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歴史人物の略歴や大河ドラマの話題

萱野権兵衛・郡長正宅跡と国老殉節碑

萱野権兵衛邸跡 萱野邸跡地看板

▲萱野権兵衛・郡長正ら萱野家の屋敷跡地付近の看板
萱野邸は北出丸向かいの西郷頼母宅の東隣に在った。
会津戦争時、父萱野小太郎長裕・母ツナ・妻のたに(35歳)・次男乙彦(郡長正。13歳)・三男虎彦(郡寛四郎。11歳)・長女りう子(9歳)・次女いし子(7歳)・五郎(4歳)は前日泊まった親戚の林権助一家と籠城協力のため三の丸に入る。

 

萱野権兵衛長修(かやのごんのひょうえながはる)
萱野家の始祖萱野権兵衛長則は加藤嘉明の重臣で会津への国替えに従い、嘉明の子の加藤明成が石見に厳封された後に入部した会津藩祖の保科正之に登用された。
以来萱野家は会津の名門として会津藩を支え、9代目が萱野権兵衛長修(ごんべい、ながのぶ とも)である。

権兵衛長修は文政13年(1830、天保元年)に生まれ、文久3年(1863)に父長裕(ながひろ)から家督を継ぎ、元治元年(1864)で若年寄、翌慶応元年(1865)に家老に就任。
国家老(くにがろう)として、藩主松平容保が京都守護職任命で在京中の間、会津での内政の責任を担った。知行千五百石。
誠実温厚な性格といわれるが文武両道に秀で、一刀流溝口派(いっとうりゅうみぞぐちは)の奥義を極めた剣豪でもあった。

慶応4年(1868)戊辰戦争中は先頭に立って激務にあたり、鶴ヶ城が包囲された後は、高久宿に布陣し城内との連絡や糧食物資補給に勤めた。
9月22日午前10時頃、会津藩主松平容保・養子の喜徳(のぶのり。徳川慶喜の実弟。15歳)父子は大手門前の式場に出て降伏状を官軍の軍監中村半次郎(桐野利秋)に渡し、同席した家老萱野権兵衛ら重臣達の連名で、家臣の処罰の代わりに容保父子の助命を嘆願したため、容保の処遇は幽閉に留まった。

開城後は会津藩第10代藩主喜徳(慶応4年2月に家督を相続)に伴い滝沢村の妙国寺で謹慎する。
10月19日に新政府から容保父子が権兵衛ら重臣達と共に呼出され東京へ出立。
容保は因州藩池田邸に入り、喜徳と重臣達は久留米藩有馬邸での謹慎となる。喜徳をよく気にかけ、皆がくつろぐ中でも権兵衛は常に正座していたという。

明治元年(1868)11月、明治政府軍務官より「容保の死一等を許し、首謀者を誅して非常の寛典(かんてん)に処する」と下された。容保父子の助命の代わりに、戦争責任者の差出を求められたのである。
新政府は会津松平家の親戚であり、情報取次をしていた飯野藩保科弾正忠正益(まさあり)に取調べを命じ、正益は会津藩家老田中土佐(たなかとさ)・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)を戦争責任者として選び、返答した。
田中・神保は8月の戦争中に甲賀町で既に切腹しており、死者の選出は政府に認められず、権兵衛が首謀者として候補にあがる。
このことが伝えられ、忠誠純義な権兵衛は藩に代わって死ぬのは本分であると語り、会津藩の罪を一身に背負うことを受け入れ、早く名前を書き加えるよう促したという。

権兵衛の潔さと決意に感じ入り、正益は先の二名に権兵衛の名を加えて軍務局へ提出する。
翌明治2年(1869)5月頃、政府は反逆首謀者として萱野権兵衛の処刑・打ち首を命じた。

この時青山の紀州藩邸に預けられていた松平容保の義姉・照姫保科正益の実姉)は、権兵衛へ「この度の儀、誠に恐れ入り候次第」の書き出しの手紙と共に
「夢うつつ思いも分ず惜しむぞよ まことある名は世に残れども」と歌を贈った。

また容保からも懇ろな手紙と、喜徳より葵紋のついた衣服一式を賜ったが、紋服を汚すのは畏れ多いと着用しなかった。
5月18日の処刑の日の朝、浦川藤吾に普段と変わらない様子で斬首に際して襟元などを入念に整えさせ、茶の仲間であった会津藩士井深宅右衛門重義(いぶかたくうえもんしげよし。容保の御側付)が茶を点じる。
また戊辰戦争で一刀流溝口派師範の樋口隼之助光高が行方不明になり流儀が途絶えることを憂いていたため、流派免許を得ている権兵衛は、長い竹の火箸(最後の膳の箸とも)を持って宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝授したという。

麻布広尾の飯野藩保科家下屋敷へ移され、飯野藩大目付玉置予兵衛、隊長中村精十郎ら八人が処刑に立ち会った。
しかし保科正益は政府の命令の罪人としての処刑をさせず、飯野藩士沢田武治の介錯をもって、切腹の作法通りに扇腹(おうぎばら、扇子腹とも。三宝(三方とも。神饌や献上品を載せる台)に載せた白扇を取り上げた時に首を落す)で、政府の斬罪の要望と、権兵衛に対し会津武士の面目両方を保させた。

享年42歳(40とも)、戒名は報国院殿公道了忠居士。墓所は東京都港区白金の興禅寺と福島県会津若松市の天寧寺
介錯を務めた沢田武治の子孫の仏壇には代々萱野権兵衛の位牌が祀られたという。
また本来家老席順で責を負うべきであったが行方不明として死を免れた保科近悳(西郷頼母)が明治24年2月20日に興禅寺をの墓に参り「あはれ此人のみかくなりて己れは長らひ居る事は抑如何なる故にや、実に栄枯の定りなき事共思ひ続くるに堪す」と記している。

※保科邸での切腹については「飯野藩保科邸・会津藩家老萱野権兵衛の切腹」記事にて

 

郡長正(こおりながまさ)
萱野権兵衛の次男、乙彦。安政3年(1856)生まれ。
成績優秀で戊辰戦争後の明治3年に会津の教学復興を担い他の旧会津藩士の子弟6名と共に小笠原藩(九州の福岡県)に留学。
豊津の藩校育徳館で学ぶが、伝わる逸話によると母親に食べ物が合わないことを嘆いたことを諌められた手紙を同級生に大衆の面前で嘲笑されて(会津藩をなじられた説も)面目を潰されてしまう。
後日会津武士の誇りをかけて藩対抗の剣道試合に出場し全勝したが、屈辱を晴らすために明治4年(1871)5月1日育徳館南寮の一室で自刃した。享年16。
小笠原藩は長正の死を悼み、会津の方向に向けて長正の墓を建立。
会津には父と共に福島県会津若松市の天寧寺に墓が在る。

 

鶴ヶ城内萱野国老殉節碑 萱野国老殉節碑案内板

萱野国老殉節碑(かやのこくろうじゅんせつひ)
鶴ヶ城本丸に、天守閣を見守るように建立された殉節碑。
また阿弥陀寺(会津若松市七日町)にも萱野長修遥拝碑が建てられている。

 

・会津藩家老萱野権兵衛邸址
所在地:福島県会津若松市追手町5(現在は「蕎八かやの」店舗)
・萱野国老殉節碑
所在地:会津若松市追手町1(鶴ヶ城城址公園内)

参考図書
・『会津人群像 第6号』『会津人群像 第13号
・『歴史読本2013年07月号
・宇都宮泰長『会津少年郡長正自刃の真相
・牧野登『保科氏800年史』
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・村井弦斎・福良竹亭『西郷隆盛一代記』
・西郷頼母研究会『西郷頼母近悳の生涯』

中野竹子殉節の地碑と柳橋

中野竹子像

中野竹子(なかのたけこ)
嘉永3年(1850)3月、竹子は会津藩江戸常詰の勘定役・中野平内の長女として江戸和田倉の会津藩藩邸で生まれ江戸で育った。母考子(こうこ)は下野国足利藩戸田家の家臣生沼喜内の娘。
7、8歳の頃から中野家と同じ会津藩上屋敷に住む赤岡大助(忠良)に手習いや剣術などを学び、赤岡忠良が大坂の御蔵奉行として赴任の際、養女に懇願され共に大坂へ赴く。

その後竹子は会津の行く末を案じて中野家に復籍し、戊辰の役(戊辰戦争)の三年程前まで松山藩主板倉勝清(かつきよ)の姫君の祐筆として仕えていた。
明治戊辰の役が始まり、会津に帰国すると若松城下米代の田母神兵庫家山本家案内板の現在の若松商業高校校舎のあたりに名前が見える)の書院を借りて住む。
赤岡忠良も坂下で道場を開き、竹子も剣道の稽古に通った。

慶応4年(1868)8月23日朝、官軍が鶴ヶ城下へ侵入したと知らせを受け、母の考子(44歳)・竹子(22歳。18とも)・妹の優子(ゆうこ。16歳)らは、依田まき子(30歳)・菊子(18歳。のち水島)姉妹と岡村すま子(35歳)ら薙刀を手に、後に娘子軍(じょうしぐん)と呼ばれる婦女子隊を結成し追手門て向かう。
考子とすま子は鼠、まき子は浅黄、竹子は青味の縮(ちぢみ)、優子は紫の縮、菊子は縦縞のあずき色の、一目で女性と分かる着物を纏っていた。

しかしすでに城門は閉ざされており、藩士から「照姫(藩主容保の義姉)様は坂下宿(ばんげじゅく)に避難された」と竹子達にも西に逃げるよう促される。照姫を護ろうと河原町口の郭から坂下へ向かうが、これは誤報であった。
坂下で照姫が城内に居ることを知り、坂下宿の法界寺(ほうかいじ)の板の間で過ごす。
24日、再度入城を目指した途中で城下西北の高久(たかく。現会津若松市神指町大字高久)宿に駐留していた家老の萱野権兵衛に参戦を願い出るが婦女子の参戦は許されず、竹子たちは「許されなければ自刃する」と押し切って、越後口から転じていた旧幕府軍の衝鋒隊(しょうほうたい。幕府陸軍歩兵指図役頭取の古屋佐久左衛門指揮)に加わった。

25日早朝に七日町を目指し三方向から進軍するも新政府軍の守備兵を突破できず12時頃には高久に後退。
午後4時頃、衝鋒隊400名余が2隊に分かれて進撃、娘子軍は最後尾の義勇兵と共に越後街道を南に進んだ。
(この時の娘子軍は全員斬髪・白羽二重・鉢巻・女性物の着物に襷をし、細い兵児帯で裾を括った義経袴・脚絆に草履を紐で絞め、大小の刀をさし薙刀を持っていたと依田菊子が回想している)

夜になり、柳橋(涙橋)の北600mで長州藩・美濃大垣藩との戦いとなった。
新政府軍は相手が婦人と分かると討たずに生け捕りを命じ、娘子軍は先に殉じた家族の仇を前に生け捕りを恥じとして必死に戦ったが、ついに竹子は額(胸という説もあり)に被弾してしまう。
竹子は母考子と妹優子に介錯を頼んだ。(16歳の優子ではうまく首が切れず上野吉三郎の手伝い、農兵が切り取った説も有り)享年22歳。

娘子軍は高瀬村(現会津若松市神指町高瀬)に引き揚げ、翌日坂下の法界寺に着く。
竹子の首は法界寺の梅ノ木の根元に懇ろに埋葬された。

竹子が出陣の際に薙刀に結び付けた短冊に書いた辞世の句は
「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれは 数には入らぬ我が身ながらも」

娘子軍は萱野権兵衛に城内で負傷兵の看護其他で働くことを薦められて28日に鉄炮を持った足軽の護衛付で入城した。

 

中野竹子殉節の地碑 中野竹子奮戦の地案内板

中野竹子殉節之地碑
竹子が戦死した柳橋近くの湯川端に昭和13年(1938)建碑
所在地:福島県会津若松市神指町大字黒川字薬師堂川原(バス停「黒川」から徒歩3分)

 

涙橋 涙橋の由来

▲越後街道の湯川にかかる柳橋(涙橋)
上杉景勝の築造と刑場にちなむ涙橋と呼ばれる由来

 

新撰組記念館中野姉妹の図

▲会津新撰組記念館蔵「中野姉妹柳橋出陣の図」
(撮影可でしたので個人日記使用として掲載させて頂きました)

参考図書
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・『カメラが撮らえた会津戊辰戦争
・『会津人群像 第13号
・『歴史REAL八重と会津戦争

ちなみに大河ドラマ「八重の桜」のキャストは
中野竹子:黒木メイサさん
中野コウ(考子):中村久美さん
中野優子:竹富聖花さん
が演じています

山本覚馬・八重誕生の地と覚馬の少年時代

山本覚馬と八重の誕生地碑 山本家跡案内板

山本覚馬・新島八重誕生の地碑
平成2年5月30日に、生家の近く(実際の地とは少し離れています)の会津郷土史研究家・宮崎十三八氏の自宅前に建立された誕生碑には、八重の籠城戦の直筆の歌「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」が彫られている。

 

覚馬の少年・青年時代
砲術師南・百五十石の山本家は鶴ヶ城(会津若松城)下郭内・米代四ノ丁に住んでいた。
文政11年(1828)正月11日に権八・佐久夫婦の長男、義衛──後の覚馬良晴(かくま よしはる)が生まれる。
覚馬は5歳の時には唐詩選の五言絶句を暗誦し、7、8歳の頃自宅裏の菜園から野菜が盗まれた時に足跡から犯人像を言い当てる鋭い観察眼を持った神童であったが、近所の子供と喧嘩もよくした。
毎日風呂に入りたいと早朝6時前に起床し稽古場へ行く前に一里半もある持山で薪を採り母を助けて掃除をするのが日課で、9歳の時に川で上手く独りで馬を洗った逸話もある。
9歳で一年早く藩校日新館に入り文武両道の才を現した。特に大内流の槍術が得意で馬術も好んでいた。
学問が進むと会津藩の軍制長沼流の兵要録を読み、軍制中で得意の槍術が占める位置に関心を抱いたという。
20歳を超える頃には「頭には総髪の大束髪を結い、月代は剃らず、ツンツルテンの袴を履き、木綿のブッサキ羽織を着て、腰には大刀造りの大剣を佩び、鉄扇を手にして街を闊歩していた様子は威風堂々として人を圧する趣があった」と伝えられ、八重も後に「兄は若い頃は二十二貫(82.5kg)程目方がありまして」と覚馬の立派な体躯を語っている。

八重は弘化2年(1854)11月3日に誕生。後に川崎尚之助もこの家に寄宿する。

山本家案内看板 山本家跡周辺

▲案内看板と、山本家・伊東家跡付近
山本家の東隣には八重が銃を教えた伊東悌次郎(ていじろう。白虎隊二番士中隊)の生家、裏手には八重の幼馴染ユキの住む日向(ひなた)家。

山本家周辺古地図詳細 山本家周辺古地図

▲生家跡と誕生地碑のある場所が比較できます

山本覚馬・八重誕生地碑
所在地:福島県会津若松市米代二丁目1-23(米代二丁目バス停下車徒歩2分)

参考図書
・青山霞村『山本覚馬伝
・好川之範『幕末のジャンヌ・ダルク 新島八重
・『歴史読本2013年07月号
・『近代日本に生きた会津の男たち』宮崎十三八「山本覚馬」

大河ドラマ館『八重と会津博』

鶴ヶ城の三の丸口、県立博物館の隣に大河ドラマ「八重の桜」の背景や世界観を体感できる
ハンサムウーマン八重と会津博 大河ドラマ館』があります。

八重の桜(綾瀬はるか) アームストロング砲

八重の桜サイン入りパネルアームストロング砲
記念撮影にどんどん撮って下さいとこのパネルをお勧めされたので掲載しても良いのかな?
ドラマ館の外には説明等は無いですが、会津を苦しめた(小田山から佐賀藩が砲撃をあびせた)アームストロング砲の複製が置かれています…

第1展示場は大河ドラマ情報と
八重の原風景・会津藩山本家ゾーン
大河ドラマ登場人物の衣装や撮影小道具、山本家全景の模型展示など展示

山本家セット
角場(射撃場)セットを再現。ドラマと同型のスペンサー銃を使った射撃体験が出来ます。
銃の照準は外されていて、弾ではなくモニターの的にセンサーを当てて撃つデジタル仕様ですが、様になる銃の持ち方や構え方が分かって面白かったです!
撮影向けというのもありますが火縄銃とは構え方が違いますね。銃床を肩にあてなければいけないので弓のつがえ方とも違いますが胸から下は弓道の応用でよさげ。

シアターコーナー
八重の桜メイキング映像等放映
…等で構成されています。

 

鶴ヶ城北出丸セット

北出丸再現セット

第2展示場はドラマセットゾーンが主体で、鶴ヶ城の籠城戦で大砲を設置した「北出丸」が再現されています。こちらは一部撮影可。
チケットやパンフレットに使われている会津若松城下絵図屏風もここに展示されています。

鶴ヶ城籠城戦の大砲模型 臼砲

▲複製大砲と弾丸
フランス型四斤山砲のレプリカかな。先に飯盛山で新政府軍の弥助砲の砲身を見ていたら、よりコンパクトに見えるかも。
臼砲は至近距離用。隣に砲弾も有ります。

他アンテナショップや絵付け体験のチャリティーブースも有り、八重の桜ファンには充実のスポットでした!

大河ドラマ館サイト:http://yae-sakura.jp/dramakan
所在地:福島県会津若松市城東町2番3号

 

大河ドラマ館パンフレット

まるとく会津(割引券)の引換特典は可愛いミニ缶バッチ。
ちなみに「ハンサムウーマン」は新島襄が、凛と生きる妻の八重を称した言葉です。

川崎尚之助と山本一家・八重との関係

川崎尚之助について、尚之助と山本一家、八重(やえ。後の新島八重)との関係についての覚書。
※大河ドラマ「八重の桜」のネタバレになりますのでご注意下さい

 

●出石藩士の川崎正之助
川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)は天保7年(1836)11月、但馬国出石(いずし。現兵庫県豊岡市)の本町で、川崎才兵衛(通説[a]では出石藩の藩医)の子として生まれた。はじめは正之助と称した。

正之助(尚之助)は江戸に出て蕃書調所(ばんしょしらべしょ。幕府直轄の洋学研究教育所)教授の杉田成卿(せいけい。杉田玄白の孫)や、芝浜松町の医師大木忠益(仲益。坪井為春に改名)塾で学び[b]、蘭学や舎密学(せいみがく。化学)を修めた。

 
●山本覚馬と出会い、浪人として会津へ
嘉永5年(1852)頃に会津藩の山本覚馬(やまもとかくま)が砲術隊長林権助(ごんすけ)に随行し江戸藩邸勤番を命じられ、この間に勝海舟らと兵学者佐久間象山の塾に学んでいた。
覚馬は正之助も学んだ大木塾に嘉永6年~安政3年(1852~1856)頃まで居たとされ[b]、安政4年(1857)に南摩綱紀と共に会津藩藩校「日新館」の蘭学所の教師となった。この蘭学所設立前に正之助の才能を見込んで会津に招き、会津城下の自宅(米代四ノ丁)に寄宿させ、四人扶持で蘭学所の教授に推薦するも正之助は扶持を辞退している。
扶持取…一人扶持は1日あたり玄米五合として俸禄を受けた。四人扶持は1年に七石二斗

正之助は砲術指南役の山本家[八重の母の山本佐久(さく)が砲術師範山本家の長女で、山本権八(ごんぱち。永岡繁之助)が婿に入って継ぐ]の元でラッパや鉄砲と弾薬・銅製パトロン(薬莢)の製造も指導する。

また会津藩祖の保科正之と同じ漢字を避けて尚之助(荘之助)と改めたという。[a]
この時尚之助21歳、覚馬の妹で権八の三女の八重は13歳。

 
●覚馬上洛、砲術師範としての尚之助
文久2年(1862)会津藩主松平容保(かたもり)の京都守護職就任で随行の覚馬が上洛した後、尚之助は日新館所師範方として砲術等を教授した。

元治元年(1864)7月19日、前年に会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派に京都を追放された長州藩勢が松平容保らの排除を目的に挙兵した禁門の変(蛤御門の変)で覚馬は砲兵隊を率いる。この時の戦いで視力が低下したとも。
10月に京都詰と若松詰の会津藩家老の間で尚之助の上京について意見が交わされる(会津藩軍奉行・林権助より上洛要請)ことから、この頃には尚之助は会津藩士になっていたと思われる。

慶応元年(1865)に尚之助は21歳の八重と結婚したともいわれる。

 
●会津戦争、尚之助は大砲隊の指揮者として戦う
尚之助は「大砲方頭取」として十三人扶持の俸禄を受けており[1]、明治元年(1868)会津戦争に参戦。
家老萱野権兵衛(かやのごんのひょうえ。長修、ながはる)配下の会津軍では女子の参戦を許さなかったが、薙刀奮戦隊(後年「娘子(じょうし)軍」と呼ばれる)を結成した婦人達は押し切って、彼女らの慕う照姫(てるひめ。松平容保の義姉)の元へ集おうとし、8月25日には城下に迫る長州藩との攻防に身を投じた。柳橋の戦いで中野竹子(なかのたけこ)討死。

断髪し白虎隊(八重は臨家に住む伊東悌次郎らに鉄炮の撃ち方指南をしている)と同じ黒の洋装で大小の刀を差しゲベール銃を携えて男装した八重は鳥羽・伏見の戦いで死亡で佐川官兵衛率いる別撰組と配下で戦死した弟の三郎としての心持ちで鶴ヶ城籠城戦に参加する。
八重は8月23日に城内に入り屋敷から持参した新式7連発スペンサー銃で土佐藩兵や加勢の薩摩藩士らを城内から射撃、大砲も撃ちかかった。
8月25日に新政府軍に城の東の小田山を占拠され佐賀藩の天守砲撃に悩まされるが、8月27日尚之助らは四斤山砲を豊岡神社に設置して小田山を砲撃し猛烈な反撃を加えた。この時八重も尚之助を手伝ったという。

9月13日夜、尚之助は城東外郭の敵を二時間にわたり砲撃。
9月14日に鶴ヶ城総攻撃が行われるさ中、尚之助が「我軍は天守閣を的に掲げるのに彼等の弾は命中するに能はず、余一発を小田山の砲塁に加へ必ず命中せしむべし」と弟子の高木盛之輔に言い、放った砲弾は敵塁を貫き丹波家の墓石塔を損傷、第二発復要所に命中し敵塁を鎮めたという。[c]
9月17日、城外の一ノ堰の戦いで会津玄武隊(50歳以上の隊)として八重の父の権八が戦死。厳しい籠城戦が続き9月22日午前10時、大手前に降伏の白旗が掲げられ開城。

 
●会津開城後の謹慎
会津開城後に尚之助ら城外藩士は謹慎で塩川村、後に他の謹慎者1720人と共に東京へ向かう。[d]
一方八重は、婦人子供60歳以上の老人は御構い無し(立退き自由)にも関わらず、弟の山本三郎を名乗って城内藩士らと共に猪苗代へ謹慎に向かった。

※覚馬は在京で戦い、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩に捕らわれ(失明同然でも活動を続けた覚馬の名は認められており、薩長同盟以前の禁門の変で共に戦った西郷吉之助ら薩摩藩士の待遇は良かった)、明治2年(1869)釈放、翌年京都府庁に出仕、京都府顧問となり会津には戻らずに至る。
余談として在京中に覚馬が開いた洋学所の門下には会津戦争の折に会津に残った戦った新撰組隊士・斎藤一も居た。

 
●山本一家は尚之助の伝手で米沢、尚之助は旧会津藩士として斗南藩へ
※領地没収となっていた会津藩は、明治2年11月3日松平容保の嫡男の容大(かたはる。当時生後五か月)が家名存続を許され現青森県に斗南(となみ)藩を立藩。翌年、旧会津藩士の移住が許される。

明治3年(1870)閏7月、山本一家が、米沢城下の米沢藩士内藤新一郎(尚之助から砲術の師事を受けていた。四石扶持)宅に寄宿(現山形県米沢市城西)した際、「川嵜尚之助妻」と記された戸籍簿が残っている。
京に上った覚馬もおらず、弟の三郎は京で父の権八も会津で戦死しており、佐久、八重、うら(覚馬の妻)と次女の峰(みね)、佐久の伯母を伴う米沢移住である。

10月、東京で謹慎していた尚之助は斗南藩領の野辺地(のへじ)に移住。
※尚之助が一度京都へ行き、会津を経て田名部(たなぶ。斗南藩庁地)に渡った説もある[2]

覚馬の妻の山本うらも、この時覚馬を世話する小田時栄≪時枝、時惠・時恵。丹波郷士の小田勝太郎の妹で、明治4年覚馬との間に娘・久栄(久枝。徳富蘆花(健次郎)の小説「黒い眼と茶色の目」は健次郎自身と久栄(茶色の目と形容)の恋愛がモデルで、黒い眼の先生は新島襄)誕生≫もおり、京都に行かず覚馬と離別し、子の峰を八重に託し、斗南へ行く。
※時栄とも後に離縁。覚馬は離縁の元となる不始末を許すつもりだったが八重と峰が追いだしてしまったと語る。時栄の不祥事は小説中に、久栄の婿養子にする為に会津から迎えた同志社英学校で学ぶ青年との不倫(密通)で覚馬の身に覚えのない子供を孕んだと書かれているが、確証は無い。
※越後高田(現新潟県)で謹慎していた斎藤一(山口二郎から藤田五郎に改名)も斗南藩領の五戸に移住。その後は諸説あるが旧会津藩士篠田内臓の娘の篠田やそと結婚、明治7年に上京し旧会津藩士高木小十郎の娘の高木時尾(ときお)と再婚したともされる。

明治4年(1871)8月3日、覚馬の招きで八重は母の佐久と姪の峰と共に米沢から京都へ。
前月8月2日には尚之助に砲術を学んだ者たちによる「先生の家内」としての山本家送別会があった。[e]
※7月14日には廃藩置県で斗南藩は斗南県となり藩知事の松平容大も東京へ移住している。

 
●尚之助の函館渡航
斗南藩は表高は3万石だが実際は不毛の地であり更に新政府からの扶助米も廃され、窮乏した。
飢餓に苦しむ領民を見捨てられなかった尚之助は「開産頭取」(かいさんかしらどり)、米座省三は「斗南藩商法懸」として米の調達のため函館へ渡る。

明治3年(1870)10月27日函館着。尚之助と米座は大工町徳弥方に止宿。
翌閏10月(1870年10月23日)にデンマーク名誉領事である商人デュース(John Henry Duus)所有の広東米15万斤と引き換えに、斗南藩で収入予定の大豆2550石を翌年三月に渡す契約を結んだ。[f]
契約は尚之助と米座との連名・柴太一郎を保証人とし、運送費用など尚之助側の負担が多いものだった。

12月20日米手形を別の担保(米座が函館商人池田勝蔵に払うべき借金)として英国商人ブラキストンに差押えられ米を出荷でず、翌日尚之助はブラキストンの米手形返却を開拓使(蝦夷開拓の政府機関)へ嘆願するが、米座の行方不明(ブラキストン函館から逃がしたとされる)や英国領事の非協力対応で難航。
明治4年(1871)3月9日米手形が返却されるが、その間の相場変動等で食い違い、支払がデュースの意向に合わず、4月9日尚之助らがデュースに訴訟された。
※協力者の裏切については否定されているものもあるので省略

 
●尚之助は訴訟により東京へ
デュースは賠償は斗南藩が払うべき訴え、尚之助側も4月11日米手形不当差押えにより生じた損害はブラキストンの責任として提訴。
4月27日に辰野宗城(たつのむねよし。斗南藩権大属・会計係)が尚之助は藩政に関る者ではなく米取引の契約も藩に無関係と開拓使外務係へ上申。その後も藩の責任者は藩の賠償を否定した。
9月15日には尚之助と柴も鉱山事業のため(銕山興起)の函館行であり藩命でなく個人での取引であったと口述。

明治5年(1872)尚之助は斗南への影響を慮り罪を被って、デュースとの裁判の為に上京したという。取調べは司法省の東京裁判所・司法省裁判所で行われ、尚之助は契約は斗南の飢餓を見過ごせず、また藩命でないことを口述。
6月デュースはデンマーク公使を通して外務省に損害は藩が負担するものとして起訴、その後日本側が藩は取引に無関係と主張。

明治6年(1873)まで本石町四丁目(ほんごく。現日本橋本町)山田和三郎方寄宿の会津人、名越勝治のもとに寄宿。12月に家主が破産し離散。
その後浅草鳥越明神裏通の川村三吉が病気の尚之助を下宿させる。

※8月から山本覚馬と八重は小野組転籍事件で拘留された槇村正直(京都府大参事)の開放を求め上京し四か月滞在している。この折に八重が鳥越の尚之助と会った逸話があるが、その頃尚之助は浅草鳥越移住の記録はない。

明治7年(1872)ブラキストンの裁判の為3月18日収監中の米座が函館送りとなり、28日に尚之助も請書の提出のため官費・監視人付きの函行きが決まる。4月18日に尚之助の知らぬ間に知人の川上啓蔵が預かり人とされ呼出される。19日、川上と尚之助両者が病のため青森県士族の根津親徳が代理人として法務省に出頭。
5月12日尚之助は開拓使東京出張所へ、青森県の許可も得た自費での函館渡航を申し出た。差添人は本郷竹町の道具屋徳兵衛方に寄宿の会津人加藤保次郎、保証人に根津。
しかし尚之助は(根津によると)6月1日会津若松に到り7月17日付の手紙に脚気を患ったとあり、その後は旧斗南藩領の青森県二戸郡釜沢泊の折に大病を患い、東京へ戻った。

根津親徳(ちかのり。金次郎)は尚之助より14年下で、浅草今戸十一番地に住む永岡久茂(ひさしげ。敬次郎。田名部支庁長辞任後に評論新聞社を設立、明治9年の思案橋事件後に獄死)の書生。
八重の父権八は久茂の永岡家の分家の出であり、尚之助は八重の夫として、根津を通じて永岡の援けも有ったのかもしれない。

 
●尚之助の最期
明治8年(1875)2月5日に帰京した尚之助は、7日に下谷和泉橋通(現・神田和泉町)東京医学校の病院に入院。根津が尚之助の身元引受人を加藤から自分への変更を申し出る。

3月20日午後3時頃に入院先の東京医学校病院第五番で慢性肺炎症により死去。享年39。遺体は看病していた根津が近隣に埋葬したという。
デュースの追及は死後も続くが、尚之助に家族無しと皆は答えた。
※浅草区今戸町称福寺に葬られたともされるが、現在称福寺は移転しており、尚之助の墓は存在不明となっている。
※実家の出石(現兵庫県豊岡市)に一人東京で没した尚之助を偲び供養したと思われる墓石が過去に存在した記録がある。改名は川光院清嵜静友居士。[3]

※確証はないが尚之助は鳥越で子供相手の手習い師匠として生計を立て貧窮していた、旧米沢藩士小森沢長政の扶助を受けた等の旧藩士小川渉[a]談もある。鳥越では「この頃は金のなる子のつな切れて ぶらりと暮す鳥越の里」等、狂歌を残したという。

 

訴訟の追及が及ぶのを考えて選んだ最期か、史料に「子無し弔祭するものなし」とあり孤独な病没だった尚之助とは対照的に、背を患い立つことも困難になっていた盲目の覚馬は時に八重に背負われながら産業・教育等多方面で京都近代化に貢献し、八重は性格不一致にして円満となる新島襄(にいじまじょう)との結婚そして晩年まで婦人活動に励み、歴史舞台においては、明るい。

※八重との離婚を示す資料は無いが、尚之助が入院した明治8年2月には八重の書類上の記名が川崎八重でなく山本姓(山本屋ゑ)になっている

※この記事は参考資料整理・確認中の覚書です。後日別ページにまとめるかもしれません。無断転載はお止め下さい。
※[1]:『外様分限帳』によるが同書に覚馬が十九人扶持「大砲方頭取」とあり、『幕末会津藩往復文書』で「大砲方頭取御雇」十六人扶持とあるので(父権八から家督を継いでおらず御雇)、誤りとの指摘もある
[2]:『旧斗南藩帰農商人伊呂波寄』に「川崎尚之助 壱人 京都府」とある
[3]:あさくらゆう氏の調査による

※出典 a:小川渉『会津藩教育考』 b:西田長寿『大島貞益』『同志社談叢』 c:斉藤肆郎『会津籠城記中軍護衛隊』 d:『京都謹慎人別イロハ寄』 e:『鶴城叢書』内藤新一郎記述項 f:『開拓使公文録』

 
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…慶応元年(1865)結婚とされていますが、会津戦前後に尚之助が郷里の命運や多くの犠牲に怯え落胆する山本一家の支えになろう(助手を務めた八重とは未婚だが見分や聞き語りで記録する者の目からは既に夫婦と思われていたかもしれない)と籍を入れたか、尚之助の伝手の米沢移住の都合で妻を名乗って登記したか。それとも斗南の者を救うために奔放する道を選んだ尚之助がリスクを負わせないよう秘かに離縁したか……覚馬の妻、うらや旧会津藩への気遣いも有ったのでは云々と、様々な可能性を想像してしまいます。

そしておまけ。記事登場人物の、大河ドラマ「八重の桜」でのキャスト(番組ガイド・公式サイトより。成長後、敬称略)

・山本八重:綾瀬はるか
・山本覚馬:西島秀俊(かくま。八重の兄)
・川崎尚之助:長谷川博己(元・但馬出石藩士、洋学者)

山本家
・山本権八:松重豊(八重の父)
・山本佐久:風吹ジュン(母)
・山本三郎:工藤阿須加(弟)
・山本うら:長谷川京子(覚馬の妻)
・山本みね:千葉理紗子(みね)

会津藩
・松平容保:綾野剛(会津松平家9代藩主)
照姫:稲森いずみ(容保の義姉)
萱野権兵衛(ごんべえ):柳沢慎吾(会津藩家老)
林権助:風間杜夫(会津藩大砲奉行)
佐川官兵衛:中村獅童(会津別撰組)

・伊東悌次郎(ていじろう):中島広稀(白虎隊士
・高木時尾:貫地谷しほり(八重の幼馴染)
中野竹子:黒木メイサ(中野平内の長女)

江戸幕府
・勝海舟:生瀬勝久(幕臣)

新撰組
斎藤一:降谷建志(新選組隊士)


小田時栄:谷村美月(覚馬の後妻。のちに離縁)

諸藩
・西郷吉之助:吉川晃司(薩摩藩士。会津と共に戦ってきたが薩長同盟で新政府側に)
佐久間象山:奥田瑛二(松代藩士。象山塾に覚馬が入門していた)
・新島襄:オダギリジョー(上州安中藩士、軍艦教授所生)

参考図書
・あさくらゆう『川崎尚之助と八重
・野口信一『会津えりすぐりの歴史
・好川之範『幕末のジャンヌ・ダルク 新島八重
・『歴史REAL八重と会津戦争
・『歴史読本2013年3月号→Kindle版 『歴史読本2012年9月号
・『会津人群像2012年22号
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・石光真人『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書
・青山霞村『山本覚馬伝
・徳富健次郎『黒い眼と茶色の目