戊辰戦争」タグアーカイブ

骨董むかしや(会津新撰組記念館)

会津新撰組記念館

「骨董むかしや」の1階奥~2階に会津新撰組記念館として会津藩稲富流砲術家の館長さんが集めた幕末維新史料・古式鉄砲コレクションが多数展示されています。
大河ドラマ「八重の桜」の撮影にも、この記念館の実物資料や所蔵品から制作されたものが使われているそうです。

管打ち式ゲベール銃

管打ち式ゲベール銃
ライフルの無い滑腔銃。初期は燧石式だった。
山本八重(やまもとやえ。新島八重)はゲベール銃を用いて隣家の伊東悌次郎(白虎隊士として飯盛山で自刃)に操銃法を指導した。
山本覚馬(かくま)の愛銃はヨーロッパ製ゲベール銃(銀ゲベール)。

ウェストリーリチャーズ砲兵

▲イギリス製ウェストリー・リチャーズ砲兵銃
八重の桜では川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)の新式銃。八重の弟山本三郎も鳥羽伏見の戦いでこの銃を使用し戦死。

エンフィールド銃とウィルソ

▲イギリス製エンフィールド銃(米沢藩の焼印あり)とウィルソン銃
エンフィールド銃は、八重の桜で京都会津藩本陣で覚馬の部下が使用。

後装式スナイドル銃とヤタガ

▲イギリス製1866年式スナイドル銃
八重の桜では薩摩藩大山弥助(巌)隊の鉄炮として使用。

スペンサー七連発騎兵銃 八重ブレークスリー弾薬箱

スペンサー七連発騎兵銃ブレークスリー弾薬箱
八重の愛銃と同じスペンサー銃。八重役の綾瀬はるかさんがドラマで使用するのもこの銃をもとに制作されたそうです

三百五十目玉大筒

▲江戸城備砲の三百五十目玉大筒
八重の桜では二本松藩木村砲兵塾所有の大砲として出演

 

骨董むかしやサイト:http://www.aizushinsengumi.com/
所在地:福島県会津若松市七日町6-7

いかにもな記念館名から想像つかないような古式銃が揃っているという下調べで、今回の会津来訪の大本命。蔵を利用した展示室は個人所蔵の小規模ながら期待通りに銃好きにとって嬉しい実物の洋式銃と火縄銃が並び、軍装品や絵図・書類等幕末維新資料館としても充実しています! 私が伺った時は撮影可でした

興徳寺[1]秋月登之助墓所

興徳寺本堂 秋月登之助案内板

興徳寺本堂
興徳寺は戊辰戦争中に元桑名藩主松平定敬(さだあき。容保の弟)・旧幕府筆頭老中板倉勝静(かつきよ)等の宿舎となり、新撰組副長土方歳三も往来した。
宇都宮城攻防戦での戦死者追悼の為、旧幕府軍衝鋒隊が当時の本堂で慰霊の法要を参列者六百名のもとで営んだ。

 

会津藩士秋月登之助
天保12年(1841)頃生まれる。本名は、江上太郎種明。父は田島代官の江戸又八、16石3人扶持。
江戸で幕府や他藩要人と親交を結び会津のために尽したが結ばず、フランス式の調練を受け幕軍に入り、歩兵第七連隊に転入する。
江戸城開城の際には幕軍陸軍奉行の大鳥圭介らと江戸城に立て籠もり、義兵を挙げて江戸から西軍を退去させようとしたが、大鳥は登之助の志に反して幕軍を率いて会津へ向かうことを決めた。
大鳥に推されて伝習第一大隊長となり、土方歳三が参謀として常に登之助を謙譲しながら補佐したという。

宇都宮城奪回戦にて破裂弾の散丸で脇腹を負傷し、同じく負傷した土方と今市方面に護送された。
会津領内の田島陣屋(福島県南会津)に到着した秋月は、田島代官の父のもとに残る。

その後若松に入り、松平容保と共に滝沢本陣へ赴く。
再出陣した母成峠の戦いで敗戦し鶴ヶ城に入る。女子たちを城内に誘導し、二の丸辺りの馬上で抜身の大刀を振りながら「君に奉ずるのはこの時だ。婦人は内へ男は出て戦え」と叫びつつ西軍兵に打って出たと伝聞されるが、その後の消息は絶えた。

登之助は背が高く色白、巨眼好箇の偉丈夫で、濃紺の上着に緋絨のズボンを履き、胸間に紐長く呼笛を吊るして、部下の兵達に認められるようにと容姿を顕著にしていたという。

 

秋月登之助の墓 秋月登之助墓誌

▲秋月家・原田家・三原家合祀の墓
墓誌には「秋月登之助 明治十八年一月六日 行年四十四才」と刻まれているので、戊辰戦争当時は26~27歳位か。戒名は大心院義翁宗鉄居士。

臨済宗妙心寺派瑞雲山興徳寺(こうとくじ)
弘安10年(1288)鏡堂覚円大和尚が芦名盛宗に招かれ開山。
所在地:福島県会津若松市栄町2-12

参考図書
・『会津戊辰戦史
・早川喜代次『史実会津白虎隊

■■伝習隊と新撰組■■

※蒲生氏郷の墓はいずれ記事にします

長命寺-戊辰戦争の弾痕

長命寺 長命寺築地壁案内板

長命寺(ちょうみょう・ちょうめいじ)
慶長10年(1605)京都本願寺第十二世教如人が蒲生秀行に請い鶴ヶ城下日野町に「本願寺掛所」御坊建立、寛文7年(1667)この地に移り「長命寺」と改めた。

 

長命寺の戦い
慶応4年(1868)8月23日に新政府軍が鶴ヶ城下に押し寄せ、会津側は籠城戦に入る。
28日夜、補給路確保のため城外への出撃を決め、松平容保親子は佐川官兵衛らを黒鉄門(くろがね、鉄門)に召し出し酒肴の振舞いで激励した。この時360人が容保の前で血判し、官兵衛は銘刀正宗(まさむね)を賜った。

29日早朝、朱雀隊・砲兵隊・正奇隊・歩兵隊・進撃隊・別撰隊ら精鋭1500人の決死隊が二の丸屯所を出て本丸北の金蔵前に整列した。官兵衛は諸事情(前日の深酒とも)で遅れ午前7時頃に到着。容保は馬に乗って太鼓門前で見送った。
官兵衛達率いる9隊の藩兵は西出丸の西大手門を出て、外郭の融通寺(ゆづうじ)町門へ至り、守備兵を攻撃しながら新政府軍が拠点とする長命寺へ猛進。
藩兵は寺を包囲するようにして急襲し、一時は陣地を占拠した。

しかし火力で勝る長州・大垣藩兵の反撃は凄まじく援軍も送り込まれ、激しい銃撃に晒され奪還されてしまう。

正午頃に苦戦の報を受けた容保は、官兵衛が捨て身に出ることを予感して平尾豊之助を呼び官兵衛を制止するよう命じた。
午後2時頃までに会津兵は撤退。会津側では百名以上が戦死し多くの負傷者を出す激戦であった。

この後官兵衛は補給路確保と会津の起死回生の為、城に戻らず野戦を繰り広げる。
多くの犠牲と村民の協力で補給路が切り開かれたが、籠城を続ける鶴ヶ城は激しい砲撃に晒されることとなる。

長命寺築地壁 長命寺築地壁弾痕

▲弾痕が残る築地塀
本願寺直轄寺院であった長命寺の「白線の五條の築地塀」は、最高の寺格を示す。
土塀は平成4年に修復されたが、弾痕跡は当時のままに残している(市指定文化財)

戊辰役会津藩士戦死者墓

会津藩士の遺骸は埋葬を新政府軍が許さなかったため翌年まで放置された。
埋葬許可の下りた阿弥陀寺には約1300体、長命寺には145体が埋葬されたという。

所在地:福島県会津若松市日新町5-51

※「埋葬を禁じられた」のは事実ではないとの主張もありますが、会津側の記録と当時の風俗・価値観はこうであったのだろう…との意味でそのまま書きました。戦没者達を悼みます

新選組殉難地「如来堂」

如来堂 如来堂周辺

如来堂山口次郎(二郎。斎藤一)ら新選組隊士が戦った地

 

慶応4年(1868)8月21日、新撰組・反政府軍は母成峠の戦いで敗れて猪苗代に撤退。
土方歳三(母成峠の戦いに直接参戦はしていない)は滝沢峠から十六橋を渡って22日に鶴ヶ城に入り、母成峠の敗戦を報告。
奮戦した山口も残兵をまとめながら猪苗代から大寺街道(日橋)を通って入城し戦況を報告した。

夜、中島登ら新撰組半隊は天寧寺に泊まり、山口ら新撰組14人と伝習隊等歩兵達合わせて38名は鶴ヶ城下の宿に泊まる。

23日に新政府軍が鶴ヶ城下に押し寄せて以降外からの増援を遮断したため、巧みに包囲をかわした山川大蔵(日光口で善戦後に駆けつけ、彼岸獅子を舞わせて官軍を欺き26日入城)等しか籠城戦へ加勢できず、城門も固く閉ざされ会津藩士以外の入城が叶わなかった。

そして大鳥圭介ら旧幕府軍、新撰組、前桑名藩主松平定敬(さだあき。前会津藩主松平容保の弟)率いる桑名藩兵等は若松北方10キロにある米沢口塩川村に転陣。大塩宿に移動、新撰組約千人が集結。

25日に土方は援軍を求め米沢庄内へ向かった。

隊士達は「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と主張する山口ら誠を貫こうとする残留派と、土方の意向である仙台行を主張する新撰組副長の安富才助達は話し合いの末、互いを尊重しあって分かれたという。

26日、山口らは塩川に移り斉藤忠兵衛宅を本陣とする。
9月2日、山口らは長岡藩兵と共に陣ヶ峰峠(喜多方市)付近で戦闘。

3日土方、庄内藩が新政府軍に恭順したために仙台へ転じる。

4日、山口らは木曾(喜多方市山都)で新政府軍と2時間もの戦闘となるも敗れる。
その後、旧幕府軍衝鋒隊と合流するため鶴ヶ城の北西4キロ、神指(こうざし)城二ノ丸跡の南西に位置する如来堂へ向かうが、衝鋒隊は既に移動していた。

5日、山口らは旧幕府軍衝鋒隊に代わり守備につくが、只見川で越後口官軍と対峙する会津兵の背後をつくために高久に向け出動した薩摩・土佐・肥後等新政府軍の進路である如来堂本堂が戦地となる。
後に新撰組隊士中島登(土方歳三に従軍)の描いた肖像画によると如来堂の隊士は13名程しかおらず、壊滅。
名前の判明している隊士は山口次郎・新井破魔男・池田七三郎・小幡三郎・河合鉄五郎・粂部正親・清水卯吉・志村武蔵・高橋文二郎・高橋渡・吉田俊一郎

しかし山口次郎・池田七三郎・河合鉄五郎・粂部正親・清水卯吉・志村武蔵・吉田俊一郎の7名は生き延び、その後も新政府軍に対してゲリラ戦を仕掛けている。

9月8日籠城中の会津藩は頼れず、弾薬補給と負傷者の治療ができないため大鳥率いる伝習隊・衝鋒隊ら旧幕府は小田付代官所(喜多方市)も会津を離れることを決意した。

 

新選組殉難地碑 新選組殉難地碑裏

如来堂(にょらいどう)
所在地:福島県会津若松市神指町如来堂

■■伝習隊と新撰組■■

白虎隊伝承史学館

篠田儀三郎

篠田儀三郎の像
戸ノ口原の戦いで白虎隊士中二番隊の指揮をとった篠田は飯盛山で自刃した一人。
他にも土方歳三や松平容保等の胸像が入口に置かれていました。

白虎隊伝承史学館の土方像 白虎隊伝承史学館松平容保

 

白虎隊伝承史学館は「飯盛山下」バス停から滝沢本陣へ向かう途中にあります。
白虎隊、会津藩士や新選組・旧幕府軍人達の遺品や写真、会津の歴史的資料等、五千点を陳列。
迷路のようにショーケースや床に並んで展示されています。

斎藤一の写真や刀、土方歳三が使ったと伝わる双眼鏡や、西郷頼母の保科家文書(西郷家は保科の流れです)等々ありました。

ゲベール銃 白虎隊伝承史学館

私が訪れた時、館の方は午睡中でしたのでお話を伺いにくく自由見学でした。白虎隊記念館と同じく史料の撮影は禁止でしたが「お人形さんは撮っていいですよ」とのことなのでポチっと。
八重さんや白虎隊も使った本物の銃ですと札が掲げてあるゲベール銃にふれられます!

所在地:福島県会津若松市一箕町飯盛山下2