遊撃隊戦士墓-請西藩士顕彰碑

遊撃隊戦士墓 遊撃隊戦士墓碑文

慶応4年(1868)5月箱根戊辰の役で林忠崇旗下第四軍の請西藩脱藩兵は小田原領の境にある豆州山中新田(静岡県三島市)に出兵していた。
26日の山崎の戦いの掃討戦として、小田原藩兵は箱根宿で三小隊に分かれて捜索する。
27日早朝に芦ノ湖に近い白水坂と権現坂で銃撃戦となり一人が捕縛される。湖畔で隊を二手に分け、一隊は東海道の本道を箱根峠を越えて三島方面に向かい山中村で6人を討ったという。

後の大正6年に第三軍の岡崎脱藩士小柳津要人らが彼らを弔い根府川石の顕彰碑を建立した。
その「遊撃隊戦死者」として刻まれた請西藩士7名は小田原藩孕石隊に芦川の箱根宿端で討たれ、浜ノ寺興徳庵(浜ノ寺は現在は廃寺)に埋葬されたとされる。
秋山宗藏は箱根日金嶺地蔵堂熱海坊で討死した。

遊撃隊戦死者
明治元年五月廿七日
林昌之助臣

秋山宗藏
廣部与惣治
大野静
牧田謙藏
篠原九寸太
重田信次郎
西森与助

有志者
小柳津要人
間宮魁
石内九吉郎
大正六年十月三十日建之

小柳津要人は第三軍の岡崎藩士で丸善商社社長となった。
間宮魁は第一軍の和田孝(幸)之進の改名。静岡で間宮家を継ぎ徳川慶喜家家従となった。
石内九吉郎は箱根町旧本陣石内為次郎の子。
忠崇も建碑大正6年の翌年に岡山県津山町(娘光子宅)から墓参している。

裏面 連絡先

※写真の個人情報部分はぼかしました

興徳院墓地
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町芦川町

堂ヶ島温泉で討たれた旧幕府遊撃隊士

箱根堂ヶ島温泉近江屋旅館 箱根堂ヶ島温泉近江屋旅館建物
▲遊撃隊士が潜伏した箱根堂ヶ島(どうがしま)の湯宿近江屋旅館の古写真

宮ノ下を仰ぐ堂ヶ島温泉 堂ヶ島の古写真
堂ヶ島の現在と古写真
堂ヶ島は山路嶮しく九折した先の凹地で、早川が三方を巡り島のようになっている。
滝廉太郎作曲・鳥居忱作詞『箱根八里(はこねはちり)』の千仞の谷(せんじんのたに。1仭は数尺あり非常に深い谷の意味)は、堂ヶ島~木賀渓谷辺りまでの谷らしい。
歴史が古い箱根七湯の堂ヶ島温泉が湧く。上に見えるのは常泉寺のある宮ノ下地域。

 

■遊撃隊士と堂ヶ島
慶応4年(1868)5月20日に旧幕臣・遊撃隊ら脱走兵が箱根関門を攻め、彼らと和議が成立した小田原藩が、再び総督府側に転じ、26日に湯本の山崎で激しい戦となった。
総督府軍が後に詰めた小田原方の大軍に百数十余名の先鋒隊だけでは適わず、隊を率いていた伊庭八郎も重傷を負い旧幕脱兵は破れて撤退する。
小田原藩兵は追撃をゆるめず、旧幕側本営の林忠崇も敗戦の報を受けた退却兵を収容するために各所へ兵を出した。

翌27日も小田原兵は東海道と湯場道(温泉路、今の国道1号線)に分かれて徹底的な掃討体勢をとる。
山崎で戦った小田原藩仰徳隊は湯場道の捜索に当たっていた。瀧坂を上がり、芦ノ湯から二子に上がり、山中に一泊して湯場道を下り宮ノ下の奈良屋に泊まった。
28日の明け方に、10人の不審な姿を発見し、太平台方面と宮ノ下方面と相分かれて追跡する。
追跡側はまだ正体を掴めていないが、この10名は前田条三郎率いる第二軍一番隊の遊撃隊士であった。

前田隊は塔の峰、明星峰を夜通し歩き、宮城野に至ったところであった。
昼に木賀方面に10名が宮城野橋の袂で休憩中に、湯場道を宮ノ下から進んでいた小田原藩兵に見つかり、木賀渓谷へ下りて逃走する。

宮城野と木賀渓谷 宮城野への山道

▲早川の西岸の宮城野と木賀渓谷の古写真、宮城野・堂ヶ島間の細い山道

早川渓谷の山道 堂ヶ島温泉大和屋ホテル軒並

▲渓谷へと山道を下ると湯宿に辿り着く

10名が隠れた湯宿の近江屋を包囲すると抗戦姿勢をとったため残兵と分かり、小田原藩兵は周囲から射ちかかった。
銃撃戦で潜伏者の弾が尽きると小田原藩兵達は中へ踏み込んで射殺する。
9名の首級を確認したが、他に潜伏者は見つけられなかった。
残りの1名は奥の厨房の米櫃に隠れて難を逃れたのだ。

射殺された第二軍一番隊の遊撃隊士
・前田條三郎(隊長)32歳
・由井藤左衛門 19歳
・内藤鐐吉 20歳
・関敬治郎 歳
・関岡金次郎 18歳
・小笠原正七郎 25歳
・市川元之丞
・太田銚吉(瓶吉)
・松田集之助(隼之助)

前田は箱根関門占拠の際に奮闘し軍使として単身乗り込んだが、その一週間後の討死となった。

米櫃に潜んで助かった隊士は諸説ある。
大和屋ホテルは第二軍二番隊の小林隼之助(駿府藩士)とするが小林は26日に戦死との記録もある。
戊辰戦争後に帰藩した飯野藩士の猪口春造であるともいう。猪口は沢田武治(沢田は戊辰戦争後に会津藩の責任を負って切腹した萱野権兵衛の介錯を行った飯野藩士で後に箱根底倉で温泉宿を経営)の柔術の門弟であった。

 

9名の遺体の頭部は湯本早雲寺に葬られ、胴体は宮ノ下常泉寺に埋葬された。
その後、近江屋の経営者である近江屋半兵衛(本名は高木半兵衛)は、遊撃隊をかくまい切れなかったことを悔い、彼らを弔うために願主として常泉寺境内に供養塔(墓碑)を建立した。

 

文化8年(1811)の『七湯の折枝(しおり)』には堂ヶ島に5軒の湯宿がある。
・奈良屋六郎兵衛
・大和屋太郎左衛門
近江屋半兵衛
・丸屋孫兵衛
・江戸屋与右衛門

近江屋旅館(近江屋半兵衛)の高木半兵衛は明治10年代頃に、近江屋ことへ経営を譲り、引き続き近江屋旅館の名で大正12年頃まで続く。
そして大和屋太郎左衛門の妹の安藤はつが奈良屋と改めて経営していた旅館を、昭和25年に大和屋本家筋(川辺太郎左衛門)の娘が譲り受けて増築拡張し、現在の大和屋ホテル(休業中)となった。

そして近年になって大和屋旅館所有の古い米櫃が2つ発見された。
米櫃は松材で、厚さ一寸五分位、縦二尺七寸位、横幅と深さは一尺七寸位。

昭和からは堂ヶ島温泉には2件の宿が営業していた。
昭和初期に東京から来た宮田氏が「対星館」を経営し、深い渓谷にある堂ヶ島への行き来を便利にするために自家用ケーブルカーを設けた。
対星館の名は、堂ヶ島温泉を発見したという鎌倉時代の名僧夢窓疎石(むそうそせき。国師)が星空に対し坐禅した様子に因む。
戦後になって大和屋ホテルもゴンドラを設置し、堂ヶ島温泉は賑わいをみせた。

大和屋ホテル 対星館

どちらも昨年8月末にリニューアル工事のため休業し、平成28年(2016)秋頃に1軒の宿として新装開店を予定している。

晴遊閣大和屋ホテル:http://www.hakone-yamatoya.com/
対星館:http://www.taiseikan.co.jp/
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町宮の下

堂ヶ島渓谷遊歩道の吊橋 吊橋からの瀧

▲堂ヶ島渓谷遊歩道の木賀温泉方面側にある吊り橋は人数(重量)制限あり。

堂ヶ島渓谷の小瀧の白糸 堂ヶ島渓谷の風景

早川の流れは湯本方へ落ちる。宿の湯煙に潜んでいたのは猫一匹。

温泉猫 堂ヶ島渓谷散歩道の看板

常泉寺-遊撃隊士の供養塔

禅寺宮ノ下常泉寺 常泉寺の遊撃隊士供養墓

常泉寺本堂と遊撃隊士供養塔(墓碑)
箱根町宮の下の常泉寺は天正年間、安藤(宇道)筑後の開基とされる曹洞宗の禅寺です。

山崎の戦後の掃討戦で堂ヶ島に追い込まれ、遊撃隊隊士10名が湯宿の近江屋に潜伏しました。
小田原藩兵に射殺された9名のうち、遺体の頭部は首級として見分され湯本早雲寺に葬られました。
そして胴体はここ常泉寺に埋葬されました。

その後、近江屋の経営者である近江屋半兵衛(本名は高木半兵衛)は、遊撃隊をかくまい切れなかったことを悔い、彼らを弔うために願主として常泉寺境内に供養塔(墓碑)を建立しました。
そして近江屋家代々の位牌にも、討死した9名の戒名と俗名と、生存者1名の俗名を刻んで供養したといいます。

遊撃隊士の供養塔

明治元戊辰年五月廿八日
第二軍一番隊 遊撃隊士9名
・有曻意道居士 前田條三郎(隊長)
・碎玉頓妙考士 由井藤左衛門
・當誉烈信居士 内藤鐐吉
・徹心興劔居士 関敬治郎
・義諦剱才居士 関岡金次郎
・忠貞義周居士 小笠原正七郎
・圓融智鑑居士 市川元之丞
・剱烈明山居士 太田銚吉
・勇進夏山居士 松田集之助

常泉寺において生存者と伝わる1名
第二軍二番隊 
・小林隼之輔(駿府藩士)

曹洞宗養食山常泉寺
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町宮ノ下289

早雲寺[1]遊撃隊戦死士墓

早雲寺本堂 遊撃隊戦死士墓

早雲寺本堂と遊撃隊戦死士墓
旧幕府側として箱根戊辰の役で亡くなった隊士のため明治13年(1880)6月に人見寧(勝太郎。遊撃隊第一軍隊長)が「游擊隊戰死士墓」を建立した。隣に碑が並ぶ。
石材は小田原の根布川石。

碑文
明治戊辰之難、幕府遊撃隊士等相率去府下拠函嶺、五月廿五日、與
官軍会湯本村、短兵塵戦一以當百、奮撃而死者数十人、而瘞屍于
茲地者凡九人、掘屋良輔、小笠原正七郎、市川元之丞、越多三郎、森多
三助、島村善太郎、武田幸二、大原敬、竹内利平者為某君某君、皆余舊
盟也、今茲庚辰、土人等慨其死事、與同志議将建碑以表焉。請余誌之、
嗚呼、追憶当時、倐忽十三周、恍乎如昨夢不勝感愴、乃不辭拙陋略記
事実以勒于碑陰。  明治十三年六月 静岡県士族 人見寧

碑には以下9名の名が刻まれている。

第一軍
掘屋良輔(遊撃隊士。小田原城脱出時に戦死)
竹内利平(一番隊勝山藩士。三枚橋で戦死)

– – –
越多三郎
島村善太郎
武田幸二

第二軍一番隊
森多三助(三枚橋で戦死)
小笠原正七郎(堂ヶ島で討死)
市川元之丞(堂ヶ島で討死、境内に埋葬)

第二軍二番隊
大原敬(駿府藩士)

他、堂ヶ島で討死した9名の首を早雲寺に埋葬したとされ、また小田原城脱出時の戦死者や山崎で戦死した隊士も弔った。

游撃隊戰死士墓 遊撃隊戦死士墓の弔文

金湯山早雲寺(臨済宗)
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町湯本405
サイト:http://www.souunji.jp/

本尊 釈迦三尊仏(室町時代)
開山 以天宗清(大徳寺八十三世)
開基 北條氏綱
創建 大永元年(1521)
寛永四年(1627)再建。本堂は寛政年間建立、昭和三十年代の改修まで茅葺寄棟造

※北条5代の墓地等は別途記事にします

畑宿本陣跡と一里塚

箱根路東海道の碑 本陣跡案内板

旧箱根街道畑宿本陣
畑宿の本陣は屋号を茗荷屋と呼ばれた名主の本屋敷跡です。家屋は大正元年(1912)全村火災の折に消失しましたが、庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残されました。小規模ながら旧街道に日本庭園として他に無かったようです。

畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落で、郷土の伝統工芸「箱根細工」が生まれ育ったところです。
畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北条氏時代までさかのぼります。
江戸時代畑宿は箱根旧街道の間(あい)ノ村として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工が旅人の足を止めました。

安政4年(1857)11月26日、米国初代領事で伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリス・タウゼントが江戸入りの途中、ここに休憩鑑賞しました。ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。
下田から籠で上京したハリスが箱根関所で検査を受ける際、ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と検査を強く拒否すすて関所側とトラブルを起こしてしまいます。
下田の副奉行が中に入って、ハリスを馬に乗せて籠だけ検査をすることを提案し、関所側は妥協しました。
ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通り、そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る見本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすごぶる良好になったといいます。

明治元年十月八日明治天皇が東京遷都の御途次や翌年皇后の京都還幸の御途次等で小休ならせらした聖跡の碑も建てられています。

旧茗荷屋庭園 畑宿本陣

▲旧茗荷屋庭園と畑中本陣跡地
畑宿の名主茗荷屋畑右衛門の庭は山間から流れる水を利用して滝を落とし、池にはたくさんの鯉を遊ばせた立派な庭園で、当時街道の旅人たちの評判になりました。
ハリスやヒュースケンなど幕末外交の使者たちもこの庭を見て感嘆しています。

 

畑宿一里塚 畑宿一里塚案内板

箱根一里塚
江戸時代はじめ、徳川幕府は街道や宿場を整備し、交通基盤を整えました。さらに、距離を明確にするため、街道の一里(約4km)ごとに一里塚を置きました。
東海道の一里塚は、後に二代将軍となる徳川秀忠の命により、慶長9年(1604)2月につくり始められ、全てが完成したのは慶長17年(1622)であったと考えられています。

畑宿の一里塚は、江戸日本橋から23里目に当たるもので、明治時代以降、一部が削られてしまうなど江戸時代往時の姿は失われてしまいましたが、発掘調査と文献調査の結果を元に復元整備を行い、箱根町の中では唯一往時の様子を現在に伝えるものです。
山の斜面にあるこの塚は、周囲を整地した後、直径が5間(9m)の円形に石積を築き、小石を積み上げ、表層に土を盛って、頂上に標識樹として、畑宿から見て右側にモミが、日取り側にはケヤキが植えられていました。

一里塚は、旅人にとって旅の進み具合が分かる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり冬には寒風を防いでくれる格好の休息場所にもなりました。※箱根町による案内文より

所在地:神奈川県足柄下郡箱根町畑宿

 

畑宿は戊辰戦争時に林忠崇旗下の請西藩兵が駐屯し(忠崇自身は箱根関所で指揮をとっていたと思われます)、山崎の戦いで負傷した遊撃隊士伊庭八郎がそこで治療を受けました。