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白虎隊記念館

白虎隊記念館 白虎隊記念館の白虎隊士像

飯野山の麓にあります。
一万二千点もの史料というのは、メディア関連や伝承のものも含まれますが
白虎隊、会津藩士、新島八重、娘子軍、新撰組、旧幕府軍諸将、西軍諸将等の戊辰戦争関係のゆかりの品やジオラマなどを展示。

会津藩の鉄砲や西軍四斤山砲(砲身が実物!)等、火器の展示も充実しています。
白虎隊士の所持品等はもちろん中野竹子の額字・妹優子の薙刀、照姫の愛用品、松平容保や萱野権兵衛の詩幅に横山主税の幕府発行パスポート(年齢や顔の特徴が文字で書かれています)、奥羽越列藩同盟関連、新撰組島田魁の腕章、新政府と薩長土関連…とたくさんの展示物がガラスごしに所狭しと重なり合って展示されていました。

歴史的著名人の所持品の説明文に「なわけあるか。嘘だろ~」と来場者の方がとても面白がってツッコんでました。観光気分で歴史に触れて楽しむのもよし、掘り出し物の貴重品を探してじっくり見るのもよし。

白虎隊記念館サイト:http://www.h3.dion.ne.jp/~byakko/
所在地:福島県会津若松市一箕町八幡弁天下33

飯盛山と白虎隊

会津白虎隊飯盛山自刃図 会津飯盛山 

▲会津新撰組記念館蔵「会津白虎隊 飯盛山自刃の図」と飯盛山
撮影可でしたので個人日記に利用として掲載しました

 

16、7(または年齢をごまかし15)歳の若き白虎隊(びゃっこたい)は、まず寄合白虎隊(中級士族の子弟で構成)が慶応4年(1868)7月12日越後口に出動命令、15日出陣。8月5日に西軍と衝突し寄合白虎隊は14日に奮戦。犠牲を出しながらも9月までよく戦い、籠城戦では三の丸の守備を務める。
次に足軽白虎隊(下級士族の子弟で構成。銃器乏しく本来なら戦闘に用いられなかったという)が太平口に向かう。推定65名中、戦死者4名。

そして8月21日母成峠の戦いで大勝した新政府軍が翌22日戸ノ口原に迫るとの報に、元会津藩主松平容保(かたもり)は、日向内記(ひなたないき)を隊長とする白虎隊士中(上級士族の子弟で構成)二番隊にも戸ノ口原への出動命令を出した。
白虎士中一番隊は春日和泉の屋敷に集合し待機。二番隊は主君の護衛を命ぜられ三の丸に集合し、容保の滝沢本陣督戦に従う。

豪雨の中、軍議(第一線の戦場へ急な出動で糧食もなく兵糧調達とも)に出た隊長の日向が官軍と遭遇し隊に戻れなかった。
23日早朝、日向に代わり篠田儀三郎の指揮で新政府軍を待ち構える。
午前5時頃、篠田の号令で白虎隊士達のヤーゲル銃での攻撃で開戦。
新政府軍2600の大軍と会津軍500の兵が激突するも火力の差は大きく、必死に戦った白虎隊も伊東悌次郎・池上新太郎・津田捨蔵が戦死。

撤退の最中、篠田ら白虎隊士は滝沢峠で西軍に遭い、永瀬雄治が腰を撃たれた。対岸の飯盛(いいもり)山を目指して戸ノ口洞門(用水路としての洞窟)をくぐる。
滝沢白糸神社から弁天祠の傍らに出た、炎に包まれる城下と黒煙にまかれた鶴ヶ城を目にし(落城と誤認との説もあるが定かではない)、負傷者もおり城下へ向かい敵に捕らわれるよりはと自決を選んだ。

午前10時から11時、遅れて辿り着いた石山虎之助含む二番中隊の17人が自刃。介抱され生き残った飯沼貞吉を除く16人が殉じた悲劇が起こった。
(飯沼は事切れる前に通りがかった印出新蔵の妻ハツもしくは渡部佐平と長男の嫁ムメに塩川の病院まで背負って介抱され息を吹き返した)

この日、藩主護衛の任につく白虎士中一番隊もまた北追手門で西軍を迎えうつも転戦のうち一時は田中土佐と共に自刃を望むが田中の家臣に諌められ中止し、25日に入城。転戦中の戦死者は10名を超えたという。

 

■会津藩正規軍
朱雀隊:18~35歳(主力。白河口など第一線に投入)
青龍隊:36~49歳(国境沿いの警備)
玄武隊:50歳以上(予備軍)
白虎隊:16~17歳(予備軍・伝令)

■白虎隊編成 ※各一番隊・二番隊の二隊
白虎士中隊(上級士族の子弟)
白虎寄合組隊(中級士族の子弟)
足軽隊(下級士族)

■自刃したと伝わる白虎士中二番隊の隊士
安達藤三郎・石山虎之助・井深茂太郎・津川喜代美・永瀬雄次・野村駒四郎・間瀬源七郎・簗瀬勝三郎・有賀織之助・石田和助・伊藤俊彦・飯沼貞吉(生存)・篠田儀三郎・鈴木源吉・西川勝太郎・林八十治・簗瀬武治

■戦死した白虎士中二番隊の隊士
池上新太郎・伊東悌次郎・津田捨蔵

 

酒井峰治の像 飯盛山案内図

▲飯盛山の酒井峰治(みねじ)と愛犬クマの像
明治17年(1884)に16人の墓が建てられ、6年後に戦死した3人が加わり19人の墓に改修された。

所在地:福島県会津若松市一箕町

 

津田捨蔵は会津藩江戸湾東海岸警備の際に上総国の竹岡(現千葉県富津市竹岡)で生まれたために「竹岡捨蔵」と称したという説もある。
石山虎之助もまた『白虎隊事蹟』石山虎之助君事跡に「上総国天羽郡竹々岡村會津陣屋に生る」とある。
詳細はいずれ会津藩の内房防衛と共に記事にしたいと思います

旧滝沢本陣

松平容保パネル 旧滝沢本陣跡

松平容保旧滝沢本陣
容保公画像は会津新撰組記念館パネル。撮影可でしたので個人日記に利用として掲載しました
戊辰の役での本営となった滝沢本陣(たきざわほんじん)は、江戸へ通じる旧白河街道筋に位置し歴代藩主の参勤交代や領内巡視、藩祖保科正之を祀る土津神社参詣などの際の殿様の休息所として使用された。

 

慶応4年(1868)白河口を完全に押さえた新政府軍は7月29日に二本松城を陥落させた。
8月17日に列藩同盟軍が奪回を試みるも失敗。これまでに新潟と越後口の戦いで勝利を収めた新政府軍は会津総攻撃へ向かう。
8月20日に二本松を発ち、約三千の兵を母成峠(ぼなりとうげ。現福島県郡山市、猪苗代町の境)に投入。

対する会津は街道の要所である勢至堂口に会津藩家老内藤介右衛門率いる主力を配置。
次に相馬・仙台への本道山中口に重点を置き、母成口は手薄で猪苗代城代田中源之助隊はじめ旧幕・二本松兵合わせて300に過ぎなかった。

北関東から転戦してきた伝習隊の大鳥圭介が、本松城に集結する新政府軍の動きを見て母成口の増強を具申するが、会津藩は勢至堂口に拘り聞き入れられなかった。
母成口の兵と伝習隊、山口次郎(二郎。斎藤一)率いる新撰組合わせおよそ900人で守備する。

21日午前6時、新政府軍は玉ノ井から三隊に分かれて進み、母成峠東から白河口総督府参謀伊地知正治(薩摩藩)・板垣退助(土佐藩)隊の右翼隊・石筵から中央隊が大鳥隊を砲撃し、大鳥隊を後退させる。
合流した右翼・中央隊が大砲二十数門を一斉射撃し、大鳥隊は大敗。猪苗代へ撤退する。
新撰組も伏兵に遭い四散したが、山口は酸川野(すかわの)で伝習隊の大島寅雄の後送を助け、七連発銃で防戦したという。途中退却行を共にした二本松城藩士黒田伝太とはぐれ、猪苗代に至る。

戦の後に奥羽越列藩同盟の藩・庄内と榎本武揚と合流できる仙台に向かうことを決めていた土方歳三(兵の要請手配のためか母成峠の戦には直接参戦していない)と、戦に参戦し引き続き会津を護ろうとする山口が意見が分かれ(もしく協議の上で)、土方は新撰組主力を大鳥圭介に託し庄内へ。
山口ら13人、兵卒合わせ20人程は会津に残ると決めた。
猪苗代城城代の高橋権太夫は亀ヶ城(猪苗代城)を焼き若松城下に向かう。

22日に土方は滝沢峠から鶴ヶ城に入り、山口は残兵をまとめながら猪苗代から大寺街道を通って入城し、母成峠の敗戦を報告。
前会津藩主松平容保は救援のため自ら残存兵を率いて出陣し滝沢の郷頭横山宅に本陣を構えた。
滝沢本陣には容保付添の会津藩士の他、容保の弟前桑名藩主の松平定敬(さだあき)や飯野藩士らも集った。

16、7の少年で結成される白虎隊のうち士中一番隊は会津藩主松平喜徳(のぶのり)と城へ残り、容保の身辺警護には土中二番隊があたった。

この時新政府軍は、総督府隊左翼の薩摩四番隊に属する川村純義隊が、猪苗代湖北西日橋川にかかる十六橋(会津への架け橋となる要所)へ向かい、橋を壊そうとしていた会津兵に一斉射撃を浴びせ戸ノ口まで前進していた。
戸ノ口原守備の為、白虎士中二番隊にも出動命令が出された。

またこの時、土方も滝沢本陣に訪れているという。

 

旧滝沢本陣(旧滝沢本陣横山家住宅)
所在地:福島県会津若松市一箕町滝沢122

 

会津若松駅白虎隊士の像

▲会津若松駅の白虎隊士の像

■■伝習隊と新撰組■■

彰義隊と上野戦争

河鍋暁斎「東台戦争落去之図」
▲河鍋暁斎(かわなべきょうさい)『東台戦争落去之図
沼津明治資料館パネルより。慶応4年7月の上野戦争を描く。東台は関東台嶺(上野東叡山寛永寺)を指す。

上野彰義隊の墓 彰義隊の墓案内板

江戸幕府十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻った。
東征軍(官軍)と公家の間で徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋藩主時代の側近小川興郷(おきさと。椙太)達は江戸上野山(東叡山寛永寺円頓院)に蟄居した慶喜の助命を嘆願し、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、後に彰義隊(しょうぎたい)と称し浅草の東本願寺に宿営し江戸警備を勤めた。

慶喜の水戸引退後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山に入り、二千人を超えた彰義隊は、薩賊討伐を標榜して江戸開城後の市中で新政府軍と衝突を繰り返す。
これに対し新政府軍は大村益次郎を派遣し、5月1日に江戸警備を新政府があたると布告し、名目を失わせた彰義隊の討伐に乗り出した。

5月15日大村益次郎指揮の東征軍総勢1万5千人余りが出動し、早朝に一隊が上野山に立て籠もる彰義隊の背後の団子坂に展開。
砲兵隊は不忍池対岸で構え、佐賀藩兵は加賀藩上屋敷(現在の東大構内)に4門のアームストロング砲を据える。
池之端・駒込・湯島聖堂、大川橋・千住など退路を塞ぐ為に幾重にも諸藩兵を配置した。

午前8時頃より総攻撃を開始。雨中の戦いは黒門口と谷中(やなか)口で展開される。
正面の黒門口では表と不忍池対岸からも砲弾が飛び交った。
優勢だった彰義隊が道を隔てた料理屋・雁鍋2階からの銃撃により崩れ、午後2時頃に突破された。
谷中口では雨による小川の増水が味方したが、善戦空しく突破される。

新政府軍は山内に途入し、午後5時頃に彰義隊隊士達は根岸方面へ敗走した。
政府軍の戦死者3、40人に対して彰義隊の戦死者は200余人を超えた。
彰義隊に後から加わっていた新撰組助勤の原田左之助も上野戦争で戦死したと伝わるが、生存説もある。

 

彰義隊の墓 彰義隊の碑

彰義隊の墓と碑
彰義隊の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによってこの地で荼毘にふされた。
正面の小墓石は明治2年(1869)寛永寺子院の寒末院と護国院の住職が密かに付近に埋葬したものだが後に掘り出された。明治7年(1874)に新政府の許可を得て墓を建てることができた。
大墓石は明治14年(1881)12月に小川興郷らによって建立。新政府にとって賊軍である彰義隊の文字を彫るのはばかられたが、旧幕臣山岡鉄舟の筆で「戦死之墓」の字を大きく刻む。

所在地:東京都台東区上野公園一番(台東区有形文化財指定)

参考図書
・谷口研語『諸国の合戦争乱地図 東日本編

上野西郷隆盛像

余談ですが彰義隊の墓は上野公園の、江戸を戦火にさらすことを回避した顕彰として造られたという、有名な「上野の西郷さん」こと愛犬ツンをつれた西郷隆盛銅像のすぐ背後に在ります。
徳川家の菩提所・東叡山寛永寺のお堂が立ち並んでいたこの地を、明治政府が公園に変えた経緯もあって色々な想像がかき立てられる場所です。

新撰組と飯野藩士の共闘

阿武隈川 柏野

▲白河の戦地を流れる阿武隈川と柏野の野辺
柏野の村々は土佐兵により焼き払われてしまった。会津救援のために戦った、北辰一刀流千葉周作道場の四天王と呼ばれた森要蔵と飯野藩の脱藩士達は会津藩士の戦死者と共に阿武隈川岸、西郷村の大龍寺に眠る。

 

慶応4年(1868)6月12日 新撰組は上田八郎右衛門の「朱雀三番士中隊」、土屋鉄之助の「新練隊」、総督原田対馬の隊と合兵して雷神山より入道山・米(よね)まで進軍し官軍を散らす。
しかし米の北西にある熊倉口の友軍が敗走して戦況が変わり、新撰組は雷神山を引き揚げ柏野村・阿武隈川岸の台場で交戦。

やがて新政府軍の援兵が平潟港(ひらかた。茨城県北茨城市)に上陸し24日官軍参謀板垣退助率いる薩・長・土・大垣・黒羽部隊が棚倉城を陥落し東軍は勝機を失う。

7月1日 会津・仙台・二本松軍は熊倉口方面へ出撃。山口次郎(二郎、斎藤一)ら新撰組と森要蔵ら上総飯野藩(脱藩)兵は柏野逢隈(おおくま)川の塁を発して、雷神山の西軍を撃つ。
しかし官軍の援兵により砲撃に晒され、山口達は羽鳥野まで引き揚げて休戦。土佐軍は旧幕府軍の屯営地の村々や、拠点になり得る集落を焼き払った。
森要蔵親子ら飯野藩士5名戦死。
これ以降、新撰組の白河口での出陣記録は発見されておらず、土方歳三の戦列復帰に合わせ白河から最前線へと移動したとみられる。

7月28日に残敵掃討に出陣した土佐兵に会津兵は抗戦するも撤退し、この地での戦闘は絶えたという。

戊辰見聞館パネル

米方面の地形概念図は戊辰見聞館パネルより。撮影可でしたので個人日記に利用として掲載しました

■■伝習隊と新撰組■■

※伝習隊・新撰組と共に戦った飯野藩士達、大龍寺の墓については別途記事にします