歴史巡り」カテゴリーアーカイブ

史跡探訪や展示会観覧の覚書

山崎の戦い・伊庭が負傷した三枚橋

箱根山崎古戦場絵葉書 

▲古い絵葉書の山崎古戦場と現在の山崎ノ古戦場の碑
旧幕府遊撃隊伊庭八郎は三枚橋(地域)の松並木の下で斬られたというが、絵葉書や案内板の風景の頃は古戦場にまだ松が茂っている。
かつての湯場道は明治時代に国道1号線(第一号国道)として開通(人力車や馬車も通れる広さに整備)した。

慶応4年(1868)5月20日の遊撃隊・林忠崇ら旧幕臣兵による箱根関所占拠で佐幕に転じた小田原藩へ、23日に三雲為一郎軍艦の総督府は錦旗奉行穂波経度を藩主大久保忠礼の問罪使として派遣する。
24日因州・長州・備州・伊州(藤堂)4藩の兵が酒匂と飯泉の二方面から迫ると、藩主忠礼は城を出て菩提寺の本源寺に謹慎して新政府に恭順の意を示した。
小田原藩は林・遊撃隊らの追討を決めたが、一説にはそれを不服として藩を離れ遊撃隊に協力した小田原藩士もいたという。

湯本村に進駐していた100人程の先鋒隊を率いていた伊庭は小田原城に談判に出ていたが、25日朝までに退去通告を受けた。
伊庭は小銃弾を浴びせられたが控えていた遊撃隊士が応戦する。脱出の際に第一軍の隊士4名が城付近で戦死、石垣山で佐山清五郎が小田原藩兵に射殺された。
湯本村に戻った伊庭は湯本茶屋を本陣として、入生田・山崎に兵を置き、強襲に供えて上り坂に土俵を4、5尺積んで砲塁を築く。彼らの陣地は小田原方面よりも高く位置し地の利があった。

追討軍は新政府側の4藩からなる総督府軍二千人と小田原藩兵千人の大軍であったとされ、はじめ総督府軍は背後からの監視についていた。
小田原藩大砲方は加藤丈之助らが早川方面・仰徳隊が入生田の二隊に分かれて進む。

26日の朝、伊庭率いる第二軍遊撃隊と二番隊元駿府藩兵、第一軍一番隊元勝山藩兵・二番隊元前橋藩兵ら旧幕脱兵軍先鋒隊へ砲撃が開始された。
山と早川に挟まれた街道を進む小田原本隊を、遊撃隊らが丘の上から撃ちおろし、木立の中や民家に身を隠して側面からも狙撃する。
小田原兵が数で優位であっても押されているのを見ると、控えていた長・因・津兵が戦闘に加わり激戦となった。

午後になると遊撃隊らは弾丸が尽きて持ちこたえられず早川の対岸早雲寺付近まで退却を決めるや否や、長州軍が抜刀突撃を号令し全隊突撃で襲いかかり山崎の入口で激しい混戦となった。白兵戦となると伊庭は草影から姿を現し3人を斬ったという。

夕刻、負傷兵を助けるために街道へ出た伊庭が腰に被弾し、長州兵と交戦中、深く敵陣に入り込んでいた小田原藩兵高橋藤太郎(鏡心一刀流とも描写される)を味方と誤認して左手首を斬られ、即座に伊庭の従者の坂田(坂本)が高橋の顔面に銃を向けて2間離れた街道まで撃ち飛ばした。(伊庭が右手で斬り伏せたとも伝わる)

伊庭八郎奮戦図
大蘇芳年(月岡芳年)『競勢醉虎傅』伊塲七郎(伊庭八郎のパロディ)

三枚橋では竹内利平が討死し、山崎駒爪から三枚橋までの数町の間に遺棄された遊撃隊・旧幕臣らの死体は22名であったという。
資料により異なるが小田原藩兵は戦死者8名・負傷者は家老渡辺了叟ら22名。

勝山藩士32人のうち戦死15名・戦傷10名・行方不明2名という壊滅状態。
伊庭の第二軍28名中戦死4名・戦傷5名・行方不明8名を出し、隊長の伊庭が重傷を負った。
第二軍として遊撃隊に加わっていた駿府(静岡)勤番も上野惣兵衛と川辺栄之丞の2名が戦死し、8人が戦傷、二人が行方不明となった。

三枚橋方面 山崎古戦場案内板
▲山崎から三枚橋方面を撮影。右は「箱根戊辰の役」案内板

 

伊豆山中本営で東海諸藩へ協力を煽っていた第四軍総督の林忠崇も箱根に移り関所から各方面の注進を指揮した。
小田原藩兵の別働隊が石垣山より進んで側面から撃とうとし、派遣されていた兵と畠ノ平で戦闘があった。

山崎から脱した遊撃隊らは畑宿や箱根宿に入る。重傷の伊庭も部下の助けで戦線を離脱し深夜0時頃に忠崇旗下の請西藩士が居る峠に到り、忠崇が畑宿に医師を手配させたとみられる。
三島方面の警戒も強まり、旧幕脱兵軍は包囲される形へ追い込まれた。
夜更けに関所へ引き上げた隊士達のうち、遊撃隊は再起を図り東北に転戦することを主張、岡崎藩士らは自決を主張し意見が割れたが、忠崇が戦友の死を無駄にせず再起を願うと決断し、皆はこれに従い箱根撤退が決まった。

追撃は徹底的に行われ、27日には鞍掛山方面の芦川で4人が見付かり2人が射殺され、2人は逃走中に生捕りにされ小田原へ送られた。請西藩の吉田周作と逸見静馬で、後に小田原藩に召し抱えられたという。
伊豆の山中村でも6人が捕らわれ斬殺された。
夜8時頃に箱根日金山東光寺の地蔵堂に2名(広部正邦と秋山荘蔵)が潜んでいるとして捜索、熱海坊を三十数人で囲んで銃撃し、踏み込んで小田原藩兵数人で有無を言わさず刺殺した。

28日に石垣山で大原主馬介と信州の農兵松蔵が捕われ、箱根峠付近で請西軍に小者として加わっていた百姓の平助が生捕りにされた。平助は5、6年後に許されて故郷に帰った。
昼頃に宮城野橋の袂で前田条三郎ら10人が発見され、木賀渓谷まで逃亡し堂ヶ島温泉宿の近江屋に潜伏した。ここで9名が射殺され、1人は米櫃へ隠れて難を逃れた。
近江屋を出た小田原藩兵は仙石原でも2人を討っている。

過酷な掃討を受けながらも熱海へ辿り着いた遊撃隊・旧幕臣兵達は押送船で網代へ出て、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に乗り込み館山へ戻った。

 

三枚橋付近の古写真 現在の三枚橋の上

三枚橋(さんまいばし)付近の古写真と現在の同地
江戸時代後期の三枚橋は長さ22間(約40m)幅1丈(約3m)余の土橋(川に架ける土橋は木製の橋の上面を土で均して歩きやすくしたもの)で、今のように岸をつなぐ高い橋桁の形ではなく、川にだけ架かっていた。
明治時代に岸から伸びた石の堤にかかる木橋となり、写真は明治43年(1910)水害で落橋した後のもので、後に再び写真手前に三枚橋が架けられる。
路の左右に山の峰が幾重も連なりとうとうと早川の水声が響く名勝の地で、かつては橋辺りに茶舗が軒を並べて湯本細工や米饅頭を販売していたという。
現在三枚橋がかかる付近は三枚橋の地名で呼ばれている。

伊庭が負傷した場所は「街道から二間離れた」「松並木の下」との証言がある。
後に忠崇(山崎の戦いには直接参加していない)が描いた伊庭八郎負傷の画では背後から右腕を斬られ、左腕で敵を斬ったとする。
また当事者以外の聞き語りや伝記を元にした講談では三枚橋の「橋の上」で斬られるシーンが主流だが、箱根の役当時とは異なる明治以降に架け変えられた橋をモチーフに描かれたものも多い。

現代の三枚橋 現在の三枚橋2

▲現在の三枚橋
木橋の頃より両岸の幅が狭まり、橋はやや湯本寄りに架かっている。

早川に架かる三枚橋は江戸時代の東海道と湯本路との分岐点にあたり、橋を渡らず温泉場へ向かう道は「湯場道(ゆばみち)」と呼ばれた。
小田原北条氏時代は川幅が広く、中州が2つあり地獄橋・極楽橋・三昧(さんまい)橋の3枚の橋が架かっていて、橋を渡り切ると北条氏の菩提寺早雲寺の総門だった。
早雲寺に駆けこめば犯罪人も罪を免れて極楽橋まで逃げると助かったので、次の橋を「これからは仏三昧に生きよ」という意味で「三昧橋」と名付け、その名が今は「三枚橋」として残ったという。(箱根観光協会の案内文より)

所在地:神奈川県足柄下郡箱根町

初期の飯野藩保科邸と吉良上野介邸

元禄江戸城周辺

▲元禄年間の絵図では鍛冶橋門内に飯野藩保科邸(兵部少輔正賢)と吉良上野介邸。
呉服橋門内に南町奉行所(能勢出雲守邸)、和田倉門近くに会津藩邸(3代藩主正)が在る

呉服橋の南には鍛冶橋(現在の東京駅八重洲口南側)がかかり、鍛冶橋門のそばに忠臣蔵のモデルでお馴染み吉良上野介義央が生まれたととされる屋敷の隣に飯野藩保科家の上屋敷(寛永10/1633年4月に2代藩主保科正景が賜わり元禄11年9月18日まで在)がありました。後の貝淵藩林邸の2軒隣の邸地です。

※米澤城主上杉綱勝を介して吉良義央と繋がる会津藩の保科肥後守…保科正之は、高遠城主時代の寛永10年2月に桜田門内に上屋敷(西の丸のすぐ脇。会津藩2代藩主保科筑前守正経の代まで在)を賜り、6年後の山形城主時代に芝新銭座を賜り下屋敷(正経の代から上屋敷。庭園を造り箕田園と呼ぶ)としています

元禄11年(1698)9月6日午前10時江戸の大火で吉良邸・保科邸が類焼してしまい、飯野潘3代藩主保科正賢(兵部少輔)は麻布村の地を与えられ、吉良上野介は呉服橋門内の後に北町奉行所が建つ場所に移りました。
鍛冶橋内の屋敷跡には10月5日に町奉行松前伊豆守邸が営造され、ここが南北町奉行所となります。

元禄14年(1701)3月14日、将軍家勅客式(朝廷から江戸城に下向する使節を迎える)当日に、勅使御馳人(使節の供応係)の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)こと赤穂城主浅野長矩(ながのり)が私怨により、式の指導にあたっていた奥高家(幕府の儀式儀礼を司る)吉良上野介を松の廊下で斬りつけました。
夜に内匠頭は殿中(でんちゅう)刃傷(にんじょう)により切腹を申付けられ、彼の家臣達は主君と屋敷そして赤穂城をも失うことになります。

お咎めのなかった吉良上野介も自ら免官を願い表高家(非役中の高家)となりますが、8月19日に本所松坂町の松平登之助(駿河守)邸へ屋敷替えを命じられます。
12月11日に上野介は引退を願い出て養子の左兵衛佐義周(さひょうのすけ よしかね)が家督を相続しました。

元禄15年(1702)12月15日未明、内匠頭の遺臣大石良雄(内蔵助)と四十六人の赤穂浪士が本所宅を襲撃し上野介を刺殺します。享年62歳。
警備の行き届く呉服橋門内から、あえて討入りさせやすい場所に屋敷替えをさせたとも噂されました。

参考図書
・東京市『東京市史稿
・江戸幕府普請方『御府内往還其外沿革図書』
・義士叢書刊行会『赤穂義挙録』
・三田村鳶魚『元禄快挙別
他。江戸絵図等

箱根関所

箱根の関所 箱根関所案内板

▲箱根町箱根関所(国指定史跡)
箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画した配置となっています。
写真の右側が江戸口、左側が京口です。各御門の前の広場は千人溜(せんにんだまり)で、旅人達が関所改めを待つ待機場に利用されました。
奥の大きな建物が小田原藩から出向いた役人が詰める大番所(おおばんしょ)と上番休憩所、向かい手前の建物が足軽(あしがる)が控える足軽番所です。

通常、関所には責任者の伴頭(ばんがしら)1名、その補佐役の横目付1名、番士3名、定番人、足軽15名、女性を取調る女役人の人見女などがおり、関所内に役人専用の休憩所や生活の場が設けられています。

 

江戸口御門 京口御門

▲江戸口御門と京口御門
高麗門形式の大きな門です。江戸方からの通行は江戸口御門(左写真)から入り、門前で身支度を整えて関所の中へ入りました。

面番所 出女

▲面番所と出女
一般的に関所では「入り鉄炮に出女(でおんな)」を取り調べたと言われていますが、この箱根関所では「出女」に対する厳しい取調べを行ってました。
大番所に関所役人や定番人(じょうばんにん)が詰める面(めん)番所があえい、その縁側で人見女が出女を取調べます。

上の間 鑓建と長柄建

▲上の間と鑓・長柄建
上の間(かみのま)に飾られた鉄炮や弓や、外に立てられた鑓建や捕りもの道具の三つ道具(刺股・突棒・袖カ搦)が旅人を威嚇します。奥に見える柱は馬を繋ぐ外繋です。

御制札場 獄屋

▲御制札場と獄屋
御制札場には関所の役割が記載された高札が掲げられました。
足軽番所にある獄屋は罪人を一時的に拘置する牢屋です。

 

箱根関所は元和5年(1619)江戸幕府が山と湖に挟まれた交通の要所であるこの地に設置したと伝えられています。
江戸幕府が江戸防衛のために全国に設置した53ヶ所の関所のうち、東海道の新居(静岡県)、中山道の碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)と並んで規模も大きく、特に重要な関所と考えられて、江戸時代を通じて機能を果たしてきました。

設置から250年後の明治2年(1869)に新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。
箱根関所の跡地は、大正11年(1869)「箱根関跡」として国の史跡に指定されました。昭和40年(1965)には番所の建物が建設され、昭和58年(1983)に江戸末期に行われた箱根関所の大規模修理についての克明な報告書『相州箱根御関所御修理出来形帳』が韮山町の江川文庫から発見されて資料の解析や跡地の発掘調査を経て、平成19年(2007)春に国土交通省と神奈川県の補助を受けた復元整備を終え、箱根の関所は往時の姿によみがえりました。
(箱根町教育委員会の案内文より)

 

遠見番所 箱根関所と芦ノ湖

▲遠見番所と芦ノ湖を望む展望
江戸時代、旅人が芦ノ湖を船で通行することは禁止されていたので、丘の上に建てられた四方に大きな窓が開いた遠見番所から足軽が交代で昼夜監視していました。
写真右手、江戸口御門側を通って進むと箱根関所資料館があります。

所在地:神奈川県足柄下郡箱根町1番地
箱根関所HP:http://www.hakonesekisyo.jp/

木挽町の象山塾と狩野画塾

佐久間象山塾跡 木挽町

佐久間象山塾跡
嘉永3年(1850)信濃国(長野県)松代藩士の佐久間修理(象山)は、江戸深川の松代藩下屋敷で門弟たちに西洋砲術を教えていました
嘉永4年(1851)に象山は木挽町(こびきちょう)の戸川弾正宅跡を買取り住居とします。地主は旗本諏訪庄助の弟の浦上四九三郎。
5月28日ここに塾を開き、砲術と経書を教授しました。

塾は二十坪程の規模で、入門者は百二十人に達し、常時三十~四十人が学んでいたといいます。
門下には勝麟太郎・吉田松陰・橋本左内・河井継之助・坂本龍馬等多くの有能な人物が集まりました。

木挽町塾跡 銀座みゆき通り

▲象山塾と狩野画塾の地付近を撮影
嘉永6年改正の絵図に後述の狩野勝川(かのうしょうせん。幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向い合う場所に「佐久間修理」象山の名が見えます。隣に浦上四九三郎の名前もありますね。

 

木挽町狩野派画塾跡 狩野画塾跡の案内板

木挽町狩野画塾(かのうがじゅく)跡
江戸幕府の奥絵師であった狩野四家全て中央区内に拝領屋敷がありました。

狩野家の祖先正信は小田原出身で京に出て将軍義政に仕え室町幕府の御用絵師となり、子の元信(古法眼)の時に狩野派が大成しました。元信の孫の永徳は豊臣秀吉の命で聚楽大坂二条の金壁に書き、永徳の門人の山楽(京狩野祖)は秀吉の命で大坂四天王寺の壁に聖徳太子の縁起を書きました。
永徳の孫の探幽(たんゆう、守信)が海内独歩と呼ばれた大家で、勅命で紫宸殿の賢聖障子を書きました。

探幽守信が【鍛冶橋】狩野家の祖
・探幽の弟の尚信(自適斎、主馬)が【木挽町】狩野家の祖
・その下の弟の安信が【中橋】狩野家の祖
・尚信の孫の岑信(みねのぶ)が分家して【浜町】狩野家の祖
として幕府奥絵師の狩野四家となります。

尚信は寛永7年(1630)に江戸竹川町(銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になり、安永6年(1777)六代典信(栄川)の時に老中田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角にあたるこの地に移って画塾を開きました。

木挽町狩野家は千石も与えられて栄え、諸大名からの制作画の依頼も多く、門人もまた集まりました。門人のほとんどは諸侯のお抱え絵師の子弟で、十四、五歳で入門し、十年以上の修業を要しました。修行を了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つと言われました。
この狩野画塾からは多くの絵師が輩出しましたが、明治の近代画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦はともに木挽町狩野家最期の雅(うた)信(勝川)の門下生です。

 

浜町家は岑信が徳川幕府6代将軍家宣の寵愛を受けて「松平」から一字賜わり「松本友盛」と改名して木挽町家から分かれ、一時は狩野派の総上席になりました。※後に狩野姓に戻します
葛飾北斎ははじめ勝川派でしたが、浜町狩野派5代目寛信(融川/ゆうせん)に入門したため勝川派を破門になったという逸話も伝わっています。

寛信の子助信(友川)は木挽町狩野家8代目栄信(伊川)五男の中信(なかのぶ。幸川のち董川/とうせん、全楽斎)を養子にして継がせますが、幕末の上総請西藩藩主林忠崇浜町でこの幕府奥絵師法眼董川に画を学び、画号を如雲と号しました。

所在地…佐久間象山塾跡:東京都中央区銀座6丁目15番地域
狩野画塾跡:東京都中央区銀座5丁目13-9~14付近

参考図書
・横井時冬『日本絵画史
・帝国審美協会編輯部『日本古近現代書画家名鑑』
・山本元『書画鑑賞の栞』

佐久間象山の西洋砲術塾

佐久間象山砲術塾跡 象山砲術塾跡案内板

佐久間象山砲術塾跡
現代の永代通り、福島橋を永代橋に向かって渡った所に案内板が建っています。

佐久間象山砲術塾の場所

幕末の兵学者・思想家として著名な佐久間象山が嘉永3年(1850)深川の松代藩下屋敷で洋書を解読編纂していた頃に、門弟たちに西洋砲術を教えました。
安政年間の江戸絵図に福島橋を渡ったから冨吉町の北に真田信濃守の下屋敷が描かれています。

象山塾の門人名簿の『及門録』には勝麟太郎殿、長州藩士吉田大次郎(松陰)や会津藩士山本覚馬、大洲藩士武田斐三郎(函館五稜郭を設計)、長岡藩河井継之助等の有能な人物の名前が見られます。

江戸町火消しの纏 東京スカイツリー

▲左写真の奥が塾跡。
永代通りの街灯は深川の江戸町火消しをイメージした纏(まとい)が象られています。
先進技術を教えた塾跡地手前の福島橋から近代的な東京スカイツリーがくっきり(川の左側が跡地)

所在地:東京都江東区永代1-14付近

木挽町の象山塾の記事