上総・安房の歴史」カテゴリーアーカイブ

上総・安房(千葉県の中~南部)地域の歴史

特別展「幕末の木更津」・中村彰彦先生講演会

先日新しく「請西藩主 林忠崇」年表ページを追加しました。
今後、更新中のまとめ記事と並行する形で請西関連の記事を書いていきます。

さて現在木更津市郷土博物館「金のすず」で特別展「幕末の木更津」が開催中です。
凹型のコーナーの3つの壁にそれぞれ幕末の木更津に関したテーマで史料と解説が展示されていました。

 

木更津船と文化
まずは木更津港から江戸へ従事したという、大きな木更津船の模型が目に入ります。江戸の日本橋と江戸橋の中間に「木更津河岸」が設けられて、江戸時代から特別扱いを受けていたそうです。特権を与えられた理由は大坂の陣に参加した水軍に因むとも言われています。

壁に面した展示で目を引くのが木更津が舞台の歌舞伎「與話情浮名之横櫛」の錦絵。三代豊国作。
ペリー来航の3月前に浅草中村座で初演され、人気演目となりました。
「切られ与三」の通称や歌謡曲「お富さん」でお馴染みですね。
※木更津市内に与三郎の墓や、相棒の蝙蝠安の墓があります。
他に江戸視点で当時の木更津の地図や、房総の絵葉書が展示されています。

 

海防と太平の世の終焉
幕末の日本に通商を求める外国船が現れ、東京湾の防衛のため諸藩が警備にあたります。
亜墨利加(アメリカ)人上陸之図など資料と一緒に置かれた屏風は安房上総御固図屏風。
海上警備の様子を描く絵の中に富津沖に請西藩林家の家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」を染めた帆船が描かれています。

 

請西藩と戊辰戦争
請西藩主の林家を中心に紹介されています。
林家の系譜。そして林家のルーツでお馴染み兎御献上の資料。

戊辰戦争資料は、これがなくては語れない「戊辰出陣記」の原本。
リーフレットの表面に使われている、箱根の関で戦う忠崇の姿絵。
片腕を斬られた伊庭八郎を描いた線画「伊庭八郎手負い図」。完成画でなく作者不明ですが、忠崇作とみられるとのこと。

当時を思わせる古銃も展示されています。火縄銃、短エンフィールド銃、短スナイドル銃。
火縄銃には「木更津縣」の銘、旧大多喜藩所有のものとみられるようです。

仙台で降伏した忠崇が滞在した林泉院の写真パネル。その後に忠崇が綴った和歌集の「おもひでくさ」
林家再興のために家臣達が嘆願した書。士族の身元証明のための書類等々。

忠崇の祖父にあたる、貝淵陣屋を築いた貝淵藩主林忠英を描いた「林家初代藩主忠英侯肖像/狩野探渕守真作」は今回が初公開です。
林家の名誉が回復した印の、忠弘(忠崇の弟)の叙従五位。明治2年に林家を継ぐため忠弘が決めた実名と花押も相続史料として重要な資料です。

近年の請西陣屋の遺構を絵にしたカラー俯瞰図もありました。

 

金のすず特別展 講演会看板

 

そして今回の企画として、日曜日に直木賞作家の中村彰彦先生による講演会「上総請西藩主 林忠崇の幕末維新」も行われました!

 『脱藩大名の戊辰戦争―上総請西藩主・林忠崇の生涯』の著者でもあります。

一般向けの講演会なので勉強をしに行くような堅苦しい場ではなく、中村先生ファンはもちろん今回の催しをきっかけに初めて幕末や忠崇に興味を持った方でも楽しめるトーク内容でした。

受付で特別展チラシのコピーと、講演会用の「林忠崇侯年譜」1枚。年譜は明治時代以降が主で住居地の移行が簡単に紹介されています。

初めの10分は、来賓の紹介と挨拶。現在の林家ご当主もいらっしゃいました。

そして中村先生の講演が始まります。
まずは「予備知識」として木更津は離れて、幕末史のお話。先生論全開の豆知識が次々に飛び出します。

 

『これまで「組」と呼ばれていたのが「隊」となったのはなぜか』
『隊列に見る、これまでの日本の伝統的な戦い方と新しい「洋式戦術」の違い』
いずれ本になるか、すでに著書で紹介されてるからかもしれないので詳細は省きますが「部隊」は英語と日本語のごろ合わせではないかという提案です。
ボードに語句を書きながら、洋式戦術を採用した大村益次郎の強さという流れに綺麗に持って行って、退屈させません。

これは私の感想、古い日本語は聞き取りをそのまま文字に当てはめるイメージなのでごろ合わせには共感もありますが、新旧和洋の「隊列」については異議ありありでした。
古代ローマ、フランス、スペインと欧州の隊列からアメリカ南北戦争での隊列までと、日本の古代から戦国時代の合戦での隊列を思い浮かべながら聞いていたら、隊列についても独自な用語も違和感ありありで。
(もちろん間違っているという批評でなく、歴史話は意見の出し合いもありだよねという感想)
序盤なので私もこれはジョークで(洋画の話も持ち出したので)笑うべき所なのか、真面目に頷く所かがつかめずに、静かな周りに合わせて流しちゃいました。あとで日本での部隊の語源について調べてみよっと。

 

まだ参加者が緊張している気配を察したのか、もう少し身近な幕末トークに移ります。
具体的な歴史人物の名前を出して、よりバラエティ感覚に。
強さといえば『幕末最強は誰か』で先生が推すのはご自身の著書にも描かれたあのお方、立見大将です。

そしてようやく「遊撃隊」の話に。忠崇目当ての参加者が期待している遊撃隊と、その他の遊撃隊(見廻り組や新撰組)についてを分かりやすく説明します。
慶喜に対しては何度もしつこくダメ将軍として紹介していたので、中村先生の慶喜ポジションというよりここも笑い処だったのかも??

スクリーンに写真を写して人見勝太郎や伊庭八郎を紹介。この頃には参加者の緊張もほぐれて、幕末三大美男子の二人は「林忠崇」「伊庭八郎」が不動であとは──…と、先生の面白く語るネタに笑いも漏れます。
そして榎本武揚の行動を追い、ようやく話の舞台が木更津に移ります。

ようやく、というのはここまでで1時間丸々使っているんです。
きっちり1時間だったので先生の予定通りなのかも。プロだ。

 

まずは林家について、長ったらしい名称の林家家紋の一文字の由来でもある兎献上のこと。
「兎御献上之儀留」にある兎の結び方がスクリーンに写されます。
そしてこのネタでもユーモラスに話して笑いをとる先生。

 

「総野の戦い」という語句を掲げて忠崇の戦いについての話に移ります。
先生は房総も協力たので『奥羽越列藩同盟を奥羽越“総”列藩同盟と呼んでもいいのでは』とおっしゃるので、私はまた首かしげ。(これもジョークか房総半島・木更津上げ?でも周りが笑ってなかったからリアクション難しくて流しちゃいました)

上総義軍と村人の反応。忠崇は遊撃隊の協力要請に快諾したこと。
だいぶはしょって(富津台場や途中訪れた藩の詳細は触れず)相模へ渡ったこと。
その頃、問罪出兵に共感した小田原藩。
かなりはしょって、奥州行。はしょりすぎです。
会津で忠崇が容保と面会し、志を同じにする二人に言葉は不要、ただ「お察し申す」だったこと。
奥州では忠崇は自ら戦ったこと(戦の詳細は無し)、70万石で徳川存続も決まり、そして投降して唐津藩に御預けとなったこと。
明治五年に許されて、後に忠弘が華族になること。

テーマが幕末「維新」ですし配られたレジュメも明治以降が主で、木更津についてを多く話そうとしたのか、ここから話がローカルな方向で詳しくなりました。
爵位のいろいろ。男爵は一家に一人だけなので忠崇は華族になれない。
それに男爵になるには毎年500円の大金が必要になる。地元に広大な土地を持っていた人が(ここも面白く語られました)、忠崇の親族を偽った自称林家に騙されてもめげずに身を削って援助を続けた逸話。

忠崇の足取りを簡単に追って、招魂祭70周年でのインタビューのこと。
そして逝去の直前に、辞世を尋ねた次女に対して答えた言葉で、忠崇の人生の話を締めくくりました。

とても濃厚な講演内容でしたのに開演から2時間、皆さんしっかり聞き入って、大きな拍手があがります。
資料重視な作家さんだけあって引出しが豊富で、本当に素晴らしい話術でした。

 

講演終了後は、当日のサプライズとして、サイン会が行われました!
そうと知っていたら携帯用の文庫でなくハードカバーの本を持参したのにと悔やみましたが、事前告知をしたら先生に負担がかかりますものね。
長い列でも、前に並んでいた林家に詳しい方(林家ご当主とも知り合いで、今回お知らせが届いたから来たような)とぽつぽつ雑談をしているうちに順番が来ました。

体調が優れないのに講演を受けて下さったと紹介されていたので「お体大事になさってください」と言ったら、にっこり笑顔で一言お礼を返してくれました。なんと良いお人柄!

興奮というよりも、ふわふわした良い気持ちで帰りました。
中村先生ほんとうにお疲れ様でした!

 

中村彰彦先生のサイン

 

※講演は終了。特別展は12/26(木)まで開催
木更津市郷土博物館金のすず
所在地:千葉県木更津市太田2-16-2
▼木更津市公式サイト内博物館ページ
http://www.city.kisarazu.lg.jp/13,491,38,262.html

選擇寺[2]「切られ与三郎」蝙蝠安の墓

選擇寺 蝙蝠安案内板

嘉永6年(1853)江戸三座の一つ、中村座(この時は浅草にあった)で初演された「切られ与三郎」の呼び名でお馴染み、歌舞伎「伎与話情浮名横櫛/よわなさけうきなのよこぐし」主人公与三郎の相棒「こうもり安」のお墓が、以前紹介した選擇寺(せんちゃくじ)にあります。

 

本名は山口瀧蔵。
文化元年木更津五平町(本町)の大きな鬢付け油屋「紀の国屋」の次男として生まれ、素晴らしい美音の持ち主で特に常盤律が上手く、金まわりも良く、花柳界の寵児と言われたほどの男ぶりだったそうです。
夕方になるとふらふら出歩くことから蝙蝠(こうもり)安と呼ばれました。

芝居の登場人物としての蝙蝠安のようにゆすりを働くような人柄ではなく、芝居中に右頬にある蝙蝠の刺青も、実際は左の太ももに蟹の刺青があったようです。

選擇寺の紀の国屋代々の墓碑銘に「進岳浄精信士 慶応四年四月五日」と戒名が刻まれています。

 

伎与話情浮名横櫛あらすじ

江戸の大店伊豆屋の若旦那の与三郎はあまりの美男だったためか木更津の親戚に預けられていた。
与三郎が春の潮干狩りに出かけた際に、お富を見そめ、一目ぼれし合った美男美女の二人は浜辺で密かに逢瀬を楽しんだ。

しかしお富は地元の親分赤間源左衛門の妾であったため幸せは長く続かず、与三郎は親分の手下に襲われ全身三十四カ所を切られ、お富は海に身を投げてしまう。

逃げ延びた与三郎は勘当され、三年後、傷だらけの容姿になって周囲に恐れられた与三郎はごろつきとなっていた。
そして仲間の蝙蝠安に連れられたゆすり先の家に囲われていた、死んだはずのお富と再会する…

 

蝙蝠安の墓 与話情浮名横櫛こうもり安

▲「こうもり安」の墓
浮世絵は歌川豊国(歌川国貞)『与話情浮名横櫛』のこうもり安 ※まちごと浮世絵ミュージアムパネルより

選擇寺 所在地:木更津市中央1-5-6

 

与三郎の供養墓(実際のお墓ではありません)は木更津駅西口を出てすぐの光明寺に、与三郎とお富が初めて出会った場所「見染めの松」が木更津港の鳥居崎海浜公園に、二人で密会した旅籠屋の鶴田屋経営者の墓が成就寺にあります。

作中は当時の江戸で木更津が舞台になっていますが、実在のモデルは木更津の他に東金・大網辺りや東京品川等の説があります。
いずれこのブログでも紹介するかも?

参考図書
・『木更津市史』他案内板等

飯野藩保科邸・会津藩家老萱野権兵衛の最期

慶応4年(1868)9月4日、鶴ヶ城で籠城中の前会津藩9代藩主松平容保(かたもり)宛てに降伏を勧める米沢藩主上杉斉憲の書簡が、高久(たかく。会津若松市北会津町)屯所で越後口守備にあたっていた会津藩家老萱野権兵衛長修(かやのごんべえ・ごんのひょうえ ながはる)に託され、これを軍事奉行添役の秋月悌次郎(あきづきていじろう)が受取り進呈する。
慎重に周辺同盟藩の情報を収集するため秋月は同じく公用人の手代木直右衛門勝任(てしろぎすぐえもん かつとう)と米沢藩陣営に赴くが、既に米沢藩は新政府に恭順していた。
城へ戻り同盟藩であった仙台・庄内の動向と照らし合わせて協議し、容保は降伏を決意する。

19日秋月・手代木らの降伏の申し出が土佐藩士板垣退助・薩摩藩士伊地知正治に受け入れられ、21日に開城の令を示した。
22日午前10時、鶴ヶ城追手門前に降伏の旗が立った。籠城中に布は包帯に使用されており、集めた端切れを照姫(てるひめ。容保の義姉)ら婦人達が断腸の思いで継ぎ合わせ、涙で濡らした白旗である。

正午に大手門外の甲賀町通りの内藤家・西郷家間に緋毛毯が敷かれた式場へ新政府軍の軍監中村半次郎、軍曹山縣小太郎、使番唯九十九等諸藩の兵を率いる錦旗を擁して進み、会津側は秋月・手代木が熨斗目上下を着用し無刀で迎える。
重臣萱野権兵衛・梶原平馬(かじわらへいま)が出て、次いで礼服の容保・第10代藩主喜徳(のぶのり。慶応3年容保の養子となり翌年開戦前の2月に容保が恭順の意を示すために家督を相続)父子が近臣十名余を従えて着座し式に臨み、降伏謝罪の書を提出した。
引き渡された城内の兵器は大砲51門・小銃2845挺・動乱18箱・小銃弾薬23万発・槍1320筋・長刀81振。

容保父子は輿で謹慎地の滝沢村の妙国寺に送られ、しばらくして萱野権兵衛ら三十名余が伴った。この時重臣達は自分たちの処罰と引き換えに容保父子の助命を求める連署をしたためている。
23日に家臣は天寧寺から謹慎地の天猪苗代へ、傷病者は青木村、婦女子と60歳以上・14歳以下の者は塩川へ立退くが、開城を知って自刃する者もあった。
24日午後に新政府軍が鶴ヶ城に入る。

 

10月19日に新政府から容保父子が権兵衛ら重臣達と共に呼出され、佐賀藩徳久幸次郎の兵の護衛で東京へ出立。
11月3日に東京着。容保は梶原平馬・手代木直右衛門・丸山主水・山田貞介・馬島瑞園(まじまずいえん)と因州(鳥取)藩池田慶徳邸に入り、
喜徳は萱野権兵衛・内藤介右衛門・倉澤右衛門・井深宅右衛門(いぶかたくうえもん)・浦川藤吾は久留米藩有馬慶賴邸での謹慎となる。
狭い部屋に押し込められる形であったが、権兵衛はまだ年若い喜徳をよく気にかけ、皆がくつろぐ中でも常に正座をやめず、しかし時に冗談などを言って皆を和ませたという。

 

11月、明治政府軍務官より「容保の死一等を減じて永預となし、代わりに首謀者を誅して非常の寛典(かんてん)に処する」と下された。容保父子の助命の代わりに、処罰すべき戦争責任者の差出しを求められたのである。

12月に新政府は会津松平家の親戚であり、会津藩への情報取次をしていた飯野藩保科弾正忠正益(まさあり)に取調べを命じた。
正益は、8月23日の新政府軍鶴ヶ城下侵襲の日に甲賀町で既に切腹している会津藩家老田中土佐(たなかとさ。玄清)・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)の二名を戦争責任者として選び、返答した。
しかし死者の選出は政府に認められず、権兵衛が首謀者として候補にあがる。

このことが伝えられ、忠誠純義な権兵衛は藩に代わって死ぬのは本分であると語り、会津藩の罪を一身に背負うことを受け入れ、早く名前を書き加えるよう促したという。
権兵衛の潔さと決意に感じ入った正益は、翌明治2年(1869)正月24日に先の二名に権兵衛の名を加えて軍務局へ提出する。
5月14日、政府は正益に家老萱野権兵衛の処刑・打ち首を命じた。

15日に梶原平間と北原半助(故神保内蔵助二男)が有馬邸を訪れて処分の決定を伝えた。容保からの白衣や遺族への手当料を頂いた権兵衛は容保に感謝を示した。

 

5月18日の処刑の日の朝、故郷の老父への一書を残し沐浴で体を清めた権兵衛は、浦川藤吾に普段と変わらない様子で、斬首に際して見苦しくないようにと襟元などを入念に整えるよう頼むので、浦川は権兵衛の髪を取りながら櫛に涙を落す他なかった。
喜徳より葵紋のついた衣服一式を賜ったが、紋服を汚すのは畏れ多いと着用しなかった。

静々と座した権兵衛の前で、権兵衛の茶の仲間であった井深宅右衛門(重義。容保の御側付)が茶を点じる。
戊辰戦争で一刀流溝口派師範の樋口隼之助光高が行方不明になり流儀が途絶えることを憂いていたため、流派免許を得ている権兵衛は、この時長い竹の火箸(最後の膳の箸とも)を持って宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝授したという。

同朝、山川大蔵と梶原平馬が麻布広尾の飯野藩保科下屋敷を訪れて、出迎えた飯野藩老中大出十郎右衛門・大目付玉置予兵衛に、前年からの会津に対する厚意とこのたびの権兵衛の件に対して慇懃に礼を述べた。

飯野藩隊長中村精十郎が兵を率いて有馬邸に向かい権兵衛を篭で護送し、保科邸の茶亭に着く。
権兵衛が隣室に入ると山川と梶原が、容保直筆の親書と、青山の紀州藩邸に預けられていた照姫(容保の義姉であり、保科正益の実姉でもある)の手書と見舞いの歌を渡す。

今般御沙汰ノ趣窃ニ致承知恐入候次第ニ候 右ハ全我等不届ヨリ斯モ相至候儀ニ候立場柄父子始一藩ニ代リ呉候段ニ立至
不耐痛哭候扨々不便ノ至ニ候面會モ相成候身分ニ候是非逢度候得共其儀モ及兼遺憾此事ニ候其方忠實之段ハ厚心得候事ニ候間後々之儀等ハ毛頭不心置此上ハ為國家潔遂最後呉候様頼入候也
                      祐 堂
五月十六日
   萱野権兵衛

今般(こんばん)御沙汰(さた)の趣 ひそかに承知いたし恐入り候
右は全く我が不行き届きより 斯(か)くも相至り候義に候
立場柄、父子はじめ一藩に代わりくれ候段に立ち至り
痛哭に耐えずさてさて不便の至りに候 面会も相成り候身分に候 是非とも逢いたく候えども、その儀も及びかね、遺憾この事に候 其方(そのほう)忠実の段は厚く心得候間後々の義等は毛頭心置かず、この上は国家の為、いさぎよく最期を遂げくれ候よう頼み入り候也

祐堂は容保の雅号である。

偖此度ノ儀誠恐入候次第全御二方様御身代ト存自分ニ於テモ何共申候様モ無ク氣毒絶言語惜シキ事ニ存候右見舞之為申進候
 五月十六日
                           照
                   権兵衛殿へ

夢うつヽ 思ひも分す惜むそよ
まことある名は 世に残るとも

この度の儀、誠に恐れ入り候次第、全く御二方様お身代と存じ自分においても何とも申し様もなく、気の毒言語に絶たず、惜しきことに存じ候
右見舞いの為申し進め候

夢うつつ思いも分かず惜しむぞよ まことある名は世に残れども

権兵衛は容保の厚意と会津のために潔く最期を遂げてくれとの権兵衛にとって誉ある言葉、照姫のはかなさを惜しみながらも真に存在するその名は残るとの憐みの筆を、真に栄誉であると感涙し、山川と梶原にも熱涙をさそった。
定刻までの短い間に正益からの酒肴が出され訪れた会津藩士と遺族一同で別れの杯を酌んだ。

会津藩士達が帰路につくと、飯野藩の大出・玉置が部屋に入って朝命を伝え、正益から賜わった白無紋礼服一着を交付して退座する。
次いで起倒流柔道指南役で剣術にも長けた飯野藩士沢田武治(武司)が対面した。目利きに優れた権兵衛はいとも冷静に、沢田が介錯のために正益から賜わった刀が貞宗の業物であると認めて、両者は正益の武家らしい情けに感じ入った。

面会後に行われた執行準備で、白木三宝(三方とも。神饌や献上品を載せる台)と白紙で包んだ扇子(白紙で短刀に見立てている)が置かれた。
これは新政府の要求する罪人の斬首でなく、密かに切腹の作法である扇腹(おうぎばら、扇子(せんす)腹とも。三宝に載せた白扇を取るため前かがみになった時に介錯人が首を落す。自ら命を絶つ形を取らせて武士の体面を保たせる切腹の作法)を行うことを示していた。

飯野藩大目付の玉置予兵衛・隊長中村精十郎・御徒目付今井喜十郎・介錯沢田武治・助員中川熊太郎・他小頭三名の立ち会いのもと、権兵衛は主君の居る屋敷の方角を拝し、命を絶った。享年42歳(40とも)。
保科正益は政府の命令の罪人としての処刑をさせず、武芸に秀でた飯野藩士沢田武治の介錯と銘刀をもって、切腹の作法通りに扇腹を行い、建前には政府の斬罪の要望と、実際には権兵衛に対し会津武士の面目を、両方全うさせたのだろう。

遺体に丁寧に布団を被せ置き、玉置と沢田が残って遺体を清めて棺に入れ、正益はこの日のうちに軍務官へ、申付けの通りに松平容保家来・叛逆首謀萱野権兵衛の刎首を執行したと簡潔に届けさせた。

軍務官から飯野藩で遺骸処置すべしと通達があり、棺を浅黄木綿で覆って外面は貨物の如く装って、権兵衛の意志に従い白金の興禅寺に送った。
興禅寺には、鳥羽・伏見の戦いに際し徳川慶喜と松平容保の江戸への脱出を進言し敗戦を招いた元凶だと迫られ、責任を負って三田下屋敷で自刃した神保修理(長輝)他会津藩士が眠っている。

正益は権兵衛や儀を執行した飯野藩家臣に香典を供し、その後も松平家再興等の伝達を受持っている。
また容保父子・照姫と厚姫(容保の長女)がこのたびの首謀者として名を並べた萱野権兵衛・田中土佐・神保内蔵助に対して香典を与え、容保父子は三人の遺族にも菓子料を賜わった。

 広尾の保科下屋敷・現都営広尾五丁目アパート

▲『江戸切絵図』と現在の飯野藩下屋敷跡地(東京都渋谷区広尾)

 

本来家老席順で責を負うべきであったが行方不明として死を免れた保科近悳(西郷頼母)が明治24年2月20日に興禅寺の墓に参り「あはれ此人のみかくなりて己れは長らひ居る事は抑如何なる故にや、実に栄枯の定りなき事共思ひ続くるに堪す」と記している。

介錯を務めた沢田は横浜に移ったのち箱根底倉の蔦屋旅館を譲り受けて箱根の観光・医療業に貢献することとなるが、子孫の仏壇には代々萱野権兵衛の位牌が祀られ、自刃の際に「顔色も変えず平生の如し」潔さを思い起こしては語り涙したという。
(その後も沢田家は長く旅館を営みましたが現在「つたや」は経営者が他家に替わっています)
【2018年追記:「つたや」旅館は2017年をもって閉館しました】
【再追記:2019年11月よりゲストハウス「そこくら温泉 つたや旅館」として新装開店しました】

興禅寺

興禅寺では今も萱野権兵衛の法要を行っている(東京都港区白金)
萱野権兵衛の戒名は報国院殿公道了忠居士。福島県会津若松市の天寧寺にも妻と一緒に弔われた墓がある。
 

※参考図書は記事中リンク先ページと同一、沢田家については後に記事にする予定です。
 
* * *

ちなみに
記事中人物の八重の桜でのキャスト(敬称略)は…
・萱野権兵衛:柳沢慎吾(会津藩家老)
・松平容保:綾野剛(会津藩9代藩主)
・照姫:稲森いずみ(容保の義姉・保科正益の実姉)
・松平喜徳:嶋田龍(会津藩10代藩主)
・秋月悌次郎:北村有起哉(会津藩軍事奉行添役)
・内藤介右衛門:志村東吾(会津藩家老)
・山川大蔵:玉山鉄二(会津藩若年寄→家老)
・梶原平馬:池内博之(会津藩家老)
・神保内蔵助:津嘉山正種(会津藩家老)※
・田中土佐:佐藤B作(会津藩家老)※賀町口で奮戦するが田中が負傷。共に医師の土屋一庵邸で自刃
・上杉斉憲:倉持一裕(米沢藩主)
・板垣退助:加藤雅也(土佐藩士)
・伊地知正治:井上肇(薩摩藩士)
・中村半次郎:三上市朗(薩摩藩士)
・徳川慶喜:小泉孝太郎(幕府15代将軍)
・神保修理:斎藤工(会津藩軍事奉行添役。神保内蔵助長男)
・西郷頼母:西田敏行(会津藩家老)

最期はあばよでなく「さらばだ!」でしたね。

会津藩主松平家御廟[2]照姫の墓所

容保と照姫の墓

▲松平容保の墓所のそばに佇む松平家の墓に義姉の照姫が眠る

松平煕・照姫(てるひめ)
天保3年(1832)12月13日、上総国飯野藩九代藩主の保科正丕(まさもと)の三女(てる)は、側室の静広院を母として飯野藩の江戸藩邸で生まれた。

天保13年(1842)5月25日に11歳で、当時実子のなかった会津藩八代藩主松平容敬(かたたか)の養女となった。
容敬の子が次々に夭折した為、芯が強く教養の高い美少女の照姫を迎えたとの話もあり、翌年9月に容敬と侍妾寿賀女(岡崎氏)との間に娘の敏子が誕生した後も、容敬の照姫への慈愛は変わらなかったという。

弘化3年(1846)4月、容敬は美濃高須藩松平義建(よしたつ。容敬の義弟)六男で12歳の銈之允(けいのすけ。元服して容保/かたもりを名乗る)を養子に迎える。

嘉永元年(1848)7月16日に実父保科正丕が病没し、跡を継いだ保科正益(照姫の弟)を容敬は支援した。

嘉永2年(1849)18歳の照姫は豊前中津藩(現在の大分県中津市)10万石八代藩主奥平大膳大夫昌服(まさもと。この時21歳)に嫁ぐ。
しかし子宝に恵まれず安政元年5月(1854)に離婚し、弘化5年(1848)には会津藩江戸藩邸に戻っている。

嘉永5年(1852)2月10日に容敬が病没し、閏2月25日18歳の容保が九代会津藩主となる。照姫は義姉として容保を支えたという。
安政3年(1856)9月に22歳の容保と13歳の敏子が結婚するが、文久元年(1861)10月に敏子が病没。
文久2年(1862)12月24日容保は京都守護職就任のため江戸を出発。
慶応2年(1866)12月容保は水戸家一橋余九麿(よくまろ。慶喜の実弟、11歳)を養子に入れる。翌年元服し喜徳(のぶのり)と名乗る。
慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の敗戦後に容保は慶喜に従い江戸に帰還し、恭順の意を表すために2月4日に喜徳へ家督を譲り引退する。
しかし登城禁止令が出され、やむなく16日に会津藩主従は江戸を引き揚げた。

22日、照姫は初めて会津に国入りしたともいう。
容保は更に恭順の意志を示すために鶴ヶ城へは入らず、御薬園別邸に留まった。

しかし戦雲は広がり、会津藩と親密な飯野藩にも嫌疑がかかるが藩主正益の謹慎と重臣達の嘆願で正益は救われた。
国元の飯野藩内では幕府と会津への義によって森要蔵などが脱藩し新政府軍と戦っている。

鶴ヶ城籠城は8月23日から9月22日まで一ヶ月も続くが、照姫は城内にあって六百有余の婦女子の総指揮をとったという。
奥殿の女中若年寄格表使大野瀨山(大野四郎五郎叔母)、御側格表使根津安尾(根津八太夫妹)等に命じて分担させ、婦女子達は病室にあてられた本丸大書院・小書院へ次々と運び込まれる傷兵の手当を蘭方医古川春英ら藩医や幕府の西洋学問所頭取の松本良順と門弟4人らの指導で行い、食事(牛乳や牛肉も与えたという)の世話をした。
手狭になると大奥の長局の間も提供し、照姫は包帯を作るために高貴な衣装を解かせて布芯を使わせた。
飛来した砲弾が破裂する前に濡れ布団や鍋で覆うなど危険な防火処置などにも毅然として活躍し、書籍や帳簿などから薬筒(パトロン)を制作し、食事と物資を運び女達は「照姫様のために」を合言葉に戦い続けたという。
子供は敵の弾丸を拾い、老人が弾丸を造り、皆が力を合わせて兵を支え籠城に耐えた。

鶴ヶ城開城式の後、容保父子と共に滝沢村妙国寺の謹慎に従う。照姫は髪を落として照桂院と名を改めた。

荒れはてし 野寺のかねもつくづくと
身にしみ増さる 夜あらしの声

10月17日夕刻に松平父子と萱野権兵衛ら家臣5人の東京護送の沙汰が伝えられ、立退きを言い渡された照姫は義弟と甥の見送られながら夜半に侍女の高木時尾(側表使。新撰組斎藤一の妻とされる。経緯に諸説あり)達と共に大町の民家に移り、後に七日町の清水屋を寓居とする。

翌明治2年(1869)正月28日照姫は若狭叔母(松平若狭守喜徳の叔母)として紀州藩御預となり、会津から紀州藩兵が護衛して2月29日東京へ向かい、3月10日青山の紀州藩邸(徳川茂承)に入る。
会津藩からは照姫の付き人や側医師ら中奥・表の役人の男子18人、時尾ら侍女22人の40人が従った。
(3月3日御薬園に移った義父容敬側室(敏姫実母)圓隆院や容保の側室達も5月に上京の命が出ている)

新政府から会津藩への伝達・伝令は大方は保科正益を通じてなされていた。
5月18日、会津藩叛逆の首謀者として家老萱野権兵衛が一藩の責を負って飯野藩下屋敷で処刑を命じられた時に、照姫は手紙をしたため、歌を寄せた。

偖此度之儀誠ニ恐入候次第全ク御二方様御身代ト存
自分ニ於テモ何共申候様無之氣ノ毒絶言語惜候事ニ存候右見舞ノ為申進候
 五月十六日
                           照
                   権兵衛殿へ

夢うつヽ 思ひも分す惜むそよ
まことある名は 世に残るとも

正益はり密かに扇による自刃の方式をとらせ権兵衛に朝廷の望む罪人ではなく武士の體面を全うさせた。
その後も正益は松平家再興等の伝達を受持っている。

12月3日、飯野藩の尽力で照姫は飯野藩に預け替となり、27年ぶりに実家で起居することになった。
翌明治3年(1870)3月2日に母静廣院が飯野で亡くなるが、照姫は正益に庇護され、容保と和歌を交わすなどして穏やかに暮らし、晩年に東山温泉へ湯治に行き旅館向瀧にしばらく逗留した記録がある。

向滝

明治17年(1884)2月28日、照姫は53歳で逗留先の東京牛込(旧会津藩家老山川邸)にて死去。容保の子供(おそらく早世の双子)が埋葬されていた新宿の正受院に葬られる。
改名は照桂院殿心誉香月清遠大姉。
照姫の没後に容保も正受院に仮埋葬されたが、正受院の会津松平家関係埋葬者は戊辰五十周年の大正6年に全て会津院内御廟に改葬された。

 

元夫の奥平昌服は、照姫離婚の9年後の文久3年(1863)5月に宇和島藩主伊達宗城の四男儀三郎(昌邁。まさゆき)を嗣子とした。
会津攻撃を心苦しく思ったか定かではないが、総攻撃より前の5月6日病気を理由に、昌邁へ家督を譲り隠居している。

また伊達宗城の妹が、保科正益の室の節子である。
明治32年8月の照姫の十三回忌の供養として、三淵隆衡(萱野権兵衛の実弟)・保科近悳(西郷頼母)・松平健雄(容保次男)ら78人程と共に追悼歌集「かつらのしづく」に節子の歌もある。
そのかみをしのぶなみだのはる雨は 我袖にのみふる心ちして 保科節子

松平家墓所 松平家の墓照姫の案内板

会津藩主松平家墓所(院内御廟・国指定史跡)
所在地:福島県会津若松市東山町大字石山字墓山

参考図書
・綱淵謙錠『幕末の悲劇の会津藩主 松平容保
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・会津戊辰戦史編纂会『会津戊辰戦史
・富津市史編さん委員会『富津市史 通史』『富津市史 史料集2
・牧野登『保科氏800年史』
・『三百藩戊辰戦争事典〈上〉
・『歴史読本2013年07月号

飯野藩「浜屋敷」

飯野藩浜屋敷跡 飯野藩浜屋敷案内板

上総国(千葉県)飯野藩は慶安元年(1648)飯野陣屋に藩庁を置いたが、同じ頃に上方所領の代官所を摂津国豊島郡浜村(大阪府豊中市浜)の天竺(てんじく)川東岸に置き、豊島・能勢・河辺・有田の四郡、丹波国天田郡、近江国伊香郡の租を輸した。
土地の者は浜屋敷と呼んだ。
安政年間に発行された飯野藩の藩札(藩が発行する紙幣)の銀札摂津飛地札に「攝州濱村 預り切手・摂州濱屋舗(摂州豊嶋郡濱屋舗・摂刕濱屋舗)引替會所」等、浜屋舗(屋敷)の文字がある。

東西約35間(約64m)、南北約51間(約93m)の長方形の屋敷で、東側中央に門があり、その正面に役所、北に接して牢屋敷もあったとされる。

浜村陣屋推定位置

▲古地図からの浜屋敷推定位置(2013年現在の地図、上が北)
文化7年制作と言われる『小曽根郷六箇村絵図之写』に描かれた「御屋敷(やしき)」と、名神高速道路が通る前の航空写真、今西氏屋敷の史料・絵図と比較すると現在の浜3丁目5番地辺りに重なります(絵図が元なのでおおよその位置です)

浜屋敷の北東の今西屋敷は中世の荘官(目代)屋敷で、春日社の社家出身の目代今西氏36代目である今西春房は明智光秀の娘を娶り、弟の今西春光が山崎の戦いにで明智方についたため豊臣秀吉に所領を没収されてしまったと伝承されています。
その後、浜の領主となった飯野藩保科氏の庇護で復興を許されたそうです。
明治時代に再び廃されましたが府指定史跡として屋敷が残されており、現在も今西家の方が住まわれています。

 

浜屋敷東側 浜屋敷西側中央

▲浜屋敷の東側と、西側中央
左写真の白い老人ホーム建物向かいのアパート付近に浜屋敷正門、天竺川を背にして撮った右写真の小道の先の付近に役所が在ったと思われます。

名神高速道路の高架下 浜屋敷西側

▲浜屋敷跡の碑遠景と天竺川堤
碑の背後の草地には石や溝がありますが、道路や名神高速の高架工事時のものでしょうか。
浜屋敷西沿いにあたる天竺川の堤も高架の高さに積まれた岩が露出しています。

新天竺橋 天竺川

▲新天竺橋と天竺川
古地図には橋は無いですが、この新天竺橋辺りが浜屋敷敷地南西の角であったと思われます。
右の写真は橋から高架に向かって流れを撮影。現在は岸・川底共にコンクリートで固められています。

光久桂治氏の敷地 旧浜村集落の古民家

旧浜村の集落は今も民家がたち並んでいます(右写真)
左写真、地主さんの蔵と奥の家宅は近年建替のようですが、手前二棟の場所には昭和初期から建物が在りました。

 

飯野藩浜屋敷跡案内板
飯野藩上総国飯野二万石保科氏は 大坂夏の陣で天王寺表に功あり
よく大坂定番をつとめ 慶応四年鳥羽伏見の戦いの前の動乱時
藩主正益が京橋口定番であったので 領民も大坂城につとめたという。
慶安年中当地に代官所をおき浜屋敷と称し 藩札を発行し 天田郡一揆を解決する。

所在地:大阪府豊中市浜3丁目

参考図書
・佐野英山『藩札図録
・豊中市史編さん委員会『新修豊中市史』(付録「小曽根郷六箇村絵図之写」)
・豊中市教育委員会『春日大社南郷目代今西氏屋敷総合調査報告書』
・橘田正徳『大阪府指定史跡春日大社南郷目代今西氏屋敷』