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山崎の戦い・伊庭が負傷した三枚橋

箱根山崎古戦場絵葉書 

▲古い絵葉書の山崎古戦場と現在の山崎ノ古戦場の碑
旧幕府遊撃隊伊庭八郎は三枚橋(地域)の松並木の下で斬られたというが、絵葉書や案内板の風景の頃は古戦場にまだ松が茂っている。
かつての湯場道は明治時代に国道1号線(第一号国道)として開通(人力車や馬車も通れる広さに整備)した。

慶応4年(1868)5月20日の遊撃隊・林忠崇ら旧幕臣兵による箱根関所占拠で佐幕に転じた小田原藩へ、23日に三雲為一郎軍艦の総督府は錦旗奉行穂波経度を藩主大久保忠礼の問罪使として派遣する。
24日因州・長州・備州・伊州(藤堂)4藩の兵が酒匂と飯泉の二方面から迫ると、藩主忠礼は城を出て菩提寺の本源寺に謹慎して新政府に恭順の意を示した。
小田原藩は林・遊撃隊らの追討を決めたが、一説にはそれを不服として藩を離れ遊撃隊に協力した小田原藩士もいたという。

湯本村に進駐していた100人程の先鋒隊を率いていた伊庭は小田原城に談判に出ていたが、25日朝までに退去通告を受けた。
伊庭は小銃弾を浴びせられたが控えていた遊撃隊士が応戦する。脱出の際に第一軍の隊士4名が城付近で戦死、石垣山で佐山清五郎が小田原藩兵に射殺された。
湯本村に戻った伊庭は湯本茶屋を本陣として、入生田・山崎に兵を置き、強襲に供えて上り坂に土俵を4、5尺積んで砲塁を築く。彼らの陣地は小田原方面よりも高く位置し地の利があった。

追討軍は新政府側の4藩からなる総督府軍二千人と小田原藩兵千人の大軍であったとされ、はじめ総督府軍は背後からの監視についていた。
小田原藩大砲方は加藤丈之助らが早川方面・仰徳隊が入生田の二隊に分かれて進む。

26日の朝、伊庭率いる第二軍遊撃隊と二番隊元駿府藩兵、第一軍一番隊元勝山藩兵・二番隊元前橋藩兵ら旧幕脱兵軍先鋒隊へ砲撃が開始された。
山と早川に挟まれた街道を進む小田原本隊を、遊撃隊らが丘の上から撃ちおろし、木立の中や民家に身を隠して側面からも狙撃する。
小田原兵が数で優位であっても押されているのを見ると、控えていた長・因・津兵が戦闘に加わり激戦となった。

午後になると遊撃隊らは弾丸が尽きて持ちこたえられず早川の対岸早雲寺付近まで退却を決めるや否や、長州軍が抜刀突撃を号令し全隊突撃で襲いかかり山崎の入口で激しい混戦となった。白兵戦となると伊庭は草影から姿を現し3人を斬ったという。

夕刻、負傷兵を助けるために街道へ出た伊庭が腰に被弾し、長州兵と交戦中、深く敵陣に入り込んでいた小田原藩兵高橋藤太郎(鏡心一刀流とも描写される)を味方と誤認して左手首を斬られ、即座に伊庭の従者の坂田(坂本)が高橋の顔面に銃を向けて2間離れた街道まで撃ち飛ばした。(伊庭が右手で斬り伏せたとも伝わる)

伊庭八郎奮戦図
大蘇芳年(月岡芳年)『競勢醉虎傅』伊塲七郎(伊庭八郎のパロディ)

三枚橋では竹内利平が討死し、山崎駒爪から三枚橋までの数町の間に遺棄された遊撃隊・旧幕臣らの死体は22名であったという。
資料により異なるが小田原藩兵は戦死者8名・負傷者は家老渡辺了叟ら22名。

勝山藩士32人のうち戦死15名・戦傷10名・行方不明2名という壊滅状態。
伊庭の第二軍28名中戦死4名・戦傷5名・行方不明8名を出し、隊長の伊庭が重傷を負った。
第二軍として遊撃隊に加わっていた駿府(静岡)勤番も上野惣兵衛と川辺栄之丞の2名が戦死し、8人が戦傷、二人が行方不明となった。

三枚橋方面 山崎古戦場案内板
▲山崎から三枚橋方面を撮影。右は「箱根戊辰の役」案内板

 

伊豆山中本営で東海諸藩へ協力を煽っていた第四軍総督の林忠崇も箱根に移り関所から各方面の注進を指揮した。
小田原藩兵の別働隊が石垣山より進んで側面から撃とうとし、派遣されていた兵と畠ノ平で戦闘があった。

山崎から脱した遊撃隊らは畑宿や箱根宿に入る。重傷の伊庭も部下の助けで戦線を離脱し深夜0時頃に忠崇旗下の請西藩士が居る峠に到り、忠崇が畑宿に医師を手配させたとみられる。
三島方面の警戒も強まり、旧幕脱兵軍は包囲される形へ追い込まれた。
夜更けに関所へ引き上げた隊士達のうち、遊撃隊は再起を図り東北に転戦することを主張、岡崎藩士らは自決を主張し意見が割れたが、忠崇が戦友の死を無駄にせず再起を願うと決断し、皆はこれに従い箱根撤退が決まった。

追撃は徹底的に行われ、27日には鞍掛山方面の芦川で4人が見付かり2人が射殺され、2人は逃走中に生捕りにされ小田原へ送られた。請西藩の吉田周作と逸見静馬で、後に小田原藩に召し抱えられたという。
伊豆の山中村でも6人が捕らわれ斬殺された。
夜8時頃に箱根日金山東光寺の地蔵堂に2名(広部正邦と秋山荘蔵)が潜んでいるとして捜索、熱海坊を三十数人で囲んで銃撃し、踏み込んで小田原藩兵数人で有無を言わさず刺殺した。

28日に石垣山で大原主馬介と信州の農兵松蔵が捕われ、箱根峠付近で請西軍に小者として加わっていた百姓の平助が生捕りにされた。平助は5、6年後に許されて故郷に帰った。
昼頃に宮城野橋の袂で前田条三郎ら10人が発見され、木賀渓谷まで逃亡し堂ヶ島温泉宿の近江屋に潜伏した。ここで9名が射殺され、1人は米櫃へ隠れて難を逃れた。
近江屋を出た小田原藩兵は仙石原でも2人を討っている。

過酷な掃討を受けながらも熱海へ辿り着いた遊撃隊・旧幕臣兵達は押送船で網代へ出て、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に乗り込み館山へ戻った。

 

三枚橋付近の古写真 現在の三枚橋の上

三枚橋(さんまいばし)付近の古写真と現在の同地
江戸時代後期の三枚橋は長さ22間(約40m)幅1丈(約3m)余の土橋(川に架ける土橋は木製の橋の上面を土で均して歩きやすくしたもの)で、今のように岸をつなぐ高い橋桁の形ではなく、川にだけ架かっていた。
明治時代に岸から伸びた石の堤にかかる木橋となり、写真は明治43年(1910)水害で落橋した後のもので、後に再び写真手前に三枚橋が架けられる。
路の左右に山の峰が幾重も連なりとうとうと早川の水声が響く名勝の地で、かつては橋辺りに茶舗が軒を並べて湯本細工や米饅頭を販売していたという。
現在三枚橋がかかる付近は三枚橋の地名で呼ばれている。

伊庭が負傷した場所は「街道から二間離れた」「松並木の下」との証言がある。
後に忠崇(山崎の戦いには直接参加していない)が描いた伊庭八郎負傷の画では背後から右腕を斬られ、左腕で敵を斬ったとする。
また当事者以外の聞き語りや伝記を元にした講談では三枚橋の「橋の上」で斬られるシーンが主流だが、箱根の役当時とは異なる明治以降に架け変えられた橋をモチーフに描かれたものも多い。

現代の三枚橋 現在の三枚橋2

▲現在の三枚橋
木橋の頃より両岸の幅が狭まり、橋はやや湯本寄りに架かっている。

早川に架かる三枚橋は江戸時代の東海道と湯本路との分岐点にあたり、橋を渡らず温泉場へ向かう道は「湯場道(ゆばみち)」と呼ばれた。
小田原北条氏時代は川幅が広く、中州が2つあり地獄橋・極楽橋・三昧(さんまい)橋の3枚の橋が架かっていて、橋を渡り切ると北条氏の菩提寺早雲寺の総門だった。
早雲寺に駆けこめば犯罪人も罪を免れて極楽橋まで逃げると助かったので、次の橋を「これからは仏三昧に生きよ」という意味で「三昧橋」と名付け、その名が今は「三枚橋」として残ったという。(箱根観光協会の案内文より)

所在地:神奈川県足柄下郡箱根町

幕末の佐貫藩

佐貫城址 佐貫城跡案内板

佐貫城跡の入口
上総国天羽郡佐貫(現在の千葉県富津市)の地は康正2年(1456)に真里谷武田氏が領有し、城(亀城)を文亀・永正年間(1501~21)に築城したとされます。※文安年間に長尾氏、応永年間に武田氏の築城説有
天文年間(1532~55)に里見氏の居城となり、一時は対岸の北条氏に勢力を後退させられますが、永禄10年(1567)の三舟山合戦で里見義弘方が勝利して子梅王丸が入城します。

天正18年(1590)徳川の支配地となってからは徳川家臣の内藤家長が城主となります。
政長忠興と続いて内藤家は元和8年(1622)に陸奥国磐城平藩(いわきたいら。福島県)へ転封となります。

10月に松平忠重(桜井松平氏)が入りますが寛永10年(1633)に駿河田中城へ転封となり、翌年から佐貫領は幕府天領として幕府代官熊沢佐衛門佐が支配します。

寛永16年(1639)より能見(のみ)松平氏の松平勝隆(寺社奉行兼奏者番)が城主となり、次の重治が貞享元年(1684)に会津若松に幽閉され改易となり、会津藩預かりとなります。領地は代官池田新兵衛、次に平岡三郎佐衛門が支配しました。

元禄3年(1690)に柳沢吉保(よしやす。第5代将軍徳川綱吉に重用され宝永3年に大老格にまで昇進)が佐貫領を与えられ、元禄7年(1694)正月7日に武蔵国川越に移った後は廃城となり、領地は代官川孫右衛門、樋口又兵衛が支配しました。

その後、阿部家初代佐貫藩主となる阿部正鎮(まさたね、因幡守のち民部少輔)が宝永7年(1710)5月に三河国刈谷(かりや。1万6千石)より上総国佐貫へ移封となり、天羽・長柄郡内に1万6千石を領して8月に移り、正徳4年(1714)佐貫城を再興します。
少年藩主であった正鎮は移動の行列には加わらず享保4年(1719)4月4日に佐貫城に入りました。
享保9年(1724)2月に大坂加番となり宝暦元年(1751)11月4日に52歳で逝去。浅草東光院に葬られました。法名は了義院殿即峯玄性大居士。

 

幕末の最後の藩主は、阿部家第8代佐貫藩主の正恒(まさつね、幼名倫三郎)です。
天保10年(1839)9月29日に江戸で阿部家第7代佐貫藩主正身(まさみ、駿河守)の子として出生しました。
※余談ですが佐貫の宮醤油店は天保5年創業です。
正身は天保13年(1842)に池之台大坪山に砲台を築いて海防にも努めました。弘化4年(1847)5月22日に大砲の試放も行っています。

安政元年(1854)7月3日に妾腹の正恒を嫡子とする届出をし、25日に父正身が病気を理由に隠居(元治元年7月3日に「菊山」と号します)、正恒は27日に家督を相続、12月16日に諸大夫・因幡守となりました。
安政2年(1853)5月佐貫へ始めて入部します。
安政6年(1859)8月16日に竹橋御門番、12月1日に江戸城本丸普請に金八百両上納。
文久元年(1861)2月5日に大岡越前守代として大坂加番を仰せつけられ、翌年帰り屋敷替。
文久3年(1863)9月2日に日光御祭礼奉行代を務めました。11月3日には新徴組の1人を佐貫藩が預かっています。
元治元年(1864)7月3日に駿河守に改めました。12月2日に佐貫藩で天狗党の水戸浪士の一部を預かり、負傷者の治療にもあたっています。獄中の水戸浪士の博学な講釈では佐貫藩の藩校「誠道館」にも影響を与えたといいます。

 

慶応4年(1868)の戊辰戦争時には徳川譜代の阿部家家臣は佐幕に傾いていましたが、文久の頃に京・大坂へ赴き情勢を知っていた勤王派の歌人相場助右衛門の説得で藩主は尊王を採りました。
佐幕派の家臣たちは相場の行動を専権犯上の行為と見て相場の排除を企てます。
4月28日午後3時頃、大手下馬先の林藪中に潜んで、清水坂を下って帰宅中の相場を狙撃。胸に被弾した相場は屈せずに傷口を押さえながら抜刀して応戦しますが、手負いの上に多勢が相手、遂に斃れました。
相場の墓は花香谷の安楽寺にあり、近年顕彰碑が建てられました。
加害者の佐幕派藩士31人はその後、忠義からの行いとしてお咎めはありませんでしたが、相場は阿部家からの養子を戻されてお家断絶・一家追放という重い処分を受けました。つらい仕打ちに相場の妻の寿美子は二年後の明治3年に48歳で自害したようです。

続いて佐幕派の家臣達は、木更津に駐屯していた旧幕府脱走の撒兵隊(さっぺい、さんぺいたい。房州では自ら義軍府と名乗りました)に数十人の援兵を出しました。

閏4月3日に請西藩藩主林忠崇の請西兵と旧幕府親衛隊の遊撃隊が真武根陣屋を出陣し、富津陣屋に協力を強談した際にも、撒兵隊(第四・第五大隊が真里谷駐屯)と佐貫藩兵41人が参加し、共に包囲しています。
佐貫藩でも、その後南下した請西・遊撃隊が訪れた折に金三百両と兵器若干を提供しました。

その頃撒兵隊第一・第二大隊は3・4日に下総国の市川・船橋等で東海道先鋒総督府の軍(新政府側の軍)に敗退し、総督府軍は5月に東の佐倉そして7日には沿岸の上総国に進み五井・姉ヶ崎の撒兵隊第三大隊を破って南下します。
撒兵隊も敗走して士気が落ちた木更津・真里谷駐屯中の佐貫藩兵は8日には撤退しますが、既に林請西兵と遊撃隊軍は6日に佐貫を去った後でした。
もぬけの殻となった木更津を出発した総督府軍が迫ると、佐貫藩は佐貫城を放棄して恭順の意を示します。
14日に入城した総督府軍参謀渡辺清左衛門(大村藩士)は、佐貫藩による富津陣屋襲撃と、先に新政府が佐貫藩に官軍を援け賊徒の警戒を命じていたにも関わらず主従が城を放棄し空にしたことを咎めます。
午後に藩主正恒は城郭と武器弾薬を明け渡し自らは花ヶ谷村(花香谷)の勝隆寺に籠居となりました。
翌日総督府軍は引き揚げ、城郭と領土は佐倉藩の管理下に置かれました。

5月18日に貫義隊が佐貫城を夜襲し、佐倉藩士の小谷金十郎・三浦蔵司が戦死しました。三宝寺に二人の墓があります。
25日に正恒は佐倉藩と協力して賊徒を追討することを贖罪として総督府へ願い出ますが、聞き入れられませんでした。
7月11日に花ヶ谷村の円龍寺で謹慎中の父が50歳で死去。同村の勝隆寺に葬られました。法名は大成院殿光誉正身菊山大居士。

10月7日に藩主正恒の謹慎が許され、明治2年(1869)6月17日に版籍奉還、22日に正恒は佐貫藩知事に任じられます。
明治4年(1871年)5月に佐貫城は廃城となりました。6月22日に東京の外桜田邸の引渡しを命じられ8月8日に引渡。7月15日に正恒は廃藩置県で藩知事を免職され、華族令によって子爵に叙せられました。
明治32年(1899)に従三位に叙されますが、10月6日に死去。享年61歳。勝隆寺に葬られました。

勝隆寺佐貫藩主阿部家の墓所 佐貫城主阿部家累代の墓側面

勝隆寺佐貫城主阿部家累代の墓(八代阿部正身・九代正恒・十代正敬家族)
※奥の正身・正恒の墓は別途紹介します

佐貫城址の様子

佐貫城跡の名標には阿部家の家紋、丸の内右重鷹羽(丸に違い鷹羽)
戦国(里見・北条)時代~の佐貫城は後々別途記事にします。
幕末についても、もう少し佐貫藩側に立った視点で調べてみたいところです。

所在地:千葉県富津市佐貫字城跡1217-1他

三宝寺[1]-勝山藩士福井小左衛門と楯石作之丞の墓

三宝寺山門 三宝寺

瑞龍山三寶寺山門と本堂
三宝寺は貞譽祖閑が永禄年間に開山、天正6年(1578)5月20日にに戦国大名の里見義弘が没し、嫡男義賴が菩提のため義弘の法名「瑞龍山」を号して創建したとされます。
現在の富津市佐貫にあり、本寺は千葉市の浄土宗鎮西派竜沢山大巌寺(だいがんじ)です。

境内に、幕末の戊辰戦争の際に三宝寺に新政府軍の屯所が置かれており、林忠崇請西藩兵・旧幕府遊撃隊にと共に箱根で戦って生還した勝山藩の19名が差し出され、地蔵堂に監禁されています。
加担した首謀者として、勝山藩の罪を贖うために慶応4年(1868)6月12日に三宝寺で切腹した福井小左衛門と楯石作之丞の墓が有ります。

福井小左衛門と楯石作之丞墓

福井小左衛門と楯石作之丞の墓
左が福井「超善院忠覺理傳居士」・右が楯石「月崇院忠岳清慧居士」
共に「慶応四辰年六月十二日」と側面に刻まれています。
加知山藩(勝山藩から改称)は、永代月牌料としてそれぞれに金五円ずつ供えました。

勝山藩大目付の福井は禄高五十石の上級藩士で、この時27才、独身でした。
楯石は禄高六石吟味役から指令司となった下級将校で、この時35才、志うという4才の娘がいました。
介錯人は平井国宝といわれています。

 

三宝寺は明治31年(1898)から無住でしたが45年(1912)に第十八世晃譽大仙上人が就き、大正10年(1921)1月13日に花香谷の勝隆寺を合併、寺号を「三宝山 勝隆寺」と改称して、現在の三宝寺の地に本堂を再建(震災後にも建直し)しました。

花香谷の勝隆寺は浄土宗鎮西派に属し京都知恩院の末派で、天正18年(1590)に佐貫城主の内藤家長が甥の三州松応寺の演譽馨香を招いて開山しました。
慶長5年(1600)8月1日、関ヶ原の戦いの前に伏見で家長が戦死し、遺髪を持ち帰った家臣達がこの寺で殉死しました。子の正長が父の菩提のため家永の法名をとって花香山慶相「善昌寺」としたようです。
寛永16年(1639)に能見松平氏の松平勝隆が佐貫藩主となり善昌寺を菩提寺として覺雲山本誓院「勝隆寺」としました。

昭和28年(1953)には、勝隆寺の末寺の薬王山光源寺(佐貫町亀田)も併合しました。
現在の山門は元の「瑞龍山 三宝寺」になっています。

※三宝寺には戊辰戦争の最中に佐倉藩が佐貫藩を預かっていた折に戦死した佐倉藩士2名の墓があり、佐貫城主の墓は元の勝隆寺(富津市花香谷、染川を渡った先)にあります。

瑞龍山三寶寺
所在地:千葉県富津市佐貫106

参考サイト
鋸南町:http://www.town.kyonan.chiba.jp/

長福寺-戊辰戦争の寄子萬霊塔

長福寺本堂 寄子萬霊塔

長福寺本堂と供養塔寄子萬霊塔(よりこばんれいとう)

勝山藩を出発した遊撃隊と林忠崇率いる請西兵は南下を続け、館山(たてやま)藩に協力を求めます。
藩主稲葉正善は上洛して恭順の意を示していたため要請を拒絶した館山藩に対して交戦覚悟の行動に出ました。

閏4月8日14時頃に長須賀村より鼓を打ち法螺貝吹き、館山湾海上の榎本武揚率いる旧幕府艦隊も呼応して大砲を数発撃ち鳴らして陣屋に迫ります。
そして遊撃隊の人見勝太郎伊庭八郎が隠居の前藩主稲葉正巳と面会し、兵と兵糧の提供を取り決めました。

10日に一行は館山湾を出航し、その後箱根、奥州(東北)、蝦夷へと転戦します。

 

義軍第五軍一番隊/房州館山藩稲葉伯耆守家来
  [隊長]山田市郎右ヱ門・佐久間竹蔵・木下柳助・梅岡又四郎
  風戸倉蔵(庫助)・久保吉右衛門・生田原(日奈)禎竹(助)

箱根関所の戦いで戦死
  高橋金蔵・高橋竹治郎

・箱根で打死
  江沢延三郎

・蝦夷の江差戦で戦死
 根部田村……佐(作)生佐右衛門
 茂草村……飯田東之助・山口勘平

・蝦夷の箱館戦(亀田新道)で戦死
  能条考(幸)吉

・蝦夷で中立であった野戦病院の高竜寺(箱館病院の分院。函館市)で殺害される
  [箱根では輜重掛・器機惣督、箱館では病院掛として勤務]木下晦蔵

 

実際は更に傭兵が加わり、記録の十数名より多かったとされます。
人材斡旋をする店「人宿(ひとやど)」の相模屋妻吉が寄親として、斡旋された奉公人「寄子」として一番隊に加わった農卒兵達を供養するため、戊辰戦争後に北下台(ぼっけだい)に建立した塔が「寄子萬霊塔」です。

前面「寄子萬霊塔」「壱番組」「相模屋妻吉」
左側「練兵士当国長狭郡佐野村住高橋金蔵源吉春行年二十一歳」「常楽院西岸道喜信士」
裏側に刻まれた句「鐘の音の 落葉に さみしき 夕べかな

館山城 館山湾

▲館山城と館山湾

■館山藩・1万石
稲葉正明(まさあきら)は三千石の旗本から御側衆となり、田沼意次の引立てにより長狭郡・安房国内で加増され一万三千石の大名となりましたが、田沼の失脚と共に減封され寛政元年(1789)に隠居しました。
稲葉家を継いだ正武(まさたけ)が安房・長狭・平4郡内三千石を加増され合わせて一万石となり、寛政3年(1791)に里見氏の館山古城下(城山の東麓)に館山陣屋を構えました。

普門山長福寺
所在地:千葉県館山市館山928

長福寺山門

寄子萬霊塔も北下台の館山観音御堂の千手観音菩薩像(神亀2年/725年に行基が安置)と共に震災後に本堂(安房国札三十四観音霊場第三十一番札所)側の永代供養墓地へ移されたと思われます。
隣に長福寺観音堂(安房郡札三十三観音霊場第二番札所・十一面観音)が在ります。

妙典寺-勝山藩義士の碑

妙典寺 勝山藩義士の碑

妙典寺勝山藩義士之碑
入口脇に幕末の戊辰戦争で戦った勝山(かつやま)藩義士の碑があります。

慶応3年12月(1868年1月)に王政復古の大号令によって江戸幕府が廃止となったことを不服とする旧幕府臣が脱走し、翌年人見勝太郎伊庭八郎ら幕府親衛隊であった遊撃隊が江戸湾から上総国(かずさ。千葉県中部)に上陸しました。
閏4月3日に遊撃隊の協力要請を承諾した請西藩の青年藩主林忠崇は自ら脱藩して真武根陣屋を出陣し、義軍として内房諸藩と連携すべく富津陣屋飯野藩佐貫藩へと援軍を求めて南下します。

8日に保田(ほた)に辿り着いた林軍に協力を迫られた勝山藩では、少年藩主の酒井忠美(ただよし)が上洛し恭順を示してしましたが、勝山に残っていた重臣達は領内を戦火から救う為に福井小左衛門・楯石作之丞(たていしさくのじょう)ら31名を半ば公認・半ば脱藩の形で義軍に参加させました。
林軍はその後館山から伊豆へ渡航し上野の彰義隊との連携を目指した折、事を鎮めようとする旧幕府要人の顔をたてて上申書の返書を待つ形で沼津に逗留しますが、約束の期日を過ぎても返事は届かず総督府(新政府の東征軍)の警戒も強まっていきました。

彰義隊の敗北の報を受けた遊撃隊は沼津を脱し、勝山藩士が編入されていた人見率いる第一軍が先鋒として小田原藩が守る箱根関所を攻め、5月20に関所を占領します。

その後一度は和睦した小田原藩が総督府から林軍掃討の命を受けて寝返り、5月26日に伊庭率いる遊撃隊と箱根湯本山崎で衝突。先鋒として前橋藩兵(富津陣屋より脱走兵として編入)と共に第一線にいた勝山藩兵に多くの犠牲が出ました。
伊庭が左手首を斬られる重傷を負い、少数精鋭であった遊撃隊も、新政府側の援軍が後押しする藩をあげての大軍には叶わず撤退しますが、新政府軍は追撃を休めず、この戦いで勝山藩士は須藤静摩(すどうしずま)以下戦死15名・戦傷10名・行方不明者2名とほぼ全滅状態でした。

 

義軍第一軍一番小隊/房州勝山藩酒井大和守家来
・箱根戦死者
  須藤静摩義方・竹内利平(利兵衛)・高橋種助・高橋万吉郎・智作太郎・渋谷兼吉
  秋子松五郎・佐久間徳蔵・高橋徳太郎・須藤弥八郎(弥八)・渡立半蔵・戸塚辰五郎
  
・箱根で打死
  瀧本岩吉・松坂佐左衛門

・箱根行方不明者
  安田定七

・蝦夷に転戦し箱館で戦死
  三宅熊五郎

・記載なし
  山口多郎三郎(義士碑では柴田太郎三郎)・山東林蔵・松坂啓造

・5月29日帰藩
  福井小左衛門儀靖[隊長]・楯石作之丞粛・大澤和四郎・矢嶋四郎兵衛・小林栄吉
  (行方不明)加藤六郎・木暮波太郎・川名儀兵衛
福井従者・小者
  山根房吉・忍足徳蔵・博三郎(岩井伝三郎)・平四郎・義兵衛

 

生き残った義軍は館山に戻り、負傷者と病人に暇を出して戦える者のみで東北へ転戦します。
勝山藩士で帰藩したのは19人と記録されています。しかし生死を賭すのは戦場に居る者だけでは済みません。新政府は義軍に荷担した内房諸藩に責任追求し、各藩首謀者の切腹を命じたのです。
6月12日、勝山藩では帰藩していた福井・楯石が佐貫の三宝寺(さんぽうじ)で切腹し同寺に葬れました。前橋藩でも奉行白井宣左衛門が、飯野藩では樋口盛秀・野間銀次郎が命を以て断罪しました。

明治23年(1890)年に彼らの義を讃えて勝山藩ゆかりの人々の発起により義士の碑が建立されました。
題字の「視死如帰」(死を視ること帰するが如し)は勝山藩士が所属した第一軍の一番大砲隊長の人見の筆です。人見は維新後、開拓使、茨城県令も勤め、箱根早雲寺には戦死者供養の墓碑を建立しています。
碑の撰文は、野呂道庵の高弟で、保田町長を務めた早川儀之助です。

妙典寺山門 勝山藩義士の説明

▲醍醐山妙典寺は醍醐(だいご)新兵衛家の菩提寺です。
醍醐新兵衛は捕鯨により安房勝山を発展させました。初代定明は田子の台妙典台に荒廃していた広栄山妙典寺を再興する為、自己所有地700坪を寄進し、ここに移しました。

醍醐山妙典寺
所在地:千葉県安房郡鋸南町勝山316-1

 

勝山加知山)藩・12000石
徳川譜代で若狭国(福井県)小浜藩主酒井氏は、江戸初期に幕府大老をも務めた酒井忠勝(12万3500石)の長子忠朝(ただとも)の流れです。忠朝は、理由は諸説ありますが廃嫡の身になり、酒井家の領地の安房国市部村殿町(旧富山町)で薄幸の生涯を終えました。
小浜藩2代藩主忠直は寛文8年(1668)に父忠勝の遺言に従って兄の子忠国に1万石を分けて忠国は大名として安房国平(へい)郡に小浜藩の支藩・勝山藩の藩主となりました。
それまでの領主は内藤清政と弟の正勝です。

現在の鋸南町勝山・旧富山・旧富浦町・旧三芳村の一部に跨る地を領し、越前国敦賀郡・上野国群馬郡に代官所を置き9代200年間この地を治めました。近世の安房地方では最も長い期間です。
明治2年(1869)には、同じ名前の越前勝山藩との混同を避けるために「加知山藩」と改称しています。

内藤氏が構えた勝山陣屋は八幡山の中世勝山城東麓…現在の勝山通りの南側一帯で、山を背にして東西北は幅4間ほどの土塁に囲まれ、中央に陣屋屋敷、敷地は堀を含めて約四千五百坪(陣屋を囲んで城町・城前・内宿)でした。
現在は門前の「長八」の名が残り、井戸2つと屋敷から逃げるためのトンネルが残っています。

陣屋所在地:千葉県安房郡鋸南町勝山字栄町
勝山関連は千葉県文化財センター・南房総観光圏整備事業・鋸南町の案内文や碑文等を参考にしました