雑記」カテゴリーアーカイブ

メッセージありがとうございました

K様、コメントありがとうございました。この場での返信で失礼します。

飯野藩
の藩主の生活は江戸藩邸や上方・大坂への赴任が中心で、領地の陣屋に留まることは少なかったようです。
2代藩主の保科正景(まさかげ)は隠居後に飯野陣屋の屋敷に住んだので千葉県に墓所があります。
まだサイトに略歴が未掲載の藩主も江戸勤めの他に大坂定番・加番を歴任しており
5代藩主の保科正寿(まさひさ)は、大坂定番(京橋口)に在番中に亡くなり、
9代藩主の保科正丕(まさもと)も大坂加番として大坂城で亡くなっています。

 

摂津国では浜屋敷に代官所を置いて、川辺郡を含む摂津4郡と丹波・近江国の領地の租税を集めました。
藩主が訪れるのは視察として、または幕末の有事の時であったと思われ、特に後者は多くの家臣を率いての上洛の経緯があったため、K様のおっしゃる通り陣屋だけでは手狭で、寺を利用していますね。

大阪城天守閣 大坂城の京橋口定番下屋敷跡

▲現在の大阪城京橋口定番下屋敷跡に修景された、当時の石垣

建前上、自身が領地を持つ藩士は石高単位で、下級の従者は包装単位で役料を表される場合は一見分かりにくいですが、
定番は大阪城代の補佐として多くの与力・同心も伴って警備や整備を行い、加番は定番の支援にあたり武具を持参した家臣と共に赴任することと考えると妥当な役料と思います。
定番は更に将軍に謁見の上、黄金十枚・持服五領・引越拝借金三千両が支給されます。

この辺りは飯野藩の史料にも時代は限られますが記述がありそうなので、機会があれば紹介しますね。
サイト準備中につき手持ちの情報を掲載しきれず面目ないですが、同じように身近な郷土を調べている方に反応をいただけて、ブログを始めて良かったとしみじみ思いました。感謝。

企画展「請西藩林家が遺したモノ」

請西藩林家が遺したモノ企画展チラシ

現在、木更津市の太田山公園(恋の森)にある郷土博物館金のすずで企画展「請西藩林家が遺したモノ」が開催中です。
新資料の公開もあり、林忠英の時代から幕末動乱期、そして明治以降の男爵林家の歩みの軌跡を辿ることが出来ます。
前期は4月26日まで、写真の展示が変わる予定の後期は4月28日~6月15日(県民の日は無料)までとのこと。

* * *
以下自分用の備忘メモ。

 

—–江戸時代・林家の隆盛——-
家紋付き革製書箱
林日記[文政9年(1826)・林忠英]
 …林肥後守忠英(ただふさ。貝淵藩主)の記。林家中祖林藤助の、有親・親氏親子への兎の吸物の由等
兎御献上之儀留[文政9年・林忠英]11月18日の直筆

林氏系譜[寛延3年(1750)・林忠久]
 …序、寛延3年2月従五位大守大学頭林信充(のぶみつ。榴岡。儒学者林羅山の家系の林家4代)撰文
林氏系譜[弘化3年(1846)9月・林忠旭]

 

—–伏見奉行・林忠交———–
拝領物留記[嘉永7年(1854)・林忠交]
 …林家4代忠満~15代忠旭までの当主が拝領した品々の記録
老中奉書[安政6年・林忠交宛]11月1日朝8時に西の丸の参上を命じられる
 …老中の脇坂安宅(わきさかやすおり。播磨龍野藩主)・松平兼全(まつだいらのりやす。三河西尾藩主)・間部詮勝(まなべあきかつ。越前鯖江藩主)より
褒美書付[慶応2年頃・林忠交宛]
 …元治元年、林肥後守忠交(ただかた。忠英の四男。請西藩2代藩主)が伏見奉行の時に長州藩士が伏見に滞在中に取締った与力見習い15人に銀5枚、同心52人へ金300疋の褒美

 

—–大奥の老女・万里小路局—–
2代目万里小路局は、池尻(いけがみ。藤原四家北家の出とする)氏の寿賀姫は大奥に仕え、徳川11代将軍家斉の寵臣林忠英が義舅となる縁もあり、天保7年に24歳で上臈の局となり万里小路(までのこうじ)と称した。
元治元年に大奥を辞し、林忠交の江戸浜町請西藩邸のもとに移り、忠交の急死後はその後を継いだ忠崇の請西を隠棲地とした。

長樂寺の欄間釘隠し
 …長楽寺(木更津市請西)は万里小路局を本堂脇の離れ(真武根陣屋の部材を解体・移築したとも)に迎える。昭和40年本堂改築のため解体しこの請西藩に因むが描かれた欄間等が保存された。(伊八か)
◆徳川4代の「戒名」「位牌葵紋付厨子
 …11代将軍徳川家斉(いえなり)・12代家慶(いえよし)・13代家定(いえさだ)・14代家茂(いえもち)の4代。万里小路所持とされる。厨子の台座部に、萬里小路大姉墓誌を写した状。

 

—–林忠崇と戊辰戦争出陣——-
戊辰出陣記[林忠崇]
 …慶応4年(1868)戊辰閏4月5日の万萬小路局より長楽寺万丈を使いとして護摩札・供物等を贈られた件。万里局は徳川への忠義のため挙兵した忠崇(ただたか。万里局と縁深い忠英の孫にあたる)に軍用金等を送るなど支援した。
◆林忠崇の短歌「降伏待刑
 真心の有か無きかは屠りいたす
 はらの血しほの色にこそ知れ 昌之助

 

—–家督再興——————-
◆家臣から弁事役所に宛てた嘆願書[慶応4年~明治2年(1869)]
 …鵜殿伝右衛門・田中兵左衛門ら家臣
御家名御再立一件[明治2年]
 …小笠原長国(ながくに。肥前唐津藩知事)の願出先の太政官や東京府の書状
◆小笠原家から宮内大臣子爵土方久元への林家華族編入嘆願書[明治26年(1893)6月]
 …伯爵小笠原忠忱(ただのぶ。宗家11代。豊前国小倉藩藩主)、子爵長育(ながなり。東宮侍従)・貞孚(さだざね。播磨安志藩藩主)
家名相続に付嘆書類 写し[明治2年]
忠弘(ただひろ。忠交の子、忠崇の弟)の花押[明治2年10月]
士族編入指令書受取書 写し[明治32年(1899)] 千葉県知事阿部浩 東京都四ツ谷区左門町廿七番地 林忠崇殿
旧藩士復籍願参考書[明治5年(1872)]必要書類
 …伊能・北條・北爪ら家臣復族について
林忠弘 華族に列す[明治26年10月30日・宮内省特旨]
爵位慶与
御達并進達留[明治8年(1875)2月~明治10年12月]林忠弘宛証文
士族編入に関する許可証[明治32年] 東京府知事千家尊福(せんげたかとみ)
林忠弘宛書状林家再興始末略[明治26年・広部精(くわし)]
特別縁故者姓名録[明治27年(1894)1月10日・林忠弘]
 …北白川宮能久親王(よしひさ しんのう。輪王寺宮)、伯爵小笠原忠忱、勝海舟、榎本武揚等や、旧請西藩家臣の広部精・大野友弥等支援者の名簿
士族編入願[明治31年・北爪家]
士族編入につき辞令拝受[明治32年・加納佐太郎等12名]

 

—–華族として—————–
位記[明治36年(1903)11月30日]宮内大臣田中光顕(みつあき)
◆忠弘の長女の錬(れん)と曽我友兄の婚姻許可証[明治41年(1908)7月28日]
◆忠一の東京帝国大学卒業証書[明治43年(1910)7月11日]
 …忠弘の長男(長男夭逝につき)の忠一(ただかず)は学習院高等科を経て、明治43年に東京帝国大学法律学科(ドイツ法)を卒業
華族戒飭令[明治44年(1911)12月27日]伯爵渡辺千秋(ちあき)
◆忠一宛の大礼記念章証書[大正4年(1915)11月10日・昭和3年(1928)11月16日]
辞令[大正元年(1912)10月2日]陸軍省から理事試補林忠一宛
 …忠一は帝国大卒業後志願兵として近衛歩兵第二連隊に1年在籍後、近衛師団経理部を経て陸軍第二師団法官部付理事試補になる。
理事叙任状[大正4年5月7日]内閣大隈重信より
 …忠一は第二師団法官部付きから第十師団法官部付きへ
家督関係資料[大正6年(1917)1月31日]前年忠弘死去につき爵位相続
大饗夜宴招待状[昭和3年(1928)11月1日]宮内大臣一木喜徳郎(いちききとくろう)
 …天皇即位で折京都御苑内の夜宴
位記 叙従四位[昭和19年(1944)12月1日]宮内大臣松平恆雄(つねお)
当選証書[昭和21年(1946)]
 …5月11日忠一は貴族院男爵議員に当選
◆第90回帝国議会貴族院議員氏名表[昭和21年]

 

—–林家の写真(前期展示)—–
◆明治8年・28歳の林忠崇
 …芝三田通り(慶應義塾前)で撮影
◆慶応4年(西暦1868年5月)林忠崇出陣姿
 …原版からの複写。お馴染みの20歳の出陣姿。
◆大正3年頃、66歳の剣道着姿の忠崇
 …よく書籍等でみられる写真。
◆忠崇の剣道の構え
 …横向きで竹刀の二刀流?
◆林一夢、大阪天王寺の寺内で撮影。
 …忠崇は林一夢を号する。和装の写真。
◆68歳の忠崇
 …洋装の写真。
◆紋付袴着用の90歳の忠崇
 …銀杯恩賜につき紋付羽織着用。お馴染みの写真。
◆昭和12年1月5日の集合写真。
 …90歳の忠崇を中心に、恩賜の祝賀に来訪した人々との撮影か

◆一ヶ月の長女と忠崇・明治19年8月頃撮影か
 …生まれたばかりの娘を抱く忠崇の口元は微笑んで見える。
◆忠崇の娘光子と日雇女
 …傘をさしている。女中せつ子との撮影。
◆明治36年5月10日・光子
 …簪をさした若い光子の和装。細面な忠崇に比べ丸顔の可愛らしい美人。
◆大正9年頃・32歳の光子
 …本の置かれた机で
◆光子と愛犬エス
 …室内の座布団の上で光子と共に行儀よく写る愛犬

◆忠崇の実妹の小山田律子
 …記載は明治42年4月に錬(忠弘の娘)が記した。忠崇と似た細面の美形。
◆林忠弘・明治24年5月8日
 …東京湯島撮影、お馴染みの写真。
◆忠弘の妻30歳の鋠(しん)、3歳の娘、15歳の女中のコト
 …椅子に座り幼い錬を抱いて、三人での撮影

* * *
書籍に掲載されているお馴染みの光子の写真は後期展示か。

──近代の人物について部外者が勝手に調べることが、趣味の範囲として許されるかがいつも悩む所です。
(特に旧飯野藩関連が廃藩後でも話題があるので。古い歴史人物でも、墓参とその撮影等できるだけ許可は得ているものの墓域に踏み込むのは毎度申し訳ない気持ちです…)

こうして資料を企画展の形で一般公開して下さる好意が本当にありがたいですね。

天下三名槍・本多忠勝の鑓「蜻蛉切」初公開

静岡県の実業家・矢部利雄氏が収集したコレクション……織田信長が長篠の戦いの功で奥平信昌に与えた一文字の太刀や、天下三名槍の一つ蜻蛉切(とんぼぎり)をはじめ日本刀、刀装具、絵画、陶芸等が
静岡県の佐野美術館で『ひとの縁は、ものの縁―初公開の矢部コレクション』展として、本日、2月15日(日) まで公開されています。
特に「家康に過ぎたるものが二つあり、からのかしらに本多平八」と謳われた本多忠勝の愛鑓(大笹穂槍・銘:藤原正真作・号:蜻蛉切)は、本多家から離れてからは矢部氏故人の手に渡ったため、実物は今回が初の一般公開になるそうです。

佐野美術館で蜻蛉切初公開 佐野美術館パンフと入場券

私も一番の目当ては、この蜻蛉切です。
奥の展示室の片隅にあったそれは、よく磨かれて刃は妖しく輝き、精強な三河衆のイメージとは少し外れた美しい珠玉の姿で一段と目と心を惹かれました。
掻かれた樋は、刃を強靭にするとされます(血を通りやすくするという俗説も)。
三鈷剣やその下の不動明王のカンマンの梵字までくっきりと浮かび上がり、そこに生と死の狭間で主の松平家を守護せんという精神が見出せました。

人をあやめる武具であるのに、見ていてどこか晴れやかな気分になるのは、不動明王の降魔三鈷剣は魔と同時に煩悩を断ち切るとされるせいか、または忠勝の人柄でしょうか。
私には美術品の目利きの力はありませんが、戦国の世から泰平の世を築き、そして平和な今の時代まで遺された武人の面影を目に出来て唯々幸せに思いました。

 

展示は当然穂先のみですが、忠勝が全盛期に携えた鑓は通常より長い凡そ二丈(約6m)、青貝を摺り込んだもので、飛んできた蜻蛉が触れた瞬間、蜻蛉が真っ二つになったことから蜻蛉切と呼ばれるようになったと言われています。

逸話として、実戦で無敵の忠勝が、次男の忠朝(大多喜藩主)の槍稽古の横槍に入ったら負けてしまった話(蜻蛉切を持って参れと言って相手を震わせたというオチ)を家臣が語ったといわれてますが
槍弾正とうたわれた保科正俊にも似たような話があります。槍だけでなく剣豪でもこの手(実戦に強く道場稽古に弱い、転じて道場稽古は実戦に役立たない)の創作は多いですね。
大多喜と忠勝親子、槍弾正の正俊どちらもいずれブログに書く予定で写真ストックばっちり溜めてますよ!

佐野美術館

佐野美術館:http://www.sanobi.or.jp
所在地:静岡県三島市中田町1-43

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そしてちょっと寄り道。
三島はもう一つ、林忠崇と遊撃隊関連(こちらも後で記事にします)も目的でしたが…
ちょうどそのスポット上にあるパン屋「グルッペ本町店」で昼食を買いました。
以前書いた「パン祖のパン」の製造元の直営店舗なんですよ。

パン祖のパンと三島コロッケバーガー

パン祖のパンのスティックタイプは通常のに比べ固くなく食べやすいお土産向けです。
富士山紙バッグ(¥100)は山型の口がきゅっと締まって、美術館のリーフレットや蜻蛉切ポストカードがしっかり収納できました。シンプルなグッドデザイン。
ちなみにグルッペのご当地グルメパン「みしまコロッケパン」「みしまフルーティキャロット」は三島駅の売店でも購入できます!(2015年2月現在)

Gruppe・石渡食品有限会社:http://gruppe-ishiwata.com/

あけましておめでとうございます

2014photo

寄る年波には勝てず昨年の急病のためサイト開設が無期延期となってしまいました。
写真はブログに書ききれなかった2014年趣味と歴史巡りの一部。日々の煩いを忘れての余暇活動は良い療養になります。
お城や誠の旗が多いですが、全て別の場所ですよ。お城は私個人、旗のほうは趣味仲間と。

まだまだ通院は続くので今年は大人しくして、来年の大河「真田丸」に向けて、のんびりと上総ゆかりの武将の大坂出陣についてまとめようかと思っています。ほぼ真田信繁の敵方ですけどね。

鈍重更新のブログですが、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
皆様にとっても幸多き年となりますように。

木更津市文化祭「西上総文化展」へ

11月14日から今日までの3日間、木更津市立中央公民館にて「西上総文化展」が開かれました。
旧君津郡地域の郷土を研究する西上総文化会主催の第66回目になる展示会です。

飯野藩関連の資料も出品されるとのことで、昨日見学に行きました。
ホールの壁と机に文献や軸物、詩や画や写真、歴史系冊子(私が持っているものもいくつか有って、くすり)等がずらりと並んだ充実の展示会ながら、史料には別紙で手作りの解説が添えられていて個展のような温かみもしっかり感じられました。

請西の長楽寺出品の小松宮彰仁親王(戊辰戦争で官軍の指揮を執り、その後も多く軍事や公務を担った皇族ですね)筆の軸や、貝渕の伊藤川魚店出品の明治初期の高札や同店伊藤氏(先々代でしょうか)が昭和期に記した眞武根陣屋史、重城保日記でおなじみ重城保(じゅうじょうたもつ)の書簡等大きなものがぱっと目につきます。
若めの見学者は戦時の新聞記事や満州の頃の絵葉書の前で足をとめていた印象です。

 

至徳堂コーナーには、儒学者の片山兼山(かたやまけんざん)のお墓のある明福寺(東京都港区)所蔵の資料や、至徳堂之碑や墓参時の写真が陳列されていました。

※至徳(しとく)堂は、文化14年(1817)8月に旧望陀郡巖根村(木更津市岩根)高柳出身の鈴木元明が、重城継之(重城保の父。高柳の名主)、時田祐(教授。同地区久津間出身)、正木幽谷(まさきゆうこく。詩家。里見忠義子孫。旧神納村/袖ケ浦出身)らと共に高柳の茶臼塚(銚子塚)に建てた学舎。付近が金田庄と呼ばれたため金田庄黌(こう)とも。
元明が尊敬していたのが片山兼山で、元明は兼山の手澤本古文考経一巻を埋めて碑を建てて奉ったそうです。

 

飯野藩の資料は数種有り、保科正益時代の文書、特に森要蔵に関する項を開いて展示されていました。
私は今のところ飯野藩の原紙・原本資料は、複製古書以外はほぼ複写頼りなので、こうした形で見学できるのは嬉しいです。

史料ではないですが佐貫藩絡みもちらりと有り、展示品を通じて郷土愛が深まりました。
来年の開催も楽しみです。

 

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写真は公民館を後にして向かった木更津駅の『レトロな“みなとまち木更津”へようこそ』パネル。

千葉縣木更津鳥瞰図

昭和4年当時の木更津町を描いた松井天山の「千葉縣木更津鳥瞰」は復刻版が販売されており、富士見町の飲食店でも貼られているのを見かけました。
他にも昔の街並み紹介のパネルが西口(港側)のいくつかの店舗に設置されているとのことで、今度のんびり散策してみようと思います。