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陸奥の歴史・史蹟

会津武家屋敷[2]

会津武家屋敷 家老屋敷案内板

▲家老屋敷
会津武家屋敷には家老屋敷(西郷頼母邸)の他に歴史ある建物が再現されています

中畑陣屋の生垣 旧中畑陣屋

旧中畑陣屋主屋(重要文化財)
中畑陣屋(藩政時代の役所)は天保8年(1837)に西白河郡矢吹町中畑に建てられ、徳川幕府直参五千石の旗本、松平軍次郎の代官所として中畑村等七ヶ村を支配していました。
この東北に残った最後の代官陣屋を会津武家屋敷の敷地に復元移築したものです。

 

嶺南庵 茶室の説明

▲数奇屋風茶室嶺南庵(れいなんあん)麟閣
会津領主蒲生氏郷の庇護を受けた、千利休の子の少庵(しょうあん)が鶴ヶ城本丸に造った茶室「麟閣」を再現したものです。

 

西郷四郎像 西郷四郎案内板

▲家老屋敷の傍らには頼母の養子の西郷四郎像があります
西郷家を再興し、山嵐(やまあらし)という得意技で無敵を誇り、小説姿三四郎のモデルとなった天才柔道家です。
保科(西郷)頼母との縁に従って家老屋敷の門前に四郎の像が建立されました。
※鶴ヶ城に西郷四郎顕彰碑があります

 

会津武家屋敷サイト:http://www.bukeyashiki.com/
所在地:福島県会津若松市東山町大字石山字院内1番地

余談ですが、バス停のそばに自販と軽食屋利用者用の野外テーブルが有るので、バスの接続にも便利なスポットです。

会津武家屋敷[1]復元西郷頼母邸

会津武家屋敷入口階段の上に冠木門 会津武家屋敷案内板

会津武家屋敷
鶴ヶ城追手門前にあった会津藩家老西郷頼母邸を復元。
戊辰戦争で武具・家財と共に焼失してしまった会津の武家屋敷の様子を、信州高遠(たかとお)に現存する武家屋敷の遺構を勘案しながら再現し、会津天満宮(西郷邸に在った)等ゆかりの建物を配して、藩米精米所、旧中畑陣屋(重文)、麟閣を再現した茶室、白壁土蔵造りの資料館・くらしの歴史館・西郷一家自刃の場が再現された第二資料館等を備えた歴史散策ゾーンと
会津物産ショップと会津郷土料理亭、室井東志生の仏画を展示する美術館・青龍などが併設されている屋外博物館(ミュージアムパーク)です。
坂本龍馬を斬ったという京都見廻組与頭の会津藩士佐々木只三郎の墓もここに移されました。
 

家老屋敷 家老屋敷見取り図

▲復元された家老屋敷・西郷頼母邸
西郷家は会津藩松平家譜代の家臣で代々家老職を勤めた千七百石取りの家柄でした。
約4000坪の面積、けやき・ひのき・杉材を使った和様建築の復元家老屋敷面積は280坪、。8室で畳の数328枚。
冠振ぐしに九曜紋をつけた鬼瓦は格式高い西郷家ゆえに許された特権だそうです。

表門 式台玄関

▲九曜紋を掲げた表門式台玄関
片長屋に沿って行くと上級武士だけが通される四脚(しきゃく)表門があります。
式台玄関は家老屋敷の正面に位置する表玄関。

御成御殿 御成の間

御成御殿御成の間
藩主はじめ重役以外は通されることがなかった格式の高い部屋です。
御成の間は藩主の御成りになった(来訪)時だけ使用された部屋で、人形は中央が松平容保、手前に西郷頼母が控えています。

書院壱の間 厠の内部

書院壱の間、御成御殿専用の砂雪隠(すなせっちん)
上に武家屋敷守護。
厠(かわや。トイレのこと)の中は畳敷きで、床下には砂を敷いた箱車が木製レールの上に置かれており、使用する度に箱車を引き出して健康状態を調べた後に砂ごと後始末するそうです。

使者の間 奥一の間

使者の間奥一の間
鎖の間~使者の間は西郷家臣が執務や警備に使用。
奥一の間・奥二の間は家族が使用する部屋。書院造りの奥一の間は家老の寝室として使われ、写真の人形は父の寝室で遊んでいる子供達を母の千重子が叱っている場面です。

風呂場 子供部屋

風呂場子供部屋・化粧の間
家族が使用した檜造りの風呂で、火災予防の為に竈が無いので邸内で唯一火を使える裏手の台所で湯を沸かし、手桶で運んだそうです。半開きで外に出ているのが、窓の重さで自然に締まる突出し窓。
子供部屋は長男は家督を継ぐことから板の間がある右側の部屋を与えられ、次男以降は中央の部屋を一緒に使用したそうです。化粧の間は頼母の妻千重子が化粧や身支度を整えた部屋。

奥玄関 台所

奥玄関台所
奥には使用人が使う部屋。台所では数十人の食事を作り、天井の無い吹き抜けで、雪に耐える太い柱で支えられています。台所がパーク内施設としてお土産屋さんになっているのが面白いですね。

幕米精米所内部 白河藩小峰城址賄所

幕米精米所白河藩小峰城址賄所の略図
今から二百年前の文化10年(1813)頃造られ、白河藩で使用されていた、直径4mの水車・16個の石臼で四斗俵(約60キロ)の玄米を一日に16俵精米できる東北一の精米所が移築されています。

会津武家屋敷サイト:http://www.bukeyashiki.com/
所在地:福島県会津若松市東山町大字石山字院内1番地

※続き→会津武家屋敷[2](旧中畑陣屋等)

大龍寺[2]林権助(安定)墓所

大龍寺山門

大龍寺(だいりゅうじ)山門

 

林権助 安定(はやしごんすけ やすただ)
文化3年(1806)会津藩士林権助(安論)の子として生まれる。家禄三百五十石。
はじめ又三郎といい、長じて馬術と槍を得意とし江戸詰めで江戸藩邸の警備にあたる。

嘉永6年(1853)蘭学や砲術を学べる江戸へ、山本覚馬(かくま)を同行させる。
安政2年(1855)天保の改革の失敗で失脚した老中水野忠邦藩邸を包囲した騒ぎを鎮めて名声を高めた。

文久2年(1862)会津藩主松平容保(かたもり)に従い京へ上洛し、洛中の子弟から洋式の大砲隊を編成して鍛え、軍事奉行兼大砲隊長となる。
この時火縄銃が主流で槍術を自負する会津藩内では様式訓練を毛嫌い(砲術師範の山本覚馬(かくま)も様式銃導入を求めて禁則処分を受けたことがある)
吉田山から鴨川見れば 御髭大将かけ廻る
と「おひげの隊長」などと軽々しく呼ばれたが、禁門の変では大砲を率いて、天王山の真木保臣(まきやすおみ)を追撃し大いに活躍した。

慶応2年(1866)将軍徳川家茂(いえもち)の薨去、孝明天皇の崩御で公武一致の国是は破れ、会津の形成は不利になった。
慶応3年(1867)12月9日に徳川慶喜(よしのぶ)が政権返上、西南雄藩主導での王政復古大号令が発せられ慶喜の辞官と納地が決まると、旧幕臣や桑名・会津藩の反発による京での武力衝突を危惧した慶喜は旧幕府側の兵を引き連れ大坂城に移った。

慶喜の警固をめぐって水戸藩と新撰組が対立、薩摩藩の江戸での暴挙や二条城に攻め入るなど風説・攪乱交錯が飛び交い、新政府と旧幕府の衝突は避けられず、慶応4年(1868)正月2日に大砲隊を率いる権助ら会津藩兵300人、新撰組、旧幕府の歩兵隊や京都見廻組(みまわりぐみ)ら総勢1500人は京都を奪還すべくと共に伏見に向かう

3日の朝に薩摩・長州・土佐藩は各所に兵を進め、御香宮に布陣する薩摩兵は桃山善光寺に大砲4門を設置。
会津軍の主力は京の南南東に通じる伏見街道を進むべく伏見街道に集結し、表御門・伝習隊が北の御門・新撰組は裏手を警備した。

午後五時頃、京の南南西へ通じる鳥羽街道上の下鳥羽と上鳥羽間で入京しようとする旧幕軍と新政府軍の押し問答の最中、突然薩摩軍が発砲(上鳥羽村小枝橋)し、発砲音が各方面に響き渡り開戦となる。

権助の大砲隊は開戦直後に砲撃を受け、権助は伏見奉行屋敷の北門を開いて薩摩兵に大砲3門で撃ち返す。
新撰組は裏の庭から一発撃った弾が御香宮に届き打撃を与えた。
別撰組・上田隊が会津軍の応援に駆け付けたが薩長軍の大砲は破裂する焼玉で火災や負傷者が増えていき、砲撃戦は深夜まで及ぶが勝敗は決しなかった。

突撃した会津槍隊は銃弾で撃たれていく。権助は槍をもって突進し敵を蹴散らしたが、銃撃8発を受けて重傷を負う。
しかし最後まで兵を叱咤激励し、あとで助け出されて後方へ退いた。
4日午前1時頃に淀城下へ退却。
朝になり新政府軍が鳥羽・伏見両街道から淀城下に向けて進撃開始。旧幕府軍は劣勢の中、林砲兵隊・大砲奉行白井五郎大夫率いる大砲隊130人余・佐川官兵衛(さがわかんべえ)率いる別撰組(べっせんぐみ)両隊・掘隊が食い止め、淀の北東4キロの下鳥羽まで押し戻した。白井隊の奮戦すさまじく「勇なるかな会津の白足袋」と白井隊の味方識別の足袋をさして称えられた。

5日に伏見街道の堤上を前進する新政府軍に、林砲兵隊・佐川隊が援護射撃のもと刀槍での白兵戦を挑むが、正午過ぎに各方面崩される。淀城に拠って立て直そうとするも突然新政府軍についた淀(稲葉)藩に拒否され、淀大橋から南方に退却。
この日、別撰組配下で参戦していた山本三郎が、淀城の川の対岸方面の八幡(京都府八幡市)で負傷兵の救助中に銃で撃たれる。

江戸で小野派一刀流を極意を極め、江川塾で砲術を学んでいた権助の一子、又三郎(安儀)も鳥羽伏見の戦にかけつけて戦い、父が重傷を負ったと聞くと佐川の別撰組に入る。しかし敵陣に斬りこもうとした時に胸部を撃たれて絶命した。

6日夜に慶喜が、会津藩主松平容保をつれて密かに江戸へ帰ったことが戦線の将兵達に伝えられると、彼らも紀州を経て汽船で江戸へ向かった。
権助の傷は深く、3日後に紀州沖で絶命した。享年63歳。
江戸に運ばれた山本三郎も16日に会津藩中屋敷で事切れた。三郎の訃報と形見の紋付は3月に会津の山本家に届けられる。

又三郎の子で権助(安定)の孫にあたる磐人(いわと。林権助の名を継ぐ)は9歳で家督を相続し、鶴ヶ城下に新政府軍が進軍した時は祖母の実家の萱野権兵衛宅に泊まっており、萱野家の婦女子達と三の丸に入り鶴ヶ城籠城戦を体験する。戦後は薩摩藩士の援助を受けて東大政治科を卒業。外交官となって英国大使などを勤め、男爵を授けられた。

 

林権助安定墓所 林氏合葬の墓

▲林氏合葬の墓、左右に林安定・又三郎(安儀)親子の墓がある

・権助が目にかけていた山本覚馬、覚馬や新島八重の弟の三郎ら山本家の墓
 →大龍寺[1]山本家の菩提寺

宝雲山大龍寺(会津七福神・布袋尊)
所在地:福島県会津若松市慶山2-7-23

参考図書
・『歴史読本2013年07月号
・『三百藩戊辰戦争事典〈上〉
・木村幸比古『新選組日記
・『近代日本に生きた会津の男たち』稲林敬一「林権助」※磐人

ちなみに大河ドラマ「八重の桜」のキャストは
林権助:風間杜夫さん
山本覚馬:西島秀俊さん
山本三郎:工藤阿須加さん
佐川官兵衛:中村獅童さん
松平容保:綾野剛さん
徳川慶喜(一橋慶喜):小泉孝太郎さんが演じています

阿弥陀寺[2]戊辰戦争殉難者墳墓

阿弥陀寺[1]伴百悦-会津悲願の戊辰戦争殉難者墳墓です。

招魂場へ 戊辰戦争殉難者墳墓

戊辰戦争殉難者墳墓
門には会津葵紋。
四方に柵を廻らした招魂場戦死墓萱野長修遥拝碑萱野権兵衛)と
明治10年の西南の役で殉じた佐川官兵衛ほか旧会津藩士七十名を合祀した際の報国尽忠碑が建てられています。

阿弥陀寺には萱野権兵衛の木像も安置されているらしいです。(津屋英樹『定年草枕』等)

戊辰戦争五十年記念碑

戊辰戦争五十年記念碑。
阿弥陀寺では彼岸に手厚い供養会が行われています。

正覚山阿弥陀寺(あみだじ)
所在地:福島県会津若松市七日町4-20

阿弥陀寺[1]伴百悦-会津悲願の埋葬

阿弥陀寺 阿弥陀寺案内板

正覚山阿弥陀寺(あみだじ)
慶長8年(1603)蒲生秀行の時代に、良然(りょうねん)和尚が開山した浄土宗寺院。

藩公密議場所の御三階 御三階案内板

御三階(ごさんかい)
明治3年(1870)まで鶴ヶ城本丸北東の石垣の上に建っており、物見や密議の場所として使われたという御三階が、阿弥陀寺に移され仮本堂として使用された。
外観上は三階だが内部が四層になっており、二階と三階の間に天井の低い部屋がある。
移築の際に本丸御殿の大書院玄関の唐破風も同時に移築され、現在のような形となった。

 

戊辰役殉難者の墓の碑

明治戊辰戦役殉難者墓の碑

戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は新政府の命令で放置されたまま触れることも許されず、仮埋葬した者は罰せられた。
戦後処理に当たっていた若松取締の会津藩家老原田対馬(つしま)や町野主水(まちのもんど)らが戦死者の埋葬を幾度も嘆願し、翌年の明治2年(1869)2月にようやく許可が出たのは「埋葬は罪人の遺体を処理してきた人々に依頼すること」「罪人の遺体埋葬地であること」という条件付きであった。

若松取締方は戦没者ですら罪人扱いであることに強く反発し、新政府軍は遺体処理者は手配済みのため埋葬地の指定のみ撤回したが、それでも埋葬地は戦没者それぞれの菩提寺ではなく、阿弥陀寺と長命寺の2カ所に限られた。※身元のわかる者は菩提寺に葬られたとの話もある

新政府軍が雇った罪人遺体処理人夫は、戦没者の遺体をまるで捨てるかのような酷い扱いだった。
見かねた伴百悦(ばんひゃくえつ。五百石の高禄の家柄で、戊辰戦争では水原府鎮将萱野右兵衛隊の組頭を務めた)が、自ら埋葬を行う身となって遺体の取り扱いを指導した。
その後も百悦は2ヶ月にわたり各地の戊辰の役戦没者の遺体を埋葬したという。

阿弥陀寺境内には1300柱にものぼる遺骸が埋葬され、残りの145体は長命寺に運ばれた。
しかし墓標を建てることは許されず、明治6年(1873)に墓碑の建立を認められたが「戦死墓」の3文字しか刻むことができなかった。大庭恭平筆「殉難之霊」の墓標も、殉難という言葉を見過ごさず民政局が削り取った。

後に百悦が新政府側の民政局監察方頭取兼断獄の久保村文四郎を殺害する事件も久保村の残忍な仕打ち以前にこうした旧会津藩士達への無礼への復讐とも考えられる。百悦は明治3年(1870)6月22日に自害(追手に刺殺されたとも)、善龍寺に墓がある。

※埋葬を禁じられた・罪人扱いでの許可は事実ではないとの主張もありますが、会津側の記録と当時の風俗・価値観はこうであったのだろう…との意味でそのまま書きました。戦没者達を悼みます

 

戊辰戦争殉難者墳墓(萱野権兵衛の遥拝碑あり)

藤田五郎(斎藤一)の墓

 

鐘楼 大仏の台座

▲鐘楼と大仏様台座
鐘楼は殉難者慰霊のため金物を寄付し合って明治31年9月鋳造建立された。
飯盛山仁王門前に在った一丈三尺の大仏が西軍兵に解体されかけ、これを買いとって阿弥陀寺に安置された。大仏は青銅製だったため太平洋戦争時に供出されて台座のみが残る。
他に座頭市のモデルといわれる黒河内伝五郎の墓等が在る。

所在地:福島県会津若松市七日町4-20

参考図書
・『会津人群像 第13号