飯野藩保科家」カテゴリーアーカイブ

飯野藩設立から廃藩まで続いた藩主、保科家関連のブログ記事です。
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保科家ゆかりの高遠樹林寺

樹林寺本堂 保科正之公頌徳碑と母お静の供養塔

樹林寺の本堂と保科正之公頌徳碑・正之の生母お志津の供養塔
月蔵山(がつぞうざん)の北側、高遠城の鬼門(北東)に建ち、開山は高野山金剛頂院前住祐譽法院。
保科正之が出羽最上(でわもがみ。山形)藩として移封となるまで高遠城に暮らしたことから、平成2年6月10日に保科正之高遠城主就任360年を記念し会津松平家13代松平保定(もりさだ)氏の書で頌徳碑が建立された。正之の母、お志津(お静。浄光院)の供養塔が並んでいる。

■樹林寺と保科家
天正18年(1590)8月の家康の関東移封に伴い、高遠城主であった保科正直は、下総多古(しもうさたこ。千葉県香取郡多古町)に一万石を与えられて移封となった。
正直は隠居し、長男正光が保科家当主となる。

多胡で保科家の祈祷寺としていた樹林寺の本尊の夕顔観音は、昔、寺が火災で焼けてしまったが、村人が夢で見た夕顔の中に尊像が在るとお告げ通りに焼け跡の側の夕顔の中から立像がみつかったことから夕顔(ゆうがお)観音と呼び夕顔を刻み添えた伝承があった。
正直が樹林寺に祈っていた保科家の高遠再任が叶い、慶長6年(1601)正光は高遠へ転封が命じられた。

樹林寺も高遠へ移そうとしたが、多胡の村民に懇願されたために移設は取りやめ、代わりに樹林寺の観音堂の下の土を運ばせ、夕顔観音を写した立像を作らせて本尊にして、正光は高遠城の鬼門にあたる位置に同名の「樹林寺」を建立した。
正直は高遠に戻ったその年の9月29日に亡くなった。
樹林寺は、高遠に移ってから寺が出来あがるまでの間は高遠城二ノ丸の東の武具蔵の地に一時的に置かれたとも推測され、正直は熱く信仰していた夕顔観音に見守られての往生だったのかもしれない。

夕顔観音は境内の観音堂に安置され、慶長9年(1604)保科家が峯山寺より引いて建立したという護摩堂の本尊は不動明王。

 

■保科家以降の樹林寺
保科家の後の高遠藩主となった鳥居家、内藤家にも引き続き祈願寺として信仰され、内藤家の時代には京都東山総本山知積院の末寺となり、大日如来を本尊とした。
また伊那の壇林で、八十八々霊場の四十九番札所として信仰を集めた。
現在、千手十一面夕顔観世音菩薩立像は本堂に安置され、高遠町指定有形文化財となっている。

保科正之の生母お志津の供養塔 お志津の供養塔の刻銘

▲お志津の供養塔
寛永十二年 九月十七日
法紹日恵大姉淑霊
行年 五十二才 俗名 志津

お志津の方は天正12年(1584)小田原北条家の家臣神尾(かんのお)伊予栄加と杉田氏の母の間に生まれた。
天正18年(1590)に小田原城が落城すると栄加は浪人となり、お志津は秀忠の乳母大姥局(おおうばのつぼね)の奥女中として江戸城に上がった。
密かに2代将軍徳川秀忠の寵を受けて身ごもったのが幸松丸、後の保科正之である。

秀忠は正室のお江を大事にして表立って側室を持たずに過ごしていたので、お志津は秀忠が大奥の侍女に手をつてたことが公になることを恐れて身を隠した。
慶長16年(1611)5月7日、神田白銀町のお志津の姉の夫の竹村助兵衛次俊の家で、秀忠の知るところ無く江戸で幸松は生まれ、3歳になると老中土井利勝の保護のもと武田信玄の娘の見性院(けんしょういん)に預けられ、江戸城田安門内の田安比丘尼屋敷に住む。
元和3年(1617)7月、幕府の仲介で見性院が、元武田家臣で今は徳川家に誠意を尽くしている保科正光に7歳の幸松の養育を頼み、11月14日お志津と幸松は高遠へ向かった。
母子のため高遠城三ノ丸に新居を設えられ、大坂の陣で正光の異母弟正貞を助けた有能な家臣を守役にし、正光も在城の際には徳川将軍家の落胤として日に何度もご機嫌伺いをした。正光は生前にいずれは秀忠と幸松を対面させたいとも語ったという。

寛永12年(1635)9月17日、浄光尼(お志津)は52才で高遠城で息を引き取り、当時西高遠に在った妙法山長遠寺に葬られた。その翌年、正之は17万石の加増で出羽最上20万石を拝領し転封となる。
後に会津藩主となった正之はお志津の墓所を会津の浄光寺、更に身延山久遠寺(山梨県)へと移した。

樹林寺の総門 樹林寺から高遠城址を臨む

▲樹林寺の門前から高遠城址を撮影

真言宗智山派稲荷山真定院樹林寺(とうかざんしんじょういんじゅりんじ)
所在地:長野県伊那市高遠町東高遠2330

高遠の満光寺[1]保科左源太の墓

保科左源太と系譜略図

高野山成慶院『保科肥後守様御先祖御過去帳』に「法源院殿傅譽隆相大居士 信州高遠保科左源太御菩提也  施主同名肥後守様 寛永四丁卯十月三日但正月御命日
常燈御供養として「法源院殿傅譽隆相大禅定門 神義 同保科肥後守様御養子同銘左源太」と記されていることから左源太(さげんた)が保科正光(まさみつ。肥後守)の養子であったことは確かであろう。

満光寺鐘楼門と本堂 高遠最古の五輪塔保科左源太の墓

▲満光寺鐘楼門と保科正之(ほしなまさゆき)公の義兄弟左源太の墓
親縁山無量院満光寺(しんえんざんむりょういんまんこうじ)は天正元年(1573)笈往(きゅうおう)上人親阿芳公大和尚の開山で、昔は中町に在った。鳥居家が領した頃は浄土寺と改称し、享保17年(1732)12月十四世遺誉和尚が満光寺に戻したという。鐘楼門は牛久保流の大工菅沼定次の作とされ全て科(しな)の木を使用し善光寺になぞらえて建てられていることから「伊那善光寺」「信濃科寺(しなでら)」とも呼ばれた。

 

■保科家と左源太
武田家臣保科正直(まさなお)の嫡男正光は正室(真田安房守昌幸の娘。青陽院殿)との間に子が出来ず、側室も置かなかった。
※輿入れ時期は不明だが、天正10年(1582)の織田勢による武田攻めの際に救出され上田(長野県上田市)の真田昌幸の元へ身を寄せた理由が妻の実家と考えるとそれ以前で、正光は9歳から13年もの間武田勝頼(かつより)の子の信勝(のぶかつ。当時3歳)に仕えるために甲府に在って、言わば人質の状態から戦乱の波に呑まれた境遇のためとも考えられる
正直は、側室(光寿院。正重の母)の実家の小日向(おびなた。小比奈田)家に娘の一人(正光の妹)を嫁がせ、小日向源太左衛門との間に生まれた子、左源太を正光の養子に貰い受けた。つまり正光は甥を養子にとったことになる。

小日向源太左衛門は真田幸隆の長男(正光の妻の父真田昌幸/源五郎の兄)で天正3年(1575)5月の長篠の戦で戦死した真田源太左衛門信綱という説もあるが、確証は無い。
後世、内藤家時代の高遠藩の家老の葛上源五兵衛(くずかみげんごへえ)も満光寺を「真田左源太の菩提所廟所位牌…」と記しており、真田一族であったのは確かであろう。

天正10年の織田勢の侵攻で飯田城に居た保科正俊・正直親子は城の防備について武田家重臣と意見が対立し飯田を去り、高遠戦後に松本の小日向家へ、前述の通り正光も上田の真田昌幸の元へ身を寄せた。高遠の戦いでは正直の弟の善兵衛が討死している。
保科家臣赤羽俊房(あかばねとしふさ。甚六郎)が記した家伝、保科記と呼ばれる『赤羽記』に正光の母、武田家臣跡部越中守の娘も家臣と共に3月2日高遠城内で自刃し、満光寺住僧牛王和尚が遺骸を引き取り火葬しこの満光寺に埋葬したと記している。戒名は成就院殿願誉栢心妙大姉(後に北条家で害されたともされ、成慶院過去帳には「柏心妙貞禅定尼 天正十三年三月三日御命日…保科肥後守御慈母…」とある)

正直は実弟の内藤昌月を頼って上野箕輪城へ逃れ昌月と共に北条氏に帰属し高遠を奪還。
後に徳川方に転向し、家康から伊那半分の所領を与えられ、戦死した仁科信盛の後の高遠城主となった。
天正12年(1584)7月に家康の義妹多却姫を後室に迎え、天正16年(1588)5月21日高遠で正貞が生まれる。正貞は正光にとって腹違いの弟、左源太にとって年下の叔父にあたる。

天正18年(1590)家康の関東移封に従った保科家は下総多古(千葉県香取郡多古町)へ移封となり、正直は正光に家督を譲った。
※一方、真田家は徳川に歩み寄りつつ周囲の北条・佐竹・上杉氏を警戒しながら沼田等の領地を守る為の戦いを繰り広げていたが、家康に沼田領を北条氏に差し出すことを迫られた事から、昌幸は次男信繁を上杉景勝へ人質に送って上杉と手を結び、閏8月に北条・徳川の軍を上田で迎えうった。上田合戦の勝利を契機に豊臣政権に入り込み、豊臣秀吉の家臣となる。

文禄3年(1594)伝通院(家康生母)・家康・秀忠の前で、正光は7歳になった正貞を養子にするよう命じられた。既に養子の左源太が居るが、正貞は猶子の形で親子関係になる。
正貞は家康の外甥である血筋から、家康のそばで養育され、15歳で保科家嫡子が名乗る甚四郎に改名することとなる。

正光が再び高遠城主となって間もなく正直(正光と正貞の実父)が、その後正光の妻(真田昌幸の娘)が亡くなった。徳川家が積極的に後押しする中で、真田一族の血を引くことは肩身が狭かったであろう。
しかし後の行動で正光は左源太を気にかけ、正貞は行き場の無い正重母子を突き放しはしなかった

元和元年(1615)の大坂夏の陣では正光率いる保科軍の先鋒を正貞が務めたとする説の他に、正貞は不仲であった正光の軍には加わらずに本多忠朝(上総大多喜藩主。忠勝の子)に兵を借りて参戦したという逸話もある。

元和3年(1617)老中土井利勝の要請で、密かに匿われていた秀忠の落胤の幸松丸(こうまつまる。保科正之)が正光の養子として迎えられた。正貞は完全に廃嫡されたようだ。(幸松は「肥州(正光)には左源太という子がいるから行かぬ」と言い張り高遠入りを渋ったという逸話もある)
翌年、正貞の生母の多劫姫が亡くなる。

元和6年(1620)に正光は幸松に家督を譲る旨の書置で、正貞を厳しく絶交を言い渡す一方で、左源太には配慮を見せている。
遺言状の記された2年後に正貞は高遠を去り、正光の養子としては左源太と幸松が残った。

しかし寛永4年(1627)正月3日に正光よりも先に、左源太が息を引き取った。
病死とされるが、毒殺の噂も伝えられているようである。
左源太に関する資料は乏しく「丈ひくい小男であった」と伝えられている。

保科左源太の墓の南無阿弥陀仏 保科左源太の墓の刻銘

左源太の墓の五輪塔は在銘のものでは高遠で最も古いとされ、正面に「南無阿弥陀佛」
台石に「傅譽(伝誉)隆相」「寛永四」「丁卯・正月三日」と刻まれている。

満光寺所在地:長野県伊那市高遠町高遠975

本多忠朝[4]-大坂夏の陣天王寺の戦い

大阪夏の陣天王寺の戦い布陣図と比較地図

■大多喜出陣
慶長19年(1614)12月13日に本多忠朝の嫡男(本多政勝。内記)が生まれる。

元和元年(1615)大坂冬の陣の和睦直後大御所徳川家康は外堀のみ埋める約束を反故し内堀まで埋める等省みず、3月には遺恨を積もらせた豊臣家の再挙の報が駿府に届いた。
幕府より今まで1万石につき槍100本であった配備を、槍50本と鉄炮20挺とする通達があり、忠朝が3月23日付けで秋田実季らに写しを転送。

4月1日東軍諸将に将軍上洛の報を出し、近江国瀬田(滋賀県大津市)へ召集を命じる。
6日忠朝の大坂出陣が許される。忠朝は城下の明神社に参拝し、潔く大多喜を発った。
10日将軍秀忠が江戸を出発。忠朝らは東海道を進む。

 

◆余話◆忠朝と火縄銃
上記の幕府の通達からも察せられるよう、合戦で鉄炮が重視されるようになった。
忠朝は、豊後日出藩(ひじ。大分県速見郡日出町)藩主木下延俊(きのしたのぶとし。小早川秀秋の兄)と互いの江戸屋敷に出入りし合うほど親しかった。
そして延俊の国元から鉄炮が忠朝へと贈られたことがある。
※木下延俊は豊臣秀吉の正室寧々の甥で、初め秀吉の家臣であったが関ヶ原合戦で徳川方についた

 

◆余話◆保科正貞に兵を請われる
4月20日に土山(滋賀県甲賀市)に至り、その後瀬田の唐橋(草津とも)まで差し掛かると、編み笠を深く被った若党がひとり、従者2人を控えさせて大多喜勢の行軍のもとへ罷り出でた。
男は忠朝の前で笠を取り捨てて会釈し「我は保科甚四郎正貞。兄との不仲によりこのたびの役に満足に加勢できぬのが遺憾であり、忍んでここまで来ました。願わくば出雲殿の兵を借りて力を揮いたいのです」と打ち明けた。

正貞は信濃国(長野)高遠城主保科正直の三男で、母は徳川家康の異父妹の多劫姫である。
実兄の正光が保科家当主となるが嫡子がおらず小日向家(真田家御分とされる)から養子をとっていたものの、徳川天下において真田家の血筋は冷遇されがちであった。
そのためか、松平家の近親者である正貞を7歳の時に猶子(養子よりは弱い義理の親子関係)とした。
正貞は幼い頃から家康・秀忠に仕え戦時も保科勢でなく徳川本陣に従軍しており、若年の身では保科家の内でも曖昧な立場と、戦国乱世を生きてきた正光の家を護るための世渡りが肌に合わず、早くから兄弟(親子)間が不仲であっても不思議ではないが
時を同じくして、小笠原秀政(信濃松本藩主。正室登久姫は忠朝の兄忠政の正室の姉)の子忠脩(ただなが、ただのぶ。正室亀姫は忠政の娘)も松本城から無断で上洛し従軍を願っているように、国元の留守に耐えられず何としてでも参戦したかったのだろう。

今の忠朝には決戦を志願する念いが痛いほど分かる。
そして次男として生まれ幼くして徳川家康の側近くに仕え、一大名に立身してもなお、本多家では相続の件で宗家からの視線を感じながら常々次男の立場を弁えていた忠朝だからこそ、他家に頼るしかない正貞の思いを汲んだのだろうか。
忠朝は止むを得ずと、正貞に足軽10人に馬と武具を添えて貸し与えた。

※軍記物『難波戦記』『大坂軍記』等では勘当されての申し出とするが、大坂の陣の時点では正貞は高遠に居り、まだ正光は幸松(保科正之。徳川秀忠の隠し子として正光が保護し養子にとる)を預かってもいない。養子絡みの不和ならば左源太のことであろう。
兄の正光軍に属して先鋒を務めた説では、同一軍のため戦功が混同されており、ここでは省く

正貞と同じく、忠朝は浪人の疋田導師の参戦志願も叶えたという。(『九六騒動記』)

 

■大坂夏の陣開戦・河内口の戦い
22日に秀忠は京に至り、家康と密議の上、全軍は大和より迂回し河内道明寺(大阪府藤井寺)に集結し大坂城の南からの攻略を決めた。忠朝は河内口二番手右備となる。
24日河内口(大阪府八尾市)【河内口東軍総数約12万】の右先鋒藤堂高虎(伊勢津藩主)兵5千が淀を発つ。
25日には大和路【大和口東軍総数約3万4千】先鋒の伊達政宗(四番だが先行)兵約1万・二番本多忠政(忠朝の兄)約2千・三番松平忠明(ただあきら。伊勢亀山藩主。冬の陣後に大坂城の堀の埋立奉行を担当)約千らが発ち、河内口の松平忠直、酒井家次等諸将も相踵いで河内へ向かう。

28日に河内口右備え一番手榊原康勝2100と二番手忠朝1千の兵らは伏見より、左先鋒井伊直孝(近江彦根藩主)3200の兵は山城深草山(京都府京都市伏見)から共に河内に向かい、翌日奈良付近に舎営。
5月5日徳川父子が京を発ち、明日の道明寺進軍を所将に命じた。

6日河内口では、明け方に豊臣方の長曾我部盛親(ちょうそかべもりちか)5千・益田盛次300の兵が道明寺の北の八尾村(大阪府八尾市)に達し、徳川方先鋒藤堂勢の先行隊と交戦。
午前5時に豊臣方の木村重成(しげなり)6千の兵が若江村(八尾村の北)に達し、高野街道から迫る徳川方先鋒井伊勢の先行隊へ山口弘定・内藤長秋合わせて1千の兵を差し向け、南の八尾方面に長屋平太・佐久間正頼等右翼隊、北の暗峠越方面に叔父木村宗明300の左翼隊を分けた。
暗峠越の道上には、一番手右備の榊原隊・忠朝隊・小笠原秀政1600・仙石忠政1千・諏訪忠澄540・保科正光600・藤田重信300・丹羽長重200の兵らが徳川本隊からの指示通り控えている。

先鋒井伊隊が激闘の末に木村勢を打ち破るのを好機として榊原先行隊・丹羽隊らが徳川本隊の指示を待たずに宗明を攻撃し、豊臣方(若江八尾方面総数1万1300)を壊走させた。

◆道明寺口の戦いに兄忠政参戦◆
6日午前0時に豊臣方の後藤基次が2800の兵を率いて平野(大阪市平野区)から大和街道を進み道明寺に出るが、後続の真田信繁(のぶしげ。幸村)・毛利豊前守勝永(かつなが)ら1万数千の軍は遅れを取った。
午前4時に豊臣方の篝火を発見した奥田忠次60・板倉重政200の兵らは先鋒水野勝成600の兵を待たずに銃撃戦開始。小松山に駐屯していた徳川方諸隊が大軍で前・側面を攻め、正午まで耐えるも後藤軍は潰え、後続の豊臣勢の追撃にかかる。

河内口、道明寺口両方面の徳川方諸将が追撃し、午後には真田・毛利隊を撤退させた。

 

戦が終わると、徳川本陣の秀忠より明日の決戦はニ番手の忠朝を天王寺口先鋒とする指示が届き、忠朝は喜んで拝命する。
道明寺に甥の平八郎忠刻、甲斐守政朝、能登守忠義を呼び出し「このたびの、我が兄……そのほう達の父(忠政)の働きは立派であった。しかし我こそは抑えに回らず決死の先駆けを致そう」と告げ、芝堤の上で最後の盃を交わした。

忠朝はその夜、細川越中守忠興(ただおき)の陣所へ赴き、自分が討死した後の、まだ赤子の政勝の行く末を托した。
主の覚悟に共鳴した譜第の家臣加藤忠左衛門、大屋作左衛門、藤平治右衛門、臼杵七兵衛らも討死を誓う起請文に血判を押して差し、忠朝は彼らの本望をしかと汲み押戴く。

※軍記物では小笠原秀政(小笠原家は本多宗家と婚戚関係にある)が忠朝の陣営を訪れている。若江の戦で言いつけ通りに徳川本陣の指示を待ち、攻撃が遅れたことを戦後に叱咤された秀政が、同じように鴫野で家康の機嫌を損ねた忠朝と、明日の討死の覚悟を語り合った。

四天王寺南大門 四天王寺五重塔

▲現在の四天王寺南大門と五重塔
豊臣方の猛将毛利勝永本隊が布陣。天王寺口配備の西軍総数は1万2千・外4800人

■天王寺表の戦い
5月7日早天、二度と外さぬ覚悟で兜の結び緒の端を切りった忠朝が先鋒の諸将、浅野長重・秋田実季・松下重綱・真田信吉と真田信政兄弟(共に真田信繁の兄信之の子で信政は忠朝の甥にあたる)・植村泰勝・六郷政乗・須賀勝政らを率いて天王寺口の先手を進む。

忠朝は他隊よりやや前方、右に沼池、左に小丘のある地に布陣。
正午、天王寺南門前に布陣した豊臣方の毛利勝永の先行兵が先走り、物見に来ていた本多隊を銃撃し開戦となった。
豊臣方は、当初の徳川方を誘い入れる予定が狂い、茶臼山に布陣した真田信繁(幸村)が毛利隊へ中止を求めたが、もはや逸る先行隊を抑えることは出来なかった。

本多隊の隊長窪田伝十郎らは、左に布陣する越前少将(松平忠直)軍と共に鉄砲を撃ち掛け押し進んだ。

勝永は毛利勢を二手に分け、本多隊を左右から囲う。
有卦に入る毛利隊左翼が徳川方の真田隊を、毛利隊右翼が浅野・秋田・松下・植村・六郷・須賀隊を猛攻し、越前隊の右手にまで突入する。
先手を取った毛利勢78人が本多勢に押し寄せるも忠朝は勢いを削がれることなく百里(ひゃくり)と名付けた馬に乗り、勝永の本陣めがけ、真一文字に衝き入った。

合わせ備えの諸将が次々と敗走し、本多勢への攻撃は熾烈を極めた。
小野解勘由(かげゆ)ら決死の本多勢70余人を左右に、忠朝は大声で本多出雲守忠朝なるぞと名乗りを上げて槍が折れるまで敵を縦横無尽に突き伏せる。

20余りの傷を負った忠朝の前に、毛利の紺羽織を着た足軽が二間ばかりの所に詰め寄った。
至近距離から放たれた銃弾が、忠朝の臍の上を貫いた。

よろめいた忠朝は、関東勢が崩れていく無残な視界の中で、後方から突き進む熟練の武将小笠原秀政と子の忠脩、忠朝が兵を貸し与えた若武者保科正貞が傷つき血まみれになりながら槍を合わせ、勇猛果敢に先鋒隊を援ける姿が見えた。

馬上で倒れかけた忠朝は気合で堪え、馬を飛び降り、銃創から鮮血が滴るのも物とせず、自分を撃った足軽を薙ぎ倒し、折れた槍を捨て太刀で敵数人を斬り伏せる。
しかし集中砲火に曝され、敵を追って踏み入れた小溝で力尽き、累々の屍骸の間に倒れ伏せた。
大屋作左衛門は主の遺体の上に取り付いて、散々に斬られ、事切れても離さずにいた。
他家臣達も次々に主の傍で討死した。

忠朝の首級は秀頼の御家人雨森傳左衛門が取り、指物は中川彌次右衛門が捕ったと伝わっている。

家臣により百里に乗せて運ばれる忠朝の亡骸が、家康の馬の前を通った時、家康は涙を流して見送ったという。
家康は冬の陣では厳しくあたったが、忠朝を幼い頃から側近くに近侍させ、次男の身でありながら分家を許して城持ちの藩主とする好遇を与えた程だから、思い入れがないはずがない。

この戦いで忠朝軍は74の首級を挙げ、家臣の窪田伝十郎、大原物右衛門、柳田平兵衛、山本唯右衛門、小鹿主馬助の五人に感状が与えられた。

武将として最期まで戦い抜き34歳で大坂に散った忠朝は、大坂一心寺(大阪市天王寺区)に葬られ、後に上総良玄寺(千葉県大多喜町新丁)に分骨し両親と共に眠る。
戒名、三光院殿前雲州岸譽良玄大居士
天王寺村、阿部野村に忠朝の塚があったと伝える書もある。

天王寺からあべのハルカスを臨む 大阪夏の陣図屏風天王寺の戦い

▲時移ろい、忠朝の合わせ備えの諸将達が布陣した地には天王寺から大阪城を望むべく、あべのハルカス(写真奥の高層ビル)が聳えている。
大坂陣図屏風の天王寺周辺、右に忠朝。中央下が真田信繁(幸村)隊、左上が毛利勝永隊。

 

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
○本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

参考史料
・『富津市史
他、大坂役関連古地図・合戦図、記事中に明記の史料や忠朝[1]参考図書等に同じ
大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)画像は一心寺南会所案内パネルより

請西祥雲寺の戊辰の戦火

祥雲寺 祥雲寺本堂

祥雲寺と本堂
八幡山祥雲寺は永平道元禅師により開かれた曹洞宗(禅宗)の寺。本尊は釈迦牟尼仏。嘉吉の頃(1441年頃)大網氏により創建され、鐵山受白大和尚を開山と仰ぐ。
本堂は明治元年に戦火で焼かれ、その後大正12年にも倒壊し、再建されたもの。
境内から富士山が眺められ、一際高い小山に富士塚が設けられている。眺望の他、桜の名所であり、「祥雲寺の秋月」は木更津八景の一つ。

 

慶応4年(1868)戊辰の役の際は飯野藩は倒幕・佐幕に揺れたが藩主保科正益は恭順を示す。
閏4月18日、請西藩藩主林忠崇(恭順せず8日に藩主の身で脱藩し箱根へと出陣した)の旧領を預かり、小高い天然要害の地、請西村祥雲山の祥雲寺には飯野藩兵30人余が駐屯した。

5月16日は夕方頃まで滞陣慰労の演芸会を開いていた。
その夜の10時頃に突如、寺の屋根に松明が投げられ、寺の前後から喊声をあげた19人程の武装者が斬りかかってきた。
浅野作造頼房率いる一党、義軍を称する貫義隊の急襲である。

本堂はみるみる火が回り、酒宴直後であった飯野藩兵は隙をつかれて応戦もままならず退避し、武装していた数名の番兵達が各持ち場から立ち向かった。
この戦いで少年武士三宅茂之助17歳・飯野藩仲間(奉公人)仙蔵56歳・市蔵42歳・倉吉51歳の4名が討死。
後に飯野藩は祥雲寺再建の為に献金している。

祥雲寺の八幡神社 祥雲寺の富士塚

▲境内の八幡神社と富士塚・石板群
八幡様に向かって左の坂道に一人で刀を握ったまま倒れていたというのが茂之助だろうか。他に二人が右側の井戸の傍らで亡骸を目撃されている。

八幡山祥雲寺
所在地:千葉県木更津市請西1012-1

初期の飯野藩保科邸と吉良上野介邸

元禄江戸城周辺

▲元禄年間の絵図では鍛冶橋門内に飯野藩保科邸(兵部少輔正賢)と吉良上野介邸。
呉服橋門内に南町奉行所(能勢出雲守邸)、和田倉門近くに会津藩邸(3代藩主正)が在る

呉服橋の南には鍛冶橋(現在の東京駅八重洲口南側)がかかり、鍛冶橋門のそばに忠臣蔵のモデルでお馴染み吉良上野介義央が生まれたととされる屋敷の隣に飯野藩保科家の上屋敷(寛永10/1633年4月に2代藩主保科正景が賜わり元禄11年9月18日まで在)がありました。後の貝淵藩林邸の2軒隣の邸地です。

※米澤城主上杉綱勝を介して吉良義央と繋がる会津藩の保科肥後守…保科正之は、高遠城主時代の寛永10年2月に桜田門内に上屋敷(西の丸のすぐ脇。会津藩2代藩主保科筑前守正経の代まで在)を賜り、6年後の山形城主時代に芝新銭座を賜り下屋敷(正経の代から上屋敷。庭園を造り箕田園と呼ぶ)としています

元禄11年(1698)9月6日午前10時江戸の大火で吉良邸・保科邸が類焼してしまい、飯野潘3代藩主保科正賢(兵部少輔)は麻布村の地を与えられ、吉良上野介は呉服橋門内の後に北町奉行所が建つ場所に移りました。
鍛冶橋内の屋敷跡には10月5日に町奉行松前伊豆守邸が営造され、ここが南北町奉行所となります。

元禄14年(1701)3月14日、将軍家勅客式(朝廷から江戸城に下向する使節を迎える)当日に、勅使御馳人(使節の供応係)の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)こと赤穂城主浅野長矩(ながのり)が私怨により、式の指導にあたっていた奥高家(幕府の儀式儀礼を司る)吉良上野介を松の廊下で斬りつけました。
夜に内匠頭は殿中(でんちゅう)刃傷(にんじょう)により切腹を申付けられ、彼の家臣達は主君と屋敷そして赤穂城をも失うことになります。

お咎めのなかった吉良上野介も自ら免官を願い表高家(非役中の高家)となりますが、8月19日に本所松坂町の松平登之助(駿河守)邸へ屋敷替えを命じられます。
12月11日に上野介は引退を願い出て養子の左兵衛佐義周(さひょうのすけ よしかね)が家督を相続しました。

元禄15年(1702)12月15日未明、内匠頭の遺臣大石良雄(内蔵助)と四十六人の赤穂浪士が本所宅を襲撃し上野介を刺殺します。享年62歳。
警備の行き届く呉服橋門内から、あえて討入りさせやすい場所に屋敷替えをさせたとも噂されました。

参考図書
・東京市『東京市史稿
・江戸幕府普請方『御府内往還其外沿革図書』
・義士叢書刊行会『赤穂義挙録』
・三田村鳶魚『元禄快挙別
他。江戸絵図等