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武蔵・江戸の歴史・史蹟

靖国神社の練兵館跡と斎藤弥九郎

練兵館跡の碑 練兵館跡の案内板

幕末志士ゆかりの練兵館跡

練兵館(れんぺいかん)は神道無念流(しんとうむねんりゅう)の剣客斎藤弥九郎(やくろう)により、文政9年(1826)飯田九段下の俎板橋付近に開かれ、天保9年(1838)3月に類焼したので、この地(麹町三番町の九段坂上)に移り、その後約30年間隆盛を誇った。
明治4年(1871)に招魂社(明治2年に東京招魂社が建てられ明治12年より靖国神社に改称)の敷地になり、牛込見付に移転した。

後に「技の千葉」北辰一刀流千葉周作の玄武館、「位の桃井」鏡新明智流桃井春蔵の士学館と共に「力の斎藤」の練兵館として幕末の三大道場と呼ばれ
高杉晋作、品川弥次郎、師範代も務めた桂小五郎(木戸孝允)や渡辺昇など幕末の志士が多数入門し、伊藤俊輔(博文)も出入りしていたと言われる。

練兵館と招魂社と靖国神社の位置

▲安政五年江戸切絵図の弥九郎の敷地と明治九年東京全図の招魂社の敷地と、現在の靖国神社の敷地を合わせた、おおよその位置。
火災で移転し大きな道場が建ったので「練兵館の焼太り」などと講談でも揶揄されている。

靖国神社南門 練兵館跡地

▲靖国神社の南門を入ってすぐに練兵館跡の碑がある。写真の碑の右奥に拝殿。

 

■齋藤彌九郎善道
弥九郎は名は善道(よしみち)、字は恵郷、通称彌(弥)九郎。
寛政10年(1798)1月13日、越中国氷見郡仏生寺村で農業を営む齋藤新助信道と母磯(いそ。宮下市郎右衛門の娘)の長男として生まれる。斉藤家は藤原朝臣利仁の後裔と伝わる。
文化7年(1810)13歳で高岡に奉公に出るが文化9年(1812)に江戸を目指す。郷里の土屋清五郎(清水家家臣)の斡旋で幕臣能勢祐之丞(のせすけのじょう)の従者となり、18、9歳頃に岡田十松吉利の神道無念流「撃剣館」道場に入門。
文政3年(1820)に江川英龍が18歳で撃剣館に入門し2年の寒稽古をなし、初めての仕合相手が21歳の弥九郎であった。

文政9年(1826)29歳の時に英龍の後援で独立して飯田九段下俎板橋界隈に、後に幕末の三大道場と呼ばれる練兵館(れんぺいかん)を開く。
天保6年(1835)5月4日に英龍が家督を継ぎ韮山代官となると弥九郎は江川家御目見御用人格四人扶持として召抱えられ、名を左馬之助と称した。

天保8年(1837)2月19日の大塩平八郎の乱の際に韮山に居た弥九郎は討伐を願い出て大坂へ急ぐも、着いた前日に大塩父子は自殺を遂げていた。
その後平八郎の残党が韮山代官領内の甲州に潜伏したと風聞があり、英龍と供に刀剣商を装って探索と民情視察に管内を巡った(甲州微行

この年、蘭学者幡崎鼎(はたざきかなえ)が国禁を犯して捕われ、長崎から江戸へ送られる際に、英龍は鼎を獄中で苦労させまいと金十枚を贈りたかったが、厳重な護送中の駕籠に警史の目を誤魔化し包装した金と書簡を投げ入れる難題を弥九郎がやってのけた。
後に「山師の弥九郎」と綽名されるほどの才能である。

天保9年(1838)3月に練兵館が類焼したので麹町三番町に移る。
天保10年(1839)正月、目付鳥居耀蔵(とりいようぞう)の江戸湾備場巡検時に副使に任じられた英龍に随い参加。
その際に英龍は様々な不安を感じるが争いを避け、英龍の意志を弥九郎が担って江戸の渡辺崋山(かざん。三河国田原藩家老)を訪問した。崋山は高野長英に相談し測量技術に長けた門下を推挙するに至る。
※崋山は弥九郎に三人扶持を与え田原藩の剣術指南とするほど親交があった

天保12年(1841)5月9日、弥九郎の西洋砲術の師である高島秋帆(たかしましゅうはん)の徳丸原(とくまるがはら)の縦隊操練・大小砲の打方見置に江川家臣らと参加、弥九郎は砲隊員に加わる。
※高島秋帆が長崎に在る時にオランダ商人から買付けたゲベール銃を大坂に密送した。江戸にまでは届かないことを惜しむ英龍の為に弥九郎が大坂へ向かい、無事江戸の本所南割下水(みなみわりげすい)の江川邸に送致し、周囲の者は驚嘆した。
この頃、佐久間象山が江川塾へ入門する仲介を弥九郎に頼んでいる。

英龍の後援と共に水戸藩で烈公(斉昭)を支持する藤田東湖と同門である誼もあり斉昭に知られ、天保12年8月1日水戸弘道館設立時に招かれ、師範として召抱えられる話を辞退したが、水戸からは顧問として扶持米を受け、また武田耕雲斎とも懇意となった。
弥九郎の練兵館には長州や越前の藩士も出入りしたため(桂小五郎や大村藩士の渡邊昇ら志士達が練兵館の塾頭となっている)弥九郎は水戸と長州の間で調和役もつとめていたと思われる。

天保14年(1843)5月、江川家の家臣望月直好の嗣が途絶えた折に下総に直好の甥の存在を知った弥九郎は韮山に甥を送り届けた。江川家はその忠誠に酬いようとしたが弥九郎は受けなかった。
5月18日水野忠邦の改革中に英龍が鉄砲方に登用されたが、閏9月の忠邦失脚に伴い鉄砲方を罷免されると弥九郎はすぐに英龍を訪ねた。時勢をよく知る理解者の慰めに英龍は喜んだという。

嘉永6年(1853)8月英龍が品川台場の築造方を命じられると弥九郎は現場監督を務め、秋に英龍が本郷湯島桜馬場に鋳砲所設置の命を受けた時は監督方となる。

安政2年(1855)1月16日に担庵が病没すると落胆し、この頃から篤信斎(とくしんさい)と号し長男新太郎に弥九郎を襲名させた。
担庵の嗣子英敏は13歳の幼年だったため家臣の柏木総蔵と共に計り幕府に内願して芝新銭座の地に江川塾を移し、大鳥圭介らを招いて門人の養成に努めた。

明治元年(1868)維新の折は朝廷に味方し、代々木の山荘に隠居していた篤信斎は彰義隊の誘いを蹴り、老齢ながら密かな動きも大村益次郎の書簡で窺われる。
7月14日に71歳で徴士として召され、8月26日に徴士会計官判事試補、9月5日に会計官権判事となり大阪に在職。
明治2年(1869)7月23日に造幣局権判事となり11月4日の造幣寮の火災の際に一人猛火の中へ飛び込み重要書類を救い出し人々を驚嘆させた。
明治3年(1870)5月25日に鉱山大佑に転職するが病を患い東京に帰る。
明治4年(1871)10月24日牛込見附内の自宅で死去。享年74。遺言により神式で代々木山荘に埋葬。明治40年5月27日に従四位を賜る。

※2014年7月8日の記事内「齋藤彌九郎善道と江川英龍」から移動しました

みたままつり靖国神社の拝殿

靖国神社http://www.yasukuni.or.jp/
所在地:東京都千代田区九段北3-1-1

参考資料・サイト
・かみゆ歴史編集部『大江戸幕末今昔マップ
・笹川臨風『類聚伝記大日本史10義人・武侠篇
・大坪武門『幕末偉人斎藤弥九郎伝』
ほか案内板等
・昭和50年に栃木県で名前を継承した「練兵館」:http://renpeikan.jp/

初期の飯野藩保科邸と吉良上野介邸

元禄江戸城周辺

▲元禄年間の絵図では鍛冶橋門内に飯野藩保科邸(兵部少輔正賢)と吉良上野介邸。
呉服橋門内に南町奉行所(能勢出雲守邸)、和田倉門近くに会津藩邸(3代藩主正)が在る

呉服橋の南には鍛冶橋(現在の東京駅八重洲口南側)がかかり、鍛冶橋門のそばに忠臣蔵のモデルでお馴染み吉良上野介義央が生まれたととされる屋敷の隣に飯野藩保科家の上屋敷(寛永10/1633年4月に2代藩主保科正景が賜わり元禄11年9月18日まで在)がありました。後の貝淵藩林邸の2軒隣の邸地です。

※米澤城主上杉綱勝を介して吉良義央と繋がる会津藩の保科肥後守…保科正之は、高遠城主時代の寛永10年2月に桜田門内に上屋敷(西の丸のすぐ脇。会津藩2代藩主保科筑前守正経の代まで在)を賜り、6年後の山形城主時代に芝新銭座を賜り下屋敷(正経の代から上屋敷。庭園を造り箕田園と呼ぶ)としています

元禄11年(1698)9月6日午前10時江戸の大火で吉良邸・保科邸が類焼してしまい、飯野潘3代藩主保科正賢(兵部少輔)は麻布村の地を与えられ、吉良上野介は呉服橋門内の後に北町奉行所が建つ場所に移りました。
鍛冶橋内の屋敷跡には10月5日に町奉行松前伊豆守邸が営造され、ここが南北町奉行所となります。

元禄14年(1701)3月14日、将軍家勅客式(朝廷から江戸城に下向する使節を迎える)当日に、勅使御馳人(使節の供応係)の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)こと赤穂城主浅野長矩(ながのり)が私怨により、式の指導にあたっていた奥高家(幕府の儀式儀礼を司る)吉良上野介を松の廊下で斬りつけました。
夜に内匠頭は殿中(でんちゅう)刃傷(にんじょう)により切腹を申付けられ、彼の家臣達は主君と屋敷そして赤穂城をも失うことになります。

お咎めのなかった吉良上野介も自ら免官を願い表高家(非役中の高家)となりますが、8月19日に本所松坂町の松平登之助(駿河守)邸へ屋敷替えを命じられます。
12月11日に上野介は引退を願い出て養子の左兵衛佐義周(さひょうのすけ よしかね)が家督を相続しました。

元禄15年(1702)12月15日未明、内匠頭の遺臣大石良雄(内蔵助)と四十六人の赤穂浪士が本所宅を襲撃し上野介を刺殺します。享年62歳。
警備の行き届く呉服橋門内から、あえて討入りさせやすい場所に屋敷替えをさせたとも噂されました。

参考図書
・東京市『東京市史稿
・江戸幕府普請方『御府内往還其外沿革図書』
・義士叢書刊行会『赤穂義挙録』
・三田村鳶魚『元禄快挙別
他。江戸絵図等

木挽町の象山塾と狩野画塾

佐久間象山塾跡 木挽町

佐久間象山塾跡
嘉永3年(1850)信濃国(長野県)松代藩士の佐久間修理(象山)は、江戸深川の松代藩下屋敷で門弟たちに西洋砲術を教えていました
嘉永4年(1851)に象山は木挽町(こびきちょう)の戸川弾正宅跡を買取り住居とします。地主は旗本諏訪庄助の弟の浦上四九三郎。
5月28日ここに塾を開き、砲術と経書を教授しました。

塾は二十坪程の規模で、入門者は百二十人に達し、常時三十~四十人が学んでいたといいます。
門下には勝麟太郎・吉田松陰・橋本左内・河井継之助・坂本龍馬等多くの有能な人物が集まりました。

木挽町塾跡 銀座みゆき通り

▲象山塾と狩野画塾の地付近を撮影
嘉永6年改正の絵図に後述の狩野勝川(かのうしょうせん。幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向い合う場所に「佐久間修理」象山の名が見えます。隣に浦上四九三郎の名前もありますね。

 

木挽町狩野派画塾跡 狩野画塾跡の案内板

木挽町狩野画塾(かのうがじゅく)跡
江戸幕府の奥絵師であった狩野四家全て中央区内に拝領屋敷がありました。

狩野家の祖先正信は小田原出身で京に出て将軍義政に仕え室町幕府の御用絵師となり、子の元信(古法眼)の時に狩野派が大成しました。元信の孫の永徳は豊臣秀吉の命で聚楽大坂二条の金壁に書き、永徳の門人の山楽(京狩野祖)は秀吉の命で大坂四天王寺の壁に聖徳太子の縁起を書きました。
永徳の孫の探幽(たんゆう、守信)が海内独歩と呼ばれた大家で、勅命で紫宸殿の賢聖障子を書きました。

探幽守信が【鍛冶橋】狩野家の祖
・探幽の弟の尚信(自適斎、主馬)が【木挽町】狩野家の祖
・その下の弟の安信が【中橋】狩野家の祖
・尚信の孫の岑信(みねのぶ)が分家して【浜町】狩野家の祖
として幕府奥絵師の狩野四家となります。

尚信は寛永7年(1630)に江戸竹川町(銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になり、安永6年(1777)六代典信(栄川)の時に老中田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角にあたるこの地に移って画塾を開きました。

木挽町狩野家は千石も与えられて栄え、諸大名からの制作画の依頼も多く、門人もまた集まりました。門人のほとんどは諸侯のお抱え絵師の子弟で、十四、五歳で入門し、十年以上の修業を要しました。修行を了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つと言われました。
この狩野画塾からは多くの絵師が輩出しましたが、明治の近代画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦はともに木挽町狩野家最期の雅(うた)信(勝川)の門下生です。

 

浜町家は岑信が徳川幕府6代将軍家宣の寵愛を受けて「松平」から一字賜わり「松本友盛」と改名して木挽町家から分かれ、一時は狩野派の総上席になりました。※後に狩野姓に戻します
葛飾北斎ははじめ勝川派でしたが、浜町狩野派5代目寛信(融川/ゆうせん)に入門したため勝川派を破門になったという逸話も伝わっています。

寛信の子助信(友川)は木挽町狩野家8代目栄信(伊川)五男の中信(なかのぶ。幸川のち董川/とうせん、全楽斎)を養子にして継がせますが、幕末の上総請西藩藩主林忠崇浜町でこの幕府奥絵師法眼董川に画を学び、画号を如雲と号しました。

所在地…佐久間象山塾跡:東京都中央区銀座6丁目15番地域
狩野画塾跡:東京都中央区銀座5丁目13-9~14付近

参考図書
・横井時冬『日本絵画史
・帝国審美協会編輯部『日本古近現代書画家名鑑』
・山本元『書画鑑賞の栞』

佐久間象山の西洋砲術塾

佐久間象山砲術塾跡 象山砲術塾跡案内板

佐久間象山砲術塾跡
現代の永代通り、福島橋を永代橋に向かって渡った所に案内板が建っています。

佐久間象山砲術塾の場所

幕末の兵学者・思想家として著名な佐久間象山が嘉永3年(1850)深川の松代藩下屋敷で洋書を解読編纂していた頃に、門弟たちに西洋砲術を教えました。
安政年間の江戸絵図に福島橋を渡ったから冨吉町の北に真田信濃守の下屋敷が描かれています。

象山塾の門人名簿の『及門録』には勝麟太郎殿、長州藩士吉田大次郎(松陰)や会津藩士山本覚馬、大洲藩士武田斐三郎(函館五稜郭を設計)、長岡藩河井継之助等の有能な人物の名前が見られます。

江戸町火消しの纏 東京スカイツリー

▲左写真の奥が塾跡。
永代通りの街灯は深川の江戸町火消しをイメージした纏(まとい)が象られています。
先進技術を教えた塾跡地手前の福島橋から近代的な東京スカイツリーがくっきり(川の左側が跡地)

所在地:東京都江東区永代1-14付近

木挽町の象山塾の記事

南町奉行所と大岡越前

南町奉行所跡 南町奉行所跡案内板

▲数寄屋橋門内の南町奉行所跡のパネル
東京都指定旧跡。JR有楽町駅中央口の正面、マルイと交通会館の間のエスカレーターの裏面に有ります。
南町奉行所は東(数寄屋橋側)に表門があり、正面玄関に向かって右に三十三畳の上番所(与力の詰所)と隣に同心番所、左に白洲、裁許場や書院等が続き、敷地の西側には長屋建てとなって裏門や厩が置かれていたようです。石組下水溝の一部が再現されています。

名奉行大岡越前守忠相が享保2年(1717)~元文元年(1736)までの20年間、南町奉行としてここで執務をしていました。平成17年の発掘調査では「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しています。

 

南町奉行所
慶長9年(1604)に町奉行の職制を布き、北は呉服橋門内にて米津勘兵衛田政、南は八代洲河岸に土屋権右衛門重成を吏務に就かせました。
慶長18年(1613)からは島田次兵衛利正が一人で奉行に就きます。
町奉行の役宅は「番所」と呼ばれていたようです。
寛永8年(1631)9月22日に再び分かれて北町奉行は堀式部少輔直之、南町奉行は加々爪民部少輔忠澄になります。

明暦3年(1657)の大火で八代洲河岸の番所を停止して町奉行が1人となった後、寛文2年(1662)に常盤橋門内に新設して2人に戻りました。
※ややこしいですが常盤橋門内の奉行所は位置の関係で北になります(後に北町奉行所は呉服橋に移転)

元禄11年(1698)10月5日頃に南町奉行所を呉服橋門内より鍛冶橋門内に移し、元禄15年(1702)8月からは更に鍛冶橋内に中町奉行所を増設して3奉行となります。※享保4年(1719)4月14日廃止

宝永4年(1707)4月に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転、南町奉行所は幕末まで当地にありました。
南北の奉行所はそれぞれ二千五~六百坪の広大な敷地に千坪余りの町奉行屋敷が建っていたようです。

幕末の南町奉行所で与力であった原胤昭(はらたねあき。嘉永6/1853年2月2日八丁堀生まれ。維新後は東京府職員となり築地にキリスト教会を設置、錦絵問屋を営みキリスト教書出版社十字屋を開業。兵庫仮留監や釧路集治監を勤め、出獄人や被虐待児童等の更生保護事業を広く行った)の談話として……表門は黒い澁塗りに白漆喰のナマコ壁の白黒くっきりと凜とした、それでいて他の武家屋敷よりは優しげな長屋門が立ち、玄関まで真っ直ぐに石畳が伸び、那智黒の小砂利が敷き詰められていて左右に磨かれた天水桶(雨水を貯める桶)が山形に積んである。
濠は深く掘の石垣も几帳面に組み上げられ、土堤の上には品良く黒松がしたたれ堀の水に写り綺麗な景色であり、この寛大な佇まいと行きかう市民の心を引き締めるような設計は大岡越前守の趣向で、火災で改築されても引き継がれてきたと記されています。

 

大岡越前守忠相(おおおか えちぜんのかみ ただすけ)
延宝5年(1677)元旦?に江戸で大岡美濃守忠高の四男(七子)として生まれる。母は北条出羽守氏重の娘。幼名は求馬。後に市十郎、通名は忠右衛門。はじめ忠義、のち忠相。

貞享3年(1687)12月10日、10歳の時に大岡忠右衛門忠真の養子となる。忠相の妻は忠真の娘。
貞享4年(1688)9月6日に初めて5代目将軍徳川綱吉に謁見。
元禄9年(1696)2月5日に従兄大岡五郎左衛門忠英が番頭高力伊予守忠弘を殺傷し連座として閉門。4月20日に閉門を許される。
元禄13年(1700)7月11日に家督を相続し寄合に列せられる。

元禄15年(1702)5月10日、26歳で御書院番となる。翌年10月22日に大地震があり、11月29日震災復興の普請奉行となる。
宝永元年(1704)10月9日に御徒士頭に進み12月11日に布衣(狩衣)の着衣を許される。
宝永4年(1707)8月12日に御使番に移り翌年7月25日に御目付に進む。

正徳元年(1711)7月18日、35歳で評定所(幕府時代の裁判所)に出仕。翌年正月11日に山田奉行となる。3月15日に従五位下に叙し能登守に任ぜられる。
享保元年(1716)2月12日、40歳で普請奉行となる。※この年徳川吉宗が8代目将軍となる

享保2年(1717)2月3日に江戸町奉行となり、越前守に改める。※江戸町奉行は通常三千石役得千俵
  此年人参蕃薯その他薬草を栽培・船税の賦課を始める
  3年7月 江戸米延売人を定める
  4年 砂糖の栽培を命じる・3月に火消いろは組を設ける
  5年4月20日 江戸町中普請の制を定める
  6年 目安箱を置く
  7年6月 新田取立の高札を掲げる
享保8年(1723)関東筋地方御用係となり代官を指揮する命を承る。
  9年 札差人数を定める
享保10年(1725)9月11日武蔵国比企・幡羅、上総国市原三郡内に二千石加増。
  12年8月6日 酒匂川を検視
  14年4月3日 並河五一郎に五畿内志編纂を命じる
  18年7月 度量衡考の出版を命じる。11月6日町火消へ褒美を下す
  19年 青木文蔵(昆陽)に薩摩の島津氏から取り寄せた蕃薯(ばんしょ。甘藷、現在のサツマイモ)を小石川療養所に試作させる
元文元年(1736)5月12日金銀改鑄の事を命じられる。8月12日、60歳で寺社奉行となり評定所の出仕を兼ねる。上野・下野国内に二千石が加わり役料と合わせて万石以上の格となり12月28日に雁間(高家衆等登場の節の詰所、譜代大名の詰所)の末席に列することを許された。

延享2年(1745)3月26日に法華八講執行用掛となる。5月3日に関東筋地方御用係を解かれ、翌年6月18日に随性院殿葬儀用掛となる。
寛延元年(1748)閏10月1日に奏者番となる。三河国内で四千八十石が加わり一万石を領して三河国額田郡西太平に治所を定める。
翌年2月に先代所領千七百石と武蔵・上野・下野内の所領を下総国内に移換え。

宝暦元年(1751)11月2日に病気のため辞職を願うと寺社奉行のみ許されるが奏者番は続けて務めることを命じられる。
12月19日、75歳で在職のまま死去。浄見寺に葬られる。法名興誉崇義松運院。子の忠宣が嗣ぐ。
後の大正元年(1912)11月19日に従四位を贈られた。

南町奉行所の穴蔵 南町奉行所穴蔵の解説

▲江戸時代中期の南町奉行所内に掘られた地下室「穴蔵
エスカレーターを下った前方に穴蔵の板枠が壁に立てて展示されています。周辺のベンチの素材に木樋(もくひ。江戸時代の水道管)や石組材を再利用しているそうです。

穴蔵は厚い板材を舟釘で留め、隠し釘となるように端材を埋め、板材の間に槇肌(木の皮)を詰めて防水処理をしており、壁板の一辺に開けた水抜き穴から竹管がのびて桶に水が溜まる構造です。
この穴蔵の中から伊勢神宮の神官が大岡忠相の家臣に宛てた木札が出土しています。

所在地:東京都千代田区有楽町二丁目

参考図書
・大熊喜邦『江戸建築叢話
・江戸幕府普請方『御府内往還其外沿革図書』
・東京市『東京市史稿
・松平太郎『江戸時代制度の研究
・沼田頼輔『大岡越前守』
・小山松吉『名判官物語