霊山寺-遊撃隊が滞在

沼津略絵図 霊山寺

霊山寺(りょうぜんじ)と寺所有の沼津略絵図
「カヌキ山」麓の絵図。境界に狩野川霊山寺の寺域は千三百七十坪で現代も広い敷地を持つ。
慶応4年(1868)5月5日~18日まで遊撃隊・林忠崇と請西兵等諸藩脱走兵は香貫村(かんき、かぬき。駿東部)霊山寺と付近の農家4、5軒に滞在した。

それより先の閏4月15日に一行は韮山へ着き韮山代官所に協力を求めた。沼津藩は隊士達を御殿場に待機させ、その後隊士達は旧幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)らの説得に対し新政府の総督府に差出す上意の返事を甲府で待つことを取り決めた。
約束の期日に返事は来ず再度説得が行われ、旧幕臣の使者の顔をたてて沼津城下最寄りの香貫村でひとまず謹慎となる。
謹慎中は沼津藩の監視下におかれ、警固にあたる非常組(沼津藩主水野忠敬は甲府城代に任命されており、甲州警備に兵力を割いたため沼津守備のために増員した農兵。後に「常整隊」として訓練を受ける)が厳重に旧幕府脱走兵達を警戒したという。
霊山寺山門 霊山寺の梵鐘

▲山門と梵鐘
霊山寺は「れいざんじ」の通称で呼ばれる曹洞宗永平寺派の寺。
はじめ真言宗であったが弘治3年(1557)機外永宜和尚が中興開山し曹洞宗に改宗した。
向かって右の「不許葷酒入山門」は生臭(ネギ類などの臭い野菜「葷」や肉)を食らい飲酒した者は立ち入りを禁ずるという仏教的な意味。
梵鐘は貞治3年(1364)府中見付の蓮光寺に奉納との銘があり県文化財。

霊山寺のある本郷町は上香貫の中住町・黒瀬町・住吉町等の一部がまとまった地域で、昔は上香町の本村(もとむら)であったため本郷の名になったとも伝わる。
上香貫村は後に合併して楊原村になり、更に大正12年の沼津町との合併で沼津市が誕生した。

兜率林霊山寺
所在地:静岡県沼津市本郷町25-37

参考図書:『新風土記』
参考サイト:沼津市HP http://www.city.numazu.shizuoka.jp/

熱海~網代港へ

慶応4年(1868)5月26日に遊撃隊ら旧幕府脱走兵先方が、総督府軍に後押しされた小田原兵との大軍に山崎の戦いで敗れ、厳しい追撃が加えられ潰走する。
本営の忠崇達は再起を決意し箱根を撤退した。

静岡の熱海の海 熱海を去る

熱海の海と、網代方面へ離れていく海の様子
27日に忠崇達は伊豆半島東岸の熱海(静岡県)に着く。
軍目の沢六三郎と伊庭隊の三橋準三は間者として前夜から熱海に在り、数十の小舟の用意を済ませていた。

網代港 網代の灯台

網代(あじろ)の港
薄暮れに残兵115人が押送船で網代に到り、榎本武揚率いる旧幕府艦隊の3艘に乗り込む。
忠崇は長崎丸に乗り、房州館山へ渡った。

館山~真鶴港・小田原へ

館山の海

▲「鏡が浦」と呼ばれるほど平らかな館山の海
慶応4年(1868)安房(千葉県)館山(たてやま)湾上に榎本武揚率いる幕府軍艦が停泊していた。
閏4月10日、林忠崇らと遊撃隊は柏崎(館山市沼)から三百石積と二百石積の2艘の和船に分乗し、幕艦大江丸に引航されて渡海する。

真鶴港2 真鶴港1

▲山で包むような入り江の真鶴港
忠崇一行は閏4月12日に相模(神奈川県)の真鶴(まなづる)港から上陸した。
真鶴は古くは真名鶴と書き、東西の崎は鶴の翼、中央の崎は鶴の首に似ていると風土記に記されている。
鎌倉時代の吾妻鏡には治承4年8月の石橋山の役で源頼朝が敗走し28日に真鶴から房州へ渡ったとする。

根府川

根府川~江野浦
小田原への中継地として忠崇の使者が往復する。兵は江野浦に駐屯させた。

小田原城天守閣

小田原城
小田原藩に佐幕としての協力の交渉を試みるが…

林忠崇と箱根戦争(まとめ)

慶応4年(1868)請西藩藩主林忠崇の上総出陣~戊辰箱根役までの時系列順ブログ記事まとめです。

■東京 ■千葉 ■神奈川 ■山梨 ■静岡

■3/7 九段坂の江戸屋敷を出発
■閏4/3真武根陣屋出陣
■ 〃 飯野藩に協力要請
■ 〃 富津陣屋包囲
■閏4/5佐貫藩領へ入る
■閏4/8勝山藩脱藩士加入
■ 〃 館山寄子兵加入
■閏4/9請西藩士諏訪数馬が自害
■閏4/10-12館山~真鶴港・小田原へ
■閏4/15韮山代官所に向かう
■閏4/16-19三島から川口村へ
■閏4/20~5/1甲府に向け黒駒へ
■5/2-4黒駒から戻り沼津へ
(関連記事:駒木戸関山中関
■5/5-18香貫村に滞在
■5/19人見隊が三島関門を通過・本隊も続く
■〃山中村に本営を敷く
■5/20箱根関所を占領
(関連場所:箱根関所畑宿本陣跡
■5/26山崎の戦い・伊庭が三枚橋で負傷
  戦死之墓[大蓮寺]
■5/27請西藩士戦死墓[浜寺]
■ 〃 日金山で討たれた請西藩士[東光寺]
■5/28堂ヶ島で討たれた遊撃隊士
  遊撃隊士供養塔[常泉寺]
■5/26-28遊撃隊戦死士墓[早雲寺]
■5/27,28熱海~網代港より館山へ撤退

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■6/12新政府は遊撃隊に加担した首謀者切腹を命じた
勝山藩福井小左衛門・楯石作之丞
飯野藩樋口盛秀・野間銀次郎
前橋藩白井宣左衛門・小河原多宮
(富津陣屋記事)

遊撃隊戦士墓-請西藩士顕彰碑

遊撃隊戦士墓 遊撃隊戦士墓碑文

慶応4年(1868)5月箱根戊辰の役で林忠崇旗下第四軍の請西藩脱藩兵は小田原領の境にある豆州山中新田(静岡県三島市)に出兵していた。
26日の山崎の戦いの掃討戦として、小田原藩兵は箱根宿で三小隊に分かれて捜索する。
27日早朝に芦ノ湖に近い白水坂と権現坂で銃撃戦となり一人が捕縛される。湖畔で隊を二手に分け、一隊は東海道の本道を箱根峠を越えて三島方面に向かい山中村で6人を討ったという。

後の大正6年に第三軍の岡崎脱藩士小柳津要人らが彼らを弔い根府川石の顕彰碑を建立した。
その「遊撃隊戦死者」として刻まれた請西藩士7名は小田原藩孕石隊に芦川の箱根宿端で討たれ、浜ノ寺興徳庵(浜ノ寺は現在は廃寺)に埋葬されたとされる。
秋山宗藏は箱根日金嶺地蔵堂熱海坊で討死した。

遊撃隊戦死者
明治元年五月廿七日
林昌之助臣

秋山宗藏
廣部与惣治
大野静
牧田謙藏
篠原九寸太
重田信次郎
西森与助

有志者
小柳津要人
間宮魁
石内九吉郎
大正六年十月三十日建之

小柳津要人は第三軍の岡崎藩士で丸善商社社長となった。
間宮魁は第一軍の和田孝(幸)之進の改名。静岡で間宮家を継ぎ徳川慶喜家家従となった。
石内九吉郎は箱根町旧本陣石内為次郎の子。
忠崇も建碑大正6年の翌年に岡山県津山町(娘光子宅)から墓参している。

裏面 連絡先

※写真の個人情報部分はぼかしました

興徳院墓地
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町芦川町