保科家に関わる人々」カテゴリーアーカイブ

飯野藩や保科氏の関連人物を紹介するブログ記事です。
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高遠城

白山橋から臨む高遠城址公園 高遠城大手門

三峯川に沿う約80mの崖を利用した天然塁塞の高遠城址と伝高遠城大手門
高遠城は三峯(みぶ)川と藤沢川が合流する要衝の、それぞれの川に削られた河岸段丘上の突端に築かれた平山城である。
江戸時代に大きく改修されたが、各郭は深い空堀で隔てられ、周囲は石垣でなく地形を巧みに利用した高い土累が廻らされた戦国期の遺構の面影は残されている。

高遠(長野県上伊那郡)は甲斐(山梨方面)・諏訪から伊那へ、南信濃から駿河・遠江(静岡方面)へ進出する交通や軍事的に重要な地にあり、古くは諏訪氏、南北朝の頃より諏訪支族(諸説あり)の高遠氏が一円を治め、後に大名家になる保科氏も高遠氏に従い諏訪・甲斐方面の防衛地である藤沢の代官を務めた
天文年間(1532~55)に武田晴信(信玄)が伊那に侵攻して高遠を支配し、天文16年(1547)3月に鍬立て(くわだて。起工の地鎮祭)を行い山本勘助が縄張(なわばり。設計等)をしたとされる。
信玄は高遠を南信州の拠点として、信任が厚い家老衆の秋山虎繁(とらしげ。武田二十四将)・親族衆の諏訪四郎勝頼(すわかつより。信玄4男)を高遠城代とした。
信玄が亡くなり武田家当となった勝頼は、弟の仁科五郎盛信(にしなもりのぶ。信玄5男)を城代に任じて防備を固めさせた。

天正10年(1582)仁科盛信が織田勢の大軍と戦い壮絶な最期を遂げ、そして武田・織田家が滅びた後、高遠城には徳川家康についた保科が入る。
豊臣天下となると保科正直は家康の関東移封に従い下総多古に移るが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで徳川方が勝利すると正直は高遠城に戻ることができた。
江戸時代には高遠藩3万石が置かれ、正直の子の正光が、その養子の正之が治めた。

寛永13年(1636)二十数万石の大藩、出羽(山形県)山形(最上)藩藩主鳥居忠恒(とりいただつね)は病弱で、死の間際に養子とした弟の鳥居忠春(ただはる。忠治)は幕府の定めた末期養子の禁令によって違法となり、所領没収となった。しかし、忠恒の祖父・徳川家の忠臣鳥居元忠(もとただ)の功績が考慮されて取り潰しは免れた。
当時、徳川秀忠の御落胤であることが公になって第3代将軍家光に寵愛された高遠藩主保科正之の20万石への加増、入れ替わりの形で忠春が3万2千石入り高遠藩主となる。
寛文3年(1663)に忠春が侍医の松谷寿覚(まつたにじゅかく)に斬られた傷がもとで没し、長男の忠則(ただのり)が継ぐが、元禄2年(1689)6月に家臣高取権兵衛が江戸城あかず御門の守衛任務の際に御側衆平岡和泉守頼恒の妾宅を覗いたとして訴えられ、家内不取締(家臣の罪は当主の監視不届きという幕府の刑罰)でに閉門を命じられ獄死。
鳥居家は減封で能登下村藩(石川県七尾市)へ移され、高遠は一時幕府領として松本藩主水野忠恒の預かりとなる。

元禄4年(1691)2月内藤清枚(きよかず)が高遠3万3千石の藩主となり、廃藩まで8代、180年間にわたって内藤家が城主であった。
明治5年(1872)新政府から城郭の取壊しが命じられ、城跡は明治8年頃から旧高遠藩士の手で桜の木が植えられ明治9年(1876)公園化し、現在コヒガンザクラ樹林は長野県の天然記念物とされ、花見の一大名所となって毎年4月は恒例の高遠さくら祭で賑わっている。

大手坂大手門石垣 高遠城大手門跡 高遠城郭の図大手坂石垣
大手枡形の石垣と大手坂上の大手門跡地
武田氏の築城当初、表門の大手は比較的なだらかな城東に、裏門の搦手(からめて)は城の背後を守る岸壁のある西側にあり、江戸初期に情勢が安定すると新たな城下町が形成された西側(現在の大手跡)に代わったとされる。
明治政府により大手、二の丸、本丸、搦手の4つの櫓門(やぐらもん)は全て取払われたが、三の丸に移設された旧高遠高等学校正門(記事一番上の写真)が、形は変わってしまったが旧大手門と伝わる。

高遠藩の藩校進徳館の門 高遠藩の藩校進徳館の建物
■高遠藩の藩校進徳館表門と二棟。正面軒上に内藤家の家紋「左十字」の鬼瓦が見える。
万延元年(1860)閏3月24日、高遠藩8代藩主内藤頼直(よりなお)は三の丸の老職内藤蔵人の屋敷を文武場にあてて「三ノ丸学問所」を開校。その後「進徳館」と名づけられた。
文学部、武学部の2部からなり、藩士の子弟を中心に8~25歳までの生徒が幼年・中年の部に分かれて学んだ。
内藤邸は当時珍しい茅葺平屋八ツ棟造りで、この建物に続いて南北隅に筆学所、北裏に広い稽古場を設けた。
現存するのは写真の大玄関と脇玄関奥、東棟に生徒控所と寄宿寮。右の西棟に教場二部屋や教授方詰所。奥に儒学の祖孔子廟と高弟四賢人の五聖像が安置されている。

桜雲橋 問屋門
■桜雲橋と城下町の問屋門
現在は鉄筋コンクリートの桜雲橋(おううんきょう)の場所には当時は木橋が架かっており、当時も本丸側に櫓門がある作りで本丸の守衛となっていた。
問屋(とんや)門は昭和20年代に本町の問屋役所にあった門を移築したもの。

南曲輪 桜雲橋下の空堀 南曲輪からの中央アルプスの展望
南曲輪
本丸の南に位置し、幼少の幸松(保科正之)と母お静と移住した所と伝わる。
方形で、周囲は土塁で囲まれ、本丸とは堀内道で(現在ある土橋は近年通行の為に造られたもので橋は無かった)、二の丸とは土橋で繋がっていた。写真の堀の先が南曲輪。
中央アルプスが展望できる景勝地で、かつては南曲輪に茶室や庭園があったのか、古い絵図には瓢箪形池が描かれている。

保科正之とお静の母子像 高遠歴史博物館の保科正之像
▲高遠歴史博物館の保科正之・お静の母子像
正之像は保科の並九曜の紋服。3体のお地蔵様も幸松の成長祈願をし目黒成就院に寄進した地蔵菩薩を模して建立された。
高遠城本丸跡 太鼓櫓
本丸跡と時を報じる太鼓楼
本丸は段丘の突端に置かれ、二の丸、三の丸を廻らせた城郭三段の構え。
天守閣は無く、本丸中央一杯に平屋造の本丸御殿(藩主の住まい)が建ち、他に櫓や土蔵などがあった。
太鼓櫓は元々は搦手門の傍らにあり、楼上に3鼓を備え、時刻になると番人が予備の刻み打ちの後に時の数だけ時報の太鼓を打った。廃城後に有志により対岸の白山に新設されたものを明治10年(1877)頃に本丸と現在の位置に移され、朝6時から夕6時まで偶数時刻を打つことが昭和18年(1943)まで続いた。

高遠城二の丸跡 高遠閣 高遠城二の丸を繋ぐ空堀
二ノ丸跡と高遠閣、三ノ丸からの虎口の空堀
本丸の東から北に廻っている広大な曲輪で外周は堀切で防備を固めた。
役所向きの建物が置かれ、厩や土蔵等もあった。
二の丸の北東に、木造二階建て入母屋造の公会堂「高遠閣」が昭和11年に伊藤文四郎工学博士の設計で建設され、現在は有形文化財。

新城盛信神社 白兎橋 高遠城法幢院曲輪の堀
■新城・藤原神社と白兎橋、堀で隔てられた法幢院曲輪
天保2年(1831)7代藩主内藤頼寧(よりやす)は家臣中村元経の嫌疑により、天正10年織田の大軍を引き受け高遠城で壮烈な最期を遂げた仁科盛信の霊を五郎山より城内に迎え新城(しんじょう)神として祀った。先代内藤頼以(よりもち)が内藤家祖神藤原鎌足公を勧請した藤原社を合祀し、廃城跡の明治12年(1879)に建てられた。
法幢院(ほうどういん)曲輪は二の丸から堀内道に通じ、城郭の南端に位置し、東方に幅6m、長さ170mの馬場が続いていた。かつて法幢院という寺があり、高遠城落城の際に法要が営まれたが、一般にも参拝できるよう月蔵山の麓に移し桂泉院(けいせんいん)として現在に至る。
法幢院曲輪へと架かる白兎橋も近年造られ、文政の頃の高遠藩仕送役の酒造者で町の発展にも尽くした廣瀬治郎左衛門雅号・白兎(はくと)を、その曾孫が私有地となっていた法幢院曲輪を買上げて公園として寄付した折に架けた橋に名付けた。

高遠城勘助曲輪 高遠城勘助曲輪神戸邸跡 高遠城三ノ丸背後の新館橋
■勘助曲輪(かんすけぐるわ)と武家屋敷・神戸邸跡、高遠城の北面
曲輪の広さ769坪(2542㎡)で櫓や祭事事務所、硝煙小屋、稲荷社(西高遠相生町に移転した勘助稲荷)等があった。
山本勘助に由来する名称だが、当初はこの曲輪は無く、大手を西に移動した際に新しい大手の備えとして新造されたようだ。
北は武家屋敷と三の丸があり、かつては三の丸に沿って塀が設けられ、塀の外側は藤沢川の方向に切り立ったこの急斜面で、容易には攻め入られない造りであった。
写真は城北の藤沢川にかかる新館橋越しの高遠城。

高遠城二の丸東の堀と高遠閣 高遠城東搦手の大堀切 高遠城東搦手
二ノ丸の土塁東搦手の大堀切
二の丸を囲む空堀から高遠閣の裏手を見ると、高い土累が盛られているのが分かる。かつては更に土塁の上に塀があったようだ。
空堀からの道は、次の大堀切まで鍵の手を描いており主郭への容易な進入を防いでいる。当時は焼き払って通行を止められる木橋が架かっていたと思われる。
戦国時代は大手側で、他の3方に比べ、防備の弱い地形の東側を大きな二重の堀切で、城を島のように孤立させ防御性を高めた。
天正10年の織田信忠の軍も川と坂に阻まれた裏手でなくこちらの正面から攻め入っている。

高遠城は東武家屋敷の地 高遠藩士有賀家跡 絵島の囲い屋敷
▲高遠城の東面と高遠藩士有賀家跡、復元された絵島囲い屋敷
高遠城の東側に武家屋敷があった。
正徳4年(1714)に大奥の粛清に遭って遠流となった絵島が幽閉された囲み屋敷も城の東の花畑(場所の名)にあった。現在、高遠歴史博物館で復元されている。

高遠藩藩医馬島家 伊沢修二旧宅 坂本天山屋敷跡天山井戸
▲高遠藩士の邸宅跡(馬島家伊澤修二生家)と天山井戸
武士の邸宅は原則的に藩から貸与された。市指定有形文化財となっている政治家伊澤修二(音楽教育の草分けとなった)の生家は下級武士、藩医馬島家は上級武士の住まいの特徴が見ることができる。
天山井戸は高遠藩砲術師範の坂本天山が蟄居した殿坂の槃澗居(はんかんきょ)の井戸跡。

国史跡高遠城址公園
所在地:長野県伊那市高遠町東高遠2295(高遠閣)

▼高遠城関連サイト
伊那市:http://www.inacity.jp/
2016年高遠さくらまつり:http://takato-inacity.jp/h28/
▼参考資料
・『高遠町誌』
・伊那市教育委員会『高遠城跡ガイドブック』
・長谷川正次『高遠藩史』『シリーズ藩物語 高遠藩
・『高遠藩の参勤交代』
他、古地図、観光案内パンフレットや説明板等

藤沢城と保科家

藤沢城山頂の土塁に囲まれた平地 藤沢城図

藤沢城跡藤沢城図
諏訪大社の防備と、諏訪氏・高遠氏・藤澤氏の均衡を保つための要地御堂垣外(みどがいと)の蛇山(じゃやま。城山の訛りとも)は標高1032m、麓からの高さ106m程。頂上は東西6間・南北11間程の平地。南に大手口があった。

藤沢城外観と松倉川 藤沢城頂上の石祠 藤沢城址案内板

■藤澤庄地頭の藤澤氏
上伊那の藤沢川・山室川・三峯(みぶ)川に沿った谷を黒河内藤沢之庄と呼び、諏訪郡に隣接し古くより諏訪大社の御狩神事を行う土地であった。
平安時代、荘園として藤沢庄は池大言が領家であったが、鎌倉時代に源頼朝が社領として寄進し、国の支配から外れた諏訪上社領となる。

文治2年(1186)11月藤澤庄の地頭藤澤余一盛景が御狩神事を抑留し拝殿の造営を妨げたことを諏訪上社の大祝(おおほおり、はふり。諏訪氏惣領家)が鎌倉幕府に訴えている。(『吾妻鏡』11月8日)
また、諏訪神氏分流の諏訪親貞(清貞)が在名をもって藤澤氏を名乗り、鎌倉幕府の御家人として藤澤谷の地頭となったとされる(『神氏系図』に藤澤神次の名)
親貞の弟の頼親も藤澤四郎を名乗り『甲斐国誌』では箕輪(みのわ)庄福与(ふくよ)城主とする。
箕輪の藤澤家では親貞の子の藤澤次郎左衛門尉清親(鎌倉稲瀬川に住み弓の名射手として武名をあげた)が祖先ともされる。

藤沢城展望南側高遠方面 藤沢城展望北東側箕輪方面 藤沢城展望北側杖突峠方面
藤沢城址からの眺望。写真左から南(高遠)・北東(箕輪)・北(杖突峠)方面

■藤澤代官の保科氏
元弘3年(1333)5月に後醍醐天皇方の新田義貞に攻められ一族共々自刃した北条高時(鎌倉幕府14代執権)の次男亀寿丸(千寿丸。北条時行)が難を逃れ信濃の北条氏の御内人である諏訪大祝頼重に匿われた。建武2年(1336)2年再挙し執権足利直義(尊氏の弟)を破って鎌倉を一時奪回する(中先代の乱)も追詰められ諏訪頼重・時継親子は自害、時行は生き延び後醍醐天皇の南朝に帰順した。
諏訪時継の孫の信員(のぶかず)が分家し高遠に入って高遠氏を名乗り支配し、高遠氏に従い保科氏が藤沢代官となった。
※延元3年足利尊氏に従った木曽家村(義仲の子孫)が戦功により高遠の地を賜り、長男の木曽義親が高遠城に入り高遠太郎と称したのを祖とする等諸説あり
長禄3年(1459)神使御頭を務めていた藤沢庄の保科氏(筑前守家親か)が、御射山御頭に変更(『諏訪護符禮之古書』)

文明14年(1482)6月、高遠継宗(つぐむね)の代官保科貞親(さだちか)の一族は継宗と対立し、諏訪大祝継満・千野法秀が高遠へ来て保科氏の弁明をしたが継宗は聞き入れずに戦となった。7月29日に千野入道率いる諏訪勢が保科家郎党と共に高遠に向かい30日に藤沢氏も加勢。対する高遠方は笠原氏と三枝氏が合力し、笠原で交戦し諏訪・保科方が勝利した。
8月7日、諏訪家内部で大祝継満と政満が対立し、政満側についた藤沢氏の栗木田城(くりきだ。台の城。古くは栗木田村とも言った長藤殿垣外に在る)を保科氏が攻めた。

 

■大名家の保科氏
※保科氏のルーツ(伝承)については→飯野藩保科家系譜・伝(保科郷の保科氏)
後に大名家となる保科氏が藤沢に入った時期は諸説ある。
長享の頃(1487~88年)または永正10年(1513)に高井郡、または有賀(諏訪市大字豊田)の源光利(保科郷の地頭)・正利(正則の父)親子は村上顕国(頼平)に攻められ藤沢に逃れる。正則6歳。

一説に保科正英(保科郷保科氏か)の子、保科八左衛門正満が民間に降り藤沢氏に改め藤沢村主となったとされる。『保科系図』には正利の弟で藤澤刑部とある。
元々藤沢の地頭であった保科氏と同族かは不明で、正俊と土地の娘との間にできた子もおり、複雑に入り混じっているようだ。
※そのため延元元年(1336)に箕輪郷で福与城を築いた箕輪藤澤氏も、御堂垣外藤澤氏とは別流になるといえる

天文11年(1542)7月2日、高遠城主の高遠(諏訪)頼継が武田晴信(信玄)と結託し、諏訪下社の金刺(かなさし)氏らと共謀して諏訪大社大祝諏訪頼重(よりしげ。武田勝頼の母諏訪御料人の父)を攻めて甲府へ贈り自害させ、奪った諏訪の領分を晴信と分けた。武田家の取分に不服な頼継が諏訪社禰宜の満清と共に反旗を翻したとして晴信は頼継を攻め諏訪の地を武田のものとした。
天文14年(1545)4月下伊那に在った晴信は、弟の武田信繁(晴信の弟)を有賀峠から伊那を侵攻、藤澤頼親(箕輪藤澤氏)の福与城を包囲させ、保科氏は伊那衆として藤澤氏に加勢し伊那部に陣した。
11日に藤澤谷にも進軍した甲州勢を迎え撃つため杖突峠に出陣した保科正俊は、信玄を阻止はできまいと即座に判断して甲州勢を引き入れたとされる。
17日に高遠頼継が城を明け渡し18日に入城して以降は武田氏の支配下となり、信玄は現在の高遠城を築き、秋山信友を城主とした。福与城も6月に和睦となる。

天文15年(1546)8月保科氏が武田家直参として伊那郡役所五疋前を与えられた。
天文16年(1547)武田勢の佐久志賀城攻で、先鋒の保科正俊が敵家老志賀平六左衛門の首級をあげて、褒美として信玄から元重の銘刀を与えられた。正俊は武田軍下で多くの戦功をたて、槍弾正と呼ばれる。

高遠頼継の失脚後は神林入道と保科弾正に諸氏の統率を任せ、やがて保科氏が主権を握る。
天文18年(1549)7月16日武田軍が高遠城を陥落。
天文20年(1551)年6月28日付けで晴信から下伊那の土地一ヶ所を賞与する旨の書状が保科甚四郎(正直)宛で出されている。

永禄5年(1562)6月に晴信(この頃には出家し徳栄軒信玄と名乗る)は息子の諏訪勝頼(武田勝頼)を高遠城代とした。※高遠城には元亀2年2月より武田信廉が、天正元年仁科信盛が城代となる
松尾の小笠原信貴が飯田の坂西長忠を攻め落とした戦に、保科氏が甲州側(小笠原方)に加勢したとも。
天正元年(1573)信玄が没した後は勝頼に仕えたが、戦続きで課役と更に諏訪神社の祭銭等ものしかかった藤沢片倉の村人は逃散を企てた。その慰撫を、保科家を継いだ正直に任せられた。

藤沢城展望東側の保科古屋敷 保科古屋敷跡周辺
▲かつて中町に保科の古屋敷跡があった(道路右側、町遠景の中央左寄り)

天正3年(1575)5月21日の長篠合戦では、正直は病気のため当雪という医者一人つけて一間四方の小さな家の中に厠へ通う穴だけ開けて閉じこもっていた。
勝頼が実弟の源蔵(内藤昌月)を寵愛していることに心を病ませたともされる。
しかし勝頼の敗北を聞くと病を押して馬に乗り、下伊那の根羽で勝頼の騎馬姿を見つけた。戦で武田の重臣達を失った勝頼は生存する正直に対し下馬して手を握ったという。

天正10年(1582)2月織田信長の侵攻時は正直は飯田城に入り、平谷・浪合方面の守備にあたる。織田信忠の兵が迫ると正直は機を見て飯田城を捨て、3月2日高遠城が陥落し11日に勝頼が自刃し伊那の地は武田から織田へと渡る。
6月2日本能寺で信長が討たれた後、伊那衆はかつての領土の回復を望み各所で決起した。5日正直は、箕輪の藤澤頼親と下条頼安が籠っていた高遠城を攻めて奪取する。
7月に徳川家康が甲斐入り甲信の指揮を執ると正直は潔く家康に帰順した。
9月に正直は頼親が逃れた田中城を攻め滅ぼし、10月24日に家康に伊那郡の半分を正直に賞与される。正直は家康の命令で小笠原貞慶を攻め、善知鳥(うとう)山で激戦を繰り広げた。
天正13年(1585)12月貞慶は正直が留守(上田出陣)中の高遠を攻めるが、隠居の正俊が指揮し奇策を以って撃退した。

こうして保科家は藤澤から高遠へ移り、正直は徳川家康の義妹多却の君を室に迎えて飯野藩主となる正貞が生まれ、徳川との結びつきを強め江戸幕府のもとで大名となった。

藤沢城の土塁遺構と東の石垣跡 9藤沢城頂上に向かう山道 藤沢城内の石垣跡

藤沢城跡所在地:長野県伊那市高遠町藤澤御堂垣外

保科家ゆかりの高遠樹林寺

樹林寺本堂 保科正之公頌徳碑と母お静の供養塔

樹林寺の本堂と保科正之公頌徳碑・正之の生母お志津の供養塔
月蔵山(がつぞうざん)の北側、高遠城の鬼門(北東)に建ち、開山は高野山金剛頂院前住祐譽法院。
保科正之が出羽最上(でわもがみ。山形)藩として移封となるまで高遠城に暮らしたことから、平成2年6月10日に保科正之高遠城主就任360年を記念し会津松平家13代松平保定(もりさだ)氏の書で頌徳碑が建立された。正之の母、お志津(お静。浄光院)の供養塔が並んでいる。

■樹林寺と保科家
天正18年(1590)8月の家康の関東移封に伴い、高遠城主であった保科正直は、下総多古(しもうさたこ。千葉県香取郡多古町)に一万石を与えられて移封となった。
正直は隠居し、長男正光が保科家当主となる。

多胡で保科家の祈祷寺としていた樹林寺の本尊の夕顔観音は、昔、寺が火災で焼けてしまったが、村人が夢で見た夕顔の中に尊像が在るとお告げ通りに焼け跡の側の夕顔の中から立像がみつかったことから夕顔(ゆうがお)観音と呼び夕顔を刻み添えた伝承があった。
正直が樹林寺に祈っていた保科家の高遠再任が叶い、慶長6年(1601)正光は高遠へ転封が命じられた。

樹林寺も高遠へ移そうとしたが、多胡の村民に懇願されたために移設は取りやめ、代わりに樹林寺の観音堂の下の土を運ばせ、夕顔観音を写した立像を作らせて本尊にして、正光は高遠城の鬼門にあたる位置に同名の「樹林寺」を建立した。
正直は高遠に戻ったその年の9月29日に亡くなった。
樹林寺は、高遠に移ってから寺が出来あがるまでの間は高遠城二ノ丸の東の武具蔵の地に一時的に置かれたとも推測され、正直は熱く信仰していた夕顔観音に見守られての往生だったのかもしれない。

夕顔観音は境内の観音堂に安置され、慶長9年(1604)保科家が峯山寺より引いて建立したという護摩堂の本尊は不動明王。

 

■保科家以降の樹林寺
保科家の後の高遠藩主となった鳥居家、内藤家にも引き続き祈願寺として信仰され、内藤家の時代には京都東山総本山知積院の末寺となり、大日如来を本尊とした。
また伊那の壇林で、八十八々霊場の四十九番札所として信仰を集めた。
現在、千手十一面夕顔観世音菩薩立像は本堂に安置され、高遠町指定有形文化財となっている。

保科正之の生母お志津の供養塔 お志津の供養塔の刻銘

▲お志津の供養塔
寛永十二年 九月十七日
法紹日恵大姉淑霊
行年 五十二才 俗名 志津

お志津の方は天正12年(1584)小田原北条家の家臣神尾(かんのお)伊予栄加と杉田氏の母の間に生まれた。
天正18年(1590)に小田原城が落城すると栄加は浪人となり、お志津は秀忠の乳母大姥局(おおうばのつぼね)の奥女中として江戸城に上がった。
密かに2代将軍徳川秀忠の寵を受けて身ごもったのが幸松丸、後の保科正之である。

秀忠は正室のお江を大事にして表立って側室を持たずに過ごしていたので、お志津は秀忠が大奥の侍女に手をつてたことが公になることを恐れて身を隠した。
慶長16年(1611)5月7日、神田白銀町のお志津の姉の夫の竹村助兵衛次俊の家で、秀忠の知るところ無く江戸で幸松は生まれ、3歳になると老中土井利勝の保護のもと武田信玄の娘の見性院(けんしょういん)に預けられ、江戸城田安門内の田安比丘尼屋敷に住む。
元和3年(1617)7月、幕府の仲介で見性院が、元武田家臣で今は徳川家に誠意を尽くしている保科正光に7歳の幸松の養育を頼み、11月14日お志津と幸松は高遠へ向かった。
母子のため高遠城三ノ丸に新居を設えられ、大坂の陣で正光の異母弟正貞を助けた有能な家臣を守役にし、正光も在城の際には徳川将軍家の落胤として日に何度もご機嫌伺いをした。正光は生前にいずれは秀忠と幸松を対面させたいとも語ったという。

寛永12年(1635)9月17日、浄光尼(お志津)は52才で高遠城で息を引き取り、当時西高遠に在った妙法山長遠寺に葬られた。その翌年、正之は17万石の加増で出羽最上20万石を拝領し転封となる。
後に会津藩主となった正之はお志津の墓所を会津の浄光寺、更に身延山久遠寺(山梨県)へと移した。

樹林寺の総門 樹林寺から高遠城址を臨む

▲樹林寺の門前から高遠城址を撮影

真言宗智山派稲荷山真定院樹林寺(とうかざんしんじょういんじゅりんじ)
所在地:長野県伊那市高遠町東高遠2330

高遠の満光寺[1]保科左源太の墓

保科左源太と系譜略図

高野山成慶院『保科肥後守様御先祖御過去帳』に「法源院殿傅譽隆相大居士 信州高遠保科左源太御菩提也  施主同名肥後守様 寛永四丁卯十月三日但正月御命日
常燈御供養として「法源院殿傅譽隆相大禅定門 神義 同保科肥後守様御養子同銘左源太」と記されていることから左源太(さげんた)が保科正光(まさみつ。肥後守)の養子であったことは確かであろう。

満光寺鐘楼門と本堂 高遠最古の五輪塔保科左源太の墓

▲満光寺鐘楼門と保科正之(ほしなまさゆき)公の義兄弟左源太の墓
親縁山無量院満光寺(しんえんざんむりょういんまんこうじ)は天正元年(1573)笈往(きゅうおう)上人親阿芳公大和尚の開山で、昔は中町に在った。鳥居家が領した頃は浄土寺と改称し、享保17年(1732)12月十四世遺誉和尚が満光寺に戻したという。鐘楼門は牛久保流の大工菅沼定次の作とされ全て科(しな)の木を使用し善光寺になぞらえて建てられていることから「伊那善光寺」「信濃科寺(しなでら)」とも呼ばれた。

 

■保科家と左源太
武田家臣保科正直(まさなお)の嫡男正光は正室(真田安房守昌幸の娘。青陽院殿)との間に子が出来ず、側室も置かなかった。
※輿入れ時期は不明だが、天正10年(1582)の織田勢による武田攻めの際に救出され上田(長野県上田市)の真田昌幸の元へ身を寄せた理由が妻の実家と考えるとそれ以前で、正光は9歳から13年もの間武田勝頼(かつより)の子の信勝(のぶかつ。当時3歳)に仕えるために甲府に在って、言わば人質の状態から戦乱の波に呑まれた境遇のためとも考えられる
正直は、側室(光寿院。正重の母)の実家の小日向(おびなた。小比奈田)家に娘の一人(正光の妹)を嫁がせ、小日向源太左衛門との間に生まれた子、左源太を正光の養子に貰い受けた。つまり正光は甥を養子にとったことになる。

小日向源太左衛門は真田幸隆の長男(正光の妻の父真田昌幸/源五郎の兄)で天正3年(1575)5月の長篠の戦で戦死した真田源太左衛門信綱という説もあるが、確証は無い。
後世、内藤家時代の高遠藩の家老の葛上源五兵衛(くずかみげんごへえ)も満光寺を「真田左源太の菩提所廟所位牌…」と記しており、真田一族であったのは確かであろう。

天正10年の織田勢の侵攻で飯田城に居た保科正俊・正直親子は城の防備について武田家重臣と意見が対立し飯田を去り、高遠戦後に松本の小日向家へ、前述の通り正光も上田の真田昌幸の元へ身を寄せた。高遠の戦いでは正直の弟の善兵衛が討死している。
保科家臣赤羽俊房(あかばねとしふさ。甚六郎)が記した家伝、保科記と呼ばれる『赤羽記』に正光の母、武田家臣跡部越中守の娘も家臣と共に3月2日高遠城内で自刃し、満光寺住僧牛王和尚が遺骸を引き取り火葬しこの満光寺に埋葬したと記している。戒名は成就院殿願誉栢心妙大姉(後に北条家で害されたともされ、成慶院過去帳には「柏心妙貞禅定尼 天正十三年三月三日御命日…保科肥後守御慈母…」とある)

正直は実弟の内藤昌月を頼って上野箕輪城へ逃れ昌月と共に北条氏に帰属し高遠を奪還。
後に徳川方に転向し、家康から伊那半分の所領を与えられ、戦死した仁科信盛の後の高遠城主となった。
天正12年(1584)7月に家康の義妹多却姫を後室に迎え、天正16年(1588)5月21日高遠で正貞が生まれる。正貞は正光にとって腹違いの弟、左源太にとって年下の叔父にあたる。

天正18年(1590)家康の関東移封に従った保科家は下総多古(千葉県香取郡多古町)へ移封となり、正直は正光に家督を譲った。
※一方、真田家は徳川に歩み寄りつつ周囲の北条・佐竹・上杉氏を警戒しながら沼田等の領地を守る為の戦いを繰り広げていたが、家康に沼田領を北条氏に差し出すことを迫られた事から、昌幸は次男信繁を上杉景勝へ人質に送って上杉と手を結び、閏8月に北条・徳川の軍を上田で迎えうった。上田合戦の勝利を契機に豊臣政権に入り込み、豊臣秀吉の家臣となる。

文禄3年(1594)伝通院(家康生母)・家康・秀忠の前で、正光は7歳になった正貞を養子にするよう命じられた。既に養子の左源太が居るが、正貞は猶子の形で親子関係になる。
正貞は家康の外甥である血筋から、家康のそばで養育され、15歳で保科家嫡子が名乗る甚四郎に改名することとなる。

正光が再び高遠城主となって間もなく正直(正光と正貞の実父)が、その後正光の妻(真田昌幸の娘)が亡くなった。徳川家が積極的に後押しする中で、真田一族の血を引くことは肩身が狭かったであろう。
しかし後の行動で正光は左源太を気にかけ、正貞は行き場の無い正重母子を突き放しはしなかった

元和元年(1615)の大坂夏の陣では正光率いる保科軍の先鋒を正貞が務めたとする説の他に、正貞は不仲であった正光の軍には加わらずに本多忠朝(上総大多喜藩主。忠勝の子)に兵を借りて参戦したという逸話もある。

元和3年(1617)老中土井利勝の要請で、密かに匿われていた秀忠の落胤の幸松丸(こうまつまる。保科正之)が正光の養子として迎えられた。正貞は完全に廃嫡されたようだ。(幸松は「肥州(正光)には左源太という子がいるから行かぬ」と言い張り高遠入りを渋ったという逸話もある)
翌年、正貞の生母の多劫姫が亡くなる。

元和6年(1620)に正光は幸松に家督を譲る旨の書置で、正貞を厳しく絶交を言い渡す一方で、左源太には配慮を見せている。
遺言状の記された2年後に正貞は高遠を去り、正光の養子としては左源太と幸松が残った。

しかし寛永4年(1627)正月3日に正光よりも先に、左源太が息を引き取った。
病死とされるが、毒殺の噂も伝えられているようである。
左源太に関する資料は乏しく「丈ひくい小男であった」と伝えられている。

保科左源太の墓の南無阿弥陀仏 保科左源太の墓の刻銘

左源太の墓の五輪塔は在銘のものでは高遠で最も古いとされ、正面に「南無阿弥陀佛」
台石に「傅譽(伝誉)隆相」「寛永四」「丁卯・正月三日」と刻まれている。

満光寺所在地:長野県伊那市高遠町高遠975

本多忠朝[4]-大坂夏の陣天王寺の戦い

大阪夏の陣天王寺の戦い布陣図と比較地図

■大多喜出陣
慶長19年(1614)12月13日に本多忠朝の嫡男(本多政勝。内記)が生まれる。

元和元年(1615)大坂冬の陣の和睦直後大御所徳川家康は外堀のみ埋める約束を反故し内堀まで埋める等省みず、3月には遺恨を積もらせた豊臣家の再挙の報が駿府に届いた。
幕府より今まで1万石につき槍100本であった配備を、槍50本と鉄炮20挺とする通達があり、忠朝が3月23日付けで秋田実季らに写しを転送。

4月1日東軍諸将に将軍上洛の報を出し、近江国瀬田(滋賀県大津市)へ召集を命じる。
6日忠朝の大坂出陣が許される。忠朝は城下の明神社に参拝し、潔く大多喜を発った。
10日将軍秀忠が江戸を出発。忠朝らは東海道を進む。

 

◆余話◆忠朝と火縄銃
上記の幕府の通達からも察せられるよう、合戦で鉄炮が重視されるようになった。
忠朝は、豊後日出藩(ひじ。大分県速見郡日出町)藩主木下延俊(きのしたのぶとし。小早川秀秋の兄)と互いの江戸屋敷に出入りし合うほど親しかった。
そして延俊の国元から鉄炮が忠朝へと贈られたことがある。
※木下延俊は豊臣秀吉の正室寧々の甥で、初め秀吉の家臣であったが関ヶ原合戦で徳川方についた

 

◆余話◆保科正貞に兵を請われる
4月20日に土山(滋賀県甲賀市)に至り、その後瀬田の唐橋(草津とも)まで差し掛かると、編み笠を深く被った若党がひとり、従者2人を控えさせて大多喜勢の行軍のもとへ罷り出でた。
男は忠朝の前で笠を取り捨てて会釈し「我は保科甚四郎正貞。兄との不仲によりこのたびの役に満足に加勢できぬのが遺憾であり、忍んでここまで来ました。願わくば出雲殿の兵を借りて力を揮いたいのです」と打ち明けた。

正貞は信濃国(長野)高遠城主保科正直の三男で、母は徳川家康の異父妹の多劫姫である。
実兄の正光が保科家当主となるが嫡子がおらず小日向家(真田家御分とされる)から養子をとっていたものの、徳川天下において真田家の血筋は冷遇されがちであった。
そのためか、松平家の近親者である正貞を7歳の時に猶子(養子よりは弱い義理の親子関係)とした。
正貞は幼い頃から家康・秀忠に仕え戦時も保科勢でなく徳川本陣に従軍しており、若年の身では保科家の内でも曖昧な立場と、戦国乱世を生きてきた正光の家を護るための世渡りが肌に合わず、早くから兄弟(親子)間が不仲であっても不思議ではないが
時を同じくして、小笠原秀政(信濃松本藩主。正室登久姫は忠朝の兄忠政の正室の姉)の子忠脩(ただなが、ただのぶ。正室亀姫は忠政の娘)も松本城から無断で上洛し従軍を願っているように、国元の留守に耐えられず何としてでも参戦したかったのだろう。

今の忠朝には決戦を志願する念いが痛いほど分かる。
そして次男として生まれ幼くして徳川家康の側近くに仕え、一大名に立身してもなお、本多家では相続の件で宗家からの視線を感じながら常々次男の立場を弁えていた忠朝だからこそ、他家に頼るしかない正貞の思いを汲んだのだろうか。
忠朝は止むを得ずと、正貞に足軽10人に馬と武具を添えて貸し与えた。

※軍記物『難波戦記』『大坂軍記』等では勘当されての申し出とするが、大坂の陣の時点では正貞は高遠に居り、まだ正光は幸松(保科正之。徳川秀忠の隠し子として正光が保護し養子にとる)を預かってもいない。養子絡みの不和ならば左源太のことであろう。
兄の正光軍に属して先鋒を務めた説では、同一軍のため戦功が混同されており、ここでは省く

正貞と同じく、忠朝は浪人の疋田導師の参戦志願も叶えたという。(『九六騒動記』)

 

■大坂夏の陣開戦・河内口の戦い
22日に秀忠は京に至り、家康と密議の上、全軍は大和より迂回し河内道明寺(大阪府藤井寺)に集結し大坂城の南からの攻略を決めた。忠朝は河内口二番手右備となる。
24日河内口(大阪府八尾市)【河内口東軍総数約12万】の右先鋒藤堂高虎(伊勢津藩主)兵5千が淀を発つ。
25日には大和路【大和口東軍総数約3万4千】先鋒の伊達政宗(四番だが先行)兵約1万・二番本多忠政(忠朝の兄)約2千・三番松平忠明(ただあきら。伊勢亀山藩主。冬の陣後に大坂城の堀の埋立奉行を担当)約千らが発ち、河内口の松平忠直、酒井家次等諸将も相踵いで河内へ向かう。

28日に河内口右備え一番手榊原康勝2100と二番手忠朝1千の兵らは伏見より、左先鋒井伊直孝(近江彦根藩主)3200の兵は山城深草山(京都府京都市伏見)から共に河内に向かい、翌日奈良付近に舎営。
5月5日徳川父子が京を発ち、明日の道明寺進軍を所将に命じた。

6日河内口では、明け方に豊臣方の長曾我部盛親(ちょうそかべもりちか)5千・益田盛次300の兵が道明寺の北の八尾村(大阪府八尾市)に達し、徳川方先鋒藤堂勢の先行隊と交戦。
午前5時に豊臣方の木村重成(しげなり)6千の兵が若江村(八尾村の北)に達し、高野街道から迫る徳川方先鋒井伊勢の先行隊へ山口弘定・内藤長秋合わせて1千の兵を差し向け、南の八尾方面に長屋平太・佐久間正頼等右翼隊、北の暗峠越方面に叔父木村宗明300の左翼隊を分けた。
暗峠越の道上には、一番手右備の榊原隊・忠朝隊・小笠原秀政1600・仙石忠政1千・諏訪忠澄540・保科正光600・藤田重信300・丹羽長重200の兵らが徳川本隊からの指示通り控えている。

先鋒井伊隊が激闘の末に木村勢を打ち破るのを好機として榊原先行隊・丹羽隊らが徳川本隊の指示を待たずに宗明を攻撃し、豊臣方(若江八尾方面総数1万1300)を壊走させた。

◆道明寺口の戦いに兄忠政参戦◆
6日午前0時に豊臣方の後藤基次が2800の兵を率いて平野(大阪市平野区)から大和街道を進み道明寺に出るが、後続の真田信繁(のぶしげ。幸村)・毛利豊前守勝永(かつなが)ら1万数千の軍は遅れを取った。
午前4時に豊臣方の篝火を発見した奥田忠次60・板倉重政200の兵らは先鋒水野勝成600の兵を待たずに銃撃戦開始。小松山に駐屯していた徳川方諸隊が大軍で前・側面を攻め、正午まで耐えるも後藤軍は潰え、後続の豊臣勢の追撃にかかる。

河内口、道明寺口両方面の徳川方諸将が追撃し、午後には真田・毛利隊を撤退させた。

 

戦が終わると、徳川本陣の秀忠より明日の決戦はニ番手の忠朝を天王寺口先鋒とする指示が届き、忠朝は喜んで拝命する。
道明寺に甥の平八郎忠刻、甲斐守政朝、能登守忠義を呼び出し「このたびの、我が兄……そのほう達の父(忠政)の働きは立派であった。しかし我こそは抑えに回らず決死の先駆けを致そう」と告げ、芝堤の上で最後の盃を交わした。

忠朝はその夜、細川越中守忠興(ただおき)の陣所へ赴き、自分が討死した後の、まだ赤子の政勝の行く末を托した。
主の覚悟に共鳴した譜第の家臣加藤忠左衛門、大屋作左衛門、藤平治右衛門、臼杵七兵衛らも討死を誓う起請文に血判を押して差し、忠朝は彼らの本望をしかと汲み押戴く。

※軍記物では小笠原秀政(小笠原家は本多宗家と婚戚関係にある)が忠朝の陣営を訪れている。若江の戦で言いつけ通りに徳川本陣の指示を待ち、攻撃が遅れたことを戦後に叱咤された秀政が、同じように鴫野で家康の機嫌を損ねた忠朝と、明日の討死の覚悟を語り合った。

四天王寺南大門 四天王寺五重塔

▲現在の四天王寺南大門と五重塔
豊臣方の猛将毛利勝永本隊が布陣。天王寺口配備の西軍総数は1万2千・外4800人

■天王寺表の戦い
5月7日早天、二度と外さぬ覚悟で兜の結び緒の端を切りった忠朝が先鋒の諸将、浅野長重・秋田実季・松下重綱・真田信吉と真田信政兄弟(共に真田信繁の兄信之の子で信政は忠朝の甥にあたる)・植村泰勝・六郷政乗・須賀勝政らを率いて天王寺口の先手を進む。

忠朝は他隊よりやや前方、右に沼池、左に小丘のある地に布陣。
正午、天王寺南門前に布陣した豊臣方の毛利勝永の先行兵が先走り、物見に来ていた本多隊を銃撃し開戦となった。
豊臣方は、当初の徳川方を誘い入れる予定が狂い、茶臼山に布陣した真田信繁(幸村)が毛利隊へ中止を求めたが、もはや逸る先行隊を抑えることは出来なかった。

本多隊の隊長窪田伝十郎らは、左に布陣する越前少将(松平忠直)軍と共に鉄砲を撃ち掛け押し進んだ。

勝永は毛利勢を二手に分け、本多隊を左右から囲う。
有卦に入る毛利隊左翼が徳川方の真田隊を、毛利隊右翼が浅野・秋田・松下・植村・六郷・須賀隊を猛攻し、越前隊の右手にまで突入する。
先手を取った毛利勢78人が本多勢に押し寄せるも忠朝は勢いを削がれることなく百里(ひゃくり)と名付けた馬に乗り、勝永の本陣めがけ、真一文字に衝き入った。

合わせ備えの諸将が次々と敗走し、本多勢への攻撃は熾烈を極めた。
小野解勘由(かげゆ)ら決死の本多勢70余人を左右に、忠朝は大声で本多出雲守忠朝なるぞと名乗りを上げて槍が折れるまで敵を縦横無尽に突き伏せる。

20余りの傷を負った忠朝の前に、毛利の紺羽織を着た足軽が二間ばかりの所に詰め寄った。
至近距離から放たれた銃弾が、忠朝の臍の上を貫いた。

よろめいた忠朝は、関東勢が崩れていく無残な視界の中で、後方から突き進む熟練の武将小笠原秀政と子の忠脩、忠朝が兵を貸し与えた若武者保科正貞が傷つき血まみれになりながら槍を合わせ、勇猛果敢に先鋒隊を援ける姿が見えた。

馬上で倒れかけた忠朝は気合で堪え、馬を飛び降り、銃創から鮮血が滴るのも物とせず、自分を撃った足軽を薙ぎ倒し、折れた槍を捨て太刀で敵数人を斬り伏せる。
しかし集中砲火に曝され、敵を追って踏み入れた小溝で力尽き、累々の屍骸の間に倒れ伏せた。
大屋作左衛門は主の遺体の上に取り付いて、散々に斬られ、事切れても離さずにいた。
他家臣達も次々に主の傍で討死した。

忠朝の首級は秀頼の御家人雨森傳左衛門が取り、指物は中川彌次右衛門が捕ったと伝わっている。

家臣により百里に乗せて運ばれる忠朝の亡骸が、家康の馬の前を通った時、家康は涙を流して見送ったという。
家康は冬の陣では厳しくあたったが、忠朝を幼い頃から側近くに近侍させ、次男の身でありながら分家を許して城持ちの藩主とする好遇を与えた程だから、思い入れがないはずがない。

この戦いで忠朝軍は74の首級を挙げ、家臣の窪田伝十郎、大原物右衛門、柳田平兵衛、山本唯右衛門、小鹿主馬助の五人に感状が与えられた。

武将として最期まで戦い抜き34歳で大坂に散った忠朝は、大坂一心寺(大阪市天王寺区)に葬られ、後に上総良玄寺(千葉県大多喜町新丁)に分骨し両親と共に眠る。
戒名、三光院殿前雲州岸譽良玄大居士
天王寺村、阿部野村に忠朝の塚があったと伝える書もある。

天王寺からあべのハルカスを臨む 大阪夏の陣図屏風天王寺の戦い

▲時移ろい、忠朝の合わせ備えの諸将達が布陣した地には天王寺から大阪城を望むべく、あべのハルカス(写真奥の高層ビル)が聳えている。
大坂陣図屏風の天王寺周辺、右に忠朝。中央下が真田信繁(幸村)隊、左上が毛利勝永隊。

 

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
○本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

参考史料
・『富津市史
他、大坂役関連古地図・合戦図、記事中に明記の史料や忠朝[1]参考図書等に同じ
大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)画像は一心寺南会所案内パネルより