投稿者「kazusa」のアーカイブ

本多忠朝[4]-大坂夏の陣天王寺の戦い

大阪夏の陣天王寺の戦い布陣図と比較地図

■大多喜出陣
慶長19年(1614)12月13日に本多忠朝の嫡男(本多政勝。内記)が生まれる。

元和元年(1615)大坂冬の陣の和睦直後大御所徳川家康は外堀のみ埋める約束を反故し内堀まで埋める等省みず、3月には遺恨を積もらせた豊臣家の再挙の報が駿府に届いた。
幕府より今まで1万石につき槍100本であった配備を、槍50本と鉄炮20挺とする通達があり、忠朝が3月23日付けで秋田実季らに写しを転送。

4月1日東軍諸将に将軍上洛の報を出し、近江国瀬田(滋賀県大津市)へ召集を命じる。
6日忠朝の大坂出陣が許される。忠朝は城下の明神社に参拝し、潔く大多喜を発った。
10日将軍秀忠が江戸を出発。忠朝らは東海道を進む。

 

◆余話◆忠朝と火縄銃
上記の幕府の通達からも察せられるよう、合戦で鉄炮が重視されるようになった。
忠朝は、豊後日出藩(ひじ。大分県速見郡日出町)藩主木下延俊(きのしたのぶとし。小早川秀秋の兄)と互いの江戸屋敷に出入りし合うほど親しかった。
そして延俊の国元から鉄炮が忠朝へと贈られたことがある。
※木下延俊は豊臣秀吉の正室寧々の甥で、初め秀吉の家臣であったが関ヶ原合戦で徳川方についた

 

◆余話◆保科正貞に兵を請われる
4月20日に土山(滋賀県甲賀市)に至り、その後瀬田の唐橋(草津とも)まで差し掛かると、編み笠を深く被った若党がひとり、従者2人を控えさせて大多喜勢の行軍のもとへ罷り出でた。
男は忠朝の前で笠を取り捨てて会釈し「我は保科甚四郎正貞。兄との不仲によりこのたびの役に満足に加勢できぬのが遺憾であり、忍んでここまで来ました。願わくば出雲殿の兵を借りて力を揮いたいのです」と打ち明けた。

正貞は信濃国(長野)高遠城主保科正直の三男で、母は徳川家康の異父妹の多劫姫である。
実兄の正光が保科家当主となるが嫡子がおらず小日向家(真田家御分とされる)から養子をとっていたものの、徳川天下において真田家の血筋は冷遇されがちであった。
そのためか、松平家の近親者である正貞を7歳の時に猶子(養子よりは弱い義理の親子関係)とした。
正貞は幼い頃から家康・秀忠に仕え戦時も保科勢でなく徳川本陣に従軍しており、若年の身では保科家の内でも曖昧な立場と、戦国乱世を生きてきた正光の家を護るための世渡りが肌に合わず、早くから兄弟(親子)間が不仲であっても不思議ではないが
時を同じくして、小笠原秀政(信濃松本藩主。正室登久姫は忠朝の兄忠政の正室の姉)の子忠脩(ただなが、ただのぶ。正室亀姫は忠政の娘)も松本城から無断で上洛し従軍を願っているように、国元の留守に耐えられず何としてでも参戦したかったのだろう。

今の忠朝には決戦を志願する念いが痛いほど分かる。
そして次男として生まれ幼くして徳川家康の側近くに仕え、一大名に立身してもなお、本多家では相続の件で宗家からの視線を感じながら常々次男の立場を弁えていた忠朝だからこそ、他家に頼るしかない正貞の思いを汲んだのだろうか。
忠朝は止むを得ずと、正貞に足軽10人に馬と武具を添えて貸し与えた。

※軍記物『難波戦記』『大坂軍記』等では勘当されての申し出とするが、大坂の陣の時点では正貞は高遠に居り、まだ正光は幸松(保科正之。徳川秀忠の隠し子として正光が保護し養子にとる)を預かってもいない。養子絡みの不和ならば左源太のことであろう。
兄の正光軍に属して先鋒を務めた説では、同一軍のため戦功が混同されており、ここでは省く

正貞と同じく、忠朝は浪人の疋田導師の参戦志願も叶えたという。(『九六騒動記』)

 

■大坂夏の陣開戦・河内口の戦い
22日に秀忠は京に至り、家康と密議の上、全軍は大和より迂回し河内道明寺(大阪府藤井寺)に集結し大坂城の南からの攻略を決めた。忠朝は河内口二番手右備となる。
24日河内口(大阪府八尾市)【河内口東軍総数約12万】の右先鋒藤堂高虎(伊勢津藩主)兵5千が淀を発つ。
25日には大和路【大和口東軍総数約3万4千】先鋒の伊達政宗(四番だが先行)兵約1万・二番本多忠政(忠朝の兄)約2千・三番松平忠明(ただあきら。伊勢亀山藩主。冬の陣後に大坂城の堀の埋立奉行を担当)約千らが発ち、河内口の松平忠直、酒井家次等諸将も相踵いで河内へ向かう。

28日に河内口右備え一番手榊原康勝2100と二番手忠朝1千の兵らは伏見より、左先鋒井伊直孝(近江彦根藩主)3200の兵は山城深草山(京都府京都市伏見)から共に河内に向かい、翌日奈良付近に舎営。
5月5日徳川父子が京を発ち、明日の道明寺進軍を所将に命じた。

6日河内口では、明け方に豊臣方の長曾我部盛親(ちょうそかべもりちか)5千・益田盛次300の兵が道明寺の北の八尾村(大阪府八尾市)に達し、徳川方先鋒藤堂勢の先行隊と交戦。
午前5時に豊臣方の木村重成(しげなり)6千の兵が若江村(八尾村の北)に達し、高野街道から迫る徳川方先鋒井伊勢の先行隊へ山口弘定・内藤長秋合わせて1千の兵を差し向け、南の八尾方面に長屋平太・佐久間正頼等右翼隊、北の暗峠越方面に叔父木村宗明300の左翼隊を分けた。
暗峠越の道上には、一番手右備の榊原隊・忠朝隊・小笠原秀政1600・仙石忠政1千・諏訪忠澄540・保科正光600・藤田重信300・丹羽長重200の兵らが徳川本隊からの指示通り控えている。

先鋒井伊隊が激闘の末に木村勢を打ち破るのを好機として榊原先行隊・丹羽隊らが徳川本隊の指示を待たずに宗明を攻撃し、豊臣方(若江八尾方面総数1万1300)を壊走させた。

◆道明寺口の戦いに兄忠政参戦◆
6日午前0時に豊臣方の後藤基次が2800の兵を率いて平野(大阪市平野区)から大和街道を進み道明寺に出るが、後続の真田信繁(のぶしげ。幸村)・毛利豊前守勝永(かつなが)ら1万数千の軍は遅れを取った。
午前4時に豊臣方の篝火を発見した奥田忠次60・板倉重政200の兵らは先鋒水野勝成600の兵を待たずに銃撃戦開始。小松山に駐屯していた徳川方諸隊が大軍で前・側面を攻め、正午まで耐えるも後藤軍は潰え、後続の豊臣勢の追撃にかかる。

河内口、道明寺口両方面の徳川方諸将が追撃し、午後には真田・毛利隊を撤退させた。

 

戦が終わると、徳川本陣の秀忠より明日の決戦はニ番手の忠朝を天王寺口先鋒とする指示が届き、忠朝は喜んで拝命する。
道明寺に甥の平八郎忠刻、甲斐守政朝、能登守忠義を呼び出し「このたびの、我が兄……そのほう達の父(忠政)の働きは立派であった。しかし我こそは抑えに回らず決死の先駆けを致そう」と告げ、芝堤の上で最後の盃を交わした。

忠朝はその夜、細川越中守忠興(ただおき)の陣所へ赴き、自分が討死した後の、まだ赤子の政勝の行く末を托した。
主の覚悟に共鳴した譜第の家臣加藤忠左衛門、大屋作左衛門、藤平治右衛門、臼杵七兵衛らも討死を誓う起請文に血判を押して差し、忠朝は彼らの本望をしかと汲み押戴く。

※軍記物では小笠原秀政(小笠原家は本多宗家と婚戚関係にある)が忠朝の陣営を訪れている。若江の戦で言いつけ通りに徳川本陣の指示を待ち、攻撃が遅れたことを戦後に叱咤された秀政が、同じように鴫野で家康の機嫌を損ねた忠朝と、明日の討死の覚悟を語り合った。

四天王寺南大門 四天王寺五重塔

▲現在の四天王寺南大門と五重塔
豊臣方の猛将毛利勝永本隊が布陣。天王寺口配備の西軍総数は1万2千・外4800人

■天王寺表の戦い
5月7日早天、二度と外さぬ覚悟で兜の結び緒の端を切りった忠朝が先鋒の諸将、浅野長重・秋田実季・松下重綱・真田信吉と真田信政兄弟(共に真田信繁の兄信之の子で信政は忠朝の甥にあたる)・植村泰勝・六郷政乗・須賀勝政らを率いて天王寺口の先手を進む。

忠朝は他隊よりやや前方、右に沼池、左に小丘のある地に布陣。
正午、天王寺南門前に布陣した豊臣方の毛利勝永の先行兵が先走り、物見に来ていた本多隊を銃撃し開戦となった。
豊臣方は、当初の徳川方を誘い入れる予定が狂い、茶臼山に布陣した真田信繁(幸村)が毛利隊へ中止を求めたが、もはや逸る先行隊を抑えることは出来なかった。

本多隊の隊長窪田伝十郎らは、左に布陣する越前少将(松平忠直)軍と共に鉄砲を撃ち掛け押し進んだ。

勝永は毛利勢を二手に分け、本多隊を左右から囲う。
有卦に入る毛利隊左翼が徳川方の真田隊を、毛利隊右翼が浅野・秋田・松下・植村・六郷・須賀隊を猛攻し、越前隊の右手にまで突入する。
先手を取った毛利勢78人が本多勢に押し寄せるも忠朝は勢いを削がれることなく百里(ひゃくり)と名付けた馬に乗り、勝永の本陣めがけ、真一文字に衝き入った。

合わせ備えの諸将が次々と敗走し、本多勢への攻撃は熾烈を極めた。
小野解勘由(かげゆ)ら決死の本多勢70余人を左右に、忠朝は大声で本多出雲守忠朝なるぞと名乗りを上げて槍が折れるまで敵を縦横無尽に突き伏せる。

20余りの傷を負った忠朝の前に、毛利の紺羽織を着た足軽が二間ばかりの所に詰め寄った。
至近距離から放たれた銃弾が、忠朝の臍の上を貫いた。

よろめいた忠朝は、関東勢が崩れていく無残な視界の中で、後方から突き進む熟練の武将小笠原秀政と子の忠脩、忠朝が兵を貸し与えた若武者保科正貞が傷つき血まみれになりながら槍を合わせ、勇猛果敢に先鋒隊を援ける姿が見えた。

馬上で倒れかけた忠朝は気合で堪え、馬を飛び降り、銃創から鮮血が滴るのも物とせず、自分を撃った足軽を薙ぎ倒し、折れた槍を捨て太刀で敵数人を斬り伏せる。
しかし集中砲火に曝され、敵を追って踏み入れた小溝で力尽き、累々の屍骸の間に倒れ伏せた。
大屋作左衛門は主の遺体の上に取り付いて、散々に斬られ、事切れても離さずにいた。
他家臣達も次々に主の傍で討死した。

忠朝の首級は秀頼の御家人雨森傳左衛門が取り、指物は中川彌次右衛門が捕ったと伝わっている。

家臣により百里に乗せて運ばれる忠朝の亡骸が、家康の馬の前を通った時、家康は涙を流して見送ったという。
家康は冬の陣では厳しくあたったが、忠朝を幼い頃から側近くに近侍させ、次男の身でありながら分家を許して城持ちの藩主とする好遇を与えた程だから、思い入れがないはずがない。

この戦いで忠朝軍は74の首級を挙げ、家臣の窪田伝十郎、大原物右衛門、柳田平兵衛、山本唯右衛門、小鹿主馬助の五人に感状が与えられた。

武将として最期まで戦い抜き34歳で大坂に散った忠朝は、大坂一心寺(大阪市天王寺区)に葬られ、後に上総良玄寺(千葉県大多喜町新丁)に分骨し両親と共に眠る。
戒名、三光院殿前雲州岸譽良玄大居士
天王寺村、阿部野村に忠朝の塚があったと伝える書もある。

天王寺からあべのハルカスを臨む 大阪夏の陣図屏風天王寺の戦い

▲時移ろい、忠朝の合わせ備えの諸将達が布陣した地には天王寺から大阪城を望むべく、あべのハルカス(写真奥の高層ビル)が聳えている。
大坂陣図屏風の天王寺周辺、右に忠朝。中央下が真田信繁(幸村)隊、左上が毛利勝永隊。

 

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
○本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

参考史料
・『富津市史
他、大坂役関連古地図・合戦図、記事中に明記の史料や忠朝[1]参考図書等に同じ
大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)画像は一心寺南会所案内パネルより

本多忠朝[3]-大坂冬の陣出陣

慶長十九大坂冬陣之図 大坂冬御陣戦図

▲『大坂冬陣之図』に大坂城から猫間川・沼地・平野川を挟んだ東に忠朝の陣「本多出雲守 三百人」と記されている。『大坂冬御陣戦図』もほぼ同位置に本多出雲の名(一心寺南会所案内パネルより)

■本多忠朝の大坂出陣
慶長19年(1614)ついに豊臣家と徳川家の因縁の対決、大坂の役が開戦となる。
誘因は7月に京都方広寺梵鐘の銘が家康の怒りを買った等諸説ある。

出陣命令を受けた大多喜藩主本多忠朝は大多喜城を発った。
当時の江戸への往来であった睦沢(むつざわ。千葉県長生郡)方面へ向かう筋の途中、道を鼬が横切ったことを不吉な兆しと看做して馬を引き返し、長南(ちょうなん。睦沢の西)境の小土呂坂(おどろざか。大多喜町小土呂)の藪を切り開いて進んだという駒返坂の民話が伝わっている。
これは忠朝が藪から道へ東から西へ真横に通り抜けた鼬を見て江戸への短縮できる道筋を思いつき、西側に新道(本来の行程より3分の2省く)を切開いたのであろう。今の県道150号線に「駒返」の地名が残っている。

10月23日(24日とも)に忠朝は将軍徳川秀忠の江戸出発の二番備の先登となり江戸を出発。
11月には駿河に在り忠朝は東海道の藤枝宿(ふじえだしゅく。静岡県藤枝市)に滞陣。
鞠子宿(まりこ。駿河区丸子)の老中土井利勝から大坂攻めについての書状を受け取り、16日付けで秋田実季(さねすえ。常陸宍戸藩主)ら3人に写しを送っている。
秀忠は関ヶ原遅参の二の舞を踏まぬよう強行軍で11月10日に伏見着き二条城へ登城し、大坂に至り秀忠は大御所家康の陣所茶臼山の前へ陣した。忠朝は上方衆の後備えに布陣する。
大阪城に篭城する豊臣方約10万の兵を、約徳川方の20万の兵が包囲する形となる。

白山神社鳥居 白山神社の銀杏

▲冬の陣本多忠朝陣所跡と伝わる白山神社と物見伝承のある公孫樹(イチョウ)
中濱村白山権現では貞観7年(865)以降端午の日に馬場にて甲冑を着て流鏑馬式を行われることから、射馬に縁故があるとして忠朝は神社前の馬場を陣所とし、この大銀杏に登り豊臣方の動きを偵察したと伝わっている。概ね中濱村辺の布陣図の範囲にあたる。
菊理媛神を奉り明治5年までは白山権現と称し、古来平野川堤防上の境内に榎松などが共に茂っていたが、境内は織田信長の石山本願寺攻や大坂冬の陣で戦火に見舞われ、今はこの銀杏のみが市内の名木(大阪府指定天然記念物「白山神社のいちょう」)として残存する。幹周り約5m、高さ約23m。

 

■今福・鴫野合戦
大坂城の北東10余町、大和川北側の今福(城東区今福)の堤防は今福堤(その西は蒲生村)、今福から南に大和川を隔て2丁余りの鴫野(しぎの。大阪市城東区)の堤防は鴫野堤と呼ばれた。
両地は水田が広がり兵や馬を進めみくく、大坂勢(豊臣方)は今福堤を三箇所堀切り、今福は四重・鴫野は三重に防衛柵を構えて護りを固めていた。

鴫野今福古戦場碑 鴫野今福古戦場案内板

鴫野古戦場碑(大阪市顕彰史蹟)

11月23日に上杉景勝(かげかつ。上の布陣図で米沢中納言)5千の兵が鴫野口に到着し、掘尾山城守忠晴(ほりおただはる。松江藩主)800の兵の南に陣を置く。
24日に佐竹右京大夫義宣(出羽国久保田藩主)千五百の兵が清水村から鯰江村に移動し今福口から東の村に陣した。
本多忠朝は、兄忠政の木津への陣替で、それまで忠政が滞在していた陣に真田信吉ら7名の武将と共に入るよう命じられる。

25日家康は天満川に流れる大和川を堰き止め城への攻め口を得ようと、上杉・佐竹らに侵攻命令を出す。
更に後詰めが必要とみた徳川秀忠は、本多忠朝・掘尾忠晴・松平丹波守康長(常陸笠間藩主)・丹羽五郎左衛門長重(にわながしげ。常陸古渡藩主)・成田左馬助氏宗(うじむね。下野烏山藩主)の兵らを大和川の上に控えさせる。

新鴫野橋から臨む大阪城天守閣 上杉景勝陣八劔神社

▲現在の新鴫野橋から見た大阪城と鴫野の伝上杉景勝本陣跡
新鴫野橋は江戸時代に大坂城から鴫野方面へかかる鴫野橋のあった地に新設された。
現在の鴫野古戦場跡傍の八剱神社は上杉景勝の陣地跡とされている。

26日早朝、鴫野の上杉は予め偵察を出して鼓に銃隊伏せておき、大坂勢に向け撃ちかかり開戦。
今福の佐竹も今福堤に進み、第1柵を守る矢野和泉守正倫(大野治長の将)・第2柵を守る飯田左馬介家貞を撃破。3柵を守る大谷大学吉胤も片原町の柵まで退いた。
しかし京口から豊臣家の重臣木村長門守重成(しげなり)が加勢し一進一退となる。
正午、大坂城の豊臣秀頼は激戦の今福へ出陣を願う後藤基次(もとつぐ、又兵衛)を、鴫野には速水甲斐守守久ら諸将を援軍に出した。

天満から援軍に出た渡辺内蔵介糺は途中で本多忠朝・浅野采女正の陣の前に出て激しい銃撃を受け引き揚げるが、再び鴫野へ進軍する。
敵の増援を予期していた上杉軍は第一の柵に鉄砲隊を並べて撃ちかけて防いだ。そこへ今福鼓の後藤軍が側面から上杉軍を射撃して鴫野の大坂勢の進軍を援け激戦となる。
今福の佐竹軍は片原町から堤上に引いて第二の柵内に入るも、次第に大坂勢に押されて柵を捨て退いた。
木村重成は大阪勢に各柵を厳重に守らせ、後藤基次と共に大坂城へと戻った。

上杉景勝は乱戦の末に大坂勢を撤退させ、佐竹軍へ援兵を出し大和川を渡らせた。
東西両軍疲弊し大坂勢は退却、東軍も追撃は行わなかった。

若宮八幡大神宮 若宮八幡大神宮佐竹義宣陣跡碑

▲蒲生若宮八幡大神宮の大坂冬の陣佐竹義宣本陣跡由緒之碑

その夜、疲弊した佐竹軍に代えて忠朝が今福に配備される。
忠朝には浅野采女正長重(浅野長政の三男)、仙石兵部大輔忠政(仙石秀久の3男)、秋田城介実季(宍戸藩主)、新庄越前守直定(麻生藩主)、真田河内守信吉(真田信之の長男)とその弟の内記信政等を援助につけた。
鴫野の守りは掘尾忠晴に代わらせようとしたが上杉軍は交代を拒んだ。

 

■忠朝は名誉挽回を決意する
膠着状態の末12月20日に和睦が成立し、豊臣方は大坂城の外堀を埋める条件を飲んだ。
さて、開戦前に忠朝が家康の機嫌を損ねため「本多家代々の武名を汚したからには、今度は討死してでも武名の汚辱を洗おうと心に固く決めた」と『本多系譜』をはじめ様々な家伝や軍記に描かれている。

開戦前の失態を合戦後になって悔やむのは不自然であり、陣地や他武将との混同や後の忠朝の顛末に合わせた創作色が強いが──逸話が正しいのであれば、忠朝は関ヶ原では勇敢な初陣を飾り、ロドリゴの一件で慎重さと他者の気配り、そして新しいことを知識のみでなく実践できる武将であることが窺える。その性格が、長年戦場で家康を大いに援けた父の忠勝の剛直さに比べ頼りなく思ったのか。
尚、冬の陣で家康に叱咤されたのは忠朝だけでなく、秀忠をはじめ諸武将に伝承が残っている。それが最大の強敵に臨む将達への家康流の活の入れ方だったのかもしれない。

※『駿府記』では開戦前の黄昏に天満表(兄の忠政が陣している)に陣した本多出雲守「忠將(将)」が徳川本陣に参じて、川や藪が深い難所のため陣地替えを申し出て、大御所家康の不興を買ってしまう。
玉造口とする史料もあるが、玉造口と天満口両方の沼地の足場作りの様子のある『當代記』では布陣時の大御所の指示に応答したのは兄の忠政であり、忠朝ではない。

軍記物や講談の題材にも仙波舟の様子、築造や堀の件で異議を唱えたりと様々。
家康に京口の水を調べるよう命じられた忠朝は水の勢いがとても強いと報告するも、井伊直考に調べさせると水は浅くて渡り易い状態であると判明し、家康は「出雲(忠朝)は父忠勝より劣っている。川の水のことは女子供でも分かるのに、どうして出雲守が働かないでいられようか。出雲守を行かせたのは心あってのことと思わなかったのか」と機嫌を損ねた等。
戦の他にも『関根織部物語』等で忠朝が間に合わせの蝋燭を献じてしまう逸話もあるが、根古屋城下を継いでいわゆる職人町の一角がある大多喜から年々家康に献じていた経緯を考えると信憑性は薄い。

ともあれ、戦が始まってみれば忠朝は渡辺軍を一度撤退に追いやり、配備の面でも家康から信頼されていたことは確かであろう。
そして早くも翌年には忠朝が武将として立て直した決意が奮起することとなる……

新喜多新田会所 新喜田新田会所跡大和川地図

▲後世かつて大和川の流れていた土地を開墾した新喜多新田会所跡
忠朝は大和川沿いにも布陣している。
大和川は宝永元年(1704)の付け替え工事で柏原あたりから真っ直ぐ西に流れ込むようになった。案内板地図は明治18~19年頃の地図に新喜多新田(しぎたしんでん)の場所を書き加えたもの

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
○本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

▼参考図書
・『東成郡誌
他、大坂役関連古地図・合戦図、記事中に明記の史料や忠朝[1]参考図書等に同じ
▼関連サイト
・城東区:http://www.city.osaka.lg.jp/joto/
・大阪城天守閣:http://www.osakacastle.net/

大多喜藩主本多忠朝(まとめ)

大阪の陣天王寺の戦い本多忠朝
この『大坂夏の陣図屏風』や軍記物での本多忠朝は「黒色威(くろいとおどし)胴丸具足、鹿角の立物の黒漆冑、蜻蛉切の大身槍」と、父忠勝の姿を継承したいでたちで死闘の場面が描かれている
※本多忠勝の鹿角甲は実際には長男の忠政に贈られているので戦図屏風の誇張演出と思われる

◆物語に描かれた忠朝の姿◆
忠朝独自の姿は様々な軍記物に共通して、愛馬「百里」に乗り、手元より先を八角にした長さ八尺(約2.4m)重さ十六貫目(約60Kg)の鉄の棒を軽々と引提げ、敵を薙ぎ倒す怪力ぶりを描写されている。
夏の陣での忠朝のいでたちは、深紅の緋縅(ひおどし)の鎧、父から譲られた忠信の兜(天正18年7月16日忠勝が宇都宮で豊臣秀吉から拝領した源義経家臣の佐藤忠信の兜)を着け、馬は浅野永重から贈られた名馬「江戸三寸」。
前年の冬の陣では講談『真田三代記』で穢多ヶ崎の要塞見積に赴く際に、黄糸縅の鎧に鬼面を戴き、馬は名馬「中黒(なかぐろ)」等。

▼記事リンク
本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」とその後のあらまし

※戦国武将として創作色が強い軍記物からの逸話も、地域史に採用されている類は取り入れています

「日墨友好発祥の地」御宿

約400年前の1609年9月30日新スペイン船サンフランシスコ号海難者救出をきっかけに現在の御宿は「日墨友好発祥の地」と呼ばれている(※墨西哥=メキシコ)

日西墨国交通発祥記念碑 日西墨国交通発祥記念碑

■昭和3年(1928)10月1日岩和田轟台に日西墨三国交通発祥記念之碑建立
にっせいぼくさんごくこうつうはっしょうきねんのひ。
高さ17.5m鉄筋コンクリート造りで白鳳石(はくほうせき)が張られた白亜の塔。通称メキシコ塔。
敷地の轟台は寛永年間に黒船が浦賀に来航した際に、幕府の命令で大多喜城主大河内松平領主が砲台を設置した「猫のつら」という場所。
報知新聞記者藤平権一郎が建設を進言し、森矗昶(もりのぶてる。夷隅郡出身の衆議院議員)らが発起人となった。

大東亜戦争では標的になるとして黒く塗りつぶされたが、戦後の昭和33年(1958)11月27日に再び白い姿に改修し、スペイン大使・メキシコ副領事の参列で竣工式が行われた。
昭和63年1月に日西墨国交通発祥記念碑が「房総の魅力500選」に選定。

日西墨国交通発祥記念碑題字 日西墨国交通発祥記念碑 日西墨国交通発祥記念碑建立由来
▲塔前面には青銅製の徳川公爵の題字、側面にスペイン国王の御親筆、メキシコ大統領メッセージ

日西墨国交通発祥記念碑日本語案内板 日西墨国交通発祥記念碑英語とスペイン語案内板
案内板:千葉県指定重要史跡 ドン・ロドリコ上陸の地
日(日本)・西(西班牙/スペイン)・墨(墨西哥/メキシコ)国交通発祥記念碑由来記
1609年(慶長14年)スペイン領フィリピン総監ドン・ロドリゴを乗せた帆船サンフランシスコ号はフィリピンからメキシコに向け航海中台風に遭遇し漂流、この岩和田海岸に座礁した。秋9月30日未明のことである。
乗組員373人中56人は溺死、残る317人は岩和田村民により救出された。この時海女たちは、飢えと寒さと不安にうちふるえる異国の遭難者たちを、素肌で暖め蘇生させたと伝えられている。大多喜城主本多忠朝の判断により遭難者たちは37日間岩和田大宮寺に滞在、村民の手厚い保護を受けた後、江戸城に至り将軍秀忠に謁し、更に駿府に至り家康に謁し、翌1611年聘礼使ビスカイーノの来日、そして1613年支倉常長のメキシコ。スペイン・ローマ特派など、一連の史実はすべてこの岩和田村民の心意気に発するものである。
我らの祖先の美挙を後世に永く伝えるため、また永遠なる国際親交を祈念して、昭和3年10月1日森矗昶、浅野重雄等発起人となり、この日西墨交通発祥記念碑が建立された。

 

■昭和53年(1978)8月7日国際姉妹都市会議で御宿町とアカプルコ市、大多喜町とクエルナバカ市との間に姉妹都市協定が結ばれる。
ロペス・メキシコ大統領来訪記念碑 ロペス通り記念碑

▲「ロペス・メキシコ大統領来訪記念碑」「ロペス通り記念碑
昭和53年11月1日。国賓として来日されたホセ・ロペス・ポルティーリョ大統領は、この日、日西墨国交通発祥の地である、我が御宿町を訪問された・大統領は、若者たちのかつぐ、みこしに乗り、日の丸の扇を高くかざし「エルマーノ!」(兄弟よ!)えお連呼し、町民の歓呼に応えた。
ロペス大統領の来町を記念して平成8年(1996)6月御宿駅前通りを「ロペス通り」と名づけた。

メキシコ塔抱擁の像 メキシコ塔抱擁の像由来 メキシコ塔抱擁の像の額
▲メキシコ塔の抱擁の像
平成21年(2009)に日本、翌年メキシコで400周年の記念行事が行われ、メキシコ国から人類愛の象徴としてブロンズ像の「抱擁」が寄贈された。

御宿町は平成22年(2010)9月30日に「日墨友好の絆記念日」の条例を制定。
現在も御宿では昭和54年から開催された大多喜~御宿間約19kmのロドリゴ駅伝は毎年2月に行われており、日墨間で友好交流が続いている。

月の砂漠像 御宿の海網代湾 御宿の海網代湾の岩和田漁港
▲月の砂漠像で賑わう御宿海岸と、メキシコ塔から見える網代湾・岩和田漁港
メキシコ塔(メキシコ公園)所在地:千葉県夷隅郡御宿町岩和田702

 

大多喜メキシコ通り メキシコ通りの由来

大多喜のメキシコ通り(メキシコ大統領来町記念)
ロペス・メキシコ大統領の大多喜町訪問を記念して大多喜字三の丸から総南博物館(大多喜城)までの道を「メキシコ通り」と命名した。
所在地:千葉県夷隅郡大多喜町大多喜

本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ

御宿岩和田田尻海岸のドンロドリゴ上陸地 ガレオン船サンフランシスコ号

岩和田の上陸地サンフランシスコ号(絵は日西墨国交通発祥記念碑案内板より)
サンフランシスコ号が約400年前の9月30日に漂着した海岸を、10月フィリピン沖・北西太平洋に台風が発生し日本近海北太平洋まで低気圧が覆う日に撮影。雲ひとつない快晴だが南から海岸めがけて激しく波が打ち付けていた。

ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルーサ(Rodrigo de Vivero y Aberrucia)
通称ドン・ロドリゴ(Don Rodrigo)はヌエバ・エスパーニャ(新スペイン。江戸での呼称はノビスパン。現メキシコ)第2代副王ルイス・デ・ベラスコの甥にあたり、1564年にヌエバ・エスパーニャ、現在のメキシコのプエブラ州テカマチャルコ市に生まれる。母は前夫の広大な領地を引き継いだメルチョーラ・デ・アルベーサ。
12歳になるとスペイン貴族の父ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコはロドリゴを当時のスペイン国王フィリペ2世の第4夫人アナ王妃付の小姓としてスペイン本国へ送り出した。
1584年にロドリゴはヌエバ・エスパーニャに戻り1595年6月にサン・フアン・デ・ウルア要塞の城番、1599年3月にヌエバ・ビスカヤ(フィリピン北部。16世紀の頃よりフィリピンはスペインの植民地となりヌエバ・エスパーニャ副王領として1571年マニラに総督府が置かれた)総督、1600年3月にタスコ鉱山町長官に任じられた。

■サン・フランシスコ号の日本漂着
1608年に未着任の総督府長官ドン・フアン・デ・シルバに代わり、44歳のドン・ロドリゴが臨時総督府長官となった。ヌエバ・エスパーニャのアカプルコを出発(1608.3/15)し、三ヵ月後にマニラの南にあるカピテに入港。(6/15着任)
前年マニラで暴動を起こして捕縛されていた日本人達の処罰について、ロドリゴは調査の上で200人の処刑を取下げて追放処分、明らかに海賊行為を行っていた犯人は投獄した。徳川家康宛に暴動者の日本への強制送還と暴動再発防止のための渡航制限(日本から年4艘)を通達をすると返事に異議申立は無かった。

翌年ロドリゴは任地での勤めを終え(1609.4)カピテ港から約千tの大型ガレオン船「サン・フランシスコ号」で随伴船の「サン・アントニオ号」「サンタ・アナ号」と共に帰途につくが、出発が遅れて(7/25)航海中に台風の季節となりフィリピン海から東の北西太平洋上で嵐に逢って難航してしまう(8/10)
サンタアナ号は豊後(大分県)白杵港に避難(9/20)、サンアントニオ号は無事にアカプルコへ帰国できた。

慶長14年9月5日(ロドリゴの記述は1609.9/30)夜10時、サンフランシスコ号は33度の計測地(実際は35度。彼らの海図では浦賀にあたる)で座礁。
寒い海上で身動きが取れないまま帆船は破損していき、ロドリゴ達は命からがら陸地に泳ぎ着いた。
カトリック教徒の日本人同行者に、海辺にいた者との通訳を頼み、漂着地がオンダキ(大多喜/おおたき)藩領のユバンダ(岩和田/いわわだ。現御宿町)であると教わり、海図が間違っていたことに気付かされた。
日本漂着は……13年前(慶長元年8月、1596.10)豊臣政権下のに同じように長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の治める土佐国浦戸(高知県高知市浦戸)に漂着したスペイン船サン・フェリペ号は元親に一度は保護されたものの、日本を害するようなキリシタンの弾圧を推し進めていた秀吉が派遣した奉行に積荷を没収され、残留した宣教師が翌年処刑された不幸な事件があり一行は不安であったが、ロドリゴは今の最高権力者がマニラから公式書簡を交わした徳川家にあることを頼み思っていた。

海岸から粗末な道を通り1レグア(4~6Km。古いスペインでは約4.19m)先の集落を訪れると、乗船員と同じ数程しか住民が居ない小さな村であったが、村民達は遭難者達に心から同情して惜しみなく食物を差し出し綿入りの着物を貸し与えた。
乗船者373名のうち56名は溺死し、生存者は317名であった。

御宿駅海女像 御宿岩和田の大波月海岸

▲御宿駅の海女像と岩和田の大波月(おおはづき)海岸
村人に救出され、凍死寸前の者は──火に当て急に体温を上げると心臓への負担で死にかねないという海辺の村人の知恵で──村の女達が人肌で温めたという話も伝わっている。
上陸地の田尻海岸をはじめ岩和田の浜は殆どが崖のような岩肌の下にあり「岩和田の村人達の食事は主食の米の他は殆ど大根や茄子等の野菜で、魚は時々だった。この海岸では漁獲は用意ではない」旨をロドリゴは記している。

 

■大多喜城主本多忠朝の厚遇
岩和田を領する大多喜城に異国船漂着の知らせが届くと、城主本多忠朝は、外国人の無断入国が許されない時世において一行の処遇を慎重に扱うためにまずは岩和田の浜に家来を視察に出した。
豊臣政権時に比べればキリスト教の弾圧は緩められたものの、徳川も寛容とは言えない。江戸幕府に睨まれればお家取り潰しも有り得るため城内での会議では、一行を全て切り捨てる意見が強かった。しかし忠朝は視察が戻るまでは首を縦には振らなかった。
そしてロドリゴ達は礼儀正しく、財宝一式流され苦境にあるとの報告を受けた忠朝は、速やかに一行を付近の寺に預けさせ、厚遇するようはからう一方、異国人が無闇に他所へは行かないように命じた。心から温情をよせつつも拙速な行動に出ず適切な処置をとったのだった。

御宿大宮神社参道 御宿大宮神社

▲大宮神社の参道と拝殿
ロドリゴ達が滞在した三嶽山普賢院大宮寺の場所は不明だが、大宮神社付近と推測されている。大宮寺は文永6年(1269)創建といわれ、修験道聖護院の配下であった。
大宮神社は日本武尊の東征の折に大物主命を勧請したものと伝わっている。元禄12年(1699)に火災により大宮神社は白髪台に移され、その後も度々類焼し嘉永元年(1848)4月7日に現在の東山に遷座した。現社殿は昭和24年に新築された。

数日後に忠朝は威儀堂々と300人余りの武装した家臣を率いて大宮寺を訪れた。
(この時の南蛮船検使は柳田平兵衛、小鹿主馬、山本忠右衛門、大原惣右衛門)
領主の忠朝を村人達は深い土下座で迎えたが、西洋人のロドリゴは立って敬礼した。
忠朝は馬から降りて、自らロドリゴへと近づく。
そして、ロドリコの手をとり、接吻をした
村々を領する城主としてはうら若い28歳の忠朝は、ロドリコも「マドリッド市で最も宮中の礼に慣れた者がするような返答」と感嘆するほど完璧に洋式の作法を心得ていたのだ。
着席する際も信頼の証にロドリコを左(刀で切りかかりにくい上座)に座らせ細やかな心配りにを見せた。

金糸と絹糸で刺繍を施された見事な緞子(どんす。別色の経糸と緯糸で模様を織った高級織物)の着物4着、刀一口り、地産果物、日本酒、彼らが好む乳を出す牛一頭や鶏数羽までもを贈り、そして江戸幕府への報告を約束し、村に滞在中の乗船員一同の食事も支給された。
幕府へは、アントン・ペケニョ(Anton Pequeno)少将とファン・セビコス(Juan Sevicos)船長に書簡を持たせて派遣し、20日以内で迅速に手続きを済ませ秀忠の使者と共に戻った。

 

■大多喜城での歓待
10月13日に江戸へ向かうロドリゴ一行が大多喜の町(『日本見聞録』に人口1万~1万2千人と記している)の宿に着くと城主忠朝の使者が訪れ、町よりも高い所にある大多喜城へ招かれた。
城は堅固な構えで、城兵は礼儀正しくロドリゴを屋敷に案内し、忠朝も20人程の家来と共に屋敷の入口で出迎えた。城主の屋敷の金銀と美しい装飾の部屋の数々を見学し、暖かい歓待を受ける。
夕食の時間になると、忠朝は日本で親しい客人にする風習通りにロドリゴのための初めの一皿を持参した。肉、魚、果物他様々な美味が供される。
そして忠朝は旅立つロドリゴのために、立派な馬を一頭与えた。

忠朝の温情は自分の領地に居る間だけではなく、この先ロドリゴと再会するまでの六ヶ月間、忠朝は絶えずロドリゴに書簡を送って親しみ続けた。

大多喜に逗留して10日目に、家康の外交顧問である英国人航海士ウィリアム・アダムス(後の三浦按針/みうらあんじん。慶長5年リーフデ号漂着時より家康に召抱えられた)から通行証と朱印状を受け取る。
家康と秀吉名義の朱印状は以下のことが命じられていた。
・海岸に漂着した積荷は全てロドリゴのものとする。
・ロドリコは将軍徳川秀忠の江戸城と、大御所家康の住む駿府城へ行き謁見すること。
・城への道中の領主は歓待し旅程に必要な物資を提供すること。

慣例通りに漂着物を将軍のものとする所を、その貯蔵庫の鍵をロドリコ達に渡して事実上保管物を受取るというはからいとなった。
当初の忠朝の指示が家康の意に適っていた明断であったと知らされたロドリゴは、両者に今後の日本とスペインの友好的な外交の可能性を見出した。
一方、鍵を渡されたセビコス船長は難破で失った積荷の盗難を疑い、長時間かけての返却により後のマニラでの売却値が半減したことで、損害を日本側の責任としてスペイン王に訴えることになる……

上総国大多喜城 大多喜城大手門跡

▲現在の上総大多喜城本丸跡地の模擬城郭と大手門跡地

 

■江戸にてロドリゴは将軍徳川秀忠に謁見する
忠朝から馬が送られ、江戸への道中はスペイン国王の使者として歓迎され快適であった。
江戸に着くと地位の高い武士達に招きを受けたが、将軍が宿を用意していたので断った。
夕方5時に宿につくまで交通整理の人員が必要になるほど人だかりができて休めず、将軍の側近に頼んで宿の門に衛兵を立たせて無断進入不可の禁令の札を掲げて貰う。
江戸は人口15万、物価が低く小額で愉快な生活が得られ、市街は美しく清潔で家は木造、二階建ても多く、欧州に比べて外部より内装に美点をおいている等、詳細に江戸風俗や豪華絢爛な江戸城の様子が記されている。

江戸に到着して2日後に将軍は海軍司令官(船手方向井兵庫頭正綱)を通して部下が2度訪れる。午後4時頃に江戸城へ向かい、将軍秀忠に謁見した。ロドリゴが秀忠の手に接吻する間は同行者は控えさせ、ロゴリゴ一人が部屋に通された。
秀忠は色黒だが容姿は良く、微笑してロドリゴを励まし、日本に居る間の面倒を見るとして安心させ、また航海と帆船について尋ねた。
ロドリゴが駿河行きの許可を願うと、大御所(家康)や道中各所への連絡のため、出発は4日後とした。
駿河までは西洋と同じく村々があり、街道は両側に植えられた松並木が心地よい日陰をつくり、2本の樹を植えた小山(一里塚)が正確な距離を示し、絶えず人が行き交っていた。
5日後に駿河に着くまでの道中は将軍の連絡が行き届き行く先々で手厚いもてなしを受けた。

 

■駿河にてロドリゴは大御所徳川家康に謁見する
駿河は人口12万で街は江戸並に美しいとは言えなくても気候はとても良い。ここでも見物人に囲まれ難儀したが、宿に着くと家康の家臣が12枚の着物を贈り物として携えて来て、宿泊中も菓子や果物を提供した。
6日間滞在し、翌日2時にようやくお目通りとなった。(1609.10/29)
上座を勧められ、家臣から謁見についての長い説明を受け、家臣は大御所に伺いに行く。
江戸城ので将軍に謁見した時と違いロドリゴは大御所に触れることは許されず、同行者も大御所の見える場所でひざまずくよう命じられた。
家康は60歳程に見え秀忠のように色黒でなく、中背で肥えていて温雅であった。励ましの言葉をかけ帽子を脱ぐよう勧め、感激したロドリゴは家康の手にキスをし感謝の意を示した。
翌日ロドリゴはコウセクンドノ(上野介殿。本多正純)の屋敷を訪れ、日本語に訳した嘆願書を進上した。
1.日本国内の耶蘇教徒を保護し教会堂の自由使用を妨げないこと
2.日本はスペイン国王ドン・フェリペ(フェリペ3世)との親和を保続すべきこと
3.オランダ人は海賊まがいなことをしフェリペ王の敵なので日本から追放すべきこと

翌日10時に上野介殿が贈り物を携え宿に訪れ、嘆願書に対して大御所は宣教師の迫害はせずスペインとの友好も続けるが、オランダ人には渡来免許を既に与えてあるので変更はし難いとの返答を伝えた。
そしてアダムスに作らせた西洋船の一艘をロドリゴ達を乗せてヌエバ・エスパーニャに渡航させるので、帰国後にフェリペ王に折り返し銀山技師50人を日本へ派遣して貰えるよう、ロドリゴに仲介を求めた。
ロドリゴ自身はサン・フランシスコ号と共に遭難し豊後(大分県)に停泊中の随伴船サンタ・アナ号が乗船出来ない状態なら日本船を利用するとし、西へ向かった。

 

■ロドリゴは京都・大坂を経て九州へ
大御所の保護のもとで快適な旅をしミアコ(都。京都)に立ち寄る。ロドリゴは馬で人口は34万人の大都市街を一周し、所司代の板倉伊賀守勝重の世話になり見聞する。京市中には5千の大きな寺社があり遊里の妓婦の類が5万人になると聞く。3日間かけて万広寺大仏殿や三十三間堂等の名所を見て歩く。太閤(豊臣秀吉)を祀る豊国神社では(生前にキリスト教を弾圧し)地獄に落ちている魂を祀ることに違和感を感じている。

11月24日(1609.12/20)付けで大御所からの鉱夫派遣依頼についての提案──
新スペイン副王に許可を伺うにあたり
・銀山を採掘し精錬した鉱石の半分を鉱夫に与え、残りの更に半分をフェリペ王のものとする。各鉱山で聖祭が出来るよう司祭を置く。大使にスペイン人の司法権を与える。
・オランダ人の日本追放の再検討及びフェリペ王の日本来航時の保護
・フェリペ王がマニラへ行く際の人員派遣と必要物資の現地価格(関税無し)での提供やそのための事務所や礼拝所の設置許可、関東にスペイン船用の港を開港、駐在者の日本国内での歓待──の協定案を書状にし、パードレのルイス・ソテロに伝達を託した。

28日(12/24)クリスマスイブに伏見のフランシスコ会(カトリックの修道会)のパードレ(司祭)ヌエストラ・セニョラ・デ・ロス・アンヘレスの住院に泊まり教徒達とミサに参加。
伏見を後にし、淀川を下って1日で人口20万の大坂に到着。ヌエストラ・セニョラ・デ・ラ・コンセプションの住院に寄宿。
大坂からフネア(船)で十数日かけて豊後へ向かう。

12月12日、ロドリゴが豊後滞在中に肥前島原(長崎)のキリシタン大名有馬晴信──2年前に晴信の朱印船の乗組員がポルトガル貿易船マードレ・デ・デウス号の船員と起こした騒動をマカオ総司令官アンドレ・ペソアが鎮圧し日本側に多数の死傷者を出した──が長崎に入港した因縁のデウス号を包囲した。乗船していたペソアは捕われる前にデウス号を爆沈させ自殺に至るという貿易上深刻な事件が起きた。
まだ日本での役目を終えていないと考えたロドリゴは、補修後にマニラへ出航するサンタアナ号には同乗を取止めた。日本に批判的なセビコス船長はマニラへ発った。(1610.5/17)

 

■ロドリゴは駿府へ戻り浦賀から帰国する
ロドリゴは再び駿府に戻り、家康の招きを受けて数ヶ月滞在した。ルイス・ソテロに託した協定案についてはオランダ人追放と銀の報酬以外は家康の承認を得られた。
フェリペ王と副王に贈り物と親書を携えて派遣する使者はロゴリゴがアロンソ・ムニョスを推薦し、彼に出航の許可証が渡された。

慶長15年6月13日(1610.8/1)ドン・ロドリゴ一行は、アダムスが建造した和製ガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラ号(按針丸。120t)で浦賀からヌエバ・エスパーニャへ向けて出航した。
家康からは金貨4千ドゥカドが貸与され、按針丸はアカプルコで売却し代金を日本人乗船者の帰国費用にあてるという厚遇を命じられた。
この船には京都の御用金匠後藤庄三郎の仲介で京商人田中勝助・朱屋隆成・山田助左衛門他21名の日本人も同乗し、これが日本とメキシコの交通発祥の契機となったと言われている。
一行はマタンチェル(現メキシコ西海岸のナヤリット州サンブラス)を経て(10/27)、アカプルコ港に着いた(11/13)。

 

◆余話◆セビコスの日本批判とビスカイノの来日
一方、サンフランシスコ号のセビコス船長は、マニラに着くと日本との友好批判を国王に訴える書簡を出している(1610.6/20)
難破船の漂着物の倉庫の鍵を預かったが、流された財貨は長期間受取れず(ゼビコスは日本人の盗難に遭ったとも主張)売った時には価格が下がってしまい50万ペソの損害で、日本人が難破したサンフランシスコ号の全ての財貨を略奪したものとして大御所に使者を送って訴え、将軍に財貨の返還要求を認められたものの、難破から35日も返されなかったのは日本人の道徳心の欠如である。日本人は宗教の信仰が薄く、宗派争いもしない。専制政治で領民は厳しい生活と立場を強いられること。日本人は勇敢だが両国で海戦になれば航海・造船技術に勝るスペインが勝つ予想。長崎でのポルトガル船焼討事件や、フィリピンでの暴動等日本人の異国に対する悪事等を書き連ねた。

慶長15年11月に使者ムニョスがマドリッドに着き、家康と秀忠の贈り物と書簡を王に捧げた。この時の会議では毎年一隻の商船アカプルコから浦賀へ渡航させることが決議れたがメキシコ総督府は日本貿易に反対し使者を拘留しスペイン本国に再考を求めた。
慶長16年2月上旬(1611.3)遭難者達の返礼としてセバスチャン・ビスカイノを大使とする一行がアカプルコを出航し4月29日(6/10)浦賀に入港。ラシャやビロード、葡萄酒等を買入れた日本商人たちも帰国した。ビスカイノは将軍と大御所の許可を得て貿易に先駆け海岸の測量を行い測量図を寄贈した。
慶長17年8月21日(1612.9/16)に帰航するも暴風雨に逢い浦賀に入港する。
しかし幕府は不信感をもち──オランダ人からビスカイノの日本近海の金銀島調査隠匿の密告や、カトリック教圏との取引を危険視する英国人アダムスの進言を受けたともされる──ビスカイノの新しい船の建造支援を断った。
※ポルトガル・スペインはカトリック、オランダやイングランドはプロテスタント
この年の3月21日、2年前のポルトガル船爆沈事件に関わる有馬晴信の監視役であったキシリタンの岡本大八(おかもとだいはち。本多正純の家臣)が朱印状の偽造の罪で処刑され、晴信の余罪も発覚した。大八は晴信のようなキリシタン大名と宣教師による領内寺社の抑圧について自白し、幕府はキリシタン大名に対しキリスト教の禁教令を発した。
翌年ビスカイノは仙台藩の藩主伊達政宗の新造船に応じサン・ファン・バウティスタ号で政宗の家臣支倉常長ら遣欧使節(けんおうしせつ。慶長18年派遣)と同乗して月ノ浦(現石巻市)を出航(1613.10/28)し、三ヵ月後アカプルコに到着(1614.1)した。
元和元年(1615)アカプリコから欧州へ向かう政宗の船に、ムニョスの件の使節も同乗したが、日本で強まるキリスト教排斥の影響で親書からは貿易の件は取り消されていた。その後も諸交渉は捗らないまま、日本は鎖国に至る。

 

1620年ロドリゴはパナマ総督に任命され、1627年3月29日にはバジェ・デ・オリサバ伯爵の称号を授かる。
1635年スペイン王により正式に日本との国交断絶が発せられた。
失意もあってかロドリゴはその翌年の1636年にベラクルス州オリサバにて72歳で亡くなり、遺書により故郷テカマチャルコの聖フランシスコ修道院に眠る。

日本との交易協定は叶わなかったが、ロドリゴは日本の様子を『日本見聞録(La Relación Japón)』として詳らかに書き残している。
明治時代になって欧米を歴訪した岩倉具視等がスペイン船遭難の話を聞き、それが日墨交流の契機となったことが日本でも知られるようになった。
明治21年(1888)11月30日、日本とメキシコは日墨修好通商条約を締結。メキシコにとってアジアの国との初めての条約であり、日本は欧米列強国(アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、オランダ)と不平等条約を結んでいた中でアジア以外の国との初の平等条約となった。
明治30年(1897)3月24日元外務大臣榎本武揚はメキシコに36人の殖民団を送る。資金難で数ヵ月に解散となったが、残留した移民は苦心しながら後のメキシコ移住者の基礎を作った。

御宿日西墨国交通発祥記念碑 大多喜メキシコ通り墨西大統領来町記念

▲御宿の日西墨交通発祥記念碑と大多喜のメキシコ記念塔
昭和3年(1928)10月1日に、御宿に日西墨交通発祥記念碑が建立、平成21年(2009)にロドリゴ達の漂着した1609年から400年目の日墨交流記念にメキシコ政府から抱擁の像が贈られた。
昭和53年(1978)11月1日には大多喜町にメキシコ大統領が訪問したのを記念して大多喜城跡までの道を「メキシコ通り」と命名された。

ドンロドリゴ上陸地碑日本語 ドンロドリゴ上陸地碑スペイン語 ドンロドリゴ上陸地案内板

ドンロドリゴ上陸地碑と案内板

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
○本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

▼参考史料
・ドン・ロドリゴ『日本見聞録』
・『御宿町史』
・『上総国誌』
・『房総治乱記』
・『千葉県の歴史』
・『房総の郷土史』
・安藤操『ドン・ロドリゴの日本見聞録
・『日墨交易400年の夢』
・『御宿町の文学・歴史散歩』
・渡辺修二郎『外交通商史談』
・ビスカイノ『金銀島探検報告』
・松島駿二郎『異国船漂着物語
・占部賢志『歴史のいのち
他、資料館等案内、遺跡調査報告、史蹟案内板等
▼関連リンク
・御宿町:http://www.town.onjuku.chiba.jp/
▼小説・児童書
・金井英一郎『ドン・ロドリゴ物語
・小倉明『ドン・ロドリゴの幸運