上総・安房の歴史」カテゴリーアーカイブ

上総・安房(千葉県の中~南部)地域の歴史

幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]

林忠崇の請西潘上屋敷 請西藩江戸上屋敷

林忠崇が藩主時の請西藩上屋敷林邸は元飯田町の九段坂下にありました。
慶応元年~2年(1865-66)頃に蛎殻町の上屋敷からここへ移ったようです。
(中屋敷とする本もありますが、当時の史料には上屋敷とあり尾張版江戸切絵図にも林家の家紋付で書かれているため上屋敷とします)
九段坂は旧飯田町一丁目から麹町区富士見町へ通じる坂で、江戸時代には坂上から品川の海や富士山が展望できたそうです。

 

蕃書調所跡 蕃書調所跡案内板

蕃書調所跡(ばんしょしらべしょ。東京都指定旧跡)
安政6年(1859)版の『安政江戸図』では後の林邸の地に「蕃書調所」と書かれています。

延享元年(1744)徳川吉宗が外神田に天文台を建て、文化8年(1811)に天文方から新しく蕃書和解(ばんしょわげ)御用方が設けられました。蕃書は洋書(蛮書。欧米の書物)の意味です。
嘉永6年(1853)に黒船(ペリー艦隊)が来航し翌年に日米和親条約締結するという情勢で蕃書和解御用方が多忙となり、安政2年(1855)に御用方は「洋学所」と改めて独立します。

安政3年(1856)2月11日に幕府は洋学所を「蕃書調所」と改称し13日(27日とも)に当地、江戸飯田町九段坂下の竹本正雅(図書頭、中奥小姓)屋敷地に設立。海外事情調査のため洋書を解読しました。
安政4年(1857)1月18日に開場し、幕府旗本・御家人等の子弟も洋学教育を受けられました。その後は陪臣の入学も許され、西洋画を学ぶ画学局も置かれます。

万延元年(1860)に小川町に移転、文久2年(1862)5月18日には一橋門外護持院原(神田一ツ橋通り)に移り「洋書調所」と改称して23日に開校しました。
文久3年(1863)8月29日に洋書調所を「開成所」に改称。
明治2年(1869)12月17日に大学南校となり(医学校が大学東校)、開成学校と改称しました。現在の東京大学法学部・文学部・理学部の全身です。

蕃書調所と林忠崇屋敷

蕃書調所移転後は遠山安芸守邸となり、そして請西藩林邸となります。

牛ヶ淵と昭和館 牛ヶ淵

牛ヶ淵に沿って林邸が建っていました(左写真)
田安御門をくぐった先の代官町(林邸の牛ヶ淵対岸)に徳川御三卿の田安徳川家清水徳川家の上屋敷が並んでいました。

維新後に新政府により鎮台兵(明治政府直属の軍隊)・近衛師団兵の営舎地となり、昭和の戦後に旧近衛連隊等の建物を撤去して北の丸公園になりました。昭和39年(1964)第18回東京オリンピックの年に日本武道館が建っています。
左写真の林邸側の建物は平成11年に建てられた昭和の戦中戦後の国民生活を伝える「昭和館」です。

 

請西藩主林昌之助忠崇は清水門警衛を任じられ、清水門の屋敷に移ったのでしょうか。
慶応4年(1868)3月7日に忠崇は九段坂の上屋敷を出て国元(千葉県)の請西に戻り、徳川家のためにと藩主自ら脱藩して箱根・東北を転戦したため、請西藩は取り潰しとなった唯一の藩となります。

明治の地図では九段坂の林邸の地は招魂社付属地になっています。
「東京招魂社」は明治2年(1869)6月29日に東京九段坂上に造営し鎮座され、戊辰以来の官軍戦死者を祀りました。明治12年(1879)に今の「靖国神社」に改称。

明治9年版『新撰區分東亰明細圖』では林邸跡は飯田丁一丁目、北向かいは陸軍省御用地となり、その隣(田安御門側)は国内初の洋式競馬、招魂社競馬場となっています。明治4年(1871)から明治31年まで例大祭で競馬が興行されました。
現在は靖国神社の大鳥居(第一鳥居)をくぐって、兵部大輔大村益次郎銅像(明治26年建立)のある参道(お祭りの時にずらりと屋台が並ぶあの通り)です。

明治後期の『東京印象記』で九段坂は「見るもの聞く物、悉く男性的だから…」と書かれているのは、江戸時代からの老舗と明治からの兵舎が入り混じった土地柄なためでしょうか。

 

九段会館 現在の九段下

▲軍人会館(九段会館)
昭和9年(1934)6月に備役軍人の訓錬の場として帝国在郷軍人会本部「軍人会館」が建ち、昭和11年(1936)の二・二六事件の際には戒厳司令部が置かれました。
戦後にGHQが接収して連合軍の宿舎となり、1953年から日本遺族会に貸し出され「九段会館」に改称。ホテルや貸ホール、レストラン等運営していましたが、2011年の東日本大震災での天井落下事故により遺族会は会館を国へ返却し、現在は閉館しています。

所在地:東京都千代田区九段南一丁目
都営地下鉄新宿線、東京メトロ東西線・半蔵門線「九段下」駅すぐ

林家の江戸屋敷
請西藩林家由来の本所林町-3千石旗本時代
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]-もう一つの本所林邸
貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]-林忠崇の出生地

参考図書
・東京市役所『東京市史稿-市街篇44巻
・東京外国語学校『東京外国語学校沿革
・石倉翠葉『東京案内』
・児玉花外『東京印象記』他、千代田区教育委員会案内板等

参考古地図
・江戸時代『江戸切絵図』『慶応改正御江戸大絵図』『安政江戸図』
・明治時代『改正増補東亰區分新圖』『新撰區分東亰明細圖』

林忠崇の出生地-貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]

江戸城大手より16丁の浜町蛎殻町上総国貝淵藩(のち請西藩)上屋敷がありました。

請西藩浜町上屋敷 江戸牡蠣殻町請西藩上屋敷林肥後守邸

▲隣の松平三河守下屋敷跡の蛎殻町公園から林邸跡を撮影。
江戸時代の絵図の緑色の部分が松平邸、左隣の林家の家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」が描かれている所が林邸です※家紋は請西藩林家ページに掲載

 

家康入城の頃から江戸湾が埋め立てられ隅田川河口に浜町が陸地化、その砂浜辺りが「かきがら」と呼ばれていたようです。
各地の大名が国元から江戸への船荷の搬送先として蔵屋敷地となり、掘割工事が進むと大名屋敷の拝領地として武家屋敷が立ち並びました。

蛎殻町と箱崎町(上の絵図、林邸前の三角洲のような場所)の間に箱崎川が流れていましたが、昭和46年(1971)首都高速道路六号線と東京シティエアターミナル建設のため箱崎川本流、翌年に支流が埋め立てられ、今では川の面影はほぼ有りません。
この箱崎川に沿って徳川御三卿の清水殿の下屋敷、貝淵藩林家の上屋敷、徳川御三家の紀伊殿(紀州徳川家/和歌山)の蔵屋敷が連なっていました。

林邸の東、紀伊殿屋敷脇の紀伊国橋を渡ると箱崎川に架かる永久橋がありました。
永久橋を渡った徳川御三卿の田安殿下屋敷は古くは「箱ノ池」と呼ばれ、維新後に武家地が公収されて箱崎町三丁目・四丁目となりました。
(ちなみに幕末の請西藩上屋敷も、田安殿・清水殿の屋敷のそばですね!)

箱崎川の西は、江戸名所として錦絵に描かれる三俣(別れ渕・三渕・三又とも)です。江戸時代には浜町の新大橋・隅田川を渡る永代橋・そして永久橋の間で川が三方に分かれ、新大橋から林邸の方角に富士山も望める絶景地でした。

蛎殻町には安産祈願で有名な東京水天宮があります。林家が呉服橋から当地に移った頃、林邸北隣の大津屋敷を挟んだ久留米藩有馬式部少輔邸に水天宮神社がありました。一度江戸城下・芝赤羽根の久留米藩邸に移された後、明治時代になって赤坂を経て現在地に再び移って来たそうです。

蛎殻公園 ロイヤルパークホテル

▲蛎殻町公園とロイヤルパークホテル
ホテル正面あたりが紀伊殿の下屋敷、その奥が林邸の表門(林邸の西側)でしょうか。

大名庭園の景石 蛎殻公園案内板

▲蛎殻町1丁目遺跡から出土した大名庭園の景石
遺跡地は江戸時代初頭から延宝元年(1704)まで上野国前橋藩15万石の酒井雅楽頭、その後、伊予大洲藩6万石の加藤遠江守が屋敷を構えていました。

また維新後の箱崎には土佐の山内容堂が元田安殿下屋敷を買収して居住(明治2年の地図で土州・山内家。その後3丁目を開拓使御用地として貸付)し、対岸の牡蛎殻町には先物取引の場である米穀商品取引所や運輸業・問屋が並び、繁華街の交通をより便利にするため明治38年に山内家が土州橋を架け、明治42年東京市に寄附しました。
木橋のため老朽し新しい橋を大正3年に起工、翌年鉄筋の橋が完成しました。箱崎川の埋め立てと共に消滅しましたが大正時代発行の地図には、かつての林邸のそばに土州橋が描かれています。

所在地:東京都中央区日本橋蛎殻町2丁目・半蔵門線「水天宮前」駅そば

林家の江戸屋敷
請西藩林家由来の本所林町-3千石旗本時代
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]-もう一つの本所林邸
幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]-最後の請西藩江戸上屋敷

参考図書
・土州橋開通祝賀会『土州橋開通祝賀会記念』
・三島政行『葛西志
・向上社編輯部『大正博覧会と東京遊覧』他、中央区案内板等

参考古地図
・江戸時代『浜町秋元但馬守中屋敷周辺絵図』弘化,天保改正版『御江戸大絵図』安政三年版『万宝御江戸絵図』万延元年版『萬延江戸図』文久二年版『万世御江戸絵図』
・明治大正『明治二年東京全図』『新撰區分東亰明細圖』『東亰區分全圖』『明治四十年東京全図』
他、現代までの航空写真や錦絵等

関連サイト
・東京水天宮:http://www.suitengu.or.jp/

請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]

遠山金四郎邸 菊川の方向

▲本所菊川町(東京都墨田区菊川)が請西藩江戸下屋敷のあった場所です。
林邸の東に町名の由来である小さな溝渠「菊川」が流れ、菊川を渡ると町屋が並び大きな「横川」に架かるのは中之橋(菊川橋)です。


▲『文久二年本所深川絵図』の「林肥後守」の西に「遠山金四郎」、北に「榎稲荷」

西には長谷川平蔵遠山金四郎住居跡。
池波正太郎「鬼平犯科帳」の鬼平こと火付盗賊改役・長谷川平蔵宣以(のぶため)が明和元年(1764)から住み、孫の代の弘化3年(1846)から時代劇「遠山の金さん」こと江戸町奉行・遠山左衛門尉影元(かげもと。金四郎)の下屋敷となりました。

請西藩林邸の北向かいが大久保紀伊守の屋敷で、古くは土手稲荷と呼ばれていた小祠を邸内社として手厚く祀り、榎が鬱蒼と生えていたことから「榎稲荷大明神」と称されました。
関東大震災で焼失後に区画整理で現在地に移転、復興を遂げた榎稲荷が今も鎮座しています。

 

彰義隊の副長、天野八郎忠告が獄中で記した『斃休録』の「大久保紀伊守なる者、東照宮の御旗を持て真先に進みたり。此人年五十ばかり、元大監察を勤めしものなり」という経歴から、彰義隊で戦った「大久保紀伊守」は旗本「大久保紀伊守忠宣」とされています。
徳富蘇峰(猪一郎)も『近世日本国民史』で「彼(忠宣)やまた徳川武士の人たるを辱しめなかった」と記しています。
山崎有信『彰義隊顛末』の戦死者一覧の筆頭に大久保紀伊守の名が見え、篠沢七郎『彰義隊戦闘之始末』によると、この戦いで紀伊守の次男も戦死してしまいました。

 

──新政府軍は上野寛永寺に立て籠もる彰義隊の討伐を決行した。一時は持ちこたえるも、佐賀藩のアームストロング砲等、火力で圧され、ついに黒門口が破られてしまう。
新政府軍が押し寄せ、総崩れとなる中で、大久保紀伊守が東照宮の御旗を掲げて真先に進んだ。

しかし中堂脇で血戦に差し掛かった時、新政府軍の砲弾が紀伊守の額の上に命中する。
約三寸(9センチ強)の深い傷口は、まるで柘榴のようだった。陣笠を落ち打とし、紀伊守は東照宮の御旗を持ったまま仰向けに倒れた。

これを見た味方、予備隊の百人余りは逃げ去り、天野と新井と紀伊守の家来の3人のみが踏みとどまる。まだ息のある紀伊守を本坊の門番所へ運んだ。
この時すでに輪王寺宮と兵達は退避した後だったため、天野も輪王寺宮のあとを追って脱出することとなる──…

 

箱根へ向かった林忠崇の請西藩兵と遊撃隊は、東の彰義隊との呼応も考えていたそうです。
彰義隊の大久保紀伊守が向に屋敷があった大久保紀伊守と同一なら、きっと忠崇とも面識が有ったことでしょう。

岡田霞船『徳川義臣伝 明治戦記』では偶然にも林昌之助(忠崇)の次が大久保紀伊守の頁です。

・林昌之助
林昌之助上総貝淵にて一万石余を領したり
幕府瓦解の時に臨み自ら陣屋を焼払ひ脱走されし時は十九才なり
本国を去り小田原に至り大久保家と相謀り箱根の険阻に拠りて薩長土の大軍を引受数度勝利を得たるといへども大久保家の官軍降りて豆州に走り気船に乗じて水戸に上陸し
それより仙台に落ち江戸脱兵とともに数度戦争に及びしが後官軍に降られたり

・大久保紀伊守
大久保紀伊守は幕府において大監察使なり
君家を再度興さんと謀り上野山内に屯集せる彰義隊を指揮し群り寄たる官軍をば落花の如く打ちらし ますます死力尽して戦ひしが昼過る頃中堂その他に砲火の燃上り味方戦ひ難儀と見しゆへ又侯黒門口を差して進み来しに官軍より打放せし砲丸頭上に当りて頭未塵に相成ければ何をかもって堪るべきその場を去らず死したりとぞ

請西藩江戸下屋敷跡 屋敷の北

▲現在の請西藩跡地
東照宮の御旗を握り締めて斃れた大久保紀伊守のように、最後の大名と呼ばれる林忠崇も徳川のために戦争に身を投じ、そのために請西藩は滅ぶという結末でしたが、今ではこんなに和やかな場所です。
所在地:都営新宿線菊川駅近く

林家の江戸屋敷
請西藩林家由来の本所林町-3千石旗本時代
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]-林忠崇の出生地
幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]-最後の請西藩江戸上屋敷

参考図書
・徳富猪一郎近世日本国民史-第70巻 彰義隊の項
・山崎有信『彰義隊戦史』-「斃休録」の項・『彰義隊顛末
・岡田霞船『徳川義臣伝 甲・乙』他、墨田区教育委員会案内板

参考古地図
・弘化三年版『天保改正御江戸大絵図』
・文久二年版『江戸切絵図・尾張屋版』
・文久二年版『本所深川絵図』
・慶応三年版『万寿御江戸絵図』『慶応改正御江戸大絵図』
他、明治~現代までの地図・航空写真等

混血孤児を保護した澤田美喜-保科家の母と三菱財閥岩崎家の父

サンダースホーム 澤田美喜肖像

エリザベス・サンダース・ホームと聖ステパノ学園の門
右の肖像が澤田美喜さん。戦後の進駐軍兵士と日本人女性の間に生まれた混血児が捨てられることに心を痛め、三菱財閥創業者岩崎家の別荘地を買戻し児童養護施設を設立しました。

 

澤田美喜(さわだみき)
明治27年(1894)子爵保科正益飯野藩第10代目藩主)の長女・寧子(しずこ)は三菱財閥の3代目総帥・男爵岩崎久弥(彌)に嫁いだ。
寧子は上品なだけではなく華族女学校を優等で出て卒業式に昭憲皇太后の前で答辞を読み、津田英学塾も卒業した才媛であった。
久弥は六義園(現東京都文京区本駒込六丁目)に新居を構えて新婚生活を営んだ。
明治29年(1896)に茅町本邸(かやちょうほんてい。現東京都台東区池之端1丁目「都立旧岩崎邸庭園」)にジョサイア・コンドルの設計で洋館が建ち、夫妻は茅町本邸に移住する。

明治34年(1901)9月19日に茅町本邸で長女の美喜が誕生。※上に三人の兄
名付け親は大叔父の岩崎弥之助(菱財閥2代目総帥。美喜の祖父で三菱財閥創業者・岩崎弥太郎の弟)で、弥太郎の母美和と妻喜勢から一字ずつ貰った。

明治36年(1903)1月 妹の澄子が生まれる。
美喜が5、6歳の頃に3人の兄に英語を教えに来た津田梅子(日本初の女子留学生の一人)女史から、共に学んだ。

明治40年(1907)4月 お茶の水東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)附属幼稚園に入園。以後、同付属の小・中等部へ進学。
明治41年(1908)3月 大叔父弥之助58歳で没。7月 妹の綾子が生まれる。

大正5年(1916)土佐の岩崎家は真言宗であったが、美喜は数年前に大磯の別荘で病後の静養中に付添看護婦が聖書を音読する声が耳に入りキリストの言葉に興味を持った。美喜の聖書の入手先が学校の友人であると知った、真言律宗信徒の祖母喜勢から退学を迫られ、美喜も悲しむ祖母を気遣って15歳で退学を決意した。
それからは家庭教師──国語漢文和歌は関根正直博士・日本画は野口小恵先生・習字は西田単山(代々加賀藩祐筆)先生・茶道華道は小堀先生(小堀遠州の子孫)・油絵は石川寅治先生・英語は津田女史の紹介の英国婦人といった専門家達──に学ぶ。
父久弥と共に漢詩を読み、母寧子に英語を学び共に日本画を描いた。
この時に雅号を貰う。美喜は「恵芳」母寧子は「小汀」

大正11年(1922)4月に22歳で、フランス帰りの外交官澤田廉三(れんぞう。鳥取県岩井郡浦富村/現岩美郡岩美町浦富出身。東京帝国大学法科大学フランス法科卒業後、外交官試験に首席で合格)と見合いをする。
7月1日に結婚、明治学院のチャペルで式を挙げた。

母寧子が詠んだ詩
家の風 海の外までふき立てむ 松にさきそふ姫百合のはな
咲きいでむ 千代のちぎりの菊の花 うけていははむ今日の盃

廉三の母は敬虔なクリスチャンであった。美喜はメソジスト派の洗礼を受ける。
12月9日に妊娠三か月で夫に随行しアルセンチンのブエノスアイレスに向けて横浜を出航。

大正12年(1923)7月にアルセンチンで長男信一を出産。翌13年8月、日本き帰国時に次男久雄出産。12月に夫の赴任先の北京へ向かう。14年9月に北京で三男晃を出産した。
昭和2年(1927)10月に夫廉三が宮内省御用掛となり外務省本省へ転任のため帰国。翌年4月に長女恵美子を出産。

昭和6年(1931)9月に夫に随行してイギリスのロンドンへ。セルウィン司祭(後の欧州の英国教会の監督主教)の案内で孤児院ドクター・バナードス・ホームを訪れる。明るく充実した教育・実習施設を見学し、自身も週に一度奉仕に通った。
メソジストのウェズリアン教会に通っていたのを、子供達を預けるノーランドの保母カレッジに従い英国教会へ通い始める。

昭和8年(1933)10月 代理大使となった夫に随行してパリへ。マリー・ローランサンに絵画を学ぶ。

昭和10年(1935)2月 夫に随行してニューヨークに渡る。ニューヨーク・シティ第五街聖公会日本部会長に就任。
滞在中にサンマー・シアター(夏季劇団)を組織しニューイングランド地方を回り、興行収入を福祉施設に寄付した。

パリで親しくなった女優ジョセフィン・ベーカー(アフリカ系アメリカ人。琥珀色の歌姫と呼ばれヨーロッパの劇場で人気を博した一方で慈善に勤めた)がニューヨークに来た際、彼女に向けられた黒人差別を目の当たりにする。
昭和11年(1936)6月に帰国。二世連合会救済部会長に就任。翌年9月に妹の澄子が入院する聖路加病院へ通う。澄子は死の直前に洗礼を受けた。享年34歳。

昭和16年(1941)12月8日に太平洋戦争勃発。親米派とみられ同じ大磯の住民の樺山伯、吉田茂らと共に監視がつく。また日本に住むアメリカ国籍の日系二世も、戦争によってアメリカの両親からの仕送りが止められ、また迫害を受けて苦労していたので、外務省の外郭団体として二世連合会が設立された。

昭和19年(1944)3月 狭心症で倒れた母寧子が死去。3人の息子達も召集される。
疎開先の大磯の別荘が日本陸軍に接収され、美喜は娘と共に夫の郷里の鳥取へ旅立ち、熊井浜の別荘「鴎鳴荘」に疎開し、疎開婦人会の会長となる。
父久弥は軍への金品供出の際は潔く渡し、そして岩崎本家の家長として東京に留まった。

昭和20年(1945)1月海軍の軍司令部に入っていた三男の晃が20歳で戦死。
8月15日の終戦により、特攻隊の次男と学徒出陣で召集された長男も帰って来た。
平和を愛していた父久弥だが、戦犯としてアメリカ進駐軍(GHQ)に全財産を没収された。愚痴もこぼさず毅然として受けたが、巣鴨で罪を裁かれもせず理由のない差押えに先祖に申し訳が立たないと苦笑したという。
茅町本邸はG2(GHQ参謀第2部)のキャノン機関(秘密諜報機関)本部となり、岩崎家は和館の一角を間借りして暮すことになった。

昭和21年(1946)7月に夫廉三が公職追放となる。
この年、列車の中で網棚から落ちた風呂敷包を美喜が網棚に戻したが、移動警察に見咎められ、風呂敷の中身を調べられた。中には黒い乳児の死体だった。
乗客が美喜の子ではないと証言したが、この時に一時でも母となったように日本国中の同じ境遇の子になってやれないのかと啓示を受けたという。
美喜は大磯の別荘に、混血児の孤児院を創ることを父と夫を説得し、別荘を買戻す四百万円近くの資金集めのため多方面に協力を求めた。

昭和22年(1947)2月 46歳で大磯に社会福祉法人エリザベス・サンダース・ホーム創立。理事長兼学園長に就任し、混血児を保護した。
名称は終戦の年の終わりに聖母院で生涯を閉じたエリザベス・サンダース嬢が遺言で日本の英国教会に贈った遺産百七十ドルがホームに寄付され初の基金となったことが由来。

父久弥は家を神学校に売り千葉県成田の末広農場に隠居したが、やがて心労のためかアダムス・ストークス発作(不整脈による意識障害)を起こすようになる。

昭和27年(1952)夫廉三の公職追放が解ける。9月、募金募集のため三カ月間北米に行く
昭和28年(1953)3月、夫廉三が特命全権大使として在ニューヨーク国際連合日本政府代表にとなり渡米。
美喜は4月に学校法人聖ステパノ学園創立。理事長兼学園長ならびに聖ステパノ学園小学校長に就任し、愛児達を教育。9月に募金募集のため三カ月間北米とヨーロッパに行く。

昭和29年(1954)9月・翌年9月に募金募集のため三カ月間北米、ブラジル、ヨーロッパに行く。
昭和30年(1955)9月 募金募集のため三カ月間北米、ブラジル、ヨーロッパに行く。
ホーム設立を知った親友の女優ジョセフィーン・ベーカーが無償で講演会を開いて寄付をした上、帰国時に彼女はホームから2人の孤児を養子にと引き取った。
12月2日、末広農場の別邸で父久弥90歳で没する。

昭和33年(1958)創立10周年の記念に写真集「歴史のおとし子」を発行し、ノーベル文学賞受賞者のパール・S・バック(彼女も混血孤児の為にパールバック財団を設立している)が序文を寄稿。
昭和34年(1959)4月 聖ステパノ学園中学校長に就任。9月に募金募集のため三カ月間北米とヨーロッパに行く。
昭和35年(1960)6月 エリザベス・ブラックウェル賞(世界で特に人道主義に貢献した婦人に与えられ、3人目の受賞者)受賞のため北米、続いて園児の作品を出品した絵画展覧会の開会式出席のためパリへ。9月にパール・バック女史と韓国訪問。
昭和37年(1962)1月 ビルマを視察旅行。9月 北米、ブラジル・アマゾン、ヨーロッパを視察旅行
昭和38年(1963)4月 朝日賞受賞。
昭和40年(1965)国際孤児財団世界の婦人賞受賞。夫廉三が鳥取県の県政顧問となる。
昭和45年(1970)12月8日に夫廉三死去。廉三は戦後外務次官、国連大使を務め、日本の国際連合加盟に貢献した。また通訳として親しく昭和天皇に接した。

昭和55年(1980)5月12日、講演旅行先のスペイン領マジョリカ島にて心臓麻痺をおこし死去。享年78歳。澤田夫婦は鳥取の浦浜の海の見える墓地に眠る。
美喜が30年間に育て上げられた者約2千名。内約600名は海外の家庭に養子となって自立。9名はアマゾン河流域の開拓地で新天地を開こうと努めた。

 

澤田美喜記念館 クロス

澤田美喜記念館
岩崎山と呼ばれた丘の上にノアの方舟をイメージした建物が佇んでいます。
手前に26聖人の十字架の階段が続き、2Fが礼拝堂、1Fに美喜さんが集めた、隠れキリシタンの遺物の数々が展示されています
美喜さんは事業開始当時、妨害や中傷、乗っ取り工作等に直面して打ちひしがれた時に、キリシタン遺品の並ぶ小堂で祈ることで気力を取り戻したそうです。

ガイドブックとポストカード

見学に訪れると、戦国時代のものから一つ一つ丁寧に説明をして頂き、当時の弾圧の様子がひしひしと伝わってきました。
魔鏡と言われた、太陽光で映し出す鏡のレプリカを実際に外に出ての実演もあり、見た目は普通の鏡なのに予想以上にくっきりとイエス像が浮かび上がった精巧さとその技術に驚きました。
そして奥の納骨堂には幼くして亡くなった孤児や身寄りのない卒園者の遺骨が美喜さんの分骨と共に納められています。安らかなお眠りをお祈り申し上げます。

切支丹燈籠 三点鐘を鳴らす鐘

▲切支丹灯篭と朝夕に三点鐘を鳴らす鐘

・社会福祉法人・児童養護施設エリザベス・サンダース・ホーム
・澤田美喜記念館
所在地:神奈川県中郡大磯町大磯1152

参考図書
・沢田美喜『黒い肌と白い心』『母と子の絆-エリザベス・サンダース・ホームの三十年
他碑文・パンフレット類

関連サイト
・Elizabeth Saunders Home:http://www.elizabeth-sh.jp/
・学校法人聖ステパノ学園:http://www.stephen-oiso.ed.jp/
・三菱グループ:http://www.mitsubishi.com/

富津陣屋

富津陣屋跡 富津陣屋跡周辺

富津陣屋跡の碑と白井宣左衛門・小河原多宮自刃之地
陣屋の敷地と推定される場所(現在は宅地)の脇、西側に小さな碑が建つ

文化7年(1810)2月26日、幕府は3万2千石を異国船に対する房州沿岸警備に割り当てて、白河藩に安房・上総、会津藩に相模の浦賀周辺に砲台の築造を命じた。

富津陣屋・台場(上総国周淮郡/千葉県富津市)担当は
◆文化7年(1810)~【奥州白河藩/藩主松平越中守定信】
※文化8年に富津他が白河藩の所領となる。名君定信は房総も善く治めた。
※『遊房總記』では富津陣屋について、竹ヶ岡(竹岡陣屋)の友軍出張の場所であったのを文政5年に房州の防備を富津に移したとある。
『富津村助郷争』では砲台は文化8年、陣屋は文政4年の造立。
※波佐間陣屋の廃材を転用したためか規模・構造の類似が見られる

◆文政6年(1823)~【幕府代官/森覚蔵】(天保11年6月27日~羽倉用九(外記)、天保13年に篠田藤四郎)
※10月19日より白河藩が転封となった後は幕府代官が入り、規模縮小したと思われる。
天保10年には配下43名のうち10名を富津に充てた。翌年からの代官羽倉外記は儒者として名高い。
※要請に応じて上総久留里藩・下総佐倉藩から警衛が動員される。

◆天保13年(1842)~【武州忍藩/藩主松平下総守忠国】
※12月に命じられる。富津陣屋の長屋を増築。忠国は後に「下総草」と呼ばれる草を植えて富津海岸の砂塵を防ぎ感謝された。
※弘化4年より大房崎~洲崎の担当になる

◆弘化4年(1847)【奥州会津藩/藩主松平肥後守容敬】
※2月15日富津~竹岡警備を命じられる
※陣屋詰人数は、香・番頭各1・組頭2・物頭3・郡奉行1・目付2以下藩士170名。武器は17貫300目筒1亭挺・1貫筒以上12挺・200~300目玉筒25挺・200目以下筒221挺の他に弓・長柄があった。火薬蔵、早船繋があり台場も兼ねていたと見える。
※嘉永5年閏2月3日に容敬が没し、25日容保が会津藩藩主となる

◆嘉永6年(1853)~【筑後柳川藩/藩主立花飛騨守鑑寛】
※4月7日に巡検、11月14日より。

◆安政5年(1858)~【奥州二本松藩/藩主丹羽左京太夫長国】
※9月22日に丹羽長富が任を受け、11月に子の長国が継ぎ藩主となる。長国は房総の地を善く治め、歓迎した領民達は仁政を後世に伝えようと「懐恵碑」を建立したという。
※部将1・隊長5・兵300・大砲隊50・軍艦2・糧食方11人、大砲10挺が配される。富津番兵は毎年9月に交代させた。

◆慶応3年(1867)~明治元(1868)【上州前橋藩/藩主松平大和守直克】
※3月13日に命じられ、5月26日から引継ぐ。

会津藩の頃には富津陣屋の広さは古い図面によると総坪数は7875坪。
堀や土塁で囲まれ、周辺の村から隔絶された中に町が形成かれていたとみられる。

 

富津陣屋跡の碑石

▲左から「小河原多宮自刃の地」「白井宣左衛門自刃之地」「富津陣屋跡」

富津陣屋・台場は慶応3年(1867)3月13日より前橋藩(上野国郡馬郡厩橋/群馬県前橋市・17万石・藩主松平直克)の担当となる。
初期には町奉行兼勘定奉行の白井宣左衛門以下 遊隊9名・徒士目付2名・砲隊格20名・銃隊19名・町在組浮組20名・台場付足軽(二本松藩から引継か)20名の計113名程が配置されていた。

慶応4(1868)正月の鳥羽・伏見の戦以降、江戸の情勢が不安になり江戸に居た藩士が続々と富津に避難し、人数は六百余に達した。
房州の情勢も気遣って、4月8日に家老の小河原政徳(おがわらまさのり。左宮/さみや・多宮。三弥の説あり。字は子辰)と大目付服部助左衛門を富津に派遣する。
10日に根付銈次郎が23人を率いて、12日には年寄水野主水も富津へ向かう。
小河原は4月18日に到着している。藩主は京に在った。

4月8日から旧幕府脱走軍・撒兵隊が総州諸藩に協力を要請し、危ういやり取りが有ったが前橋藩は新政府に恭順しており、白井は要求を飲まなかった。

閏4月3日、真武根陣屋を出陣した林忠崇率いる請西藩士らと遊撃隊は、撒兵隊らと挟撃する形で富津陣屋を取り囲む。
応対した小河原は主命がなければ引き渡しは応じられないと拒否した。
それでも引き下がらず、強談判に対し、数百人の家族が居らす場で戦となるのを避けて(陣屋跡からは化粧道具や玩具の出土もあり、駐留した家臣が家族と生活していたことがわかる)席を外した小河原は隣室で接収の責任を取って自刃した。51歳。

前橋藩士は陣屋を明け渡し、脱走扱いで歩卒20名を提供し、大砲六門・小銃50挺(10)、遊撃隊に金千両(内500両は返金)・撒兵隊に糧米若干を贈る。
陣屋の者は分散し付近の在家に仮寓した。

6月に筑前藩の援軍が到着し前橋藩は陣屋を取り戻すが、遊撃隊に兵を与えた罪を総督府から問われる。
小河原から陣屋と郷士を託されていた白井は、藩主に罪が及ばないように全て自らの責任であると答えた。
6月12日に割腹申付られ、富津陣屋で白井は養子の茂八郎に介錯させて潔く切腹したという。
群馬県前橋市の源英寺に小河原左官・白井宣左衛門の墓がある。

富津陣屋は9月に取り壊され、10月には敷地も払い下げられて畑地となった。

・富津陣屋跡地
所在地:千葉県富津市富津字陣屋跡

参考図書
・富津市史編さん委員会『富津市史
・君津郡教育会『君津郡誌
・東京市役所『東京市史稿 市街篇・港湾篇』
・小野正端『遊房總記』-改訂房総叢書収録
・筑紫敏夫『前橋藩房総分領と富津陣屋の終焉』
・・山形紘『房総の幕末海防始末
・朝倉毅彦『江戸・東京坂道物語