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会津藩主松平家御廟[1]

松平家廟所拝殿 松平家廟所案内地図

拝殿

会津藩主松平家歴代の墳墓の山は、会津藩初代藩主保科正之(ほしなまさゆき)の嫡男・正頼(まさより)が亡くなった明歴3年(1657)に院内山に開かれ、保科松平家の墓所に定められたと伝えられている。

二代保科正経(まさつね。享年36歳・在位13年)は仏教で、頂上の入峰墓所には三代保科正容(まさかた。松平に改姓し会津葵紋を制定、享年63歳・在位51年)から九代容保(かたもり。享年59歳・在位17年)まで神式で葬られており、ほかに家族や子孫の墓もある。
神道の廟所は碑石・表石・鎭石からなっている。

院内への入口 碑石

松平家院内御廟(まつだいらけいんないごびょう)への入口と三代正容からの碑石
碑石を支える亀石は、初代保科正之が眠る猪苗代の見禰山(美祢山、後に土津神社を建立)がある北の方角を向いている。
碑石の奥の高い場所に灯篭と表石、その上の墳丘に八角形の鎮石(実際の御墓)がある。

保科正之嗣子正頼の墓 中の御庭 二代正経 

▲保科正之嗣子正頼の墓と西之御庭・中之御庭(歴代藩主の側室や子女の仏式墓所)、二代正経の墓

三代正容 四代容貞 五代容頌

▲三代正容、四代容貞(かたさだ。享年32歳・在位20年)、五代容頌(かたのぶ。藩校日新館創設、享年62歳・在位56年)の墓

六代容住 七代容衆 八代容敬

▲六代容住(かたおき。享年28歳・在位5ヶ月)、七代容衆(かたひろ。享年20歳・在位17年)、八代容敬(かたたか。享年47歳・在位31年)の墓

九代容保 松平家の墓 松平家の墓誌

▲九代容保、松平家の墓と墓誌。容保の義姉の照姫もここに改葬された。

会津藩主松平家墓所(院内御廟・国指定史跡)
所在地:福島県会津若松市東山町大字石山字墓山

愛宕神社の松平容保公の像

愛宕神社の容保像 天寧寺からの鶴ヶ城

松平容保公の胸像と愛宕神社から天寧寺への山間から見た鶴ヶ城

戊辰戦争の際には土方歳三戦傷祈願に訪れています。
その頃に鶴ヶ城を眼下に見守れる場所、神社南の天寧寺へ近藤勇の墓を建てたのでしょう。

愛宕神社狛犬 愛宕神社

愛宕神社
里谷池沼の大蛇を鎮める為に京都愛宕(あたご)山の神社の分霊を勧請したという社伝です。至徳元年(1384)に宮町、天正18年(1590)に蒲生氏郷が現在の場所に遷座。上杉領の頃は直江兼続が崇拝したそうです。

所在地:福島県会津若松市慶山2丁目43

興徳寺[1]秋月登之助墓所

興徳寺本堂 秋月登之助案内板

興徳寺本堂
興徳寺は戊辰戦争中に元桑名藩主松平定敬(さだあき。容保の弟)・旧幕府筆頭老中板倉勝静(かつきよ)等の宿舎となり、新撰組副長土方歳三も往来した。
宇都宮城攻防戦での戦死者追悼の為、旧幕府軍衝鋒隊が当時の本堂で慰霊の法要を参列者六百名のもとで営んだ。

 

会津藩士秋月登之助
天保12年(1841)頃生まれる。本名は、江上太郎種明。父は田島代官の江戸又八、16石3人扶持。
江戸で幕府や他藩要人と親交を結び会津のために尽したが結ばず、フランス式の調練を受け幕軍に入り、歩兵第七連隊に転入する。
江戸城開城の際には幕軍陸軍奉行の大鳥圭介らと江戸城に立て籠もり、義兵を挙げて江戸から西軍を退去させようとしたが、大鳥は登之助の志に反して幕軍を率いて会津へ向かうことを決めた。
大鳥に推されて伝習第一大隊長となり、土方歳三が参謀として常に登之助を謙譲しながら補佐したという。

宇都宮城奪回戦にて破裂弾の散丸で脇腹を負傷し、同じく負傷した土方と今市方面に護送された。
会津領内の田島陣屋(福島県南会津)に到着した秋月は、田島代官の父のもとに残る。

その後若松に入り、松平容保と共に滝沢本陣へ赴く。
再出陣した母成峠の戦いで敗戦し鶴ヶ城に入る。女子たちを城内に誘導し、二の丸辺りの馬上で抜身の大刀を振りながら「君に奉ずるのはこの時だ。婦人は内へ男は出て戦え」と叫びつつ西軍兵に打って出たと伝聞されるが、その後の消息は絶えた。

登之助は背が高く色白、巨眼好箇の偉丈夫で、濃紺の上着に緋絨のズボンを履き、胸間に紐長く呼笛を吊るして、部下の兵達に認められるようにと容姿を顕著にしていたという。

 

秋月登之助の墓 秋月登之助墓誌

▲秋月家・原田家・三原家合祀の墓
墓誌には「秋月登之助 明治十八年一月六日 行年四十四才」と刻まれているので、戊辰戦争当時は26~27歳位か。戒名は大心院義翁宗鉄居士。

臨済宗妙心寺派瑞雲山興徳寺(こうとくじ)
弘安10年(1288)鏡堂覚円大和尚が芦名盛宗に招かれ開山。
所在地:福島県会津若松市栄町2-12

参考図書
・『会津戊辰戦史
・早川喜代次『史実会津白虎隊

■■伝習隊と新撰組■■

※蒲生氏郷の墓はいずれ記事にします

長命寺-戊辰戦争の弾痕

長命寺 長命寺築地壁案内板

長命寺(ちょうみょう・ちょうめいじ)
慶長10年(1605)京都本願寺第十二世教如人が蒲生秀行に請い鶴ヶ城下日野町に「本願寺掛所」御坊建立、寛文7年(1667)この地に移り「長命寺」と改めた。

 

長命寺の戦い
慶応4年(1868)8月23日に新政府軍が鶴ヶ城下に押し寄せ、会津側は籠城戦に入る。
28日夜、補給路確保のため城外への出撃を決め、松平容保親子は佐川官兵衛らを黒鉄門(くろがね、鉄門)に召し出し酒肴の振舞いで激励した。この時360人が容保の前で血判し、官兵衛は銘刀正宗(まさむね)を賜った。

29日早朝、朱雀隊・砲兵隊・正奇隊・歩兵隊・進撃隊・別撰隊ら精鋭1500人の決死隊が二の丸屯所を出て本丸北の金蔵前に整列した。官兵衛は諸事情(前日の深酒とも)で遅れ午前7時頃に到着。容保は馬に乗って太鼓門前で見送った。
官兵衛達率いる9隊の藩兵は西出丸の西大手門を出て、外郭の融通寺(ゆづうじ)町門へ至り、守備兵を攻撃しながら新政府軍が拠点とする長命寺へ猛進。
藩兵は寺を包囲するようにして急襲し、一時は陣地を占拠した。

しかし火力で勝る長州・大垣藩兵の反撃は凄まじく援軍も送り込まれ、激しい銃撃に晒され奪還されてしまう。

正午頃に苦戦の報を受けた容保は、官兵衛が捨て身に出ることを予感して平尾豊之助を呼び官兵衛を制止するよう命じた。
午後2時頃までに会津兵は撤退。会津側では百名以上が戦死し多くの負傷者を出す激戦であった。

この後官兵衛は補給路確保と会津の起死回生の為、城に戻らず野戦を繰り広げる。
多くの犠牲と村民の協力で補給路が切り開かれたが、籠城を続ける鶴ヶ城は激しい砲撃に晒されることとなる。

長命寺築地壁 長命寺築地壁弾痕

▲弾痕が残る築地塀
本願寺直轄寺院であった長命寺の「白線の五條の築地塀」は、最高の寺格を示す。
土塀は平成4年に修復されたが、弾痕跡は当時のままに残している(市指定文化財)

戊辰役会津藩士戦死者墓

会津藩士の遺骸は埋葬を新政府軍が許さなかったため翌年まで放置された。
埋葬許可の下りた阿弥陀寺には約1300体、長命寺には145体が埋葬されたという。

所在地:福島県会津若松市日新町5-51

※「埋葬を禁じられた」のは事実ではないとの主張もありますが、会津側の記録と当時の風俗・価値観はこうであったのだろう…との意味でそのまま書きました。戦没者達を悼みます

佐川官兵衛顕彰碑

佐川官兵衛碑と阿蘇の松

佐川官兵衛顕彰碑と阿蘇の松
鶴ヶ城の三の丸跡に戦死した熊本県阿蘇郡の石を使って建てられ、傍らに阿蘇の松が植えられています。
下に辞世「君がため都の空を打出て 阿蘇山麓に身は露となる」

 

佐川官兵衛(さがわかんべえ)
勝(すぐれ)と名乗り、諱は清直(きよなお)。天保2年(1831)9月5日に会津物頭で家禄300石の佐川幸右衛門直道(なおみち)の子として生まれる。母はとし。
江戸詰火消頭に就いていた時に本郷大火が起こり、口論となった幕府方火消同行の火筒(ほづつ)隊士を斬りつけ、謹慎処分を受ける。
謹慎が解けると文久2年(1862)に京都守護職となる会津藩主松平容保に従い上洛し、物頭を務める。後に学校奉行となって書生隊(会津藩諸生隊。若い学徒兵)を統括し京の警固にあたった。
山本覚馬(かくま)・八重の弟の山本三郎(やまもとさぶろう)も18歳頃の慶応3年(1867)に京都勤番として上洛し書生隊に入っている。

慶応4年(1868)1月2日鳥羽・伏見の戦いでは林権助の砲兵隊に従って、会津藩精鋭部隊別撰組(べっせんぐみ)を率いて出陣。別撰組配下に山本三郎ら書生隊も編入されている。
5日、淀城に近い宇治川堤上の街道を迫る西軍と官兵衛率いる別撰組が交戦。
抜刀して西軍を追いやる官兵衛に対して西軍は砲火をあびせ、官兵衛の刀は砲弾で折れる。胸に当たった銃弾は防具を貫くことはなかったが、右目の上をかすめた傷口からは鮮血が流れた。
血まみれでもひるまず斬り込む姿や、負傷した目を守るために敵の前で平然と傘をさした度胸から「鬼官兵衛」「鬼官」「鬼佐川」と呼ばれ恐れられた。
山本三郎は負傷兵の救助中に撃たれ、江戸に運ばれたが死去。

閏4月、越後口の隊長として朱雀四番士中隊を率いて、長岡藩の河合継之助等と共に戦い、8月に会津に戻ってからは野戦軍の指揮をとる。
容保に呼び戻されると戦功により若年寄から家老に昇格するが、籠城戦に際し梶原平馬(へいま)と意見が対立した。8月29日は長命寺で激戦を繰り広げる。
9月22日会津が降伏しても戦い続け、前会津藩主松平容保が親書を持たせて説得に当たった。

明治2年11月に旧南部領で会津松平家の再興が許され立藩した斗南藩の地へ、東京で謹慎していた官兵衛らは移住したが、明治4年7月に廃藩されたのを機に妻カツの眠る喜多方の岩月に戻る。

明治7年(1874)に警視庁に招請されるまでは悠々自適に暮していた官兵衛だが、旧会津藩士達の生活苦を見かねて彼等300人を引き連れて巡査隊に入った。

明治10年(1877)2月、西南戦争が勃発すると鎮圧のため2月29日に出征、豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として西郷隆盛軍に囲まれた熊本城に向かった。
3月18日熊本の阿蘇山麓(二重峠付近で薩摩示現流の達人の敵将と一騎打ちとなった逸話もある)で至近距離を撃たれて戦死。享年47歳。大分県大分市の護国神社(大分縣護國神社)の警察官墓地に埋葬されている。
福島県喜多方市の長福寺に官兵衛夫妻の墓が在る。

官兵衛の遺児・直諒(なおよし)は陸軍将校となるが日露戦争で戦死。父直道は戊辰戦争で戦死しており、佐川家の男児は三代にわたって国に殉じた。

 

佐川官兵衛顕彰碑
所在地:福島県会津若松市城東町

 

会津新撰組記念館佐川官兵衛

▲会津新撰組記念館の佐川官兵衛から秋月胤永(かずひさ。悌次郎)宛の手紙
撮影可でしたので個人日記に利用として掲載しました