請西藩林家」カテゴリーアーカイブ

貝淵・請西藩藩主の林家に関する記事です。
最後の大名と言われる林忠崇については→請西藩主 林忠崇※年表

富津陣屋

富津陣屋跡 富津陣屋跡周辺

富津陣屋跡の碑と白井宣左衛門・小河原多宮自刃之地
陣屋の敷地と推定される場所(現在は宅地)の脇、西側に小さな碑が建つ

文化7年(1810)2月26日、幕府は3万2千石を異国船に対する房州沿岸警備に割り当てて、白河藩に安房・上総、会津藩に相模の浦賀周辺に砲台の築造を命じた。

富津陣屋・台場(上総国周淮郡/千葉県富津市)担当は
◆文化7年(1810)~【奥州白河藩/藩主松平越中守定信】
※文化8年に富津他が白河藩の所領となる。名君定信は房総も善く治めた。
※『遊房總記』では富津陣屋について、竹ヶ岡(竹岡陣屋)の友軍出張の場所であったのを文政5年に房州の防備を富津に移したとある。
『富津村助郷争』では砲台は文化8年、陣屋は文政4年の造立。
※波佐間陣屋の廃材を転用したためか規模・構造の類似が見られる

◆文政6年(1823)~【幕府代官/森覚蔵】(天保11年6月27日~羽倉用九(外記)、天保13年に篠田藤四郎)
※10月19日より白河藩が転封となった後は幕府代官が入り、規模縮小したと思われる。
天保10年には配下43名のうち10名を富津に充てた。翌年からの代官羽倉外記は儒者として名高い。
※要請に応じて上総久留里藩・下総佐倉藩から警衛が動員される。

◆天保13年(1842)~【武州忍藩/藩主松平下総守忠国】
※12月に命じられる。富津陣屋の長屋を増築。忠国は後に「下総草」と呼ばれる草を植えて富津海岸の砂塵を防ぎ感謝された。
※弘化4年より大房崎~洲崎の担当になる

◆弘化4年(1847)【奥州会津藩/藩主松平肥後守容敬】
※2月15日富津~竹岡警備を命じられる
※陣屋詰人数は、香・番頭各1・組頭2・物頭3・郡奉行1・目付2以下藩士170名。武器は17貫300目筒1亭挺・1貫筒以上12挺・200~300目玉筒25挺・200目以下筒221挺の他に弓・長柄があった。火薬蔵、早船繋があり台場も兼ねていたと見える。
※嘉永5年閏2月3日に容敬が没し、25日容保が会津藩藩主となる

◆嘉永6年(1853)~【筑後柳川藩/藩主立花飛騨守鑑寛】
※4月7日に巡検、11月14日より。

◆安政5年(1858)~【奥州二本松藩/藩主丹羽左京太夫長国】
※9月22日に丹羽長富が任を受け、11月に子の長国が継ぎ藩主となる。長国は房総の地を善く治め、歓迎した領民達は仁政を後世に伝えようと「懐恵碑」を建立したという。
※部将1・隊長5・兵300・大砲隊50・軍艦2・糧食方11人、大砲10挺が配される。富津番兵は毎年9月に交代させた。

◆慶応3年(1867)~明治元(1868)【上州前橋藩/藩主松平大和守直克】
※3月13日に命じられ、5月26日から引継ぐ。

会津藩の頃には富津陣屋の広さは古い図面によると総坪数は7875坪。
堀や土塁で囲まれ、周辺の村から隔絶された中に町が形成かれていたとみられる。

 

富津陣屋跡の碑石

▲左から「小河原多宮自刃の地」「白井宣左衛門自刃之地」「富津陣屋跡」

富津陣屋・台場は慶応3年(1867)3月13日より前橋藩(上野国郡馬郡厩橋/群馬県前橋市・17万石・藩主松平直克)の担当となる。
初期には町奉行兼勘定奉行の白井宣左衛門以下 遊隊9名・徒士目付2名・砲隊格20名・銃隊19名・町在組浮組20名・台場付足軽(二本松藩から引継か)20名の計113名程が配置されていた。

慶応4(1868)正月の鳥羽・伏見の戦以降、江戸の情勢が不安になり江戸に居た藩士が続々と富津に避難し、人数は六百余に達した。
房州の情勢も気遣って、4月8日に家老の小河原政徳(おがわらまさのり。左宮/さみや・多宮。三弥の説あり。字は子辰)と大目付服部助左衛門を富津に派遣する。
10日に根付銈次郎が23人を率いて、12日には年寄水野主水も富津へ向かう。
小河原は4月18日に到着している。藩主は京に在った。

4月8日から旧幕府脱走軍・撒兵隊が総州諸藩に協力を要請し、危ういやり取りが有ったが前橋藩は新政府に恭順しており、白井は要求を飲まなかった。

閏4月3日、真武根陣屋を出陣した林忠崇率いる請西藩士らと遊撃隊は、撒兵隊らと挟撃する形で富津陣屋を取り囲む。
応対した小河原は主命がなければ引き渡しは応じられないと拒否した。
それでも引き下がらず、強談判に対し、数百人の家族が居らす場で戦となるのを避けて(陣屋跡からは化粧道具や玩具の出土もあり、駐留した家臣が家族と生活していたことがわかる)席を外した小河原は隣室で接収の責任を取って自刃した。51歳。

前橋藩士は陣屋を明け渡し、脱走扱いで歩卒20名を提供し、大砲六門・小銃50挺(10)、遊撃隊に金千両(内500両は返金)・撒兵隊に糧米若干を贈る。
陣屋の者は分散し付近の在家に仮寓した。

6月に筑前藩の援軍が到着し前橋藩は陣屋を取り戻すが、遊撃隊に兵を与えた罪を総督府から問われる。
小河原から陣屋と郷士を託されていた白井は、藩主に罪が及ばないように全て自らの責任であると答えた。
6月12日に割腹申付られ、富津陣屋で白井は養子の茂八郎に介錯させて潔く切腹したという。
群馬県前橋市の源英寺に小河原左官・白井宣左衛門の墓がある。

富津陣屋は9月に取り壊され、10月には敷地も払い下げられて畑地となった。

・富津陣屋跡地
所在地:千葉県富津市富津字陣屋跡

参考図書
・富津市史編さん委員会『富津市史
・君津郡教育会『君津郡誌
・東京市役所『東京市史稿 市街篇・港湾篇』
・小野正端『遊房總記』-改訂房総叢書収録
・筑紫敏夫『前橋藩房総分領と富津陣屋の終焉』
・・山形紘『房総の幕末海防始末
・朝倉毅彦『江戸・東京坂道物語

大御所時代の大奥-林忠英は「侫人」か

江戸幕府第11代将軍徳川家斉(いえなり)の死の直後から水野忠邦が行った天保の改革で失脚した林肥後守忠英(ただふさ。林若年寄)水野美濃守忠篤(ただあつ。御側御用取次)美濃部筑前守茂育(みのべもちなる。小納戸頭取)は、家斉の権威のおかげで地位を保った3人として、俗に西丸派の「三侫人」と言われ
忠邦を善玉として創作された『眠狂四郎』等、時代劇や小説で悪役のイメージがついています。
※侫人は口先がうまいおべっか使いのこと

林肥後守の経歴は貝淵陣屋と林忠英に書きましたが、家斉の身の回りの世話をする西丸の小姓から出世し、呉服橋門内に屋敷を賜り、大御所(隠居後の家斉)夫妻が西丸に移ってからも地位を保ちました。

その後の改革で厳しく取り締まられた町人たちは華やかだった大御所時代(徳川家斉の権威時代)を懐かしむ程でしたから、本丸派(本丸に居る第12代将軍家慶サイド)で厳しい倹約指導者の忠邦からみれば、浪費の多かった大御所時代を象徴する西丸派は綱紀粛正の対称であったことでしょう。
さすがに大奥には手が出せませんが、家斉あってこその側近達を一斉に失脚させたため、町人達の間で多くの風刺や噂が流布したのです。

林肥後守・水野美濃守の免職を洒落にした落首の例
御停止が明いて太鼓にばちあたり林どころか居る處もなし
ほとゝぎす此頃不得手飛びはやし八千石は鳴いてかへらぬ
林方太鼓もばちも打ちすてゝ 人にはやされ肥後なめに逢ふ
※林・肥後(守)・家紋の三つ巴に見立てた太鼓や、林と囃子(はやし)をかけている

 

将軍家斉の寵妾お美代の方(専行院)と、感応寺事件
まだ家斉が将軍職にあった天保4年(1833)12月17日、かつての日蓮宗の名刹であり天台宗に改宗している谷中の長耀山感応寺の日蓮宗帰宗のための経緯で、谷中感応寺は護国山天王寺と改称し、雑司谷の鼠山(現東京都豊島区目白)に感応寺を新たに造る許可が下りました。
天保7年(1836)12月28日に本堂が完成したとされます。
しかし天保12年(1841)正月晦日に家斉が薨去、その年の10月5日に幕府は感応寺を廃棄し、新しい大寺院がたった5年で更地に戻ってしまったのです。
また同じ時期に主玄院日啓・智泉院日尚ら僧徒が処罰されました。

東京市(東京都が設置される前の東京府の市。現在の23区相当)編纂史料に記載されている範囲ではここまでで、感応寺廃却に関する経緯は幕府の記録にはありませんが、随筆(当時を語るエッセイ)にまで目を向けると、大坂に住むとされる著者が当時の世相や伝聞を記録した『浮世の有様』の天保12年に「感應寺不如法奥女中を犯し、美濃守・肥後守・筑前守など心を合わせ、及ばざる工み事有りしを、御老中脇坂侯に見顯はされし故、比の者共申合せ、醫者両人に申付け、殿中に於て之を毒殺せしなど種々の取沙汰なり、如何なる事かは知らね共、皆々御咎にて知行を減ぜられ、奥中中大勢仕くじり、感應寺は申すに及ばず、醫者両人も入牢せしといふ事なり」と記されています。

この感応寺の事件は、明治時代の江戸文化論者・三田村鳶魚も引用している大谷木醇堂の思い出話『燈前一睡夢』に描かれ「文恭公升遐の後、林・水野・美野部が謫せられしも、荘内・川越・長岡等が領知替の事も、みなこれより起こりし事なりと聞く」と、文恭公(家斉)薨去後の西丸派の失脚の起因として噂されていたようです。

『燈前一睡夢』は水野忠邦を英傑と賞し、対立する者は賊臣とはっきり書かれているのでかなり著者の偏見が含まれていそうですが、当時から忠邦の改革により同時期に消されたすべてを繋げて想像した噂自体は有ったのでしょう。三田村鳶魚の『江戸の女』(伝聞が主で事実と明らかに異なる部分が見られますが…)での解釈も交えて事件を要約しますと──

お美代の方の実父日啓は、長男の日量(お美代の兄)が継ぐ智泉院(中山法華経寺の子院。日蓮宗)を、東叡山寛永寺(天台宗)のような将軍家の御祈祷所にしようという大それた野望を持っていました。
しかし子院レベルの寺では許されず、それならばと由緒はあるが今は天台宗に改宗している谷中感応寺を日蓮宗に戻させる計画を立てました。

その頃大奥では、家斉の数多い側室の一人おいとの方の子、千三郎(仙三郎)の眼病を中延法蓮寺の日詮(にっせん)が祈祷で治したことで日蓮宗の祈祷の人気が高まっていたので、将軍家の御祈祷所が出来ることを喜びました。
家斉の奥方達の要望を家斉の寵臣が無下に出来るはずはありません。
お美代の方の口添えと寵臣の林・水野・美野部の庇護もあって、計画が運びます。

東叡山の輪王寺宮舜仁法親王(りんのうじのみやしゅんにん。皇族の子息である住職)の計らいで計画は止められましたが、谷中感応寺は天王寺へと改称し、新しい感応寺を造ることとなりました。
天保5年5月に雑司ヶ谷鼠山の安藤対馬守下屋敷の広大な敷地(二万八千百九十三坪)を下付され、地鎮を中山智泉院が承りました。建設地の整地・地固めは、なんと大奥の女中達がやってきて華々しく行ったので、驚いた町人達はこぞって見物に来ました。

天保7年12月に完成した豪華で大奥の女中達も信仰する大寺院に、美男子な僧侶ばかりが揃えられたなどと多くの噂が流れます。
鼠山はかつてなく賑わいましたが、ある時、感応寺に運ばれた長持に生人形が入っていたのが見つかりました…つまり大奥の女性が長持に隠れて運ばれ僧と密通していたことが明るみに出てしまったのです。
以後は長持の重量を確かめるようになり、大奥女中の頭目が監視不届きで御暇処分となりました。
長持を見破って風紀を注意した寺社奉行脇坂大人が突然死したため(脇坂が死んだのは天保12年2月で家斉が亡くなってすぐです)毒殺されたのではと噂が立ちました。

水野忠邦の改革で智泉院と感応寺は摘発され、日啓と長男は「密通女犯」の罪を告発されて遠流が決まりましたが、実行前に獄死しました。
感応寺は取り潰され、大御所の寵臣であった林・水野・美野部は失脚し、お美代の方は押込処分となりました。
忠邦が、大奥を中心とした権力と乱れたの風紀をまとめて粛正したのです。

※実際には揉消しか虚構か、鼠山感応寺の顛末について幕府公式記録には記載されておらず、智泉院と感応寺の関係も不明です

 

──更に、家斉とお美代の間にできた娘、溶姫と加賀藩主前田斉泰の間に生まれた犬千代(前田慶寧)を次期将軍に据える西丸派の計画が本丸派に寝返った者の暴露で明るみになった、などと噂は尽きません。
いずれも林肥後守達は感応寺建立を容認したと思われるのみで、お美代と西丸派のイメージの土台は当時の噂を記した随筆を更に三田村鳶魚が大衆に広めた結果が大きいでしょう。

* * *

昭和16発行小山松吉の『名判官物語』はこれらのことを分けて扱っています。

■智泉院の事件
水野忠邦は、智泉院日尚(24歳)・守玄院日啓(71歳)を、祈祷で人民を惑わせ、婦女を姦し、大奥に通じ、奢侈に耽り僧侶としてあるまじき行為の疑いで、寺社奉行阿部正弘(23歳)に内偵による「風聞書」を制作させ、両僧を逮捕し取り調べさせます。
自白により日啓に関係する本丸西丸の奥女中達は30余名にのぼり、このまま取調べが進めば大奥のどこに及ぶか計り知れず、この関係者には一切取調べをせず民間関係者のみを取り調べました。
尼妙榮が密通のため押込50日・下女ますが押込30日の処分を下しましたが、日尚・日啓が彼女達の密通を知らなかったことが不埒として逼塞30日を言い渡しました。(日尚に対して三日間晒しの上、谷中妙法寺へ引渡す間寺法通り取調べるべしとあります)

■お美代と感応寺の事件
雑司谷感応寺という小寺の住職の娘は中野播磨守の養女となって大奥に出仕し、将軍の寵愛を受けたため、養父や感応寺は取立てられました。
感応寺は雑司谷に新たに七堂伽藍を建立し幕府の御祈祷所として御朱印を賜ったため参詣人が増え隆盛を極めました。
住職と僧侶達が奥女中と繋がりを持っていると察した老中脇坂安菫は、長持に潜んで寺に運ばれた女中を発見し注意しますが、他の老中達は大御所が健在だったため大奥に対して遠慮し検挙は憚られました。
大御所が薨去すると忠邦が大奥関係も粛正し感応寺を取調べさせ、お美代の方は表向きは押込処分となりましたが実際は優遇されたといいます。

■忠邦の対立者の処分
次に前将軍の勢いで権威をほしいままにし愛憎によって政治を行ったため粛清を受けた三人の股肱として、忠邦が信任していた鳥居忠輝・渋川六蔵・後藤三右衛門を挙げています。
林・水野・美野部の3人については、忠邦の改革に反対するであろう家斎時代の寵臣の免職としてだけの記載です。
また寺社と賄賂については、別の事件として牛込横寺町聖天別当南蔵院の賄賂の罪に水野美濃守が関与との噂が示されています。

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賄賂は当時頻繁に行われていた(善玉に描かれる水野忠邦にすら賄賂疑惑がある)ようなので、失脚の理由として想像されやすかったことでしょう。

主に祖父・父からの伝聞を小冥野夫が明治7年に記した『しづのおだまき』に三名の免職に対し「おのれの私多くて賄賂専ら行はれし故に此輩を免職なし給ふ」とあり、続くあらましで忠英については簡単な経歴に「退隠後文恭大君の御墓参拝をも許されたり」と締め括っているだけで、驕奢や賄賂について書かれているのは著者と多少ゆかりがあるため話に聞いていたという水野美濃守とお美代の方の養父の中野碩翁(隠居前は小納戸頭取)です。美濃部筑前守は「実に無見識の人なり」と書かれています。

天保14年(1843年)に一勇斎国芳(歌川国芳)が描いた錦絵『源頼光公館土蜘作妖怪図』は、江戸の古本屋須藤(藤岡屋)由蔵の日記『藤岡屋日記』等によれば
平安時代の源頼光の土蜘蛛退治を、当時の将軍徳川家慶と大名達や天保の改革に当てはめ風刺した判じ物ではないかと評判になりました。

・早稲田大学図書館古典籍総合データベース「源頼光公館土蜘作妖怪図」
http://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/b10_8285/

天保の改革の一環で政治を誹謗した戯作者やその販売者が罰せらている(特に水野忠邦派の批判ができない)状況下のため、風刺と分からないように描かれていて明確な答えが無く、当時から様々な解釈がされていています。
文化史家の石井研堂が大正15年に記した『天保改革鬼譚』で土蜘作妖怪図に着目し、モチーフの解釈の一つにされる林肥後守・水野美濃守、美濃部筑前守について「当時三侫人の称あった…」と書いています。

ここでようやく「三侫人」の言葉に行きつきました。
錦絵に三侫人の落書があったようなので、当時の町人か、後の時代の所有者が推理した落書でしょうか。三侫人の呼び名はごく最近ついたものではなさそうです。

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当時は賄賂や弁舌の巧みさで、代々決められた身分と土地から出て新しい地位を得ることは、完全に悪とも言いきれないでしょう。
そして私が現在自宅で調べられる範囲では、侫人・林肥後守のイメージも、今の時代劇で描かれるような心から憎まれての揶揄でなく憶測で生まれた噂からつくられたものでした。まだ掘り起こしていく必要がありそうです。
今後また林肥後守の関連資料を見つけたら記事にしますね。

参考図書
・石井研堂『天保改革鬼譚
・小冥野夫『しづのおだまき』
・国史研究会編『浮世の有様』
・三田村鳶魚『江戸の女』
・大谷木醇堂『燈前一睡夢(鼠璞十種 )』
・東京市『東京市史稿 遊園篇』
・小山松吉『名判官物語

林忠崇の書[1]日枝神社石柱

日枝神社鳥居 日枝神社拝殿
▲請西の日枝神社と拝殿

請西の日枝神社の門柱の刻名は、当地の領主であった請西藩第3代藩主林忠崇公の筆です。
この石柱は昭和8年に建立されました。

領主林忠崇記之林

日枝神社
所在地:千葉県木更津市請西2-15-31

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【追記2】日枝神社境内に大日本帝國軍大勝利祈願成就の碑があります
【追記1】旧領下烏田の熊野神社の扁額は忠崇の直筆です

請西藩「真武根陣屋」

真武根陣屋遺址 真武根陣屋跡案内板

請西藩真武根陣屋(まふねじんや)
徳川幕府譜代大名の請西藩二代藩主・林播磨守忠旭(はりまのかみただあき。林氏は故事に習い将軍が元旦に食べる吸物に入れる兎肉を代々献上する家柄)が、嘉永3年(1850)上総国望陀郡(千葉県木更津市)請西村に造営。
案内板によると移転元の貝淵陣屋を「下屋敷」と呼ぶのに対し、「上屋敷」と呼ばれていたという。

木更津港から約2km程南東に位置する、標高50mの真船台地に所在。
発掘調査等によると陣屋の推定面積は南北370m・東西280m・8800㎡。南西の土手部分や西側の枡形を含めると倍の面積になり
南西部に大手口、北側に(飲食用陶器の遺物があるため)御殿、中央に役所や蔵、大手口両側に士屋敷(南東部にも陶器の遺物)があったとみられる。

言伝えによると請西の地名は「城砦」の転訛で、陣屋を置くより前に古い城砦が在ったらしい。廃砦跡とすると陣屋に適した立地といえる。

陣屋は請西藩第3代藩主忠崇が佐幕派に属して出陣した際に焼かせて焼失する。陣屋址は地元の者に「お林」と呼ばれた。
昭和20年、戦後の農地改革で開墾され遺構は壊されてしまった。
請西藩の陣屋の存在が完全に埋もれてしまうことを憂いた知己関係者達の促進により昭和41年4月に木更津市指定文化財となった。

 

真武根陣屋遺址の碑

▲「真武根陣屋遺址碑」(まふねじんやいしひ)
忠崇が出陣した相州の、根府川で産出する赤みを帯びた根府川石の碑石は、箱根山の陣中で月光を仰いで詠んだ和歌と共に、20代当主林忠昭氏による碑文が刻まれている。
一番上には、徳川将軍より拝領の林家家紋、丸の内三頭左巴下に一文字。

陣中観月

くもりなき心や見せんあすの夜は
かはねの露に照らす月影

慶応戊辰四月 忠崇

 

林氏は清和源氏。親羅三郎義光十七代の孫光政公を祖とす。
姓は小笠原、徳川家康の祖、有親、親氏と足利持氏に仕えて誼し。
讒に遭ひ去って信州林郷に在り。親氏父子も持氏義教との隙に流浪し、永享十一年臘日、光政を誘ふ。
公遇する雪中に一匹兎を狩り、元日之を羹にし、薦めて歳旦を賀す。上意により姓を林と改む。
後、親氏三河に興るに及び、出でて仕ふ。
歴代、歳末に兎を献じ、元旦、将軍より一番に盃を賜ふ例とす。拝領紋、下に一の字を加ふ所以なり。

十四代忠英公諸侯に列し、若年寄に進む、子十五代忠旭公請西藩主として、嘉永三年、此処に館を営み真武根陣屋と称す。
第十六代忠交公伏見奉行勤役中に卒し、忠旭の子忠崇公封を襲ぎ戊辰の大変革に際す。
若干二十歳で徳川氏朝敵の汚名を受くるや、譜代の恩義を痛感、その冤を雪がんと蹶起し、慶応四年閏四月三日、藩地を脱し、豆相より奥羽各地奮戦す。
後、天恩鴻大、徳川家の社稷存せらるるに至って、翻然罪を闕下に請ふ。
赦されて忠交の男忠弘華族に列せられ、忠崇公亦其礼遇を賜ふ。

星霜移ること百年、里人お林と称し、藩侯の遺徳を慕へり。
後開拓せられ、今その址を留めず、往時を偲ぶに由無く、只管史蹟の湮滅を虞る。
玆に木更津市より文化財として史蹟の指定を受く。仍て碑を建て縁由を録し以て不朽に伝ふ。

昭和四十年四月廿二日 当主 第二十代 林忠昭 建立

林勲氏の碑文

真武根陣屋陣屋懐古詩碑(うたぶみ)
発起人である林勲氏による碑文。氏の物した詩が刻まれている。
一番から五番まで、忠崇の出陣の勇姿を謳うこの詩は柴勝三氏の作曲で歌になっている。

 

石祠と藩庁方面 海と貝淵方面

▲左写真、小さな石祠の方向(西南)奥にかつて藩庁や蔵が建てられていたようです。その先に古井戸、大手口(南)として枡形門の土塁も築かれていました。
右写真が貝淵陣屋がある方向(西)です。更にその先に江戸湾(東京湾)が広がります。こちらの区画は調査により遺構が完全に消失していることが確認されています。

木更津中央霊園前の道

▲址碑の前で南方向を撮影。木更津中央霊園入口のすぐ向かいにコンクリートに囲まれた址碑があります。かつては土塁が廻らされていたのでしょう。この右の敷地の先にも古井戸。
※縄張り等の学術的図面は著作権の都合で引用できず、言葉での説明のみでご容赦下さい

・真武根陣屋遺址
所在地:木更津市請西字間船台1319-21

請西藩第2代藩主林忠交-最後の伏見奉行

林忠交(ただかた。武三郎。林家十六代)
天保3年(1832)貝淵藩初代藩主林忠英の四男として生まれる。

安政元年(1854)4月27日に請西藩主(貝淵から陣屋を移転林播磨守忠旭は長男を亡くしており末子昌之助(忠崇)が幼年であったため、弟の武三郎(忠交)に家督を譲る。
12月16日、従五位下肥後守に叙される。
安政4年(1857)閏5月18日に大番頭となる。

安政6年(1859)8月11日に伏見奉行を21年務めた内藤正縄(信濃岩村田藩藩主。翌年2月死去。前老中水野忠邦の弟)が解任される。
8月28日に忠交が伏見奉行となる。京都町奉行と共に幕末の激動期となる京都での司法・行政を管轄する重職就任である。
9月5日引越費用の借受を願い金一千両を支給される。

万延元年(1860)3月15日、水戸浪士の金子孫二郎(教孝)・同佐藤鉄三郎(教寛)を拘引し、翌日訊問する。閏3月5日江戸に2人を檻送させる。

文久2年(1862)4月23日、忠交は尊皇派達が討幕の挙に出ようと集まったことを察知するが、薩摩藩藩主後見役の島津久光の命で薩摩藩尊皇派の過激分子を伏見寺田屋(てらだや)で成敗されたため、伏見奉行所は関与に至らずに済んだと思われる。(寺田屋事変
寺田屋騒動殉難碑と坂本龍馬像 伏見寺田屋殉難九烈士之碑
▲薩摩藩士らの「寺田屋騒動殉難碑」と「伏見寺田屋殉難九烈士之碑
坂本龍馬像の背後にある殉難碑の篆額は有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆。

文久3年(1863)5月に将軍徳川家茂が大阪城より入洛のため(3月4日に上洛、4月21日に巡視のため大阪城に入り5月11日に出発)淀を経て伏見京橋から伏見奉行所に入る。竹田街道より入洛。
6月9日に二条城を出て伏見街道から伏見奉行所に着き、今留橋より乗船し大阪城へ戻る。

元治元年(1864)6月24日に長州藩(前年の八月十八日の政変で長州藩を中心とした尊皇攘夷派が京都から追放された)家老の福原越後(元僴/もとたけ)が三百余人の兵を率いて長州伏見藩邸に入り、幕府は監察戸川安愛(やすちか)・小出五郎左衛門を伏見奉行所に遣わせ長州藩の様子を偵察させる。
7月3日に朝廷は大監察永井主水正・小監察戸川安愛を伏見に遣わせ、福原越後を伏見奉行所の役所に呼び出すが病を称して翌日応じる。兵を退ける説得に福原は従おうとしたが、山崎天王山に陣する久坂玄瑞らや嵯峨天龍寺に陣する来島又兵衛らは拒む。
その後も応じず18日一橋慶喜は追討を決め伏見方面には大垣藩を先方に彦根藩・会津藩(新撰組も属す)・桑名藩等の兵を出した。追討軍は長州勢を破り敗走させた。
19日の禁門の変勃発時に福原越後が率いる長州勢は伏見長州藩邸に立ち戻り、再び出陣しようと試みるが、彦根藩ら連合軍に京橋から砲撃され藩邸は焼け落ちた。
長州藩邸跡と禁門の変 現代の京橋
伏見長州藩邸跡と現在の京橋

慶応元年(1865)長州征討への動きで5月24日徳川家茂が二条城を出発し伏見奉行所に入り、翌日大坂へ出立。9月14日に家茂は大坂城を出て伏見奉行所に入り16日に二条城着。23日に再び伏見を経て大阪へ発ち10月3日に大坂城を出て伏見奉行所に入り伏見に逗留し4月2日に二条城入り。11月3日に二条城を発ち伏見奉行所に入り大阪へ着き征討準備を進めた。

慶応2年(1866)正月23日に手配中の浪士坂本龍馬らが寺田屋に入ったと報告が入り、伏見奉行はこれを捕縛すべく指揮をとった。
深夜2時に幕吏(役人)が二階へあがり詰問し、坂本と同泊の長門府中藩士三吉慎蔵の二人は薩摩藩士を名乗った。三吉が手槍を握っているのを見て幕吏が引き下がると坂本らは襲撃に備えた。
やがて階下から数人が得物を携え押し上がり肥後守の上意として捕縛にかかる。
坂本は銃を撃ち三吉が手槍を振るって捕吏に抗戦しながら逃走し薩摩藩邸に救援を求めた。匿った薩摩藩邸は坂本龍馬の引渡しを拒否。
※伏見奉行“肥後守”を同じ肥後守の会津藩主松平容保と誤って解釈され京都守護職配下の新撰組が関わった風聞があるが、この肥後守は容保でなく林忠交である。
薩摩藩寺田屋騒動と坂本竜馬ゆかりの寺田屋 薩摩藩伏見屋敷跡
寺田屋(再建)と伏見薩摩島津屋敷跡

2月23日、禁門事変の軍資を京の商人が代償した書状を幕府に上申し、これを大坂金蔵から弁償することを請う。

慶応3年(1867)6月24日急病のため伏見奉行官舎にて35歳で没した。晃晥院殿轉誉宝国大居士。一心寺に葬る。※急死を黙され実際は5月24日ともみられる
後任が置かれないまま、7月より京都町奉行(永井主水正尚志)の管轄となり、大政奉還を迎え奉行所が廃止されたため忠交が最後の伏見奉行となった。

8月30日に忠交の養子となった忠崇が継ぐが、翌慶応4年(1868)の戊辰戦争で忠崇が脱藩して抗戦に徹したために請西藩は取潰しとなった。
戊辰戦争で減封された藩は少なくないが、全てを没収されたのは請西藩だけである。

桃稜団地の伏見奉行所跡の碑 伏見奉行所跡地の石垣
伏見奉行所跡と明治期?の石垣
慶応4年の鳥羽伏見の戦いで新政府軍の砲火を浴びて伏見奉行所は焼け落ち、その後跡地は陸軍工兵隊の兵営になっている。

一心寺 伏見奉行林忠交の墓
一心寺忠交の墓
晃晥院殿従五位下前肥州大守轉譽寳國忠交大居士
慶應三丁卯年 六月二十四日 林 肥後守源忠交 於城州伏見宦舎卒