飯野藩保科家」カテゴリーアーカイブ

飯野藩設立から廃藩まで続いた藩主、保科家関連のブログ記事です。
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保科氏の家紋

保科氏家紋

 保科氏は清和源氏井上掃部助(いのうえかもんのすけ)賴季流で、築後守正則(諏訪郡の高遠氏家臣)が信濃国中嶋高井郡保科に生まれたことから保科を称号としたとされるが、「保科ははじめ星の御門と申し、また星野とも言い、信州に移って保科と改める」「井上頼季の6代孫の井上忠長が悪星を射落としてついた村名の星名(または星無)からこれを氏とする」等の諸説有。
※保科氏のルーツ(伝承)については→飯野藩保科家系譜・伝(保科郷の保科氏)

 保科家の家紋は「いにしえは天人の子であり、ある時産屋にさした星の光を、絹を隔てて見ると、丸九曜の如くであったことからこれを紋所とした」と由来記に、前述の「井上忠長が悪星を射落した時に星が光を顕したことから家紋を角九曜とする」と『保科村村誌略』にある。
 保科家一の御旗は、一は万物の初であることから信玄公の戦功の第一として賜わり一文字、武器類には丸の内一文字、古い武器・道具に丸の内九曜が見られる。

丸九曜丸の内九曜   丸一文字丸の内一文字

 江戸時代の初めには、徳川秀忠の血をひく保科正之(ほしなまさゆき)の血統と同じ家紋を使うことを遠慮したためか、会津藩保科家(正之の家系)は並九曜、飯野藩保科家は五つ鐶に九曜五つ鐶に一文字を用いた時期もある。

 

 会津藩保科家は初期から並九曜(なみくよう)が見られ、御幕の紋は並九曜となる。
 並九曜はならびくようの読みや、角九曜・平形九曜とも呼ばれる。九曜は古代インドで占いに用いた九つの星(羅睺(らご)・土曜・水曜・金曜・日曜・火曜・計都(とつ)・月曜・木曜)を表し、それを仏身に現した(不動明王・聖観音・弥勒・阿弥陀・千手観音・虚空蔵・釈迦・勢至・薬師の菩薩)九曜を集めて九曜曼荼羅と言うので、九曜紋は月星紋の一種として妙見信仰に基づく紋ともいえる。

並九曜 並九曜

※『大武鑑』に保科正之が「並九曜」で保科正貞(飯野藩)が「九ツ銭」とする時期があるが、保科家側の主な資料に九ツ銭紋を用いた記録は見当たらず、現在調査中

 

 梶葉(かじのは)紋は諏訪神社・諏訪の神裔の章で、諏訪上社の大祝である神(みわ。建御名方命の後裔ともいわれる)氏の子孫や、諏訪下社の祝金刺舎人氏の家紋である。(『信濃史源考』等)
 保科氏も、神氏諏訪の庶流として「立梶の葉」を用いた。
 梶の皮は祭祀の際に捧げる幣帛(ぬさ)・葉は食物を供え、梶の木は神事に関係深いものとして梶紋が使われた。徳川時代の梶紋の大名は保科・諏訪・松浦の三氏。

梶の葉 梶の葉(立梶葉)

 

元禄9年(1696)に保科正容(まさかた。正之の六男)が松平の氏と葵御紋の使用を許されて会津松平家の御葵紋を用いるようになると、飯野藩の家紋が保科家の並九曜と梶の葉となった。

参考資料
『保科村村誌略』『保科御由来記』『保科御由来所』『保科正則由来書』等
※家伝・郷土系の資料は別途まとめる予定です

 

余談ですが…映画版の「天地明察」が原作(冲方丁著小説)よりも会津藩主保科正之を押し出し、要所で並九紋の家紋を強調して見えたのは、史実として保科正之が山崎闇斎や安藤有益の才能を認めていたことだけではなく、家紋が天体に関わり深いこと(星紋)のためでもあるかと思ってみていました。
そういった設定があるとのテキストは見当たらない(冲方氏と福島についてくらい?)ので、深読みでしょうか。

選擇寺[1]保科正重と母の墓所

選擇寺
▲木更津市の選擇寺(せんちゃくじ)

正重と系譜略図

保科壱岐守正重
初め靭負(にんぶ)。後に壱岐守を名乗る。信州高遠城主保科正直の次男。
母(光寿院)が真田家御分の小向家である為に徳川幕府から冷遇されていたともいう。
※小日向源太左衛門は、真田幸隆の長男真田源太左衛門信綱ともされる
寛永13年(1636)8月23日江戸または京都で病没とある。
上総国望陀郡木更津村鶏頭山選択寺に葬る。法号鳳桐院殿月光玄白大禅定門。
※上総国望陀郡(もうだぐん。現千葉県木更津市周辺)は異母弟の飯野藩主保科正貞の領地である為、弟を頼りに暮していたと思われる。

・室は保科三河守正勝女。正重と死別後、小幡孫市へ嫁ぐ。※寛永(寛文の誤りか)13年5月25日卒ともある

光寿院
信州松本の小向日家女。保科正直の側室となり正重を生む。
寛永16年(1639)7月25日卒、山選択寺に葬る。法号光寿院殿秋月栄源大禅定尼。

保科正重と母の墓 案内板
正重と母光寿院の墓
案内板によると、中央の観音石像は正重親子の供養仏として当時の住職か弟正貞、又は兄正光(高遠藩主)養子の正之(会津藩初代藩主保科正之)が奉安したものと思われるそうです

 

選擇寺本堂
▲選擇寺本堂は国登録有形文化財

境内には「切られ与三郎」蝙蝠安の墓も有ります。

鶏頭山西休院選擇寺(けいずさん さいきゅういん せんちゃくじ)
所在地:千葉県木更津市中央1-5-6
浄土宗選擇寺サイト:http://www.rr.iij4u.or.jp/~senchaku/

飯野藩第10代藩主「保科正益」の墓所

保科正益の墓 保科節子の墓

保科正益と保科節子の墓

髙岳院殿徳雲惟馨大居士 
明治二十一年正月二十三日卒

安住院殿深禅愛楽大姉
子爵保科正益室
明治三十八年十二月七日卒

保科正益子爵の妻、節子は伊達宗紀(伊予国宇和島藩10万石の第7代藩主)の娘。宗城の妹にあたる。
とても美しく、絵草紙などにもなったという。

 

保科正昭氏と武子夫妻の墓

保科正昭と保科武子の墓

正益公長男、保科正昭子爵の妻は北白川宮能久親王(奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された輪王寺宮)の第3王女、武子女王(香淳皇后の皇后女官長)

 

保科正益と節子夫妻の墓

正興氏(光正の子)建立の保科家の墓石や飯野藩士献燈の石灯籠などが並ぶ。
家紋は並九曜

墓誌に刻まれている保科光正氏は保科正昭子爵の子で大東亜省秘書官を務めた。
昭和20年4月1日午後11時、乗船していた赤十字の救援物資を運び届ける為の阿波丸が台湾海峡で米国潜水艦クイーンフィッシュにより撃沈され(阿波丸事件)戦没。享年31。妻は徳川宗家の德川家正公爵三女、保科順子(ゆきこ)

都立青山霊園サイト:http://www.tokyo-park.or.jp/reien/park/index072.html
東京都港区南青山
保科正益公の墓所:東1-1種ロ12号30

大圓寺-飯野藩保科家菩提寺

大円寺

徳川家康開基の大圓寺は、開山の諦巌桂察和尚(武田信玄の弟)の縁から飯野藩保科氏の菩提寺になったという。

山門 大円寺山門

大圓寺山門。門には葵紋。

 

●飯野藩保科家墓所

保科家墓所 保科家の墓

[1]保科正貞(ほしなまささだ)
・翠松院(第2代藩主正景室。播磨国明石藩主松平山城守忠国女)
[3]保科正賢(まさかた)
・瑞光院(正賢後妻。美作津山城主森大内記源長継の娘、森対馬守長俊養女)
[4]保科正殷(まさたか)
[5]保科正寿(まさひさ)
・喜三郎(正寿長男。早世)
・慈照院(正寿室、於染。奥州弘前城主津軽土佐守藤原信寿女)
[6]保科正宜(まさよし、初め正富)
・華萼院(正宜室、於喜井。高槻城主永井飛騨守大江直期女)
[7]保科正率(まさのり)
・蘭香院(正率室、於艶。筑前秋月城主黒田甲斐守源長恵姉、黒田甲斐守長邦女)
[8]保科正徳(まさよし)
・蓮芳院(節。正徳四女)
・玉樟院(正徳側室)
[9]正丕(まさもと)
・捨五郎(正丕の次男。早世)
・栄寿院(正丕室、於トシ。武州人忍城主松平下総守源忠翼女)

・長元院(ちょうげんいん、正貞の生母)五輪塔

等保科氏一族を葬。(↑記事の[数字]は飯野藩何代目藩主か)
※第2代藩主保科正景は千葉県富津市浄信寺、第10代(最後)の藩主正益は東京都港区青山霊園に墓所

両脇の墓塔 中央の五輪塔

保科の家紋の並九曜、中央の五輪塔には禅宗の地・水・火・風・空が刻印されている。

 

長元院五輪塔

長元院の五輪塔
保科正貞の生母多劫(たけ)姫の墓塔。父は久松佐渡守俊勝、母は徳川家康の生母でもある伝通院(於大の方)で家康養女となる。
長元院殿清信授法大禅定尼
元和四戌午年六月七日

【泉谷山大圓寺】東京都杉並区和泉
泉谷山と号する曹洞宗(禅宗)の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
慶長8年(1603)赤坂溜池の辺りに徳川家康が開基となって建立され、開山は諦巌桂察和尚(武田信玄の弟)とされる。
寛永18年(1681)正月、江戸の大火に遭い伊皿子に移転。その頃から大渕寺の寺名を大圓寺に改める。
延宝元年(1632)薩摩藩主島津光久の嫡子綱久の葬儀を行って以来、島津家の江戸における菩提寺となり、福寿院・門能院の塔頭二院もそれぞれ大名保科・旗本五井・松平・本多・土方の諸家中、町人衆を檀家として隆盛を極めた。
明治41年に二院の塔頭を併合して現在地(杉並区)に移転。
(案内板より抜粋)

※薩摩藩関連は後の機会に紹介します。

北辰一刀流千葉周作門下の四天王「森要蔵」

森要蔵(ようぞう)は千葉周作門下の四天王と謳われた剣豪。
飯野藩中小姓・剣術指南役となる。号は一貫斎。諱は景鎮(かげちか)※初め惟鎮(これちか)と称した。
兵法に詳しく(上杉流であったという)、書家の香雪の門人ともされ書も秀でていた。

森要蔵の肖像画 飯野藩保科家江戸上屋敷と森要蔵道場
※肖像画像は大龍寺案内パネルより。要蔵翁の門人山田ゆか女が「森先生のおすがた」を記憶を辿り書き残した。

文化7年(1810)2月、熊本藩士森喜右衛門の六男として江戸の芝白金台にあった熊本藩細川家の中屋敷で生まれる。
やがて北辰一刀流・千葉周作門下となり、庄司弁吉、稲垣定之助、塚田孔平と共に幕末江戸三大道場の玄武館で四天王と謳われるほどの剣豪となった。
天保10年(1839)浪人となり(原因は飲酒が過ぎて主のお供に遅れた為と飯野に赴いた際に語った)、武者修行の旅に出た。細川侯から贈られた加藤清正像を背負って関東を巡り歩いたという。
遊歴中に不二心流中村一心斎と剣友となり、練気養心を学ぶ。

常陸国を訪れ土浦藩の剣術指南役に抜擢される。常陸笠間で36人の槍術の達人を負かせた時に要蔵も剣でなく槍術で応じて連勝したとも伝わっている。
しかしほどなくして常陸を去った。

天保11(1840)の夏頃に、妻と幼子の初太郎を連れて上総国飯野へ赴く。飯野藩主保科正丕の御前試合で勝利をおさめ、60石を与えられ飯野藩剣術指南役になった。
天保12(1841)頃、長女ふゆ(後に文)が生まれる。

保科侯は要蔵を高く評価し、飯野藩だけに留めておくのは可哀想だと考えて江戸に道場を開かせた。稽古をつける姿は雷を纏った龍のようだと評された。
その後も飯野藩の剣術指南役として月六回、保科侯に指南に上がった。

いつしか「保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森の要蔵」と囃されるようになったように正丕は要蔵を小藩に留めるよりも、その剣の腕を世に放とうと思い江戸麻布永坂の飯野藩の上屋敷近くに道場を開かせた。
永坂には過ぎたるものが二つあり 岡の櫻と更科のそば」との歌もある
『藤岡屋日記』によると永坂続きの今井村に在る表番医師岡仁庵の抱屋敷内の土地を借りており、当時の江戸切絵図には岡仁庵邸の北に森要蔵の名がある。
森道場門下は800人を越え(千余人とも)、繁盛したことの揶揄に「麻布永坂目の下なるに何故か保科さん森のかげ」と『(永坂続きの向こうに建つ森要蔵道場が目立って)保科邸は上手の方角にあるのになぜか影になっているシャレと森のお“かげ”で保科の名も上がった』様子を歌っわれた。

森道場の位置 永坂

▲飯野藩上屋敷・森道場の位置と、現在の永坂の森道場跡方面

安政2年(1855)12月13日に師の千葉周作が逝去し、浅草誓願寺に埋葬の際、要蔵は裃姿で馬に乗って現れて騎乗のまま主君保科正益(正丕の子、飯野藩十代目藩主)に成り代わっての一番焼香をした。周作の葬儀に大名の一人も参列しないことを嘆き、飯野藩もたてての行いに保科侯は悦んだという。

安政4年(1857)子の頃に70石に加増。飯野陣屋では濠外の北の割見塚の南に屋敷があったとされる。

様々な武芸の達人であった要蔵は、女子に薙刀や吹針まで教えていたと伝わる。
慶応元年(1865)5月13日に、広尾の飯野藩下屋敷で森要蔵指揮による女子調練が行われた。
屋敷の広場で18、9~30歳の化粧をした艶やかな飯野藩の女子たちが、大鉢巻を締めて長刀(薙刀)の稽古をした。動乱の時代ではあっても女子調練は珍しがられたことが『藤岡屋日記』に記されている。

慶応2年(1866)長州征討で藩主正益に従い、大坂からは別働隊となって旗本を引き連れて下ったという。

慶応4年(1868)戊辰戦争で要蔵は会津藩松平家と飯野藩保科家との関係(開藩当初からの親戚関係である)を重んじ、藩主正益の不在の折に留守を預かっていた家老らと黙約し閏4月末に脱藩する。
藩の同志と門弟たち及び次男の虎雄ら28名(38名とも)が要蔵の会津救援に同行した。

5月2日森要蔵の一隊は北上の途中、会津藩原田主馬の指揮下で大田原城(城主大田原勝清11400石)攻撃に参戦、硝煙蔵爆発で午後五時本丸突入前に退却。

大田原城址公園 大田原城の図

▲大田原城址(龍城公園)

白河口の戦いの際、森要蔵は下羽太の橘家に寄宿(奥羽諸藩の集落は会津・飯野などの連合軍である東軍を味方とみなし協力したという)
7月1日森親子と飯野藩兵は会津藩兵と共に羽太方面で官軍──板垣退助率いる土佐藩八番隊と戦う。
要蔵ははじめ下羽太で指揮をとっていたが、老齢の身を挺して進み出る。
父と歳が離れた虎雄は、平素から呼んでいたように「“おじいさん”きりこみますよ」と言って小太刀を振ってし鋭く斬りこんだが狙撃され斃れ、その後要蔵も藩士花沢金八郎と共に銃弾に撃たれ戦死した。要蔵享年60。虎雄は16歳。
親子の遺骸は羽太の大龍寺に葬ったという。(墓は大龍寺と富津市浄信寺の二か所にある)要蔵の戒名は精真院範応忠剣居士、虎雄の戒名は武嶽英剣居士。
28人の飯野藩士は良く戦い、8月23日以降の会津篭城戦に加わり開城後に猪苗代へ幽囚の身となった者は6名であったという。

森要蔵親子達の戊辰役戦死墓 戦死者の名前

▲飯野・会津藩士の供養墓である大龍寺の戊辰役戦死墓

森景鎮之墓 森景鎮の墓の碑文

浄信寺にある森景鎮(要蔵)の供養墓は明治7年門弟らが建立した。

 

要蔵の長女のふゆ(後にふみ。維新後に勝俣音吉に嫁ぐが死別)が野間好雄に嫁ぎ生まれたのが野間道場と講談社の創業者野間清治氏。
曾孫は講談社第2代社長の野間恒氏とアメリカでフェンシングの「タイガー・モリ」で知られる森寅雄氏。皆剣道の達人である。

参考図書
・中村彰彦『歴史に見る勝つリーダー
・富津市史編さん委員会『富津市史 通史』『富津市史 史料集2
・朝倉毅彦『江戸・東京坂道物語
・『麻布区史
他、記事内明記のもの、郷土資料(別途リスト準備中)

森要蔵については逸話が多いので、今後色々と書きたいと思います。