一方的に破り、伝兵衛の姫路藩蔵元役を罷免し蔵元制度(専売制度)そのものを廃止するに至ったとされる。

寛延2年(1749)11月12日、伝兵衛は米方役辞任。

その後、天保3年(1832)から嘉永(1848~)頃、伝兵衛と分家の伝右衛門(江戸小網町一丁目に店を構えていた。小網町の河岸も房州への海運が盛んだった)は武州川越藩松平家の御用高として仕えた。伝兵衛は20人扶持があてがわれた。

 

しかし明治になって諸大名へ貸付けていた分が回収できなくなり経営不振に陥り、高間屋敷は親族の松本氏の名義となり母屋は青堀(富津市)方面の人に売却。
表の平治門は大正3年頃に周南村(君津市大山野)の渡辺由太郎氏に払い下げ、長屋門も改築となった。

 

高間家の菩提寺は貞元字八幡所の豊山派満隆寺(過去帳に伝右衛門等記載)
墓は常代の共同墓地。墓には丸に葉柏の家紋が刻まれている。

参考図書
・『享保撰要類集』
・『東京市史稿 産業篇第17
・『国史大辞典7』土肥鑑高「江戸の米屋」「正米商」
・『君津郡誌
・『コンサイス日本人名事典
・幸田成友『日本経済史研究
・『列侯深秘録
・『有徳院殿御実紀』
・古屋野正伍『都市居住における適応技術の展開』
・君津市文化協会『呦々4』
・西上総文化会『西上総文化会会報53』
・君津郡市文化財センター『年報11』
・『会報21』菱田忠義「豪商高間伝兵衛関係の文書」
・『房総文化18』『常代遺跡群』『すなみふるさと誌』
・『江戸名所図会』