保科家に関わる人々」カテゴリーアーカイブ

飯野藩や保科氏の関連人物を紹介するブログ記事です。
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選擇寺[1]保科正重と母の墓所

選擇寺
▲木更津市の選擇寺(せんちゃくじ)

正重と系譜略図

保科壱岐守正重
初め靭負(にんぶ)。後に壱岐守を名乗る。信州高遠城主保科正直の次男。
母(光寿院)が真田家御分の小向家である為に徳川幕府から冷遇されていたともいう。
※小日向源太左衛門は、真田幸隆の長男真田源太左衛門信綱ともされる
寛永13年(1636)8月23日江戸または京都で病没とある。
上総国望陀郡木更津村鶏頭山選択寺に葬る。法号鳳桐院殿月光玄白大禅定門。
※上総国望陀郡(もうだぐん。現千葉県木更津市周辺)は異母弟の飯野藩主保科正貞の領地である為、弟を頼りに暮していたと思われる。

・室は保科三河守正勝女。正重と死別後、小幡孫市へ嫁ぐ。※寛永(寛文の誤りか)13年5月25日卒ともある

光寿院
信州松本の小向日家女。保科正直の側室となり正重を生む。
寛永16年(1639)7月25日卒、山選択寺に葬る。法号光寿院殿秋月栄源大禅定尼。

保科正重と母の墓 案内板
正重と母光寿院の墓
案内板によると、中央の観音石像は正重親子の供養仏として当時の住職か弟正貞、又は兄正光(高遠藩主)養子の正之(会津藩初代藩主保科正之)が奉安したものと思われるそうです

 

選擇寺本堂
▲選擇寺本堂は国登録有形文化財

境内には「切られ与三郎」蝙蝠安の墓も有ります。

鶏頭山西休院選擇寺(けいずさん さいきゅういん せんちゃくじ)
所在地:千葉県木更津市中央1-5-6
浄土宗選擇寺サイト:http://www.rr.iij4u.or.jp/~senchaku/

北辰一刀流千葉周作門下の四天王「森要蔵」

森要蔵(ようぞう)は千葉周作門下の四天王と謳われた剣豪。
飯野藩中小姓・剣術指南役となる。号は一貫斎。諱は景鎮(かげちか)※初め惟鎮(これちか)と称した。
兵法に詳しく(上杉流であったという)、書家の香雪の門人ともされ書も秀でていた。

森要蔵の肖像画 飯野藩保科家江戸上屋敷と森要蔵道場
※肖像画像は大龍寺案内パネルより。要蔵翁の門人山田ゆか女が「森先生のおすがた」を記憶を辿り書き残した。

文化7年(1810)2月、熊本藩士森喜右衛門の六男として江戸の芝白金台にあった熊本藩細川家の中屋敷で生まれる。
やがて北辰一刀流・千葉周作門下となり、庄司弁吉、稲垣定之助、塚田孔平と共に幕末江戸三大道場の玄武館で四天王と謳われるほどの剣豪となった。
天保10年(1839)浪人となり(原因は飲酒が過ぎて主のお供に遅れた為と飯野に赴いた際に語った)、武者修行の旅に出た。細川侯から贈られた加藤清正像を背負って関東を巡り歩いたという。
遊歴中に不二心流中村一心斎と剣友となり、練気養心を学ぶ。

常陸国を訪れ土浦藩の剣術指南役に抜擢される。常陸笠間で36人の槍術の達人を負かせた時に要蔵も剣でなく槍術で応じて連勝したとも伝わっている。
しかしほどなくして常陸を去った。

天保11(1840)の夏頃に、妻と幼子の初太郎を連れて上総国飯野へ赴く。飯野藩主保科正丕の御前試合で勝利をおさめ、60石を与えられ飯野藩剣術指南役になった。
天保12(1841)頃、長女ふゆ(後に文)が生まれる。

保科侯は要蔵を高く評価し、飯野藩だけに留めておくのは可哀想だと考えて江戸に道場を開かせた。稽古をつける姿は雷を纏った龍のようだと評された。
その後も飯野藩の剣術指南役として月六回、保科侯に指南に上がった。

いつしか「保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森の要蔵」と囃されるようになったように正丕は要蔵を小藩に留めるよりも、その剣の腕を世に放とうと思い江戸麻布永坂の飯野藩の上屋敷近くに道場を開かせた。
永坂には過ぎたるものが二つあり 岡の櫻と更科のそば」との歌もある
『藤岡屋日記』によると永坂続きの今井村に在る表番医師岡仁庵の抱屋敷内の土地を借りており、当時の江戸切絵図には岡仁庵邸の北に森要蔵の名がある。
森道場門下は800人を越え(千余人とも)、繁盛したことの揶揄に「麻布永坂目の下なるに何故か保科さん森のかげ」と『(永坂続きの向こうに建つ森要蔵道場が目立って)保科邸は上手の方角にあるのになぜか影になっているシャレと森のお“かげ”で保科の名も上がった』様子を歌っわれた。

森道場の位置 永坂

▲飯野藩上屋敷・森道場の位置と、現在の永坂の森道場跡方面

安政2年(1855)12月13日に師の千葉周作が逝去し、浅草誓願寺に埋葬の際、要蔵は裃姿で馬に乗って現れて騎乗のまま主君保科正益(正丕の子、飯野藩十代目藩主)に成り代わっての一番焼香をした。周作の葬儀に大名の一人も参列しないことを嘆き、飯野藩もたてての行いに保科侯は悦んだという。

安政4年(1857)子の頃に70石に加増。飯野陣屋では濠外の北の割見塚の南に屋敷があったとされる。

様々な武芸の達人であった要蔵は、女子に薙刀や吹針まで教えていたと伝わる。
慶応元年(1865)5月13日に、広尾の飯野藩下屋敷で森要蔵指揮による女子調練が行われた。
屋敷の広場で18、9~30歳の化粧をした艶やかな飯野藩の女子たちが、大鉢巻を締めて長刀(薙刀)の稽古をした。動乱の時代ではあっても女子調練は珍しがられたことが『藤岡屋日記』に記されている。

慶応2年(1866)長州征討で藩主正益に従い、大坂からは別働隊となって旗本を引き連れて下ったという。

慶応4年(1868)戊辰戦争で要蔵は会津藩松平家と飯野藩保科家との関係(開藩当初からの親戚関係である)を重んじ、藩主正益の不在の折に留守を預かっていた家老らと黙約し閏4月末に脱藩する。
藩の同志と門弟たち及び次男の虎雄ら28名(38名とも)が要蔵の会津救援に同行した。

5月2日森要蔵の一隊は北上の途中、会津藩原田主馬の指揮下で大田原城(城主大田原勝清11400石)攻撃に参戦、硝煙蔵爆発で午後五時本丸突入前に退却。

大田原城址公園 大田原城の図

▲大田原城址(龍城公園)

白河口の戦いの際、森要蔵は下羽太の橘家に寄宿(奥羽諸藩の集落は会津・飯野などの連合軍である東軍を味方とみなし協力したという)
7月1日森親子と飯野藩兵は会津藩兵と共に羽太方面で官軍──板垣退助率いる土佐藩八番隊と戦う。
要蔵ははじめ下羽太で指揮をとっていたが、老齢の身を挺して進み出る。
父と歳が離れた虎雄は、平素から呼んでいたように「“おじいさん”きりこみますよ」と言って小太刀を振ってし鋭く斬りこんだが狙撃され斃れ、その後要蔵も藩士花沢金八郎と共に銃弾に撃たれ戦死した。要蔵享年60。虎雄は16歳。
親子の遺骸は羽太の大龍寺に葬ったという。(墓は大龍寺と富津市浄信寺の二か所にある)要蔵の戒名は精真院範応忠剣居士、虎雄の戒名は武嶽英剣居士。
28人の飯野藩士は良く戦い、8月23日以降の会津篭城戦に加わり開城後に猪苗代へ幽囚の身となった者は6名であったという。

森要蔵親子達の戊辰役戦死墓 戦死者の名前

▲飯野・会津藩士の供養墓である大龍寺の戊辰役戦死墓

森景鎮之墓 森景鎮の墓の碑文

浄信寺にある森景鎮(要蔵)の供養墓は明治7年門弟らが建立した。

 

要蔵の長女のふゆ(後にふみ。維新後に勝俣音吉に嫁ぐが死別)が野間好雄に嫁ぎ生まれたのが野間道場と講談社の創業者野間清治氏。
曾孫は講談社第2代社長の野間恒氏とアメリカでフェンシングの「タイガー・モリ」で知られる森寅雄氏。皆剣道の達人である。

参考図書
・中村彰彦『歴史に見る勝つリーダー
・富津市史編さん委員会『富津市史 通史』『富津市史 史料集2
・朝倉毅彦『江戸・東京坂道物語
・『麻布区史
他、記事内明記のもの、郷土資料(別途リスト準備中)

森要蔵については逸話が多いので、今後色々と書きたいと思います。

樋口盛秀・野間銀次郎の切腹と断罪

 樋口弥一郎盛秀飯野藩領の摂津国浜村の医師の子で、文化5年(1808)3月10日に江戸品川邸で生まれる。保科家に仕えて昇進し禄高130石の次席家老となった。

 野間銀次郎行信(銀治郎橘行信)は野間道明(藩士60石)の長男として天保14年(1843)6月に飯野藩内で出生。講談社初代社長野間清治の伯父にあたる。
 書を好み、剣をうち、慷慨にして気節ある(意気が盛んで強い信念を持っている)人であったという。

 両者は戊辰戦争で飯野藩主が留守の間に幕府軍に協力した責任をとって命を絶った。
 その一週間後に、藩主保科正益の嫌疑が晴れて京都北野御前通導故寺旅館での謹慎を解かれている。

樋口盛秀と野間銀次郎の碑

浄信寺の樋口盛秀と野間銀次郎の碑

 

 慶応4年(1868)4月11日江戸城無血開城。これに不満の幕臣は上野彰義隊をはじめ各地に走る。
 撒兵隊(さっぺい、さんぺいたい)頭福田八郎右衛門を将とする「義軍」2000人が江戸湾を渡り木更津付近一帯に布陣、兵による圧力をもって近辺の諸藩に義軍への協力を要請。

 幕府軍遊撃隊長伊庭八郎(いば はちろう)は人見勝太郎と共に榎本武揚指揮の幕府軍艦開陽丸に乗じて木更津に上陸し、請西藩藩主林忠崇(ただたか)と同盟を結ぶ。──文武両道で「将来閣老となるべき器」と称されていた21歳の青年藩主忠崇は他に迷惑が及ぶのを避け、閏4月3日藩主自ら脱藩し、藩兵約70名・遊撃隊士36人を率いて大砲を一発放って請西の真武根陣屋を出発。撒兵隊、佐貫藩の一隊を加え二手に分かれ、林軍と遊撃隊は飯野を経て前橋藩が守備する富津陣屋を包囲した。

 藩主京都へ上洛中のため飯野藩の運営は家老の八田正臣と次席家老の樋口盛秀らに委ねられていたが、閏4月4日林軍と独断で家臣を脱藩させ、幕府軍に協力させることとし野間銀次郎ら合計20人の藩士を参加させる。

 林軍と遊撃隊は5日佐貫藩、8日に勝山藩の協力を得て、幕府艦隊の応援で海陸から館山藩を威嚇し協力を要請。総員200人余となった。箱根に向かうまでには駿府藩・岡崎藩の脱藩者が加わり総員300人余。5月20日に箱根関所占拠し小田原藩の協力も得るが再び敵対した小田原藩と26日の湯本・山崎の激戦で敗れ、伊庭八郎は左手切断の重傷。このとき飯野藩士は館山藩士と共に第五軍に属し後方を守備していた。
 5月28日遊撃隊は未明に館山に到り、負傷者に暇を取らせ大部分の飯野藩士は帰藩したと思われるが、飯野藩士隊長の大出鋠之助などは箱館(函館)の戦まで参戦したという。6月11日に官軍へ差出した書類では大出鋠之助・小野悦之進・伊藤波三郎の3名が未帰還となっている。

 6月12日に樋口盛秀は「自分の指示によって出兵したので、他の預かり知らぬことである」として自ら罪を負って切腹。享年61歳。戒名は徳功院義誉忠純盛秀居士。

藤原盛秀辞世の句 「大幹や松の恵の露うけて 下草の木も育ちぬるかな」

 林軍に加わり第五軍二番小隊に属し箱根で戦った野間銀次郎も飯野藩隊士20人を代表して自ら自刃を申し出て罪に服した。まだ家を継いでいない身のために士分としてでなく断罪に処されたとも。
 享年26歳、戒名は慈考院淳誉義忠居士。

野間銀次郎の墓 樋口盛秀の墓

樋口氏の墓と野間銀次郎の墓
「慈考院淳誉義忠居士」「野間銀次郎橘行信 行年二十有六」「慶応戊辰年六月十有二日」

 佐貫城に在った新政府軍は捧げられた二人の首級に対してその節義に感じ入ったという。

 

樋口盛秀の碑  野間銀次郎の碑
故飯野藩大夫樋口盛秀君碑保科家盡忠士野間銀次郎君之碑 「明治元年六月十二日自尽」

参考図書
・富津市史編さん委員会『富津市史

静廣院の墓と会津の照姫のこと

 会津藩最後の藩主松平容保の義姉であり鶴ヶ城(若松城)籠城に際して奮闘した照姫(熈)は、飯野藩主の娘である。
 母は淨信寺に墓が有る側室静広院。

静広院の墓

▲照姫の母静広院の墓
「明治三庚午歳 静廣院殿邦誉操謐大姉」

 

 照姫は飯野藩九代藩主保科正丕(まさもと)の三女照は、側室の静広院を母として天保3年(1832)12月13日に江戸藩邸で生まれた。

 天保13年(1842)5月25日に11歳で会津藩八代藩主松平容敬(かたたか)の養女となる。容敬の子が次々に夭折した為、美少女で教養の高い照姫を迎えたともいう。翌年、容敬に娘の敏子が誕生。

 嘉永2年、18歳の時に豊前中津藩(現在の大分県中津市)10万石八代藩主奥平大膳大夫昌服(まさもと。この時21歳)に嫁したが子宝に恵まれず不縁となり、弘化5年(1848)会津藩の江戸藩邸に帰る。
 敏子は美濃高須藩より銈之允(照姫の義弟、容保)を迎える。
 照姫は義姉として容保公を支えた。

 松平容保追討令が下され、照姫の実弟保科正益が継いだ飯野藩でも幕府と会津への義によって森要蔵などが脱藩し新政府軍と戦った。
 慶応4年(1868)照姫38歳の時、戊辰戦争の局面である会津戦争で鶴ヶ城籠城は8月23日から9月22日まで続いた。
 照姫は城内にあって六百有余の婦女子の指揮をとり、次々運び込まれる傷兵の手当・食料の調製・敵弾の防火処置など毅然として活躍し、女達は「照姫様のために」を合言葉に戦い続けた。

 鶴ヶ城開城式の後、容保公は滝沢村の妙国寺に謹慎、照姫もそれに従う。照姫は髪を落として照桂院と名を改めた。

荒れはてし 野寺のかねもつくづくと
身にしみ増さる 夜あらしの声

 翌明治2年(1869)2月19日東京へ向かい、3月10日東京着、青山の紀州藩邸(徳川茂承)に預けられた。
 新政府から会津藩への伝達・伝令は直接新政府からでなく、大方は飯野藩主保科正益を通じてなされていた。
 5月18日、会津藩叛逆の首謀者として家老萱野権兵衛一藩の責を負って飯野藩下屋敷で処刑された時に、照姫は次の歌を寄せた。

夢うつつ 思いも分ず惜しむぞよ
まことある名は 世に残れども

 12月3日、命によって照姫は飯野藩に預け替となり、27年ぶりに実家で起居することになった。
 しかし飯野で翌明治3年3月2日に母静廣院が亡くなる。

 照姫は明治17年(1884)2月28日、53歳で逗留先の東京牛込(旧会津藩家老山川邸)にて死去。新宿正受院に葬られる。

 

──と、まずは略歴。照姫や萱野権兵衛については今後も書いていくと思います。
ちなみに放送中の大河ドラマ『八重の桜』でのキャストは

照姫:稲森いずみさん
萱野権兵衛:柳沢慎吾さんです。