十輪寺-請西藩士吉田柳助の墓所

十輪寺本堂 吉田柳助為一の墓

十輪寺本堂吉田柳助の墓

林家の総州以外の領地は貝渕請西藩共に武州と上州にもあり、徳川との絆を深めようと動きのある林忠英の時には徳川家ゆかりの上州新田郡(群馬県)も領していたのは興味深い。
これらの領地から仕えた藩士も多く、伏見林忠交を補佐した田中兵左衛門正己(玄蕃)が養子に入った家は武蔵国埼玉郡上大越村(かみおおごえ。埼玉県加須市)で、戊辰戦争で林忠崇の参謀として奔走した吉田柳助(りゅうすけ)は請西藩領の小鹿野村(おがの。秩父郡小鹿野町)の有力者である。
忠崇と共に転戦し『慶応戊辰戦争日記』を書き記した檜山省吾は小鹿野村に近い小森村(小鹿野町両神小森。松平因幡守領)の名主間庭家の出で、請西藩士檜山家に入った。

 

■吉田和泉守の系譜
吉田氏は武蔵七党(兒玉・横山・丹・猪俣・西と、野與・村山または綴・私市)の、兒玉党(こだま。児玉)の諸氏である。『児玉党系図』では児玉氏は関白藤原道隆の子伊周(これちか。内大臣)の次男遠峯を祖とし、庶流に吉田俊平の名があるが、俊平は武蔵を離れている。また伊周の家司の子が遠峰(こだま)氏を名乗ったともされる。
『吉田系図』でも児玉氏の血脈の説を採り児玉郡小嶋郷(埼玉県本庄市小島)を本領とする吉田氏に繋がる。

※出自には諸説あるが、吉田和泉守の政重の名等と共にここでは吉田氏の系図に拠る

吉田和泉守政重(まさしげ)は山内上杉管領家の上杉憲政(のりまさ。上杉謙信の養父)に仕え、天文年間の河越城の戦いで憲政が北条氏康(うじやす)に攻められると、政重は憲政と共に上州平井城(群馬県藤岡市)に退去している。
武州を北条氏が制すと、天神山城より鉢形城(はちがた。埼玉県大里郡寄居町)に入った藤田安房守氏邦(うじくに。北条氏康4男で藤田康邦の養子)に政重は従い、鉢形城北部の用土(ようど)の地を領した。
元亀2年(1571)9月15日、武州榛沢(はんざわ)で武田信玄の兵と北条氏政(うじまさ。氏康の嫡子)の兵が戦いで政重は戦功をあげ、天正7年(1579)正月4日にも氏政から感状を与えられ(『諸国古文書抄』)天正12年(1584)2月にも北条氏直(うじなお。氏政の嫡子)から賞された。

天正16年(1588)5月7日、政重の子の吉田新左衛門実重(真重。幼名新十郎。妻は甲州から武州に移った逸見重八郎の娘)が、北条領と真田領の境にある要所、権現山城(ごんげんやま。群馬県高山村)の在番を命じられる。北条家が権現山城周辺を制した時、名胡桃と知行替えをすることを前提に、郷(まゆずみ。埼玉県児玉郡上里町)の領地を預けられた。
同時に、父政重の所領であった小島郷も安堵される。

天正17年(1589)7月に豊臣秀吉が上野の真田領と北条領の配分を取り決め、沼田の地を割かれた沼田城(群馬県沼田市)城代の猪俣邦憲(いのまたくにのり。北条家家臣)が不服とし10月末に対岸にある真田昌幸の重臣鈴木主水重則の名胡桃城(なぐるみ。群馬県利根郡)を奪取。これが秀吉が私闘を禁じさせた思惑に反することとなり天正18年(1590)の小田原征伐の起因になった説もある。
慶長4年(1599)12月晦日、浪人となった実重は弟の乙次郎と共に会津の上杉景勝(かげかつ。中納言)に仕える。
実重の子の吉田源左衛門信重(初め善兵衛)は奥州取合時の戦功により感状を与えられた。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康により翌年景勝が減封され米沢藩主となると吉田父子は浪人となり、実重は妻を実家の逸見氏に預けて越前に赴き、北ノ庄藩(福井県福井市)藩主結城秀康(ゆうきひでやす。越前宰相)の家臣本多伊豆守(本多富正か)の寄騎となる。
信重は暇を請い、弟の藤左右衛門重秀に越前の家を相続させて本国武州(埼玉県)へ戻り、吉田郷塚越(秩父市吉田町)に住んだ。妹は逸見四郎左衛門に嫁いだという。
その後小鹿野で暮らし寛文5年(1665)8月25日に86歳で没し十輪寺に葬られた。
信重の子の左馬之助重基(内記。一学)、孫の時重と続き以降代々上小鹿野村の名主を務めた。そして時重の嫡男新平守詮の弟、善兵衛重喜(藤太輔。幼名三平)が分家する。

 

■請西藩士吉田柳助
吉田重喜から数えて6代目が文政2年(1819)に生まれた吉田藤太柳助為一である。
小鹿野村は貝渕藩・請西藩の領地であり、柳助は請西藩主林肥後守忠交に仕えて郡奉行となった。
妻は甲府城下の大竹孫八郎(大竹院殿武英親章居士)の娘。

慶応4年(1868)3月に房州が不穏なため藩地の請西へ藩主林忠崇が赴こうとすると、熱心な佐幕派であった柳助は江戸に留まり徳川の行く末を見守るよう諭したが聞き入れられなかった。
閏4月ついに忠崇が脱藩し出陣する際に、柳助は小鹿野村に居る息子の信太郎(後に埼玉県会議員、小鹿野町長。貫山と号して漢学塾を開く)に武具を預けていたが、吉田家の居候ノブが不届きにより追われた恨みから官軍に武具の貯えを密告し火にかけさせたという。(『秩父史話』掲載の伝聞)

柳助は林軍の参謀として付き従い、小田原城で忠崇の重臣として面会に加わり、または使いとして小田原や江戸に交渉へ出向いている。
5月19に一行が交渉の返答待ちとして香貫村に期日が過ぎても止め置かれた際に、切迫した情勢の危機感を持った人見勝太郎が遊撃隊を率いて箱根方面へ出陣したので、請西藩士で甲源一刀流の使い手の檜山省吾が病身でありながら加勢に発った。この檜山の捨て身の行為を、闇雲な戦いでなく命は主君のために使うべきだと後に柳助が諭している。

奥州に転戦となると平(福島県いわき市)では6月9日より一隊を任され、その後藩兵を纏めるため相馬中村(福島県相馬市)に向かう。忠崇には仙台、庄内、会津藩等に声がかかり、その中で7月20日に旧幕府陸軍奉行竹中重固の要請を受けて若松へ向かい23日に入城。29日に藩兵を檜山に預けて庄内藩(山形県鶴岡市)へ連絡へ出る。
その後忠崇は仙台に移ることとなり8月5日柳助は中村の藩兵達の元を経て仙台へ合流した。
9月10日再び柳助は庄内藩へ使いに出され、高橋護を供に出立したのを最後に消息不明となった。
10月に、旧幕府の奥医者浅田宗伯から遺品の髪の毛と愛刀が届けられ、小鹿野馬上の十輪寺の墓地に納め、信太郎が墓碑を建立した。

吉田柳助の墓刻字下 吉田柳助の墓刻字上

▲柳助夫婦の墓の側面の刻字
松静院柳昌䜯寿居士
灋誓院貞鏡明栄大姉
 請西郡宰 藤原為一
 文久二壬戌 八月二十二日
 大竹氏女 同人室
       享年四十一歳
 嫡子吉田信太郎氏之建立

十輪寺の門 十輪寺山門

▲十輪寺の総門と山門

新義真言宗智山派常木山十輪寺
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野1823

下総国多古藩の多古陣屋跡

多古藩陣屋跡 多古陣屋鳥瞰図

多古陣屋跡と『千葉県多古町鳥瞰図』
多古(たこ)陣屋の南西、古峰神社のある多古台に多古城があったとされる。
天正18年(1590)8月徳川家康の関東入封に従い、信濃国(長野県)高遠城保科正直(まさなお)が下総国多胡(千葉県香取郡多古町)1万石を与えられ、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の勝利により徳川家臣の旧領が復活し、子の正光(まさみつ。飯野藩正貞の兄。会津藩主保科正之の養父)が高遠2万5千石で元の封地に戻るまでの約10年間保科家が統治した。

江戸時代は寛永12年(1635)駿河国(静岡県)の旗本久松(松平)勝義(かつよし)が8千石の領主となり、正徳3年(1713)松平勝以(かつゆき)が1万2千石の大名となって多古藩を立藩し、藩丁を陣屋に置いた。
松平氏は陣屋内でなく多古台下の屋敷に居住したが、保科時代の武家屋敷を引き継いだとも思われる。
以降明治4年の廃藩までの230年余りの間、久松松平家が藩主であった。

廃藩置県で多古県庁舎になり、多古県廃止後の明治6年に競売にかけられ、明治8年に御殿は多古学校に当てられ、多古小学校に引き継がれた。
昭和8年製作の多古町鳥瞰図の小学校(陣屋跡)の隣に久松子爵邸が描かれている。

多古陣屋跡石垣 多古陣屋跡石垣 多古陣屋跡石垣
多古陣屋の石垣跡
陣屋は現在の多古第一小学校の建つ標高15m程の小高い丘にあり、校庭の一部に相当するが遺構は僅かに高野前稲荷社天神社の裏に石垣が残されているのみである。
藩丁が置かれ、行政・居住のための邸地・長屋、倉庫、稲荷社等が建ち、馬場も備わっていた。
東側の陣屋下の南北に伸びる下馬通り(県道)沿いに表門・中門・裏門が並び、石垣下の堀に朱塗りの橋が正門へと架かっていたという。堀は表門周辺から陣屋の北側を囲うように直角に折れ、木戸谷(きどやつ)奥の池(小学校正門前付近)に続いていた。
競売記録に邸地800坪、山地(森)500坪、囚獄(しゅうごく、牢獄や番小屋等)囲地100坪とあり、その他建造物をふまえると陣屋面積は15000㎡はあったようだ。

多古陣屋下総名勝図絵

多古と千葉氏
多古地域は古くは千田荘(ちだのしょう)と呼ばれる荘園であった。
平安時代の公家藤原下総守親通は、保延2年(1136年)に下総の在地領主千葉常重から領地を取上げたという。親通の子の親盛もまた下総守として領地を継ぎ、平清盛の嫡男平重盛に娘を嫁がせ平家との繋がりを深めた。
親盛の子の親政は千田荘領家判官代として千田氏を名乗る。
治承4年(1180)源頼朝が平氏方に敗れて房総に渡った際、千葉荘の千葉常胤(常重の嫡男)は頼朝を迎え、平氏一門への抵抗を顕にし、親政の目代(代官)を成敗した。
9月14日千葉荘へ大軍を率いた親政を、常胤の嫡孫小太郎成胤が僅か数騎で迎打ち生捕りにし頼朝へ差し出した。(『吾妻鏡』)
千田荘は成胤の娘千田尼(北条時頼の後室)、甥胤綱が千田次郎を名乗り継いでいく。
胤綱の娘、その子宗胤が、永仁2年(1294)元寇で元軍と戦い肥前国で命を落した父大隅守頼胤に代わって九州に赴くと、留守を任された弟の胤宗がを千葉惣家を掌握してしまう。

千葉氏本領の千葉荘は胤宗の子貞胤が、千田荘は宗胤の子の胤貞が継ぎ「千田殿」と呼ばれた。
建武元年(1334)12月1日胤貞は肥前国小城郡や千田荘の総領職を子胤平に譲る。
その翌年から南北朝の戦いで千田貞胤と千葉胤貞が敵味方分かれ、結果、貞胤側が宗家を存続する。
千田荘は胤平の弟の胤継に渡り観応元年(1350)胤継が千田荘の倉持阿弥陀堂に免田を寄附している。
※多古にまつわる千田氏は次浦(多古町)本貫の次浦八郎常盛の孫千田次常家の末裔等、諸系統あり『千葉大系図』等では千葉常胤の弟千田次郎胤幹(松蘿館本系図の千田弥ニ郎胤鎮と同一か)が領主で、子の次郎太郎胤氏が継いで多古胤氏を名乗り、三男の胤満の子の胤春が千田荘の地頭となって再び千田氏に戻したようだ

 

関東動乱期の多古城
文安元年(1444)には宗家の千葉胤直(ちばたねなお)が領していた。
享徳3年(1455)古河公方(こがくぼう。鎌倉公方)足利成氏(しげうじ)と関東管領上杉憲忠(のりただ)の対立で、どちらにつくか千葉一族で勢力が分かれてしまった。
康正元年(享徳4年)4月、分家の馬加康胤(まくわりやすたね)と執権原胤房(はらたねふさ)らが亥鼻(いのはな。千葉)城を急襲し、胤直の子の胤宣(たねのぶ)は多古城に避れた。
8月12日に多古城は落ち、胤宣はむさ(武射か)の阿弥陀堂で自らの血で「見てなげき聞きてとむらふ人あらば 我に手向けよなむあみだぶつ」と壁に辞世を書き遺して自刃した。未だ15歳(12歳とも)の美男で、共に割腹した従者も年若い者ばかりであったという。14日に胤直の志摩砦も陥落し、翌日胤直は多古妙光寺で自刃した。尚、胤直の弟胤賢の子孫が千田氏称している。

妙光寺山門 妙光寺本堂
妙印山妙光寺総門と本堂

戦国時代の多古城
千田氏支族の牛尾(うしお)氏は、千田庄牛尾郷(多古町牛尾、うしお)を本拠とした。
多古領主であった三浦入道を滅ぼして多古城に入り、新たに城を整備して城山に移ったという。
天正13年(1585)7月に多古城主牛尾能登守胤仲(たねなか)は飯櫃城(山武郡芝山町)主の山室常隆(やまむろつねたか)の子の氏勝(うじかつ)との戦いに破れ、隠棲する。
『山室譜傅記』では、弘治元年(1555)6月12日胤仲は山室常陸と佐野原で戦い胤仲の弟の薩摩守が討たれた。胤仲は再起を図り閏10月3日に飯櫃城を攻めるが落せず、逃れた小原子の妙光寺を囲まれ果てたとされる。しかし胤仲が娘の病気快癒祈願に妙光寺へ寄進した鰐口に「天正五年丁丑月六日 大旦那牛尾右近大夫胤仲」と刻銘があり、弘治以降も生存しているはずである。

天正18年(1590)8月徳川家康の関東入封に従い保科正直が多古1万石を与えられる。
12月27日近隣を支配していた山室氏の反抗に対し、家督を継承した正光は大熊大膳対馬守を大将として飯櫃城へ進軍、翌日落城し山室常陸守光勝(氏勝の子)は自害した。
※前述の『山室譜傅記』によるので創作の可能性もあるが、実際にこうした在郷勢力の抵抗はあったのだろう
飯櫃の記録と飯高の正則の墓正直が信仰した樹林寺の位置関係から、保科家の領地は八日市場の飯高(匝瑳市)~小見川の銚子道に沿った地域、芝山町の旧千代田村を領したと思われる。

多古に移って間もなく正光は文禄の役や上杉攻めで家康に従軍し、関ヶ原の戦時に浜松守備、戦後に越前の庄城の城番となる等で多古を離れていたため、多古の民政は家老北原采女佐光次篠田半左衛門隆吉一ノ瀬勘兵衛らに任せていたようだ。

 

江戸時代の多古陣屋
慶長6年(1601)正光が高遠へ転封し翌年には幕府直轄地となり、関東代官頭長谷川七左衛門が管轄。
慶長9年(1604)に田子(多古)村含む5千石は越中国(富山県)布市(ぬのいち)藩1万石の藩主土方雄久(ひじかたかつひさ)が替地として宛がわれる。
※田子は本領ではないが、慶長13年(1608)雄久が本領能登石崎より田子に陣屋を移したとの記録から田子藩が成立したとの解釈もされている。
慶長13年(1608)11月12日雄久が死去し、次男雄重(かつしげ)が遺領の散地1万石と田子5千石を継ぐ。
元和8年(1622)雄重が陸奥国窪田(くぼた。福島県いわき市)藩主となったので、多古は御料地として代官南条帯刀(たてわき)支配所となる。

元和9年(1623)多古の一部の南玉造等が生実(おゆみ。千葉県千葉市)藩主酒井重澄(さかいしげずみ)の領地となり、その後、寛永10年(1633)の領地替えまで佐倉藩主大炊頭土井利勝(どいとしかつ。江戸老中)が領する。

寛永12年(1635)11月9日松平勝義が駿河の領地を多古牛尾諸村8千石に移す。
勝義は、家康の異父弟久松康俊の娘婿の子で、康俊の妹が保科正貞の母多劫である。
多古領は勝義の次男勝忠(かつただ)が継ぐ。
正徳3年(1713)勝忠の末弟の勝以が加増され1万2千石の大名となり多胡藩を立藩した。
以降、勝房(かつふさ)、勝尹(かつただ)、勝全(かつたけ)、勝升(かつゆき)、勝権(かつのり。井伊直弼の兄)、勝行(かつゆき)まで代々続いた。
戊辰戦争時藩主であった勝行は、徳川家との決別の意を示すために久松姓に戻し、版籍奉還により知藩事に任じられた勝行は隠居し、多古藩は長男勝慈(かつなり)の代で廃藩を迎えた。

多古小学校校庭前 志摩城方面
▲多古陣屋の敷地であった校庭と志摩城(島)方面(多古城址はこれより右方向)

多古町高野前稲荷社 多古町切通天神社
高野前稲荷社社・天神社城山の天神社
久松氏の先祖は菅原氏とされ、松平勝義は多古陣屋の森に天満宮(菅原道真)を守護神に祀り、信仰していた正一位稲荷大明神を総本社伏見稲荷より分祀し、同一社屋に祀った。
昭和56年多古第一小学校建設の為、社屋取壊しの上、妙光寺裏の高台に仮安置され、平成12年3月25日この場所に遷座した。
(碑の神社由来要約。表に菅公の詩東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな
多古城の在った多古台は土地開発で均されてしまった。
天神社が鎮座する丘は「城山」と呼ばれ、多古城の出城であったという。
古くは丘が繋がっていたが、後年、道路を作るために切り開かれて独立した丘になったことから「切通」という地名になった。

多古町立多古第一小学校所在地:千葉県香取郡多古町多古2547

▼関連サイト
多古町:https://www.town.tako.chiba.jp/
▼参考図書
・多古町史編さん委員会『多古町史』
・多古町教育委員会『多古町名所百選』
・芝山町史編さん委員会『芝山町史 山室譜伝記』
・芝山町教育委員会『総州山室譜伝記』
・『千葉県香取郡誌
・清宮秀堅『下総国旧事考
・千野原靖方『戦国房総人名事典』
・『下総古城趾』
他、記事中記載の史料、案内板等

法華寺-保科正則夫妻の墓

保科正則夫妻の墓 飯高法華寺

大乗山法華寺保科正則夫妻の墓
保科家は信濃国(長野県)高井郡保科郷から伊那郡藤沢郷へ移り、正則は代官職を務めた。嫡男の正俊は藤沢城主、孫の正直は伊那高遠城主となった後に下総多胡(千葉県香取郡多古町)に転封となる。
正則の妻は、甲州武田家臣と思われる甘利備前守の娘とされる。
この墓碑が海音比丘により再建された元禄3年は高遠建福寺の保科家の墓の再建と同じ頃なので、会津藩松平家3代藩主松平正容(保科正之の子)の請願であった可能性が高い。

明治の頃、正則夫婦の墓は平山氏が守っておられ、旧飯野藩保科正益侯の御子息の妻、北白川宮能久親王第三王女保科武子様の知る所となり幾許か永代供養料を納めたとの話だ。
今も寺の方か檀家の方が管理されているようで、墓の周りは綺麗に保たれていた。

 

■飯高・法華寺周辺の歴史
飯高地域は古くは北条庄と呼ばれ、鎌倉時代は千葉家一族の飯高氏が地頭であった。
今の字(あざ)城下、飯高寺(はんこうじ)~飯高神社(旧妙見社)境内に飯高城が在ったとされる。

この法華寺の境内は古くは千葉氏支族の新藤田縦空(じゅうくう。新藤太とも)の城址で
延慶3年(1310)縦空入道は千葉氏の本領千葉庄の妙見宮で妙見菩薩のお告げを受けて帰郷すると、水田の中に亀の背で白蛇に抱かれた妙見菩薩像が輝いていた。縦空は喜んで昌山に妙見宮別当の社を建て妙見山妙福寺と号し、この地は由来から亀田蛇が洞と呼ばれるようになった。(『下総名勝図絵』)
妙福寺は真言宗であったが、千田庄(多古町)を領する千葉胤貞の猶子日祐(にちゆう)が再興し法華経の一乗妙法の道場とする。

 

■戦国期~保科家多古移封時の飯高
天正5年(1577)京都から妙福寺に訪れた蓮成院日尊に、飯高城主の平山刑部少輔常時(新藤田の子孫ともされる)が帰依する。
天正8年(1580)平山・若林らの懇請で妙福寺住僧の日因が、飯塚光福寺の講務を辞した教蔵院日生上人を迎えた。飯高氏流の椎名氏で妙福寺6世、飯高4世となる日圓(にちえん)も日生に学ぶ。
天正13年(1585)3月に平山常時は日生を開基、日尊を開山として飯高城内に法輪寺を建立し、妙福寺の講席を移した学寮が後の飯高檀林の基となった。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際に常時は北条方であり、小田原落城後は帰農し、北条氏の旧領へ移封となった徳川家康に城地を寄進した。
飯高のすぐ西に位置する多古には高遠城主保科正直(正則の孫)が入り、病身の正直は子の正光に家督を譲り、湯治等をし療養の生活に入る。
保科家は諏訪神氏の家系であり下総でも諏訪神社を信奉し、仏道においても信心深く領内の寺社に寄進している。

 

■保科正則の晩年
正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろう。
下総善龍寺の開山廣琳荊室は、正則の孫の源蔵(内藤昌月)を養子に迎えた内藤信量の次男で、幼くして上州長生寺で剃髪し、大泉山補陀寺(群馬県安中市松井田町)の的雄和尚に学び天正10年(1582)正月28日満行山善竜寺(高崎市箕郷町)に住職する。
この年、織田家の伊那侵攻により保科家は内藤昌月を頼って上州箕輪城へ逃れ、高遠城奪還を期した。

天正18年(1590)的雄和尚の遺命で補陀寺に転院していた廣琳は、羽柴秀吉の北条攻めの頃は院を移し討死した大檀を弔った。この後、徳川家康の関東入封に従い高遠城主保科家は多古へ移る。
そして高齢の正則は多古に廣琳を招き善龍寺の開基となり、隠棲したと想像できる。

天正19年(1591)9月6日に正則、文禄2年(1593)8月6日に子の正俊が亡くなる。
それぞれ上州館林の茂林寺(もりんじ)や内藤昌月父子墓のある箕郷善竜寺に墓があるとも伝わっており、彼らは廣琳と共に上州へ戻り──箕輪城は井伊直政の居城になっており、かつてのように内藤家を頼ることが目的でなく──信仰と共に余生を過ごしたのかもしれない。

また、正則が多古転封以降に没したなら100歳前後になることを考慮すれば、天正10年に上州箕輪を訪れた時に上州で没している可能性もあり、下総の善龍寺は正則の位牌を安置するために箕輪の善竜寺と寺名を同じくして正俊か正直が建立したとも解釈はできる。
そして夫の墓を守るために正則の妻は下総に残ったのだろう。
※この頃に廣琳は保科家の縁で高遠城内の法幢院に移るとも伝わるが、まだ保科正光は多古に在る。想像するに廣琳は補陀寺の引継ぎと、正俊や正則を弔うため上州と下総善龍寺と往復していたのではなかろうか

慶長6年(1601)正光は高遠へ転封となる。9月29日に正直が高遠城で死去。
慶長7年(1602)6月20日に正則の妻が亡くなる。
法幢院は高遠城内にあった諏訪神社と共に龍ヶ澤に移転し龍澤山桂泉院と改号する。
その後、高遠城を継いだ保科正之が寛永13年(1636)最上(山形)転封の際に当時の桂泉院住僧英呑が付き従い長源寺に住、会津移封で泉海が下総の善龍寺と同じ号で祥雲山善龍寺を創建し正則夫妻の位牌を守った。会津善龍寺に家族の墓のある西郷頼母の西郷氏は保科家の一族である。

保科前筑前守正則公之墓 保科正則の墓
▲保科正則の墓
法妙 祥雲院殿椿叟栄寿大居士
保科前筑前守正則公之墓
天正十九年辛卯年九月六日薨去
奉再建元禄三庚午年海音比丘之

保科前筑前守正則公妻之墓 保科正則妻の墓
▲保科正則の妻の墓
法妙 長清院殿梅月香大姉
保科前筑前守正則公妻之墓
慶長七寅六月二十日薨去
奉再建元禄三庚午年海音比丘之

所在地:千葉県匝瑳市飯高字馬場

高遠城

白山橋から臨む高遠城址公園 高遠城大手門

三峯川に沿う約80mの崖を利用した天然塁塞の高遠城址と伝高遠城大手門
高遠城は三峯(みぶ)川と藤沢川が合流する要衝の、それぞれの川に削られた河岸段丘上の突端に築かれた平山城である。
江戸時代に大きく改修されたが、各郭は深い空堀で隔てられ、周囲は石垣でなく地形を巧みに利用した高い土累が廻らされた戦国期の遺構の面影は残されている。

高遠(長野県上伊那郡)は甲斐(山梨方面)・諏訪から伊那へ、南信濃から駿河・遠江(静岡方面)へ進出する交通や軍事的に重要な地にあり、古くは諏訪氏、南北朝の頃より諏訪支族(諸説あり)の高遠氏が一円を治め、後に大名家になる保科氏も高遠氏に従い諏訪・甲斐方面の防衛地である藤沢の代官を務めた
天文年間(1532~55)に武田晴信(信玄)が伊那に侵攻して高遠を支配し、天文16年(1547)3月に鍬立て(くわだて。起工の地鎮祭)を行い山本勘助が縄張(なわばり。設計等)をしたとされる。
信玄は高遠を南信州の拠点として、信任が厚い家老衆の秋山虎繁(とらしげ。武田二十四将)・親族衆の諏訪四郎勝頼(すわかつより。信玄4男)を高遠城代とした。
信玄が亡くなり武田家当となった勝頼は、弟の仁科五郎盛信(にしなもりのぶ。信玄5男)を城代に任じて防備を固めさせた。

天正10年(1582)仁科盛信が織田勢の大軍と戦い壮絶な最期を遂げ、そして武田・織田家が滅びた後、高遠城には徳川家康についた保科が入る。
豊臣天下となると保科正直は家康の関東移封に従い下総多古に移るが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで徳川方が勝利すると正直は高遠城に戻ることができた。
江戸時代には高遠藩3万石が置かれ、正直の子の正光が、その養子の正之が治めた。

寛永13年(1636)二十数万石の大藩、出羽(山形県)山形(最上)藩藩主鳥居忠恒(とりいただつね)は病弱で、死の間際に養子とした弟の鳥居忠春(ただはる。忠治)は幕府の定めた末期養子の禁令によって違法となり、所領没収となった。しかし、忠恒の祖父・徳川家の忠臣鳥居元忠(もとただ)の功績が考慮されて取り潰しは免れた。
当時、徳川秀忠の御落胤であることが公になって第3代将軍家光に寵愛された高遠藩主保科正之の20万石への加増、入れ替わりの形で忠春が3万2千石入り高遠藩主となる。
寛文3年(1663)に忠春が侍医の松谷寿覚(まつたにじゅかく)に斬られた傷がもとで没し、長男の忠則(ただのり)が継ぐが、元禄2年(1689)6月に家臣高取権兵衛が江戸城あかず御門の守衛任務の際に御側衆平岡和泉守頼恒の妾宅を覗いたとして訴えられ、家内不取締(家臣の罪は当主の監視不届きという幕府の刑罰)でに閉門を命じられ獄死。
鳥居家は減封で能登下村藩(石川県七尾市)へ移され、高遠は一時幕府領として松本藩主水野忠恒の預かりとなる。

元禄4年(1691)2月内藤清枚(きよかず)が高遠3万3千石の藩主となり、廃藩まで8代、180年間にわたって内藤家が城主であった。
明治5年(1872)新政府から城郭の取壊しが命じられ、城跡は明治8年頃から旧高遠藩士の手で桜の木が植えられ明治9年(1876)公園化し、現在コヒガンザクラ樹林は長野県の天然記念物とされ、花見の一大名所となって毎年4月は恒例の高遠さくら祭で賑わっている。

大手坂大手門石垣 高遠城大手門跡 高遠城郭の図大手坂石垣
大手枡形の石垣と大手坂上の大手門跡地
武田氏の築城当初、表門の大手は比較的なだらかな城東に、裏門の搦手(からめて)は城の背後を守る岸壁のある西側にあり、江戸初期に情勢が安定すると新たな城下町が形成された西側(現在の大手跡)に代わったとされる。
明治政府により大手、二の丸、本丸、搦手の4つの櫓門(やぐらもん)は全て取払われたが、三の丸に移設された旧高遠高等学校正門(記事一番上の写真)が、形は変わってしまったが旧大手門と伝わる。

高遠藩の藩校進徳館の門 高遠藩の藩校進徳館の建物
■高遠藩の藩校進徳館表門と二棟。正面軒上に内藤家の家紋「左十字」の鬼瓦が見える。
万延元年(1860)閏3月24日、高遠藩8代藩主内藤頼直(よりなお)は三の丸の老職内藤蔵人の屋敷を文武場にあてて「三ノ丸学問所」を開校。その後「進徳館」と名づけられた。
文学部、武学部の2部からなり、藩士の子弟を中心に8~25歳までの生徒が幼年・中年の部に分かれて学んだ。
内藤邸は当時珍しい茅葺平屋八ツ棟造りで、この建物に続いて南北隅に筆学所、北裏に広い稽古場を設けた。
現存するのは写真の大玄関と脇玄関奥、東棟に生徒控所と寄宿寮。右の西棟に教場二部屋や教授方詰所。奥に儒学の祖孔子廟と高弟四賢人の五聖像が安置されている。

桜雲橋 問屋門
■桜雲橋と城下町の問屋門
現在は鉄筋コンクリートの桜雲橋(おううんきょう)の場所には当時は木橋が架かっており、当時も本丸側に櫓門がある作りで本丸の守衛となっていた。
問屋(とんや)門は昭和20年代に本町の問屋役所にあった門を移築したもの。

南曲輪 桜雲橋下の空堀 南曲輪からの中央アルプスの展望
南曲輪
本丸の南に位置し、幼少の幸松(保科正之)と母お静と移住した所と伝わる。
方形で、周囲は土塁で囲まれ、本丸とは堀内道で(現在ある土橋は近年通行の為に造られたもので橋は無かった)、二の丸とは土橋で繋がっていた。写真の堀の先が南曲輪。
中央アルプスが展望できる景勝地で、かつては南曲輪に茶室や庭園があったのか、古い絵図には瓢箪形池が描かれている。

保科正之とお静の母子像 高遠歴史博物館の保科正之像
▲高遠歴史博物館の保科正之・お静の母子像
正之像は保科の並九曜の紋服。3体のお地蔵様も幸松の成長祈願をし目黒成就院に寄進した地蔵菩薩を模して建立された。
高遠城本丸跡 太鼓櫓
本丸跡と時を報じる太鼓楼
本丸は段丘の突端に置かれ、二の丸、三の丸を廻らせた城郭三段の構え。
天守閣は無く、本丸中央一杯に平屋造の本丸御殿(藩主の住まい)が建ち、他に櫓や土蔵などがあった。
太鼓櫓は元々は搦手門の傍らにあり、楼上に3鼓を備え、時刻になると番人が予備の刻み打ちの後に時の数だけ時報の太鼓を打った。廃城後に有志により対岸の白山に新設されたものを明治10年(1877)頃に本丸と現在の位置に移され、朝6時から夕6時まで偶数時刻を打つことが昭和18年(1943)まで続いた。

高遠城二の丸跡 高遠閣 高遠城二の丸を繋ぐ空堀
二ノ丸跡と高遠閣、三ノ丸からの虎口の空堀
本丸の東から北に廻っている広大な曲輪で外周は堀切で防備を固めた。
役所向きの建物が置かれ、厩や土蔵等もあった。
二の丸の北東に、木造二階建て入母屋造の公会堂「高遠閣」が昭和11年に伊藤文四郎工学博士の設計で建設され、現在は有形文化財。

新城盛信神社 白兎橋 高遠城法幢院曲輪の堀
■新城・藤原神社と白兎橋、堀で隔てられた法幢院曲輪
天保2年(1831)7代藩主内藤頼寧(よりやす)は家臣中村元経の嫌疑により、天正10年織田の大軍を引き受け高遠城で壮烈な最期を遂げた仁科盛信の霊を五郎山より城内に迎え新城(しんじょう)神として祀った。先代内藤頼以(よりもち)が内藤家祖神藤原鎌足公を勧請した藤原社を合祀し、廃城跡の明治12年(1879)に建てられた。
法幢院(ほうどういん)曲輪は二の丸から堀内道に通じ、城郭の南端に位置し、東方に幅6m、長さ170mの馬場が続いていた。かつて法幢院という寺があり、高遠城落城の際に法要が営まれたが、一般にも参拝できるよう月蔵山の麓に移し桂泉院(けいせんいん)として現在に至る。
法幢院曲輪へと架かる白兎橋も近年造られ、文政の頃の高遠藩仕送役の酒造者で町の発展にも尽くした廣瀬治郎左衛門雅号・白兎(はくと)を、その曾孫が私有地となっていた法幢院曲輪を買上げて公園として寄付した折に架けた橋に名付けた。

高遠城勘助曲輪 高遠城勘助曲輪神戸邸跡 高遠城三ノ丸背後の新館橋
■勘助曲輪(かんすけぐるわ)と武家屋敷・神戸邸跡、高遠城の北面
曲輪の広さ769坪(2542㎡)で櫓や祭事事務所、硝煙小屋、稲荷社(西高遠相生町に移転した勘助稲荷)等があった。
山本勘助に由来する名称だが、当初はこの曲輪は無く、大手を西に移動した際に新しい大手の備えとして新造されたようだ。
北は武家屋敷と三の丸があり、かつては三の丸に沿って塀が設けられ、塀の外側は藤沢川の方向に切り立ったこの急斜面で、容易には攻め入られない造りであった。
写真は城北の藤沢川にかかる新館橋越しの高遠城。

高遠城二の丸東の堀と高遠閣 高遠城東搦手の大堀切 高遠城東搦手
二ノ丸の土塁東搦手の大堀切
二の丸を囲む空堀から高遠閣の裏手を見ると、高い土累が盛られているのが分かる。かつては更に土塁の上に塀があったようだ。
空堀からの道は、次の大堀切まで鍵の手を描いており主郭への容易な進入を防いでいる。当時は焼き払って通行を止められる木橋が架かっていたと思われる。
戦国時代は大手側で、他の3方に比べ、防備の弱い地形の東側を大きな二重の堀切で、城を島のように孤立させ防御性を高めた。
天正10年の織田信忠の軍も川と坂に阻まれた裏手でなくこちらの正面から攻め入っている。

高遠城は東武家屋敷の地 高遠藩士有賀家跡 絵島の囲い屋敷
▲高遠城の東面と高遠藩士有賀家跡、復元された絵島囲い屋敷
高遠城の東側に武家屋敷があった。
正徳4年(1714)に大奥の粛清に遭って遠流となった絵島が幽閉された囲み屋敷も城の東の花畑(場所の名)にあった。現在、高遠歴史博物館で復元されている。

高遠藩藩医馬島家 伊沢修二旧宅 坂本天山屋敷跡天山井戸
▲高遠藩士の邸宅跡(馬島家伊澤修二生家)と天山井戸
武士の邸宅は原則的に藩から貸与された。市指定有形文化財となっている政治家伊澤修二(音楽教育の草分けとなった)の生家は下級武士、藩医馬島家は上級武士の住まいの特徴が見ることができる。
天山井戸は高遠藩砲術師範の坂本天山が蟄居した殿坂の槃澗居(はんかんきょ)の井戸跡。

国史跡高遠城址公園
所在地:長野県伊那市高遠町東高遠2295(高遠閣)

▼高遠城関連サイト
伊那市:http://www.inacity.jp/
2016年高遠さくらまつり:http://takato-inacity.jp/h28/
▼参考資料
・『高遠町誌』
・伊那市教育委員会『高遠城跡ガイドブック』
・長谷川正次『高遠藩史』『シリーズ藩物語 高遠藩
・『高遠藩の参勤交代』
他、古地図、観光案内パンフレットや説明板等