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貞源寺-伊庭八郎の墓所

貞源寺 伊庭家の墓

▲伊庭家の菩提寺貞源寺(ていげんじ)
慶長6年(1601)慶誉春公上人が開基し江戸城曲輪内に東正寺が建立され、その後お茶の水に移転。明暦3年(1657)の振袖火事で浅草松葉町(現在の台東区松が谷二丁目本覚寺の西側)に移り、享保年間に貞源寺に改称。関東大震災後に東京府豊玉郡野方村沼袋(現在地の中野区沼袋)再建した。
境内に心形刀(しんぎょうとう)流初代伊庭是水軒(じょすいけん)から第10代伊庭想太郎までの墓石が並ぶ。

 

伊庭八郎秀穎(いば はちろう ひでさと)伊庭八郎秀穎(いば はちろう ひでさと)

父・軍兵衛と心形刀流
伊庭家は九州筑紫出身の大友家の末葉として藤原姓、六代目より源氏姓を名乗る。
心形刀流は神道流から分かれた流派で天和2年(1682)伊庭惣左衛門秀明(光明、号は常吟子)が37歳の時に起こした。
下谷御徒(台東区小島)の伊庭道場を「練武館」といい、八郎の父・伊庭軍兵衛秀業(ぐんべえ ひでなり、三橋氏。記事中は以降、軍兵衛は八郎実父の秀業をさすこととします)の頃には、鏡新明智流桃井春蔵「士学館」・北辰一刀流千葉周作「玄武館」・神道無念流齋藤弥九郎「練兵館」と並び江戸四大剣士・四大道場に数えられ、弟子千人余を持っていた。

練武館の稽古は荒く、軍兵衛は文政・天保当時の穏やかな天下で幕府の侍が遊情に流れて本田髷を結い細身の刀をさして雪駄の後金をちゃらちゃら鳴らして歩くような華奢な装を嫌い、門下には袴を短く切らせ、朴歯の下駄で、大小の刀を長く突っ張らせて差させるような厳格な人物であった。

同じく厳格な天保の改革を進める老中水野忠邦によって天保12年(1841)に軍兵衛は御留守居与力に抜擢され、御書院番となり、営中諸門の警衛にあたり将軍行列に付き従う等の任にあたる。
しかし翌年の忠邦の失脚により、軍兵衛も弘化2年(1845)に常同子と号して隠居の道を選んだ。

 

八郎誕生
天保14年(1843)か15年(1844)に後妻マキとの間に長男の八郎が生まれる。

八郎は漢学や蘭学に熱をいれていたので、練武館の門人たちは快く思っていなかったともいう。
伊庭家では実力で後継者を選ぶ習わしで、軍兵衛は腕の立つ養子の伊庭惣太郎(軍平秀俊。塀和/はが氏。初め名を継いで軍兵衛ですが混同を避けるため記事では維新後に名乗る軍兵で通します)を養子にしていたので、安政3年(1856)4月25日幕府によって江戸築地小田原町に武術教養の場「講武所」が開かれ、剣術教授方に招かれた時も軍兵衛は辞して息子の八郎について何も言わず軍平と甥の三橋虎蔵を推挙したので、八郎がまだ年若いとはいえ周囲が不思議がった。他にも門人が教授方に就いている。

御撰剣槍炮柔術名家鑑

▲この師範役の伊庭軍兵衛は義父となる秀俊(軍平)

父の軍兵衛秀業は安政5年(1858)のコレラ大流行の折、8月13日に病死、享年48。八郎はまだ16歳だった。
学問に励んでいた八郎も、剣だけではなく文芸にも秀でていた剣豪・宮本武蔵の墨絵を見て刺激され、養父となった軍平のもとで稽古に打ちこんで頭角を現し、伊庭の麒麟児などと異名を持ったという。

 

将軍上洛の随従
元治元年(1864)正月に八郎は講武所剣術方として14代将軍徳川家茂に従い上洛する。

文久元年(1861)4月5日に幕府「奥詰」が新設される。軍兵は講武所師範役並、12月3日から奥詰となった。
元治元年(1864)正月には八郎も軍兵らと共に家茂に随従し上洛(前年の12月28日に浦賀から幕府艦の翔鶴丸で西航)。15日に家茂の供揃えとして入京するが、他に副長土方歳三率いる壬生浪士達の姿もあった。
八郎は二条城での将軍の御前試合に勝利し、銀造りの脇差等を拝領する程の腕前をみせた。

6月5日夜に新撰組が長州系浪士を池田屋で襲撃した時に八郎は大坂に居り、翌日に江戸へ帰る予定であった。池田屋事件の騒ぎで京への応援要請が届き、早駕篭で駆けつけるが、事件は収束した後で肩すかしとなった。14日に江戸へ向かう。

部屋住みであった八郎は9月7日に21歳の若さで新御番(近習番)に召出されて250俵を給される。松平駿河守組御書院番も拝命し、9月10日に奥詰侍衛となった。

 

遊撃隊編入と伏見の戦い
三度目の上洛は長州再征のためで、大坂在中の慶応2年(1866)7月に家茂が他界し、一橋慶喜が将軍職を継ぐと職制改革が行われ各三組が廃止となる。
10月22日幕府親衛隊として「遊撃隊」発足。翌日、軍兵と三橋虎蔵らが入り、12月21日に八郎も遊撃隊に編入される。

慶応3年(1867)に遊撃隊は徳川慶喜の警固として従属し京へ上洛。
慶応4年(1868)正月3日の鳥羽伏見の変には幕軍今掘摂津守(元講武所師範役)に属して黒谷に先発する。この時八郎は26歳。
遊撃隊は伏見方面に突出し、八郎は伏見奉行邸前で自ら陣頭に進んで剣を振るったため胸部(もしくは腹部)に被弾してしまう。鎧(鎖帷子)のおかげで一命は取り留めたが吐血し一時危篤状態に陥った。

息を吹き返した八郎は淀の本隊に合流したが、4日に錦旗が翻り、8日夜に慶喜が大坂城を密かに脱して幕府艦開陽で東帰したため、八郎も江戸へ戻ることとなった。

 

請西藩主林忠崇の脱藩から箱根関所占領まで
2月12日慶喜が恭順を示して上野に閉居すると、遊撃隊は慶喜護衛の水戸に赴く者と彰義隊へ加入する者で分かれ、更に八郎は人見勝太郎らと共に榎本釜次郎(和泉守、武揚)の艦隊に依って幕府回復に出ようとした。
旧幕府艦隊は館山(千葉県南部)沖に進めていたが、大総督府は4月11日の江戸開城と共に艦隊の引渡を要求し勝安房(海舟)ら旧幕臣の説得により榎本は品川に戻し一部を引き渡すこととなる。

八郎達は上総(千葉県内房)に上陸し4月28日に請西藩(現木更津市、一万石)藩主の林昌之助(忠崇)を説いて、忠崇は藩主自ら脱藩してまでして協力する。
閏4月3日に請西藩真武根陣屋を出陣。館山に向かって南下し上総・安房諸藩の脱藩兵を加え、共に駿河(静岡県)沼津での挙兵をめざして江戸湾を渡り12日に相模(神奈川県)真鶴港に上陸した。

一行は総勢300人近くとなり、八郎は二番砲兵隊長として第二軍の隊長となった。(人見が第一軍、林昌之助は第四軍を指揮する)
対して大総督府は沼津藩に遊撃隊らを解体させるよう命じ、また江戸からは田安中納言(徳川慶頼)の命で旧幕府首脳の大鑑察山岡鉄舟と石坂周造が抗戦を止めるよう説得に訪れた。
林忠崇と遊撃隊は上意をしたため、山岡らに託し、新政府軍総督府からの返書を待つ形で甲府(山梨県。沼津藩主が城代であった)で待機することとなる。
しかし期日を過ぎても返事は来ず、東の彰義隊壊滅の報を聞き新政府軍の包囲が強まるのを感じ取った人見が豪雨に乗じて第一軍を率いて箱根方面へ出陣する。
残る遊撃隊も箱根に移り5月20日に小田原藩の守る関所を占領した。

 

山崎の激戦
23日、一時和睦した小田原藩が裏切り、遊撃隊先鋒の伊庭隊100名が箱根湯本山崎で防戦の構えを取った。
保身の為に何度も意見が変わる小田原藩に対し八郎は「反覆再三怯懦千万堂々たる十二万石中復一人の男児なきか」と嘲笑したという。

26日に小田原方の兵の後に新政府軍の鳥取・長州・岡山・藤堂藩兵が続き、合わせて2500の大軍が三方面から山崎を攻撃。
伊庭隊は少数ながらも善戦するが、後方に控えていた新政府軍4藩が加勢すると数で圧され、八郎は疲弊の中、三枚橋の早川の流れに沿った所(松並木であったとも証言されている)で、味方を装って近づいた小田原藩士高橋藤太郎に左の手首を斬られた。高橋も伊庭に右手で切り伏せられる。(部下の坂田某が射殺したとも。尚、創作に多く登場する「坂田」鎌吉は上野の料理人出身だというが剣も相当にできたので八郎を慕っての従軍であった。実際に、鳥八十の料理の覚えにより潜伏中の嫌疑を回避した話を含め旧幕府史談会で従軍の様子を語ったのは「荒井」鎌吉名義である)
八郎は皮一枚まで斬られた左手を自ら噛締め血を吸うという凄絶な描写が語られているが、出血は止まらず、そのうえ腰部も被弾しており、遊撃隊岡崎隊士従者の重兵衛に背負われての無念の戦線離脱となる。

 

深夜0時頃に林忠崇旗下の請西藩士が居る峠に到り、忠崇が畑宿に医師を手配させたとみられる。ぶらさがっているだけの手首を切落として止血し縛った。
この時宿には小田原藩から援助禁止を命じられていたが、重体ながら強気に意識を保つ八郎の鬼気迫る姿に慄いた村人は無視することは出来なかったという。

各方面から追撃を受ける窮地に立たされた遊撃隊は箱根から熱海まで撤退し、網代に渡り榎本率いる艦で東に渡る。
八郎は蟠龍に乗ったが、重症のため開陽丸に移され、品川沖の病院船「旭丸」で篠原(藤原)医師に再手術を受ける。
旭丸を見舞った飯島半十郎によると、八郎は隻腕となっても銃を左肘に載せて構えて右手で引き金をひき、吊るした瓶を見事に撃ってみせたという。

 

美香保丸難破と潜伏の日々
館山で再編成した遊撃隊らは東北へ向かい、八郎は横浜の外国病院で治療し数十日後に後を追う形となる。
8月19日深夜0時、旧幕府の軍艦開陽・回天・蟠龍・千代田形、運送船長鯨・神速・美香保(美賀保・美加保・三ヶ保)・咸臨の8艦に榎本やフランス陸軍教官ブリューネら2000人余名が乗り込み、奥羽越列藩同盟の盟主である仙台藩を目指して品川沖を抜錨。八郎は美香保丸に乗船した。

兵器を積みこんだ貨物船のため速力の遅い美香保は軍艦開陽に曳かれて進むが、21日旧鹿島洋(銚子沖)で暴風雨に遭って離散する。美香保は2本の曳綱が千切れて漂い、同じく流された蟠龍・咸臨は伊豆へ針路を変更。

26日鹿島灘から犬吠崎北まで押し流された美香保が犬吠崎北の黒生(くろばえ)海岸に座礁し破船。約6~700人乗船していたが、4、50名は溺死してしまった。
翌日伊庭らは艀船で銚子港に漂着。
北行し戦うことが出来ないのならばと潔く自決をしようとする八郎を中根淑(きよし)が止める。
中根の説得で持ち直した八郎は、遊撃隊を本山小太郎に任せ、鎌吉とも別れて、中根と他姫路藩士との3人で西の東金へ向かった。味噌商人等に変装して移動し、伊庭軍兵衛の門弟大河内一郎が居る上総を目指すが、大河内は官軍に抗って捕縛されたと聞く。
中根と八郎の友人である忠内氏を頼って八郎は上総中島(木更津)に潜伏し、中根は江戸に戻って北行準備に奔走する。

後に八郎は本山の導きで江戸の芝に移り、横浜太田町の通詞飯岡金次郎邸、そして米国公使館通詞・尺振八の英語塾(横浜の北方※地名)に入る。
その頃八郎は駿府で復権した徳川に仕えないかと誘われるが、官軍と関わることを好まずに断ったという。

八郎が残した古書(本山が八郎のために持って来たという)に、八郎が書いたとも思われる歌が書かれていた。
 あめの日はいとゞこひしく思ひけり我がよき友はいづこなるらめ

時代創作ならここで八郎の馴染みの江戸吉原稲本楼(いなもとろう)の花魁小稲(こいな)の資金五十両の工面の場であろう。

 

八郎の箱館入り、木古内の戦い
9月にかけて奥州諸藩は次々に降伏しており、榎本は新政府との調和のため、録も拠り所も失った旧幕臣達の手で蝦夷(北海道)を開拓し、朝廷と日本国土のために北方の警備にあたる事を構想して10月には仙台を離れ北航していた。

11月25日に八郎も尺振八の斡旋で本山と共に英国船に便乗し、28日夕刻に箱館に着く。※28日午後4時に「ソンライス」号が入港している
12月3日に八郎は遊撃隊が守備する松前(11月5日に奪取)へ発った。

箱館(函館)では選挙により総裁以下を決め、人見は松前奉行、八郎は歩兵頭並となった。
総裁に選ばれた榎本は早速蝦夷開拓に取り組もうと、その志を朝廷に奏聞するが、新政府はこれを無礼の申出として却下し国賊として追討に踏み切った。

翌明治2年(1869)、雪に閉ざされる時期を避け3月9日新政府軍は8艘の軍艦を品川から北征させる。
旧幕軍艦も箱館を出航するがここでも嵐に遭う。そして25日、強風を乗り越えた艦・回天が新政府艦隊を急襲し宮古湾海戦に突入。しかし艦長が甲賀源吾が新政府軍艦甲鉄からの速射砲に撃たれて崩れ、戦線を脱した回天は26日午後に箱館に帰航。
五稜郭では防備を固め、八郎率いる遊撃隊は陸軍隊、砲兵隊と共に400余人で松前に屯在し、福山城を守った。

4月8日に新政府艦隊が青森を出航。総勢2万5千人とも称せられる大軍が江差沖を過ぎ、翌日乙部の浜に投錨した。
松前から江差に衛兵を出すが、蝦夷以南の日本各地から集結した兵力には勝算もなく10日に引き揚げて一同福山城に籠る。
八郎は撤退達を叱咤し、城兵の士気を上げ夜襲を企てた。

11日夜、彰義隊の一隊を率い、沢録三郎が軍監に命じられる
10時頃に遊撃隊に円陣をつくらせ(遊撃隊頭取改役の岡田斧吉か)、中央で檄を飛ばして士気をあげ、八郎は自ら陣頭に立って江差に向けて進軍する。
遊撃隊が先陣をきった道中の砲撃による奇襲は成功し、暁4時頃に江良町付近の新政府兵を敗走させた。
押されるばかりの旧幕軍に八郎らのが一勝をもたらしたが、五稜郭陣営からは、五稜郭への通路の防衛線である福山城の守りに勤めてみだりに進撃をせぬようにと総裁から達しがあり、再び福山城に立て籠もることとなった。

17日に新政府軍が大挙して海陸から福山城を集中砲火。犠牲を出しながらも防戦に努めたが弾薬が尽きて吉岡まで退き、八郎らは福島に宿営した。この戦いで、今まで八郎と共に戦ってきた本山や岡田が戦死

 まてよ君冥土もともと思ひしに志はしをくるゝ身こそかなしき
…八郎が友の死を悼んで詠んだ詩とされる。

翌日、松前・江差から撤退した旧幕軍諸隊は福島を引き払って木古内(きこない)に宿陣。江差から五稜郭へ通じる要衝の地である。
19日に遅れていた一連隊を伊庭が迎えに行き、夜半に木古内に帰着。

進む時は陣頭、撤退時は殿をつとめてきた遊撃隊は、彰義隊、陸軍隊、砲兵隊と共に知内に留まり胸壁を守備した。
20日午前5時、不意に木古内方面で砲声が聞こえ、ただちに遊撃隊が出動。
江差間道から雪崩込むように襲いかかる新政府軍に旧幕軍は応戦し、遊撃隊に続き彰義隊、砲兵隊も駆けつけ挟撃する。
新政府軍に兵が宿に火をつけてまわり、八郎は怒りながら指揮をとった。白兵戦では隻腕で刀を振るったが、ついに胸部(左肩先、肩から腹部にかけて)を撃たれてしまう。
八郎は敵中放置を望むが周囲はそれを聞くわけにはいかず、他の負傷者と共に小舟を雇って箱館病院に送られた。

 

八郎の最期
木古内で両軍引き分けたあとも五稜郭に迫る新政府軍を旧幕軍は善く食い止め、24日には箱館湾で海戦が行われ、陸軍奉行大鳥圭介が自ら500人を率いて野陣し、海上からの新政府艦隊の砲撃に苦戦すると総裁の榎本も応戦の為に五稜郭を出た。
しかし次々と新政府軍の援兵が加わるため疲弊していき、5月2日にはフランスの雇教師10名も見限って離脱し、4日の海戦で千代田が拿捕され、残る蟠龍と回天が6艦に立ち向かうが回天は汽缶(ボイラー)損傷で動力を失い浅瀬から砲撃に徹するしかない悪戦となった。

5月11日新政府軍の総攻撃が決行され陸海激戦となる。
八郎は五稜郭へ移っており、部下の鎌吉と心形刀流門人の五十嵐半平(半兵衛。降伏後は津山藩御預)らが看護したが降伏前の12日(もしくは降伏準備の16~17日の間)に死亡したと伝わる。満26歳。遺骸は城郭内に埋めたともされる(戊辰役函館戦争人名書)

* * *
最期の様子は自刃等、諸説ある。
・五稜郭内の病院で療養中に死亡
人見は、伊庭八郎氏は病院で3日後に斃ると記している。
元彰義隊の丸毛利恒は「伊庭八郎創(きず)に堪へずして目を怒らし拳を握り敵を罵りながら死す。死するに臨み歌を作る」と憤死を表現している。

・療養中に流れ弾にあたる
八郎の甥(伊庭孝)は八郎の死因を半兵衛と八郎部下の鎌吉から、五稜郭そばの民家で病臥にあった時、流れ弾が喉に命中して即死したと聞いている。

・服毒死
新撰組の田村銀之助は、八郎は湯の川移動を拒絶し、城内の部屋で榎本が「我々もすぐ後から行くから貴公は一足先に行ってくれ」と言って茶碗に満たしたモルヒネを陸軍隊長春日左衛門(銀之助の養父)と共にあおったと語っている。
※大鳥圭介によると春日左衛門は5月11日に大鳥のそばで小銃弾で撃たれ、1日か2日後に死亡している
荒井鎌吉は、砲声を聞き怒って起き上がろうとする八郎を医者が麻薬で精神を落ち着かせて安らぎながらの死を語っている。

* * *

13日には陸軍奉行並土方歳三を始め多くが戦死、松前奉行の人見も負傷する。最期まで奮戦した蟠龍・回天も力尽きた。
箱館病院長高松凌雲が新政府軍との仲介人となって榎本らに降伏を促す新政府の手紙を投じ、榎本は好意だけ謝したがまだ降伏は認めなかった。しかし15日に弁天台場降伏、16日早朝に千代ヶ岡台場が陥落し、五稜郭は孤立してしまう。
この日の午後、負傷者が湯ノ川湯ノ川温泉に運ばれる。一説に八郎はこの時に護送されてから死亡したともいう。
17日の決戦に際し和議を整え、18日に亀田で面接。五稜郭開城となった。

料理人であることを示したために捕縛を逃れた鎌吉が八郎の遺髪を携えて東京へ帰った物語も有る。

伊庭八郎の墓 伊庭家の解説

伊庭八郎の墓
「秀業次男秀俊養子俗称伊庭八郎 秀穎院清誉是一居士」「明治二年五月十二日」
実母マキと共に葬られている。墓碑に次男と書かれているのは養子の軍兵(八郎の養父となる)を先に数えているため。
伊庭八郎家紋 家紋の糸輪に枷木紋(かせ木紋)が彫られている。

 

維新後、伊庭家は静岡に安堵された旧徳川将軍家に従い、遠州横須賀に移住。
伊庭軍平は後に築地の講武所跡に設けられた海軍兵学校で剣を教授し故東伏見宮依仁親王にも剣を御指南申上げしばらく家職を勤める光栄を有した。明治19年頃(1886)に70余年で没する。

また明治34年(1901)東京市政批判のため東京市長・星享(ほし とおる)を刺した伊庭想太郎(猪朔、いさく)は軍兵衛の4男で八郎の末弟。榎本武揚が東京農学校を小石川に創設した時、校長に任じられるが、経営難に陥ると見放されたので、兄八郎が生前に榎本を意志の薄情な人と評したことを思い出し、兄の人の見る目の確かさを実感したと語る。
想太郎は明治4年(1871)に伊庭家を継ぎ、明治40年10月10日に獄中死している。

音楽評論家の伊庭孝は想太郎の養子(伊庭の分家から入る)にあたる。

貞源寺の門

永康山東正院貞源寺
貞源寺HP:http://www.teigenji.jp/
所在地:東京都中野区沼袋2-19-28

参考図書
・須藤隆仙『箱館戦争史料集
・直木三十五『日本剣豪列伝
・中里介山『日本武術神妙記
・伊庭八郎『征西日記』
・大鳥圭介『南柯紀行
・丸毛利恒『北洲新話』
・小杉雅三『麦叢録』
・本山荻舟『近世剣客伝 続』
・松波治郎『人と剣』
・小沢愛次郎『皇国剣道史
・安藤直方『講武所

※心形刀流が「しんけいとうりゅう」と読むのは誤りというご指摘がありましたので記事内の読みを「しんぎょう」に修正しました。ご指摘ありがとうございました。

請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]

遠山金四郎邸 菊川の方向

▲本所菊川町(東京都墨田区菊川)が請西藩江戸下屋敷のあった場所です。
林邸の東に町名の由来である小さな溝渠「菊川」が流れ、菊川を渡ると町屋が並び大きな「横川」に架かるのは中之橋(菊川橋)です。


▲『文久二年本所深川絵図』の「林肥後守」の西に「遠山金四郎」、北に「榎稲荷」

西には長谷川平蔵遠山金四郎住居跡。
池波正太郎「鬼平犯科帳」の鬼平こと火付盗賊改役・長谷川平蔵宣以(のぶため)が明和元年(1764)から住み、孫の代の弘化3年(1846)から時代劇「遠山の金さん」こと江戸町奉行・遠山左衛門尉影元(かげもと。金四郎)の下屋敷となりました。

請西藩林邸の北向かいが大久保紀伊守の屋敷で、古くは土手稲荷と呼ばれていた小祠を邸内社として手厚く祀り、榎が鬱蒼と生えていたことから「榎稲荷大明神」と称されました。
関東大震災で焼失後に区画整理で現在地に移転、復興を遂げた榎稲荷が今も鎮座しています。

 

彰義隊の副長、天野八郎忠告が獄中で記した『斃休録』の「大久保紀伊守なる者、東照宮の御旗を持て真先に進みたり。此人年五十ばかり、元大監察を勤めしものなり」という経歴から、彰義隊で戦った「大久保紀伊守」は旗本「大久保紀伊守忠宣」とされています。
徳富蘇峰(猪一郎)も『近世日本国民史』で「彼(忠宣)やまた徳川武士の人たるを辱しめなかった」と記しています。
山崎有信『彰義隊顛末』の戦死者一覧の筆頭に大久保紀伊守の名が見え、篠沢七郎『彰義隊戦闘之始末』によると、この戦いで紀伊守の次男も戦死してしまいました。

 

──新政府軍は上野寛永寺に立て籠もる彰義隊の討伐を決行した。一時は持ちこたえるも、佐賀藩のアームストロング砲等、火力で圧され、ついに黒門口が破られてしまう。
新政府軍が押し寄せ、総崩れとなる中で、大久保紀伊守が東照宮の御旗を掲げて真先に進んだ。

しかし中堂脇で血戦に差し掛かった時、新政府軍の砲弾が紀伊守の額の上に命中する。
約三寸(9センチ強)の深い傷口は、まるで柘榴のようだった。陣笠を落ち打とし、紀伊守は東照宮の御旗を持ったまま仰向けに倒れた。

これを見た味方、予備隊の百人余りは逃げ去り、天野と新井と紀伊守の家来の3人のみが踏みとどまる。まだ息のある紀伊守を本坊の門番所へ運んだ。
この時すでに輪王寺宮と兵達は退避した後だったため、天野も輪王寺宮のあとを追って脱出することとなる──…

 

箱根へ向かった林忠崇の請西藩兵と遊撃隊は、東の彰義隊との呼応も考えていたそうです。
彰義隊の大久保紀伊守が向に屋敷があった大久保紀伊守と同一なら、きっと忠崇とも面識が有ったことでしょう。

岡田霞船『徳川義臣伝 明治戦記』では偶然にも林昌之助(忠崇)の次が大久保紀伊守の頁です。

・林昌之助
林昌之助上総貝淵にて一万石余を領したり
幕府瓦解の時に臨み自ら陣屋を焼払ひ脱走されし時は十九才なり
本国を去り小田原に至り大久保家と相謀り箱根の険阻に拠りて薩長土の大軍を引受数度勝利を得たるといへども大久保家の官軍降りて豆州に走り気船に乗じて水戸に上陸し
それより仙台に落ち江戸脱兵とともに数度戦争に及びしが後官軍に降られたり

・大久保紀伊守
大久保紀伊守は幕府において大監察使なり
君家を再度興さんと謀り上野山内に屯集せる彰義隊を指揮し群り寄たる官軍をば落花の如く打ちらし ますます死力尽して戦ひしが昼過る頃中堂その他に砲火の燃上り味方戦ひ難儀と見しゆへ又侯黒門口を差して進み来しに官軍より打放せし砲丸頭上に当りて頭未塵に相成ければ何をかもって堪るべきその場を去らず死したりとぞ

請西藩江戸下屋敷跡 屋敷の北

▲現在の請西藩跡地
東照宮の御旗を握り締めて斃れた大久保紀伊守のように、最後の大名と呼ばれる林忠崇も徳川のために戦争に身を投じ、そのために請西藩は滅ぶという結末でしたが、今ではこんなに和やかな場所です。
所在地:都営新宿線菊川駅近く

林家の江戸屋敷
請西藩林家由来の本所林町-3千石旗本時代
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]-林忠崇の出生地
幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]-最後の請西藩江戸上屋敷

参考図書
・徳富猪一郎近世日本国民史-第70巻 彰義隊の項
・山崎有信『彰義隊戦史』-「斃休録」の項・『彰義隊顛末
・岡田霞船『徳川義臣伝 甲・乙』他、墨田区教育委員会案内板

参考古地図
・弘化三年版『天保改正御江戸大絵図』
・文久二年版『江戸切絵図・尾張屋版』
・文久二年版『本所深川絵図』
・慶応三年版『万寿御江戸絵図』『慶応改正御江戸大絵図』
他、明治~現代までの地図・航空写真等

富津陣屋

富津陣屋跡 富津陣屋跡周辺

富津陣屋跡の碑と白井宣左衛門・小河原多宮自刃之地
陣屋の敷地と推定される場所(現在は宅地)の脇、西側に小さな碑が建つ

文化7年(1810)2月26日、幕府は3万2千石を異国船に対する房州沿岸警備に割り当てて、白河藩に安房・上総、会津藩に相模の浦賀周辺に砲台の築造を命じた。

富津陣屋・台場(上総国周淮郡/千葉県富津市)担当は
◆文化7年(1810)~【奥州白河藩/藩主松平越中守定信】
※文化8年に富津他が白河藩の所領となる。名君定信は房総も善く治めた。
※『遊房總記』では富津陣屋について、竹ヶ岡(竹岡陣屋)の友軍出張の場所であったのを文政5年に房州の防備を富津に移したとある。
『富津村助郷争』では砲台は文化8年、陣屋は文政4年の造立。
※波佐間陣屋の廃材を転用したためか規模・構造の類似が見られる

◆文政6年(1823)~【幕府代官/森覚蔵】(天保11年6月27日~羽倉用九(外記)、天保13年に篠田藤四郎)
※10月19日より白河藩が転封となった後は幕府代官が入り、規模縮小したと思われる。
天保10年には配下43名のうち10名を富津に充てた。翌年からの代官羽倉外記は儒者として名高い。
※要請に応じて上総久留里藩・下総佐倉藩から警衛が動員される。

◆天保13年(1842)~【武州忍藩/藩主松平下総守忠国】
※12月に命じられる。富津陣屋の長屋を増築。忠国は後に「下総草」と呼ばれる草を植えて富津海岸の砂塵を防ぎ感謝された。
※弘化4年より大房崎~洲崎の担当になる

◆弘化4年(1847)【奥州会津藩/藩主松平肥後守容敬】
※2月15日富津~竹岡警備を命じられる
※陣屋詰人数は、香・番頭各1・組頭2・物頭3・郡奉行1・目付2以下藩士170名。武器は17貫300目筒1亭挺・1貫筒以上12挺・200~300目玉筒25挺・200目以下筒221挺の他に弓・長柄があった。火薬蔵、早船繋があり台場も兼ねていたと見える。
※嘉永5年閏2月3日に容敬が没し、25日容保が会津藩藩主となる

◆嘉永6年(1853)~【筑後柳川藩/藩主立花飛騨守鑑寛】
※4月7日に巡検、11月14日より。

◆安政5年(1858)~【奥州二本松藩/藩主丹羽左京太夫長国】
※9月22日に丹羽長富が任を受け、11月に子の長国が継ぎ藩主となる。長国は房総の地を善く治め、歓迎した領民達は仁政を後世に伝えようと「懐恵碑」を建立したという。
※部将1・隊長5・兵300・大砲隊50・軍艦2・糧食方11人、大砲10挺が配される。富津番兵は毎年9月に交代させた。

◆慶応3年(1867)~明治元(1868)【上州前橋藩/藩主松平大和守直克】
※3月13日に命じられ、5月26日から引継ぐ。

会津藩の頃には富津陣屋の広さは古い図面によると総坪数は7875坪。
堀や土塁で囲まれ、周辺の村から隔絶された中に町が形成かれていたとみられる。

 

富津陣屋跡の碑石

▲左から「小河原多宮自刃の地」「白井宣左衛門自刃之地」「富津陣屋跡」

富津陣屋・台場は慶応3年(1867)3月13日より前橋藩(上野国郡馬郡厩橋/群馬県前橋市・17万石・藩主松平直克)の担当となる。
初期には町奉行兼勘定奉行の白井宣左衛門以下 遊隊9名・徒士目付2名・砲隊格20名・銃隊19名・町在組浮組20名・台場付足軽(二本松藩から引継か)20名の計113名程が配置されていた。

慶応4(1868)正月の鳥羽・伏見の戦以降、江戸の情勢が不安になり江戸に居た藩士が続々と富津に避難し、人数は六百余に達した。
房州の情勢も気遣って、4月8日に家老の小河原政徳(おがわらまさのり。左宮/さみや・多宮。三弥の説あり。字は子辰)と大目付服部助左衛門を富津に派遣する。
10日に根付銈次郎が23人を率いて、12日には年寄水野主水も富津へ向かう。
小河原は4月18日に到着している。藩主は京に在った。

4月8日から旧幕府脱走軍・撒兵隊が総州諸藩に協力を要請し、危ういやり取りが有ったが前橋藩は新政府に恭順しており、白井は要求を飲まなかった。

閏4月3日、真武根陣屋を出陣した林忠崇率いる請西藩士らと遊撃隊は、撒兵隊らと挟撃する形で富津陣屋を取り囲む。
応対した小河原は主命がなければ引き渡しは応じられないと拒否した。
それでも引き下がらず、強談判に対し、数百人の家族が居らす場で戦となるのを避けて(陣屋跡からは化粧道具や玩具の出土もあり、駐留した家臣が家族と生活していたことがわかる)席を外した小河原は隣室で接収の責任を取って自刃した。51歳。

前橋藩士は陣屋を明け渡し、脱走扱いで歩卒20名を提供し、大砲六門・小銃50挺(10)、遊撃隊に金千両(内500両は返金)・撒兵隊に糧米若干を贈る。
陣屋の者は分散し付近の在家に仮寓した。

6月に筑前藩の援軍が到着し前橋藩は陣屋を取り戻すが、遊撃隊に兵を与えた罪を総督府から問われる。
小河原から陣屋と郷士を託されていた白井は、藩主に罪が及ばないように全て自らの責任であると答えた。
6月12日に割腹申付られ、富津陣屋で白井は養子の茂八郎に介錯させて潔く切腹したという。
群馬県前橋市の源英寺に小河原左官・白井宣左衛門の墓がある。

富津陣屋は9月に取り壊され、10月には敷地も払い下げられて畑地となった。

・富津陣屋跡地
所在地:千葉県富津市富津字陣屋跡

参考図書
・富津市史編さん委員会『富津市史
・君津郡教育会『君津郡誌
・東京市役所『東京市史稿 市街篇・港湾篇』
・小野正端『遊房總記』-改訂房総叢書収録
・筑紫敏夫『前橋藩房総分領と富津陣屋の終焉』
・・山形紘『房総の幕末海防始末
・朝倉毅彦『江戸・東京坂道物語

飯野藩保科邸・会津藩家老萱野権兵衛の最期

慶応4年(1868)9月4日、鶴ヶ城で籠城中の前会津藩9代藩主松平容保(かたもり)宛てに降伏を勧める米沢藩主上杉斉憲の書簡が、高久(たかく。会津若松市北会津町)屯所で越後口守備にあたっていた会津藩家老萱野権兵衛長修(かやのごんべえ・ごんのひょうえ ながはる)に託され、これを軍事奉行添役の秋月悌次郎(あきづきていじろう)が受取り進呈する。
慎重に周辺同盟藩の情報を収集するため秋月は同じく公用人の手代木直右衛門勝任(てしろぎすぐえもん かつとう)と米沢藩陣営に赴くが、既に米沢藩は新政府に恭順していた。
城へ戻り同盟藩であった仙台・庄内の動向と照らし合わせて協議し、容保は降伏を決意する。

19日秋月・手代木らの降伏の申し出が土佐藩士板垣退助・薩摩藩士伊地知正治に受け入れられ、21日に開城の令を示した。
22日午前10時、鶴ヶ城追手門前に降伏の旗が立った。籠城中に布は包帯に使用されており、集めた端切れを照姫(てるひめ。容保の義姉)ら婦人達が断腸の思いで継ぎ合わせ、涙で濡らした白旗である。

正午に大手門外の甲賀町通りの内藤家・西郷家間に緋毛毯が敷かれた式場へ新政府軍の軍監中村半次郎、軍曹山縣小太郎、使番唯九十九等諸藩の兵を率いる錦旗を擁して進み、会津側は秋月・手代木が熨斗目上下を着用し無刀で迎える。
重臣萱野権兵衛・梶原平馬(かじわらへいま)が出て、次いで礼服の容保・第10代藩主喜徳(のぶのり。慶応3年容保の養子となり翌年開戦前の2月に容保が恭順の意を示すために家督を相続)父子が近臣十名余を従えて着座し式に臨み、降伏謝罪の書を提出した。
引き渡された城内の兵器は大砲51門・小銃2845挺・動乱18箱・小銃弾薬23万発・槍1320筋・長刀81振。

容保父子は輿で謹慎地の滝沢村の妙国寺に送られ、しばらくして萱野権兵衛ら三十名余が伴った。この時重臣達は自分たちの処罰と引き換えに容保父子の助命を求める連署をしたためている。
23日に家臣は天寧寺から謹慎地の天猪苗代へ、傷病者は青木村、婦女子と60歳以上・14歳以下の者は塩川へ立退くが、開城を知って自刃する者もあった。
24日午後に新政府軍が鶴ヶ城に入る。

 

10月19日に新政府から容保父子が権兵衛ら重臣達と共に呼出され、佐賀藩徳久幸次郎の兵の護衛で東京へ出立。
11月3日に東京着。容保は梶原平馬・手代木直右衛門・丸山主水・山田貞介・馬島瑞園(まじまずいえん)と因州(鳥取)藩池田慶徳邸に入り、
喜徳は萱野権兵衛・内藤介右衛門・倉澤右衛門・井深宅右衛門(いぶかたくうえもん)・浦川藤吾は久留米藩有馬慶賴邸での謹慎となる。
狭い部屋に押し込められる形であったが、権兵衛はまだ年若い喜徳をよく気にかけ、皆がくつろぐ中でも常に正座をやめず、しかし時に冗談などを言って皆を和ませたという。

 

11月、明治政府軍務官より「容保の死一等を減じて永預となし、代わりに首謀者を誅して非常の寛典(かんてん)に処する」と下された。容保父子の助命の代わりに、処罰すべき戦争責任者の差出しを求められたのである。

12月に新政府は会津松平家の親戚であり、会津藩への情報取次をしていた飯野藩保科弾正忠正益(まさあり)に取調べを命じた。
正益は、8月23日の新政府軍鶴ヶ城下侵襲の日に甲賀町で既に切腹している会津藩家老田中土佐(たなかとさ。玄清)・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)の二名を戦争責任者として選び、返答した。
しかし死者の選出は政府に認められず、権兵衛が首謀者として候補にあがる。

このことが伝えられ、忠誠純義な権兵衛は藩に代わって死ぬのは本分であると語り、会津藩の罪を一身に背負うことを受け入れ、早く名前を書き加えるよう促したという。
権兵衛の潔さと決意に感じ入った正益は、翌明治2年(1869)正月24日に先の二名に権兵衛の名を加えて軍務局へ提出する。
5月14日、政府は正益に家老萱野権兵衛の処刑・打ち首を命じた。

15日に梶原平間と北原半助(故神保内蔵助二男)が有馬邸を訪れて処分の決定を伝えた。容保からの白衣や遺族への手当料を頂いた権兵衛は容保に感謝を示した。

 

5月18日の処刑の日の朝、故郷の老父への一書を残し沐浴で体を清めた権兵衛は、浦川藤吾に普段と変わらない様子で、斬首に際して見苦しくないようにと襟元などを入念に整えるよう頼むので、浦川は権兵衛の髪を取りながら櫛に涙を落す他なかった。
喜徳より葵紋のついた衣服一式を賜ったが、紋服を汚すのは畏れ多いと着用しなかった。

静々と座した権兵衛の前で、権兵衛の茶の仲間であった井深宅右衛門(重義。容保の御側付)が茶を点じる。
戊辰戦争で一刀流溝口派師範の樋口隼之助光高が行方不明になり流儀が途絶えることを憂いていたため、流派免許を得ている権兵衛は、この時長い竹の火箸(最後の膳の箸とも)を持って宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝授したという。

同朝、山川大蔵と梶原平馬が麻布広尾の飯野藩保科下屋敷を訪れて、出迎えた飯野藩老中大出十郎右衛門・大目付玉置予兵衛に、前年からの会津に対する厚意とこのたびの権兵衛の件に対して慇懃に礼を述べた。

飯野藩隊長中村精十郎が兵を率いて有馬邸に向かい権兵衛を篭で護送し、保科邸の茶亭に着く。
権兵衛が隣室に入ると山川と梶原が、容保直筆の親書と、青山の紀州藩邸に預けられていた照姫(容保の義姉であり、保科正益の実姉でもある)の手書と見舞いの歌を渡す。

今般御沙汰ノ趣窃ニ致承知恐入候次第ニ候 右ハ全我等不届ヨリ斯モ相至候儀ニ候立場柄父子始一藩ニ代リ呉候段ニ立至
不耐痛哭候扨々不便ノ至ニ候面會モ相成候身分ニ候是非逢度候得共其儀モ及兼遺憾此事ニ候其方忠實之段ハ厚心得候事ニ候間後々之儀等ハ毛頭不心置此上ハ為國家潔遂最後呉候様頼入候也
                      祐 堂
五月十六日
   萱野権兵衛

今般(こんばん)御沙汰(さた)の趣 ひそかに承知いたし恐入り候
右は全く我が不行き届きより 斯(か)くも相至り候義に候
立場柄、父子はじめ一藩に代わりくれ候段に立ち至り
痛哭に耐えずさてさて不便の至りに候 面会も相成り候身分に候 是非とも逢いたく候えども、その儀も及びかね、遺憾この事に候 其方(そのほう)忠実の段は厚く心得候間後々の義等は毛頭心置かず、この上は国家の為、いさぎよく最期を遂げくれ候よう頼み入り候也

祐堂は容保の雅号である。

偖此度ノ儀誠恐入候次第全御二方様御身代ト存自分ニ於テモ何共申候様モ無ク氣毒絶言語惜シキ事ニ存候右見舞之為申進候
 五月十六日
                           照
                   権兵衛殿へ

夢うつヽ 思ひも分す惜むそよ
まことある名は 世に残るとも

この度の儀、誠に恐れ入り候次第、全く御二方様お身代と存じ自分においても何とも申し様もなく、気の毒言語に絶たず、惜しきことに存じ候
右見舞いの為申し進め候

夢うつつ思いも分かず惜しむぞよ まことある名は世に残れども

権兵衛は容保の厚意と会津のために潔く最期を遂げてくれとの権兵衛にとって誉ある言葉、照姫のはかなさを惜しみながらも真に存在するその名は残るとの憐みの筆を、真に栄誉であると感涙し、山川と梶原にも熱涙をさそった。
定刻までの短い間に正益からの酒肴が出され訪れた会津藩士と遺族一同で別れの杯を酌んだ。

会津藩士達が帰路につくと、飯野藩の大出・玉置が部屋に入って朝命を伝え、正益から賜わった白無紋礼服一着を交付して退座する。
次いで起倒流柔道指南役で剣術にも長けた飯野藩士沢田武治(武司)が対面した。目利きに優れた権兵衛はいとも冷静に、沢田が介錯のために正益から賜わった刀が貞宗の業物であると認めて、両者は正益の武家らしい情けに感じ入った。

面会後に行われた執行準備で、白木三宝(三方とも。神饌や献上品を載せる台)と白紙で包んだ扇子(白紙で短刀に見立てている)が置かれた。
これは新政府の要求する罪人の斬首でなく、密かに切腹の作法である扇腹(おうぎばら、扇子(せんす)腹とも。三宝に載せた白扇を取るため前かがみになった時に介錯人が首を落す。自ら命を絶つ形を取らせて武士の体面を保たせる切腹の作法)を行うことを示していた。

飯野藩大目付の玉置予兵衛・隊長中村精十郎・御徒目付今井喜十郎・介錯沢田武治・助員中川熊太郎・他小頭三名の立ち会いのもと、権兵衛は主君の居る屋敷の方角を拝し、命を絶った。享年42歳(40とも)。
保科正益は政府の命令の罪人としての処刑をさせず、武芸に秀でた飯野藩士沢田武治の介錯と銘刀をもって、切腹の作法通りに扇腹を行い、建前には政府の斬罪の要望と、実際には権兵衛に対し会津武士の面目を、両方全うさせたのだろう。

遺体に丁寧に布団を被せ置き、玉置と沢田が残って遺体を清めて棺に入れ、正益はこの日のうちに軍務官へ、申付けの通りに松平容保家来・叛逆首謀萱野権兵衛の刎首を執行したと簡潔に届けさせた。

軍務官から飯野藩で遺骸処置すべしと通達があり、棺を浅黄木綿で覆って外面は貨物の如く装って、権兵衛の意志に従い白金の興禅寺に送った。
興禅寺には、鳥羽・伏見の戦いに際し徳川慶喜と松平容保の江戸への脱出を進言し敗戦を招いた元凶だと迫られ、責任を負って三田下屋敷で自刃した神保修理(長輝)他会津藩士が眠っている。

正益は権兵衛や儀を執行した飯野藩家臣に香典を供し、その後も松平家再興等の伝達を受持っている。
また容保父子・照姫と厚姫(容保の長女)がこのたびの首謀者として名を並べた萱野権兵衛・田中土佐・神保内蔵助に対して香典を与え、容保父子は三人の遺族にも菓子料を賜わった。

 広尾の保科下屋敷・現都営広尾五丁目アパート

▲『江戸切絵図』と現在の飯野藩下屋敷跡地(東京都渋谷区広尾)

 

本来家老席順で責を負うべきであったが行方不明として死を免れた保科近悳(西郷頼母)が明治24年2月20日に興禅寺の墓に参り「あはれ此人のみかくなりて己れは長らひ居る事は抑如何なる故にや、実に栄枯の定りなき事共思ひ続くるに堪す」と記している。

介錯を務めた沢田は横浜に移ったのち箱根底倉の蔦屋旅館を譲り受けて箱根の観光・医療業に貢献することとなるが、子孫の仏壇には代々萱野権兵衛の位牌が祀られ、自刃の際に「顔色も変えず平生の如し」潔さを思い起こしては語り涙したという。
(その後も沢田家は長く旅館を営みましたが現在「つたや」は経営者が他家に替わっています)
【2018年追記:「つたや」旅館は2017年をもって閉館しました】
【再追記:2019年11月よりゲストハウス「そこくら温泉 つたや旅館」として新装開店しました】

興禅寺

興禅寺では今も萱野権兵衛の法要を行っている(東京都港区白金)
萱野権兵衛の戒名は報国院殿公道了忠居士。福島県会津若松市の天寧寺にも妻と一緒に弔われた墓がある。
 

※参考図書は記事中リンク先ページと同一、沢田家については後に記事にする予定です。
 
* * *

ちなみに
記事中人物の八重の桜でのキャスト(敬称略)は…
・萱野権兵衛:柳沢慎吾(会津藩家老)
・松平容保:綾野剛(会津藩9代藩主)
・照姫:稲森いずみ(容保の義姉・保科正益の実姉)
・松平喜徳:嶋田龍(会津藩10代藩主)
・秋月悌次郎:北村有起哉(会津藩軍事奉行添役)
・内藤介右衛門:志村東吾(会津藩家老)
・山川大蔵:玉山鉄二(会津藩若年寄→家老)
・梶原平馬:池内博之(会津藩家老)
・神保内蔵助:津嘉山正種(会津藩家老)※
・田中土佐:佐藤B作(会津藩家老)※賀町口で奮戦するが田中が負傷。共に医師の土屋一庵邸で自刃
・上杉斉憲:倉持一裕(米沢藩主)
・板垣退助:加藤雅也(土佐藩士)
・伊地知正治:井上肇(薩摩藩士)
・中村半次郎:三上市朗(薩摩藩士)
・徳川慶喜:小泉孝太郎(幕府15代将軍)
・神保修理:斎藤工(会津藩軍事奉行添役。神保内蔵助長男)
・西郷頼母:西田敏行(会津藩家老)

最期はあばよでなく「さらばだ!」でしたね。

秋月悌次郎詩碑

秋月悌二郎詩碑 秋月悌次郎北越潜行詩

▲秋月悌次郎「北越潜行之詩」碑

 

秋月悌次郎 胤永(あきづきていじろう かずひさ)

文政7年(1824)7月2日若松城下の米代二丁目に録150石の丸山五八郎胤道(かずゆき。逸八。丸山家は初代会津藩主保科正之から代々松平家に仕えた)の次男として生まれる。母はお伊野(杉本氏)。
丸山家は長男の胤昌(かずまさ)が継ぎ、悌次郎は分家として秋月姓を称した。

10歳で藩校日新館の素読所尚書塾に通い、秀才と賞され進級を重ね、15歳で武術を学ぶ傍ら詩作に励んだ。南摩綱紀(なんまつなのり)も優秀な学友であった。

天保13年(1842)19歳で江戸に上り、松平慎斎(しんさい)の麹渓書院で漢学を学ぶ。
江戸藩校で儒官に任じられる。
弘化3年(1846)に藩命で幕府の大学の昌平黌(しょうへいこう。昌平坂学問所)に入り、佐藤一斎、古賀謹一郎等ら大儒に学ぶ。古賀の門人には越後長岡藩士の河井継之助もいた。
後に大学頭林祭酒に入門。また経義を金子霜山、国史令格を栗原又楽、文詩を藤森天山に学んだ。
昌平黌書生寮舎長(生徒の指導監督)助役を命じられ扶持(給料)を賜わり、嘉永3年(1850)には書生寮舎長となる。

安政4年(1857)から藩命により諸国巡視のため、新潟・尾張・熱田・攝州・廣島・萩・薩摩等旅して「観光集」等を執筆。
書生寮舎長辞任の際、幕府から功労として官版書(幕府直営の出版)五部を授与されている。
安政6年(1859)8月23日から秋月は長州藩藩校萩の明倫館で七日間滞在して詩文を指導する。長州藩生徒には19歳の奥平謙輔(おくだいら けんすけ。居正)が居た。
またこの道中の備中松山で、同じく諸国を渡っていた河井継之助にも出会い、その後長崎に秋月が居るとこを知った河井は秋月を訪問して同じ宿に共に留まった。

文久元年(1861)3月に徳川宗家と水戸家の仲裁に常陸へ赴き、両者の調停を進めた。
文久2年(1862)8月1日に会津藩主松平容保(かたもり)が幕府から京都守護職に任命されると、秋月は会津藩公用役に抜擢され、先遣隊の一員として上洛。
藩主一行の部隊受入れのために働き、賀茂川ほとりの三本木町に住む。
12月24日に容保が藩兵千人を伴い京に入った後、秋月は容保の側近として公務に従事する。
また儒者見習兼侍読として又中川親王や二条関白の顧問をつとめた。

文久3年(1863)2月22日夜に足利三代の木像の首が三条河原に晒した容疑で会津藩は尊攘派志士を捕縛し、秋月が使者として朝廷に捕縛の正当性を説くことで彼の才名が高まった。
その後も宮中を護り操練を実施する会津藩の任務に携り、その傍らで秋月は薩摩藩士の高崎佐太郎正風)らと会薩間で長州勢を宮中から排斥する計画を練り、八月十八日の政変を起こした。

尊王攘夷派を一掃するクーデター成功により首謀者として長州藩の刺客に狙われるが狙撃は免れている。
こうして情勢を良く察していたために会津の行く末を案じてており藩外で様々な交流のあった秋月は後に会津藩内の佐幕派の反発を買われ、秋月をよく引き立ててくれていた家老の横山主税(ちから、常徳。白河口副総督常守の養父)が病により帰郷すると元治元年(1864)5月に秋月は公用役を降ろされてしまう。(常徳は8月に没する)
横山の病気見舞いに帰郷していた秋月は免職により会津に留まり、桑畑などの耕作をしながら母親を孝養して暮らした。

慶応元年(1865)9月に前代官の田中玄純が没した引継として蝦夷地舎利(北海道知床半島の斜里)の代官に任じられるが、実質左遷であった。
妻の美栄(遠藤氏。二男一女を生む)を伴って赴き、漁場の開設や開拓事業に努めた。

慶応2年(1866)12月に会薩同盟が破れて孤立した会津の窮地の為に京へ呼び戻され、極寒の気候にも関わらず急な事態とみて3日に出立する。
翌年3月に京に着く。既に長州と結び尊王討幕に傾いた薩摩藩との関係を繕う余地もなく、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いが勃発。

戊辰戦争で秋月は、幔役(ほろやく。参謀役)で3月に越後水原(すいばら)に出陣。5月に窮地の長岡城へ入り河井と協議する。
その後猪苗代方面に転戦するが8月22日に近くの石筵口が破られ鶴ヶ城に入り、軍事奉行添役(副奉行)に任命される。

鶴ヶ城籠城も苦境を強いられ、9月中旬ごろ容保宛てに降伏を勧める米沢藩主上杉斉憲の書簡が高久屯所の軍事奉行萱野権兵衛に託され、これを秋月が受取り進呈する。
慎重に周辺同盟藩の情報を収集するため同じく公用人の手代木直右衛門勝任(てしろぎすぐえもん かつとう)と米沢藩陣営に赴くが、既に米沢藩は新政府に恭順していた。
城へ戻り仙台・庄内の動向と照らし合わせて協議し、容保は降伏を決意する。

秋月は再び米沢藩屯所の森台村へ向かい降伏条件を確かめた後、土佐藩士板垣退助に降伏を申し出た。
9月22日正午の降伏式で容保・喜徳父子と会津の重臣達が新政府軍の軍監中村半次郎(桐野利秋)らを迎える。秋月の装いは熨斗目上下を着用し無刀であった。式で甲賀町通りの内藤家・西郷家間に敷かれた緋毛毯は苦汁を共にした会津藩士達で切り分けられた。

23日猪苗代に謹慎。謹慎中に密かに旧知の長州藩士奥平謙輔(干城方参謀)が届けさせた労わりの書簡を受け取った秋月は、10月7日に会津藩主助命の仲介願いと友の温情に報いるために寺使いに変装して小出鉄之助と共に猪苗代を抜け出し、越後(新潟地方)水原駐留中の奥平に直接面会を果たした。
越後からの帰途、越後街道束松(たばねまつ)峠(現在の会津坂下町の一部)で北越潜行之歌一遍を作った。

有故潜行北越帰途所得
行無輿兮帰無家 国破孤城乱雀鴉
治不奏功戦無略 微臣有罪複何嗟
聞説天皇元聖明 我公貫日発至誠
恩賜赦書応非遠 幾度額手望京城
思之思之夕達晨 愁満胸臆涙沾巾
風淅瀝兮雲惨澹 何地置君又置親

故ありて北越に潜行し帰途得る所
行くに輿(こし)無く帰るに家無し 国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治は功を奏せず戦略無し 微臣罪有り複貫日(かんじつ。一貫して)至誠に発す
恩賜の赦書応(まさ)に遠きに非(あら)ざるべし 幾度か手を額(ぬか)にして京城を望む
之を思い之を思うて夕晨(ゆうべあした)に達す 愁(憂い)胸臆に満ち涙巾(きん。手ぬぐい)を沾す(うるおす。濡らす)
風は淅瀝(せきれき)として雲惨澹(さんたん)たり 何(いず)れの地に君を置き又親を置かん

面会時に有望な会津の青年らを奥平の書生として預けるよう頼んでおり、11月12日に山川健次郎(山川大蔵(浩)の弟、西郷頼母の甥。白虎隊士中二番隊。後に東京・京都・九州帝国大学総長となる)と小川亮(伝八郎。白虎隊寄合一番隊として越後口に出陣。後に陸軍士官となり西南戦争・日清戦争等に出征し大佐に就任)
の二人を無事越後に送り出した。

12月13日に新政府から呼び出され26日に東京伝馬町の揚屋(牢獄)に送られた後、熊本藩細川邸に移る。
明治2年(1869)6月には会津戦争の責任を問われ、萱野権兵衛の処刑に次ぐ重罪の永預かり(終身禁固刑)に処され、7月5日に美濃高須藩に移った。

明治3年(1870)旧会津松平家の再興が認められ青森に三万石を賜わり、明治4年(1871)新領を斗南藩と名付け、藩士の移住が始まる。
秋月は10月13日に名古屋、11月9日に元津軽藩上屋敷、12月27日に下北郡野辺地の長崎尚志家に転々と移され、斗南藩で幽囚生活を送った。

明治5年(1872)正月6日に特赦によって赦免される。
老母を養うために会津に帰郷し、友人である若松県参事の南摩綱紀を介して学校の副教授となるが、3月には新政府からの要請で左院少議生(さいんしょうぎせい)として月給七十円で出仕することとなる。
この際に特赦任官と題した「囚余措大余栄 九死何図得一生 地下故人応笑我 厚顔復入帝王城」と、九死に一生を得て囚人からの誉ある抜擢であるが、戦死や苦難の末先だったた仲間たちは、朝廷に仕える厚顔さを笑うだろうと、やるせない思いを込めた詩を残している。

明治7年(1874)1月に左院五等議官、明治8年2月に正七位に叙される。5月に左院が廃された後は太政官七等出仕として内務課に配属となるが、これも廃止となった。
かつての会薩同盟を策した高崎左太郎(正風)のいとこの高崎五六(ごろく。猪太郎・兵部)が明治8年(1875)10月に岡山県権令(副知事)となり秋月を監事に招こうとしたが、老母の孝行を理由に断り、これを退官の機会と考えたのか同時に官を辞した。

翌明治9年(1876)11月に妻子と共に若松へ戻り、老母の傍で田畑を耕して暮し孝養に尽した。
奥平謙輔が10月に萩の乱を起こし11月末頃捕えられて刑場に送られた際の辞世の漢詩が届く。北越潜行の歌になぞらえたと思われ、12月の処刑を知り秋月は涙したという。

明治11年(1878)母88歳の寿筵を開いて祝うが、明治13年(1880)1月4日に母が90歳で死去。
喪が明けた4月に再び上京し四谷大番町に家塾を開き斯文学舎と名付けて学監となる。
明治14年(1881)文部省管下の教導職役、明治15年(1882)に中教正、明治16年(1883)に文部省御用掛、明治18年(1885)に東京大学予備門の教諭となる。

明治19年(1886)第一高等中学校(東京大学の前身)から教諭を務める。
9月に娘の閑衛(しずえ)の婿養子として塚原六助(胤継。文学博士となり、第六高等学校教頭、大坂の学問所の懐徳堂講師を務めた)を迎える。
11月に秋月は「弘毅斎遺稿」(弘毅斎は奥平謙輔の号)の跋文(後書き)を寄せた。

明治23年(1890)9月に第五高等中学校(熊本大学の前身校)教授に招かれた。
古き良き精神を重んじて漢文・倫理を教え、教育勅語演説を担当し、国のための人材育成に励んだという。
英文学の教授であった夏目漱石・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)らと同僚であり、特に小泉に父の如く親われて「神のような人」と称賛を受けている。

明治26年(1893)北白川宮能久親王殿下が熊本師団長に着任され、副官の高崎正風の推薦で秋月が週一回進講申し上げた。
4月に菊池方面の小旅行の際に菊池川の畔で菊池勤王の事績を詳らかに説いて、自ら木刀を持って北越潜行之歌を吟じ舞って見せたという。

翌年からの日清戦争で鹿児島行軍からの帰途の難所加久藤越(かくとうごえ)で大雨に見舞われ生徒の足取りが鈍ると、秋月はエイエイと一歩一歩掛け声をかけながら、道端に刈って積まれていた枯草をつかんで道に棄てていき、後から来る者が滑らないよう機転を利かせた。

明治28年(1895)辞職し会津に帰郷。
明治30年(1897)正六位に叙せられる。
明治32年(1899)秋に息子の居る東京に移る。12月に病を患う。
明治33年(1900)1月4日特旨従五位に進む。翌5日、75歳(77)で死去。
東京都港区の青山霊園に墓所。彼を称えた墓碑「秋月子錫之碑」の文章は親友の南摩綱紀(当時高等師範学校教授従五位勲五等)が撰した。(子錫は秋月のあざな。また韋軒と号す)

上に記した他の家族として、はじめ兄胤昌の次男の胤浩を養うが没し、長男の浩次はアメリカに遊学した後に商いを営み、次男の胤逸は陸軍少尉となった。

秋月悌次郎詩碑所在地:福島県会津若松市追手町4 鶴ヶ城三の丸入口

参考図書
・松本健一『秋月悌次郎 老日本の面影
・『山本覚馬と幕末会津を生きた男たち
・習学寮史編纂部『習学寮史』
・会津武家屋敷『近代日本に生きた会津の男たち』『北辺に生きる会津藩』
・『会津人群像 第6号』『会津人群像 第13号

※河井継之助についてはいずれ記事にします。