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歴史人物の略歴や大河ドラマの話題

佐久間象山年譜

佐久間象山の写真

佐久間修理(象山)
幼名は国忠。初め啓之助。名は(ひらき、衡樹)または大星(たいせい)、通称は修理(しゅり)、字は子明(初め子通)雅号「しょうざん」は郷里では「ぞうざん」とも呼ばれる。

信濃国松代城下で生まれる
文化8年(1811)2月28日(11日とも)に信濃国埴科郡松代町字浦町(裏町。現長野県長野市)で佐久間国善(一学。号は神渓)の子として生まれる。母は同郡寺尾村の荒井某女。姉三人のうち同母はけい、前妻の子2人は夭折。
文化10年(1813)3歳で六十四卦の名を韻じ、禁葷酒の碑を見て禁字を覚えたともされる。
文化13年(1816)6歳から修学。
文政2年(1819)天然石の硯を拾って帰り、一学は将来息子の名が轟く兆しとみたという。
文政7年(1824)松代藩前藩主真田幸専(ゆきたか)五十誕辰の賀詩を前年の冬から作り国忠と署名。
文政8年(1825)2月26日15歳で嫡子と認められ、4月15日に松代藩主真田信濃守幸貫に謁見する。
文政9年(1826)藩老鎌原桐山(かんばらとうざん)の門に入り経義文章を、町田源左衛門に和算を学ぶ。
文政11年(1828)10月13日父が隠居し18歳で家督を継ぐ。11月25日に木村縫殿右衛門組へ御番入。
天保元年(1830)僧活文より支那音を学ぶ。
天保2年(1831)3月22日に若様(幸貫の子幸良)御近習役となるが、老父孝養と学業専念のため5月13日に退職。翌年8月20日に父神渓が病没。享年77。松代蓮乗寺に葬る。

 

23歳で江戸へ遊学、29歳で神田お玉ヶ池に開塾
天保4年(1833)11月下旬、藩に学費を支給され江戸へ遊学し、林家の門に入り学頭の佐藤一斎に朱子学を学ぶ。
天保5年(1834)秋から仁木三岳に琴を学ぶ。
天保7年(1836)2月に帰藩し御城附月並講釈助となる。春より象山の号を使う。翌年9月に再遊学を願出る。
天保8年(1837)学政意見書を矢澤将監に出す。
天保9年(1838)4月に藩の内用で越後へ行き5月に松代へ帰る。11月11日に「修理」への改名願いが通る。

天保10年(1839)2月12日に再び江戸遊学。上田を経て19日に江戸に入る。
6月1日神田御玉ヶ池の地を選んで住む。「象山書院」または五柳があったため「五柳精舎」塾を開いて生徒を集めて儒学を教授した。
天保11年(1840)望岳賦を作る。
天保12年(1841)9月2日松代藩の江戸藩邸学問所頭取となる。

天保13年(1842)9月7日砲術師範江川太郎左衛門(英龍・担庵)に入門して西洋砲術を学ぶ。
おしりもイギリス・清間で勃発したアヘン戦争(1840~42)に衝撃を受け、秋に藩主幸貫より海外事情の調査を命じられ、10月に海防八策をたて12月24日にも海防策を幸貫に上書する。
この年妾・菊(浅草蔵前札差和泉屋九兵衛の娘、16歳)を娶る。

天保14年(1843)正月18日に江川の国元の韮山へ赴き2月6日江川から免許を受ける。
藩主幸貫の内命で伊豆沿岸を視察し2月29日に江戸へ帰る。
4月11日に母の急病で松代に向かい13日着。癒えて5月9日に出発し上田を経て12日に玉ヶ池に帰宅。
象山の帰郷中に菊が宿元へ退去。
10月7日、33歳で郡中横目付役となり12月に旧禄100石に復す。
12月2日に風邪を押して帰郷し7日に松代に着く。蘭学で藩利を興す義に同意を得て12日に松代を発ち26日に江戸着。冬に測量機の製造を試みる。

弘化元年(1844)6月21日から蘭学者黒川良庵を同居させ蘭学研究を開始。
10月初旬に松代へ帰り16日に郡中横目付として松代領の沓野村を視察し晦日に松代へ戻る。
11月13日に佐野・湯田中・沓野の三村利用掛となる。
下旬に出発し12月3日に江戸に帰り9日から再び良庵に和蘭文典を学ぶ。
弘化2年(1845)2月中旬に良庵の授業を卒業。
5月20日に妾の蝶(芝久保町田中安兵衛の娘、16歳)が菖蒲(あやめ)を出産するが11月31日に夭折。菖蒲の遺骸を松代蓮乗寺に葬る。

 

36歳、松代御使者屋に住み三村利用掛として治める
弘化3年(1846)閏5月に松代へ帰り、一度暇を出した妾の菊を再び抱え入れて随伴させた。
浦町の家が老朽につき藩用地の御使者屋(使者の宿泊施設)を借り入れる。
6月に藩での五十斤砲の鋳造を象山は不可とし小砲の利を説いた。
7月23日に内用で出かけ26日まで別所温泉で遊び更級郡を経て翌日帰宅。中旬に妾(近藤氏)が長男恭太郎を出産。18日から29日まで沓野村出張。

弘化4年(1847)4月に地震の山崩れで閉塞した犀川(さいがわ)の氾濫を予想し米穀避難警告を主張。象山の判断がよく適中することを賞される。
8月中旬に下手三ヶ村に出張し佐野村笠嶽麓を巡視後にロイマチス病に罹る。
9月5日に恭太郎が夭折し蓮乗寺に葬る。
12月25日御役御免。この年初めて顔魯公の筆跡を学ぶ。

嘉永元年(1848)正月、昨年からの藩命により十二拇人砲・三斤野戦地砲・十二拇天砲の洋式大砲3門を鋳造。松代西郊道島で試す。
3月沓野村の藩地に薬用人参を植える。6月に沓野に出張し7月7日に帰る。8月10日に沓野の民の訴訟があり沓野に向かい鎮める。9月18日から23日まで再び出張。
11月11日に妾の菊が次男の格二郎を出産。
この年から師弟に大砲打方の教授を始める。また国産甘草の相場下落を案じて私財を投じて八田家名義で大阪に搬出し成功する。

嘉永2年(1849)2月、藩主幸貫に藩費でハルマ辞書を出版することを上書する(後7月に出版資金千二百両の貸予を得る)
3月下旬に薬用人参生育指導のため沓野村出張。
5月26日に松代南郊海善寺馬場で三斤野戦銃の射撃を試みる。
6月21日から24日まで沓野村出張後に鮮草山に試堀中の各坑を巡見し7月2日に沓野村、4日に松代へ帰る。8月9日に藩より事業停止を命じられる。
10月上旬に江戸に出て深川小松町(永代1)の松代藩下屋敷で各種本を編纂。自著の増訂和蘭語彙の第一巻を幕府天文方に差出す。
肥前侯から種痘を得て12月に松代へ持ち帰り息子格二郎に試みる。領内に施す意見は認められなかった。

 

40歳、松代藩江戸深川藩邸で西洋砲術指南
嘉永3年(1850)2月に松代城南花水沢で天砲を砲演。
4月に増訂荷蘭語彙の出版許可が幕府から得られず江戸を去り鎌倉で遊び関東の各砲台を視察し、その不足を12日に意見陳述書を幕府に上ろうとするが藩主幸貫の面目をたてて止める。
6月に江戸での松代藩砲術一覧に門弟を率いて参列。その後格二郎が病を患い帰藩。
7月1日に出立し5日に江戸深川藩邸に着く。寄宿する塾生達の砲術の質問を多く受ける
このころ、勝麟太郎(義邦、海舟。後に安房守・大番)も入門している。
会津藩の山本覚馬門人として名が見られる。

8月3日に浦賀勤番砲術師範下曽根信敦(金三郎。後に信之、甲斐守)の頼みで彼の門下に熕砲使用法を伝授する為に浦賀へ向かい、17日に帰る。浦賀で象山は日本初の大砲照準螺を作っている。
10月中旬に中津侯のために十二ポンド野戦砲図を制作。
冬に松前藩から十八ポンド長カノン砲の鋳造依頼を受ける。
11月に妾の蝶が三男の惇三郎(淳三郎)を出産。
12月18日松代へ帰藩。

 

41歳、松代で演砲後に江戸木挽町で開塾
嘉永4年(1851)2月17・18日両日に門弟と共に生萱村で五十斤石衝天砲(二十九ドイムモルチール)の試射を行う。26日に再演するが幕府直轄地に墜落して中之條代官と紛議が生じ以降砲演の際は届け出をすることを取決める。
3月22日にも生萱村で砲演。
4月上旬から江戸深川藩邸へ。

5月28日にから江戸木挽町に住み、和漢兵学砲術指南塾を開く。長岡藩士小林虎三郎等が入門。
二十坪程の規模で、入門者は百二十人に達し、常時三十~四十人が学んでいたといい、象山が撰する礮学図編を始め、兵書・医書を多く翻訳・開板した。
7月29日に長州藩の吉田寅治郎(松陰)が入門。

9月に浦賀に遊ぶ。11月上旬に上総(千葉県)姉ヶ崎で中津藩依頼の新鋳の大砲を試発するが砲身の故障で改鋳を要することになった。この故障によって中津藩からのお咎めはなかったが、松前藩からの依頼は破談となった。
12月に門弟金子忠兵衛を破門する。

 

嘉永5年(1852)閏2月に佐賀侯の依頼で十二ポンド新式野戦砲架・海岸砲架雛形各一座を制作。
5月28日と6月1日に藩の二十拇天砲同人砲を借用し大森海岸で演砲。
6月3日に江戸にて藩主真田幸貫公が62歳で卒去。
14日には象山の三男惇三郎が夭折。蓮乗寺に葬る。
29日故幸貫公を松代長園寺に帰葬。象山が墓誌銘を撰書する。
9月に妾の菊を解雇する。10月に『礮掛』を箸す。
12月に門弟勝麟太郎の妹順子(瑞枝)を正妻に迎える。
この年、長岡藩士の河井継之助や出石藩士の加藤土代士(弘之)が象山の塾に入門。

 

ペリー来航に際し43歳で軍議役となる
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀に米国艦4隻来航。明朝に藩命により浦賀に赴いて米艦の動静を視察し6日帰る。9日に藩の軍議役を命じられ武装と警衛を整えるため奔走する。
10日に藩主が象山の議を容れて江戸御殿山の警備にあたることを幕府に請い、命を待つ。
12日に米艦が退去し、18日には藩の家老らが象山を軽率であると藩主達に訴え24日に軍議役を解かれる。
夏に薩摩藩が象山に八十斤ボンカノン鋳造を謀り、図を作り跋を附け贈る。
9月24日深夜に一場茂右衛門と共に桑名侯(前藩主幸貫の兄)邸に赴き藩政を訴える。
10月に品川台場が海岸砲台式でないことを藩主から幕府に伺書を出す案を言上するが採用されなかった。
11月5日に学校督学となる。13日に臨時の軍議役を命じられる。
12月1日付で象山の塾に坂本龍馬が入門。

 

44歳、吉田松陰の密航を援けたため松代に蟄居
安政元年(1854)2月7日に松代藩横浜警衛のため出兵、象山も軍議役として出張する。
2月21日に幕府の下田開港の議を聞いて、目付堀利忠・福井藩士中根靱負及水戸藩士藤田誠之進を歴訪して象山は下田でなく横浜開港が可であることを論じた。
25日松代藩が象山を呼び寄せて大砲鋳造掛を命じる。
3月14日横浜警衛総勢を引き揚げ。
春に長州侯の依頼で十五拇ランゲホウウイッツルを深川で鋳造。

4月6日ペリー来航に際し門人の吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座したため幕府は象山を投獄。塾も閉鎖される。
9月18日に町奉行から引渡され江戸退去を通告。25日に松代に家族一同護送され10月3日に到着。
11月4日に松代で地震があるが象山は姉北山宅に居て無事。5日に松代御安(ごあん)町の聚遠楼(藩老望月主水の別荘)に移る。この町名の音を拝借して呉湾・呉安の名を使う。

 

安政2年(1855)9月6日に幕府は阿部伊勢守の書にて藩主幸教へ、象山の蟄居中の面接書信を禁じさせる。藩医立田楽水(操)が更に戒慎すべきを忠告する。
10月2日江戸の地震(安政の大地震)で藤田東湖が圧死した嘆きを詩にする。

安政3年(1856)3月22日に勝が航海中九死に一生を得たりとの報を受けて謹慎例を破り長簡を送る。
7月10日にも書で勝の海外(ジャワ)遊学の意志を賛して勧説する。
この月幕府は麾下士及諸藩に令して長崎蘭人所伝の銃陣を練習させるが、十一段込方を用いた象山の門人達は、長崎伝来の八段込方の作法に異議を唱え、象山に書を寄せる。象山は八段込方は陸軍式ではないと返書した。
この年、牛痘種法の理を書く。

安政4年(1857)正月17日、蟄居中であったが象山は門弟達に武備精励を奨め、火技を遊戯視することを戒めている。2月には速射銃を考案して迅発撃銃説を作り、又軍容・節度・軍裝の三事を論じ、あわせて時務の要目十九条を記して同志に示した。
7月22日に松代藩士三村晴山(養実)に書を出し、江戸・大坂に築造された砲台の実効が無いことを論じた。
12月3日に在府の松代藩士山寺源太夫(信竜)の外交質疑十七箇条に答えた後、時事意見を交換する。

安政5年(1858)1月26日幕府の対外処置が軟弱なことを憂いて藩主真田信濃守幸教に建言するが謹慎中として聴き入れられず、象山は密かにに書を処士梁川新十郎(孟緯)に寄せて国事に斡旋することを求めた。2月24日に梁川が返書で京都の情勢を報じた。
3月に山寺源太夫に書を寄せ、前に来航した米国艦隊司令長官ペリーの日本紀行と披見と早急な翻訳を繰り返し求めた。
4月に勘定奉行川路聖謨に頼り、外交措置に関する意見書を幕府に上る。更に書を藩家老望月主水に致して時事に関する所見を陳述した。
5月14日書を勝麟太郎に寄せて外交措置に関する意見を求め、日本人の海外視察の必要性を述べた。
7月19日時事に関する意見を処士梁川新十郎に告げ、京都の近情を問う。
この月、象山は地震計、人造磁玦を翌月に電池を造る。

万延元年(1860)正月に象山起稿の大砲改鑄・同鑄立・火薬製造等に関する意見書を武具奉行より藩主幸教に呈す。
9月21日に高杉晋作が、昨年4月25日に吉田松陰が長門の獄中で記した門弟高杉を紹介する書を携えて松代を訪ねて翌日夜に象山と朝方まで会談する。

文久元年(1861)8月7日に母が87歳で没する。葬儀を蓮乗寺で行い西條村般若寺に葬る。

文久2年(1862)10月に藩主から上書草稿内覧を命じられ藩政に関する一書を併せて提出する。
12月25日に藩主幸教の諮問に対し宇内の形勢を論じて、公武一致・開國進取の國是確立の急務を陳述する。
下旬に長州藩の山形半蔵(宍戸たまき)と久坂玄瑞(くさかげんずい)、土佐藩の衣斐小平原四郎が松代を訪れ、容堂公の書を携え象山赦免を運動し土佐藩に招く承諾を求めた。また長州の小倉健作も象山を訪ねている。
12月29日幽閉を免じられる。

文久3年(1863)正月2日に藩主幸教に謁見し藩政改革に関する意見を述べ、翌日城中で藩老等に対してその無能をなじり、5日にも登城して兵制改革を論じた。
2月12日に馬で沓野村に駆け地獄谷に遊び翌日帰り、また佐野村で遊び寒沢の山林で大筒台木を見分して藩へ献納することもあった。秋には西洋馭馬術を練習する。
10月10日に順子夫人を帰省させ15日に赤坂に着く。

 

54歳、上洛し暗殺される
元治元年(1864)3月7日、松代藩は幕府の命で象山の逼塞を免じて、上京を命じた。
17日夕方に出発。竹村金吾の斡旋で栗毛の馬を一頭購入し、馬具は洋装を用いた。
木曽路より大垣を経由し小原鉄心に無沙汰を詫びて、29日入京、六角通東洞院西入越前屋に宿。

4月3日、幕府は象山に海陸備向掛手付雇を命じて扶持方二十人手当金拾五両を給した。
10日に常陸太守晃親王(山階宮)が象山を召して天文・地理・兵法を問い、其洋式馭馬を覧る。
12日に禁裏守衛総督一橋慶喜に謁して、時務の諮問に対し政策を申上する。この日に論じ足りなかった点を14日に上書して補足する。この日、堤町の鴨川東岸丸田町橋向うに転居。
22日に再び慶喜に謁見。
23日に山階宮に謁見して世界地図を供覧し、開港に関する意見を上陳する。
26日に象山の元へ福井藩士中根靱負が来訪して時務を談じ、翌日にまた同藩士村田巳三郎(氏寿)と共に訪れて対外問題を論じた。

5月1日に二条城で将軍徳川家茂に謁見。3日に弾正尹朝彦親王(中川宮)に召されて時務を諮られる。
16日に木屋町三条に転居。間数が多く鴨川を臨む二階建で展望が良く特に雨に煙る景色を気に入り「煙雨楼」と命名する。ここが象山の最期の家となる。

6月10日に山階宮に謁見し、時事意見を言上する。11日に会津藩士広沢安任(やすとう)を訪ね、午後に大目付永井尚志(なおゆき)を訪ねる。14日に馬で鞍馬山口に至り、出石衛士杉原三郎兵絵と会う。15日に小林が来訪。
17日に山本覚馬を訪ねる。18日に山階宮に参殿。21日に中川宮に参殿。
27日に不穏な長州藩兵の動向を探る折に小林が来て松代藩主幸教の大津止宿を聞く。直ちに馬で駆けつけ幸教に入京の危険を説くが聞き入られず彦根藩士に談じても埒が明かず、空しく翌朝帰る。藩主入京。
29日に仙台藩医羽生致矯が来訪し談義が主上遷座の事に及ぶ。

7月1日に関白二条斉敬に謁見して時事意見を言上する。夕方に小林が来訪、帰途は従者に送らせる。2日に山本覚馬が来て一橋殿に急事を告げ、馬で参じるが留守、無事であった。
4日に仏光寺で藩主幸教に謁見。
6日に再び関白殿下へ参上。7日に羽生、9日に広沢が再来。

11日、山階宮に参殿の帰途の夕刻、京都三条木屋町で尊王攘夷派浪士に国是を誤り且鳳輩遷幸を図るものとして斬り殺され、54歳の生涯を閉じた。
刺客の浪士は松浦虎太郎(または因州の前田伊右衛門)と肥後の河上玄齋とされる。

13日に京都花園妙心寺内大法院に葬る。法号清光院仁啓守心居士。

明治22年2月11日に正四位を贈られる。
昭和6年5月16日に象山神社創立の許可を受ける。

※肖像は象山塾跡地の江東区教育委員会の案内板より。国立国会図書館所蔵

参考図書
・『佐久間象山日記』
・京都府編『先賢遺芳
・勤皇志士叢書『佐久間象山集
・信濃教育会『象山全集
・山路愛山『佐久間象山』
他、東京都中央区・江東区教育委員会による案内板等

大御所時代の大奥-林忠英は「侫人」か

江戸幕府第11代将軍徳川家斉(いえなり)の死の直後から水野忠邦が行った天保の改革で失脚した林肥後守忠英(ただふさ。林若年寄)水野美濃守忠篤(ただあつ。御側御用取次)美濃部筑前守茂育(みのべもちなる。小納戸頭取)は、家斉の権威のおかげで地位を保った3人として、俗に西丸派の「三侫人」と言われ
忠邦を善玉として創作された『眠狂四郎』等、時代劇や小説で悪役のイメージがついています。
※侫人は口先がうまいおべっか使いのこと

林肥後守の経歴は貝淵陣屋と林忠英に書きましたが、家斉の身の回りの世話をする西丸の小姓から出世し、呉服橋門内に屋敷を賜り、大御所(隠居後の家斉)夫妻が西丸に移ってからも地位を保ちました。

その後の改革で厳しく取り締まられた町人たちは華やかだった大御所時代(徳川家斉の権威時代)を懐かしむ程でしたから、本丸派(本丸に居る第12代将軍家慶サイド)で厳しい倹約指導者の忠邦からみれば、浪費の多かった大御所時代を象徴する西丸派は綱紀粛正の対称であったことでしょう。
さすがに大奥には手が出せませんが、家斉あってこその側近達を一斉に失脚させたため、町人達の間で多くの風刺や噂が流布したのです。

林肥後守・水野美濃守の免職を洒落にした落首の例
御停止が明いて太鼓にばちあたり林どころか居る處もなし
ほとゝぎす此頃不得手飛びはやし八千石は鳴いてかへらぬ
林方太鼓もばちも打ちすてゝ 人にはやされ肥後なめに逢ふ
※林・肥後(守)・家紋の三つ巴に見立てた太鼓や、林と囃子(はやし)をかけている

 

将軍家斉の寵妾お美代の方(専行院)と、感応寺事件
まだ家斉が将軍職にあった天保4年(1833)12月17日、かつての日蓮宗の名刹であり天台宗に改宗している谷中の長耀山感応寺の日蓮宗帰宗のための経緯で、谷中感応寺は護国山天王寺と改称し、雑司谷の鼠山(現東京都豊島区目白)に感応寺を新たに造る許可が下りました。
天保7年(1836)12月28日に本堂が完成したとされます。
しかし天保12年(1841)正月晦日に家斉が薨去、その年の10月5日に幕府は感応寺を廃棄し、新しい大寺院がたった5年で更地に戻ってしまったのです。
また同じ時期に主玄院日啓・智泉院日尚ら僧徒が処罰されました。

東京市(東京都が設置される前の東京府の市。現在の23区相当)編纂史料に記載されている範囲ではここまでで、感応寺廃却に関する経緯は幕府の記録にはありませんが、随筆(当時を語るエッセイ)にまで目を向けると、大坂に住むとされる著者が当時の世相や伝聞を記録した『浮世の有様』の天保12年に「感應寺不如法奥女中を犯し、美濃守・肥後守・筑前守など心を合わせ、及ばざる工み事有りしを、御老中脇坂侯に見顯はされし故、比の者共申合せ、醫者両人に申付け、殿中に於て之を毒殺せしなど種々の取沙汰なり、如何なる事かは知らね共、皆々御咎にて知行を減ぜられ、奥中中大勢仕くじり、感應寺は申すに及ばず、醫者両人も入牢せしといふ事なり」と記されています。

この感応寺の事件は、明治時代の江戸文化論者・三田村鳶魚も引用している大谷木醇堂の思い出話『燈前一睡夢』に描かれ「文恭公升遐の後、林・水野・美野部が謫せられしも、荘内・川越・長岡等が領知替の事も、みなこれより起こりし事なりと聞く」と、文恭公(家斉)薨去後の西丸派の失脚の起因として噂されていたようです。

『燈前一睡夢』は水野忠邦を英傑と賞し、対立する者は賊臣とはっきり書かれているのでかなり著者の偏見が含まれていそうですが、当時から忠邦の改革により同時期に消されたすべてを繋げて想像した噂自体は有ったのでしょう。三田村鳶魚の『江戸の女』(伝聞が主で事実と明らかに異なる部分が見られますが…)での解釈も交えて事件を要約しますと──

お美代の方の実父日啓は、長男の日量(お美代の兄)が継ぐ智泉院(中山法華経寺の子院。日蓮宗)を、東叡山寛永寺(天台宗)のような将軍家の御祈祷所にしようという大それた野望を持っていました。
しかし子院レベルの寺では許されず、それならばと由緒はあるが今は天台宗に改宗している谷中感応寺を日蓮宗に戻させる計画を立てました。

その頃大奥では、家斉の数多い側室の一人おいとの方の子、千三郎(仙三郎)の眼病を中延法蓮寺の日詮(にっせん)が祈祷で治したことで日蓮宗の祈祷の人気が高まっていたので、将軍家の御祈祷所が出来ることを喜びました。
家斉の奥方達の要望を家斉の寵臣が無下に出来るはずはありません。
お美代の方の口添えと寵臣の林・水野・美野部の庇護もあって、計画が運びます。

東叡山の輪王寺宮舜仁法親王(りんのうじのみやしゅんにん。皇族の子息である住職)の計らいで計画は止められましたが、谷中感応寺は天王寺へと改称し、新しい感応寺を造ることとなりました。
天保5年5月に雑司ヶ谷鼠山の安藤対馬守下屋敷の広大な敷地(二万八千百九十三坪)を下付され、地鎮を中山智泉院が承りました。建設地の整地・地固めは、なんと大奥の女中達がやってきて華々しく行ったので、驚いた町人達はこぞって見物に来ました。

天保7年12月に完成した豪華で大奥の女中達も信仰する大寺院に、美男子な僧侶ばかりが揃えられたなどと多くの噂が流れます。
鼠山はかつてなく賑わいましたが、ある時、感応寺に運ばれた長持に生人形が入っていたのが見つかりました…つまり大奥の女性が長持に隠れて運ばれ僧と密通していたことが明るみに出てしまったのです。
以後は長持の重量を確かめるようになり、大奥女中の頭目が監視不届きで御暇処分となりました。
長持を見破って風紀を注意した寺社奉行脇坂大人が突然死したため(脇坂が死んだのは天保12年2月で家斉が亡くなってすぐです)毒殺されたのではと噂が立ちました。

水野忠邦の改革で智泉院と感応寺は摘発され、日啓と長男は「密通女犯」の罪を告発されて遠流が決まりましたが、実行前に獄死しました。
感応寺は取り潰され、大御所の寵臣であった林・水野・美野部は失脚し、お美代の方は押込処分となりました。
忠邦が、大奥を中心とした権力と乱れたの風紀をまとめて粛正したのです。

※実際には揉消しか虚構か、鼠山感応寺の顛末について幕府公式記録には記載されておらず、智泉院と感応寺の関係も不明です

 

──更に、家斉とお美代の間にできた娘、溶姫と加賀藩主前田斉泰の間に生まれた犬千代(前田慶寧)を次期将軍に据える西丸派の計画が本丸派に寝返った者の暴露で明るみになった、などと噂は尽きません。
いずれも林肥後守達は感応寺建立を容認したと思われるのみで、お美代と西丸派のイメージの土台は当時の噂を記した随筆を更に三田村鳶魚が大衆に広めた結果が大きいでしょう。

* * *

昭和16発行小山松吉の『名判官物語』はこれらのことを分けて扱っています。

■智泉院の事件
水野忠邦は、智泉院日尚(24歳)・守玄院日啓(71歳)を、祈祷で人民を惑わせ、婦女を姦し、大奥に通じ、奢侈に耽り僧侶としてあるまじき行為の疑いで、寺社奉行阿部正弘(23歳)に内偵による「風聞書」を制作させ、両僧を逮捕し取り調べさせます。
自白により日啓に関係する本丸西丸の奥女中達は30余名にのぼり、このまま取調べが進めば大奥のどこに及ぶか計り知れず、この関係者には一切取調べをせず民間関係者のみを取り調べました。
尼妙榮が密通のため押込50日・下女ますが押込30日の処分を下しましたが、日尚・日啓が彼女達の密通を知らなかったことが不埒として逼塞30日を言い渡しました。(日尚に対して三日間晒しの上、谷中妙法寺へ引渡す間寺法通り取調べるべしとあります)

■お美代と感応寺の事件
雑司谷感応寺という小寺の住職の娘は中野播磨守の養女となって大奥に出仕し、将軍の寵愛を受けたため、養父や感応寺は取立てられました。
感応寺は雑司谷に新たに七堂伽藍を建立し幕府の御祈祷所として御朱印を賜ったため参詣人が増え隆盛を極めました。
住職と僧侶達が奥女中と繋がりを持っていると察した老中脇坂安菫は、長持に潜んで寺に運ばれた女中を発見し注意しますが、他の老中達は大御所が健在だったため大奥に対して遠慮し検挙は憚られました。
大御所が薨去すると忠邦が大奥関係も粛正し感応寺を取調べさせ、お美代の方は表向きは押込処分となりましたが実際は優遇されたといいます。

■忠邦の対立者の処分
次に前将軍の勢いで権威をほしいままにし愛憎によって政治を行ったため粛清を受けた三人の股肱として、忠邦が信任していた鳥居忠輝・渋川六蔵・後藤三右衛門を挙げています。
林・水野・美野部の3人については、忠邦の改革に反対するであろう家斎時代の寵臣の免職としてだけの記載です。
また寺社と賄賂については、別の事件として牛込横寺町聖天別当南蔵院の賄賂の罪に水野美濃守が関与との噂が示されています。

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賄賂は当時頻繁に行われていた(善玉に描かれる水野忠邦にすら賄賂疑惑がある)ようなので、失脚の理由として想像されやすかったことでしょう。

主に祖父・父からの伝聞を小冥野夫が明治7年に記した『しづのおだまき』に三名の免職に対し「おのれの私多くて賄賂専ら行はれし故に此輩を免職なし給ふ」とあり、続くあらましで忠英については簡単な経歴に「退隠後文恭大君の御墓参拝をも許されたり」と締め括っているだけで、驕奢や賄賂について書かれているのは著者と多少ゆかりがあるため話に聞いていたという水野美濃守とお美代の方の養父の中野碩翁(隠居前は小納戸頭取)です。美濃部筑前守は「実に無見識の人なり」と書かれています。

天保14年(1843年)に一勇斎国芳(歌川国芳)が描いた錦絵『源頼光公館土蜘作妖怪図』は、江戸の古本屋須藤(藤岡屋)由蔵の日記『藤岡屋日記』等によれば
平安時代の源頼光の土蜘蛛退治を、当時の将軍徳川家慶と大名達や天保の改革に当てはめ風刺した判じ物ではないかと評判になりました。

・早稲田大学図書館古典籍総合データベース「源頼光公館土蜘作妖怪図」
http://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/b10_8285/

天保の改革の一環で政治を誹謗した戯作者やその販売者が罰せらている(特に水野忠邦派の批判ができない)状況下のため、風刺と分からないように描かれていて明確な答えが無く、当時から様々な解釈がされていています。
文化史家の石井研堂が大正15年に記した『天保改革鬼譚』で土蜘作妖怪図に着目し、モチーフの解釈の一つにされる林肥後守・水野美濃守、美濃部筑前守について「当時三侫人の称あった…」と書いています。

ここでようやく「三侫人」の言葉に行きつきました。
錦絵に三侫人の落書があったようなので、当時の町人か、後の時代の所有者が推理した落書でしょうか。三侫人の呼び名はごく最近ついたものではなさそうです。

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当時は賄賂や弁舌の巧みさで、代々決められた身分と土地から出て新しい地位を得ることは、完全に悪とも言いきれないでしょう。
そして私が現在自宅で調べられる範囲では、侫人・林肥後守のイメージも、今の時代劇で描かれるような心から憎まれての揶揄でなく憶測で生まれた噂からつくられたものでした。まだ掘り起こしていく必要がありそうです。
今後また林肥後守の関連資料を見つけたら記事にしますね。

参考図書
・石井研堂『天保改革鬼譚
・小冥野夫『しづのおだまき』
・国史研究会編『浮世の有様』
・三田村鳶魚『江戸の女』
・大谷木醇堂『燈前一睡夢(鼠璞十種 )』
・東京市『東京市史稿 遊園篇』
・小山松吉『名判官物語

山本覚馬と後妻小田時栄

大河ドラマが京都での山本家の騒動にさしかかり、過去の覚書「川崎尚之助と山本一家・八重との関係」にアクセスが集中しているのが申し訳ないので、覚馬の後妻・時栄の周辺について追記します。

※「八重の桜」のネタバレにもなりますのでご注意下さい

 

 

■山本時栄(ときえ。時榮・時枝・時恵・時惠とも)
嘉永6年(1853)5月7日 に京都御所近くに住む丹波の郷士、小田勝太郎(隼人)の四女として時栄が生まれる。

文久2年(1862)12月24日会津藩主の松平容保が京都守護職に任命され上洛、元治元年(1864)2月に37歳の山本覚馬も上洛。大砲奉行林権助のもと御所の警固にあたり、また6月頃に洋学所を開いて教鞭をとった。
その年の7月19日の禁門の変での戦闘が原因か覚馬の視力が急激に衰えて清浄華院で療養、翌年から鉄砲の買付に赴いた長崎でオランダ医師A.F.ボードウィンに失明を宣告される。
慶応2年(1866)頃、御所に出入りをしていた父小田勝太郎を通じて13歳ほどの時栄が目の不自由な覚馬(39歳)の世話を始めた

 

土佐藩の建白を受けた徳川慶喜が慶応3年(1867)10月14日政権返上を明治天皇に上奏、15日に大政奉還勅許。
12月9日王政復古の詔勅により幕府の機関が廃止され、京都守護を任されていた会津・桑名藩兵に代わって薩摩・安芸・越前・尾張藩兵が宮門の警備についた。11日に長州軍が入京し、旧幕臣の多くは不満を抱えたまま大坂城へ退き、慶応4年(1868)正月朔日、林権助率いる会津藩士はじめ徳川慶喜を支持する諸藩が出兵。
伏見方面も戦場となり、京に残っていた覚馬は蹴上で正月3日に薩摩軍に捕らわれた。
※『薩摩藩兵具方一番戦状』では正月十八日頃大坂で生捕りされた報告中に「山元角馬」の名がある

覚馬は御所の北にある薩摩藩二本松邸(現・同志社大学今出川キャンパス)の稽古場を獄舎として幽閉されたが、畳の間が宛がわれ待遇は良かった。なにより時栄が頻く頻く訪ねて介護に来たことも、5月末に政見建白書「管見」を完成させる程の心の支えの一つであったのかもしれない。
口述を野澤雞一(のざわけいいち。陸奥国野沢村出身、17歳。一時的に会津藩士)に筆記させた「管見」を翌月薩摩藩主に提出した後に高熱を発し、新政府軍に接収された仙台藩邸の軍務官病院に6月18日に移された後、岩倉具視の訪問を受ける。

 

明治2年(1869)3月中旬、新政府から軍務官出仕の呼出しに応じた覚馬は4月に病院を出て上洛し、陸海軍務等の教授にあたる。
軍務官(7月に官制改正により兵部省と改称)役所は元・京都守護職屋敷に置かれ、その近くの宿舎で暮す42歳の覚馬の世話の為にまだ15、6歳ほどの小田時栄と同居を始めたと思われる。

明治3年4月14日に覚馬は京都府庁に採用され、権大参事の槇村正直の顧問となる。
この頃には「河原町三条上ル 下丸屋町」に住んでいたとされる。※『官員進退録』

 

明治4年(1871)時栄は覚馬との娘、久栄を出産
この年の秋に覚馬は母佐久、妹八重、妻うらとの次女みね(峰。姉は夭折)を京に招くが、うら(樋口氏)は夫の子を孕んだ若い妾の存在を知ったためか上洛を拒んだ。
うらが離縁を望んだとして覚馬は正式に時栄を妻とした

 

明治5年(1872)覚馬は脊髄損傷でついに歩行困難となるが、覚馬のためにルドルフ・レーマンが試作した車椅子に乗りながらも京都復興のため奔走を続ける。翌年8月に小野組転籍事件で拘禁された槇村参事の釈放を請うため八重と東京へ上京。
明治8年(1875)6月7日覚馬が買付た相国寺二本松の薩摩藩邸跡地を、同志社英学校のため新島襄に譲渡。
明治9年(1876)1月2日八重、アメリカン・ボード(米国の海外伝道組織)の宣教師J.D.デイヴィスより洗礼を受け、3日新島襄とキリスト教式の結婚。12月佐久とみねが受洗。
明治10年(1877)12月27日覚馬は府顧問免職。
明治11年(1878)9月16日同志社女学校開校し山本佐久が舎監を勤め女学校に住込む。
明治12年(1879)3月30日覚馬が初代京都府会議長に選出される。
明治13年(1880)10月に辞職し地方税の布達をめぐり対立していた槇村知事を諸運動によって失脚に追い込む。
明治14年(1881)みねが伊勢時雄(横井時雄。熊本藩士横井小楠の長男、同志社第3代社長)と結婚。

 

明治18年(1885)5月17日、京都第二公会で宣教師グリーンから覚馬と時栄が洗礼を受ける。6月21日に久栄も受洗。
8月下旬に覚馬は斗南から17歳の望月興三郎を呼び寄せ、同志社に入学させた。英学校三年級に無事入学し寄宿舎に入った興三郎を覚馬は将来久栄の婿養子にしてもよいと考えていたようだ。
中野好夫の著では望月興三郎の弟だが、迎えた婿養子候補が実際に誰であったかは不明

当時同志社英学校に通っており山本・新島家と接していた徳富健次郎(徳富蘆花。徳富猪一郎の弟)の小説「黒い眼と茶色の目」によれば、
12月末、時栄が腹痛を起こし医師ジョン・カッティング・ベリーが診た所、妊娠五か月であることが分かった。
しかし覚馬は妻の懐妊理由におぼえがなくその裏切りに対して憤ったが、彼女に介抱された長い年月を振り返り自己との煩悶の末、時栄の不貞を許すことにした。
しかし時栄の不始末を許すことができなかったのが、夫の影響でキリスト教下に身を置いていた妹の八重、そしてかつて実母が父から身を引いている娘のみねである。
みねが嫁ぎ先の今治から駆けつけ、八重と共に覚馬に時栄との離縁を迫った。

覚馬は時栄にきちんと住居を宛がう条件で、離縁に同意。八重は時栄に、実娘の久栄と二度と会ってはいけないと約束させた。
女学校四年級へ通う15歳となり十分に事の成行を理解できる久栄、見守るしかない覚馬の母佐久の心中は計り知れない。

……起居に不自由な山下勝馬(山本覚馬)さんの介抱をしていた時代(時栄)さんは21歳で壽代(久栄)さんを生む。
異母姉のお稲(みね)さんが能勢又雄(伊勢時雄)に嫁いだため家督をつぐ壽代さんが14歳の年に、山下家では養嗣子にするつもりで旧会津藩士の家から18歳の秋月峰四郎さんを迎えた。
時代さんは35、山下さんは60歳近く。時代さんは養子の峰四郎さんを可愛がった。
そのうち時代さんが体調を崩し、協志社(同志社)の校医ドクトル・ペリー(J.C.ベリー)さんが診察した。ペリーさんが「おめでとう、もう五月です」と声高に妊娠を告げたが、それを聞いた山下さんは「覚えがない」と言いだした。

時代さんは、はじめ「鴨の夕涼みにうたた寝して、見も知らぬ男に犯された」としらをきったが、最後には養子を誘惑したことを自白して泣きながら許しを請うた。
永年の介抱に感謝していた山下さんは許そうとしたが、飯島先生(新島襄)の夫人のお多恵(八重)さんと、嫁ぎ先の伊予から駆け付けたお稲さんが否応なしに時代さんを追い出してしまった。
養子は協志社を退学して郷里に帰った。

離縁後に時代さんは娘の顔を見たがったが飯島の夫人が近寄らせず、山下さんの介抱は心得ある女中にさせた。
徳富健次郎『黒い眼と茶色の目』より要約

……後書きには、この小説は著者徳富健次郎が20歳の頃に山本久榮嬢との恋愛の経緯を47歳の晩秋に記憶を辿って書いたもの(上の要約部分は彼が聞いた噂話)と記されています。

 

時栄の「不祥事」については覚馬について語る誰もが濁しており、健次郎の小説がどこまで創作かは分からない。
明治19年(1886)に覚馬から離縁された時栄は2月12日付で戸籍を小田に戻し、その後分家して堺市に移る
兄勝太郎の先妻の子を養子にもらい、明治28年(1895)2月9日に神戸市山本通五丁目七十七番屋敷へ移籍
その後はアメリカへ渡ったと小田家に伝わっているそうだが、記録は遺されていない。

 

そして時栄と離縁した後の山本家周辺は…
翌年の明治20年(1887)1月27日、長男の平馬を出産後に肥立ちが悪かったみねが26歳で亡くなり、平馬は山本家の養嗣子となる。
みねの義母の津世子(夫横井時雄の母、小楠夫人)が、みねが葬られた南禅寺の門前で横転して横井家で同居している19歳の徳富健次郎(時雄の母方の親戚にあたる)と久栄が看病にあたった。
1月30日に新島襄の父民治が亡くなる。

津世子の看病で親密になった久栄と健次郎が互いに勉学中の身であるために周囲から咎められ(特に八重の猛反発があったとも)11月に婚約が破談、12月の半ばに健次郎は同志社英学校(三年級)を中隊し、京都を去った。
久栄は神戸の英和女学校(後の神戸女学院)に進む。

明治23年(1890)正月、募金運動の最中の新島襄は神奈川県大磯の百足屋旅館の離れ座敷で病床にあった。八重、徳富猪一郎(とくとみいいちろう)、小崎弘道(こざきひろみち)を呼び三十通にも及ぶ遺言を伝える。
1月23日午後2時20分死去。享年47。27日同志社のチャペルで葬儀が営まれ、京都東山若王子に葬られた。

明治25年(1892)12月28日午後1時45分山本覚馬、自宅で死去。享年64歳。30日襄と同様に同志社チャペルで葬儀、若王子墓地に葬られる。
明治26年(1893)7月山本久栄23歳で病没。
明治29年(1896)5月20日山本佐久87歳で死去。

参考図書
・青山霞村『山本覚馬伝
・『歴史読本2013年7月号「特集 山本覚馬 会津近代化の先駆者」』→[Kindle版]
・『会津人群像 第19号―特集:幕末京都にただ一人残った会津人山本覚馬
・徳富健次郎『黒い眼と茶色の目
・『近代日本に生きた会津の男たち』宮崎十三八「山本覚馬」
・同志社社史資料室『同志社人物誌』

そしておまけ、八重の桜のキャスト。成長後、敬称略
・新島八重:綾瀬はるか
山本覚馬:西島秀俊(八重の兄)
・山本佐久:風吹ジュン(八重の母)
山本時栄:谷村美月(覚馬の後妻)
・山本久栄:門脇麦(覚馬と時栄の娘)
・伊勢みね:三根梓(覚馬と前妻うらとの娘)
・樋口うら:長谷川京子(覚馬の前妻)

・新島襄:オダギリジョー(八重の夫、同志社の校長)
・新島民治:清水紘治(襄の父)

熊本バンドに属していた同志社の卒業生
・伊勢時雄:黄川田将也(みねの夫、伝道師として愛媛県今治市に赴任)
・小崎弘道:古川雄輝(伝道師となる)
・徳富猪一郎:中村蒼(新聞記者を志願し中退)

ドラマの中で時栄の不倫相手として描かれるのは青木栄二郎
青木栄二郎:永瀬匡(番組中では広沢安任の遠縁、山本家の書生)
・広沢安任:岡田義徳(旧会津・斗南藩士)

明らかな無断転載があるようです。当ブログの文章のみを抜粋した転載はご遠慮下さい。

飯野藩保科邸・会津藩家老萱野権兵衛の最期

慶応4年(1868)9月4日、鶴ヶ城で籠城中の前会津藩9代藩主松平容保(かたもり)宛てに降伏を勧める米沢藩主上杉斉憲の書簡が、高久(たかく。会津若松市北会津町)屯所で越後口守備にあたっていた会津藩家老萱野権兵衛長修(かやのごんべえ・ごんのひょうえ ながはる)に託され、これを軍事奉行添役の秋月悌次郎(あきづきていじろう)が受取り進呈する。
慎重に周辺同盟藩の情報を収集するため秋月は同じく公用人の手代木直右衛門勝任(てしろぎすぐえもん かつとう)と米沢藩陣営に赴くが、既に米沢藩は新政府に恭順していた。
城へ戻り同盟藩であった仙台・庄内の動向と照らし合わせて協議し、容保は降伏を決意する。

19日秋月・手代木らの降伏の申し出が土佐藩士板垣退助・薩摩藩士伊地知正治に受け入れられ、21日に開城の令を示した。
22日午前10時、鶴ヶ城追手門前に降伏の旗が立った。籠城中に布は包帯に使用されており、集めた端切れを照姫(てるひめ。容保の義姉)ら婦人達が断腸の思いで継ぎ合わせ、涙で濡らした白旗である。

正午に大手門外の甲賀町通りの内藤家・西郷家間に緋毛毯が敷かれた式場へ新政府軍の軍監中村半次郎、軍曹山縣小太郎、使番唯九十九等諸藩の兵を率いる錦旗を擁して進み、会津側は秋月・手代木が熨斗目上下を着用し無刀で迎える。
重臣萱野権兵衛・梶原平馬(かじわらへいま)が出て、次いで礼服の容保・第10代藩主喜徳(のぶのり。慶応3年容保の養子となり翌年開戦前の2月に容保が恭順の意を示すために家督を相続)父子が近臣十名余を従えて着座し式に臨み、降伏謝罪の書を提出した。
引き渡された城内の兵器は大砲51門・小銃2845挺・動乱18箱・小銃弾薬23万発・槍1320筋・長刀81振。

容保父子は輿で謹慎地の滝沢村の妙国寺に送られ、しばらくして萱野権兵衛ら三十名余が伴った。この時重臣達は自分たちの処罰と引き換えに容保父子の助命を求める連署をしたためている。
23日に家臣は天寧寺から謹慎地の天猪苗代へ、傷病者は青木村、婦女子と60歳以上・14歳以下の者は塩川へ立退くが、開城を知って自刃する者もあった。
24日午後に新政府軍が鶴ヶ城に入る。

 

10月19日に新政府から容保父子が権兵衛ら重臣達と共に呼出され、佐賀藩徳久幸次郎の兵の護衛で東京へ出立。
11月3日に東京着。容保は梶原平馬・手代木直右衛門・丸山主水・山田貞介・馬島瑞園(まじまずいえん)と因州(鳥取)藩池田慶徳邸に入り、
喜徳は萱野権兵衛・内藤介右衛門・倉澤右衛門・井深宅右衛門(いぶかたくうえもん)・浦川藤吾は久留米藩有馬慶賴邸での謹慎となる。
狭い部屋に押し込められる形であったが、権兵衛はまだ年若い喜徳をよく気にかけ、皆がくつろぐ中でも常に正座をやめず、しかし時に冗談などを言って皆を和ませたという。

 

11月、明治政府軍務官より「容保の死一等を減じて永預となし、代わりに首謀者を誅して非常の寛典(かんてん)に処する」と下された。容保父子の助命の代わりに、処罰すべき戦争責任者の差出しを求められたのである。

12月に新政府は会津松平家の親戚であり、会津藩への情報取次をしていた飯野藩保科弾正忠正益(まさあり)に取調べを命じた。
正益は、8月23日の新政府軍鶴ヶ城下侵襲の日に甲賀町で既に切腹している会津藩家老田中土佐(たなかとさ。玄清)・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)の二名を戦争責任者として選び、返答した。
しかし死者の選出は政府に認められず、権兵衛が首謀者として候補にあがる。

このことが伝えられ、忠誠純義な権兵衛は藩に代わって死ぬのは本分であると語り、会津藩の罪を一身に背負うことを受け入れ、早く名前を書き加えるよう促したという。
権兵衛の潔さと決意に感じ入った正益は、翌明治2年(1869)正月24日に先の二名に権兵衛の名を加えて軍務局へ提出する。
5月14日、政府は正益に家老萱野権兵衛の処刑・打ち首を命じた。

15日に梶原平間と北原半助(故神保内蔵助二男)が有馬邸を訪れて処分の決定を伝えた。容保からの白衣や遺族への手当料を頂いた権兵衛は容保に感謝を示した。

 

5月18日の処刑の日の朝、故郷の老父への一書を残し沐浴で体を清めた権兵衛は、浦川藤吾に普段と変わらない様子で、斬首に際して見苦しくないようにと襟元などを入念に整えるよう頼むので、浦川は権兵衛の髪を取りながら櫛に涙を落す他なかった。
喜徳より葵紋のついた衣服一式を賜ったが、紋服を汚すのは畏れ多いと着用しなかった。

静々と座した権兵衛の前で、権兵衛の茶の仲間であった井深宅右衛門(重義。容保の御側付)が茶を点じる。
戊辰戦争で一刀流溝口派師範の樋口隼之助光高が行方不明になり流儀が途絶えることを憂いていたため、流派免許を得ている権兵衛は、この時長い竹の火箸(最後の膳の箸とも)を持って宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝授したという。

同朝、山川大蔵と梶原平馬が麻布広尾の飯野藩保科下屋敷を訪れて、出迎えた飯野藩老中大出十郎右衛門・大目付玉置予兵衛に、前年からの会津に対する厚意とこのたびの権兵衛の件に対して慇懃に礼を述べた。

飯野藩隊長中村精十郎が兵を率いて有馬邸に向かい権兵衛を篭で護送し、保科邸の茶亭に着く。
権兵衛が隣室に入ると山川と梶原が、容保直筆の親書と、青山の紀州藩邸に預けられていた照姫(容保の義姉であり、保科正益の実姉でもある)の手書と見舞いの歌を渡す。

今般御沙汰ノ趣窃ニ致承知恐入候次第ニ候 右ハ全我等不届ヨリ斯モ相至候儀ニ候立場柄父子始一藩ニ代リ呉候段ニ立至
不耐痛哭候扨々不便ノ至ニ候面會モ相成候身分ニ候是非逢度候得共其儀モ及兼遺憾此事ニ候其方忠實之段ハ厚心得候事ニ候間後々之儀等ハ毛頭不心置此上ハ為國家潔遂最後呉候様頼入候也
                      祐 堂
五月十六日
   萱野権兵衛

今般(こんばん)御沙汰(さた)の趣 ひそかに承知いたし恐入り候
右は全く我が不行き届きより 斯(か)くも相至り候義に候
立場柄、父子はじめ一藩に代わりくれ候段に立ち至り
痛哭に耐えずさてさて不便の至りに候 面会も相成り候身分に候 是非とも逢いたく候えども、その儀も及びかね、遺憾この事に候 其方(そのほう)忠実の段は厚く心得候間後々の義等は毛頭心置かず、この上は国家の為、いさぎよく最期を遂げくれ候よう頼み入り候也

祐堂は容保の雅号である。

偖此度ノ儀誠恐入候次第全御二方様御身代ト存自分ニ於テモ何共申候様モ無ク氣毒絶言語惜シキ事ニ存候右見舞之為申進候
 五月十六日
                           照
                   権兵衛殿へ

夢うつヽ 思ひも分す惜むそよ
まことある名は 世に残るとも

この度の儀、誠に恐れ入り候次第、全く御二方様お身代と存じ自分においても何とも申し様もなく、気の毒言語に絶たず、惜しきことに存じ候
右見舞いの為申し進め候

夢うつつ思いも分かず惜しむぞよ まことある名は世に残れども

権兵衛は容保の厚意と会津のために潔く最期を遂げてくれとの権兵衛にとって誉ある言葉、照姫のはかなさを惜しみながらも真に存在するその名は残るとの憐みの筆を、真に栄誉であると感涙し、山川と梶原にも熱涙をさそった。
定刻までの短い間に正益からの酒肴が出され訪れた会津藩士と遺族一同で別れの杯を酌んだ。

会津藩士達が帰路につくと、飯野藩の大出・玉置が部屋に入って朝命を伝え、正益から賜わった白無紋礼服一着を交付して退座する。
次いで起倒流柔道指南役で剣術にも長けた飯野藩士沢田武治(武司)が対面した。目利きに優れた権兵衛はいとも冷静に、沢田が介錯のために正益から賜わった刀が貞宗の業物であると認めて、両者は正益の武家らしい情けに感じ入った。

面会後に行われた執行準備で、白木三宝(三方とも。神饌や献上品を載せる台)と白紙で包んだ扇子(白紙で短刀に見立てている)が置かれた。
これは新政府の要求する罪人の斬首でなく、密かに切腹の作法である扇腹(おうぎばら、扇子(せんす)腹とも。三宝に載せた白扇を取るため前かがみになった時に介錯人が首を落す。自ら命を絶つ形を取らせて武士の体面を保たせる切腹の作法)を行うことを示していた。

飯野藩大目付の玉置予兵衛・隊長中村精十郎・御徒目付今井喜十郎・介錯沢田武治・助員中川熊太郎・他小頭三名の立ち会いのもと、権兵衛は主君の居る屋敷の方角を拝し、命を絶った。享年42歳(40とも)。
保科正益は政府の命令の罪人としての処刑をさせず、武芸に秀でた飯野藩士沢田武治の介錯と銘刀をもって、切腹の作法通りに扇腹を行い、建前には政府の斬罪の要望と、実際には権兵衛に対し会津武士の面目を、両方全うさせたのだろう。

遺体に丁寧に布団を被せ置き、玉置と沢田が残って遺体を清めて棺に入れ、正益はこの日のうちに軍務官へ、申付けの通りに松平容保家来・叛逆首謀萱野権兵衛の刎首を執行したと簡潔に届けさせた。

軍務官から飯野藩で遺骸処置すべしと通達があり、棺を浅黄木綿で覆って外面は貨物の如く装って、権兵衛の意志に従い白金の興禅寺に送った。
興禅寺には、鳥羽・伏見の戦いに際し徳川慶喜と松平容保の江戸への脱出を進言し敗戦を招いた元凶だと迫られ、責任を負って三田下屋敷で自刃した神保修理(長輝)他会津藩士が眠っている。

正益は権兵衛や儀を執行した飯野藩家臣に香典を供し、その後も松平家再興等の伝達を受持っている。
また容保父子・照姫と厚姫(容保の長女)がこのたびの首謀者として名を並べた萱野権兵衛・田中土佐・神保内蔵助に対して香典を与え、容保父子は三人の遺族にも菓子料を賜わった。

 広尾の保科下屋敷・現都営広尾五丁目アパート

▲『江戸切絵図』と現在の飯野藩下屋敷跡地(東京都渋谷区広尾)

 

本来家老席順で責を負うべきであったが行方不明として死を免れた保科近悳(西郷頼母)が明治24年2月20日に興禅寺の墓に参り「あはれ此人のみかくなりて己れは長らひ居る事は抑如何なる故にや、実に栄枯の定りなき事共思ひ続くるに堪す」と記している。

介錯を務めた沢田は横浜に移ったのち箱根底倉の蔦屋旅館を譲り受けて箱根の観光・医療業に貢献することとなるが、子孫の仏壇には代々萱野権兵衛の位牌が祀られ、自刃の際に「顔色も変えず平生の如し」潔さを思い起こしては語り涙したという。
(その後も沢田家は長く旅館を営みましたが現在「つたや」は経営者が他家に替わっています)
【2018年追記:「つたや」旅館は2017年をもって閉館しました】
【再追記:2019年11月よりゲストハウス「そこくら温泉 つたや旅館」として新装開店しました】

興禅寺

興禅寺では今も萱野権兵衛の法要を行っている(東京都港区白金)
萱野権兵衛の戒名は報国院殿公道了忠居士。福島県会津若松市の天寧寺にも妻と一緒に弔われた墓がある。
 

※参考図書は記事中リンク先ページと同一、沢田家については後に記事にする予定です。
 
* * *

ちなみに
記事中人物の八重の桜でのキャスト(敬称略)は…
・萱野権兵衛:柳沢慎吾(会津藩家老)
・松平容保:綾野剛(会津藩9代藩主)
・照姫:稲森いずみ(容保の義姉・保科正益の実姉)
・松平喜徳:嶋田龍(会津藩10代藩主)
・秋月悌次郎:北村有起哉(会津藩軍事奉行添役)
・内藤介右衛門:志村東吾(会津藩家老)
・山川大蔵:玉山鉄二(会津藩若年寄→家老)
・梶原平馬:池内博之(会津藩家老)
・神保内蔵助:津嘉山正種(会津藩家老)※
・田中土佐:佐藤B作(会津藩家老)※賀町口で奮戦するが田中が負傷。共に医師の土屋一庵邸で自刃
・上杉斉憲:倉持一裕(米沢藩主)
・板垣退助:加藤雅也(土佐藩士)
・伊地知正治:井上肇(薩摩藩士)
・中村半次郎:三上市朗(薩摩藩士)
・徳川慶喜:小泉孝太郎(幕府15代将軍)
・神保修理:斎藤工(会津藩軍事奉行添役。神保内蔵助長男)
・西郷頼母:西田敏行(会津藩家老)

最期はあばよでなく「さらばだ!」でしたね。

秋月悌次郎詩碑

秋月悌二郎詩碑 秋月悌次郎北越潜行詩

▲秋月悌次郎「北越潜行之詩」碑

 

秋月悌次郎 胤永(あきづきていじろう かずひさ)

文政7年(1824)7月2日若松城下の米代二丁目に録150石の丸山五八郎胤道(かずゆき。逸八。丸山家は初代会津藩主保科正之から代々松平家に仕えた)の次男として生まれる。母はお伊野(杉本氏)。
丸山家は長男の胤昌(かずまさ)が継ぎ、悌次郎は分家として秋月姓を称した。

10歳で藩校日新館の素読所尚書塾に通い、秀才と賞され進級を重ね、15歳で武術を学ぶ傍ら詩作に励んだ。南摩綱紀(なんまつなのり)も優秀な学友であった。

天保13年(1842)19歳で江戸に上り、松平慎斎(しんさい)の麹渓書院で漢学を学ぶ。
江戸藩校で儒官に任じられる。
弘化3年(1846)に藩命で幕府の大学の昌平黌(しょうへいこう。昌平坂学問所)に入り、佐藤一斎、古賀謹一郎等ら大儒に学ぶ。古賀の門人には越後長岡藩士の河井継之助もいた。
後に大学頭林祭酒に入門。また経義を金子霜山、国史令格を栗原又楽、文詩を藤森天山に学んだ。
昌平黌書生寮舎長(生徒の指導監督)助役を命じられ扶持(給料)を賜わり、嘉永3年(1850)には書生寮舎長となる。

安政4年(1857)から藩命により諸国巡視のため、新潟・尾張・熱田・攝州・廣島・萩・薩摩等旅して「観光集」等を執筆。
書生寮舎長辞任の際、幕府から功労として官版書(幕府直営の出版)五部を授与されている。
安政6年(1859)8月23日から秋月は長州藩藩校萩の明倫館で七日間滞在して詩文を指導する。長州藩生徒には19歳の奥平謙輔(おくだいら けんすけ。居正)が居た。
またこの道中の備中松山で、同じく諸国を渡っていた河井継之助にも出会い、その後長崎に秋月が居るとこを知った河井は秋月を訪問して同じ宿に共に留まった。

文久元年(1861)3月に徳川宗家と水戸家の仲裁に常陸へ赴き、両者の調停を進めた。
文久2年(1862)8月1日に会津藩主松平容保(かたもり)が幕府から京都守護職に任命されると、秋月は会津藩公用役に抜擢され、先遣隊の一員として上洛。
藩主一行の部隊受入れのために働き、賀茂川ほとりの三本木町に住む。
12月24日に容保が藩兵千人を伴い京に入った後、秋月は容保の側近として公務に従事する。
また儒者見習兼侍読として又中川親王や二条関白の顧問をつとめた。

文久3年(1863)2月22日夜に足利三代の木像の首が三条河原に晒した容疑で会津藩は尊攘派志士を捕縛し、秋月が使者として朝廷に捕縛の正当性を説くことで彼の才名が高まった。
その後も宮中を護り操練を実施する会津藩の任務に携り、その傍らで秋月は薩摩藩士の高崎佐太郎正風)らと会薩間で長州勢を宮中から排斥する計画を練り、八月十八日の政変を起こした。

尊王攘夷派を一掃するクーデター成功により首謀者として長州藩の刺客に狙われるが狙撃は免れている。
こうして情勢を良く察していたために会津の行く末を案じてており藩外で様々な交流のあった秋月は後に会津藩内の佐幕派の反発を買われ、秋月をよく引き立ててくれていた家老の横山主税(ちから、常徳。白河口副総督常守の養父)が病により帰郷すると元治元年(1864)5月に秋月は公用役を降ろされてしまう。(常徳は8月に没する)
横山の病気見舞いに帰郷していた秋月は免職により会津に留まり、桑畑などの耕作をしながら母親を孝養して暮らした。

慶応元年(1865)9月に前代官の田中玄純が没した引継として蝦夷地舎利(北海道知床半島の斜里)の代官に任じられるが、実質左遷であった。
妻の美栄(遠藤氏。二男一女を生む)を伴って赴き、漁場の開設や開拓事業に努めた。

慶応2年(1866)12月に会薩同盟が破れて孤立した会津の窮地の為に京へ呼び戻され、極寒の気候にも関わらず急な事態とみて3日に出立する。
翌年3月に京に着く。既に長州と結び尊王討幕に傾いた薩摩藩との関係を繕う余地もなく、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いが勃発。

戊辰戦争で秋月は、幔役(ほろやく。参謀役)で3月に越後水原(すいばら)に出陣。5月に窮地の長岡城へ入り河井と協議する。
その後猪苗代方面に転戦するが8月22日に近くの石筵口が破られ鶴ヶ城に入り、軍事奉行添役(副奉行)に任命される。

鶴ヶ城籠城も苦境を強いられ、9月中旬ごろ容保宛てに降伏を勧める米沢藩主上杉斉憲の書簡が高久屯所の軍事奉行萱野権兵衛に託され、これを秋月が受取り進呈する。
慎重に周辺同盟藩の情報を収集するため同じく公用人の手代木直右衛門勝任(てしろぎすぐえもん かつとう)と米沢藩陣営に赴くが、既に米沢藩は新政府に恭順していた。
城へ戻り仙台・庄内の動向と照らし合わせて協議し、容保は降伏を決意する。

秋月は再び米沢藩屯所の森台村へ向かい降伏条件を確かめた後、土佐藩士板垣退助に降伏を申し出た。
9月22日正午の降伏式で容保・喜徳父子と会津の重臣達が新政府軍の軍監中村半次郎(桐野利秋)らを迎える。秋月の装いは熨斗目上下を着用し無刀であった。式で甲賀町通りの内藤家・西郷家間に敷かれた緋毛毯は苦汁を共にした会津藩士達で切り分けられた。

23日猪苗代に謹慎。謹慎中に密かに旧知の長州藩士奥平謙輔(干城方参謀)が届けさせた労わりの書簡を受け取った秋月は、10月7日に会津藩主助命の仲介願いと友の温情に報いるために寺使いに変装して小出鉄之助と共に猪苗代を抜け出し、越後(新潟地方)水原駐留中の奥平に直接面会を果たした。
越後からの帰途、越後街道束松(たばねまつ)峠(現在の会津坂下町の一部)で北越潜行之歌一遍を作った。

有故潜行北越帰途所得
行無輿兮帰無家 国破孤城乱雀鴉
治不奏功戦無略 微臣有罪複何嗟
聞説天皇元聖明 我公貫日発至誠
恩賜赦書応非遠 幾度額手望京城
思之思之夕達晨 愁満胸臆涙沾巾
風淅瀝兮雲惨澹 何地置君又置親

故ありて北越に潜行し帰途得る所
行くに輿(こし)無く帰るに家無し 国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治は功を奏せず戦略無し 微臣罪有り複貫日(かんじつ。一貫して)至誠に発す
恩賜の赦書応(まさ)に遠きに非(あら)ざるべし 幾度か手を額(ぬか)にして京城を望む
之を思い之を思うて夕晨(ゆうべあした)に達す 愁(憂い)胸臆に満ち涙巾(きん。手ぬぐい)を沾す(うるおす。濡らす)
風は淅瀝(せきれき)として雲惨澹(さんたん)たり 何(いず)れの地に君を置き又親を置かん

面会時に有望な会津の青年らを奥平の書生として預けるよう頼んでおり、11月12日に山川健次郎(山川大蔵(浩)の弟、西郷頼母の甥。白虎隊士中二番隊。後に東京・京都・九州帝国大学総長となる)と小川亮(伝八郎。白虎隊寄合一番隊として越後口に出陣。後に陸軍士官となり西南戦争・日清戦争等に出征し大佐に就任)
の二人を無事越後に送り出した。

12月13日に新政府から呼び出され26日に東京伝馬町の揚屋(牢獄)に送られた後、熊本藩細川邸に移る。
明治2年(1869)6月には会津戦争の責任を問われ、萱野権兵衛の処刑に次ぐ重罪の永預かり(終身禁固刑)に処され、7月5日に美濃高須藩に移った。

明治3年(1870)旧会津松平家の再興が認められ青森に三万石を賜わり、明治4年(1871)新領を斗南藩と名付け、藩士の移住が始まる。
秋月は10月13日に名古屋、11月9日に元津軽藩上屋敷、12月27日に下北郡野辺地の長崎尚志家に転々と移され、斗南藩で幽囚生活を送った。

明治5年(1872)正月6日に特赦によって赦免される。
老母を養うために会津に帰郷し、友人である若松県参事の南摩綱紀を介して学校の副教授となるが、3月には新政府からの要請で左院少議生(さいんしょうぎせい)として月給七十円で出仕することとなる。
この際に特赦任官と題した「囚余措大余栄 九死何図得一生 地下故人応笑我 厚顔復入帝王城」と、九死に一生を得て囚人からの誉ある抜擢であるが、戦死や苦難の末先だったた仲間たちは、朝廷に仕える厚顔さを笑うだろうと、やるせない思いを込めた詩を残している。

明治7年(1874)1月に左院五等議官、明治8年2月に正七位に叙される。5月に左院が廃された後は太政官七等出仕として内務課に配属となるが、これも廃止となった。
かつての会薩同盟を策した高崎左太郎(正風)のいとこの高崎五六(ごろく。猪太郎・兵部)が明治8年(1875)10月に岡山県権令(副知事)となり秋月を監事に招こうとしたが、老母の孝行を理由に断り、これを退官の機会と考えたのか同時に官を辞した。

翌明治9年(1876)11月に妻子と共に若松へ戻り、老母の傍で田畑を耕して暮し孝養に尽した。
奥平謙輔が10月に萩の乱を起こし11月末頃捕えられて刑場に送られた際の辞世の漢詩が届く。北越潜行の歌になぞらえたと思われ、12月の処刑を知り秋月は涙したという。

明治11年(1878)母88歳の寿筵を開いて祝うが、明治13年(1880)1月4日に母が90歳で死去。
喪が明けた4月に再び上京し四谷大番町に家塾を開き斯文学舎と名付けて学監となる。
明治14年(1881)文部省管下の教導職役、明治15年(1882)に中教正、明治16年(1883)に文部省御用掛、明治18年(1885)に東京大学予備門の教諭となる。

明治19年(1886)第一高等中学校(東京大学の前身)から教諭を務める。
9月に娘の閑衛(しずえ)の婿養子として塚原六助(胤継。文学博士となり、第六高等学校教頭、大坂の学問所の懐徳堂講師を務めた)を迎える。
11月に秋月は「弘毅斎遺稿」(弘毅斎は奥平謙輔の号)の跋文(後書き)を寄せた。

明治23年(1890)9月に第五高等中学校(熊本大学の前身校)教授に招かれた。
古き良き精神を重んじて漢文・倫理を教え、教育勅語演説を担当し、国のための人材育成に励んだという。
英文学の教授であった夏目漱石・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)らと同僚であり、特に小泉に父の如く親われて「神のような人」と称賛を受けている。

明治26年(1893)北白川宮能久親王殿下が熊本師団長に着任され、副官の高崎正風の推薦で秋月が週一回進講申し上げた。
4月に菊池方面の小旅行の際に菊池川の畔で菊池勤王の事績を詳らかに説いて、自ら木刀を持って北越潜行之歌を吟じ舞って見せたという。

翌年からの日清戦争で鹿児島行軍からの帰途の難所加久藤越(かくとうごえ)で大雨に見舞われ生徒の足取りが鈍ると、秋月はエイエイと一歩一歩掛け声をかけながら、道端に刈って積まれていた枯草をつかんで道に棄てていき、後から来る者が滑らないよう機転を利かせた。

明治28年(1895)辞職し会津に帰郷。
明治30年(1897)正六位に叙せられる。
明治32年(1899)秋に息子の居る東京に移る。12月に病を患う。
明治33年(1900)1月4日特旨従五位に進む。翌5日、75歳(77)で死去。
東京都港区の青山霊園に墓所。彼を称えた墓碑「秋月子錫之碑」の文章は親友の南摩綱紀(当時高等師範学校教授従五位勲五等)が撰した。(子錫は秋月のあざな。また韋軒と号す)

上に記した他の家族として、はじめ兄胤昌の次男の胤浩を養うが没し、長男の浩次はアメリカに遊学した後に商いを営み、次男の胤逸は陸軍少尉となった。

秋月悌次郎詩碑所在地:福島県会津若松市追手町4 鶴ヶ城三の丸入口

参考図書
・松本健一『秋月悌次郎 老日本の面影
・『山本覚馬と幕末会津を生きた男たち
・習学寮史編纂部『習学寮史』
・会津武家屋敷『近代日本に生きた会津の男たち』『北辺に生きる会津藩』
・『会津人群像 第6号』『会津人群像 第13号

※河井継之助についてはいずれ記事にします。