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富津陣屋

富津陣屋跡 富津陣屋跡周辺

富津陣屋跡の碑と白井宣左衛門・小河原多宮自刃之地
陣屋の敷地と推定される場所(現在は宅地)の脇、西側に小さな碑が建つ

文化7年(1810)2月26日、幕府は3万2千石を異国船に対する房州沿岸警備に割り当てて、白河藩に安房・上総、会津藩に相模の浦賀周辺に砲台の築造を命じた。

富津陣屋・台場(上総国周淮郡/千葉県富津市)担当は
◆文化7年(1810)~【奥州白河藩/藩主松平越中守定信】
※文化8年に富津他が白河藩の所領となる。名君定信は房総も善く治めた。
※『遊房總記』では富津陣屋について、竹ヶ岡(竹岡陣屋)の友軍出張の場所であったのを文政5年に房州の防備を富津に移したとある。
『富津村助郷争』では砲台は文化8年、陣屋は文政4年の造立。
※波佐間陣屋の廃材を転用したためか規模・構造の類似が見られる

◆文政6年(1823)~【幕府代官/森覚蔵】(天保11年6月27日~羽倉用九(外記)、天保13年に篠田藤四郎)
※10月19日より白河藩が転封となった後は幕府代官が入り、規模縮小したと思われる。
天保10年には配下43名のうち10名を富津に充てた。翌年からの代官羽倉外記は儒者として名高い。
※要請に応じて上総久留里藩・下総佐倉藩から警衛が動員される。

◆天保13年(1842)~【武州忍藩/藩主松平下総守忠国】
※12月に命じられる。富津陣屋の長屋を増築。忠国は後に「下総草」と呼ばれる草を植えて富津海岸の砂塵を防ぎ感謝された。
※弘化4年より大房崎~洲崎の担当になる

◆弘化4年(1847)【奥州会津藩/藩主松平肥後守容敬】
※2月15日富津~竹岡警備を命じられる
※陣屋詰人数は、香・番頭各1・組頭2・物頭3・郡奉行1・目付2以下藩士170名。武器は17貫300目筒1亭挺・1貫筒以上12挺・200~300目玉筒25挺・200目以下筒221挺の他に弓・長柄があった。火薬蔵、早船繋があり台場も兼ねていたと見える。
※嘉永5年閏2月3日に容敬が没し、25日容保が会津藩藩主となる

◆嘉永6年(1853)~【筑後柳川藩/藩主立花飛騨守鑑寛】
※4月7日に巡検、11月14日より。

◆安政5年(1858)~【奥州二本松藩/藩主丹羽左京太夫長国】
※9月22日に丹羽長富が任を受け、11月に子の長国が継ぎ藩主となる。長国は房総の地を善く治め、歓迎した領民達は仁政を後世に伝えようと「懐恵碑」を建立したという。
※部将1・隊長5・兵300・大砲隊50・軍艦2・糧食方11人、大砲10挺が配される。富津番兵は毎年9月に交代させた。

◆慶応3年(1867)~明治元(1868)【上州前橋藩/藩主松平大和守直克】
※3月13日に命じられ、5月26日から引継ぐ。

会津藩の頃には富津陣屋の広さは古い図面によると総坪数は7875坪。
堀や土塁で囲まれ、周辺の村から隔絶された中に町が形成かれていたとみられる。

 

富津陣屋跡の碑石

▲左から「小河原多宮自刃の地」「白井宣左衛門自刃之地」「富津陣屋跡」

富津陣屋・台場は慶応3年(1867)3月13日より前橋藩(上野国郡馬郡厩橋/群馬県前橋市・17万石・藩主松平直克)の担当となる。
初期には町奉行兼勘定奉行の白井宣左衛門以下 遊隊9名・徒士目付2名・砲隊格20名・銃隊19名・町在組浮組20名・台場付足軽(二本松藩から引継か)20名の計113名程が配置されていた。

慶応4(1868)正月の鳥羽・伏見の戦以降、江戸の情勢が不安になり江戸に居た藩士が続々と富津に避難し、人数は六百余に達した。
房州の情勢も気遣って、4月8日に家老の小河原政徳(おがわらまさのり。左宮/さみや・多宮。三弥の説あり。字は子辰)と大目付服部助左衛門を富津に派遣する。
10日に根付銈次郎が23人を率いて、12日には年寄水野主水も富津へ向かう。
小河原は4月18日に到着している。藩主は京に在った。

4月8日から旧幕府脱走軍・撒兵隊が総州諸藩に協力を要請し、危ういやり取りが有ったが前橋藩は新政府に恭順しており、白井は要求を飲まなかった。

閏4月3日、真武根陣屋を出陣した林忠崇率いる請西藩士らと遊撃隊は、撒兵隊らと挟撃する形で富津陣屋を取り囲む。
応対した小河原は主命がなければ引き渡しは応じられないと拒否した。
それでも引き下がらず、強談判に対し、数百人の家族が居らす場で戦となるのを避けて(陣屋跡からは化粧道具や玩具の出土もあり、駐留した家臣が家族と生活していたことがわかる)席を外した小河原は隣室で接収の責任を取って自刃した。51歳。

前橋藩士は陣屋を明け渡し、脱走扱いで歩卒20名を提供し、大砲六門・小銃50挺(10)、遊撃隊に金千両(内500両は返金)・撒兵隊に糧米若干を贈る。
陣屋の者は分散し付近の在家に仮寓した。

6月に筑前藩の援軍が到着し前橋藩は陣屋を取り戻すが、遊撃隊に兵を与えた罪を総督府から問われる。
小河原から陣屋と郷士を託されていた白井は、藩主に罪が及ばないように全て自らの責任であると答えた。
6月12日に割腹申付られ、富津陣屋で白井は養子の茂八郎に介錯させて潔く切腹したという。
群馬県前橋市の源英寺に小河原左官・白井宣左衛門の墓がある。

富津陣屋は9月に取り壊され、10月には敷地も払い下げられて畑地となった。

・富津陣屋跡地
所在地:千葉県富津市富津字陣屋跡

参考図書
・富津市史編さん委員会『富津市史
・君津郡教育会『君津郡誌
・東京市役所『東京市史稿 市街篇・港湾篇』
・小野正端『遊房總記』-改訂房総叢書収録
・筑紫敏夫『前橋藩房総分領と富津陣屋の終焉』
・・山形紘『房総の幕末海防始末
・朝倉毅彦『江戸・東京坂道物語

林忠崇の書[1]日枝神社石柱

日枝神社鳥居 日枝神社拝殿
▲請西の日枝神社と拝殿

請西の日枝神社の門柱の刻名は、当地の領主であった請西藩第3代藩主林忠崇公の筆です。
この石柱は昭和8年に建立されました。

領主林忠崇記之林

日枝神社
所在地:千葉県木更津市請西2-15-31

* * *
【追記2】日枝神社境内に大日本帝國軍大勝利祈願成就の碑があります
【追記1】旧領下烏田の熊野神社の扁額は忠崇の直筆です

請西藩「真武根陣屋」

真武根陣屋遺址 真武根陣屋跡案内板

請西藩真武根陣屋(まふねじんや)
徳川幕府譜代大名の請西藩二代藩主・林播磨守忠旭(はりまのかみただあき。林氏は故事に習い将軍が元旦に食べる吸物に入れる兎肉を代々献上する家柄)が、嘉永3年(1850)上総国望陀郡(千葉県木更津市)請西村に造営。
案内板によると移転元の貝淵陣屋を「下屋敷」と呼ぶのに対し、「上屋敷」と呼ばれていたという。

木更津港から約2km程南東に位置する、標高50mの真船台地に所在。
発掘調査等によると陣屋の推定面積は南北370m・東西280m・8800㎡。南西の土手部分や西側の枡形を含めると倍の面積になり
南西部に大手口、北側に(飲食用陶器の遺物があるため)御殿、中央に役所や蔵、大手口両側に士屋敷(南東部にも陶器の遺物)があったとみられる。

言伝えによると請西の地名は「城砦」の転訛で、陣屋を置くより前に古い城砦が在ったらしい。廃砦跡とすると陣屋に適した立地といえる。

陣屋は請西藩第3代藩主忠崇が佐幕派に属して出陣した際に焼かせて焼失する。陣屋址は地元の者に「お林」と呼ばれた。
昭和20年、戦後の農地改革で開墾され遺構は壊されてしまった。
請西藩の陣屋の存在が完全に埋もれてしまうことを憂いた知己関係者達の促進により昭和41年4月に木更津市指定文化財となった。

 

真武根陣屋遺址の碑

▲「真武根陣屋遺址碑」(まふねじんやいしひ)
忠崇が出陣した相州の、根府川で産出する赤みを帯びた根府川石の碑石は、箱根山の陣中で月光を仰いで詠んだ和歌と共に、20代当主林忠昭氏による碑文が刻まれている。
一番上には、徳川将軍より拝領の林家家紋、丸の内三頭左巴下に一文字。

陣中観月

くもりなき心や見せんあすの夜は
かはねの露に照らす月影

慶応戊辰四月 忠崇

 

林氏は清和源氏。親羅三郎義光十七代の孫光政公を祖とす。
姓は小笠原、徳川家康の祖、有親、親氏と足利持氏に仕えて誼し。
讒に遭ひ去って信州林郷に在り。親氏父子も持氏義教との隙に流浪し、永享十一年臘日、光政を誘ふ。
公遇する雪中に一匹兎を狩り、元日之を羹にし、薦めて歳旦を賀す。上意により姓を林と改む。
後、親氏三河に興るに及び、出でて仕ふ。
歴代、歳末に兎を献じ、元旦、将軍より一番に盃を賜ふ例とす。拝領紋、下に一の字を加ふ所以なり。

十四代忠英公諸侯に列し、若年寄に進む、子十五代忠旭公請西藩主として、嘉永三年、此処に館を営み真武根陣屋と称す。
第十六代忠交公伏見奉行勤役中に卒し、忠旭の子忠崇公封を襲ぎ戊辰の大変革に際す。
若干二十歳で徳川氏朝敵の汚名を受くるや、譜代の恩義を痛感、その冤を雪がんと蹶起し、慶応四年閏四月三日、藩地を脱し、豆相より奥羽各地奮戦す。
後、天恩鴻大、徳川家の社稷存せらるるに至って、翻然罪を闕下に請ふ。
赦されて忠交の男忠弘華族に列せられ、忠崇公亦其礼遇を賜ふ。

星霜移ること百年、里人お林と称し、藩侯の遺徳を慕へり。
後開拓せられ、今その址を留めず、往時を偲ぶに由無く、只管史蹟の湮滅を虞る。
玆に木更津市より文化財として史蹟の指定を受く。仍て碑を建て縁由を録し以て不朽に伝ふ。

昭和四十年四月廿二日 当主 第二十代 林忠昭 建立

林勲氏の碑文

真武根陣屋陣屋懐古詩碑(うたぶみ)
発起人である林勲氏による碑文。氏の物した詩が刻まれている。
一番から五番まで、忠崇の出陣の勇姿を謳うこの詩は柴勝三氏の作曲で歌になっている。

 

石祠と藩庁方面 海と貝淵方面

▲左写真、小さな石祠の方向(西南)奥にかつて藩庁や蔵が建てられていたようです。その先に古井戸、大手口(南)として枡形門の土塁も築かれていました。
右写真が貝淵陣屋がある方向(西)です。更にその先に江戸湾(東京湾)が広がります。こちらの区画は調査により遺構が完全に消失していることが確認されています。

木更津中央霊園前の道

▲址碑の前で南方向を撮影。木更津中央霊園入口のすぐ向かいにコンクリートに囲まれた址碑があります。かつては土塁が廻らされていたのでしょう。この右の敷地の先にも古井戸。
※縄張り等の学術的図面は著作権の都合で引用できず、言葉での説明のみでご容赦下さい

・真武根陣屋遺址
所在地:木更津市請西字間船台1319-21

請西藩第2代藩主林忠交-最後の伏見奉行

林忠交(ただかた。武三郎。林家十六代)
天保3年(1832)貝淵藩初代藩主林忠英の四男として生まれる。

安政元年(1854)4月27日に請西藩主(貝淵から陣屋を移転林播磨守忠旭は長男を亡くしており末子昌之助(忠崇)が幼年であったため、弟の武三郎(忠交)に家督を譲る。
12月16日、従五位下肥後守に叙される。
安政4年(1857)閏5月18日に大番頭となる。

安政6年(1859)8月11日に伏見奉行を21年務めた内藤正縄(信濃岩村田藩藩主。翌年2月死去。前老中水野忠邦の弟)が解任される。
8月28日に忠交が伏見奉行となる。京都町奉行と共に幕末の激動期となる京都での司法・行政を管轄する重職就任である。
9月5日引越費用の借受を願い金一千両を支給される。

万延元年(1860)3月15日、水戸浪士の金子孫二郎(教孝)・同佐藤鉄三郎(教寛)を拘引し、翌日訊問する。閏3月5日江戸に2人を檻送させる。

文久2年(1862)4月23日、忠交は尊皇派達が討幕の挙に出ようと集まったことを察知するが、薩摩藩藩主後見役の島津久光の命で薩摩藩尊皇派の過激分子を伏見寺田屋(てらだや)で成敗されたため、伏見奉行所は関与に至らずに済んだと思われる。(寺田屋事変
寺田屋騒動殉難碑と坂本龍馬像 伏見寺田屋殉難九烈士之碑
▲薩摩藩士らの「寺田屋騒動殉難碑」と「伏見寺田屋殉難九烈士之碑
坂本龍馬像の背後にある殉難碑の篆額は有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆。

文久3年(1863)5月に将軍徳川家茂が大阪城より入洛のため(3月4日に上洛、4月21日に巡視のため大阪城に入り5月11日に出発)淀を経て伏見京橋から伏見奉行所に入る。竹田街道より入洛。
6月9日に二条城を出て伏見街道から伏見奉行所に着き、今留橋より乗船し大阪城へ戻る。

元治元年(1864)6月24日に長州藩(前年の八月十八日の政変で長州藩を中心とした尊皇攘夷派が京都から追放された)家老の福原越後(元僴/もとたけ)が三百余人の兵を率いて長州伏見藩邸に入り、幕府は監察戸川安愛(やすちか)・小出五郎左衛門を伏見奉行所に遣わせ長州藩の様子を偵察させる。
7月3日に朝廷は大監察永井主水正・小監察戸川安愛を伏見に遣わせ、福原越後を伏見奉行所の役所に呼び出すが病を称して翌日応じる。兵を退ける説得に福原は従おうとしたが、山崎天王山に陣する久坂玄瑞らや嵯峨天龍寺に陣する来島又兵衛らは拒む。
その後も応じず18日一橋慶喜は追討を決め伏見方面には大垣藩を先方に彦根藩・会津藩(新撰組も属す)・桑名藩等の兵を出した。追討軍は長州勢を破り敗走させた。
19日の禁門の変勃発時に福原越後が率いる長州勢は伏見長州藩邸に立ち戻り、再び出陣しようと試みるが、彦根藩ら連合軍に京橋から砲撃され藩邸は焼け落ちた。
長州藩邸跡と禁門の変 現代の京橋
伏見長州藩邸跡と現在の京橋

慶応元年(1865)長州征討への動きで5月24日徳川家茂が二条城を出発し伏見奉行所に入り、翌日大坂へ出立。9月14日に家茂は大坂城を出て伏見奉行所に入り16日に二条城着。23日に再び伏見を経て大阪へ発ち10月3日に大坂城を出て伏見奉行所に入り伏見に逗留し4月2日に二条城入り。11月3日に二条城を発ち伏見奉行所に入り大阪へ着き征討準備を進めた。

慶応2年(1866)正月23日に手配中の浪士坂本龍馬らが寺田屋に入ったと報告が入り、伏見奉行はこれを捕縛すべく指揮をとった。
深夜2時に幕吏(役人)が二階へあがり詰問し、坂本と同泊の長門府中藩士三吉慎蔵の二人は薩摩藩士を名乗った。三吉が手槍を握っているのを見て幕吏が引き下がると坂本らは襲撃に備えた。
やがて階下から数人が得物を携え押し上がり肥後守の上意として捕縛にかかる。
坂本は銃を撃ち三吉が手槍を振るって捕吏に抗戦しながら逃走し薩摩藩邸に救援を求めた。匿った薩摩藩邸は坂本龍馬の引渡しを拒否。
※伏見奉行“肥後守”を同じ肥後守の会津藩主松平容保と誤って解釈され京都守護職配下の新撰組が関わった風聞があるが、この肥後守は容保でなく林忠交である。
薩摩藩寺田屋騒動と坂本竜馬ゆかりの寺田屋 薩摩藩伏見屋敷跡
寺田屋(再建)と伏見薩摩島津屋敷跡

2月23日、禁門事変の軍資を京の商人が代償した書状を幕府に上申し、これを大坂金蔵から弁償することを請う。

慶応3年(1867)6月24日急病のため伏見奉行官舎にて35歳で没した。晃晥院殿轉誉宝国大居士。一心寺に葬る。※急死を黙され実際は5月24日ともみられる
後任が置かれないまま、7月より京都町奉行(永井主水正尚志)の管轄となり、大政奉還を迎え奉行所が廃止されたため忠交が最後の伏見奉行となった。

8月30日に忠交の養子となった忠崇が継ぐが、翌慶応4年(1868)の戊辰戦争で忠崇が脱藩して抗戦に徹したために請西藩は取潰しとなった。
戊辰戦争で減封された藩は少なくないが、全てを没収されたのは請西藩だけである。

桃稜団地の伏見奉行所跡の碑 伏見奉行所跡地の石垣
伏見奉行所跡と明治期?の石垣
慶応4年の鳥羽伏見の戦いで新政府軍の砲火を浴びて伏見奉行所は焼け落ち、その後跡地は陸軍工兵隊の兵営になっている。

一心寺 伏見奉行林忠交の墓
一心寺忠交の墓
晃晥院殿従五位下前肥州大守轉譽寳國忠交大居士
慶應三丁卯年 六月二十四日 林 肥後守源忠交 於城州伏見宦舎卒

請西藩初代藩主・林忠旭と印旛沼開拓

真武根陣屋遺址

真武根陣屋遺址
請西藩真武根陣屋林忠崇の実父、忠旭が構えた。

 

林忠旭(ただあきら。銈次郎。林家15代)
文化2年(1805)2月6日、武州にて林忠英の次男として生まれる。母は後室。
8月、兄(忠英長子)忠起が21歳で病死。
文化10年(1813)忠旭を跡取りとする届け出が認められる。

文政2年(1819)12月2日、15歳で西の丸の小姓として出仕。
12月16日、従五位下に叙され諸大夫、播磨守となる。
父林忠英が徳川家斉に引立てられていたため忠旭もその恩恵があったと思われる。
文政4年(1821)2月11日船掘筋御成りの際弓の御伴した際に浅草今戸で小鳩を1羽仕留めた褒美として、時服を授かる。

文政8年(1825)4月23日に父忠英が若年寄となり1万石の諸侯に列し、翌日忠旭も21歳で菊之間席となる。
5月24日、実母の本誓院が死去。

天保8年(1837)徳川家斉は西の丸で退隠し、家慶が将軍職となる。
天保12年(1841)閏1月7日に家斉が没し、老中水野忠邦(みずのただくに)が家斉に引立てられていた西の丸派の粛清と、天保の改革に踏み切った。
4月16日に父忠英が免職され1万8千石のうち8千石を削られ、7月29日に隠居に着き忠旭が家督を継いだ。

 

天保14年(1843)6月10日、利根川分水路・印旛沼古堀筋普請御用を仰せつけられる。
江戸湾(東京湾)と印旛沼に流れていた2つの川、古掘筋を地面を掘って水路をつくって繋げ、利根川~印旛沼~江戸湾を結ぶ大工事である。

印旛沼開拓は過去、天明期の老中田沼意次(たぬまおきつぐ)の時に計画され大洪水と反発を受けた田沼の失脚で中止となっていた。
しかし天保13年(1842)に幕府普請役の二宮金次郎(尊徳/のみやたかのり。そんとく)が事前調査をし工事は困難であると報告したにも関わらず、幕府は強行する。

幕府の実施であれ、実際は御手伝として5藩が予算超過分(20万両)等を負担する形で普請を強いられたと言える。
一の手 駿河国沼津藩(静岡県・5万石)水野出羽守忠武【担当区間の村:平戸~横戸】
二の手 出羽国庄内藩(山形県・14万石)酒井左衛門尉忠器【横戸~柏井】
三の手 稲葉国鳥取藩(鳥取県・32万5千石)松平因幡守慶行【柏井~花島】
四の手 上総国貝淵藩(千葉県・1万石)林播磨守忠旭【花島~畑】
五の手 筑前国秋月藩(福岡県・5万石)黒田甲斐守長元【畑~海辺】

忠旭は父忠英、沼津藩水野忠武は祖父忠成が前将軍家斉の寵臣であり水野忠邦派に疎まれたことから報復人事で、他藩も国替え拒否をした経緯や断りきれない立場ゆえに指名されたともされる。

沼津藩は平戸村~横戸村4,416間(現八千代市平戸~千葉市花見川区の約8km)の最長区間、貝淵藩は2番目に長い2,234間(花見川区内の約4km)を受け持つこととなった。
また貝淵藩は粛清を受けて減封され1万石となった小藩でありながら見積金額は4万両にのぼった。(最大が高台を任せられた庄内藩約11万8千両。5万石の秋月藩は比較的楽な区間で1万両)

割掘工事は進むが、天保14年(1843)閏9月14日に水野忠邦が老中職を罷免され、23日に忠旭は普請の御手伝を免じられる。
天保15年(1844)5月10日に江戸城本丸に火災が発生、復興資金の上納を命じられる。
25日に正式に印旛沼開拓が中止が決まる。

印旛沼の普請は、改革の反発にあった水野忠邦の失脚により中止となり、普請を担当した藩には御下賜品が贈られることで労いとした。

 

嘉永3年(1850)11月23日、忠旭は陣屋を上総国望陀郡(千葉県木更津市)貝淵村から約1.5km南東の請西間舟台に移し真武根陣屋と称した。
西南に耕地をめぐらし東北は小高い山丘に連なり平坦にして縦横数町。

嘉永6年(1853)6月4日、米国艦隊来航の報により幕府が請西藩等、総州諸藩に湾岸警備を命じる。

安政元年(1854)4月27日に弟忠交(武三郎・後に肥後守)に家督を譲る。
※忠旭正室(曽我伊予守助順の娘)の長子は早世、末子の昌之助(忠崇)はまだ幼年のため、忠旭の弟である忠交(武三郎。忠英の側室の子)を養子にとって継がせた。

慶応3年(1867)10月20日、63歳で病没。義鶴院殿一道大居士。江戸愛宕下青松寺に葬。
生前の忠旭は画号を一道と号し、狩野(かのう)晴川院養信に師事し、好んで鷹の絵を描いたという。

青松寺

萬年山青松寺
※青松寺の墓地(林家墓所・石碑等)は檀家以外は立入禁止です。
 一般の方は墓所の参拝許可がおりた場合でも、撮影や写真のWEB掲載を許可しておりません。

青松寺サイト:http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/
所在地:東京都港区愛宕2-4-7

 

余談。
水野忠邦は肥前国唐津藩主(佐賀県)であったのを、幕政に加わる為に遠江国浜松藩への転封となるよう働き実現させています。
唐津藩には小笠原が入りますが、戊辰戦争後に林忠崇が御預となった先が、この小笠原家ですね。

ちなみに林忠英達が粛清された代わりに登用された遠山景元(とおやまかげもと)は、後に江戸町奉行として天保の改革の厳しさに苦しめられた庶民を助けようと水野忠邦派と対立することになりますが、この景元が「遠山の金さん」のモデルです。