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高遠の満光寺[1]保科左源太の墓

保科左源太と系譜略図

高野山成慶院『保科肥後守様御先祖御過去帳』に「法源院殿傅譽隆相大居士 信州高遠保科左源太御菩提也  施主同名肥後守様 寛永四丁卯十月三日但正月御命日
常燈御供養として「法源院殿傅譽隆相大禅定門 神義 同保科肥後守様御養子同銘左源太」と記されていることから左源太(さげんた)が保科正光(まさみつ。肥後守)の養子であったことは確かであろう。

満光寺鐘楼門と本堂 高遠最古の五輪塔保科左源太の墓

▲満光寺鐘楼門と保科正之(ほしなまさゆき)公の義兄弟左源太の墓
親縁山無量院満光寺(しんえんざんむりょういんまんこうじ)は天正元年(1573)笈往(きゅうおう)上人親阿芳公大和尚の開山で、昔は中町に在った。鳥居家が領した頃は浄土寺と改称し、享保17年(1732)12月十四世遺誉和尚が満光寺に戻したという。鐘楼門は牛久保流の大工菅沼定次の作とされ全て科(しな)の木を使用し善光寺になぞらえて建てられていることから「伊那善光寺」「信濃科寺(しなでら)」とも呼ばれた。

 

■保科家と左源太
武田家臣保科正直(まさなお)の嫡男正光は正室(真田安房守昌幸の娘。青陽院殿)との間に子が出来ず、側室も置かなかった。
※輿入れ時期は不明だが、天正10年(1582)の織田勢による武田攻めの際に救出され上田(長野県上田市)の真田昌幸の元へ身を寄せた理由が妻の実家と考えるとそれ以前で、正光は9歳から13年もの間武田勝頼(かつより)の子の信勝(のぶかつ。当時3歳)に仕えるために甲府に在って、言わば人質の状態から戦乱の波に呑まれた境遇のためとも考えられる
正直は、側室(光寿院。正重の母)の実家の小日向(おびなた。小比奈田)家に娘の一人(正光の妹)を嫁がせ、小日向源太左衛門との間に生まれた子、左源太を正光の養子に貰い受けた。つまり正光は甥を養子にとったことになる。

小日向源太左衛門は真田幸隆の長男(正光の妻の父真田昌幸/源五郎の兄)で天正3年(1575)5月の長篠の戦で戦死した真田源太左衛門信綱という説もあるが、確証は無い。
後世、内藤家時代の高遠藩の家老の葛上源五兵衛(くずかみげんごへえ)も満光寺を「真田左源太の菩提所廟所位牌…」と記しており、真田一族であったのは確かであろう。

天正10年の織田勢の侵攻で飯田城に居た保科正俊・正直親子は城の防備について武田家重臣と意見が対立し飯田を去り、高遠戦後に松本の小日向家へ、前述の通り正光も上田の真田昌幸の元へ身を寄せた。高遠の戦いでは正直の弟の善兵衛が討死している。
保科家臣赤羽俊房(あかばねとしふさ。甚六郎)が記した家伝、保科記と呼ばれる『赤羽記』に正光の母、武田家臣跡部越中守の娘も家臣と共に3月2日高遠城内で自刃し、満光寺住僧牛王和尚が遺骸を引き取り火葬しこの満光寺に埋葬したと記している。戒名は成就院殿願誉栢心妙大姉(後に北条家で害されたともされ、成慶院過去帳には「柏心妙貞禅定尼 天正十三年三月三日御命日…保科肥後守御慈母…」とある)

正直は実弟の内藤昌月を頼って上野箕輪城へ逃れ昌月と共に北条氏に帰属し高遠を奪還。
後に徳川方に転向し、家康から伊那半分の所領を与えられ、戦死した仁科信盛の後の高遠城主となった。
天正12年(1584)7月に家康の義妹多却姫を後室に迎え、天正16年(1588)5月21日高遠で正貞が生まれる。正貞は正光にとって腹違いの弟、左源太にとって年下の叔父にあたる。

天正18年(1590)家康の関東移封に従った保科家は下総多古(千葉県香取郡多古町)へ移封となり、正直は正光に家督を譲った。
※一方、真田家は徳川に歩み寄りつつ周囲の北条・佐竹・上杉氏を警戒しながら沼田等の領地を守る為の戦いを繰り広げていたが、家康に沼田領を北条氏に差し出すことを迫られた事から、昌幸は次男信繁を上杉景勝へ人質に送って上杉と手を結び、閏8月に北条・徳川の軍を上田で迎えうった。上田合戦の勝利を契機に豊臣政権に入り込み、豊臣秀吉の家臣となる。

文禄3年(1594)伝通院(家康生母)・家康・秀忠の前で、正光は7歳になった正貞を養子にするよう命じられた。既に養子の左源太が居るが、正貞は猶子の形で親子関係になる。
正貞は家康の外甥である血筋から、家康のそばで養育され、15歳で保科家嫡子が名乗る甚四郎に改名することとなる。

正光が再び高遠城主となって間もなく正直(正光と正貞の実父)が、その後正光の妻(真田昌幸の娘)が亡くなった。徳川家が積極的に後押しする中で、真田一族の血を引くことは肩身が狭かったであろう。
しかし後の行動で正光は左源太を気にかけ、正貞は行き場の無い正重母子を突き放しはしなかった

元和元年(1615)の大坂夏の陣では正光率いる保科軍の先鋒を正貞が務めたとする説の他に、正貞は不仲であった正光の軍には加わらずに本多忠朝(上総大多喜藩主。忠勝の子)に兵を借りて参戦したという逸話もある。

元和3年(1617)老中土井利勝の要請で、密かに匿われていた秀忠の落胤の幸松丸(こうまつまる。保科正之)が正光の養子として迎えられた。正貞は完全に廃嫡されたようだ。(幸松は「肥州(正光)には左源太という子がいるから行かぬ」と言い張り高遠入りを渋ったという逸話もある)
翌年、正貞の生母の多劫姫が亡くなる。

元和6年(1620)に正光は幸松に家督を譲る旨の書置で、正貞を厳しく絶交を言い渡す一方で、左源太には配慮を見せている。
遺言状の記された2年後に正貞は高遠を去り、正光の養子としては左源太と幸松が残った。

しかし寛永4年(1627)正月3日に正光よりも先に、左源太が息を引き取った。
病死とされるが、毒殺の噂も伝えられているようである。
左源太に関する資料は乏しく「丈ひくい小男であった」と伝えられている。

保科左源太の墓の南無阿弥陀仏 保科左源太の墓の刻銘

左源太の墓の五輪塔は在銘のものでは高遠で最も古いとされ、正面に「南無阿弥陀佛」
台石に「傅譽(伝誉)隆相」「寛永四」「丁卯・正月三日」と刻まれている。

満光寺所在地:長野県伊那市高遠町高遠975

鹿野山の請西藩殉難者「招魂之碑」

鹿野山の招魂之碑 招魂之碑裏面

招䰟之碑の文字は榎本武揚(えのもとたけあき)の書。
明治30年(1897)4月3日と4日に上総一の霊場といわれる鹿野山(かのうざん)で、旧請西藩林忠崇公を祭主として旧請西藩戦病死者祭典が営まれました。
旧請西藩の縁故者で委員会を設け、祭典に合わせて祭典場にこの招魂碑が建てられ、戦没した従軍者も併祭されました。

招魂之碑説明板 鹿野山の石祠
招魂之碑案内板========================================================
【表】招魂之碑 明治三十年二月 日
        正二位勲一等 子爵 榎本武揚書
【裏】
慶応戊辰之変大勢既革焉然旧夢未醒之徒奔走於国事者数十名皆多戦死病没三十年来
未嘗一慰英魂毅魄抑開港攘夷其論雖異佐東援西其業雖殊至於性命供犠牲以計国利民
福何有所撰藩主林君前既蒙   恩命又授栄爵則      天意所在瞭然可知矣
死者冀小安頃同志相謀建招魂碑乃録其姓名以伝不朽云爾
 北爪 貢  大野禧十郎 廣部與惣治 政田 謙蔵 吉田 柳助 木村嘉七郎
 高橋 護  秋山 宗蔵 小倉鍨三太 篠原九寸太 重田信次郎 西森與助
 清水 半七 小倉由次郎 諏訪 數馬 大野 静
明治三十年四月三日 前陸軍経理学校教官従六位勲五等 廣部 精識
          陸軍経理学校嘱託教授   癸山 劉 雨田書  井龜泉刻
【左】
三十年祭典薫事者
  祭主     林 忠崇
  副祭主 男爵 林 忠弘
  委員長    広部 精
    各委員姓名別刻
【右】
廣部周助 大野尚貞 長谷川源右衛門 北爪善橘 中村三十郎 加藤雄之助
篠原愛之助 篠原竹四郎 磯部克介 酒井定之進 丸山悦太郎 友部雄蔵 淺生雄仙
小倉左門 小幡輪右衛門 逸見庫司 織本新助 滑川彦質 以上病没
大野友彌 伊能矢柄 檜山省吾 岩瀬銓之助 小幡直次郎 安藤信三郎 中野秀太郎
橋本松蔵 加納佐太郎 小林清太郎 水田萬吉 木村隼人 宮崎龜之助 逸見静馬
渡邊勝造 杉浦銕太郎 岩田弘 吉田収作 岩垂謙輔 外山源之丞 高浦新平
以上皆従軍者
□□□右衛門 □□兵左衛門 野口登作 山口曹参 廣部軍司 以上五名病没
□□精 國吉惣兵衛 大野喜六 田中彦三郎 松崎蔵之介 廣部文助 善場雄次郎
善場雄次郎 大野春貞 □□□光 大竹徳國 西尾斧吉 國吉龜次郎

To Kazusa
 招魂之碑は、戊辰戦争の際、旧幕府軍について敗れた上総国請西藩藩士の英霊の少安を願い、明治30年に建てられたもので、招魂之碑という文字は幕府海軍副総裁であった榎本武揚の書。江戸城のあった方角を向いており、明治大正時代の詩人、評論家、随筆家として有名な大町桂つきは、鹿野山二十詠の中で「臺(台)ノ畑高く聳(そび)ゆる招魂面するは皇城にして」と詠っています。
 戊辰戦争当時の上総国請西藩の藩主は「林忠崇」(はやしただたか)。若くして家督を相続し、文武両道で、将来老中になりうる器であると評価されていたそうです。
 なお、碑文は概ね次のような内容となっています。
 戊辰戦争の関係で多くの者が戦・病死したが、30年来、未だかつて一度も英霊の猛々しい魂をしずめていない。そもそも、開港派、攘夷派、その考えや行ったことは異なるが、国や民のことを考え、命を懸けて戦ったことに違いはなく、分け隔てる必要はないはずである。林家は既に情けある処置により家格再興を果たしたが、これはつまり、天皇の意志がそうであることを示している。
 ゆえに、死者の少安を願い、招魂碑を建て、後世に伝える。
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碑は案内板にあるように、大町桂月の鹿野山二十咏「臺ノ畑高く聳ゆる招魂碑面する方は皇城にして」と詠まれ、皇城(皇居)すなわちかつての江戸城に向けて建っています。
臺ノ畑は、碑の在る場所の土地の名前(旧君津郡秋元村鹿野山字臺畑)でしょうか。

富津岬と富士山 鹿野山九十九谷

左写真は碑が向かう方角を、分かりやすいようにマザー牧場(富津市田倉)前の鬼泪山(きなだやま。江戸時代は佐貫藩領)辺から撮影。
左手に富士山、右手に富津岬とその向こうに東京湾を挟んで江戸城跡があるわけです。
天気の良い日は浦賀水道や請西藩主・藩士達が渡った箱根の役の地までぐるりと見渡せます。
碑の背は鹿野山の南面、房総の山々が望める九十九谷(くじゅうくたに)に向いています。右写真は九十九谷展望公園で撮影。

招魂之碑所在地:千葉県君津市鹿野山

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明けましておめでとうございます。
当ブログを閲覧頂きありがとうございます。

今年も上総の郷土史に触れていき、主に飯野藩関連を更新予定です。
請西藩の単独ページ、地域別の史蹟一覧ページ、郷土資料リスト等も、もうしばらくお待ち下さい。
特に郷土の参考資料は書籍の形になっていない古史料が多くまとめ難いので時間が出来次第。

さてさて、今年は大河ドラマが楽しみで、真田丸感想も気軽に呟きたいなあと
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本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」・その後の本多家

良玄寺本堂 良玄寺大多喜城主本多忠勝侯忠朝侯墓碑

良玄寺本多家墓所

右五輪塔・大多喜城主本多忠勝中務大輔忠勝侯奥方墓塔
  見星院殿蓮譽光信大襌定尼 慶長十八年九月十四日大多喜城内にて卒

中五輪塔・大多喜城主本多忠勝中務大輔忠勝侯墓塔
  西岸寺殿前中書長譽良信大居士 慶長十五年十月十八日卒去行年六十三歳

左五輪塔・大多喜城主本多出雲守忠朝侯墓塔
  三光院殿前出州岸譽良玄大居士 元和元年五月七日大阪夏の陣にて戦死行年三十四歳

良玄寺大多喜城主本多忠勝侯忠朝侯墓誌 良玄寺案内板

■良玄寺由緒
天正18年(1590)大多喜十万石へ入城した本多忠勝(ほんだただかつ)は、文禄4年(1595)9月25日下総国小金城下(現千葉県松戸市)東漸(とうぜん)寺の住持照誉了学(しょうよりょうがく。小金城主高城胤吉の三男。後に徳川家菩提寺江戸芝増上寺貫主)上人を招き開山、金澤山良信寺を建立し菩提寺として寺領百石を寄進し、境内四町八反を除地(免税地)とした。本尊は木造阿弥陀如来像。

慶長5年(1600)関ヶ原合戦の翌年に忠勝は伊勢国桑名(三重県桑名市)に移封となり二男の忠朝(ただとも)が五万石で大多喜城主となった。忠朝も城主となった年に寺領百万石を寄進している。
了学は飯沼(茨城県常総市水海道)弘経(ぐきょう)寺を再興し、良信寺にはその弟子圓誉信牛和尚が住職となる。

慶長15年(1610)忠勝が63歳で桑名(江戸とも)で没し遺言により了学の葬儀で桑名浄土寺に葬られたが、良信寺に分骨して墓碑を建てた。
慶長18年(1613)忠勝が桑名に転封後もこの地に残っていた正室で忠朝の母である於久の方が大多喜城で没して良信寺に葬られる。二代目圓誉上人の焼香。
元和元年(1615)忠朝は大坂夏の陣で34歳の若さで戦死し一心寺(大阪府大阪市天王寺区)に葬られたが、分骨し当地にも埋葬。
今でも本多忠勝夫妻と次子忠朝の、伊豆小松石で出来た五輪の墓碑が町指定文化財として顕在している。

大多喜藩は忠朝の甥の政朝(まさとも。甲斐守)があとを継ぎ、忠朝の法名(戒名)から三光院良玄寺と寺号を改め、この年11月15日に百石を寄進している。

大多喜忠勝公園 忠勝公園から見た大多喜城

▲良玄寺墓所に隣接した忠勝公園からは遠くに大多喜城が見える
良玄寺に伝来する有名な、忠勝が土佐派の絵師に描かせた肖像画「鏡の御影」こと九幅の紙本着色本多忠勝像は、元禄4年(1691)本多宗家6代忠国の元に渡り模写が奉納され、現在は県指定文化財として県立中央博物館(大多喜城分館)に寄託されている。

金澤山三光院良玄寺(浄土宗)
所在地:千葉県夷隅郡大多喜町新丁180

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
○本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

 

◆余話◆その後の本多家
元和元年(1615)5月7日に大多喜藩主本多忠朝が大坂夏の陣で戦死。忠朝の長男の政勝が幼少のため、閏6月4日に甥(兄忠政の次男)の本多甲斐守政朝(初め忠氏、忠郷)が17歳で大多喜5万石を継ぐ。
元和3年(1617)政朝が播磨国龍野藩(兵庫県たつの市)5万石に転封。
大多喜藩には武蔵国鳩ヶ谷藩(はとがや。埼玉県川口市)から阿部正次が3万石で入封。
7月14日に本多宗家当主の忠政が姫路藩主(兵庫県姫路市)となり15万石を領した。

寛永3年(1626)5月7日忠政の嫡男忠刻が病死したため、翌年政朝が宗家を継ぐこととなった。
政朝が相続の際に5万石のうち4万石を忠朝の長男政勝に、1万石を政朝の弟能登守忠義に分け与えた。
政勝は母と共に姫路の郭内に住んでいたが、元は実父忠朝の遺領にあたるはずが勝手な分与の不満から出家しようとし、細川越中守らの説得で4万石のみの相続を承諾した。
寛永10年(1633)正月政勝は従五位下に叙す。

寛永15年(1638)11月20日政朝が亡くなる。
寛永16年(1639)政朝の長男政長6歳・二男政信5歳の幼少のため政勝の養子とし、3月3日に政勝が宗家を継ぐ
政勝は大和郡山藩(奈良県大和郡山市)15万石へ移封。政勝が分与されていた4万石を政長3万石・政信1万石に分与。
寛文2年(1662)政勝の養子政信が死去。政貞(政勝の実子三男、後の忠英)が政信の養子として政信の遺領1万石を継ぐ。

寛文11年(1671)10月30日政勝は江戸屋敷で死去。宗家を継ぐ養子政長に9万石、政勝実子の二男政利に6万石、俗に九・六騒動と呼ばれる分与が生じ、お家騒動に繋がる。
延宝7年(1679)政長が休死(政利の毒殺説もある)し、政長の養子忠国(水戸藩主松平頼元の子。徳川光圀の甥)が本多宗家を継ぎ陸奥国福島藩(福島県福島市)15万石に転封。
忠英が山崎藩(兵庫県宍粟市)1万石の藩主となる。
政利は明石藩(兵庫県明石市)6万石へ転封となるが、その後の素行で減封を兼ねた転封の末除封となってしまう。
天和2年(1682)忠国が播磨姫路藩15万石に転封。
宝永元年(1704)3月21日忠国が死去し、忠国三男の忠孝が宗家を継ぐが幼少であったため越後村上藩(新潟県村上市)に移封となった。
宝永6年(1709)に忠孝が12歳で早世。
宝永7年(1710)忠英の長男忠良が宗家を継ぐこととなった。しかし15万石から5万石の減封となり三河刈谷藩(愛知県刈谷市)に転封となってしまう。
正徳2年(1712)7月12日忠良は更に下総古河藩(茨城県古河市)へ移封。

忠朝の男子の血筋としては、宗家を継いだ★政勝→山崎藩主★忠英の系譜になる。
・【本多宗家】忠英の長男★忠良は本多宗家を継ぎ→長男★忠敞(急死)→養子の忠盈(信濃国松代藩主真田信弘の六男)→忠敞長男★忠粛→忠盈実子→養子忠顕→四男忠考→婿養子忠民→婿養子忠直→忠考の孫忠敬……
・【山崎藩主】忠英の次男★忠方→忠英三男★忠辰→長男★忠堯→妹婿☆忠可(越前丸岡藩主有馬孝純の次男)→長男☆忠居→次男☆忠敬→忠居四男☆忠鄰→次男☆忠明が山崎藩最後の藩主となる。

本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」

一心寺本多忠朝の墓 一心寺本多忠朝の墓案内板

本多忠朝の墓
これまでも一心寺は請西藩林家関連で林吉忠林忠交の墓を掲載したが
本堂向かいのひときわ大きな五輪塔が忠朝の墓である。
御影石で、総高1丈2尺、高さ2尺7寸、幅・厚さ3尺8寸程。
正面刻文
 前本多出雲守藤原朝臣忠朝
 三光院殿岸譽良玄居士
 元和元乙卯年五月七日

『攝津名所圖會』挿絵にも西の塀に面して門の内側に「戦士墓」が描かれている。古墳解説は以下の通り。
本多出雲守忠朝の墓。元和元年五月七日天王寺表に於て戦死。法諱三光院殿岸誉良玄居士と號す。是本多平八郎の舎弟なり。次下に雙ぶは忠朝家臣塔九基、何れも戦死なり。
小野勘解由塔・青山五左衛門塔・加藤忠左衛門塔・大屋作左衛門塔・山崎半右衛門塔・中根権兵衛塔・石川半彌塔・臼杵七兵衛塔・大原長五郎塔

※寛政8(1796)~10年刊。更に古い延宝3年(1675)刊行の『蘆分船』挿絵には墓地を囲む塀はない

一心寺本多忠朝の墓左手 一心寺本多忠朝の墓右手

▲忠朝の墓の左右に共に戦死した家臣達の墓が並ぶ
本多出雲守家臣五輪塔
小野勘解由……了信院峯譽残雪信士
靑山五左衛門……釋道凉
 考子 忠左衛門尉改治 共に戦死
臼杵七兵衛……建叟善功(切)
石川半彌……榮林宗惟
加藤忠左衛門……眞淸信士
大屋作左衛門……正光福心
大原長五郎(七兵衛)……月山信士
山崎半右衛門……悦堂宗近(作・斤)
中根權兵衛……眞(奥)月淨閑(榮)

・本多出雲守家臣石碑墓
 村越茂兵衛
 藤平治右衛門
 土(大)屋太郎八
 土橋加兵衛
 稲毛市郎兵衛

一心寺本多忠朝の墓の刻銘 一心寺の酒封じのしゃもじ

▲忠朝の墓の刻文と酒断ち祈願のしゃもじ(祈願内容が見えないようにボカシています)

■「酒封じの神」としての忠朝
酒封じ祈願 本多出雲守忠朝(ほんだいずものかみただとも)の墓(案内板文面)
本多出雲守忠朝は徳川家康公四天王の一人といわれた本多忠勝の第ニ子で、関ヶ原の合戦に武功をあげ大多喜五万石に封ぜられていたが酒を過したため大坂夏の陣(1615)において戦死した。死に臨んで深く酒弊を悔い将来酒のために身を誤るものを助けんと誓って瞑目したと伝えられる。
爾来、酒封じの神として酒に苦しむ当人や家族の多数参拝するところとなり酒弊の除滅に信を得ている。
墓碑周辺の杓文字(しゃもじ)は参拝者による断酒祈願 墓碑は元和2年(1616)に建立されたものである。

江戸時代の名著には見られない一心寺独特の伝承ではあるが、忠朝が飲酒のせいで大坂の役での大事に貢献できず、切腹同等の覚悟で天王寺の決戦に臨み倒れた際「己を真似てはいけない、我は酒のために身を誤る者を助ける霊となる」と言い遺したとされ、忠朝の墓に願えば禁酒・節酒が成就すると伝わり、いつの間にか酒封じの神として評判になったという。
古くは祈願は妻や親など禁酒する本人以外が、本人の知らない間に参拝しなければ無効とされていた。

現在は本人の祈願も含めて、墓の周囲に絵馬の代わりに断酒祈願用のシャモジを下げる形式である。
東国武将が討死した西国の地で酒難除けの威霊として多くの人を救ってきた一面が興味深い。
因みに大多喜の酒といえば、忠朝が提供した酒をドン・ロドリゴが褒めている。

坂松山高岳院一心寺(はんしょうざんこうがくいんいっしんじ)
所在地:大阪府大阪市天王寺区逢阪2丁目8-69

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
○本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

▼参考図書
・『攝津名所圖會』『摂津名所図会大成
・一無軒道冶『葦分船・難波百絶詩草
・鎌田春雄『近畿墓跡考
・大阪市教育部共同研究会『大阪風土記
忠朝[1]史料に同じ
▼関連サイト
・一心寺:http://www.isshinji.or.jp/(忠朝の墓の酒封じ祈願と冥加料の案内あり)
・天王寺区:http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/