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歴史人物の略歴や大河ドラマの話題

請西長楽寺と万里小路(まて様)

長楽寺山門 まて様の墓

長楽寺と養子の実家の墓地にある万里小路の墓

 

■万里小路局
寿賀姫(すが。壽賀)。
文化10年(1813)に大納言池尻(いけがみ、いけがめ。藤原四家北家の出とし、萬里小路氏と同属にあたる)興房(おきふさ)の末娘として生まれる。
※文化9年とも。興房の名を示す記録は見当たらず権大納言池尻暉房(てるふさ)と見られる。

天保3年(1832)20歳頃、11代将軍徳川家斉(いえなり)の孫家祥(13代将軍家定/いえさだ)の正室として輿入れした8歳の鷹司任子(たかつかさあつこ。天親院/てんしんいん)の世話役として京から江戸へ出仕。
天保7年(1836)に大奥に入る。家斉の寵臣林忠英が寿賀姫の宿元(身元引受人)となった。
将軍付小上臈(こじょうろう)となる。

12代将軍徳川家慶(いえよし)の代(1837~1853)に、将軍付上臈御年寄(じょうろうおとしより。女中職の最高位)となる。
上臈は生家の公家の通り名で呼ばれる慣わしで、寿賀姫は万里小路(までのこうじ)と称した。

西の丸で13代将軍徳川家定にも仕え、家定の死後に年齢を理由に大奥を引退し桜田御用屋敷で暮らす。

よほど人望と手腕があったのか14代将軍徳川家茂(いえもち)の時に再び大奥への出仕を命じられた。
万里小路は将軍4代にわたり仕えたことになる。

元治元年(1864)5月29日に大奥を辞して、請西藩藩主林忠交江戸浜町藩邸のもとに移る。この時忠交は伏見奉行として京に上っていた。
忠交の急死後はその後を継いだ林忠崇の国元上総国望陀郡請西村(じょうざい。千葉県木更津市請西)を隠棲地に定め、元部屋方お局(つぼね)都山(つやま)と共に江戸を後にした。万里小路局55歳の頃である。
京へ帰れば裕福な暮らしが出来たが、林家のもとに身を寄せたのは徳川への想いが強かったのだろう。
※万里小路は京の権中納言町尻量輔(まちじりかずすけ)の正室となり、後に2人の養子を迎えている。

慶応4年(1868)に木更津の河岸に上陸した際の荷物は親船2杯もあり、仮宿の長楽寺まで長々と行列が進んだ。
長楽寺住職の與喜海明は本堂脇の離れ座敷に万里小路局を迎える。
万里小路局は「まて(まで)様」と呼ばれ、洗練された侍女も8人位伴っており、華やかな様子であった。
しばらくして寺の裏手の高台へ住居(真武根陣屋の部材を解体・一部移築か)を構えた。

長楽寺太子堂裏 長楽寺庭園
▲長楽寺裏手の高台から本堂裏の大師堂(明治18年建立)と庭園を撮影

閏4月3日に藩主自ら脱藩した林忠崇が出陣したため5日に長楽寺で忠崇の武運祈願に大般若経を転読、まて様は御下髪姿で祈念したという。そして長楽寺から万丈を使いとして忠崇の必勝祈願の護摩札や供物を贈った。
京の朝家に帰らず請西林家に身を寄せたまて様は徳川の為にと決起した忠崇を心の底から支援していたのだろう。
16日にはまて様の金百両もの多額な援助金を持って忠崇のもとへ広部周助(上根岸の豪農)が韮山を経て合流している。
5月26日の山崎の戦いの掃討戦として27日に箱根宿端で小田原藩兵によって討たれた請西藩士に、まて様が養子にした嘉之三郎(鹿次郎とも)の父(祖父?)重田信次郎がいる。
※伝聞では鹿次郎は信次郎の子、記録では信次郎の長男である長兵衛の次男

戊辰の役の戦後に身の拠り所を無くし、困窮した晩年は横田村の豪商の河内屋惣左衛門栄助の長女、川名里鹿(りか)がまて様を自宅に迎え入れて世話をした。
川名家に移ってからも大奥の作法でふるまったという。

明治4年(1871)重田鹿之次郎がまて様の養子となる。
明治10年(1877)10月16日鹿之次郎が15歳で病死。
明治11年(1878)5月7日にまて様が66歳で卒中で死去。松寿院殿雙円成心大姉。
明治13年(1880)に広部精の撰文で萬里小路大姉墓誌が作られる。

まて様の墓表 まて様の墓横
▲まて様の墓の側面には万里小路局(つぼね)について刻まれている。

松壽院雙圓成心大姉 位

大姉ハ京都池尻前大納言興房卿ノ末女 文化十癸酉誕生也。
壽賀姫ト称シ 幼年江府ニ下リ 天保七年申年徳川城ニ勤仕ス。
婦徳有テ萬里小路局ノ役ヲ続キ家齊公ヨリ家茂公迄四代ノ将軍ニ侍ス。
辞後重田鹿次郎ヲ養子トシ一家ヲ興シ 終ニ明治十二年五月七日卒。

真言宗豊山派清瀧山長楽寺
鎌倉時代に請西本郷に稲荷山長国寺と称して草創され、永禄年間(室町初期)に現在の場所に移り、長楽寺と改称した。本尊は平安初期御作の薬師如来坐像。
融源上人が立ち寄り法流を広めてから隆盛し60ヶ寺を統理し、中本寺、常法談林所として土地の信仰と学問の中心であった。天正18年に徳川家康が由緒ある当寺を守護するため制札を下し、続いて寺領を寄進した。

長楽寺の菅原道真公の石碑板 長楽寺の碑石の裏
▲古くから「山の神様」と呼ばれ長楽寺の丘から木更津の港町を見守ってきた菅原道真公の石碑。
萬里小路局も江戸湾を眺めて忠崇のことを心にかけていたことだろう。

清瀧山明王院長楽寺 所在地:千葉県木更津市請西982

官軍の間諜「義商 仁呑喜平次」

東岸寺 三河屋喜平次の墓

▲東岸寺・三河屋喜平次の墓

「善誉諦念釼生信士 位」「慶應四辰年六月四日」
喜平次の胴は横田地蔵堂「義商喜平治之墓」に、この東岸寺(とうがんじ)に首が埋葬されている。

 

天保2年(1831)または4年、高水村(君津市高水。前橋藩の領地であった)で生まれ、後に木更津村北片町(木更津市中央)の船宿三河屋仁呑(にのみ)家の養子となり、三河屋喜平次(喜平治)と呼ばれた。

慶応4年(1868)4月~5月に木更津に駐屯した徳川義軍府を称する撒兵隊が官軍に鎮圧され、官軍が上江戸へ引き上げた直後である5月16日の夜に、新政府側として請西村祥雲寺を警護していた飯野藩兵が「義軍」を名乗る一味に襲撃された。
18日未明には義軍は、新政府に城を明け渡していた佐貫藩の城に攻め入って警護していた佐倉藩兵2名を討ち、木更津へ退却。
20日に佐倉藩兵数百名が木更津に向かったが義軍の行方は掴めなかった。

そこで喜平次が武州川越藩(埼玉県川越市。後に前橋藩)の侍と交友があった縁で、前橋藩(群馬県前橋市。富津陣屋の守備にあたった)藩主の松平大和守直克(なおかつ。川越藩から前橋藩へ移封)の命により義軍について調べて欲しいと頼まれ、行商人に扮して探りいれた。
義軍は、脱走武士の浅野作造頼房が残兵を集め木更津の村民からも義勇兵を募って吾妻村(木更津市吾妻)に駐屯していた貫義隊であると突きとめた。

喜平次が富津陣屋(富津市)に報告した頃、貫義隊は久留里街道から横田村まで移動し、泉瀧寺に陣を置いていた。木更津は徳川恩顧の地であり、横田の村人は義軍を温かく受け入れた。

喜平次は引き続き探索を依頼され、相重を伴い横田方面へ赴いた。
6月2日、喜平次は泉瀧寺の様子を報告するため富津陣屋に戻ろうとしたが、素性を疑われていた喜平次は義軍に付けられ、菅生(清川)付近で捕まり、寺に連行されてしまう。捕縛地は大鳥居の渡しを渡った椿のたてば(休憩所)・横田小路の上田(じょうだ)等諸説ある。
寺の門柱に縛られた喜平次は拷問に近い扱いを受けたと伝わっている。

夜になって喜平次が捕われたことを知った松平大和守は、3日午前に富津陣屋と共に川越藩の三本松陣屋(君津市大戸見)から、西と東南から泉瀧寺を挟み込むように兵を出させた。
4日の朝食時に弾を打ち込まれた貫義隊は狼狽し(住民の茂左衛門が官軍の襲撃を知らせたともされる)、両手が縛られたままの喜平次を寺の南の小櫃川の畔の沼地で斬り付け、首を刎ねてしまう。
享年は生まれ年の通り37か39歳、または53歳ともいわれる。

喜平次が斬られた小櫃川畔
▲喜平次が斬られたとされる小櫃川畔

貫義隊は観音堂で戦うも、雇われた腕利きの猟師七右衛門に浅野が狙撃され、総崩れとなった。
この後に久留里藩(君津市久留里)にも賊軍が官軍の探偵を惨殺し放火したと伝わり、真里谷村へ兵を向かわせている。

義軍は潰え、喜平時の亡骸は野辺に捨て置かれたため、哀れんだ村人が喜平時の亡骸を集めて地蔵堂前に埋め、土を盛って葬ったが、官軍の間諜であったことを快く思わずに墓参する者は居なかったという。

やがて安房上総知県事(房・総・常州の旧幕府領を管轄)となった監察の柴山典(しばやまてん。文平。久留米藩士)が喜平次のことを聞きつけ、役人の佐藤信照に命じて村人が手厚く葬った義軍の墓を打ち壊させた。
浅野の首級は見せしめのため吾妻村へ運ばれ、胴は村人が地蔵堂へ運び墓を建てたが、この浅野の墓石を役人が小櫃川に投げ入れてしまう。
そして喜平次の亡骸を埋めた場所に松の樹を植えて「義商」の墓碑を建て、新政府へ忠順であるよう村民に示しつけた。

その後、木更津北片町の知人達が喜平次の首を引き取り、東岸寺に改葬した。
明治11年7月23日に新政府方探索役仁呑喜平治として官からも祭祀料が年75円、掃除料若干が支給され、明治19年に墓を改修したという。
昭和年代になって、今のように立派な墓所となったようだ。

佐幕派の村民から支持された「義軍」は明治の新政府にとっては「賊徒」であり
その村人からは官軍側についたとして快く思われなかった間諜商人は、官軍側には義商なのである。

浄土宗光明山東岸寺
所在地:千葉県木更津市中央1-13-3

木更津最後の義軍「貫義隊」浅野作造頼房

平等院 浅野作造の墓

平等院浅野作造頼房供養墓
平等院(びょうどういん)の墓は英霊供養として大正時代に作られた。裏には「慶応四年辰年六月四日」

 

慶応4年(1868)4月、戊辰の役の際に江戸を脱走した撒兵隊(さっぺい・さんぺいたい)が徳川義軍を名乗り、久留里・大多喜・請西藩等の上総諸藩に協力を要請するため真里谷村(まりやつ。木更津市真里谷)真如寺(しんにょじ)に駐屯していたが、その後本隊が市川~姉ヶ崎方面で官軍に破れて四散し、5月8日に再び木更津に入る。
直ちに岡山・津藩の官軍が真如寺に迫ったため残兵は遁走し、官軍は寺を焼いて久留里を経て、佐貫に向かっていた薩摩・大村・藤堂藩らと合流し江戸へ引き上げた。

その頃、25歳前後の武士浅野作造頼房が吾妻村(あづま。木更津市吾妻)の南の名主鈴木市郎右衛門のもとを訪れていた。
浅野はこの徳川恩顧の地である木更津を中心に同志を募って義軍の旗をあげ、箱根へ出陣した請西藩主林忠崇らを助け官軍と戦うため、豪農の市郎右衛門に援助を求めたのだ。
浅野達は散り散りになった残兵を集め、成就寺に居た染谷勘八郎(そめやかんはちろう)、紺屋(こんや)島屋大河内四郎兄弟ら村人から義勇兵を募り、貫義隊(かんぎたい)を名乗った。
※逆に大河内四郎兄弟らは貫義隊の襲撃から村を防衛したという伝えもある

5月16日の夜に、貫義隊は小高い天然要害の地請西村(木更津市請西)祥雲山にある祥雲寺(しょううんじ)を新政府側として警護していた飯野藩兵を急襲。死傷者7名を出したという。

17日の夜には一晩一両で雇った傭兵を加えた30余名で、新政府に城を明け渡していた佐貫藩の城(さぬき。富津市佐貫)の裏手の牛蒡谷(ごぼうやつ)に潜んだ。横穴が多い絶壁で死角となり、城の地形に詳しく官軍に不満を持つ佐貫の者が手引きしたともされる。
18日未明、佐貫城の正面に回り、厩と役人宿舎を放火。攻め入って警護していた下総国佐倉藩兵2名を討った。他30名余りを負傷させ軍馬に損害を与えたという。
佐倉藩の砲兵隊が発砲すると撤退し再び木更津へ戻った。

22日に佐倉藩(さくら。佐倉市)が木更津村包囲のため国許から兵500名(250名とも)が海路で南下。
これを江川の漁師が浅野へ事前に知らせ、前日夜半から貫義隊は久留里街道から横田村(袖ヶ浦市横田)まで移動し、交戦を回避できた。
義軍は横田の村人に温かく受け入れられ、小坪(おつぼ)の泉瀧寺に陣を置いた。

横田神社 横田神社拝殿
横田神社。北側から拝殿(焼かれたため明治4年に再建)を撮影。
真言宗智山派泉瀧寺は妙見様(現横田神社)の北側にあった。貫義隊は泉瀧寺のお堂とこの妙見堂を宿所としたようだ。

6月2日、木更津村北片町の船宿三河屋の仁呑喜平次前橋藩(群馬県前橋市。富津陣屋を守備)藩主松平大和守克(なおかつ。川越藩から移封)の依頼で間諜として義軍を捜索し、富津陣屋へ報告に戻ろうとした際に喜平次を捕縛。
3日午前、喜平次が捕われたことを知った松平大和守は選擇寺に陣を置き三本松陣屋(君津市大戸見。川越藩の陣屋)からも富津陣屋と共に泉瀧寺を挟み込むように兵を出させた。本隊は夜半に北から迂回。併せて北・東西の3方からの包囲となる。

4日の朝に村人から官軍の急襲を知らされた貫義隊は寺の門を出て迎えうつ。
小坪に進入した官軍は西から泉瀧寺の正面に向けて銃で撃ちかかった。刀や槍が武器の貫義隊は、樹木の陰で銃撃をやり過ごしながら歩兵の接近を待った。

ついに泉瀧寺の西の観音堂で白兵戦となったが、官軍は剣の腕の立つ浅野を討つ策として熟練の猟師を雇っていた。
浅野は猟師七右衛門(現君津市小糸大谷に住み1日5両で雇われたともいう)に火縄銃で狙撃され、下半身に弾を受けた。
最期には諸説あるが、浅野が撃たれると義軍は総崩れとなった。

横田観音堂跡 横田の古戦場
浅野の戦死地辺りと西から見た主戦場の風景 【5/9追記】付近の方に声をかけて観音堂跡の場所に通らせて貰いました
浅野は瘤のある大銀杏の近辺で撃たれたと伝わっている。この瘤のあるひときわ大きな切り株辺りか。
戦場となった観音像は村人が火の中から持ち運んで保護し、戦が終わると観音堂付近に戦死者が多く転がっていたと、後に住人が語っている。

浅野の首級は見せしめのため吾妻村へ持ち去られ、残された胴は村人が東の地蔵堂へ運んで手厚く埋葬し墓を建てた。
やがて安房上総知県事(房・総・常州の旧幕府領を管轄)となった監察の柴山典(しばやまてん。文平。久留米藩士)が横田での経緯を知り、役人の佐藤信照に命じて村人が建てた義軍の墓を打ち壊させ、浅野の墓石を小櫃川に投げ入れた。
間諜喜平次は戦のさなかに義軍に殺されおり、浅野の墓に替えて義商の墓を建てた。

吾妻神社 吾妻神社の東の景色
吾妻神社と東側の小道
かつて吾妻(あづま)神社の東の道端に小さなお堂があり、そこに釘で浅野の首級が晒された。
義軍贔屓であった村人達は浅野の死を哀れみ、小堂の前の茂みに首を埋めて、小さな石を立ててささやかに供養をし、やがてはやり神「浅野さま」として信仰された。

その後、「浅野さま」は今の浅野の祠に移され、大正時代には、慰霊のため平等院に供養墓が建てられた。戒名は「頼房院殿諦心義生居士」と刻まれている。

木更津吾妻の浅野神社と喜平治の墓の場所
▲昭和11年の木更津鳥瞰図の吾妻神社脇「浅野神社」と東巖寺「喜平治之墓」 ※観光パネルより

浅野は背は高くなく恰幅が良いが、高飛びのように槍を突いて選擇寺の屋根に上がれるほど凄まじい脚力を持ち、剣と槍と乗馬の達人で村人達に心服されていたという。

 

・真言宗豊山派 海上山平等院(旧東光院) 所在地:千葉県木更津市吾妻1-1-14
横田神社 所在地:千葉県袖ヶ浦市横田2470
吾妻神社 所在地:木更津市吾妻2-7-55

 

* * *

浅野作造の首は「浅野さま」に、胴は横田に埋まっていますが、横田では墓石を捨てられたために浅野の墓標は無く、この記事を書いている現在吾妻の浅野の祠は倒壊しています
人任せで心苦しくも早く祠が修繕されることを願っています。

以下、補足として。

現在の小路観音堂
▲現在の横田小路(しょうじ)にあるこの「観音堂」は、戦となった観音堂の場所ではありません。

※上総関連の記事全体の参考資料として郷土史料リストを後でまとめる予定です。

大樹寺[2]松平家八代の墓と略歴

大樹寺松平八代墓 大樹寺松平八代墓の葵紋の門

松平八代墓(まつだいらはちだいぼ)岡崎市指定文化財
元和元年(1615)徳川家康松平家菩提寺の大樹寺に、前三代親氏公来の廟所(信光明寺/岡崎市岩津町)を模して追修し、4代親忠以下清康に至る先祖三河八代の墳墓を再建。
元和3年(1617)に天領代官畔柳寿学が奉行となり、家康の一周忌が大樹寺で営まれた際に、信光明寺の松平三代墓の宝篋印塔をここに移転し、現在の姿に整備した。

 

初代松平親氏の墓 2代松平泰親の墓 3代松平信光の墓
▲松平初代~3代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)……岩津松平家の発祥
■初代 親氏(ちかうじ。生没年不詳。芳樹院)
諸説あるが時宗の流浪の僧徳阿弥(とくあみ)が三河(愛知県)に入り、大浜(西尾市)・矢作(やはぎ。岡崎市)等を経て松平郷(豊田市)に至り郷主松平太郎左衛門信重の婿となり、郷敷城を築く。
子(弟とも)の泰親と共に近隣山間部の林添、麻生等を攻略して勢力を拡大し、中山郷7名(17名とも)も支配したという。この頃信州から林藤助が来て親氏の靡下に属す。
大樹寺には康安元年(1361)4月20日逝去と伝わるが諸説あり。松平郷の高月院に葬。

■二代 泰親(やすちか。生没年不詳/良祥院)
親氏の弟、もしくは子。松平信広・信光と共に岩津(岡崎市岩津町)に進出。
泰親の代に本多平八郎助時が松平家に仕える。
大樹寺には永和3年(1377)9月20日逝去と伝わるが、信光の年代と合わず不明。

■三代 信光(のぶみつ。1404~1488/崇岳院)
泰親(もしくは親氏)の子。左京亮、後に和泉守を称した。
応永28年(1422)8月15日泰親と協力し夜襲で岩津の中根大膳を討ち取る。
伯父(もしくは兄)信広は岩津攻めで足を負傷したため松平郷に残り、信光が今後の本拠地となる岩津城の城主となる。
泰親と共に円川(つぶらがわ。中垣町)合戦に勝利して大給城(おぎゅう。豊田市)を占領し、保久城(ほっきゅう。岡崎市)を焼いて下し、勢力を拡大する。
永享3年(1431)3月、洞院大納言実熈が三河大河内に配流となった折に泰親が京都まで守護した縁から、子の信光が室町幕府政所執事伊勢貞親の被官となったとも伝わる。
宝徳3年(1451)親氏・泰親の菩提を弔うため信光明寺を創建。
寛正5年(1464)5月に伊勢貞親の命を受けて井口砦(岡崎市井ノ口町)に篭る郎党鎮圧のため深溝(幸田町)に出陣し大場次郎左衛門を誅した。
この頃、宇津(後の大久保)八郎右衛門昌忠や榊原主計清政が信光に仕える。
文明3年(1471)7月15日夜、踊りの行列で偽装して油断させ、安祥城(あんしょう。安城市)を攻略。※『三河物語』による。諸説あり
続けて岡崎城主西郷弾正左衛門頼嗣と交渉し岡崎城を譲り受け、西三河の半ばを治めた。
長享2年(1488)7月22日に85歳で没。

 

4代松平親忠の墓 5代松平長親の墓 6代松平信忠の墓
▲4代~6代の五輪塔(ごりんとう)……安城松平家
■四代 親忠(ちかただ。1431~1501/松安院)
信光の3男。左京進、左京亮、蔵人を称した。
應仁元年(1467)8月23日、第一次井田野合戦(岡崎市井田・鴨田)で尾張品野・三河伊保の大軍に対し信光は500騎で交戦して勝利。その後、戦死者を弔うために念仏堂(今の西光寺)と千人塚をつくる。
文明(1469~)の初年に家を継ぎ安祥城に住む。
文明7年(1475)菩提寺として大樹寺を建立。
長享元年(1489)8月に麻生城を攻め天野弥九朗を下す。
長享2年(1488)に父信光が亡くなったことを悼んで親忠は仏門に入り西忠と称した。
明応2年(1493)10月第二次井田野合戦。上野の阿部・寺部の鈴木・挙母の中條・伊保の三宅・八草の那須氏の連合軍(全て豊田市)が岩津城を襲撃し岡崎へ迫ったため、親忠が兵2千を率いて井田野で食い止め、撃退。
文亀元年(1501)8月10日、71歳で没。※諸説あり

■五代 長親(ながちか。1473~1544/掉舟院)
親忠の3男。忠次-長忠-長親と改名。蔵人または出雲守を称した。安城松平家2代目。
文亀元年(1501)9月、父親忠の死の直後に駿河今川氏親の軍が西三河に侵入し、松平一族は結束を固めて警戒する。※今川軍の侵攻時期は諸説あり。この頃に仏門に入り道閲と号したという。
永正3年(1506)8月21日、駿河今川氏親の軍が再び西三河に侵入し、氏親の客将伊勢新九郎盛時(長氏。後の北条早雲)が一万騎余で岡崎に入って一部を甲山において岡崎城をおさえ、伊勢盛時本隊は大樹寺を本陣として岩津城に攻めかかった。※11月とも。『大三川志』は文亀元年9月
安祥城の長親は一族郎党を集めて最期の酒宴を催し、そして僅か500余の軍で矢作川を越えて岩津城を狙う今川勢の背後を攻めた。
夜戦となり疲弊した両軍が一時兵を収めた時に、陣中で裏切り者が出たと噂が流れた今川勢は駿河へ撤退した。
永正年間の連戦で松平惣領の岩津家が衰退し、安城家が惣領となる。
天文13年(1544)8月22日没。

■六代 信忠(のぶただ。1486~1531/安栖院)
長親の長男。次郎三郎。左近、蔵人、左京亮とも。安城松平家3代目。
大永3年(1523)に早くも家督を嫡男の竹千代(清康)に譲り、大浜郷に隠居して祐泉と号し、また泰考・道忠と改める。
信忠派・弟信定派と分かれた家督騒動の渦中にいたため『三河物語』では叛く者を誅殺する残忍な性格に書かれてしまっているが、内紛を収めるため潔く引退し陰ながら若い清康を援けた説もある。
享禄4年(1531)7月27日に没。

 

7代松平清康の墓 8代松平広忠の墓 松平家9代徳川家康の墓
▲7代清康の五輪塔と8代広忠の無縫塔(むほうとう)、近年建立の9代家康の墓
■七代 清康(きよやす。1511~1535/善徳院)
信忠の長男。次郎三郎。
大永3年(1523)13歳で安城松平家4代目となる。
大永4年(1524)14歳で、岡崎城主松平(西郷)信貞の持つ山中城(羽栗町)を攻めた。信貞は大草に隠居し、清康は安祥城から岡崎城に移る。
大永5年(1525)足助(豊田市)鈴木氏を攻略。
享禄2年(1529)5月27日、牧野氏の吉田城(豊橋市)攻めのため岡崎城を出発し赤坂を本陣として、翌日進攻し激戦の末に牧野勢を打破る。この年、小島城(西尾市)も攻略。
享禄3年(1530)熊谷氏の宇理城(新城市)攻を攻め、熊谷実長の迎撃に一度は崩されるが、城内の者が内応して火をかけたため落城。
享禄4年(1531)三宅(周防とも)氏を攻め伊保城(豊田市)を手中にする。
天文2年(1533)3月20日、広瀬城主三宅・寺部城主鈴木氏らとの岩津合戦で勝利。12月に三河に侵入した信濃兵を井田野で撃破。
天文4年(1535)2月22日に大樹寺の多宝塔を起工させ4月に完成。真柱銘に「世羅田次郎三郎清康安城四代岡崎殿」とある。
12月3日、尾張進出を図り一千余騎で岡崎城を出発し、翌日に尾張織田信秀(信長の父)の守山(森山とも。名古屋市)へ侵入。この夜、守山の陣中で家臣阿部大蔵定吉(正澄とも)が謀反の疑いで処罰されると誤った噂が立つ。
5日早朝、噂を信じた子の阿部弥七郎が清康を背後から刺殺。享年25歳。
岡崎勢は撤退を余儀なくされ、若い雄渾の宗家当主の急死により松平氏の三河支配が揺らいだ。この事件は後世守山崩れと呼ばれる。
大樹寺の他に随念寺(岡崎市門前町。養女お久の墓も)と大林寺(魚町)等にも墓がある。

■八代 広忠(ひろただ。1526~1549/大樹寺・瑞雲院)
清康の長男。幼名千松丸、のち次郎三郎。
天文4年(1535)12月、10歳の時に父清康が殺され、家督をめぐる内紛がおこり、叔父の松平信定(桜井松平家)が岡崎城に入り、千松丸は流浪の身となる。
28日に阿部定吉が息子の罪の償いのため千松丸を護って伊勢の神戸(三重県鈴鹿市)へ。
天文4年(1535)3月17日に海路で遠州縣塚に渡る。阿部大蔵や、清康の妹婿の東條吉良持広は駿府の今川氏に助力を請う。8月26日に形ノ原に移る。
天文5年(1536)9月10日に茂呂城に入り、閏10月に吉田を経て駿府の今川義元に面会する。
天文6年(1537)5月岡崎に残る大久保新八郎忠俊と弟甚四郎忠員・弥三郎忠久らに岡崎帰城を促され、千松丸は茂呂城に戻る。
29日、岡崎を執っていた松平蔵人信考が有馬温泉に赴いた隙に、大久保忠員・八国甚六詮実・林藤助忠満・瀬又太郎正頼・大原近右衛門惟宗が千松丸のもとに集った。
6月1日岡崎城を攻め、大久保忠俊が本丸の石川兄弟を討って開門し、千松丸は入城を成し遂げた。12月9日に元服。
天文9年(1540)織田信秀の三河侵攻が激しくなり6月6日に松平左馬介長家(親忠の子)の安祥城が包囲され、松平長家・信康(広忠の弟)・信忠をはじめ譜代の林藤助忠満渡辺右衛門照綱・本多弥八郎正貞・弥七郎正行(正貞弟)・内藤善左衛門・近藤与一郎・足立弥市郎等将達が奮戦するが守りきれず、50余人が戦死し落城した。以降、広忠は駿河の今川義元の援助を受けて安祥城の奪還を試みることとなる。
天文10年(1541)於大の方(伝通院。家康の母。刈谷城主水野右衛門大夫忠政娘)を娶る。
天文11年(1542)8月10日松平勢は今川義元の翼下として織田信秀軍と小豆坂で合戦する。※織田の小豆坂七本槍の奮戦で織田軍の勝利とするが虚構ともされる
8月27日叔父の松平信孝が、信孝の弟康孝の旧領三木(岡崎市三ツ木町)を横領したとして、広忠は信孝の留守を狙って三木城を占領。合議で追放された信孝は織田氏につく。
12月26日に次男の竹千代(後の徳川家康)誕生。
天文12年(1543)9月に水野氏が織田方についたため、於大の方を離縁する。
天文14年(1545)9月20日安祥城奪還のため清縄城に出陣するが織田勢の挟撃に遭い敗走。
天文15年(1546)9月6日広久手に兵を出す。
天文16年(1547)8月2日に6歳の竹千代を今川家の人質として駿河に送るが、竹千代は途中で織田方に奪われてしまう。
天文17年(1548)4月15日耳取縄手合戦──3月19日に小豆坂で今川勢と織田勢が合戦し織田勢が安祥城まで退いたため、に大岡の山崎砦の松平信孝が単独で岡崎城を落とそうと500騎を率いて妙大寺(岡崎市明大寺町)表へと迫った。200騎の兵で迎え撃った広忠は、予め伏兵として絵女房山に弓の精鋭を配置して山を下る信孝軍へ射らせてから妙大寺へ退かせた。一直線に伏兵達を追いかけた信孝軍を、広忠家臣の隊が左右から挟撃。信孝は半弓で脇腹を射られて討死した。
天文18年(1548)3月6日、広忠の側に仕えていた岩松八弥が城内で突如広忠を刺し殺す。
岩松は織田方の広瀬城主佐久間九郎左衛門全考の刺客であった。享年24歳。
大樹寺の他に密葬した松應寺(松本町)、広忠寺(桑谷町。永禄5年家康が建立)、大林寺(魚町)、法蔵寺(本宿町)にも墓がある。

広忠の死後は今川勢が岡崎城に入り、主君を失った松平家中は今川氏の指揮下に入る。
8歳の竹千代は織田信広との人質交換で駿河へ(家康の生涯は著名なので省略)
かつては広忠までの8基が並んでいたが、昭和44年に家康公の墓も日光東照宮の廟に模して岡崎市民により宝塔が建てられた。墓碑の法名は徳川18代当主徳川恒孝(つねなり)氏の筆。

岩津松平家供養塔と歴代住職の墓
▲松平八代墓のそばに岩津松平家供養塔。奥の開山堂の敷地には歴代住職の墓が並ぶ。

人見寧-幕府遊撃隊・土木県令・利根運河の三狂生

人見勝太郎寧の写真 人見寧 ひとみやすし。写真は箱館戦当時

■人見寧の生立ちと遊撃隊への抜擢
初め勝太郎(かつたろう)。字は君寿、号は模坪。
天保14年(1843)9月16日、二条城の西、二条千本の十軒屋敷で幕臣・人見勝之丞の長男として生まれた。
勝之丞は京都文武場(ぶんぶじょう)の文学教授を務め(漢詩文が何篇か現存しており、特に得意としていたようだ)母は仙子(清水家)。
人見家の先祖は江戸時代前期に武蔵国から丹波国に移り、享保14年(1729)丹波国馬路村の郷士人見治郎右衛門が株を買い武士身分に転じ、京都に移住した。

勝太郎は10歳の時に京都学習院の儒家の牧贑斎(百峰)に入門し、そして大野庄之助に剣術、江川流の山田某に西洋砲術を学んだ。

文久3年(1863)将軍徳川家茂が上洛し3月に二条城に入る。家茂は京都の幕臣達に文武奨励を号令し、人見勝之丞と19歳の勝太郎が二条城に呼ばれた。勝太郎は家茂の前で孟子梁恵王上篇の一章を講義して白銀3枚を、更に撃剣上覧で白銀3枚を恩賜を賜った。

慶応3年(1867)12月に勝太郎は幕府親衛隊である遊撃隊に抜擢され二条城の君側(慶応2年に家茂は他界し一橋慶喜が将軍となる)に勤仕。下旬に慶喜に供奉し大坂城に入る。

 

■鳥羽・伏見の戦い
慶応4年(1868)1月2日遊撃隊は慶喜上洛の御先供の令を受け、今掘摂津守(元講武所師範役)に属し、黒谷に先発する。大阪城から船で淀川を上る。
3日の明け方に伏見に着く。しかし薩長の兵が鳥羽・竹田街道に関門を置いて幕府方の洛中入りを阻んでいた。手出し無用の命令を厳守して手持ち無沙汰な幕府先発兵に対し、薩摩兵は余裕のある態度で挑発する。
夕方5時頃に鳥羽街道上の赤池付近で幕府方と薩長兵の押し問答の最中、突然薩摩方が発砲(上鳥羽村小枝橋)し、発砲音が届いた伏見でも開戦となった。

伏見方面の薩摩兵は御香宮(ごこうのみや)に布陣。
幕府方は会津軍の主力が伏見街道に集結して伏見奉行屋敷を固め伝習隊が北の御門、新撰組は裏手を警備し浜田藩が控えた。
奉行所を見下ろす位置にある龍雲寺から薩摩藩第二砲隊の大山巌(通称:弥助。弥助砲と呼ばれる薩摩軍の山砲は彼が四斤山砲を改良した)らが激しく砲撃を行う。薩摩方の大砲は焼玉(炸裂弾)で町中に火があがり幕府方の負傷者が増えていく。
遊撃隊の伊庭八郎は伏見奉行邸前で奮戦し胸部(もしくは腹部)に被弾。
先発隊は夜通し戦うも、薩摩兵が御香宮まで退却したため、遊撃隊も中書島へ引き揚げた。

4日、伏見・竹田両道から洛中へ進軍しようと大いに意気が上がっていた所に、総督松平備豊前守(大河内正質・上総大多喜藩藩主)が全軍大阪へ引揚げを命じた旨を副総督の塚原但馬守から伝えられた。
人見ら遊撃隊隊士数名は会津藩士数十人と供に鳥羽街道筋、伏見通路、澱川沿いと戦いながら移動したが澱には自軍の影もなかった。
更に橋本陣所まで南下すると、山崎関門守衛の藤堂藩が離反して橋本を砲撃し、若州藩見回役と対戦。人見は負傷者が放置されるのを見過ごすことができす、弾が飛び交う中を奔走し小艇を一艘買って負傷者を乗せた。

6日に大阪に着く。人見は遊撃隊宿舎の天満組屋舗の族舎に負傷者を収容して、大坂城に登城するが、守備が手薄で静まり返っている。残っていた会津藩士に慶喜が江戸に帰った次第を聞く。
監察妻木民弥に面会し、軍は紀州和歌山に向かうことになった旨と、負傷者達は人見に一任すると達せられた。
友人の楳沢銕三郎(梅沢鉄三郎、敏。幕府目付の水戸藩士梅沢孫太郎/守義の三男で梅沢家を相続。後に静岡県議会議員)と共に負傷者を運搬する釣台人夫を雇うため奔走し、安治川口の御船役所に赴くが乗船には間に合わず、敵兵が迫り火の手も上がる危地に際した人見らは抜刀し脅す強行手段で大船に乗り込んだ。
負傷者を無事送り出すと、人見らも命懸けで大坂の様子を探索しながら和歌山に向かった。

8日に和歌山に着く。人見は負傷者達の元へ駆けつけ無事を知り安堵する一方で、彼らを置き去りにした遊撃隊の頭を論責している。
人見らは三ヶ保丸で由良港を出航し、13日に浦賀に着き、江戸へ入る。

 

請西藩・内房諸藩士との共闘戊辰箱根の役

人見らは同じ遊撃隊の山高鍈三郎邸(牛込赤城明神下)に居候する。人見は赤坂本氷川坂下の勝海舟邸で勝と初めて接し卓論を聞く。
1月下旬、人見と人見の友人の岡田斧吉は、大監察堀錠之助が徳川臣代表として東海道先鋒総督府に哀訴嘆願する使節の末班加入を望み、後日随行の命が下る。
2月上旬、人見らは堀邸を出発し3泊を経て甲府(山梨県)に着く。近藤勇が挙兵し甲州進軍の噂があり、現状確認を優先する堀に反発した岡田・人見が任務を強行して先鋒総督府の参謀海江田と木梨らに嘆願書を託す。

3月徳川慶喜の水戸謹慎が決まり遊撃隊は慶喜を奉送することとなるが、人見は岡田、伊庭、和田助三郎、佐久間貞一郎、らと供に千住大橋まで奉送後に脱走挙兵する計画を講じて、実行準備のため銃器・弾薬を集めていた折に、海軍副総裁榎本釜次郎(武揚)が幕府軍艦を率いて脱走するとの噂を聞き、伊庭・宮路・佐久間らと下谷の榎本邸を訪れ、榎本と同盟を結ぶ。
14日に遊撃隊隊士は長鯨丸、人見ら4人は榎本の居る開陽丸に乗船。

4月11日、大総督有栖川宮の江戸城入城のため本営の池上本門寺から品川へ進入する様子を人見らが開陽丸の艦上から望見していたその時に、榎本が2艘の艦隊を一斉に品川沖から抜錨した。房州館山(千葉県)へ渡り館山湾に停泊。
16日に榎本のもとに、大総督府の幕府軍艦引渡要求の交渉のため勝が単身で来訪。榎本が2、3艦を引き渡すと応じたことに遊撃隊は反対し憤懣に耐えず人見ら3、4名が抗議したが覆らず、上総(千葉県)上陸を決断する。

17日に榎本は品川沖に戻る(24日に富士山・翔鶴・観光・朝陽4艘を大総督府に引渡す)こととなったが、遊撃隊とは同盟を結んだ誼で、上陸に適した小艦の行速丸に榎本自らが乗り込んで送った。隊士達は榎本の友誼の厚さに感謝して木更津付近に到達。徒歩で上陸し寺院に泊まる。
その夜はじめて軍議を開き、遊撃隊を2隊とし、人見は1軍隊長となる。

28日に請西藩を訪れる。遊撃隊は文武両道で将軍の身近に在った奥詰めからなる隊なので、規律正しく統制もとれており、請西藩主の林忠崇は彼等に真の忠義を感じ取って協力を受け入れた。

閏4月3日真武根陣屋を出陣。館山に向かって南下し富津陣屋を経て飯野藩勝山藩館山藩の上総安房諸藩の脱藩兵を加え、共に駿河(静岡県)沼津での挙兵をめざして江戸湾を渡り12日に相模(神奈川県)真鶴港に上陸し、小田原を経て沼津の韮山代官所に向かう。
大総督府は沼津藩に総勢300人近くとなった遊撃隊ら一行を解体させるよう命じ、また江戸からは田安中納言(徳川慶頼)の命で旧幕府首脳の大鑑察山岡鉄舟と石坂周造が抗戦を止めるよう説得に訪れた。
林忠崇と遊撃隊は上意をしたため、山岡らに託し、新政府軍総督府からの返書を待つ形で、沼津藩主が城代である甲府で待機することとなる。
しかし期日を過ぎても返事は来ず、沼津藩監視下の香貫村でひとまず謹慎となるが、東の彰義隊壊滅の報を聞き新政府軍の包囲が強まるのを感じ取った人見が豪雨に乗じて第一軍を率いて箱根方面へ出陣する。(単なる人見の抜け駆けでなく、状況打破のきっかけを作るために林侯と示し合わせたと見られる)
残る遊撃隊も箱根に移り5月20日に小田原藩の守る箱根関所を占領した。

しかし小田原藩が急に手のひらを返し、26日の山崎の激戦(人見は旧幕府艦隊に赴いて不在)で各方面から追撃を受ける窮地に立たされた遊撃隊は箱根から熱海まで撤退し網代に渡り榎本率いる艦で東に渡る。
5月28日に館山港に着き、戦える者は奥州への転戦を決めた。

 

■奥州へ転戦
6月1日に一行は長崎丸に乗り、3日に奥州小名浜(福島県いわき市)に116名が上陸。
4日に平(たいら)に着き、奥羽越列藩同盟を結んでいる平藩・湯長谷藩・泉藩の支援要請に応じる。
16日に常州平潟(福島境に近い茨城の港)辺に新政府軍の船渡来の報があり、夜に出陣。
17日明け方仙台・磐城諸藩連合軍と共に出撃。山上で待ち構えていた新政府軍と、遊撃隊一隊も仙台兵を率いて戦い、林軍・他遊撃隊らも松原で迎え打つも、主力を白河に出していた仙台兵は敵の大軍を前にして士気が上がらず苦戦する。
支援藩兵の軟弱さに憤った人見も、兵に覇気がなく内部は恭順・抗戦派で割れ信用が置けない藩は見限って会津支援に向かうことを忠崇に勧めたが、翌日仙台陸奥守の名代の古田山三郎らが国元からの援軍の指揮を強く請うので、止むを得ず、滞在を延ばす。

23日新政府軍が平城目指して進軍し、遊撃隊は朝8時頃に湯長谷の隊を植田宿へ出撃させる。
植田八幡山で敵を待ち受けるために2手に分かれ請西藩兵・遊撃隊1隊・平藩兵は街道から、純義隊・遊撃隊1隊は山手から侵入する。
24日八幡山を挟んでの攻防となる。急襲成功し敵を多く討ち取るも激しい砲撃戦の後、数に劣る同盟軍は湯長谷に退却。

29日長橋端から新政府軍を砲撃で撃退するも、平城主・泉城主らが仙台兵と共に逃げ退いたため守備が手薄になる。それでも留まって戦おうとする忠崇を、人見が諌めて会津支援に向かうことを説得し、忠崇らは相馬中村(平より北へ位置する)へ向かう。

7月19日夕方、川俣に着泊した人見も会津に向けて出立。
その後人見は寒風沢(さぶさわ。宮城県塩竈市の浦戸諸島で仙台藩の軍港がある)港守衛の任務に就く。
※暫定。諸隊の奥州戦は少しずつまとめていきます

 

■蝦夷己巳の役。連勝し五稜郭に入り松前を奪取
9月に人見は榎本一行と白石城(輪王寺宮が入り奥羽越列藩同盟の奥羽越公議府が置かれた)に向かって発つが、途中で会津落城(22日降伏し会津若松城開城)の報を聞き一同落胆し、仙台に引き返って泊まる。
輪王寺宮も謝罪を決め、同盟主仙台藩や主力藩の降伏で奥羽越列藩同盟は崩壊した。

榎本が新政府との調和のため、録も拠り所も失った旧幕臣達(徳川家の減封で幕臣を養いきない)の手で不毛の蝦夷(北海道)を開拓し、朝廷と日本国土のために北方の警備にあたる構想を告げ、人見はこれに賛同して庄内(同盟藩で恭順を拒む最後の藩)行きを断念する。
10月9日に仙台東名浜(とうなはま。東松島市)から折浜(おりのはま。石巻市)に移動。
10日大鳥圭介も米沢から伝習隊を率いて仙台に着き兵を精選して乗船。榎本の艦隊に北行を望む諸藩の兵を収容する。
12日仙台藩の支援もあり、艦の修繕も終わり、遊撃隊らは折浜を出航した。
13日に桑ヶ崎(秋田県湯沢市)に入津し18日に出航。
20日に蝦夷鷲ノ木(わしのき。茅部郡森町)に着岸し榎本艦隊の旗艦開陽に各艦から幹部が集められ会議となる。人見と岡田、沢録三郎、佐久間悌二が隊士から離れ全軍の役職に転出。

22日に上陸、一尺ほどの積雪があった。人見は箱館府(幕府直轄の箱館奉行に代えて新政府が設置)知事清水谷公考(しみずだにきんなる)宛の渡海趣意書を届ける大役を任され、大鳥の部下数名と少数兵の30名を引率して箱館(函館)へ通じる本道の峠下(とうげした)村へ向かって先発する。
吹雪の中、数里の森林間を経て、夜に峠下村に達した。土地の者から官兵達はここにはおらず一里離れた大野村に居ることを聞き、疲弊していた一行は見張りを置き民家で仮眠をとった。

23日、まだ夜が明ける前に、左右の山上の至近距離から敵の伏兵(津軽・松前等の兵)に大小銃を撃ちかけられ、民家に雨のごとく弾丸が降りそそいだ。
夜襲に対して、人見らは匍匐して灯火を消して散兵の形で雪明りに山上の敵影を確認し、しきりに狙撃を果たす。頃合を見て人見らの後方の峠の中間へラッパ兵を登らせ、進軍合図を吹かせると同時に人見らが突撃の雄叫びを発して一斉に立ち上がった。
驚いた敵が銃や死傷者を棄てて敗走したので、富士山村まで進軍する。
夜襲に耐えて、蝦夷上陸の初戦の勝利を収めた人見らは、元の峠下村に引揚げて休み、敵の負傷者を処置した。

森村まで伝習隊・新撰組・遊撃隊(仙台から乗船した会津・唐津兵等も編入)らを率いて移動していた大鳥も、早馬の急使に開戦を告げられ、夕方に峠の陣に到着し人見らに戦の詳細を聞いて軍議を開く。
敵が大野と七重に在るとみて、兵を分けて大鳥隊は大野村へ、人見・佐久間を軍艦に遊撃隊・新撰組・工兵方を七重村へ進軍する。間道富士山に宿陣。
24日に七重村を本営とする。

人見らが七重村から南に出た所で、官軍が箱館から七重村へ向けて山の手と原野の両方面から来襲し、官軍6、700人と交戦。砲撃のあと2時間に渡る接戦で敵を潰走させた。深追いを避け大川辺より引揚げる。
官軍はこの敗戦により清水谷府知事はじめ諸藩の官兵は五稜郭を放棄して秋田・津軽地方へ船で逃走。
敵の屍は手厚く葬り、負傷者は旧幕府一行側の病院で治療し回復後に生捕りの者と共に各藩へ送り返した。
夕方に人見は大鳥の元へ戦況を報告に行き、兵を合流させ五稜郭へ向かう作戦をたてる。

25日に大鳥隊は湯の川に向かう土方歳三の隊と連携を取って五稜郭に迫る。
26日に箱館の無血占領を果たす。
その後全軍が五稜郭に入り、海軍も箱館に集まり碇泊。箱館在住の外国領事ロシアのニコライ等に外交通知し、我が党が全島を支配し一般の保護を担任する旨を告げ、また一般人にも布告をして安堵させた。
そして松前藩士の生捕り者2名を藩に送還して、同盟の義を勧誘させようとしたが、この2人を殺し敵意を示したので、やむを得ず27日に土方を総督とし松前城に向けて進軍するに至った。

11月5日に松前城(福山城)を落城させる。松前藩主と重臣らは江差に走り津軽を頼って渡海していった。
落城後すぐに人見は入城して、遊撃隊に略奪行為を禁じる命令をし、わずかに番兵を残して各隊皆城外に宿営させた。
城内大手口玄関に藩士一名が着服して死んでおり、義烈の情感にたえず、厚く葬った。
人見は2、3人の隊士と城内を見回ると、奥深くに松前藩主の家族侍女等婦人7、8名が取り残され、うな垂れて泣いているので人見は処分せずに、松前家の菩提所に移し、町人に命じて諸事斡旋して厚く待遇した。後で希望を聞いて藩主のいる弘前へ送る折に婦人達は感謝して別れを告げた。
そして松前領内一般に、同盟の呼びかけ・住居を安堵したい者の自由・主君の元に帰りたい者の希望を叶える等を布告したので、多数潜伏していた松前藩士も安心して静粛に留まった。

江差に逃げ落ちた松前残兵と額兵隊(仙台藩)ら追撃隊が交戦。
14日に榎本が大吹雪の夜中に開陽艦で松前に来て、入城して人見に江差に急航すると告げた。これまでの陸軍の功名に、海軍も燻っていられずの意気込みで立ちながら葡萄酒を煽って早々に乗艦したが、結局翌日も吹雪が止まず開陽は江差港口で座礁(22日に救援に向かった神速丸までも遭難)し数日後に沈没してしまった。
陸路を帰る榎本と松前で会見して、天運の無さを嘆きつつ酒数杯を傾け、人見は城門まで送って別れた。
江差を守り、遊撃隊は松前を守衛。

 

■辞世を書いた指揮旗を振う。入院中に五稜郭明け渡し
12月22日に五稜郭でアメリカ合衆国に倣って入札(いれふだ。投票選挙)により役員を決め、人見は松前奉行となった。25歳の人見は幹部では最年少である。松前城付近に住み、城まで馬で通った。
総裁に選ばれた榎本は早速蝦夷開拓に取り組もうと、その志を朝廷に奏聞するが、新政府はこれを無礼の申出として却下し国賊として追討に踏み切った。

明治2年(1869)4月6日に新政府軍が数多く輸送船を引率して青森港を出航し9日早朝に乙部(おとべ)へ陸兵を上陸させ、陸海から江差・松前へと進軍を開始。
敵軍艦は沖にあって迎撃出来ず、兵数の少ない遊撃隊が戦闘にあたって防戦苦闘を強いられ岡田等、多数の死者が出た。

五稜郭に全軍集結の命令があり、松前を引き払う。帰途の知内で敵軍が西海岸から上陸して木古内(きこない)に現れ帰路を絶たれてしまう。
遊撃隊は奮戦し、悉く撃退して切り抜け、箱館に帰ることができたが、この戦いで伊庭が胸部を撃たる致命傷を負い病院に搬送される。

人見は遊撃隊を率いて箱館に舎営し弁天台場を守った。敵艦の春日が回航し幾度か台場を砲撃したが命中せず、台場からの迎撃も届かなかった。
官軍の甲鉄艦が五稜郭めがけ3百ポンド砲弾を発射し天地を揺るがす爆音に曝される。陸海共に日々小戦争が繰り広げられた。

5月10日、官軍の総攻撃を偵知した榎本達は、海陸の将校等一同函館の遊郭・築嶋の武蔵野楼で決別の大宴会を催し、夜半に皆四散して各部署につく。
11日夜明け前に敵艦が運転を始め、発砲開始。陸からも薩兵が四方より発砲して来襲した。
人見ら遊撃隊は一本木(いっぽんぎ。北斗市)から七重浜(ななえはま。北斗市)を進み、長州兵と交戦する。砲戦の後に短兵接戦となった。
人見は胴巻の白羽二重(はぶたえ)の端を裂いて辞世の七言絶句
幾萬奸兵海陸来  [幾万の奸兵、海陸より来る]
孤軍塲戦骸成堆  [孤軍防戦、骨堆(たい)を成す]
百籌運盡至今日  [百籌(ひゃくちゅう)運尽き、今日に至る]
好作五稜郭下苔  [よし、五稜郭の苔とならん]
于時元治二年己巳歳仲夏
徳川脱藩遊撃隊々長 人見勝太郎橘寧
──と墨書きして決死の指揮旗として握り締め、馬上で指揮をとった。※元治はママ。于時は時に・この時の意味

しかし横合いの敵の艦上から狙撃されて馬を撃ち殺され、人見は落馬し額に重傷を負ってしまう。
敵兵の手にかかる前に従卒の久次が人見を茅原の中へ引きずり、人見の胴巻きを解いて包帯をし、放れ馬を捕らえて人見に与えた。
この馬で疾駆し箱館病院に入る折に、既に箱館の後部から上陸していた敵兵が人見を見て猛烈に射撃してきたので、馬を棄てて一町ばかりの坂道を駆け上って病院に飛び込んだ。
人見が病院長の高松凌雲(りょううん)の施術を受けたのち、12日に和平交渉に訪れていた官軍の参謀部員である薩摩藩士池田次郎兵衛が英国医師を連れてきて懇切に人見を診察治療させた。

──尚、落馬時に爆風で吹き飛ばされた指揮旗は左下に人見が流した血痕がついていた。
それを長州藩の隊長品川弥次郎が敵ながら遺族に届けるべき遺品と思って拾い衣嚢に納め、そして維新後に人見と巡り合うことになる

5月18日、榎本らは新政府に降伏し五稜郭を明け渡した。
榎本達は新政府軍の参謀黒田清隆(きよたか。薩摩藩士)のはからいで寛大に扱われた。

人見は病院で治療を受け数日後に弁天台へ移され、3日を経て蒸気船にて御親兵の護衛で東京に送られ、増上寺(ぞうじょうじ。港区芝公園)山内赤羽橋口の寺院に拘禁される。
数日を経て大村兵部大輔から下の宣旨を受け、豊前香春藩(かわらはん。旧小倉藩。福岡県北九州市)にお預けとなる。
其方儀箱根ニ至リ官軍ニ抗シ、中井範五郎ヲ殺害シ、奥羽ニ逃レテ後、
榎本釜次郎等ノ賊ト共ニ箱館ニ至リ官軍ニ抗シ、力尽キテ降伏スト雖(イヘド)モ
天地不可容ノ重罪厳科ニ可被処(処セラルベキ)之処、
出格非常之寛典ヲ以テ香春藩ヘ長預申渡

 

■東京・福岡で拘留後に静岡に移る
6月に香春藩兵の護衛で轎(輿)に乗り、籠に乗り下谷御成道(東京都台東区上野。今の黒門辺り)の小笠原邸に送られ、ここに一泊。
翌日の明け方に出発し、東海道から大阪に行き、安治川口から早船に乗って豊前国に渡り簑ノ嶋(福岡県行橋市)に上陸し、行司(行橋市行事)の祐福寺(ゆうふくじ。酉福寺)にらと拘禁された。
藩士4名が護衛したが厳しくはなく、後に近くへ散歩も黙認してもらえた。

明治3年(1870)3月に天赦の令で釈放。※辰の口軍務局糾問所に投獄された榎本や大鳥ら幹部の釈放は明治5年
香春藩兵は人見らに数名の藩士を随従させ静岡に送還すると告げるが断り、衣服と大小刀の贈与も受け取らなかった。
共に拘禁されていた友人の斎藤辰吉(たつきち。元彰義隊で後に中野梧一と改名。山口県令となり後に経済界で活躍するが大阪で自殺)と、呉服商に旅装を整えさせ羽織を着て何も武器を持たずに、医師か茶人のような姿で漫遊の旅に出た。

稗田村(福岡県京都郡)の漢詩人仙山堂(村上仏山)先生に一筆願い、筑前宰府の菅廟(筑紫野市。菅原道真公の廟所)を拝観し、博多を経て船で芸備防長(広島・岡山・山口)の瀬戸内沿海の著名な港を巡り泊まること数日。備後(広島県)靹津(福山市の鞆の浦)で遊興に耽り、四国の多度津(香川県)にわたり金毘羅社に参拝する。また幡州(兵庫県)に渡って所々巡遊した。

4月下旬に静岡に着き、人見は梅沢孫太郎(京都時代で既に述べた鉄三郎の父)邸に居候する。徳川家が移封され旧幕臣が移住して栄える静岡の様子は、幽国の悔恨を忘れたかのようだった。人見は耐え難い想いを心に秘めて、鹿児島へ渡ることを決意した。

 

■鹿児島へ遊学
西国留学の相談のため鷹匠町の勝海舟(旧幕臣による牧ノ原台地の茶畑開墾を指導していた)を訪れる。
勝の書を携えて男鹿村に出向き静岡藩大参事となった大久保一翁に面接し、翌朝の出庁を命じられた。出庁すると、徳川家を相続して静岡藩知事となった徳川家達から餞別金百両授与と伝えられ、拝受した。
感激した人見がすぐに勝へ礼を言いに行き、迎えた勝は人見に九十両の旅費と薩摩常備隊砲兵隊長村田新八宛の紹介状を与えた。

5月3日、同行を希望した梅沢鉄三郎と共に出発。
掛川駅で内藤七太郎(旧見廻組与頭、京都文武場教授方)を訪問して一泊。東海道をのぼり京都の父母の元に帰省してから大阪に下る。
安治川の船宿から早船で豊前に渡るつもりだったが、長州脱藩の元奇兵隊(奇兵隊は維新後の陸軍編成で解体。政府に反発した一部の脱退騒動が起きた)が海賊に成り果てて瀬戸内海を荒らしていたため出航を断られてしまう。
しかし通商を阻まれ略奪の標的となり困り果てている商人の前に、歴戦の剣士達が現れたというドラマのようなような展開でもある。ちょうど大阪湾に豊前大橋の柏木氏所有の商船(500石積の和船)が碇泊しており、船主の柏木氏とは、山陽先生の書画等を多く蔵しているため拘禁時代に3度程訪れて面識があった。
小伝馬船で兵庫に至り、親船に乗船する。

心地よい海風と夜空に一酔いして船中でまどろむ夜半に、突如、鉄砲を携え抜刀した海賊7、8人が商船を襲った。人見らは燈火を消し、伝馬船の下に抜刀して潜む。
近付いた2人の賊の前に躍り出たその時、呼子の笛が鳴り響き賊は逃げ出した。
船頭や船子に呼びかけ、総員10名が裸体に鉢巻姿で短棒等を手にして追跡したので、幸い米一俵も奪われずに賊難を免れて、人見らは謝辞を述べられた。

明け方近くに和田ノ岬(神戸市)の辺りまで漕ぎ出し、播磨灘を過ぎ、一泊もせず殆ど一昼夜で田ノ浦(北九州市)に着いた。
柏木氏の厚饗を受けた後に祐福寺を訪れて和尚にかつての厚情への感謝を述べた。
儒者の遠帆楼(えんぱんろう)恒遠(つねとお)先生の門を叩き、数日名所を巡った後、筑後川を船で久留米まで下って水天宮社を参拝。大雷雨に遭うが、高瀬を経て山麓の温泉に浴泊した。翌日熊本にいて木更・津田両氏の門を叩き、加藤清正公祠に参拝して逗留。

松橋から海路で薩摩領に上陸するが、薩摩藩の関史の尋問を受けた。
静岡藩の遊学書生だと告げても怪しまれ、腹立たしく抗論し藩鑑と勝も添書きを持つことを示せば俄かに温和になり、旅館に案内されて一泊。
翌朝、守関の重役が来て不敬を謝り、鞍置馬2頭と案内をつけようとして辞退したが、断りきれずに馬を借りる。
途中一泊し6月上旬に鹿児島石燈篭(いづろ)町の客屋(藩主所有の来賓接待所)に着いた。
村田新八、西郷隆盛、桐野利秋(中村半次郎)、篠原国幹、貴島清、伊地知正治、大山格之助(綱良)等他十数名が待受け、一介の書生の身に余る厚遇を受けて畏れ多い。
彼らと共に高千穂嶽に登り、栄尾(えいのお)温泉に浸かり、観光してまわった。
更に谷山村で遊び、秀頼公隠近所(大坂城から鹿児島に落ち延びた豊臣秀頼生存説がある)古墳で遺骨を見る時に、他藩から100人もの書生が来ても、ここに入るのは人見・梅沢の2人だけだと聞かされた。
そして村田が、若い薩摩藩士の中には人見らを西郷隆盛の暗殺が狙いだ誤解して危険視する者も居るのだと、一笑して物語った。

人見は加治木町の商家に寄宿して、鹿児島の文武を学び、鹿児島兵学校の生徒等と交流した。
この5ヶ月間の滞在で感じるところがあり(英学や英国技術を取入れ古くからの郷中教育にも培われた鹿児島の示教に触れたことにも拠るだろう)梅沢と共に人材育成の一の文武校の設立を考え、先に静岡へ帰ることを決める。

11月4日付けで村田を介して帰藩の餞別20円を受け、その翌日に村田が人見の寄宿先に来て、春日艦(薩摩の軍艦春日丸)を朝廷へ献納するため両3日中に上京する大山格之助の兵庫行きに便乗するという優遇を伝えた。
その夜、大山邸で催された格之助の送別会に人見と梅沢も招待され、西郷がナンコ(薩摩伝統の酒宴の遊び。敗者は焼酎を煽る)で幾度も酒を煽り、ついに酔い潰れた。
人見はかつての戦いを思い出し斃れた仲間達の追悼の感傷に浸る。春日の艦長は赤塚源六と聞いて彼を訪ね、箱館戦争で悩まされた敵艦春日丸に人見が乗船するという奇遇を談笑した。

7日に春日が桜島湾を抜錨し、強雨のため一夜を経て兵庫に着き大山と共に上陸。大山と静岡での再会を約束して別れた。
京で父母の元へ3、4日帰省し、静岡へ戻ると勝と大久保に面会して鹿児島での厚遇(それは勝らの計らいが大きい)を話した。また学校設立を陳述し許可を得る。

 

■集学所と賤機舎の設立
有渡郡大谷村(現駿河区辺)の瑞現山大正寺に集学所を開校。
主に戊辰・己巳の役で戦いぬいた旧幕臣達が入学し、総勢140~150名ほど。
士風刷新をはかり、文武両道、他藩士との交流に重点を置き、漢・英・仏・数学の学科とフランス陸軍式の教練を指導した。

山岡鉄太郎(鉄舟)に金策を断られた上に軽挙を戒められ、また人見と親しい雲井竜雄(くもいたつお。戊辰戦争中に新政府を薩長の地位向上に利用し恭順を示す幕府方も排除する姿勢を批判した「討薩檄」を起草した米沢藩士。集議院議員を辞職後に旧幕臣の失業対策に務めたが、政府への陰謀の嫌疑27歳で晒首処刑)が来て論議し人見へ忠告することもあった。

反新政と見なされるのは旧幕臣だけに留まらず、政府を恐れて処罰者の関与を避ける風潮の中でも弔おうとする人見であるが、伊藤俊介からも雲井と同じ嫌疑をかけられていると、忠告を受ける。
明治4年(1871)秋、夜に突然大正寺の堂が燃え、書類が消失してしまった。放火の跡があった。

集学所を失った人見は静岡学問所(明治元年10月に府中学問所として駿府城四足御門の元勤番屋敷[現静岡地方合同庁舎付近]に徳川家が開校。2年に改称)に勤務。学問所に設立された伝習所の米国人教師E. W.クラークと親しむ。

明治5年(1872)にアメリカ領事のC.O.シェパードが静岡茶栽培の視察に訪れた時、クラークが食事会に大参事や県役員を招く際に、人見を通して慶喜の招待を打診したが叶わなかった。
8月に政府の学制頒布に伴い静岡学問所が廃止。
人見は学問所の伝習所を私立英学校として受け継ぐ形で賤機舎(しずはたしゃ)を開き、明治8年まで学業・産業試作に尽くした。
賤機……駿府城のそばの浅間社の背に賤機山がある。ちなみに明治2年に徳川家が移封された駿河府中藩の字が新政府への「不忠」につながることから賤機山にちなみ「賎ヶ丘」と改称案が出たが賎の字を避け「静岡」に改めた経緯がある

 

■官界出仕
明治9年(1876)3月に内務卿大久保利通の推挙により七等判事に任じられ東京裁判所の民事課に務める。三田四國町1番地第八号
7月、茶葉栽培の経験を見込まれ大久保の依頼で内務省勧業寮に七等出仕
同時期の勧業寮に大鳥圭介が四等出仕(工部省工学頭兼製作頭兼任)している。
9月には農務課で動物・農具・開墾・製茶担当となっている。
製茶掛は各種類の茶と米国向けの無色茶試作や紅茶製法告輸書の頒布等を行う。

内務省に移ると、人見は内務小丞の品川弥次郎に声をかけられた。種々談話のあとで品川が「千金で譲るものが有るが君は必ず買うしかないだろう」と言うが、初めて会う品川の言う品物に人見に心当たりは無かった。誘われるまま車を連ねて富士見町の品川邸に至り、婦人に持ってこさせた楊行李の中の紙に包まれた品は──箱館の決戦で品川が拾った人見の指揮旗であった。品川の手厚い誼みにふれて涙がこみ上げた。
品川は箱館戦後にすぐドイツへ赴任することとなり、人見の旗を箱に入れたまま携帯して7年ぶりに帰国すると、計らずも内務省で人見と会見するに至ったのだ。実に奇縁なことである。
こうして人見と品川との交流が始まり敵と味方が時を越えて友情を深めたという。

また、鹿児島遊学中に親しくなった鹿児島県令大山綱良(格之助)と再会し、人見を鹿児島での仕官を誘われたが、明治天皇東北御巡幸に大久保と同行する予定が入っていたため都合が合わずに断った偶然によって、明治10年の西南戦争(大久保は西郷の鎮圧を指揮し、大山は西郷に官金提供した罪で処刑されることになる)の混乱を免れた逸話もある。
人見は「予 性頑鈍ニシテ 処世ノ術ヲ知ラス」と自伝の履歴書で頑固鈍感なたちゆえの処世術の無さを自嘲しているが、それは保身に走らず派閥を問わず人とすぐに親しくなれる人見の魅力でもあろう。

明治10年(1877)1月の官制改革で勧業寮が廃止し勧農局御用掛となる。3月、製造課で製茶担当。
明治11年(1877)3月御用掛准奏(月給八十円で変わらず)、動植課。
内務省勧業寮の官営模範工場の新町屑糸紡績所(しんまちくずいとぼうせきじょ。群馬県高崎市。生糸の生産時に出る屑糸や屑繭で作る絹糸である紡績絹糸の日本初の工場)の所長に赴任。

 

■茨城県令に就任
明治12年(1879)6月に茨城大書記官就任。従五位。
明治13年(1880)3月8日茨城県令(現在の知事)に就任する。
6月、箱根町早雲寺(神奈川県足柄下郡)に遊撃隊戦死士墓を建立。人見は戊辰戦争で散った仲間を偲んで各地の供養塔の建立に携わっている。

明治14年(1881)人見へ茨城県議会議員の広瀬誠一郎秋場庸利根運河開削を建議。
明治16年(1883)1月御雇オランダ人4等工師ヨハネス・デ・レイケが内務省から利根運河の実地調査を命じられ、人見らも同行。
明治17年(1884)5月に内務・大蔵・農商務の三卿に『茨城県五工事起業提言』を提出。
一、三ツ堀運河(利根運河)建設
二、涸沼~北浦運河建設
三、那珂川~久慈川運河
四、久慈川上流の整備(暗礁砕除)
五、那珂湊港の改修

この茨城各方面と東京を結ぶ三運河計画や水運地域の整備等、土木方面で茨城の発展を思案した人見は「土木県令」の異名を受けた。
この年、人見は製茶改良も諭告している。

明治18年(1885)6月17日、人見と千葉県令船越衛が江戸利根運河協議書に調印。
22日に築地の料亭隅屋で人見が会主として手打ちの会。昨年の加波山事件(かばさんじけん。自由党急進派が暗殺未遂事件を起こし茨城県加波山に立てこもる)で命を狙われた内務省土木局長三島通庸(この時栃木県令兼任。自由民権運動を弾圧していた)も同席。
7月8日人見が加波山事件の処理で責任を問われ茨城県令を非職となる。※正五位の地位はそのままで職のみの解任。

 

■利根運河会社社長となる
明治19年(1886)8月10日に広瀬が北相馬郡長を辞任し、下旬に東京都麻布の人見邸に訪れる。
※人見は大書記官時代から茨城県水戸(茨城郡常盤村1番地)に住み、取手の広瀬宅にもよく遊びに行ったが、その後麻布に転居した。

明治20年(1887)内務省から運河開削計画の中止を命じられ、広瀬は民間企業での開削をめざす。この時の人見は営利事業の関与に乗り気ではなかったが、千葉県令船越(当初は反対派であった)が麻布の人見宅を訪ねて説得し、会社設立に携わることを承諾した。

4月1日浅草の名倉屋で事業計画の打合せ会合。メンバーは●人見寧●広瀬誠一郎■秋場庸●色川誠一(創立メンバーが解離する中で長く運河事業に携わる。後に富士製紙常務取締役)●池田栄亮(千葉県会議長)●森隆介(茨城県会議員)■椎名半・関口八兵衛・笹目八郎兵衛。
人見・広瀬・色川は併せて利根運河の三狂生と呼ばることとなる。
10日発起人会を東京向島枕橋の八百松楼で開催。70名余りが集まり、来賓には内務次官、東京・茨城・千葉の知事等。
11日に広瀬は東京の京橋の木挽町商工会クラブで「利根運河創立協議会」を開催。
●人見●広瀬●色川●池田●森■高島嘉右衛門(大株主。後に高島易断で有名)、の6名が創立委員選出。
12日に日本橋蛎殻町三丁目の醤油会社内に仮創立事務所を置き、株式一株50円で株式申込受付開始。
13日に早くも目標の8千株40万円を集めて締切。
30日に創立事務所を日本橋区浜町2丁目11番地に移す。
5月9日に千葉県知事船越へ「利根運河開鑿願」を提出。
11月10日千葉県から「利根江戸両川間運河開削免許許可書」が交付される。
20日木挽町の貿易商会で株主総会を開き、役員を選挙。社長に●人見、筆頭理事に●広瀬、理事に●色川●池田●森(12月に辞任)、協議委員に■秋場■高島■椎名▲安田善次郎・秋元三左衛門・岡野寛・伊能茂左衛門・川村唯助・岩崎重太郎・茂木左平次が就任。
12月13日「利根運河会社」事務所を日本橋区浜町に設ける。
株主名簿に『人見寧 浅草区今戸町十七番地』の名がある。

明治21年(1888)3月17日江戸川口の本社(新川村深井新田290番地)を新築し千葉県に上申。
3月29日利根運河会社支社設立を東京府に届け出(浜町事務所の住所)
5月9日工事着手。デ・レイケの後任ムルデルが工事を監督。
7月14日運河開削起工式を本社にて挙行(内務大臣、東京都・千葉・茨城県知事等来賓)
30日に人見は会計検査委員の設置を建議。委員は▲安田・志摩万次郎(池田に代わりに理事。筆頭株主で二代目社長となる)・笠野吉次郎。

明治22年(1889)5月13日人見が神経痛を煩い社長を辞任。
明治23年(1890)3月25日に利根運河の営業を開始し、通船。
6月18日に深井新田の本社で総理大臣山縣有明、内務大臣西郷従道他政府関係者らが臨席で盛大に催された竣工式にて、帰国前にムルデルが送った祝詞に、工事の難航(運河会社役員の交送と金銭逗滞も含まれる)が述べられ、それらを乗り越えた結果と運河会社役員の英断を評価し、完成を待たずに社長を辞した人見についても「其の労を多謝す」と述べている。

明治25年頃、人見が発起人として台湾樟脳会社設立。
明治30年(1897)北海道開拓に関係。フラヌ原野(富良野)の区画開墾願に連名。
明治33年(1900)神谷傳兵衛(かみやでんべえ。人見とは茨城で誼があった)と共に民間初のアルコール製造を実現するため奔走。神谷考案の製法は馬鈴薯の澱粉粕から酒精を取るため、北海道の地を選ぶ。
11月、旭川に日本酒精製造株式会社を設立し、人見が社長に就任した。
人見は神谷の神谷酒造会社(茨城県稲敷郡・現牛久市の牛久ブドウ)開設にも関わっている。

──その他サッポロビールの重役を務め、石蝋会社等の設立にも関与するなど先見の明を発揮して、実業家として数々の成功を収める。
大正11年(1922)12月31日に麻布で死去。80歳。
遺言により生まれ故郷の京都出水千本の長遠寺に墓に葬られた。

長遠寺の人見寧が眠る人見家の墓所 長遠寺の人見勝太郎の墓

▲臨済宗相国寺派長遠寺の人見家の墓所
寧の死後10年程後に有楽町毎日新聞社勤務の孫の麟氏は千葉県柏市明原に移住。左写真の奥の新しい墓石は昭和47年3月に曾孫の陸氏が再建した。右写真、寧の戒名も彫られている

参考資料は数が多いので別途まとめる予定です。記事の無断転載・使用を禁じます。