特別展「幕末の木更津」・中村彰彦先生講演会

先日新しく「請西藩主 林忠崇」年表ページを追加しました。
今後、更新中のまとめ記事と並行する形で請西関連の記事を書いていきます。

さて現在木更津市郷土博物館「金のすず」で特別展「幕末の木更津」が開催中です。
凹型のコーナーの3つの壁にそれぞれ幕末の木更津に関したテーマで史料と解説が展示されていました。

 

木更津船と文化
まずは木更津港から江戸へ従事したという、大きな木更津船の模型が目に入ります。江戸の日本橋と江戸橋の中間に「木更津河岸」が設けられて、江戸時代から特別扱いを受けていたそうです。特権を与えられた理由は大坂の陣に参加した水軍に因むとも言われています。

壁に面した展示で目を引くのが木更津が舞台の歌舞伎「與話情浮名之横櫛」の錦絵。三代豊国作。
ペリー来航の3月前に浅草中村座で初演され、人気演目となりました。
「切られ与三」の通称や歌謡曲「お富さん」でお馴染みですね。
※木更津市内に与三郎の墓や、相棒の蝙蝠安の墓があります。
他に江戸視点で当時の木更津の地図や、房総の絵葉書が展示されています。

 

海防と太平の世の終焉
幕末の日本に通商を求める外国船が現れ、東京湾の防衛のため諸藩が警備にあたります。
亜墨利加(アメリカ)人上陸之図など資料と一緒に置かれた屏風は安房上総御固図屏風。
海上警備の様子を描く絵の中に富津沖に請西藩林家の家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」を染めた帆船が描かれています。

 

請西藩と戊辰戦争
請西藩主の林家を中心に紹介されています。
林家の系譜。そして林家のルーツでお馴染み兎御献上の資料。

戊辰戦争資料は、これがなくては語れない「戊辰出陣記」の原本。
リーフレットの表面に使われている、箱根の関で戦う忠崇の姿絵。
片腕を斬られた伊庭八郎を描いた線画「伊庭八郎手負い図」。完成画でなく作者不明ですが、忠崇作とみられるとのこと。

当時を思わせる古銃も展示されています。火縄銃、短エンフィールド銃、短スナイドル銃。
火縄銃には「木更津縣」の銘、旧大多喜藩所有のものとみられるようです。

仙台で降伏した忠崇が滞在した林泉院の写真パネル。その後に忠崇が綴った和歌集の「おもひでくさ」
林家再興のために家臣達が嘆願した書。士族の身元証明のための書類等々。

忠崇の祖父にあたる、貝淵陣屋を築いた貝淵藩主林忠英を描いた「林家初代藩主忠英侯肖像/狩野探渕守真作」は今回が初公開です。
林家の名誉が回復した印の、忠弘(忠崇の弟)の叙従五位。明治2年に林家を継ぐため忠弘が決めた実名と花押も相続史料として重要な資料です。

近年の請西陣屋の遺構を絵にしたカラー俯瞰図もありました。

 

金のすず特別展 講演会看板

 

そして今回の企画として、日曜日に直木賞作家の中村彰彦先生による講演会「上総請西藩主 林忠崇の幕末維新」も行われました!

 『脱藩大名の戊辰戦争―上総請西藩主・林忠崇の生涯』の著者でもあります。

一般向けの講演会なので勉強をしに行くような堅苦しい場ではなく、中村先生ファンはもちろん今回の催しをきっかけに初めて幕末や忠崇に興味を持った方でも楽しめるトーク内容でした。

受付で特別展チラシのコピーと、講演会用の「林忠崇侯年譜」1枚。年譜は明治時代以降が主で住居地の移行が簡単に紹介されています。

初めの10分は、来賓の紹介と挨拶。現在の林家ご当主もいらっしゃいました。

そして中村先生の講演が始まります。
まずは「予備知識」として木更津は離れて、幕末史のお話。先生論全開の豆知識が次々に飛び出します。

 

『これまで「組」と呼ばれていたのが「隊」となったのはなぜか』
『隊列に見る、これまでの日本の伝統的な戦い方と新しい「洋式戦術」の違い』
いずれ本になるか、すでに著書で紹介されてるからかもしれないので詳細は省きますが「部隊」は英語と日本語のごろ合わせではないかという提案です。
ボードに語句を書きながら、洋式戦術を採用した大村益次郎の強さという流れに綺麗に持って行って、退屈させません。

これは私の感想、古い日本語は聞き取りをそのまま文字に当てはめるイメージなのでごろ合わせには共感もありますが、新旧和洋の「隊列」については異議ありありでした。
古代ローマ、フランス、スペインと欧州の隊列からアメリカ南北戦争での隊列までと、日本の古代から戦国時代の合戦での隊列を思い浮かべながら聞いていたら、隊列についても独自な用語も違和感ありありで。
(もちろん間違っているという批評でなく、歴史話は意見の出し合いもありだよねという感想)
序盤なので私もこれはジョークで(洋画の話も持ち出したので)笑うべき所なのか、真面目に頷く所かがつかめずに、静かな周りに合わせて流しちゃいました。あとで日本での部隊の語源について調べてみよっと。

 

まだ参加者が緊張している気配を察したのか、もう少し身近な幕末トークに移ります。
具体的な歴史人物の名前を出して、よりバラエティ感覚に。
強さといえば『幕末最強は誰か』で先生が推すのはご自身の著書にも描かれたあのお方、立見大将です。

そしてようやく「遊撃隊」の話に。忠崇目当ての参加者が期待している遊撃隊と、その他の遊撃隊(見廻り組や新撰組)についてを分かりやすく説明します。
慶喜に対しては何度もしつこくダメ将軍として紹介していたので、中村先生の慶喜ポジションというよりここも笑い処だったのかも??

スクリーンに写真を写して人見勝太郎や伊庭八郎を紹介。この頃には参加者の緊張もほぐれて、幕末三大美男子の二人は「林忠崇」「伊庭八郎」が不動であとは──…と、先生の面白く語るネタに笑いも漏れます。
そして榎本武揚の行動を追い、ようやく話の舞台が木更津に移ります。

ようやく、というのはここまでで1時間丸々使っているんです。
きっちり1時間だったので先生の予定通りなのかも。プロだ。

 

まずは林家について、長ったらしい名称の林家家紋の一文字の由来でもある兎献上のこと。
「兎御献上之儀留」にある兎の結び方がスクリーンに写されます。
そしてこのネタでもユーモラスに話して笑いをとる先生。

 

「総野の戦い」という語句を掲げて忠崇の戦いについての話に移ります。
先生は房総も協力たので『奥羽越列藩同盟を奥羽越“総”列藩同盟と呼んでもいいのでは』とおっしゃるので、私はまた首かしげ。(これもジョークか房総半島・木更津上げ?でも周りが笑ってなかったからリアクション難しくて流しちゃいました)

上総義軍と村人の反応。忠崇は遊撃隊の協力要請に快諾したこと。
だいぶはしょって(富津台場や途中訪れた藩の詳細は触れず)相模へ渡ったこと。
その頃、問罪出兵に共感した小田原藩。
かなりはしょって、奥州行。はしょりすぎです。
会津で忠崇が容保と面会し、志を同じにする二人に言葉は不要、ただ「お察し申す」だったこと。
奥州では忠崇は自ら戦ったこと(戦の詳細は無し)、70万石で徳川存続も決まり、そして投降して唐津藩に御預けとなったこと。
明治五年に許されて、後に忠弘が華族になること。

テーマが幕末「維新」ですし配られたレジュメも明治以降が主で、木更津についてを多く話そうとしたのか、ここから話がローカルな方向で詳しくなりました。
爵位のいろいろ。男爵は一家に一人だけなので忠崇は華族になれない。
それに男爵になるには毎年500円の大金が必要になる。地元に広大な土地を持っていた人が(ここも面白く語られました)、忠崇の親族を偽った自称林家に騙されてもめげずに身を削って援助を続けた逸話。

忠崇の足取りを簡単に追って、招魂祭70周年でのインタビューのこと。
そして逝去の直前に、辞世を尋ねた次女に対して答えた言葉で、忠崇の人生の話を締めくくりました。

とても濃厚な講演内容でしたのに開演から2時間、皆さんしっかり聞き入って、大きな拍手があがります。
資料重視な作家さんだけあって引出しが豊富で、本当に素晴らしい話術でした。

 

講演終了後は、当日のサプライズとして、サイン会が行われました!
そうと知っていたら携帯用の文庫でなくハードカバーの本を持参したのにと悔やみましたが、事前告知をしたら先生に負担がかかりますものね。
長い列でも、前に並んでいた林家に詳しい方(林家ご当主とも知り合いで、今回お知らせが届いたから来たような)とぽつぽつ雑談をしているうちに順番が来ました。

体調が優れないのに講演を受けて下さったと紹介されていたので「お体大事になさってください」と言ったら、にっこり笑顔で一言お礼を返してくれました。なんと良いお人柄!

興奮というよりも、ふわふわした良い気持ちで帰りました。
中村先生ほんとうにお疲れ様でした!

 

中村彰彦先生のサイン

 

※講演は終了。特別展は12/26(木)まで開催
木更津市郷土博物館金のすず
所在地:千葉県木更津市太田2-16-2
▼木更津市公式サイト内博物館ページ
http://www.city.kisarazu.lg.jp/13,491,38,262.html

選擇寺[2]「切られ与三郎」蝙蝠安の墓

選擇寺 蝙蝠安案内板

嘉永6年(1853)江戸三座の一つ、中村座(この時は浅草にあった)で初演された「切られ与三郎」の呼び名でお馴染み、歌舞伎「伎与話情浮名横櫛/よわなさけうきなのよこぐし」主人公与三郎の相棒「こうもり安」のお墓が、以前紹介した選擇寺(せんちゃくじ)にあります。

 

本名は山口瀧蔵。
文化元年木更津五平町(本町)の大きな鬢付け油屋「紀の国屋」の次男として生まれ、素晴らしい美音の持ち主で特に常盤律が上手く、金まわりも良く、花柳界の寵児と言われたほどの男ぶりだったそうです。
夕方になるとふらふら出歩くことから蝙蝠(こうもり)安と呼ばれました。

芝居の登場人物としての蝙蝠安のようにゆすりを働くような人柄ではなく、芝居中に右頬にある蝙蝠の刺青も、実際は左の太ももに蟹の刺青があったようです。

選擇寺の紀の国屋代々の墓碑銘に「進岳浄精信士 慶応四年四月五日」と戒名が刻まれています。

 

伎与話情浮名横櫛あらすじ

江戸の大店伊豆屋の若旦那の与三郎はあまりの美男だったためか木更津の親戚に預けられていた。
与三郎が春の潮干狩りに出かけた際に、お富を見そめ、一目ぼれし合った美男美女の二人は浜辺で密かに逢瀬を楽しんだ。

しかしお富は地元の親分赤間源左衛門の妾であったため幸せは長く続かず、与三郎は親分の手下に襲われ全身三十四カ所を切られ、お富は海に身を投げてしまう。

逃げ延びた与三郎は勘当され、三年後、傷だらけの容姿になって周囲に恐れられた与三郎はごろつきとなっていた。
そして仲間の蝙蝠安に連れられたゆすり先の家に囲われていた、死んだはずのお富と再会する…

 

蝙蝠安の墓 与話情浮名横櫛こうもり安

▲「こうもり安」の墓
浮世絵は歌川豊国(歌川国貞)『与話情浮名横櫛』のこうもり安 ※まちごと浮世絵ミュージアムパネルより

選擇寺 所在地:木更津市中央1-5-6

 

与三郎の供養墓(実際のお墓ではありません)は木更津駅西口を出てすぐの光明寺に、与三郎とお富が初めて出会った場所「見染めの松」が木更津港の鳥居崎海浜公園に、二人で密会した旅籠屋の鶴田屋経営者の墓が成就寺にあります。

作中は当時の江戸で木更津が舞台になっていますが、実在のモデルは木更津の他に東金・大網辺りや東京品川等の説があります。
いずれこのブログでも紹介するかも?

参考図書
・『木更津市史』他案内板等

山本覚馬と後妻小田時栄

大河ドラマが京都での山本家の騒動にさしかかり、過去の覚書「川崎尚之助と山本一家・八重との関係」にアクセスが集中しているのが申し訳ないので、覚馬の後妻・時栄の周辺について追記します。

※「八重の桜」のネタバレにもなりますのでご注意下さい

 

 

■山本時栄(ときえ。時榮・時枝・時恵・時惠とも)
嘉永6年(1853)5月7日 に京都御所近くに住む丹波の郷士、小田勝太郎(隼人)の四女として時栄が生まれる。

文久2年(1862)12月24日会津藩主の松平容保が京都守護職に任命され上洛、元治元年(1864)2月に37歳の山本覚馬も上洛。大砲奉行林権助のもと御所の警固にあたり、また6月頃に洋学所を開いて教鞭をとった。
その年の7月19日の禁門の変での戦闘が原因か覚馬の視力が急激に衰えて清浄華院で療養、翌年から鉄砲の買付に赴いた長崎でオランダ医師A.F.ボードウィンに失明を宣告される。
慶応2年(1866)頃、御所に出入りをしていた父小田勝太郎を通じて13歳ほどの時栄が目の不自由な覚馬(39歳)の世話を始めた

 

土佐藩の建白を受けた徳川慶喜が慶応3年(1867)10月14日政権返上を明治天皇に上奏、15日に大政奉還勅許。
12月9日王政復古の詔勅により幕府の機関が廃止され、京都守護を任されていた会津・桑名藩兵に代わって薩摩・安芸・越前・尾張藩兵が宮門の警備についた。11日に長州軍が入京し、旧幕臣の多くは不満を抱えたまま大坂城へ退き、慶応4年(1868)正月朔日、林権助率いる会津藩士はじめ徳川慶喜を支持する諸藩が出兵。
伏見方面も戦場となり、京に残っていた覚馬は蹴上で正月3日に薩摩軍に捕らわれた。
※『薩摩藩兵具方一番戦状』では正月十八日頃大坂で生捕りされた報告中に「山元角馬」の名がある

覚馬は御所の北にある薩摩藩二本松邸(現・同志社大学今出川キャンパス)の稽古場を獄舎として幽閉されたが、畳の間が宛がわれ待遇は良かった。なにより時栄が頻く頻く訪ねて介護に来たことも、5月末に政見建白書「管見」を完成させる程の心の支えの一つであったのかもしれない。
口述を野澤雞一(のざわけいいち。陸奥国野沢村出身、17歳。一時的に会津藩士)に筆記させた「管見」を翌月薩摩藩主に提出した後に高熱を発し、新政府軍に接収された仙台藩邸の軍務官病院に6月18日に移された後、岩倉具視の訪問を受ける。

 

明治2年(1869)3月中旬、新政府から軍務官出仕の呼出しに応じた覚馬は4月に病院を出て上洛し、陸海軍務等の教授にあたる。
軍務官(7月に官制改正により兵部省と改称)役所は元・京都守護職屋敷に置かれ、その近くの宿舎で暮す42歳の覚馬の世話の為にまだ15、6歳ほどの小田時栄と同居を始めたと思われる。

明治3年4月14日に覚馬は京都府庁に採用され、権大参事の槇村正直の顧問となる。
この頃には「河原町三条上ル 下丸屋町」に住んでいたとされる。※『官員進退録』

 

明治4年(1871)時栄は覚馬との娘、久栄を出産
この年の秋に覚馬は母佐久、妹八重、妻うらとの次女みね(峰。姉は夭折)を京に招くが、うら(樋口氏)は夫の子を孕んだ若い妾の存在を知ったためか上洛を拒んだ。
うらが離縁を望んだとして覚馬は正式に時栄を妻とした

 

明治5年(1872)覚馬は脊髄損傷でついに歩行困難となるが、覚馬のためにルドルフ・レーマンが試作した車椅子に乗りながらも京都復興のため奔走を続ける。翌年8月に小野組転籍事件で拘禁された槇村参事の釈放を請うため八重と東京へ上京。
明治8年(1875)6月7日覚馬が買付た相国寺二本松の薩摩藩邸跡地を、同志社英学校のため新島襄に譲渡。
明治9年(1876)1月2日八重、アメリカン・ボード(米国の海外伝道組織)の宣教師J.D.デイヴィスより洗礼を受け、3日新島襄とキリスト教式の結婚。12月佐久とみねが受洗。
明治10年(1877)12月27日覚馬は府顧問免職。
明治11年(1878)9月16日同志社女学校開校し山本佐久が舎監を勤め女学校に住込む。
明治12年(1879)3月30日覚馬が初代京都府会議長に選出される。
明治13年(1880)10月に辞職し地方税の布達をめぐり対立していた槇村知事を諸運動によって失脚に追い込む。
明治14年(1881)みねが伊勢時雄(横井時雄。熊本藩士横井小楠の長男、同志社第3代社長)と結婚。

 

明治18年(1885)5月17日、京都第二公会で宣教師グリーンから覚馬と時栄が洗礼を受ける。6月21日に久栄も受洗。
8月下旬に覚馬は斗南から17歳の望月興三郎を呼び寄せ、同志社に入学させた。英学校三年級に無事入学し寄宿舎に入った興三郎を覚馬は将来久栄の婿養子にしてもよいと考えていたようだ。
中野好夫の著では望月興三郎の弟だが、迎えた婿養子候補が実際に誰であったかは不明

当時同志社英学校に通っており山本・新島家と接していた徳富健次郎(徳富蘆花。徳富猪一郎の弟)の小説「黒い眼と茶色の目」によれば、
12月末、時栄が腹痛を起こし医師ジョン・カッティング・ベリーが診た所、妊娠五か月であることが分かった。
しかし覚馬は妻の懐妊理由におぼえがなくその裏切りに対して憤ったが、彼女に介抱された長い年月を振り返り自己との煩悶の末、時栄の不貞を許すことにした。
しかし時栄の不始末を許すことができなかったのが、夫の影響でキリスト教下に身を置いていた妹の八重、そしてかつて実母が父から身を引いている娘のみねである。
みねが嫁ぎ先の今治から駆けつけ、八重と共に覚馬に時栄との離縁を迫った。

覚馬は時栄にきちんと住居を宛がう条件で、離縁に同意。八重は時栄に、実娘の久栄と二度と会ってはいけないと約束させた。
女学校四年級へ通う15歳となり十分に事の成行を理解できる久栄、見守るしかない覚馬の母佐久の心中は計り知れない。

……起居に不自由な山下勝馬(山本覚馬)さんの介抱をしていた時代(時栄)さんは21歳で壽代(久栄)さんを生む。
異母姉のお稲(みね)さんが能勢又雄(伊勢時雄)に嫁いだため家督をつぐ壽代さんが14歳の年に、山下家では養嗣子にするつもりで旧会津藩士の家から18歳の秋月峰四郎さんを迎えた。
時代さんは35、山下さんは60歳近く。時代さんは養子の峰四郎さんを可愛がった。
そのうち時代さんが体調を崩し、協志社(同志社)の校医ドクトル・ペリー(J.C.ベリー)さんが診察した。ペリーさんが「おめでとう、もう五月です」と声高に妊娠を告げたが、それを聞いた山下さんは「覚えがない」と言いだした。

時代さんは、はじめ「鴨の夕涼みにうたた寝して、見も知らぬ男に犯された」としらをきったが、最後には養子を誘惑したことを自白して泣きながら許しを請うた。
永年の介抱に感謝していた山下さんは許そうとしたが、飯島先生(新島襄)の夫人のお多恵(八重)さんと、嫁ぎ先の伊予から駆け付けたお稲さんが否応なしに時代さんを追い出してしまった。
養子は協志社を退学して郷里に帰った。

離縁後に時代さんは娘の顔を見たがったが飯島の夫人が近寄らせず、山下さんの介抱は心得ある女中にさせた。
徳富健次郎『黒い眼と茶色の目』より要約

……後書きには、この小説は著者徳富健次郎が20歳の頃に山本久榮嬢との恋愛の経緯を47歳の晩秋に記憶を辿って書いたもの(上の要約部分は彼が聞いた噂話)と記されています。

 

時栄の「不祥事」については覚馬について語る誰もが濁しており、健次郎の小説がどこまで創作かは分からない。
明治19年(1886)に覚馬から離縁された時栄は2月12日付で戸籍を小田に戻し、その後分家して堺市に移る
兄勝太郎の先妻の子を養子にもらい、明治28年(1895)2月9日に神戸市山本通五丁目七十七番屋敷へ移籍
その後はアメリカへ渡ったと小田家に伝わっているそうだが、記録は遺されていない。

 

そして時栄と離縁した後の山本家周辺は…
翌年の明治20年(1887)1月27日、長男の平馬を出産後に肥立ちが悪かったみねが26歳で亡くなり、平馬は山本家の養嗣子となる。
みねの義母の津世子(夫横井時雄の母、小楠夫人)が、みねが葬られた南禅寺の門前で横転して横井家で同居している19歳の徳富健次郎(時雄の母方の親戚にあたる)と久栄が看病にあたった。
1月30日に新島襄の父民治が亡くなる。

津世子の看病で親密になった久栄と健次郎が互いに勉学中の身であるために周囲から咎められ(特に八重の猛反発があったとも)11月に婚約が破談、12月の半ばに健次郎は同志社英学校(三年級)を中隊し、京都を去った。
久栄は神戸の英和女学校(後の神戸女学院)に進む。

明治23年(1890)正月、募金運動の最中の新島襄は神奈川県大磯の百足屋旅館の離れ座敷で病床にあった。八重、徳富猪一郎(とくとみいいちろう)、小崎弘道(こざきひろみち)を呼び三十通にも及ぶ遺言を伝える。
1月23日午後2時20分死去。享年47。27日同志社のチャペルで葬儀が営まれ、京都東山若王子に葬られた。

明治25年(1892)12月28日午後1時45分山本覚馬、自宅で死去。享年64歳。30日襄と同様に同志社チャペルで葬儀、若王子墓地に葬られる。
明治26年(1893)7月山本久栄23歳で病没。
明治29年(1896)5月20日山本佐久87歳で死去。

参考図書
・青山霞村『山本覚馬伝
・『歴史読本2013年7月号「特集 山本覚馬 会津近代化の先駆者」』→[Kindle版]
・『会津人群像 第19号―特集:幕末京都にただ一人残った会津人山本覚馬
・徳富健次郎『黒い眼と茶色の目
・『近代日本に生きた会津の男たち』宮崎十三八「山本覚馬」
・同志社社史資料室『同志社人物誌』

そしておまけ、八重の桜のキャスト。成長後、敬称略
・新島八重:綾瀬はるか
山本覚馬:西島秀俊(八重の兄)
・山本佐久:風吹ジュン(八重の母)
山本時栄:谷村美月(覚馬の後妻)
・山本久栄:門脇麦(覚馬と時栄の娘)
・伊勢みね:三根梓(覚馬と前妻うらとの娘)
・樋口うら:長谷川京子(覚馬の前妻)

・新島襄:オダギリジョー(八重の夫、同志社の校長)
・新島民治:清水紘治(襄の父)

熊本バンドに属していた同志社の卒業生
・伊勢時雄:黄川田将也(みねの夫、伝道師として愛媛県今治市に赴任)
・小崎弘道:古川雄輝(伝道師となる)
・徳富猪一郎:中村蒼(新聞記者を志願し中退)

ドラマの中で時栄の不倫相手として描かれるのは青木栄二郎
青木栄二郎:永瀬匡(番組中では広沢安任の遠縁、山本家の書生)
・広沢安任:岡田義徳(旧会津・斗南藩士)

明らかな無断転載があるようです。当ブログの文章のみを抜粋した転載はご遠慮下さい。

御無沙汰2

大垣城の戸田氏鉄像

▲大垣城の戸田氏鉄像

今月は岐阜の関ヶ原合戦祭りへ。
あいにくの天候で野外イベントが中止になってしまいましたが
東西両陣の各地からの市場と、アットホームな雰囲気は地域の祭らしく楽しめました!

ひとまず近況報告まで。

メッセージありがとうございました

零戦タキシング

昨月、零戦のタキシング(地上走行)見学会へ行ってきました。
来年以降になりますが、いずれ動画を上げたいです。

 

そしてメッセージを下さったS様、お言葉ありがとうございました。
サイト準備中につき、この場での返信で失礼します。
根津さんに注目の点は本当に共感です。
大河効果で川崎尚之助の故郷に新しく供養碑等がつくられたりと色々動きがありますね。
八重の桜での「尚さん」は先に眠る人々の元へと旅立ちましたが、これからも専門家の方々の研究に期待しています。